沖縄観光

今日の私は少し「ノリ」が違います。なぜか、と申しますと先週末大好きな沖縄に行き、沖縄のお惣菜を端から端まで、食べちゃったんです。と、言っても真面目な仕事でうかがったのですが。
一年に2、3回は旅する沖縄なのに毎回ウキウキしてしまう私です。
さあ~何食べようと、考える間もなく、テーブルはいっぱいになります。ああ、帰ってきた、そんな感じがする沖縄。なぜ懐かしいのかしらと、自分でも不思議に思うんです。通い続けて36年近くになります。決っして飽きることのない深い魅力は、この地から、この海から、この風から、沖縄の人々がみずから生み出しただろうエネルギィーが伝わってくるからです。
今回の講演の演題は「沖縄に魅せられて」です。
沖縄への観光客の7割がリピーターです。これからのシニア世代、いえ、成熟した大人の方々へ、どのような旅をご提案できるか・・・。そんなお話をさせて頂きました。

私が沖縄を初めてお訪ねしたのは、1972年の沖縄返還前。まだパスポートが必要な時代でした。あれから36年以上も時が過ぎました。
沖縄の町並みもすっかり変わり、沖縄は今や、飛行機で羽田から、ひと飛びでアッという間に訪ねることができる、多くの人にとって、とても身近な場所になりました。
しかし、先日、口に出すのも悲しくなってしまう、米兵による事件が起こりました。なんということでしょう。ああ、沖縄は今も基地の島なのだと、改めて感じさせられました。
以前にも、同じような悲惨な事件が起きて、もう二度とこうした事件を起こしてはいけないと、沖縄のみならず、全国の皆様が胸を痛め、憤慨し、多くの人が声をあげ、アクションを起こしたのに、また今、悲惨な出来事が、起こってしまったとは。
唇をかみしめるだけでなく、二度と、こうした悲劇が起きないように、何とかしていかなくてはならないと、強く思います。
沖縄にあこがれ、多くの若者のみならず、リタイアした団塊の人々が、気軽にこちらに旅をする時代になった今。輝く空、美しい海だけではなく、沖縄には、かつての戦争、そして基地の今があるということを、そうした旅人にも、ちゃんと知ってほしいと感じるのは、私だけでしょうか。
私は、沖縄で忘れられない多くの人に出会いました。そのひとりが、与那嶺貞さんという女性です。
ご存知の方も多いと思いますが、貞さんは、琉球王府の美の象徴であり、民族の誇りでもある花織を、見事に、復元した女性です。
私と沖縄との出会いのきっかけは、民芸でした。
民芸の創始者・柳宗悦先生の著書に、中学時代に私は出会い、先生がその著書の中で琉球文化と工芸品の素晴らしさについて情熱的に書いておられるのを読み、中学生のときから、いつか沖縄に行って、そこで使っている道具を見てみたいと恋い焦がれていたのです。
そして沖縄の民芸を訪ね歩く中、私は、貞さんと出会う幸運に恵まれました。
以来、ことあるごとに、沖縄に伺うたびに、貞さんの工房を訪ねさせていただいたのでした。親しくなるにつれ、貞さんの人生が、多くの沖縄の女性と同様、過酷なものであったことが少しずつわかってきました。
第二次世界大戦で貞さんは夫をなくし、ご自分は戦火の中を三人の子どもを抱えて逃げまわられたのだそうです。そして終戦後、女手ひとつで三人の子どもを必死で育てあげました。その子育ても終わった55歳のときに、貞さんは古い花織のちゃんちゃんこに出会ったといいます。
花織は、琉球王府の御用布でした。本当に美しい織物です。けれども、工程の複雑で、仕上げるためには技術のみならず、時間も手間もかかるために、伝統が途絶えてしまったのでした。
かつて学校で織物を学んだ貞さんは、花織の美しさに魅せられたのと同時に、琉球の美と文化を後世に残さなくてはと決意なさったのでしょう。やがて幾多の苦労を経て、ついに花織の復元をなしとげられました。
今も、ふとした折に、私はそんな貞さんの口癖を思い出すことがあります。
「女の人生はザリガナ。だからザリガナ サバチ ヌヌナスル イナグ」
ザリガナとはもつれた糸。
ザリガナ サバチ ヌヌナスル イナグは、もつれた糸をほぐして布にする女性のことだそうです。根気よく糸をほぐすためには、辛抱も優しさも必要です。そして、ほぐすという行為には、「この糸でまた織物を織る」という、未来へ続く意思と希望も秘められています。
貞さんは、人間国宝となり、2003年の1月に94歳でその生涯を終えられました。でも貞さんの教えは私の胸の中に今も深く深く刻まれています。そして、沖縄、いえ琉球には、こうした魂があることを、私は、沖縄を訪ね来る人、ひとりひとりに知ってほしいと今も、思っています。
さて、では本題に入ってみたいと思います。団塊世代のリタイアの時期を迎え、この数年、観光あるいは移住など、何とかして、団塊の世代をその地に招き、地方を活性化したいという動きが全国で始まっています。
ちなみに、昭和22年から24年生まれを「団塊の世代」といいますが、この3年間に生まれた彼らの人口は、なんと800万人強なんですね。 本当に多いんです。どのくらい多いかといいますと、最近3年間の出生数はその半分以下、わずか約350万人。優に倍以上。それが団塊の世代なんですね。
その団塊の世代が、そろそろ定年で企業を去り、一線から離れるわけです。団塊の世代は、それまでの日本のシニアとはまったく違うシニアになるだろうと予想されています。というのも、団塊の世代は、日本の高度経済成長を支える消費のリーダーだったからなんですね。
ファッションも、趣味の世界も、車やライフスタイルも、新しい風を常に求めてきたのが、この世代なんです。古いモノに代わる新しいモノをどんどん取り入れ、ファッションや流行を先導してきたんですね。だから年齢が上がっても、従来のシニア枠にはとどまりたくないと考える人が多く、女性だけでなく男性も消費に積極的なんですね。
しかも1000万人近くいるわけですから、シニアマーケットは、これからがらりと変化するのではないかと、いわれています。当然、旅行マーケットも、今までとは違うものになっていくでしょう。団塊の世代が、ニュー・シニアマーケットを形成するわけです。
では、団塊の世代は、どんな旅を求めているのでしょう。
JTBのある調査によると、団塊世代の定年退職の記念旅行の費用は、1人当たり平均で29万6000円だそうです。
もっとも多かったのは、1人当たり「31万~50万円」。
次が「21万~30万円」。
3位が「6万~10万円」。
そして、「16万~20万円」、「11万~15万円」、「51万~100万円」と続いたそうです。
一方、希望する旅行期間で最も多かったのは「1週間~10日」。
2位「2~3泊」、3位「4~5泊」。
案外、短いと感じるかもしれませんが、実は「2週間~3週間」が6%近く、1カ月以上も5%弱、あわせて2週間以上を希望する人が合わせて11%を越していました。つまり、ゆっくりじっくり時間をかけて旅をしたいという人が10組中、1組以上、いるというわけです。
これは、これまでになかったことではないでしょうか。この調査では、退職記念だけでなく、それに限らない、60歳以降の旅行の調査もしていて、そこでもおもしろい結果がでています。
「多少高くても添乗員付きのゆったり周遊型のパッケージ旅行」を希望するのは、女性約51%、男性約39%。
忙しい駆け足旅行ではなく、じっくり時間をかけて、楽しみたいという人が増えてきたんですね。そして、男女差に着目しますと、男性は自由度の高い、添乗員に行動を管理されない旅を望んでいるようにも感じられます。
それを裏付けるように、「自分で手配し自分で動く」、「マイカーやレンタカーで動き回る」ということを希望する人は、やはり女性よりも男性のほうが多いという結果もでています。
そうした団塊の世代にとって、沖縄はどんな魅力を持つ場所なのでしょうか。観光スポットをめぐりたいという人たちは、これからも、これまで通り、多くいらっしゃるのではないかと思います。
沖縄の文化は魅力的ですし、沖縄の歴史は日本に住む者として、必ず知っておかなくてはならないものですから。ひと通り、沖縄をぐるり回ってみて、沖縄の文化に触れ、沖縄のこれまでを知り、優雅にホテルに滞在し、美しい自然も堪能する、そして帰りにはお買い物も楽しんで……。女性の場合は特に、その希望が強いかもしれませんね。
家では日々家事に追われていますし、リタイアしたご主人がいると食事も3度3度、用意しなくてはならないかもしれません。そうした家事から解放され、上げ膳据え膳で、美味しい豪華な食事をいただくというのも、旅の醍醐味であるからです。しかし、こうした従来の旅のあり方だけでなく、これからは、もっと違う旅を求める人が増えてくるのではないでしょうか。
私にはそう思えてならないんですね。
私の知り合いに、ダイビングが大好きな夫婦がいるんです。夫は50歳、妻は48歳。実は数年前に結婚したばかり。お子さんはいません。
団塊の世代よりちょっと若いのですが、彼らは、休みのたびに、各地の海にもぐりにいくんです。今年のお正月は沖縄で過ごしたと、先日、メールをくれました。そして彼らの夢は、リタイアしたら、ダイビングスポットのあるところに、ゆっくり旅すること。旅するというより、ロングステイしたいというのが本音のようです。
私は、これから、こういう旅を求める人が増えてくるのではないかと、思っています。モーレツサラリーマンとして働いてきた団塊世代の男性にとっては、定年は生活が激変するターニングポイントなんですね。
彼らは豊かさを追い求めてきた世代ですけれども、同時にそれゆえに、モノで心が豊かになるとは限らないということも、肌で知っている世代なんです。ですから、リタイアをして、求めるものは、モノの豊かさだけではないはず。
お金を払って豪華三昧の旅をするというよりは、現地の生活に溶け込んで、そこで何かしらを学ぶというような、旅の満足感を、これから重視していくのではないでしょうか。
私は、これまで40年近く、職業が旅人だといっていいほど、日本全国、そして海外もお尋ねしてきました。そうした経験を元に考えて見ますと、とはいっても、ロングステイするためには、いろいろな条件があると思うんですね。
第1に、国内主要空港から直行便が飛んでいるなど、アクセスがよいということが必要な条件だと思われます。
第2に、病院などの医療・福祉施設が整っていることも求められています。特に、シニア世代にとって、いざというとき、病院は大丈夫かというのは大きな関心事なんですね。
第3には、長期滞在に適した宿泊施設があるということです。そしてもちろん、観光やアクティビティにも優れていること。さらに、長期滞在となれば、地元に知り合いも作りたいという希望もあるでしょう。
これをすべて、沖縄は満たしているといえるのではないかと思うんです。そういう意味で、沖縄には、これからもっともっと多くの人が訪れるのではないかと、私は思います。
でも、そのために、やらなくてはならないことがあるとも、思います。そういいますと、新たに箱物をつくろうとか、自然に手を加えようとか考えがちなのですが、そうではなく、沖縄の人たち自身の意識変革がまず、必要なのではないかと思うんですね。
地方に旅すると、私はいつも戸惑うことがあります。「こんな田舎で、何にもなくて」。そういって、今の状態を卑下する人が結構多いんです。
東京みたいに便利ではない。
東京みたいにビルがない。
東京みたいにコンビニがない。
そういうんです。でも、それはマイナス要素なのでしょうか。
いいえ、そうとは限らない。考えようによってはプラス要素にもなりうるものなんですね。考えても見てください。すべての町が、ミニ東京みたいになってしまったら、こんなつまらないことはありません。
東京は東京だからいいのであって、沖縄には沖縄のよさがあるから魅力的なんです。ですから、沖縄で旅人を迎える人たちには、まず第一に、旅人よりも、この場所の魅力に敏感であってほしいんですね。
たとえば沖縄には琉球王朝の文化があります。かつて、中国との間に深い関係を築いてきた沖縄は、手厚いもてなしの心を持ち、陶器、ガラスなどの道具類、織物、そして歓待の宴で披露する歌舞音曲を発展させました。そうした文化を愛し、それを伝えるにはどうしたらいいかということを、さらに考えていただきたいと思います。
私の場合、そうした文化をさりげなく教えてくれる友人がありがたいことに、沖縄にいるんです。彼女たちとは、沖縄ベンチャークラブ主催の講師に招かれたのがご縁でおつきあいがはじまり、早十八年もの歳月が流れました。
今では彼女たちも、沖縄ベンチャークラブのOGとなりました。ちなみにベンチャークラブはボランティア団体・国際ソロプチミストに認証された、十八歳から四十歳までの働く女性のボランティアグループです。
サンシンの音色が響くお店に集まり、おしゃべりや音楽を楽しみながら、沖縄独特のチャンプルーやイリチィー(炒り煮)をほうばり、泡盛をちょっといただいたりします。
また、旧暦3月3日、沖縄の女たちは重箱に一杯ご馳走を詰め、浜に下りて海で身を清め遊ぶという風習があるということを、教えてくれたのも、彼女たちでした。
その日、彼女たちはお重箱に、それはそれは美しい料理をつめ、沖縄の紅型の着物を着て、沖縄の海のすぐ傍らの浜で、とても楽しい時間を過ごさせてくださったのです。
日ごろ、働き者で、時間に追われている彼女たちが童女のようなホッとした顔に戻り、笑いながら、歌いながら、踊りながら、ご馳走を食べる……そのとき、市場などで働いている、やはりいかにも働き者といった、元気いっぱいのお母さんたちの顔まで思い出されて、これが、長い歴史の中で、沖縄の女性たちの楽しみのひとつであったのだなぁと、しみじみ感じることができました。
さて、こうした沖縄の文化を、私は多くの人に知ってほしいのですが、では誰にも知らせればいいかというと、なかなかそうとはいいきれないんですね。特に団塊の世代以降の人たちは、それまでの人よりも、考えようによっては、ずっとわがままです。
たとえばダイビング、たとえば音楽、たとえば料理など、自分の興味あることがはっきりしていますから、いわゆるお仕着せの旅では満足してくれないでしょう。また、インターネットを仕事でもプライベートでも使いこなしている世代ですから、これまでのようなちらしや旅行会社の窓口での案内で、旅のありようを決めるという人は少しずつ減っていくと思われます。
私の30代の長男長女は、旅行でもショッピングでも、自在にインターネットを駆使して、同じものなら少しでも安いものを探します。私の目から見ますと、ほとんど達人といってもいいほど、インターネットを使いこなしています。
また、現在でも、私でも、インターネットである程度、現地の情報も集めることができますし、今後はもっと使いやすくなると思われますので、これからは飛行機、ホテル、現地での行動など全てを自分で設定する旅人がどんどん増えていくのではないでしょうか。
しかも、彼らの目はかなりシビアであるのではないでしょうか。高価なホテル、ゴージャスなホテルを好む人は、そちらを選び、長く沖縄に滞在したいという人は、リーズナブルな宿を選ぶのではないでしょうか。
私自身も、沖縄は第二の故郷といっていいほど、大好きな場所なので、いつになるかわかりませんが、将来はゆっくりこちらにロングステイしてみたいとも思っております。でも、では、どこに滞在するか、と考えると、ちょっと困ってしまうんですね。豪華なホテルでは、安全で安心ですが、コストもかなりかかってしまいます。
沖縄のにおいを肌で味わうというのに最適ともいえません。長く滞在するなら、私は、沖縄のにおいのする宿で、人との交流もあり、しかもプライバシーが守られる宿であってほしいと、思うのです。こうした宿がこれからは求められていくのではないでしょうか。そして、滞在スタイルはというと、団塊の世代も含め、シニアにとって究極の楽しみというのは、ゆったりと過ごすことではないかと思います。
実は、先日、私はプライベートでイギリスに行ってきました。
イギリスの南端の、あるお宅に伺い、ゆっくりしてきたのですが、そのとき、そのご夫婦が散歩に誘ってくださったんです。南端とはいえ、冬のイギリスです。結構、寒いんです。でも、そちらのご夫婦と私の三人で、その村のいちばんきれいな場所を三時間あまりもかけて歩きました。
ご夫妻は、私とほとんど同じ年代です。それが三時間。あたりを見回しながら、ときおりおしゃべりしながら、ゆっくりゆっくり歩いたんです。本当にきれいな風景が広がっていたので、まったく疲れなかったんですね。
そして、散歩を終えて帰ってきたとき、心身ともにすごく満足感があったんです。そのとき、私は、これからはこういう旅が求められるのではないかとハッとしました。自分を見つめるような旅です。
美しい風景の中で、たとえば沖縄の美しい海を見ながら、かぜを感じながら、夫婦で、あるいは友人と、あるいはひとりで。歩いたり、話したり、自分のことを考えたり。
そして、もうひとつ、思ったことがあります。
3時間の間、私を楽しませてくれたイギリスの美しい風景は、手付かずの自然ではなかったこと。山も、木々も、丘も、すべてが美しかったのですが、実は、自然そのままではなく、それを生かすように整えられていたんです。人の手が入ることで、より自然な美しさが際立っていたんですね。これは、観光を目的とする人たちにとって、とても重要なことではないかと思います。
沖縄の自然は魅力があります。
その魅力を際立たせるために、人の手が入っていると感じさせないように、人の手を加えていく。それは今現在のためだけではなく、長く未来にわたって、その自然を保護するためにも必要なことだと、私は思います。
最近の沖縄では、ホテルの建築ラッシュですよね。その前は、マンションの建築ラッシュでした。
それで地域経済が潤うという面もあるでしょうし、それだけ多くの観光客や滞在者が沖縄にはやってくるということなのでしょう。
でも、町のあちらこちらで建設途中のビルが立っているのを見ると、私はふとかつての日本列島大改造やバブルの時代を思い出したりして、ちょっと心配になってしまいます。まさか、そんなおろかなことを、沖縄で繰り返すわけがないと思いつつも、開発には慎重になってほしいと思ってしまうのです。
あの時代、美しい日本の田舎の風景が音をたてて壊され、失われていきました。失われたものは二度と元には戻りません。箱根の我が家は、そのときに出会った古民家が無残に壊されてしまうのが、忍びなく、思わず、買い取ってしまい、そこで考えに考えた末に、古民家の柱や梁を使って、建てた家なんですね。
沖縄の伝統的な家や風景までが、高度経済成長期の本土と同じような道を辿らないでほしいと、私は祈るような気持ちです。シーサーが守る、平家の沖縄の伝統的な家。さわやかに風が通り抜け、木が沢山使われている家。そして、ご近所も家族みたいな、おつきあい。
そういう沖縄の文化を失わないでいただきたいんですね。開発に当たっては、そうしたことに対しても知恵を絞り、バランスよく進めていってほしいんです。
ちなみに、私がロングステイしたいのも、そうした沖縄伝統の家です。ただし、旅人ですから、プライバシーもちゃんと守りたいし、ひとりでいる静かな時間もしっかりと確保したいんですね。
そして、美しく保護された海を見ながら、自然を生かすように整えられた道を、朝夕ゆっくりと散歩したりもしてみたい。そういうスポットなどが整えられれば、沖縄はこれから、もっともっと魅力的な場所になるのではないでしょうか。
もちろん、私のような人ばかりではないでしょう。鍵ひとつかけられれば出かけられる、マンションやロングステイ用のホテルなどを好む人もいるでしょう。でも、そうした人にとっても、沖縄伝統の文化や風景は魅力であることは間違いありません。
美しい海、そしてもてなしの温かな心を持つ人々、開放感があり、青い空に絵のように美しく映える沖縄の風景……こうしたものを大切にして、さらに磨きをかけていってほしいのです。そうすれば、なおのこと、シニア世代、いえ、成熟した大人の男女にとって、ゆっくり流れる時間を味わうにふさわしい場所として、愛される場所になるのではないでしょうか。

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NHKラジオ深夜便-「大人の旅ガイド・白川郷」

今夜ご紹介するのは、もう皆さんご存知の世界遺産〝白川郷〟です。
白川郷は岐阜県と富山県境にあり、正式には岐阜県大野郡白川村人口1900人の集落です。
私と合掌造りの家は、切っても切れない関係にあります。
合掌のカタチにひかれて、生活のスタートラインにたった、といっても過言ではありません。家の骨格というべき柱と梁は、何か私の心の中の骨格でもあるのです。
自然と共存して生きることの、とてもシンボリックなカタチ。もう何十年にもなるでしょう。この集落に通い、さらに日本中を旅し、自分が求める暮らしのあり方や、心の置き場所を探す旅を続けてきました。
白川郷は冬なら2、3メートルの豪雪に埋もれる雪の里です。
私は何度も旅をしました。雪の中へ足を入れながら、神聖な気持ちになったものでした。雪を深々とかぶった集落は神々しく、余所者(よそもの)は雪の上に足跡を残すのさえ、ためらわれたものでした。
現在、世界遺産に登録されてからは、集落の様子は随分変わりましたが、でも冬、雪深い白川郷は静寂そのものです。
私はいつも名古屋から高山本線に乗り、飛騨古川を経て白川郷へと通いましたが、道すがら、その道筋自体に私の心をふるわせるものがありました。列車が進むほどに山が迫り、やがて渓谷が深く列車の行く手をさえぎる。かと思えば山間に可愛らしい集落を見せてくれたり。いっときも見逃せない自然絵巻が広がります。
思えば35年ほど前から、このルートの向こうに私が求めるものがあると直感し、何度も何度も足を運びました。最初はひとり旅、結婚後は家族と、あるとき乳飲み子をおんぶして。さらにもうひとり生まれると、上の子はしっかり私の手を握りしめてついてきました。私が進む先に、私の求めるものがあると信じていたから通えたのかもしれません。
それが、白川郷でした。
厳しい豪雪の中に建つ合掌造りの家は、静謐な祈りのカタチです。そこに佇むと、私はいつも自分の原点に帰ってくるような気がします。
かつて中学の図書館で見た、民藝運動の提唱者の柳宗悦先生の本に書かれていたフレーズの「ものを作る人に美しいものを作らせ、ものを使う人に美しいものを選ばせ、この世に美の国をつくろう」という一説が私の胸に宿りました。
白川郷のあるお宅で、大きな柱をさすっていますと、故池田三四郎先生がおっしゃった言葉が浮かびました。「民藝で一番ガラが大きいのが家だ」と。
池田三四郎先生は伝統的な木工技術を生かして広め、用の美の精神を基盤とした「松本民芸家具」の製作を開始した方です。
やがて、旅を続けるうちに、自分の家を作る段になりました。
その頃、各地で後継者がいないからとか、維持できなくて家を手離さざるを得ないという方々がたくさん出るという事態がおきていました。築百五十年もの家がついに壊されるという日、私はその村を通りかかっていたのです。チェーンソーが今にも太い柱を切り裂こうとする寸前、キーンと鋭い音がして、私にはそれが悲鳴のように聞こえました。
その音はまさに民家が号泣しているかのようでした。
昭和四十年代のことです。こうして日本は過去を葬り、高度成長社会に移行していったわけです。このとき、「待って!」と叫んで、譲っていただいた、いくつかの民家の端々が、今、箱根の家で堂々と余生を生きています。
白川郷や五箇山に美しい姿をとどめる民家は八世紀からの遺産だそうです。日本の歴史に翻弄されることなく、ずっと身を隠しながら、何世紀も生きてきたものだけが持つ神々しいまでの家々です。集落の中に江戸時代から変わらない道があり、屋敷の間を村道が縫い、昔の姿をとどめていますが、そこには現代の人々が暮らしているのです。
旅をする時・・・そこが世界遺産ならなおさらのこと、人々は静かにその村を訪れましょう。
1935年(昭和10年)ドイツの建築学者ブルーノ・タウト(1880~1938)が白川郷を訪れました。合掌造りを「極めて論理的、合理的で、日本には珍しい庶民の建築」と高く評価しました。「日本美の再発見」によって広く紹介され、一躍世界の注目を集めるようになったのです。
白川郷にお邪魔すると、我が家の親戚に会ったような安堵感を覚えます。
きっと今頃の白川郷は一面銀世界でしょう。
私の住む箱根は例年より雪が多いようです。雪が降ると、山に登る道がチェーン規制になったりして、不便な面もあるのですが、雪の中の箱根はなかなかきれいです。
雪の匂いに樹木の匂いがまじって、なんだかとてもゆったりした気分になりますし、雪があたりを覆うと、ふんわりと音を吸収してくれるせいでしょうか、いつもより一層、静寂が深くなるような気がします。
寒い季節に雪のあるところを旅すると、普段見えないものが見えてきます。そして、箱根の我が家に帰り、あちこちの柱に報告をします。「あなたたちのお仲間も立派に生きていましたよ」・・・と。
2007年7月現在 世界遺産に登録されているところは
文化遺産  660
自然遺産  166
複合遺産   25    合計851
人類にとって大切な大切な遺産。 みんなで美しく守っていきたいですね。
旅の足は 東西南北4本の道がありますが、通行止めの場合もありますので必ず確認してからにしてください。マイカーなどの乗り入れ規制もあります。
道路状況などのお問い合わせは
白川村役場
05769・6・1311
白川郷・合掌造りなどの問い合わせは
白川村観光案内所
05769・6・1013
現在は積雪一メートル位ですが、周辺は除雪してあります。ホームページでいろいろ検索できます。
建築に興味のある方は「合掌造りの構造」に詳しく載っております。
今夜は茅葺の里、白川郷をお届けいたしました。

雪景色の箱根

この冬は例年より雪の多い季節でした。
雪が降ると、山に登る道がチェーン規制になったりして不便も感じますが、雪の箱根はなかなか素敵です。
小田原からバスに乗り、宮下を過ぎるころには空気も匂いも一変します。
夜空は、時には「冬の月」であったり、樹木の枝に降りつもる雪であったり、「星が」煌々と輝いていたり・・・、まさに「星冴ゆる」夜、静寂な里に暮らす喜びを感じます。
冬ごもりした箱根は静謐そのものです。
でも、早朝の赤富士が見られてた時など”春はもうすぐ”・・・と思います。
春を待ち望んでいる花々との出逢いが楽しみです。

浜美枝のいつかあなたと – 野村万作さん

私の出演している 「文化放送・浜美枝のいつかあなたと」日曜10時30分~11時に先日、和泉流狂言師で人間国宝の野村万作さんをお客さまにお迎えいたしました。
野村万作さんは、1931年、六世の野村万蔵さんの次男として東京にお生まれになりました。
三才のとき「靭猿」の子役で初舞台。以来、これまでに、三番叟、釣狐、花子(はなご)など流儀にあるほとんどの作品を上演されてきました。
当代の人気狂言師、野村萬斎さんのお父様でもいらっしゃいます。大変興味深く、示唆にとんだお話でしたので当日伺ったお話を。
そして、1月17日には宝生能楽堂で「野村狂言座・歌争」を拝見いたしました。
春ののどかな風景を背景に、とぼけた味わいのある作品を見事に演じられ、野村万作さんの鍛錬され尽くした芸を堪能いたしました。
狂言の稽古は、親から子へ・・代々受け継がれてゆくもので、万作さんは子供の頃、お祖父さま(先代萬斎)から稽古を受けられたそうです。狂言の稽古は親子の間柄だと、どうしても厳しくなってしまい、お父様の稽古は厳しく、お祖父さまは優しい記憶があるそうです。今は孫の裕基君(小学生)の稽古もつけるそうです。
万作さんは今も年間200回ほどの舞台を勤められ、健康法はまさに舞台の本番とそれにそなえての稽古が健康の源かもしれません。
野村家では、1950年代から、さまざまな海外公演を行ってきました。フランス・イタリア・ソ連・ギリシャ・ドイツ・中国・・・1963年にはシアトルでアメリカ人に狂言を教えたとのこと。狂言には型があるが、「父の舞台は自在だった。そこに自由を感じた。共演して、酒盛りのシーンを演じる。父親は、飲むふりをしているのに、顔が赤くなって、酒のにおいがするようだった」古典なのだが、自在に演じていらしたそうです。
野村万作さんは、いまから10年ほど前・・・60代の半ばの頃、稽古場に飾ってあった表彰状や記念品をすべてしまったそうです。
それは過去の栄光にすがるのではなく、つねにゼロからはじめるという決意。
「父、六世万蔵も「肩書き」や「権威」を嫌い、つねに庶民の立場で狂言を演じた。決して偉くならない人だった」・・・と。
その姿を思い出し、自分もゼロから狂言に取り組みたいと・・・。
このお話に、万作さんの本質が見えました。
人間国宝、まさに国の宝でありながら、「偉く」ならずに、狂言の道を研鑽する・・・。
厳しく、そして優しい人柄を感じさせてくださる野村万作さんでした。