野の花に、人生の喜びを味わう

「社会貢献の一環として行う芸術文化支援」としてのメセナが、今、当然のこととして企業に求められています。日本においてそれを主導なさったのは、資生堂の社長だった福原義春さんでした。

企業と文化を真に結び付け、資生堂を世界的ブランドに育てた福原さんは、今年の8月30日に92年のその輝かしい人生に幕を下ろされました。

それから数日して、地下の書庫に下りていった私の目に、1冊の本が飛び込んできました。『サクセスフルエイジング対談「美しい暮らし」を探す旅人』(求龍堂)。1998年に出版した福原さんと私の対談集でした。


サクセスフルエイジング対談は、「美しく年を重ねる」ことをテーマに、様々な分野で活躍している人物と福原さんが、生き方、暮らし方、これまでの道のりなどを語り合うシリーズでした。

福原さんは、私の映画『007は二度死ぬ』や、農業や日本文化を守る活動をご存じでいらして、何よりNHK教育テレビの『日曜美術館』の私の司会に目を止められたとのことで、対談のオファーをくださったのでした。

我が家の囲炉裏を囲み、福原さんと語り合ったのは、秋が深まったころ。肌寒さを感じる雨の日でした。囲炉裏に熾した炭火がほんのりと部屋を暖めていました。

「中学生の時に柳宗悦さんの本を読み、その思想に触発されたこと」
「旅をしたくてバスの車掌を仕事として選んだこと」
「次々に壊されていく美しい古民家がいたましくて、その廃材を譲り受け、10代から馴染みのあった箱根に家を建てたこと」
「女優という職業になじみきれないものを感じてイタリアに旅した時に、マストロヤンニさんに偶然出会い、彼のように汗して演技をするまでは女優を続けようと思ったこと」
「四人の子育てを通して、食や環境の問題が身近なものになり、40歳で女優を卒業し、農村や農業を生涯のテーマにしようと思ったこと」

福原さんは名インタビュアーでいらっしゃいました。民芸、美術、音楽、食、農業すべてに造詣が深く、どんな話も身を乗り出すように聞いてくださいました。そのうえ、ご自分の経験や見識に基づいた言葉を柔らかく、ときには鋭く返してくださるので、どんどん話が広がっていきました。

「“ほんものをみなさい”と写真家の土門拳さんに教えられたこと」
「ダムに沈んだ奥三面の集落に、記録映画を撮り続けていた姫田忠義さんと3年間通い続け、村の人の話を聞かせていただいたこと。閉村の日には親しくなったキイばあちゃんと並んで、ショベルカーで家が引き裂くのを見つめたこと」
「柳宗悦さんにはお目にかかれなかったけれど、その弟子でもあった池田三四郎さんを師として慕い、年に何度も長野・松本に会いにうかがったこと。“自然は仏か、仏ではないか”という大切な問いかけを教えていただいたこと」
「花織という織物をよみがえらせた与那嶺貞さんのいう”女の人生ザリガナ(こんがらがった糸をほぐして一本にする)“という発想が今、必要ではないかということ」
「自分の手で一から米作りをしてみたくて、若狭に田んぼを求め、地元の人に手伝ってもらいながら十年、米作りを続けたこと」

気が付くと私は福原さんに誘われるように、人と出会い、ものに出会い、そうしたことに触発されて、夢中になって走ってきた自分の半生を語っていたのです。

ページをめくりながら、タイムカプセルを開けたような、不思議な感覚を味わいました。
当時、私は50代半ば、福原さんは60代後半でした。

子や孫のためにも、日本の農業にもっと光があたってほしいと切に思って活動していたころです。食料が自給できる国になってほしい。農家の人々が自信を持ち働ける世の中になってほしい…そのために奔走していた私の姿が、行間から浮かび上がってきました。

それから約四半世紀がたちました。感染症が猛威を振るい、国と国の間に新たな紛争が生まれ、食糧問題は一層、深刻さを増しています。輸入に頼る日本の食の未来も安心できる状況ではありません。

けれど、農業に関わる女性たちは確実に変わりました。自分の預金通帳を持ち、自分の考えを述べ、行動する女性が増えました。全国で、そんな女性たちが主導するファーマーズマーケットが人気を集めています。農家の女性たちが各地の魅力の伝道師となりつつあるのです。

農業だけではありません。私が箱根ではじめた古民家再生に興味を持つ人々が驚くほど増えました。古民家を家や店として生かし、町の再生の力になっている例も枚挙にいとまがありません。

志を持つ若者たちがあとに続いてくれれば、今という時代にあった方策を模索し、日本を若い力でよい方向にきっと変えていってくれると私は信じています。

これと思ったら、どんどんのめりこんでいく若き日の自分の姿に、我ながら驚きもしました。子育てをしながら、時間を惜しむように、これほど活動していたとは。若さとは前へ前へと進むエネルギーなのだとも思わされました。

民家再生や、農業の取り組みなど、時代の先取りも半歩先くらいならちょうどいいのに、ずいぶん早くから着手してしまい、誰に頼ることもできず、文字通り手探りで、ひとりで道を切り開いてきたのだとも、苦笑してしまいました。そのために遠回りもしました。だからこそ見えた風景もあったと懐かしく思えるのは、年の功でしょうか。

その日の午後、5歳になる孫が部屋に訪ねてきて「ばあば。はい」と自分が摘んできた花を私に手渡してくれました。ノコンギク、エノコログサ、ヨメナ……きれいな紙で野の花をブーケのように包んだもの。私が喜ぶと知っていて、孫はときおり、こんな風にプレゼントしてくれるのです。

「嬉しいわぁ。ほんとにきれいね。ありがとう」と抱きしめると、孫は照れたように笑って、走って部屋に戻っていきました。

ガラスの小瓶に活け、キッチンのカウンターに飾ると、窓から入る日差しを受けて、緑の葉も小さな花も笑っているように見えました。

孫が小さな手で、私のために摘んでくれた花。
人生の幸せとはこのことではないかと胸がいっぱいになりました。
そのとき、池田三四郎さんの言葉がふいに蘇りました。

「一本のネギにも大根にも、道端に生えている草にも、この世の自然の創造物のどんなものにも美があるんだ。それを美しいと感じる心があるかどうか。それが問題なんだ」

「今、あなたが歩いている道の先には必ず未来がある。あなたはそれを信じて、今まで通りに生きて行けばいい」 

その柔らかな声が耳の奥に響き、あの大きな手でそっと肩を叩かれたような気がしました。

急がない。けれど、とどまらない。
少しずつ、ちょっとずつ。
ゆっくりだからこそ見える風景を楽しみ、できることを手放さず、体と心と折り合いをつけながら、これからも一歩ずつ前へ進んでいきたいと思います。

池田さん、福原さん、そしてこれまでに出会って私を導いてくださった多くのみなさま……。お別れしたという気がしないのは、人生にはこうした瞬間がときおり訪れるからではないでしょうか。
この世でお会いすることはできなくなっても、どこかで見守ってくださる気がするのです。

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