伊勢神宮・初詣

お伊勢行きたや伊勢路がみたい
せめて一生に一度でも
と謳われたように、特に伊勢から遠い関東や東北、九州の人々にとって、お伊勢さんへは一生に一度はぜひ行ってみたい特別な場所でした。
今年、平成二五年秋はいよいよ第六二回『式年遷宮』です。
2000年間鎮守の森とともにある”お伊勢さん”は、私たちの心のふるさとです。
昨年もお参りしたのですが「海から朝日を拝み、お伊勢さんに行きたい!」と思っていたところ素晴らしい企画がありました。「飛鳥Ⅱで行く伊勢志摩~初詣クルーズ」です。さっそく友人達にお声をかけ総勢13名で参加いたしました。
陸から行くお伊勢詣も素晴らしいですが、おだやかな伊勢の海からのお参りも素晴らしかったです。

横浜港を正午に出港し、翌日が初詣。
船内では友人達との楽しい語らい。
日頃はのんびりと、おしゃべりをしたり食事をご一緒したり・・・といかないのですが、この2泊3日の旅ではさらに友情が深まりました。
コースは二つに分かれ、
「伊勢神宮初詣(内宮)とおかげ横丁散策」
「伊勢神宮参拝(外宮)と夫婦岩」
です。
昨年は陸から、夫婦岩、外宮、そして内宮へと参拝しました。
今年はゆっくり 豊受大神宮(外宮)にお参りしたかったのです。
豊受大御神は天照大御神のおめしあがりになる食物の守護神であり、私たちの生活をささえる一切の産業をおまもりくださる神さまです。
毎日朝夕の2度、神さまにお供えする食事はすべて手作り。
お田植えから始まる米、塩、醤油、野菜そして海の幸。
毎朝おこした清浄な火で調理されます。
私の住む箱根には箱根神社があります。
月三回のお参りは清々しい早朝のお参りです。

旅の多い私は行く先々で”鎮守の森”を探します。
神社の森を、大地を鎮めるという意味で鎮守の森というのだそうです。
旅先での緑の山々や清らかな川、そして美しい風景は、懐かしさや心を癒してくれます。
その一番大きな鎮守の森が伊勢神宮ではないかしら。
風を受け、木に触りそこに神さまを感じる・・・
それは日本に古くからある八百万神の信仰なのでしょう。
大自然の中に神さまがいらっしゃる・・・と旅をしていて感じます。
『式年遷宮』の年、どうしても行きたかったところが「せんぐう館」でした。
どうして20年に1回神さまはお引越しされるのかしら・・・?と思っていました。
全てを新しく造り替え、ご神体を新宮に遷すのにはいろいろな説がありますが、私は「永遠の匠たち」の展示室を見て納得できました。当代を代表する匠たちの最高の技を伝承していくこと。木目の美しい檜材をつかった外宮殿舎配置模型など、息をつめて見入ってしまいました。我が国の伝統工芸が全てこうして後世に継承させるのには最適な年数なのでしょう。
もう一点は『原点回帰説』。
旧暦でおよそ20年、個々の人生(歴史)において、社会的に20年を一区切りとして新しい転換期が訪れるという人生観に基づき、一つの時代ごとに生命が更新されるという説。
私はまず、この二点が納得できるものでした。
下宮をお参りされたら、ぜひお勧めです。
冬から春へ・・・立春「二月 如月」は新しい”とし”が始まります。
“立春大吉”
毎年二月十七日は宮中や全国の神社で「祈念祭」が行なわれます。
来月もう一度、お伊勢さんにお参りしたいわ・・・と思いつつ神々しい空気が感じられる式年遷宮が行なわれる伊勢神宮を後にしました。

最後に、二見浦の夫婦岩へ。
二見の名の由来は、倭姫命が天照大神の鎮座地を求めて諸国巡幸した折にこの土地に立ち寄り、その美しさに何度も振り返り見たためとも言われています。
この岩の間から眺める朝日はそれは美しいそうです。
近くの御塩浜では今日でも、海の恵みの御塩づくりが行なわれています。
『飛鳥Ⅱ 伊勢志摩 初詣クルーズ』
朝日を拝みながら横浜港へと入港し「日本人の心と祈り」の旅を終え、清々しい新年の幕開けです。

レ・ミゼラブル

皆さま
年の瀬を迎え、何かとご多忙のことと存じます。
大掃除も終え、テレビの映像で観る北国の冬ざれの様子に、冬の長い雪国の友を想います。荒涼とした雑木林、雪深い中で息をひそめ、春を待ちます。
思いたったように映画を観に東京に行ってきました。
「レ・ミゼラブル」です。
20年ほど前にロンドンでの舞台を観ております。
仏の文豪ヴィクトル・ユゴー大河小説を、1985年にロンドンでミュージカル劇になり大ヒットした作品です。監督は『英国王のスピーチ』でアカデミー監督賞受賞のトム・フーパーが映画化しました。
ひと言。
胸を打たれ、音楽の持つ力の凄さ、キャスト、スタッフのアンサンブルは見事としか言えません。心の奥深いところを、生と死、革命、格差社会、自己犠牲などを捉え、現代社会においても共通する部分があり、共感できるのかも知れません。映画ならではのリアリズム。役者の歌は現場で収録されているから尚更リアルに感じるのでしょう。
時代を超え、多くの人々に愛され続ける理由は何でしょう?
というインタビューに
主役のジャン・バルジャンを演じたヒュー・ジャックマンはこう答えています。
「人間の魂が持つ真の強さと美しさを謳っているからじゃないかな。繰り返し訪れる苦難にあえぎながらも、そこに自分の強さと世の善を見出そうとするキャラクターたちの姿を通して、人間の素晴らしさと魂の底力を感じ取り、勇気付けられるんだ。彼らは挫折しても、決して諦めず前に進んでいく。」・・・と。
今年最後の映画に満足しました。
どうぞ皆さま良い新年をお迎えくださいませ。

長岡エンジン02

「長岡エンジン02」に招かれ、温泉エッセイスト・山崎まゆみさんとのトークに参加致しました。
テーマは「ニッポン女旅学~暮らすように旅する」
まゆみさんは秘湯や、町の銭湯のような湯でおじいちゃん、おばあちゃんなどと混浴し、その土地の文化を紹介しているとてもチャーミングな女性です。私も一人旅が多いので「暮らすように旅する」は大賛成。温泉の入りかたから、入浴のコツ、など楽しいお話が伺えました。

いつものことながら仕事の前日には到着し、周辺を散策しました。
まずは長岡市内の朝市へ。秋の味覚キノコ、食用菊など豊富な野菜に出合いました。その後はまゆみさんと、友人、女性3名で「寺泊」に行きました。

鎌倉ゆかりの寺泊は歩くにかぎります。
民俗資料館から白山愛神社、古くから海上安全の神として崇拝されてきた神社。江戸時代の寺泊は、江戸や大阪、四国を出帆し、能登半島を廻って、北海道へ交易した北前船の寄港地であり、海上交通の要津として栄えた場所でもあります。
眼下に日本海。遠く佐渡が見えます。
多くの歌人が逗留されたところでもあります。
良寛はすでに家運が傾いていた生家には立ち寄らず
来てみれば
わがふるさとは荒れにけり
にわもまがきも 落ち葉のみして
と詠み半年後、いずこともなく行方を絶ってしまいます。
再び放浪の旅から寺泊に帰ってきたのは45歳くらいのときだったといいます。
かつて遊郭のあった路地を通り、群生する石路や藪椿を見ながら高台に出ると急に視野が広がり街なみや港が一望に見渡され、佐渡も手に取るように眺められます。

そして、街に下り魚の市場通り(通称=魚アメ横)では取れたての魚は圧巻でした。
午後には長岡市内に戻らなければいけないので、今回は温泉はパス。そのかわり、お昼に食べたキンキの焼き魚の美味しいこと!!!
油がのっているのに新鮮だから身がプリプリしているのです。真冬の2月ころにはタコの内臓が食べられるそうです。これは食堂、市場にも出回らず、漁師さんたちの楽しみの味とか。
あ~!食べたいな。
今度は雪深い2月に行ってみたいです。

萩への旅

今回の旅はちょっと硬いテーマ。
全国農村アメニティー・シンポジュームで「農業の危機の克服に向けて」~農業と集落の再生へ~という会に出席いたしました。
第一部の講演は萩の野村市長と私でした。
そして第二部はシンポジューム。

私はこのような仕事のときはなるべく早めに現地入りし、現状をしっかりと見せていただくようにしています。2日前に萩入りし、まずはどうしても拝見したかった山口県立萩美術館・浦上記念館で開催されている「古萩・江戸の美意識」展に行きました。
「一楽・二萩・三唐津」と謳われ、侘び数奇に適う茶の湯のお道具として高い評価を得てきた萩焼の茶碗。これほど見事なお茶碗をこれだけ一同に拝見したのは初めてです。
“江戸の美意識”
その多様性にとんだ豊かな美意識に圧倒され、声も出ないほどの感動でした。その後は小雨降る中の城下町を散策。国指定史跡に指定されており、周辺は今も江戸時代の地図がそのまま使える程町筋が残っています。萩藩御用達の豪商菊屋家やなまこ壁の土蔵、高杉晋作誕生の地、など往時の面影をとどめたものがたくさんありました。
夜は旅の楽しみのひとつ、一人でのんびり、地のものをいただき、熱燗でのひととき。至福の時間です。40年近く旅を続けてきて、その町を知るにはこの”ひとりの時”がとても大切なのです。
翌日は役場の方のご案内で萩市内を1日かけて拝見したしました。
萩市は合併により、東京23区くらいの広さです。
旧萩市中心部は平坦な地形が多いですが、ほとんどが山間地にあります。

そして、6つの離島「萩・六島村」。
農林水産業と観光都市として有名ですが、山間地においては過疎化が進み、耕作放棄地も増えてきました。高齢化も進み、これから何が必要か・・・そんなことを考えながらの一日でしたが、はじめに向かったのが、「萩をまるごと詰め込んだ市場」の”萩しーまーと”。鮮魚や水産加工品、地元産の野菜に果物。地元生産者が集結して運営されているこの市場は漁港直結だからでしょうか、町の市場より安く新鮮です。鮮魚は持ち帰れないので乾物のあれこれ、野菜、果物などを箱根に持ち帰りました。
そして、地域に根ざした三見(さんみ)シーマザーズで昼食。海のお母さんたちの作る定食の美味しいこと!日本海を見ながら獲れたての魚は最高ですが、ここも高齢化率は40%を越えています。
漁業者は40名程度で、中心は60歳から70歳、若者は6~7名です。
でも、海のお母さんたちは元気いっぱい。
創意工夫した、いか寿司やあじの押し寿司など・・・美味しかった!
おばちゃんたち・・・ご馳走さまでした。

生産現場は「千石台だいこん産地」とトマト生産者を訪ねました。
千石台は戦後開拓でこの土地に入り、農業共同組合を設立し、黒色火山灰土が大根の生産にふさわしい・・・ということでがんばっておられます。トレーサビリティーへの確立にも積極的です。
周りを山々に囲まれての収穫。
共同体のシステムが和む地域でもありますが、朝は3時には起きて収穫し、新鮮な野菜を消費者に届ける・・・土とともに生きる人たちの顔は輝いています。
「山口あぶとトマト」の生産現場も徹底した土づくりを基本にし、選果場のパート等が地域の雇用の場を創出していました。熱いハウスの中での作業も女性は「すごいですよ、頑張りは女性のほうが上です」とご案内くださった男性が語ってくださいました。部会全員がエコファーマーに認定されています。
最後に合併には入らなかったお隣の阿武町まで足を延ばし、友人達にお会いしてきました。元気に加工品をつくり、こちらも頑張っておられました。

帰りは菊ヶ浜の海岸線を見ながらホテルに戻りました。
ここは「日本の夕日百選」に選ばれた絶景です。
本番のシンポジュームでは『農のある風景』~これからの地域活性化に向けて~というテーマでお話をさせていただきました。
○グリーンツーリズムについて。
気候風土の違い、生活スタイルの違い、休暇にたいする意識の違い、日本では週単位の長期休暇制度が確立されていませんから、ヨーロッパとは比較できませんが、これからの新しいライフスタイルとして、「農」のあるライフスタイルは人びとの望むところです。そのためには農村は美しく、農村が農村でなければなりません。「都会の人たち」のために農村があるのではなく、そこで暮らしている方々が快適に過ごす事が重要です。「主人公はあくまでも自分たち」を守っていただきたいと思います。
○『農村は、私たちの心の故郷』です。
共にヨーロッパでグリーンツーリズムを学んできた仲間の女性の活動を報告しました。岐阜県山県市美山のとびきり魅力的な女性たち「ふれあいバザール」。バザールが発足して今年で15年が経ち、女性ならではの素晴らしい底力、しなやかさには目をみはります。オープン以来の黒字経営。生産、加工、食堂経営とサポーターの生産者、地元の方々、他県の人・・・非常にバランスのとれた「人と産物と環境」を感じる活動です。
○最後に、「なんもない・・・」から「クールな田舎へ」をテーマに「クールな田舎をプロデュースする」独自の理念を挙げ、交流人口の増加を目指して観光コンサルティング会社「美ら地球」(ちゅらぼし)をスタッフ6名と立ち上げ今年で3年目を迎え、活動をしている方々をご紹介しました。
リーダーの方は国立大学院を卒業後、5年前までは米国や日本のコンサルティング会社で企業変革の支援プロジェクトや社員研修などを担ってきましたが、「ちょっと休み、日常と異なる世界に身を置きたい・・・」とそんな思いで奥さんと約2年世界を旅し、日本の「イナカ」に対する外国人の関心の高まりと、海外で日本の地方を知る機会の乏しさを実感したといいます。

「自分も戦前からの暮らしや文化が残る地域に住み、海外の人との橋渡しする仕事がしたい」そう思い飛騨古川に築約100年の家を購入し自宅も兼ねて起業しました。
木造建築は、飛騨のみならず、世界に誇る日本の財産です。
そんな古民家が空き家になってきました。
飛騨民家プロジェクト」を立ち上げ、「飛騨民家のお手入れお助け隊」ではボランティアが都会から来て、梁、柱、床などを磨き、美しい町並みを保存し、「古民家貸し出し」に大きな反響があり、IT企業を誘致しました。これは地元の建設会社と共同です。環境省などが主催したエコツーリズム大賞、特別賞にも選ばれた「飛騨里山サイクリング」は外国人には地元住民との交流が出来ると好評だそうです。

少子高齢化や都市への人口流失、地方を取り巻く現状は厳しさを増していますが、「否定的なイメージしか持たれていない田舎も、実は我々や次の世代の生活の場としてすごく理想的。必要な役割を担っていきたい」・・・と語ります。
これから、新たな世代に挑戦の場を準備することも大切でしょう。
地方部の景観や営みの存続、継承は「需要側」の間だけではなく「供給側」にも問題があるのかもしれません。
飛騨古川に素晴らしい若者たちが”新しい風”を吹き込みます。
今回の3日間の旅では、私自身大いに学び、刺激を受け、また「現場を歩く大切さ」を実感致しました。
民族学者、宮本常一は山口県周防大島の出身です。
心の師を持つ幸せも実感しながらの旅でした。

八幡平のブナの紅葉

一度は訪れたかった秋田、八幡平の紅葉を見てまいりました。
平地とちがい、高山の紅葉はそれはそれは美しいのです。けっして平地では見ることの出来ない色彩。その鮮やかさに言葉を失うほどでした。大沼周辺、夕日が射すブナ林の紅葉、黄・緑・紅・赤・・・

今回の旅は女友達3人と一緒でした。
私は20年前から農村・漁村の女性たちと勉強会を重ねてまいりました。その女性たちと15年間「グリーンツーリズム」の研修でヨーロッパ、また国内を旅し、共に学んできた仲間です。
グリーンツーリズムとは「自然環境や農村景観といった農山漁村の良さを残した場所で、都会の人が農家民宿など体験し、楽しんでもらうこと」です。そんな仲間の一人が八幡平で素敵なホテルをご夫妻で経営しています。と、言っても生易しいものではありませんでした。

8年前、大雪の中、二人は八幡平にやってきました。
だれもいないホテルの館内は静まり返り、震えるように冷えきっていました。
二人で決心してきたからには何とか活気のある、温かみのホテルにしようと考え、「湯めぐりツアー」がはじまりました。千葉や埼玉からバスで訪れます。
健康をテーマに、近隣の温泉にご案内し、なによりも大切な「食」は地元の食材で。料理してくださる方たちも地元の女性たち。美味しいのです、とても。
お客さまの中には、故郷のない又は遠のいた方たちも多いそうです。
『おかえりなさい、高原の我が家へ』と出迎えてくださるご夫妻の優しさはきっと故郷へ帰ってきたような、温かみを感じるからでしょうか、リピーターが多いと伺いました。90歳代の方、若い人たち、中高年のご夫妻など、食堂は家族が集って食事をしているようなそんな和やかさです。
「生きているということは、生きた言葉をかわし合っていること」と以前、お坊さまに伺ったことがありました。
八幡平は標高1、613m、北東北の高地にある豪雪地、雪解けは遅く6月ころに春の訪れを迎えます。厳しい環境を耐え抜いた花々、きっと凛と輝いているのでしょうね。
その頃はミズバショウ、ヒナザクラ、ワタスゲなど高山植物の花が一面に咲き誇るそうです。

春になったら、八幡平山頂の「花あるき」をしましょう、と友と誓ってローカル線に乗り、盛岡では女同士「盛岡冷麺」を食べ家路につきました。

友人のホテルは
十和田・八幡平国立公園『八幡平高原ホテル』です。

昼下がりの湿生花園

片岡鶴太郎展の会期中ですが、ふっと秋の山野草や花々が見たくてバスに乗りました。我が家からですと小涌園で下車して「観光施設めぐりバス」に乗り換え、彫刻の森を経由し強羅駅、そしてポーラ美術館、星の王子さまミュージアム、ガラスの森、大好きなラリック美術館を通り、終点の「湿生花園」に着きます。
箱根に住み間もなく40年になりますが、何が幸せって生活空間の近くにこれだけの美術館があること、そして植物に囲まれていること・・・。もし、これらがなかったら穏やかに子育てができたかしら。
子供たちは社会人になり、ずい分と月日がたちました。
箱根の自然は、私自身にも多くの恩恵を与えてくれました。
樹木や花々、雲や富士の山々は、どんなときもやすらぎをくれます。

湿生花園は、仙石原地区に位置します。
山に囲まれた仙石原は、二万年前は湖の底だったそうです。今は干上がった状態ですが、一部残った湿原が湿生花園として、日本の湿原植物を中心に約千五百種の山野草が収集されています。川や湖沼など水湿地に生育している日本の植物や、草原や林、めずらしい外国の山草も含めて多様な植物が四季折々に繁り、花を咲かせ、私はここにくるとえもいわれぬ「至福の時間」を体験できます。
園内の木々もうっすら色づきはじめています。
台が岳に一面広がるススキの穂が午後の太陽の光をうけ銀白色に輝いています。

まず目に入ってきたのは、真っ白な今が見頃を迎えた「ダイモンジソウ」。
北海道~九州の山地の湿った岩地に生える多年草。
薄暗い林内で咲くこの花は可憐です。
白いブラシのような「サラシナショウウマ」名前の由来は、若芽を茹で、水でさらして食べたことから・・・とか。
コムラサキ、ヤマトリカブト、リンドウ、イワシャジン、小さくて可憐なダイモンジソウの花がひっそりと咲き、ヤマトリカブトの濃紫が目をひきます。
秋の企画展「どろぼう草と秋草展」が11月10日まで開催されています。
帰りに「コムラサキ」(紫式部ともいいます)の苗を買ってきました。
バスの車窓からは夕日で赤く染まった芦ノ湖がとても美しい姿で迎えてくれました。

始発電車を待ちながら

東京ステーションギャラリーが5年の時を経て新しいギャラリーとして誕生しました。丸の内北口ドーム内に入り口を移し、以前より広くでも以前の赤レンガを残しつつ設備も充実したスペースとしてのオープン。

先日、行ってまいりました。
「東京駅と鉄道をめぐる現代アート9つの物語」
2012年10月1日(月)~2013年2月24日(日)
9名の個性豊かなアーティストたちが東京駅と鉄道・・・という独自の切り口での作品が展開されていて、新しい物語が紡ぎだされています。
大洲大作「光のシークエンス」の前で、思わず胸がキュンとしてしまいました。
旅の出発点であり、終着駅でもある「東京駅」。
鉄道の旅の素晴らしさは、なんといっても車窓の風景です。流れ行く車窓から見た風景のかずかず。ある時には郷愁を感じ、またある時には、人の営みを身近に感じ、ある時には雨に濡れる車窓から旅の匂いを感じ・・・窓に踊る光やスピード感、その土地の風物や生活に滲む情感が心を揺さぶります。
大正三年(1914年)辰野金吾博士設計により丸の内に建った趣のある立派な駅舎。関東大震災や戦争の災禍を堪え抜いた姿は、単なる建築物というより、私たち日本の歴史を共有してきたシンボルとして、感動すら覚えた駅舎が100年の歴史を経て平成18年から始まった駅舎保存、修復工事を終え、新しい「東京駅」に生まれ変わりギャラリーも創建当時の煉瓦をそのまま生かした展示室となっているのは嬉しかったです。
展示を観ての帰りは回廊を出て、ドームの内部を見ながら人々の行き交う姿に旅情をかきたてられます。ノスタルジックな雰囲気とマッチしながらもモダンな設備を備えた素晴らしい美術館です。
次回は『東京ステーションホテル』のバーに行きましょう。
一杯のカクテルに会いに。
『カメリア』でのカクテルの再会は楽しみです。バーのカーブした窓、昔のぼこぼこしたガラスは残っているのかしら。そこに映る外の風景、電車が入ってくる、出ていく。それだけの風景なのですが、なぜか味わいがあるんです。厚ぼったいガラスの向こうにユトリロの絵のような電車がボーッと浮かび上がり、うっとりしてカクテルをいただくわけです。
カメリアのキャプテン杉本さん。
また、「ハスカップ・ユーリンス」を作ってください。北海道のハスカップにワインとウォッカとレモンをカクテルしたもの。
北海道への旅情が募る、一杯でした。
通勤客に混ざって、改札口でなかなかさよならできない恋人同士、週末の二人だけの旅に出発する恋人たち。
駅はドラマの始発駅であり終着駅。
いつの時代も駅は、出会いや別れの交差点なんですね。
あ~、又旅に出かけたくなったわ、そんな午後の昼下がりでした。

秋の一日

秋の日はつるべ落としといわれますが、この季節、本当に、ストンと夕闇が訪れます。小田原ではまだ空の夕焼けの赤が残っていても、バスが我が家の近くの停留場に着くころには、とっぷりと日が暮れています。
けれど闇が濃ければ濃いほど、月はいっそう冴え冴えと光はじめます。満月のときなど、光の粒が空から四方に放出されているかのように。
停留場から我が家までは細い道を数分歩くのですが、月がそっと背中を押してくれる、そんな気さえするほど、その光は優しさに満ちています。
我が家の石段をあがると、空がさっと開けて・・・・・家に入ってしまうのが惜しいような気がしてならず、夜風に髪を揺らしながら、全身で月の光を浴びながら庭にしばし佇んでしまうこともたびたびです。
月に照らされて浮きぼりになる富士山や箱根の山々の稜線。
まるで濃淡の水墨画のようなみごとさです。
自然が見せる幻想的な風景に思わず言葉を忘れてしまいます。
『中秋の名月』
どうでしょうか・・・雲などに隠れてしまうと「無月・むげつ」
雨が降ってしまうと「雨月・うげつ」
ほんのり明るい風情もまたいいものです。
ススキを飾り、おだんごをつくりましょう。
生卵を割り入れて、汁と薬味で「月見うどん」をたべましょう。
子どものころのように。

本屋さん

この頃、山を下り小田原から新幹線に乗るとき少し早めに駅に着き、本屋さんをのぞく時間がとても幸せな気分にしてくれます。
棚を見ながら、今興味のありそうな本を探す。至福の時です。
先日、そんな私の隣で小学3,4年生の男の子が何やら熱心に厚い本を真剣に読んでいました。
「へ~え、子どもが大人のどんな本に興味があるのかしら」と、とても気になりました。「・・・ちゃん帰るわよ」とおかあさんの声がしてもまだ読み続けていました。ようやく諦め本を閉じ帰っていきました。その本を見て見ると「海賊と呼ばれた男」百田尚樹著。「何処で彼はこの本を見つけたのだろう」と思いながら自分自身の子どものころのことを思い出していました。
我が家は空襲で焼け出され、無一文になったので子どものころに本を買ってもらえるような環境にはありませんでした。憧れの中原淳一さんの「それいゆ」「ひまわり」やピーターパン、赤毛のアンなど欲しい本がいっぱいありました。でも、買えずに本屋さんに行ってはそっと眺めていた記憶。
文化放送「浜 美枝のいつかあなたと」(日曜10時半~11時放送)に素敵なお客さまをお迎えしました。
ノンフィクション作家の稲泉連さんです。
稲泉さんは、1979年、東京のお生まれ。
早稲田大学文学部を卒業後、ノンフィクション作家の道に歩まれ、2005年「ぼくもいくさに征くのだけれど―竹内浩三の詩と死」で、大宅賞を受賞。その他にも数々の作品を書かれています。
この度、東日本大震災で被災した本屋さんの歩みを取材した「復興の書店」を上梓されました。
「とにかく現場をみなければ」との思いで、稲泉さんは向かいます。
岩手、宮城、福島のうち、被災した書店は391店もあり、3つの県の書店総数のおよそ90%を占めるそうです。廃業に追い込まれた本屋さんも多い中、震災直後に店を開いた書店では、どこも「この状況で本なんて売れるわけがない」と思ったそうです。ところが本を求める人は想像以上に多く、本は『生活必需品』 だったのです。
あのときはまだ仙台市内でも食べるものがなく、多くの人たちが街中をひたすら歩いて、スーパーの列に並んでいたそうです。そんなときでも、リュックサックを背負った人たちがぎっしりと本屋さんに並んでいたそうです。食料や水を求めるのと同じように。
4月から始まる小中学校の生徒達のために「何があっても教科書だけは・・・・」という書店もたくさんあったと伺いました。
緊急発売されたグラフ誌、写真週刊誌、お礼状の書き方の本、中古車情報誌、住宅情報誌、そして、「ジャンプ」や「マガジン」などの漫画週刊誌は全く数が足りない状況だったそうです。
「紙の本や雑誌の大切さを、あらためて知った気がしたんです」という本の中に書かれている言葉には、街の再生を願う人々の心を表しています。中でもとても印象深いお話として、書店で働く人の「本がある日常、普通の時間が欲しかったんじゃないかな、って思うんです」という話し。
「テレビや新聞では、ずっと津波の映像や不安になる情報が流れていました。もちろんそれは必要な情報だけれど、そうではないものも欲しかったんですよね、きっと。あのとき、世の中は自粛、自粛といわれていて、大変な現状に堪えたり抗ったりするために何かをしたり楽しんだりしてはいけない雰囲気でした。でも、大変な現状に堪えたり抗ったりするためには、やっぱり力が必要なんです。その力を養うために本が必要とされたんじゃないか、と感じるんです」・・・と。
考えさせられました。
「東北人」の人と人の支え合い、繋がりなど、被災者の方々の思いをそのようにマスメディアを通して知りましたが、「復興の書店」にも書かれていますが、「自分のため」という思いを押し隠さざるを得ない被災生活だからこそ、多くの人たちがひとりの世界へ入って、心の充電をするためのツールとして、本を求めたのでしょうね。
稲泉 連さんのお話は、本に対する愛情の数々が感じられ 『復興の書店』(小学館)を上梓されたことに感動を覚えた時間でもありました。
http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=bloghamamiejp-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4093798346&ref=qf_sp_asin_til&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr
(放送は9月30日(日)10時半~11時)

私の休日

昔、女優だった頃、夜のふけるのも忘れて映画論をたたかわせた青春。
芸術論を交わした仲間達も、皆んな60代、70代。
若かった私に映画の面白さを熱い言葉で語ってくれました。
10代の終わり東宝のスタッフとジャン=リュック・ゴダール監督を我が家にお迎えし、フランス映画の真髄を聞かせていただいたこと・・・走馬灯のように思い出されます。
『映画が好き』・・・な私。
40歳で演ずることを卒業しても映画を観るのは人生の最大の喜びです。
先日、東京に映画を観に行きました。
そんな日は映画鑑賞のかけもち。
2本、いえ時には3本という日もあります。
朝一番で観た映画『最強のふたり
2011年11月、フランスで公開された映画がいきなり年間興収第1位に躍りでたそうです。分かります。誰もが愛さずにはいられない映画。実話に基づいた物語です。
スラム街出身で無職の黒人青年ドリスとパリの邸宅に住む大富豪の身体障害者・フィリップ。フリップを演じるフランソワ・クリュゼはパリ出身の1955年生まれ。
事故で首から下がまひした傲慢な大富豪と、これまた働く気などさらさらなく失業手当てを受けるのが狙いだった黒人青年ドリス。
ドリス演じるオマール・シーは1978年生まれでフランスはイヴリーヌの出身。コメディアンとして活躍する彼の演技がそれはそれは魅力的です。
相容れない二人がお互いを認め合い本音で生きる姿は感動的です。
ユーモアに富んだ最強のふたり。
最強のふたりに訪れる突然の別れ・・・ですが、
後はあまりお話いたしませんね。
泣いて、笑って、そして、観客に生きることの素晴らしさ、パワーを与えてくれます。対等な人間として、強い絆で結ばれている『最強のふたり』。観終わったら何だか嬉しくなり映画館の近くの喫茶店に入り、余韻をかみしめました。
昼食をはさんで、歩いてもう一本の映画を観るために劇場へ。
あなたへ
高倉健さん205本目の映画。
半世紀にわたり観客を魅了し続けた俳優さんです。
私も一本だけご一緒させていただいたことがあります。
今でも初日の日のことが忘れられません。
東京駅八重洲口の近くにあった小さな旅館で支度をしていたら、廊下に座り「失礼致します」と仰る高倉健さん。ご挨拶くださったのです。
当時は五社協定があり私は東宝から東映の映画に出演させていただいたのです。そんな私にお気使いくださり恐縮致しました。その佇まいに謙虚で静謐な人間味あふれる俳優さん、そんな印象を受けました。
「あなたへ」は長年ご一緒に映画を撮ってきた降幡康男監督。
81歳の高倉健さん。
77歳の降幡監督。
長い間、友情と信頼と情熱で結ばれてきたお二人。
妻を亡くしその遺言に沿って、妻の故郷長崎へと車を走らせます。
道中でさまざまな人との出会い。
映像の美しさ、日本の景色の美しさを通して心のひだが描かれます。
家族や社会でのしがらみ・・・人は様々なことを背負って生きています。
放送作家の水野十六さんはおっしゃいます。
『独立一作目の「八甲田山」以降「あなたへ」に至るまでの35年間、真っ直ぐに貫かれてきたのは「人を想う心」。多くのものを捨ててきた高倉さんが選んだのは、この「心」だったのだ。』
年を重ね、孤独を知り、生きる辛さを知り、そして「人を想う心」の温もりを与えてくれた映画でした。