秋の一日

秋の日はつるべ落としといわれますが、この季節、本当に、ストンと夕闇が訪れます。小田原ではまだ空の夕焼けの赤が残っていても、バスが我が家の近くの停留場に着くころには、とっぷりと日が暮れています。
けれど闇が濃ければ濃いほど、月はいっそう冴え冴えと光はじめます。満月のときなど、光の粒が空から四方に放出されているかのように。
停留場から我が家までは細い道を数分歩くのですが、月がそっと背中を押してくれる、そんな気さえするほど、その光は優しさに満ちています。
我が家の石段をあがると、空がさっと開けて・・・・・家に入ってしまうのが惜しいような気がしてならず、夜風に髪を揺らしながら、全身で月の光を浴びながら庭にしばし佇んでしまうこともたびたびです。
月に照らされて浮きぼりになる富士山や箱根の山々の稜線。
まるで濃淡の水墨画のようなみごとさです。
自然が見せる幻想的な風景に思わず言葉を忘れてしまいます。
『中秋の名月』
どうでしょうか・・・雲などに隠れてしまうと「無月・むげつ」
雨が降ってしまうと「雨月・うげつ」
ほんのり明るい風情もまたいいものです。
ススキを飾り、おだんごをつくりましょう。
生卵を割り入れて、汁と薬味で「月見うどん」をたべましょう。
子どものころのように。

本屋さん

この頃、山を下り小田原から新幹線に乗るとき少し早めに駅に着き、本屋さんをのぞく時間がとても幸せな気分にしてくれます。
棚を見ながら、今興味のありそうな本を探す。至福の時です。
先日、そんな私の隣で小学3,4年生の男の子が何やら熱心に厚い本を真剣に読んでいました。
「へ~え、子どもが大人のどんな本に興味があるのかしら」と、とても気になりました。「・・・ちゃん帰るわよ」とおかあさんの声がしてもまだ読み続けていました。ようやく諦め本を閉じ帰っていきました。その本を見て見ると「海賊と呼ばれた男」百田尚樹著。「何処で彼はこの本を見つけたのだろう」と思いながら自分自身の子どものころのことを思い出していました。
我が家は空襲で焼け出され、無一文になったので子どものころに本を買ってもらえるような環境にはありませんでした。憧れの中原淳一さんの「それいゆ」「ひまわり」やピーターパン、赤毛のアンなど欲しい本がいっぱいありました。でも、買えずに本屋さんに行ってはそっと眺めていた記憶。
文化放送「浜 美枝のいつかあなたと」(日曜10時半~11時放送)に素敵なお客さまをお迎えしました。
ノンフィクション作家の稲泉連さんです。
稲泉さんは、1979年、東京のお生まれ。
早稲田大学文学部を卒業後、ノンフィクション作家の道に歩まれ、2005年「ぼくもいくさに征くのだけれど―竹内浩三の詩と死」で、大宅賞を受賞。その他にも数々の作品を書かれています。
この度、東日本大震災で被災した本屋さんの歩みを取材した「復興の書店」を上梓されました。
「とにかく現場をみなければ」との思いで、稲泉さんは向かいます。
岩手、宮城、福島のうち、被災した書店は391店もあり、3つの県の書店総数のおよそ90%を占めるそうです。廃業に追い込まれた本屋さんも多い中、震災直後に店を開いた書店では、どこも「この状況で本なんて売れるわけがない」と思ったそうです。ところが本を求める人は想像以上に多く、本は『生活必需品』 だったのです。
あのときはまだ仙台市内でも食べるものがなく、多くの人たちが街中をひたすら歩いて、スーパーの列に並んでいたそうです。そんなときでも、リュックサックを背負った人たちがぎっしりと本屋さんに並んでいたそうです。食料や水を求めるのと同じように。
4月から始まる小中学校の生徒達のために「何があっても教科書だけは・・・・」という書店もたくさんあったと伺いました。
緊急発売されたグラフ誌、写真週刊誌、お礼状の書き方の本、中古車情報誌、住宅情報誌、そして、「ジャンプ」や「マガジン」などの漫画週刊誌は全く数が足りない状況だったそうです。
「紙の本や雑誌の大切さを、あらためて知った気がしたんです」という本の中に書かれている言葉には、街の再生を願う人々の心を表しています。中でもとても印象深いお話として、書店で働く人の「本がある日常、普通の時間が欲しかったんじゃないかな、って思うんです」という話し。
「テレビや新聞では、ずっと津波の映像や不安になる情報が流れていました。もちろんそれは必要な情報だけれど、そうではないものも欲しかったんですよね、きっと。あのとき、世の中は自粛、自粛といわれていて、大変な現状に堪えたり抗ったりするために何かをしたり楽しんだりしてはいけない雰囲気でした。でも、大変な現状に堪えたり抗ったりするためには、やっぱり力が必要なんです。その力を養うために本が必要とされたんじゃないか、と感じるんです」・・・と。
考えさせられました。
「東北人」の人と人の支え合い、繋がりなど、被災者の方々の思いをそのようにマスメディアを通して知りましたが、「復興の書店」にも書かれていますが、「自分のため」という思いを押し隠さざるを得ない被災生活だからこそ、多くの人たちがひとりの世界へ入って、心の充電をするためのツールとして、本を求めたのでしょうね。
稲泉 連さんのお話は、本に対する愛情の数々が感じられ 『復興の書店』(小学館)を上梓されたことに感動を覚えた時間でもありました。
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(放送は9月30日(日)10時半~11時)

私の休日

昔、女優だった頃、夜のふけるのも忘れて映画論をたたかわせた青春。
芸術論を交わした仲間達も、皆んな60代、70代。
若かった私に映画の面白さを熱い言葉で語ってくれました。
10代の終わり東宝のスタッフとジャン=リュック・ゴダール監督を我が家にお迎えし、フランス映画の真髄を聞かせていただいたこと・・・走馬灯のように思い出されます。
『映画が好き』・・・な私。
40歳で演ずることを卒業しても映画を観るのは人生の最大の喜びです。
先日、東京に映画を観に行きました。
そんな日は映画鑑賞のかけもち。
2本、いえ時には3本という日もあります。
朝一番で観た映画『最強のふたり
2011年11月、フランスで公開された映画がいきなり年間興収第1位に躍りでたそうです。分かります。誰もが愛さずにはいられない映画。実話に基づいた物語です。
スラム街出身で無職の黒人青年ドリスとパリの邸宅に住む大富豪の身体障害者・フィリップ。フリップを演じるフランソワ・クリュゼはパリ出身の1955年生まれ。
事故で首から下がまひした傲慢な大富豪と、これまた働く気などさらさらなく失業手当てを受けるのが狙いだった黒人青年ドリス。
ドリス演じるオマール・シーは1978年生まれでフランスはイヴリーヌの出身。コメディアンとして活躍する彼の演技がそれはそれは魅力的です。
相容れない二人がお互いを認め合い本音で生きる姿は感動的です。
ユーモアに富んだ最強のふたり。
最強のふたりに訪れる突然の別れ・・・ですが、
後はあまりお話いたしませんね。
泣いて、笑って、そして、観客に生きることの素晴らしさ、パワーを与えてくれます。対等な人間として、強い絆で結ばれている『最強のふたり』。観終わったら何だか嬉しくなり映画館の近くの喫茶店に入り、余韻をかみしめました。
昼食をはさんで、歩いてもう一本の映画を観るために劇場へ。
あなたへ
高倉健さん205本目の映画。
半世紀にわたり観客を魅了し続けた俳優さんです。
私も一本だけご一緒させていただいたことがあります。
今でも初日の日のことが忘れられません。
東京駅八重洲口の近くにあった小さな旅館で支度をしていたら、廊下に座り「失礼致します」と仰る高倉健さん。ご挨拶くださったのです。
当時は五社協定があり私は東宝から東映の映画に出演させていただいたのです。そんな私にお気使いくださり恐縮致しました。その佇まいに謙虚で静謐な人間味あふれる俳優さん、そんな印象を受けました。
「あなたへ」は長年ご一緒に映画を撮ってきた降幡康男監督。
81歳の高倉健さん。
77歳の降幡監督。
長い間、友情と信頼と情熱で結ばれてきたお二人。
妻を亡くしその遺言に沿って、妻の故郷長崎へと車を走らせます。
道中でさまざまな人との出会い。
映像の美しさ、日本の景色の美しさを通して心のひだが描かれます。
家族や社会でのしがらみ・・・人は様々なことを背負って生きています。
放送作家の水野十六さんはおっしゃいます。
『独立一作目の「八甲田山」以降「あなたへ」に至るまでの35年間、真っ直ぐに貫かれてきたのは「人を想う心」。多くのものを捨ててきた高倉さんが選んだのは、この「心」だったのだ。』
年を重ね、孤独を知り、生きる辛さを知り、そして「人を想う心」の温もりを与えてくれた映画でした。

黒姫・アファンの森を訪ねて

長野県・黒姫にあるC.W.ニコルさんの森に行ってきました。

コスモスの咲き乱れる畑の中を車はアファンの森へと向かいます。
今回はアファンの森の活動を支援してくださる「箱根やまぼうし」のお客さまたちとご一緒でした。
長野県飯綱山の山麓に広がるアファンの森。
40年以上放置されていた森をニコルさんが少しずつ買い取り、動植物が再び暮らせる森に再生活動を行ってきました。
山一面に生い茂ったやぶを刈り、朽ちた木を間伐するという気の遠くなるような作業を繰り返しました。太陽の光が地面にさしこむようにして、その土地になじむ新しい苗木を植え続けてきました。
そして今、アファンの森には、清らかな湧き水が流れ、わさびなど170種類もの山菜が自生し、93種類以上の鳥、490種類の植物、1000種以上の昆虫が帰ってきたといいます。フクロウやクマも遊びにきます。春ともなれば楚々とした花が咲き乱れます。

“ニコルさん、こんにちは”
彼があの笑顔でお迎えくださいました。
皆さん森の空気を胸いっぱい深呼吸していました。
私がニコルさんにはじめてお会いしたのは、四半世紀も前のこと。
自らの手で森づくりをはじめたまさにその頃でした。
「豊かな森は生きる力を与えてくれる。森は心の再生」というニコルさんの考えに、深く共感し、雑誌の取材で家にお邪魔したのがはじまりです。
日本の森林行政に疑問をもつ私です。
遠目には美しい緑の森に見えても、その森に入ると、植林した杉が倒れて
いたり、伐採されたまま放置されていたり、人の手が入らず荒れ果てていたり・・・本当に美しい森は少ないということに気がつきます。
100年後の森林を考えての森のありかたでなければいけません。
「森を失ったら文化は滅びます。森の再生、復元にはたくさんの時間、手間、そして愛情が必要だけど、誰かがやらなくてはならないんだ。」
私財を投げすて、森づくりをしているニコルさん。

『アファンの森』とはケルト語で「風が通るところ」という意味だそうです。
その森「アファン”心の森”プロジェクト」に毎年養護施設で暮らす小学生、盲学校に通う子供たちも招かれています。子供たちは木登りやブランコ、生き物探しなど「森遊び」で心を解放する時間を共有します。
森が心を育んでくれます。
「2011年3月11日の犠牲を無駄にしないために」と震災復興プロジェクトを立ち上げ、昨年の夏以降、被災されたご家族をアファンの森に招かれ、蘇えった森の中で、疲れた心と体を解放し思いっ切り笑う子供たちの声が森に広がります。
そして『復興の森づくりと森の学校プロジェクト』~東松島市との取り組みがスタート。
「美枝さん、僕は自然を活かした高台の森の中に、里山の集落のように木造の教室が点在するような学校で子供たちを学ばせてあげたいのです」と仰り翌日は東松島に向かいました。
CW・ニコルさん来日50周年記念の本が出版されました。
知人でカメラマンの南健二さんとの共著。
私も序文を書かせていただいております。ニコルさんの50年の歩みと南さんならではの写真と文章に加え、放浪の俳人、種田山頭火の俳句を添えて。
けふはここ、あすはどこ、あさっては』(清水弘文堂書房)
インターネットなどでも購入できます。
初秋の黒姫・アファンの森で木肌に手を触れると、まるでその樹に抱きしめてもらっているような、満ち足りた気持ちになりました。