鎌倉・円覚寺

円覚寺(山号・瑞六鹿山円覚興聖禅寺)に伺ってまいりました。
円覚寺はJR横須賀線「北鎌倉」から徒歩2分ほどのところにあります。
入り口の石段を登る総門をくぐると、重厚な山門がそびえ立ち、往時の隆盛を伝えています。

今回は「夏季講座」に招かれてお話をさせていただきました。
この円覚寺創建の主な目的は、蒙古襲来で戦没した多くの霊を敵味方なく弔うことで、高僧無学祖元によって開山されました。
階段を一歩一歩進むと、鎌倉・室町・そして明治へと円覚寺がたどった歴史の中に身を置くことができます。
梅雨も明け、山門は三解脱門(空・無相・無願)を象徴するといわれますが私などは、煩悩を取り払うこともできず、もちろん娑婆世界を断ち切ることなど到底できず、仏殿にお参りし会場に向かいます。妙香池を左手に見、国宝の舎利殿(お釈迦様の歯がまつられている)へと。舎利殿は関東大震災で倒壊しましたが、昭和四年に復元されています。

会場の方丈(本来は寺の住持の住む建物)では現在は各種儀式・行事・法話座禅などに使われています。畳に500名ほどの方が座り、まず官長さまのお話をうかがいます。
私は「自然とともに生きる」をテーマにお話をさせていただきました。
なぜ都会を離れ箱根に住まいを移したか。百年、百五十年という貴重な歴史を持つ家々が、住みにくい、維持が大変、跡継ぎがいない・・・などの理由で次々に捨てられていった悲しい時代でした。土地のおばあちゃんに「何とかこの家を守ってほしい」と、手を合わされたこともありました。
煤を払い、水で洗いました。手は真っ黒になり、爪にも煤が入り込んで・・・。当時女優の仕事が入ると、あわててマニュキュアを塗って出かけていく日々でした。一本一本梁や柱の木材を箱根神社のお神酒で清めて・・・
40年ほど前のことです。
「木の霊」・・・木々がうっそうと繁る森の中に立つと、私には木々一本一本が立木像に見え、ざわざわとなる木の騒ぎ、耳に響き渡る瞬間があります。樹齢何百年という大木のそばに行くと、その太い幹に、そっとからだをすりよせたい衝動にかられます。
人生には様々なことが起こります。
私もまた、子育てに悩んだり、夫と小さな諍いをしたり、仕事で行き詰まりを感じたときなど、はっとすると、目に涙があふれていたことだってありました。
人は絶えず、死と隣り合わせに生きていて、穏やかな日々を過ごせるということが、奇跡のような幸せであると、しみじみ感じます。
円覚寺では官長さまの法話と座禅をくむことができます。
ゆったりと流れた時間・皆さまと共有した空間・・・
木々に囲まれた境内、緑深い匂い。
幸せな刻でした。

旅する女

素敵な本に出逢いました。
旅する女』筒井ともみ著(講談社)
お会いしたくて先日ラジオのゲストにお招きいたしました。
「浜美枝のいつかあなたと」(文化放送 日曜10時半~11時)
『女たちは、自分のための自由な旅をもとめて動きだした!』とあります。
筒井さんは、1948年東京生まれ。
叔母に女優の赤木蘭子さん、叔父に俳優の信欣三さんを持ち、大学卒業後、シナリオライターの道に進みました。
1996年、「響子」、「小石川の家」で、第14回向田邦子賞を受賞。
2004年には映画「阿修羅のごとく」で第27回日本アカデミー賞・最優秀脚本賞を受賞されています。
著書も「舌の記憶」、「食べる女」、「おいしい庭」など数多くあります。
何よりも毎日の食事をとても大切にされている筒井さん。
「料理とは聖なる祝祭」とのこと。
「旅する女」は、ある1人の個人旅行のコーディネーターが突然亡くなってしまい、彼女を頼りにしていた依頼者4人が、その後、自分のために新しい人生を求めて動き出す物語です。
たとえ今、少し元気がない人でも、優しく背中を押してもらえるような素敵な小説でした。
とにかくセクシーでスリリング。
本来ならば、スタジオでのお話の様子をみなさんに聞いていただくのですが、う~ん、むずかしです。
筒井さんの声、お話の間、そして、”ことば”
表現できません。
ぜひぜひラジオをお聴きください。(7月29日・日曜放送)
それよりも驚いたことがございます。
筒井さんのご本「おいしい庭」での一文です。
「子供のころ、梅雨の庭に出て紫陽花の傍らにしゃがんでいたのを覚えているそれも一回や二回じゃなくて、雨が降ると小さな傘をさして度々しゃがんだ。母から許しが出ると、その紫陽花の花を二つほど切り取る。ついでにもう一本、花のついていない太めの茎をえらんで切る。玩具にするためだ。 葉っぱをとって茎だけになったものを一、二センチの長さでポキポキと折る。それをそっと持ち上げると、納豆がネバをひくように樹液がのびて、折った筈の茎がスダレのようにつながるのだ。それを顔の前にぶら下げてまたジワッと見る。それだけのことだけれど、梅雨にしかできない悪戯でけっこう楽しかった。」
私もまったく同じ経験をしたことを思い出しました。
友達と遊ぶよりひとり遊びが好きなヘンな子・・・でした、私。
筒井さんも同じ・・・ヘンな子だったのかも知れませんね。
庭の紫陽花が美しく咲いています。
白と薄紫の花をそっと切り、リビングに活けました。
なんだか・・・胸がキュンとしてしまいました。

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伊勢湾に浮かぶ答志島

近畿大学・総合社会学部の客員教授として講義を受け持って今年で3年目です。アッというまの3年。前半期、月2回の講義です。
その中でも楽しみの一つが、フィールドワーク。
勝手に私が『師・先生』と仰いでいる方が民俗学者の宮本常一です。名著「忘れられた日本人」(岩波文庫)を読み、足元を見つめ直すきっかけを与えてくださいました。何より「現場」を大切になさった方です。旅程はほぼ16万キロ。地球を4周に及ぶといわれています。ときには辺境と呼ばれる土地で生きる古老を訪ね、その一生を語ってもらい、黙々と生きる多くの人々を記録にとどめました。私など足元にも及びませんが、宮本さんは、常に「主役になるな。主流になるな」という言葉でもって、自分を戒めておられたそうです。
学生達には「現場を見てほしい」・・・と常々思っています。
授業で「寝屋子制度」について学びました。

授業を終えて、近鉄で鳥羽に向かいます。佐田浜から市営定期船で30分ほどで伊勢湾に浮かぶ「答志島」に着きます。船上で「わ~あ、私この授業を受けていなかったら一生この島には来なかったかもしれません」という学生。
私が始めて島を訪ねたのが17年ほど前のこと。
この島には「寝屋子制度」が日本で唯一残っているところです。
「若者宿」とよばれ、少年期から青年期にかけて男子が一緒に寝泊りする集団。仲間を作り、頼んでどこかの家を宿にし、毎晩そこで寝泊りします。その若者達を預かり、宿を提供するのが、「寝屋親」です。血のつながりはありませんが、生涯、親子のような付き合いをします。

なぜ寝屋子制度はできたのでしょうか。
漁業は、板底一枚下は地獄と言われる危険な仕事。
いざ、という時に、理屈よりさきに身体が海に向かいます。

今回もお世話になったかつて漁師歴50年の山下正弥さんも、荒波の中で奥さんが海に落ち寝屋子に助けられたそうです。
「まあ~時代が変わったから多小の変化はありますが、今も島の精神的な居場所になっています」と話してくださいました。
民宿に泊まり、島の方々の優しいもてなしを受け、お話を聞き、島を散策し、たった2日間でしたが学生達は「何か」を感じとってくれたようです。
「無縁社会」が話題になる現代社会ですが、この島は違います。
答志の島に生まれ、育ち、寝屋親をし、海で生き抜いた正弥さんは言います。
「漁業が元気でなければ、この制度もなくなる・・・」と。
早朝ひとり港の周りを散策していると、かつては海に潜っていた海女のおばあちゃんが声をかけてくださいます。「おはよう」と。顔中のシワは人生の宝です。80代でも現役の海女さんがいらっしゃいます。路地を歩きながら、干した魚を見ながら、「幸せってこういうところにあるのだわ」と思いました。

埠頭の桟橋でいつまでも見送ってくださった正弥さん。
学生達にたくさんの宝をありがとう・・・と感謝いたしました。

旅は曼荼羅

朝、ベッドの上で目覚めると、一番先に思うのは、ここはどこ?
日本列島は仕事の旅。講演や取材で訪ねる先々で知り合った人々との交流は果てしなく続き、二度目三度目はプライベートな旅に変わっていきます。
旅は一期一会とよく言いますが、そういう思いを深く味わうためにはそれなりの旅の工夫がいると思います。地球上には無数の旅先があります。人より少し多くを旅している私ですが、訪ねたところはまだまだ少ないです。行ってみたいところにこと欠かないのですから、恐らくこれからも旅を続けることでしょう。
あちらにはいつもときめきがある。あちらに行って、こちらの私がみえてくる。旅先で現実をふりかえると、現実の問題もよりくっきりと整理されよくみえてくる。なんだ、そうだったのかと、自分の進む道がみえてくることもあります。迷い道があるから広場に出られて、まわり道をするから目的地が恋しくなるのです。
関西での仕事の帰り、京都へ寄り道をしてきました。
『法然院』は、京都東山の鹿ヶ谷にある浄土宗の山寺です。
銀閣寺から南禅寺や永観堂のある南方へ10分ほど歩いたところ。

山門までの石段を一歩一歩と進むと初夏の風が心地よく、青い樹木一色。
山門をくぐると、両側に白い盛砂があります。
水を表す砂壇の間を通ることは、心身を清めて浄域に入ることを意味しているそうです。
白砂壇(びゃくさだん)
そう・・・、気持ちよい空気の流れです。
桜や紅葉の季節ではないので人もそれ程多くはありません。
ガイドブック片手の海外からの旅行客が数人。
境内には蔵、隅に古い石塔が佇んでいました。

今回も法然院 貫主・梶田真章住職の法話を聞かせていただくのが目的でした。昨年の3・11以降、心のざわつきが治まらず、おはなしを伺ったのが最初でした。
「私を存在させているのは私ではなく、周りとのご縁で生かされているのです。なるべく他の存在を生かすように、生きとし生けるものに慈しみと悲しみの心を向けなさいとお釈迦様は説きました。それが慈悲です・・・」と。そして、「あらゆる命とかかわりあう」こともお話しくださいました。
清々しい気持ちで法然院を後にし、夕暮れ人の少ない哲学の道を散歩して帰路につきました。そうそう・・・哲学の道には”おいしい”スポットがたくさん集まっています。私はまる豆かんを食べました。