十代で出会った古伊万里の皿

皆さまはこの皿の絵から・風景からどんなことを想いますか。

土門拳さんに「近藤」を教えていただいてから、私は時間さえあれば、東京駅から特急列車に乗り、京都を往復しました。翌日の仕事が急にオフになり、あわてて夜行列車に飛び乗ったこともありました。

近藤さんは、買いつけや作家のお世話、各地で行われる骨董の展覧会などで、全国を飛びまわっていらっしゃる方でした。「近藤」ファンの方に、私は何人もお会いしましたが、なかには「いつ行っても、近藤さんに会えないんだ。いないんだよ」と嘆かれる人も少なくありませんでした。

ところが、私がうかがうと、近藤さんはいつもお店にいらっしゃるのです。前もって連絡するわけではありません。近藤さんがお忙しいことがわかっているのに、お電話を差し上げ、待っていただくなんて、そんな申し訳ないことはとてもできませんから。

でも、お店をのぞくと、そこにいつも近藤さんのお顔が見えるのです。不思議な話しでしょ。「浜さんがいらっしゃるときは、どうしてうちの、いつもいるんでっしゃろ」、近藤さんの奥さまが、そういってくださったこともありました。各界の錚々たる方々がお客さまの「近藤」ですが、十七歳の私にも、こちらが気遅れするほど、きちんと対応してくださいました。

いつも京都のお菓子とお薄をいただきました。その抹茶茶碗がどれもこれも見事なものでした。その姿かたちはもちろん、持ち上げたときの手触り、持ち重ら、柔らかな口当たり、お薄の淡いグリーンが美しく映える色合い、風合い…最初にお抹茶をいただくところから、近藤さんのレッスンは始まっていたように思います。

そう、「近藤」の店主・近藤金吾さんこそ、私の骨董の最初の先生だったのでした。私に美を知るきっかけを与えてくれ、そして導いてくださった恩人なのです。私は店のなかで何時間も過ごさせていただきました。立ったり座ったり、歩いたり立ち止まったり。私があるものの前で動かなくなると、声をかけてくださることもありました。

「そない、気に入らはったんですか」

そうなのです。そうして出会った古伊万里の皿。無名の工人の作った皿。古伊万里とは、伊万里焼の初期のものをさす言葉。普通、草創期を含めず、赤絵が完成した正保(1644-1648)末期から元禄(1688-1704)前後のものをさして使われているようです。どこにでもあるような里山の農家が、月とともに描かれています。その素朴さ、のどかさがとても素敵なお皿です。

現在住んでいる箱根の家を建てる前、私はたくさんの里山を旅しました。最初は単に旅好きだったものが、いつしかそこに住む人を訪ねる旅になり、やがてその人々が手放さざるを得ない家を預かる旅になっていきました。

雪深い富山の山奥。行きつけるだろうかという不安の中で訪れた山間の村、人気のない村道は雪が降り積もり、家々もまた、雪の中にシンといました。巨大な合掌造りの家は雪を堂々と受け止めて決してたじろがない強さがあります。

家の中に入ると、大きなイロリが切ってあり、おじいさんとおばあさんがいました。家を手放さなければならないとはわかっていても、家から立ち去ることのできない老夫婦と、私は一体、何を話していたのでしょう。

何百年もその村で生きてきた家は、そこに住んだ人々の息を吸っている。おじいさんのおじいさんのそのまたおじいさんの生活の足跡を刻んでいる。いま、我が家を構成する十二軒の家々の柱や床やふすまは、それぞれの家の歴史をしょっている。私はそういう材料で家を造るとき、たくさんのじい様やばあ様の話をこれから先も聞いて過ごそうと思いました。それは”生命のつながり”を持っていると思えるのです。

かつて木と人がひとつに暮らした時代が持っていた優しさを、少しずつ、少しずつ失っていくのが私は怖いのです。海外から多くの方々がこの日本の歴史・文化・暮らしに興味をもち訪れてくれる時代になりました。気がついたら ”皿の風景”がなくなっていた……なんてならないでください。