徹子の部屋

テレビ朝日 『徹子の部屋』にお招きいただきました。
(放送日は9月25日になりました)
9年ぶりの出演です。
1週間ほど前にお声をかけてくださった局のMデレクターが箱根の我が家に打ち合わせにお越しくださいました。「あのとき、10年後の浜さんをお招きしたいと思っていました」と。
子ども時代の空襲で焼け出されたこと、川崎での長屋暮らしのこと、戦争がやっと終わり、ものはないけれども、みんな貧しかったけれど、元気に働いて・・・・・。
昭和がすべてよかったなどとは思いませんし、戦争にとられて死ぬ人がひとりもいない平成には、それだけでかけがいのない素晴らしさがあると感じる・・・こと。
子供たちが社会へと巣立っていき、ハッと気が付くと、60代に。65歳になったとき、今後のことを考え、自分のスペースのリフォームに着手したこと。70代に入ってからいっそう丁寧にくらしたいと思うようになったこと。これからも人々と出会い、ものに教えられ、思索し、旅に出たいです・・・・とそんなお話をさせて頂きました。
当日、スタジオで徹子さんに久しぶりにお目にかかりました。ひとつの番組をあれだけ長く続けておられるのには大変なご努力があられるでしょう。相手を気遣い、”本音”を引き出す話術はやはりプロです。どんな内容が放送されるかは、な・い・しょ!
ただ私は40歳で演ずることを卒業しているので、テレビ出演はやはり緊張いたします。あんなにテレビにお世話になっていたのに・・・。
久しぶりのテレビ出演、ご覧くださいませ。
あ~~終わってよかった。
ホッとしてその日はひとりワインで乾杯!しました。

春の庭

デビューして15年、4度目の候補で芥川賞を受賞した柴崎友香さんをラジオのゲストにお招きいたしました。
スタジオではいつもあまり打ち合わせはせず、お話をうかがうことにしております。スタジオに入っていらして、ご挨拶をさせていただいた印象が”なんてチャーミングな方なの”でした。
お話もとても素敵でした。柴崎さんは1973年、大阪市生まれ。
大阪府立大学を卒業後、機械メーカーに勤務していた1999年、
短編「レッド、イエロー、オレンジ、オレンジ、ブルー」でデビュー。
翌年、初の単行本「きょうのできごと」を発表。
2007年「その街は今は」で第57回芸術選奨・文部科学大臣新人賞。
2010年「寝ても覚めても」で第32回野間文芸新人賞。
そして先月「春の庭」で第151回芥川賞を受賞なさいました。
私は7年ほど前に読んだ「その街の今は」がとても好きです。今回お目にかかるので読みかえしてみました。大阪を舞台に作中の人々のさり気ない暮らし、人の気配・・・。けっして大げさではなく「時の流れ」のようなものを感じ、あやうさの向こう側にあるものを描いているのが「その街の今は」でした。
今回の「春の庭」は、取り壊しが決まった世田谷のアパートが舞台です。元美容師の主人公「太郎」は、ある時、同じアパートの住人が塀を乗り越え、隣りの家の敷地に侵入しようとしているのを目撃し、そこから物語が展開されていきます。カギになるのは、写真集「春の庭」の存在です。
柴崎さんは高校生のころから小説家になることを志し、大学でも書き続け、就職して3年目に本格的に小説の道に進み、「どこでもよかったのですが、環境を変えたくて知り合いのいる東京にと生活の場を移しました」と。小説の中と同じで4回の引越しも全て世田谷区内。この小説で柴崎さんが描こうとしていらっしゃるのは「時の流れ」そのものではないかと感じました。でも、時間は目に見えません。見えないものを書くのは・・・作品の構想を練るうえで、街を歩くことも多いとか。そこでも人の暮ら、人の気配の感じる場所がお好きとか。街の息づかい、色、匂い・・・『小説が現実世界にはみだしてくる。そんな感覚を味わってもらいたい』とおっしゃいます。
でも、可愛らしく(失礼!)そそっかしい一面も。芥川賞選考当日は浅草のバーで編集者の方と待機。受賞の電話があった時、焦ってスマートフォンの操作を間違えて電話を切ってしまったとか。ひとり旅も不安でできません、と。ただ古地図など見ながら100年前にこの道を誰がどんな思いで歩いていたのかしら・・・と想像するとワクワクします、と。いろいろなお話を伺いました。ほんとうに”チャーミングな方”でした。ぜひご本を読んでください。そして、ラジオをお聴きください。
文化放送「浜 美枝のいつかあなたと」日曜10時半~11時
放送日は8月24日と31日の2回です。


銀座の学校・新宿の授業

「笑っていいとも!」「今夜は最高!」など、テレビ番組の構成作家としても活躍し、ステージ・ショーや芝居の演出、インタビュー、本や雑誌の編集といった多彩な仕事を手掛けていらっしゃる高平哲郎さん。ラジオのゲストにお迎えいたしました。
久しぶり・・・そう30年振りぐらいでしょうか、お目にかかりました。
恥ずかしい・・・ほんとうに恥ずかしいのですが「笑っていいとも」そして「今夜は最高!」ではこの音痴の私が番組の中で歌わされて?しまったのです。
口説き役は高平さん(笑)思い出しても赤面です。
さて、この度高平さんが素敵な本を出版されました。高平さんが愛した銀座や新宿、映画、そして赤塚不二夫さん、タモリさんとの出会いなど、本の中にはまだ銀座に都電が走っている頃の写真も掲載されています。明治生まれのご両親、昭和8年生まれのお姉さま。映画、落語、歌舞伎、まだ5歳の頃から連れられてご覧になられたとの事。お医者さまだったお父上は大の映画ファン。高平さんとは世代が同じくらいなので、同じようなラジオを聴き、「とんち教室」「二十の扉」など、かつての日劇や宝塚劇場・・・そして、天才的な喜劇役者の三木のり平さん、八波むと志さんのお話など、私も東宝時代にご一緒させて頂いておりますので懐かしかったですし、新宿時代の赤塚不二夫さんとタモリさんとのエピソードなどは抱腹絶倒。
映画、そしてテレビ時代。
私たち東宝撮影所の人たちは、どちらかといえば渋谷・銀座(私はほとんど渋谷)で育ちました。高平さんの「銀座の学校・新宿の授業」を読みながら、戦後文化の変遷を読み解き、懐かしさと、当時のペーソスを感じながら30年ぶりの再会いでした。
ご本は『 銀座の学校・新宿の授業 』(YOSIMOTO・BOOKS)
ラジオは文化放送「浜美枝のいつかあなたと」日曜10時半~11時
放送日 9月7日と14日 2週続けてです。


美食仲間のための美しいテーブル

箱根やまぼうしにて京都のギャルリー田澤とのコラボ展が9月6日から14日まで開催されます。
今は亡き田澤長生さんの審美眼にどれ程私は学んだことでしょうか。
お店に足を運びお話をうかがうだけでなく、展覧会をご一緒したり、ご夫妻とお食事をともにしたりしてまいりました。
これだけの審美眼を育ててきた人は、いったいどんなことに興味を持たれ、どんな風にものをごらんになっていらっしゃるのかしら。そうした好奇心ももちろんあります。
でも、なんといってもお二人は話し上手で仲睦まじく、温かなお人柄でほんとうに素敵なのです。”一期一会”という言葉を実践するかのように、その一瞬の出会い、一瞬の時間に、すべてを凝縮して人をもてなしてくださいます。その組み合わせの素晴らしいこと。器、ガラス、花器、花、布、料理、ワインまですべてが、田澤ワールドです。
「もっとも大切なことは、普段、日常のなかで、季節感ととりあわせを考慮して、好きなもの、とっておきのものを使うことだと思います。その上で、お客さまに喜んでいただけるなにかを考えるんです。それが楽しいですわ」と。
ギャルリーの奥のガラス戸から光が差し込み、アンティークのラリックやバカラが思い思いにささやきはじめる黄昏。一幅の絵画、あるいは音楽のような素敵なセッティングを前に、私は何度ため息をもらしたことでしょう。シャンパンをご一緒しながら、そのたびに至福の時間をすごさせていただきました。


田澤さんの美意識は、優しくあたたかく、大胆で同時に繊細で、常に心にしみわたるようなもてなしの粋を感じさせえくれます。
私のテーブルセッティングは、田澤ご夫妻と出会ってから、すこし変化したように思います。それまでは、整った美しさや、しっとりした組みあわせを心がけていたのですが、”遊び” ”発見” ”感動” のようなものが感じられる組みあわせにしたいと思うようになりました。お客さまにそれを楽しんでいただけたら嬉しいなと思います。
今回の展覧会では「美食仲間のための美しいテーブル」がテーマです。
和魂洋彩を唱える美の名プロデューサー田澤さん。
秋草の花が咲き乱れる会場にぜひお越しくださいませ。
お待ち申し上げております。
展覧会の詳細は公式HPをご覧下さい。
http://www.mies-living.jp/events/2014/gallerytazawa.html

-高野山

念願がかない高野山に行ってまいりました。
宗教を深く勉強しているわけでもなく、なぜ高野山なの・・・と自分に問うても分かりません。『お大師さまを慕って』の旅でした。
14、5年前になるでしょうか。一冊の本に出会いました。「空海・日本人こころの言葉」(村上保壽著)です。現代語訳つきでしたので読みやすく心に響く言葉がちりばめられていました。
『人は必ず何かのご縁にめぐりあう』
『現状が変わる時節は必ずくる』
『そもそも冬枯れの樹木は、いつまでも枯れているのではありません。春になれば、芽ばえて花が咲きます。厚い氷でも、いつまでも凍っていることはありません。夏になれば解けて流れだします』(現代語訳)
『生あるものすべてが親である』・・・など。
「この世にいるのも今や残り少なくなった。そなたたちよ、よく暮らして慎んで仏法を守るがよい。わたしは永く山にかえるであろう」と弟子たちに言い残し、御年62歳で高野山奥之院に入定されます。


大阪・難波から特急に乗り1時間20分、終点の極楽橋に着きます。そしてケーブルカーに乗り換え高野山駅までわずか5分。特急は深山幽谷の深い山間を抜け、ケーブルカーは800m、勾配は急なところで30度。車窓から永年の風雪にたえたヒノキの巨木林・高山植物などを見ながらのぼります。冬はその険しい道を修行僧は歩いて登るとか。日本語の案内の後フランス語での案内。ケーブルでもフランス人が家族でいらしていました。大自然にかこまれた高野山駅。夏の涼風が身体の疲れを包み込んでくれます。弘法大師をここで身近に感じます。きっと今も昔も変わらないのでしょうね、駅って。駅からはバスでそれぞれの宿坊に向かいます。周囲1000メートル級の峰々にかこまれた曼荼羅浄土。


宿坊に着くと若いお坊さんが「お風呂にはいられますか、それとも夕食を先になさいますか」と丁寧にたずねられましたが「すみません大門まで行ってきます」と、早々に歩いて行きました。夕陽に映える壮麗な大門を見たく、坂を駆け上りました。
「わぁ~間に合った!」数秒ごとに違った色を映し出す大門。千年の昔からこの絶妙な夕陽を目にした人々。高野山の街並みの西端に国の重要文化財大門。両脇に配置された仁王さまは江戸の名工・仏師による大作、三百年近くの永きにわたり参拝者を温かくお迎えしてくれているのですね、睨みをきかして。ここが『聖地への入口』ということを感じさせてくれます。


人口約4000人、そのうちお坊さまが1000人。
暮六つを告げる六時の鐘の音を聞きながらの夕食は高野山名物の精進料理。翌朝は宿坊での勤行、そして朝ごはん。東西6キロ、南北3キロの盆地に117の寺院、役場や銀行に学校、そしてコンビニもあります。「一山境内地」、総本山の境内に全てが存在します。


まず向かった先は「壇上伽藍」。ここはお大師さまが高野山を開いたときに最初に整備した神聖な場所だと聞きました。そして「金堂」裏堂の曼荼羅は平清盛が自らの額を割った血で中尊を描かせた「血曼荼羅」。まだ参拝客も少なく森厳な空気がひろがります。そして「根本大塔」。巨大な朱色の外観だけでなく燦然と輝く大日如来、まわりを取り囲む四仏、柱の十六菩提。壇上伽藍を抜け、通りにでると左手に金剛峯寺など見どころがたくさんあります。天皇・上皇の応接間である書院上段の間、四季の花や鳥、弘法大師入唐の模様が描かれています。豊臣秀次が自決した柳の間、そして2千人分の食事をまかなう台所。奥へ進むと「ひと休みなさいませ」とお茶とお菓子をいただきながら庭をながめ、次は高野山1200年の至宝が見られる「霊宝館」へ。世界遺産高野山に現存する貴重な仏像・仏画をはじめとした文化遺産が収蔵され、一般公開されています。


商店街の酒屋へ寄り道し「地酒は何がありますか?」と聞き、本場のごま豆腐や高野豆腐などなど帰りに買うお土産の下調べ。


さぁ~いよいよお大師さまのおわします奥之院へと向かいます。


奥之院に通じる表参道は静寂そのものです。見上げればあたりを埋め尽くすような杉。あたりはひんやりとした空気に包まれ静寂のひとこと。一歩一歩歩いていくと両側には苔むした石塔が延々と続きます。石塔には皇族や公家、大名などに加え企業の名まであります。始まりの一の橋はたった数メートルの橋ですが、ここから聖地がはじまる・・・と思わず帽子を取り一礼し、歩くことおよそ40分。いよいよ御廟に到着です。合掌、礼拝し、橋を渡り灯篭堂を抜け、お大師まの御廟の前へ。私はここに辿りつくまで何年の月日が経ったのでしょうか。
観光客や外国の人もいらっしゃるし、遍路姿の人、そしてお年寄りや若者も。
私は今回なぜ高野山に行ったのでしょうか。
空海という方はどんな方だったのでしょうか。
宗教を超えプロデューサー的な役割を果たした方・・そう思えました。
「空海・日本人のこころの言葉」の最後にこう記されています。
空海の祈り 高野山万灯会と入定
八三二年(天長九)八月二十二日、空海は、思いをこめて「高野山万灯会の願文(がんもん)」を書き、弟子たちを率いて万灯万華会を修法します。
『虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん』
(生きとし生けるすべてのものが悟りを得て幸せになれば私の願いも尽きるであろう)
人は自らの心に迷う、と空海は述べていますが、迷いの原因が自らの心の中にあることを知れば、人生ってけっこう面白く、興味深く、また優しく生きることができるかも知れません。
行きと同じようにケーブルカーに乗り、特急に乗り、大阪から箱根の山に戻りました。同じ杉の木立をバスの車窓から眺めていたら、”お大師さまを慕って”の旅が身近な旅に感じられ”理屈”はどうでもよく、心の中を心地よい風が吹いていました。