ありがとうございました。

日に日に寒さが厳しさを増し、2021年も終わろうとしています。

この2年間、多くの方々が大変な思いをし、様々な形で傷つき、穏やかならざる日々が続きました。秋には感染者が減少に向かい、やっとひと息つけるとほっとしたのも束の間、新しい株が出現し、再び見通しは不透明になっています。

大晦日、お正月という「節目」のありがたさを、今年はこれまでにないほど強く感じたような気がします。家を清らかに整え、お正月のごちそうを準備し、自分に課したちょっとした儀式や習慣を行なう…節目は、明日に向う大きな手助けなのですね。

来年はどんな日々が待っているのでしょう。私にはひとつ心に期していることがあります。それは「出会い」をより一層、大事にすること。人、本、映画、絵画、旅、そして新たな一日との出会いも。いくつになっても出会いは刺激と力を私に与えてくれます。これまで持ち物の整理を続けてきましたが、これからは捨てない暮らしにギアチェンジしようとも考えています。人、思い出、仕事、道具、暮らし…自分に備わったものを抱きしめ、あたたかな気持で過ごしていきたいと思います。

1月3日から朝日新聞に私のインタビュー記事20回「語る 人生の贈りもの」が掲載されます。このインタビューは、自分の生きてきた道を振り返ると同時に、これから進む方向を考えるとても良い機会になりました。どうぞご覧くださいませ。

文化放送『浜美枝のいつかあなたと』(日曜9時30分~10時)も続きます。来年も、常にアンテナをはり巡らせ、多彩な分野で活躍する素敵な人々や農産物生産者とみなさまを、しっかり結んでまいります。

今年も私の拙いブログにおつきあいいただき、ありがとうございました。この時代に生まれ、みなさまとともに生き、新しい年を迎えられることに、心から感謝しています。
2022年がみなさまにとって輝きに満ちた佳い年になりますように。

『グランマ・モーゼス展 素敵な100年人生』

年の瀬を迎え何となく慌ただしさを増す日々の中で、一息つきたいと展覧会に行ってまいりました。

「グランマ・モーゼス展 素敵な100年人生」。

この画家の名前は、アンナ・メアリーロバートソン・モーゼス。多くの人々からは親しみを込めて、”モーゼスお婆ちゃん!”と呼ばれたのですね。

彼女は1860年、アメリカ・ニューヨーク州の北部で生まれました。しかし、同じ州内でも大都会・ニューヨークとは全く趣を異にする、カナダの国境に近い農村地帯でした。 そして、そこで生まれ育ったことが彼女の人生とその後の創作活動に大きな影響を与えたのです。

27歳で結婚した彼女は夫と一緒に農業や牧畜に従事しながら、10人の子どもをもうけます。そして、少しでも家計の足しにしたいとバターやジャムなどを作り、販売したのです。

今から100年以上も昔、女性の自立の原点がアメリカの農村にもあったのですね。そんな彼女ですが、70代半ばにリウマチを患い、楽しみの一つだった刺繍を断念しました。そこから彼女のもう一つの人生がスタートしたのです。 ”遅すぎるデビュー”ではありませんでした。

80歳の時に初めて個展を開き、たちまち大評判となりました。大地に根を張り、自然と共に生きる。そして地域の人たちとの触れ合いを何よりも大切にする。そうした堅実な日常を絵画の中に再現していったのでしょう。

素朴で倹しい毎日の暮らし。それは開拓民であるアメリカ人が、当時でも失いつつあった”原風景”を改めて思い出させる”心の玉手箱”だったのかもしれません。

作品に雪の光景が多くみられたのは、寒い北部ニューヨークへの彼女の思い入れの強さだったのでしょう。

”遅咲きの画家”は101歳の長寿を全うしましたが、世を去るわずか半年前まで、絵筆を持ち続けたのです。最後の作品には、大自然の中で人々と家畜がゆったりと暮らしている光景が描かれていました。

そして、空のかなたには山や畑を見つめる、どこか優しそうな虹が顔をのぞかせています。この作品のタイトルは”虹”でした。  

彼女自身の言葉が残されています。

「人生は自分で作り上げるもの。これまでも、これからも」

10人の子供を産んだ彼女でしたが、5人を早く亡くしています。繰り返しの悲劇を乗り越えながらの生活と芸術。

この展覧会は入場者の9割以上が女性でした。アメリカのみならず、世界中の女性たちから愛され続けているグランマ・モーゼス。 東京の世田谷美術館には、彼女がそっと優しく私たちを抱きしめているような空気が満ちていました。

今年のクリスマスは、ことのほか素敵なプレゼントをいただきました。
ありがとうございました!グランマ。

展覧会公式サイト
https://www.grandma-moses.jp/

私と民藝

私は映画全盛時代の華やかな映画界におりました。まわりには煌びやかなものがいっぱいありました。ファッション雑誌から抜け出たような流行の洋服に身をつつんだ女優さん、いまでは想像がつかないほど希少な舶来のネクタイを結んだ男優さん、私のような駆け出しの女優であっても、みんなお洒落に磨きをかけていました。

撮影所の中庭を背筋をピンと伸ばしかっこよく、それはかっこよく歩く原節子さんなど・・・白いブラウスにフレアースカート。今でも目に焼きついています。

もちろん私も、洋服や靴やアクセサリーに興味がなかったわけではありません。でもそれよりなにより、夢中になったのが骨董だったのでした。その原点は中学時代、図書館で出会った本です。なぜ、その本に出会ったのか・・・その本を手にとったのか、いまだに定かではありません。

それが、柳宗悦の『手仕事の日本』や『民藝紀行』でした。

女優としての実力も下地のないままに、ただ人形のように大人たちにいわれるままに振舞うしかなかったとき、私は自分の心の拠りどころを確認するかのように、繰り返し読みました。

中学生の頃、難しいことなどわかるはずはありません。柳さんは、日常生活で用い「用の目的に誠実である」ことを「民藝」の美の特質と考えました。無名の職人の作る日用品に、民芸品としての新たな価値を発見したのでした。

私が柳さんの本を読みながら思い浮かべていたのは、日常、私が「美しいなぁ」と感じる風景でした。たとえば、父の徳利にススキを挿し、脇にはお団子を飾り、家族で楽しんだお月見の夜…

わが家で使っているものなど、どこにでも売っている当たり前のものばかりでしたが、それでも、ススキを生けた徳利に、月の光があたったときなど、曲面に反射する光の動きのおもしろさに「うわぁ、きれい…」と感じました。

何度も何度も水を通して洗いあげられた藍の布のこざっぱりとした味わいも「いいものだなぁ」と思いました。湯飲みに野の花を生けると、その空間全体に、ちがう表情が生まれることも、肌で感じることができました。

民芸運動の創始者として知られる柳宗悦(1889~1961)。柳さんの民芸の追及の背景には、当時の粗悪な機械製品や、鑑賞の対象としてのみつくられる趣味的な美術品など、工芸の現状に対する強い反発の念があったようです。

しかし、幼い私はひたすら、「用の美」「無名の人が作る美」という考え方に共鳴し、しだいに「美しい暮らし」という言葉に強い憧れを抱くようになったのでした。

地方文化を大切にしました。「手仕事の日本」には『沖縄の女達は織ることに特別な情熱を抱きます。絣の柄などにも一々名を与えて親しみます。よき織手と、よき材料と、よき色と、よき柄と、そうしてよき織方とが集まって、沖縄の織物を守り育てているのであります』と。

そして焼物なども。
「沖縄こそが民芸のふるさと」とも語っています。

”名もなき工人が作る民衆の日用品の美『民芸』”

まばゆい光を常に浴びているより民芸を求めて旅をはじめ、古民家の柱や梁を一本もあますところなく使って箱根の家をつくりました。『民家はいちばん大きな民芸』と言ったのは柳宗悦との出会いによって民芸の道にはいられた柳さんのお弟子さんでもある松本の池田三四郎さん。

池田さんは 「松本民芸家具」の創始者であり、私が多くのことを学んだ方です。いつかまた池田さんのお話しはさせていただきますね。

「柳先生に私は、『その道に一生懸命、迷わず務めていけば、優れるものは優れるままに、劣れるものは劣れるままに、必ず救われることを確約する』と教えられたんですよ」とおっしゃられた言葉が耳に残ります。

『民藝の100年』

私がまだ成人に達する前、心を丸ごと奪われたのが”民藝”でした。

そんな若い頃、どのような心境だったのか?改めて振り返りたいと、東京・竹橋にある国立近代美術館に行ってまいりました。

「民藝の100年」が開かれていました。

「柳宗悦没後60年記念展」と銘打たれた展覧会の会場に足を踏み入れた途端、予想もしなかった光景にいきなり驚かされました。入場者は中高年ばかりでは決してなく、若い方々がとても目立ったのです。

大正時代に産声を上げた民藝運動は単なる歴史の遺物ではなく、現代にも息づいていることをまず知らされました。

柳宗悦らのリーダーシップによる民藝運動は、関東の一部地域に留まることなく、日本各地に、そしてアジアや欧米にも影響を広げていきました。北海道や台湾での先住民との交流、朝鮮半島での文化的結びつきが改めて歴史の一コマを教えてくれました。

時代が米国との直接対決になる直前まで、柳宗悦らは欧米を訪れ、日本文化の紹介に力を注ぎ、交流を試みていたのです。純民間の”平和外交”だったのですね。敗戦後、民藝を含む日本の伝統的な芸術・文化への批判が海外から高まる中、それらを擁護したのは戦前から柳らと交流のあった米国人だったことも記録に残っています。

100年前の日本で一部の趣味人が好んだ芸術運動!?

民藝に対するそんな表面的な俗説を吹き飛ばすパワーが会場に満ち溢れていました。そこで静かに佇んでいた若者たちは、民藝運動の歴史と国際性を改めて知ったのだろうと嬉しくなりました。   次回はなぜ私が「民藝」に魅かれたのか、を改めて考えてみたいと思います。私の旅の原点であり、私の人生の”背骨”でもあるからです。  

展覧会公式サイト
https://www.momat.go.jp/am/exhibition/mingei100/

ゴッホ展

先日、上野の東京都美術館で開催されている「ゴッホ展」にお邪魔しました。事前申し込み制で、入館時間も予約するなど、隅々に気配りの感じられる展覧会でした。

”糸杉”を描いた傑作、『夜のプロヴァンスの田舎道』が16年ぶりに見られるなどとても魅力的でしたが、私は展覧会のサブタイトルにも興味をもちました。

「響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」。

フィンセント・ファン・ゴッホの前に書かれているヘレーネとは、ゴッホの絵画に心底惚れ込んだ女性の名前です。

ヘレーネ・クレラー・ミュラー。彼女の夫はオランダの実業家で、輸送や金鉱開発などヨーロッパを越えた事業展開をしていました。若い頃から芸術や文学への関心が強かったヘレーネですが、三男一女の母となった後も絵画、ことにゴッホへの憧れは高まる一方でした。

ヘレーネが最初にゴッホの作品を購入したのは40歳を迎える直前でした。ゴッホの自死から20年近くが経っていました。ゴッホの評価は生前は勿論、没後も決して目立っていたわけではなかったようです。ゴッホに傾倒し絵画を集め続けたヘレーネは、個人としてはついに世界最大のゴッホ収集家となりました。そしてそれに引きずられるように、ゴッホの名声も国際的に確立していったのです。

その背景には夫・アントンの理解と協力があったのは当然ですが、芸術に対するヘレーネの変わらぬ情熱が夫を揺り動かしたのでしょう。素晴らしい”婦唱夫随”だったのですね。

しかし、ヘレーネの”ゴッホ命”の人生は、決して順風満帆ではありませんでした。彼女は40歳を過ぎてから大病を患い、医師から生命の危機を宣告されたり、第一次世界大戦による戦争景気とその反動などで夫の会社が経営危機に陥るなど、幾多の困難にも直面しました。

しかし、ヘレーネのゴッホに対する燃えたぎるような思いは全く萎えを見せませんでした。大病から復帰できたら美術館を作る!価値ある芸術を未来へ伝承するのだ!という病床での決意は、最後まで貫かれました。

こうしたヘレーネのゴッホ作品への向き合い方は、既に出来上がった名声や知名度ではなく、画家の持つ精神性への憧憬から生まれ出たものだろうと推測しました。

会場内を行きつ戻りつしながら、青空と太陽が眩しいアルル地方の作品も素晴らしいけれど、それ以前の「素描」に心を動かされました。農夫など労働者が黙々と働く姿。『ジャガイモを食べる人々』の生活臭。モノクロの絵画には、ゴッホのリアルな感性が溢れ出ていました。

40年に満たない人生を疾走した天才画家。70年の後半生を、ひたすらその画家に随伴した女性。 上野の会場には芸術への限りない崇拝と、それを後世に伝えるのだという強い信念が見事に重なり合っていました。

展覧会公式サイト
https://www.tobikan.jp/exhibition/2021_vangogh.html