福島県 飯館(いいたて)村へ

東京電力福島第一原発事故の避難指示が、一部地域を除き解除されたのは今年3月31日でした。あれから6年半あまり。私はこの飯館村に最初にお邪魔したのは25年ほど前のことでした。
飯館村は、阿武隈山系北部の高原に開かれた自然豊かな美しい村でした。当時、国土庁が主催する「農村アメ二ティーコンクール」で最優秀に輝いた村です。私も審査委員の末席でこの村を訪ねました。第一印象は開かれた美しい村であることも当然ですが、村民が主役で、行政と共に歩む姿に感動を覚え、その記憶は鮮明に脳裏に焼きついています。
スローガンは『までいの村』。
までいとは「心を込めて」「手間隙を惜しまず」「つつましく」といった意味が込められています。その心が、村民一人ひとりにいきわたっていることを教えられました。
この飯館村は、昭和31年に飯曾村と大館村の2つの村が合併してできました。いち早く「女性が人生を楽しめる村」へと、「若妻の翼」を立ち上げ農村女性をヨーロッパ研修へと送りだしています。
当時、農家の女性の多くは自分の銀行口座さえない時代でした。封建的、閉鎖的な東北の農村では、率先して弱い立場の女性の世界を広め「これからの農村の担い手は女性」と行政がバックアップしたのです。そのおおらかさとたおやかさ、土に根ざした強さ・・・それが飯館の女性たちです。


私は、福島市内から車で県道原町川俣を抜け飯館村に入りました。正直に申せば、目に入る最初の光景は家や畑はバリケードの中です。あれほどの美しい田んぼや畑には除染された土がシートをかぶり積まれています。”ヒマワリ畑”がひろがりますが、これも除染後の土を守る対策でしょう。胸が締め付けられました。


しかし、村でただ一軒の手打ちうどん「ゑびす庵」に入って一変しました。このお店は震災時は、村役場が出張所に移転する6月下旬まで営業し、いち早く避難指示解除がなされるとすぐにまた村で営業を再開されたそうです。
「みんなのいこいの場にしたい」と高橋さんご夫妻と息子さんが60年の村の老舗を守っています。そして、そこで今は他に避難している村のコーラスグループの女性たちとご一緒し、どんな困難にも女性たちは元気だわ~!と嬉しくなりました。
あの日から大変なご苦労があったでしょう・・・でも「までい」の心と行動で、村の再建に向かう管野典雄村長のご案内でオープンしたての道の駅「までい館」にお邪魔いたしました。杉をふんだんに使い、屋根の上のガラス張り、天井からは季節の花玉が下がり、花や野菜などを直売するコーナー。


何よりも驚いたのは「トイレを見てくださいよ」と笑顔で仰る村長の言葉で入らせていただきましたが、綺麗なこと!
やはり、ここにも『人が集う場所』がありました。住民の笑顔を写したパネル、花々で彩られたこの「までい館」は村づくりの一歩です。
村長は「村民に帰村を押し付けることはできません。私は新たな村づくりの一つひとつに心を込め情熱を注いでいけば、必ず、徐々に10人、20人と戻ってきてもらえると思います」とおっしゃり、その言葉に25年前の行政マンの哲学が生きています。

水田放牧実証もはじまりました。


そして花卉農家の高橋日出男さんのハウスを訪ねました。生産者の念願だった村産の花作りがはじまりました。避難先でも花づくりをし出荷もしていたそうですが、先日東京の大田市場に初出荷し、好評だったカスミソウやリンドウなどが順調に育っています。家族で帰村しました。「100歳になった母が”ふるさとに戻りたい”という言葉に背を押され、自分の好きな村で、自分の好きなことをして生きていけることに喜びを感じています」と笑顔で語る日出男さん。抱えきれないほどのお花をいただきました。何だか・・・とても幸せ。お母さまのスギノさん、いつまでもお元気で!


そして、今回訪問の目的でもある花火大会の会場へと向かいました。この7年振りの『飯館村 はやま湖花火大会』に招かれました。皆さまどんなお気持ちで打ちあがる花火をご覧になっていらしたのでしょうか。
避難指示解除がなされても多くの問題、課題が残されています。
“帰還か否か”
コミニティーが分断されているところもあります。精神的に悩む方も多いといわれます。私たちにはとうていその深い悩みにははいれません。ただただ、この問題を社会全体で向き合っていくべきだと強く思いました。


自然の息づかいが聞こえる飯館村。
『までいの村に”陽”はまた昇る』ですね。

子規の音

箱根の山を下り東京駅へ。そして鶯谷から徒歩で5,6分の正岡子規の旧居、根岸にある『子規庵』へと向かいます。
蒸し暑い夏の日も「子規に出逢える」と思うと足どりも軽くなります。すっかり変わってしまった周辺も狭い横丁の路地を抜け木の引き戸を開け、一歩足を踏み入れるとその先には小さな木造の家があり玄関を入るとさして広くない座敷と縁側。その先には子規が「小園の記」に書かれている庭が見えます。


なんだか懐かしいような「子規の世界」に出会えます。空襲で消失し、現在の建物は昭和25年に再建されたものです。子規庵では句会、歌会などが開かれ大勢の人たちが詰め掛けたそうです。門下生の中には高浜虚子など。客間と子規の部屋、三畳の居間と妹律と母八重の部屋とこじんまりした家です。かつてこの辺りは農村風景が広がっていたそうです。命の炎を燃やし尽くした家です。


    病牀六尺、これが我が世界である。
子規が8年半暮らした終焉の家。その雰囲気が伺えます。この部屋で「蕪村忌」などを夏目漱石などと一緒した座敷に腰を下ろし、子規が寝床の中から見たであろう庭に咲く”鶏頭”はじめ季節の花々が子規庵保存会の方々の手で美しく保存されています。ヘチマも下がっています。
    鶏頭の花のに涙を濺ぎけり
    鶏頭や今年の秋もたのもしき
    秋尽きんとして鶏頭愚也けり
死を意識した子規が鶏頭に強さや、たくましさをみいだしたのでしょうか。そして最晩年、痛みをモルヒネで和らげ、果物や草花を描いていたそうです。
皆さまは、正岡子規についてどんなイメージがあるでしょうか?俳句、松山、根岸、闘病生活・・・あるいは野球という人もいらっしゃるでしょうか。どんな困難な状況の中にあっても明るく、チャーミングでまわりの人々から愛された子規。
そんな子規を今年生誕150年の記念碑として画期的な正岡子規評伝をお書きになったのが、作家の森まゆみさんの『子規の音』です。”子規を読むことは五感の解放である”と帯に書かれています。私は夢中で読み終えました。そして、「子規庵」へと行きたくなったのです。
正岡子規は慶応3年(1867年)松山藩士の常尚と八重の長男として生まれ明治16年に上京。明治23年東京帝国大学文科大学(今の東京大学文学部)哲学科に入学します。学生時代はあまり勉強をせず、仲間と野球をしたり、旅に出るなど、東京生活を満喫していた感じがしますが、肺結核から脊髄カリエスに30代前半に病の床につき35年の生涯を終えました。26歳の時病身の子規は松尾芭蕉を追って東北を旅します。
    その人の足あとふめば風薫る
    みちのくへ涼みに行くや下駄はいて
    涼しさやむかしの人の汗のあと
いいな~~、素直なスケッチ風景。私好きです。
森まゆみさんは『子規の音』(新潮社)で書かれておられます。
昔の東京には町に音があった。
子規の句や歌を読むと、東京の町の音が聞こえてくる。
そんななつかしい音が今の東京では聞こえなくなった気がする。
子規を読むことは、私にとって五感の解放である。と。
死の直前に残した最後の俳句。


   「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」
   「 をとゝひのへちまの水も取らざりき」
9月19日は正岡子規の命日にあたります。
「子規庵」は句会やその他の催しもありお出かけの際はお問い合わせをしてからお出かけください。
アクセス=JR鶯谷駅北口から徒歩5分
電話 03-3876-8218
そして、森まゆみさんに文化放送「浜 美枝のいつかあなたと」でじっくりお話をうかがいました。
放送日は8月27日と9月3日の2回にわたり放送いたします。
日曜10時30分~11時まで。
子規の音」(新潮社)もお読みください。


若狭の暮らしを若者たちに託して

人間には「デジャ・ヴュ」(既視感)という、まだ世界中の誰にも解明されていない、不思議な感覚があります。
一度もみたことのない風景の筈なのに、自分自身の感覚の中では、「絶対にいつかどこかで、同じ風景を見たことがある」という親しみ深い、そして確信に満ちたあの感覚。それが、いまの私の若狭の家がある”おおい町・三森”の「風景」なのでした。
それは、25年ほど前の、ある秋の日の夕刻。テレビの取材の仕事で、小浜から京都の綾部までの道を車で走っていた時のことでした。なだらかな山並みの前には美しい竹林があり、周りは水田に囲まれていて、そこに数本立っている柿の古木には、ふたつ、みっつと実がなっていて・・・。


「私、ここの風景を知っている!昔、ここに住んでいたことがあるのかもしれない・・・」そんな思いにかられました。もちろん住んだことはありません。箱根での暮らしが10年も続いた頃に、今度はもっと純粋な日本の「素朴な農家」にも住んでみたいな、と願い始めている自分に気づきました。古民家を移築し「やまぼうし」と名づけた私のもうひとつの家。


そして、きちんと農業を学んでみたい!米作りの実際を体験したい、と田んぼはわずか7畝でしたが、地元の信頼する農家のご夫妻に農業のイロハを手ほどきいただきました。村社会での暮らしも経験し、この地に私の長年の夢を実現させました。
手植え、手狩り、はさかけ・・・。その間の水の管理、草取りなど、様々な作業があり、休む間もないことを肌で知りました。米作りにともなう農村の営みや文化、折々の機微、人々の絆の強さ、さらに花一本、草一本、虫一匹にも役割があることを学びました。
私は2010年から4年間、近畿大学・総合社会学部で客員教授をつとめさせていただきました。そこで、「自分らしさの発見~暮らし・旅・食がもたらすもの」というテーマのもと授業を担当させていただきました。なによりも、私自身がもう一度学びなおすことができるのではないか、と思ったのです。
そして、大切にしたことは「フィールドワーク」でした。今はIT時代で、人と人が目を合わせて語ったり、笑ったりするコミュニケーション力が不足した若者が増えているといわれています。
立ち止まったり寄り道したり。
しかし、自分の足で現場を歩き、目で見、肌で感じ、たくさんの人々との出会い、わかること、発見もあるでしょう。そんな思いで4年間若狭の「やまぼうし」でのフィールドワークが続き、学生たちは社会へと羽ばたいて行きました。そんな彼らが2011年から『近大農園』を誕生させ『やまぼうし農園』へと・・・OBになっても後輩へとその精神を受け継いでくれています。毎年の米作り、野菜作り、集落のみなさんとの語り合い、今年の夏もいっぱい汗をかきましたね。間もなく早稲の収穫もはじまります。


そんな彼らと久しぶりに若狭で再会ができました。初めて出会う学生さんも大勢いました。楽しかったです。語り合いましたね!月の光りを浴びながらのバーベキュー。
卒業していく4年生、これから始まる新入生の皆さん。
失敗しても、試行錯誤を繰り返しても、またいつからでも人は立ち上がることができます。そうして健やかな心を支え、育ててくれるのは、本を読んだ知識も大切ですが、現場での体験もかけがえのないものです。『人と人の温かい絆がうまれるのは現場』からでもあるのです。
みなさんに逢えてよかった!
ありがとうございました。

レオナルド×ミケランジェロ展

前回は「夜の寄り道」をご紹介いたしましたが、今回はその続きです。
私は月に2回は浜松町にある文化放送ラジオ「浜美枝のいつかあなたと」の収録に箱根の山から東京に行きます。東京へは月に3,4回は出かけるのですが、収録や打ち合わせが終了してからの時間は至福のひと時。映画、美術館、時には落語・・・その日はめいっぱい愉しみます。
だいたい東京駅周辺、丸の内、銀座、日本橋、ちょっと足を延ばして根津や谷中など下町へ・・・そう渋谷の映画館だったり、と毎回計画をたてるのが楽しみです。これも子育て終了!自分への”ごほうび”タイムですね。
先日は、丸の内の「三菱一号館美術館」に寄り道をしてまいりました。展示室は、明治期のオフィスビルが復元されているため、落ち着きがあり小さな展示室が連なっているために作品との距離が近く、じっくりと向き合えるのが嬉しいです。


この日はイタリア・ルネッサンスの芸術家「レオナルド・ダ・ヴィンチ」と「ミケランジェロ・ブオナローティ」の競演です。二人は23歳の年の差がありますが、作品をじっくり拝見しているとお互いが良きライバルであり意識していたことを教えてくれる展覧会の企画です。
個人的にはミケランジェロの「レダと白鳥)の頭部のための習作」に興味を覚えました。彫刻を重要視し、数々の作品は見ておりますが、この絵にはドラマがあるようです。ダ・ビンチの「少女の頭部(岩窟の聖母)天使のための習作」。この2作品を比べると、今回の展覧会の意図が読み取れる気がします。解剖学的な手法のダ・ビンチ、優美なスタイルにその美を感じるミケランジェロ。この巨匠をじっくり対比してみられる・・・これはめったにないチャンスでした。
会場は熱心に食い入るように見つめる人々でいっぱいでした。とくに中年の男性が多く、美術の新たな魅力を感じているのでしょうか。
黄昏どき、いつものようにワインを一杯!幸せ気分で山に戻ってまいりました。
美術館公式ページ
http://mimt.jp/lemi/