能登と角偉三郎さんのこと

長年、愛用しているお椀があります。煮物、汁もの、うどん、そば、ご飯もの……なんでもござれの、角偉三郎さんの合鹿椀です。形や塗りの美しさはもちろん、手でもち、唇をふれるたびに、その心地よさに改めて感動を覚えます。このお椀に盛り付けると、料理の味わいが二割、いや三割増しです。

偉三郎さんは漆の下塗職人の父と蒔絵職人の母の元に生まれ、輪島の伝統の中で育ちました。沈金作家として、絵画のようなパネル作品を次々に発表し、アーティストとして早くから注目されましたが、石川県能登町合鹿地に伝わる合鹿碗に魅せられ、「生活で使う道具」へと作風を変えていきました。

削った大椀の木地に、じかに漆をかけ流し、塗りつけた合鹿椀は、土地の人々の暮らしに長く根差していたものでしたが、後継者不在のため、大正期にはその伝統が途絶えたといわれます。その合漉椀を偉三郎さんは復活させたのです。

「木に逆らわず、漆に逆らわず、うぶで正直でという椀を作ろうとしました」

「技術だけでは終わらない、人間だけでは終わらないものを、合漉椀に強く感じるんです」

「器は使って初めて完成します。「手でつかみ、口唇にふれる」これこそが漆の本来の姿だと思う」

角さんにはじめてお会いしたのは、私が30代後半のころ。今から40年ほど前のことでした。以来、お会いするたびにお酒をご一緒し、合漉椀への思いから漆文化の旅、能登の魅力など、さまざまなことをお話しいただきました。タイやミャンマーの村で、木から削っただけのものに、木くずや砂埃がくっつくのもかまわず、漆を塗っているのを見て、漆の原点を見たというお話は、中でも強く印象に残っています。

偉三郎さんは、旅を愛し、能登を愛した人でもありました。

「能登には海からの文化と、峰からの文化があります。海からは、北前船や遠い大陸から持ってくるものが寄って文化を伝えていくと同時に、海から出ていく文化も生み出してきた。一方、峰から村々へ下りてくる文化は次第に籠って錬れていく。だからこそ守られてきたものがある。能登は相反するようにみえる、ふたつの文化を抱えているんですよ」

「能登は自然と水がいいんです」

「僕はときどきたまらなく輪島を出たくなる。輪島を出るときには口笛が出ます。帰るときにも口笛が出るんです。両方、大事なんです」

土地はそこに根差した歴史や文化と一体なのだと、お話を伺いながら深く感じました。偉三郎さんという人もまた、能登の自然、文化、歴史が生み育てたのだ、とも。

合漉椀を復活させた偉三郎さんは、とどまることなく、さらに素材と漆の新しい合わせ方を創造するなど、漆と共に暮らす喜びを追求し続け、2005年、65歳で旅立ちました。

このたびの能登半島地震の後、偉三郎さんがご存命であれば、どう行動なさっただろうと考える日が続きました。合漉椀だけでなく、輪島塗全体の今後を考え、偉三郎さんは果敢に立ち上がったように思えてなりません。

この地震では全壊や半壊を含め、いくつもの輪島塗の工房が被害を受けました。未だどこから手をつけて良いのか分からない状況も続いているとも聞きます。けれど、室町時代から続く輪島の、能登の伝統の塗り物を途絶えさせるようなことがあってはならないと私も、切に思います。

もし塗り物の器をしまっていらっしゃるなら、取り出して、ぜひ日常で使ってください。輪島展などがお近くで開かれているようでしたら、足を運んで、手に取って下さい。そして、いつか、落ち着いたら、偉三郎さんの愛した能登を訪ねてください。

「能登半島は連れ込み半島なんです。女や男を連れ込む。物の怪も。浜さんも」

そういって、にやりと笑った偉三郎さんのいたずらっぽい表情を思い出しました。能登には、連れ込まれた旅人をあたたかく迎えてくださる偉三郎さんのような人がきっと、たくさん待っています。

問わず語り ~能登に想いを寄せて~

今年も桜の便りが届き始めました。自然は厳しく強く、ときに優しく、人に寄り添ってくれるものでもあると、感じずにはいられません。

能登半島地震の発生から丸三か月がたちました。この地震に被害にあわれたみなさまに、心よりお見舞い申し上げます。

元旦の夕方 16 時 10 分に起きた地震は石川県志賀町と輪島市で震度 7 、七尾市、珠洲市、穴水町、能登町で震度 6 強。石川県だけでなく、激しい揺れは富山県、新潟県、 福井県をも襲いました。

私にとって北陸は、20代から何度も繰り返しお訪ねした場所です。箱根に家を建てると決めた時には、北陸の友人の家に中古の車を置かせてもらい、休みのたびにハンドルを握り、古民家を見てまわりました。箱根の家には、その時に出会った北陸の古民家の梁や柱、床板が生かされています。そして北陸を歩く中で、土地が育んだ文化、人々の人間性に、私はいつしかすっかり魅せられたのでした。 

震災から時間がたち、避難している皆様の疲れが顕著になる時期となりましたが、被災地では一部で仮設住宅への入居が始まっているものの、復興には何年もかかるといわれます。そのとき、残るものも、失われていくものも、新たに生み出されるものもあるでしょう。

北陸のために、私に何ができるだろうと、自問自答する日々が続きました。そして、もしあるとしたら、私がかつて出会った北陸の人々や美しい道具のことを伝えることではないかと思いました。

心の奥底に大切にしまいこんでいたものを取り出して、これからしばらくの間、私の「問わず語り」として、折々に綴っていきたいと思います。よろしかったら、どうぞ、お付き合いくださいませ。

日本海には、港に通じる小道がいくつも走り、通りには豪壮な商家や船主屋敷が建つ港町が点在しています。巨万の富を生む北前船の、かつての寄港地です。土地の神社では、遠い京の都にも通じる祭礼が今も行われ、言葉や民謡にも古い雅が残る港町。加賀市橋立町もそんな港町です。

土地の氏神さまの出水神社には北前船主らが寄進した鳥居や、敦賀や大坂の問屋が寄進した灯篭、玉垣、狛犬がたっています。絵馬堂には、何枚もの船絵馬が航海の無事を祈って、奉納されていました。そして通りには堂々たる風格の船主の屋敷が並んでいました。

酒谷えつ子さんはその一軒に住んでいる高齢の女性でした。お会いしたのは、昭和57年の7月。えつ子さんは88歳でした。

土塀が巡る大きなお屋敷でした。上がり框、柱、梁は総ケヤキ。天井には煤竹が一面に張り巡らされていました。驚いたのは、奥の座敷に、大小のふたつの仏壇があったことです。

三月の梅の花咲くころから年の暮れ近くまで、橋立の男たちは北前船に乗って家を留守にします。その間は大きいほうの仏壇の扉を閉めておき、男たちが帰って、航海の無事を先祖に報告するとき、再び扉を開けるのだと、えつ子さんが教えてくれました。小さい仏壇(縦約1メートル×横約50センチ)は、留守を守る女たちの仏壇で、「夏用の御仏壇」と呼ばれていました。

板子一枚下は荒海。難破の危険もあり、男たちが船出をするときには、船の姿が見えなくなるまで、浜に立ち、声を限りに呼びかけ、手をふっていた女たちは、その小さな仏壇に毎朝夕、手を合わせ、男たちの無事を祈っていたといいます。男たちを送り出した女たちの暮らしも、厳しいものでした。畑を耕し、子育てをし、家はもちろん村のことも切り盛りしていたのは、もっぱら女たちだったからです。

でも過去帳には女の名前は記載されてはおりません。そこにあったのは、男の名前だけでした。

実は、えつ子さんと会った直後に、私は北陸放送開局30周年記念ラジオ番組企画「リブⅡ世号 北前船の海を行く」に出演する予定でした。海洋ジャーナリスト小林則子さんの航海に私もご一緒させていただくことになっていたのです。けれど、男にしか許されなかった北前船の航路を、女の私が果たして辿っていいものかと、ためらいもありました。海に生きた男たち、それを支えた女たち、何百年も脈々とつながれてきた歴史と文化に対する敬意が、私を躊躇させていたのでしょう。

私がその思いを打ち明けると、えつ子さんは静かにこうおっしゃいました。

「いいじゃございませんか。男の役割を女がし、女の役割を男がしてみる。そうすればお互いの役割をより理解できると思います。おやりあそばせよ」

古くからの文化を守ること、今という時代を生きること。その両方を、えつ子さんから教えていただいたような気がしました。

あれから42年。能登半島地震では、加賀市の揺れは震度5強でした。道路や家屋への被害は発生しましたが、幸いにも人的被害はなく、3月16日には北陸新幹線加賀温泉駅も開業しました。えつ子さんの家は今、『北前船の里資料館』として公開され、訪れる人に北前船の歴史と文化を伝えています。

https://www.city.kaga.ishikawa.jp/section/kitamae/