美の里づくりコンクール~岐阜県下呂市

私は、「美の里づくりコンクール」~景観を育み、生かす農村アメニティー~の審査委員として全国各地にお訪ねしております。
物質生活水準がある程度達成された今日、私たちの価値観は経済優先から生活充実優先へ、成長思考から安定志向へ、さらに物の豊かさから心の充実へと大きくシフトしてきました。量的な満足感から、より良い質を求める暮らしへと変化してきたのではないでしょうか。
現在、さまざまな景気の揺れによって多少の傾きはあるものの、暮らしの質への追求はさらに先鋭化していくでしょう。
やすらぎや快適な空間享受の経験は、私たちが手放したくないアメニティーの一つです。緑の環境下で暮らすこと、ゆとりや心地よさは誰もが願う事です。都市生活者の土離れが顕著であるのに対して、農村のアメニティー=居住快適性はより大きな暮らしの価値観になっています。
このコンクールは、農村の快適居住性を評価するものであり、当然その評価の中に住民の自主的努力が環境の保全ならびに新たな形成の動きも示していて、この表彰事業が継続されています。この20年あまりの調査において、その概念の理解とそれへ向けての努力の足跡は目をみはるものがあります。
ひるがえって見れば、都市部においてそのような、暮らしの改善や工夫、よりクリエイティブなアメニティーへの取り組みがどの位あったでしょうか。
幾多の山並みと清流の織り成す自然環境に恵まれ、先人から受け継がれてきた歴史的に価値ある文化遺産が多く残されている、そんな集落の数々をお訪ねしてきました。
岐阜県下呂市・・・馬瀬(ませ)地域。
人口1、545人、地域の95%が森林で占められています。平成8年には「馬瀬川エコリバーシステムによる清流文化創造の村づくり構想」を策定し、「山村景観」や「自然環境」の保全を展開してきたところです。
馬瀬は下呂温泉郷から、15キロ山間に入ったところ。
平成19年9月には、全国の清流の鮎の質を競う品評会「全国利き鮎会スペシャル」が東京において開催され、馬瀬川上流の鮎がグランドチャンピオン(日本一)に輝きました。観光客は釣りの4万人から30万人に急増したそうです。都会からの子どもも含め地元の子供達の夏の川遊びが脅かされつつあるといっていいかもしれません。
「日本で最も美しい村」連合に加わる馬瀬地域・西村地区では住民らが「ホタル同好会」を結成し、蛍の餌になるカワニナ保護活動も始めたそうです。
【馬瀬地方自然公園・住民憲法】も策定され、住民が一丸となって美しい環境保全に取り組んでいる姿に私は胸が熱くなる思いがいたしました。
“森が魚を育て、川が郷(むら)を興す。
旅人は静かに・・静かに・・訪ねてください。

NHKラジオ深夜便「大人の旅ガイド~東京都庭園美術館」

「1930年代・東京」アール・デコの館(朝香宮邸)が生まれた時代
  2008年10月25日(土)~2009年1月12日(月・祝)
今夜ご紹介するのは、東京・白金台の「東京都庭園美術館」です。
私は、映画も落語も、ショッピングも美術館も、もっぱら「お一人さま」。たまに気の合う友人とご一緒しますが、ひとりなら自分のペースで気ままに行動できます。
遠出の旅も素敵ですが、私がおすすめしたいのが近場の美術館。介護で疲れているとか、なんとなく鬱々している時など、ぜひ、美術館に一人で行くことをおすすめいたします。美術館は一人でいても誰も不審に思いません。しかも、そこに作品が飾られていれば、心を和ませてくれる力があるはずです。人の少ない平日の午前中がお進めです。
私は以前、NHKの「日曜美術館」のキャスターをつとめたこともあり、お気に入りの美術館をいくつも心のリストに持っています。東京都庭園美術館もそのひとつ。
この美術館はもと、朝香宮邸として昭和8年に建てられたものです。戦後の一時期には、外務大臣公邸、迎賓館としても使われていました。それから半世紀たった昭和58年に美術館に生まれ変わったのだそうです。ラリックのガラスのレリーフや壁面を覆うアンリ・ラパンの油彩画、壁や天井、階段の手すりなどのモチーフのおもしろさ、照明器具の見事さ、窓の美しい曲線など東京の真ん中にいるのを忘れてしまいます。
そもそも、国立科学博物館付属自然教育園の中に建つ美術館ですから、いかに緑に包まれているかがお分かりでしょう。大きな木がたくさん茂っている庭です。木々の間を抜けてくる風に吹かれながら、本当に贅沢な時間が味わえます。
今回は「1930年代・東京~アール・デコの館(朝香宮邸)が生まれた時代」が開催されていました。私が訪れた日は、空が綺麗に晴れ渡り、気温も湿度もバランスの良いお天気でした。
旅から旅へと動き続けた日々、ちょっとひと休み。晴れ渡った空に誘われて、私は思い立って、白金台の庭園美術館まで出かけてまいりました。陽はまぶしいほどなのに、カラリとした空気はひんやりとして、かといって決して寒くなく、こんなバランスのいいお天気はそうそうありません。暖かすぎる秋が長かったせいか、本当に秋らしいおしゃれが楽しめなかった・・・と思いませんか。「早く晩秋のおしゃれがしたいわ」と、東京の友だちは嘆いていたくらいですもの。
早速、私はちょっとおしゃれをして、そこに行きたいと考えました。なぜかと言いますと、ドレスコード割引「紳士淑女の帽子スタイル」・・・帽子をかぶってご来館されたお客さまは、団体料金でご入場いただけます。と、あったからです。なんとも肌ざわりのいいフカッとしたセーターに、ロングスカートは細身の黒、裾にちょっとスリットが入っています。この場合、靴はどうしましょう。ハイヒールでは疲れるので私はスニーカーを選びました。ちょっと粋なスニーカー。私のお気に入りです。そして帽子をかぶって。目黒駅から歩いて7、8分。イチョウの葉で黄色一色の絨毯です。
東京都庭園美術館は今年、開館25周年を迎えるのだそうです。先の20周年では「アール・デコ様式・朝香宮が見たパリ」展が開催され、やはり、その時にもまいりました。オートクチュルの最盛期から現代までの変化をたどった服飾展「パリ・モード1870~1960年・華麗なる夜会の時代」を見ました。パリ・モードは、いつの時代も女性たちの夢を紡いでくれました。私達が見たこともない時代であってもドキドキするほど美しいのです。
女性がただひたすら美しく優雅であることを求められた時代、ウエストの細さは女性が自我を押し込めた狭い空間そのものだったのかもしれません。20世紀初頭には、ガラっと変わるのです。女性の近代化は服の変化とともに、急激に軽やかになっていきます。シャネルは、服で女性解放を果たしたといわれます。私が始めてシャネルの服を買ったのは、イギリスで007を撮っていた時。週末に出る給料をおし抱いて、白黒の千鳥格子のスーツを買った思い出があります。

さて、今回開催されている「1930年代・東京」。私は1943年生まれです。1923年の関東大震災により、東京は壊滅的な被害を受け、1930年には特別都市計画法が作られ、なんとか帝都復興が関されたそうです。
「大東京の出発・1930」で、評論家・作家の海野弘さんは、「1930年に東京は『大東京』になった。東京市は15区で、渋谷、目黒、品川などはまだ区外であった」と書かれています。30年代はまだまだ世界的に暗い時代を想像してしまいますが、今回の展覧会を見て驚きの連続でした。なんとモダンな大東京なのでしょうか・・・。
東京駅を中心に丸の内界隈、銀座など、生まれ変わった(復興した)東京の姿を絵画、写真、彫刻、工芸、書籍、ポスター、絵葉書などから読み取ることができます。近代的な建物が立ち並び、モダンな意匠がそこここに見られます。空の玄関口、羽田国際飛行場が開港されたのもこの時代。カフェ、ダンスホール、劇場、デパートなど、私が10代の頃に憧れていた世界が、今に続くのです。1930年代は、日本が戦争へと傾いていった時代でもありました。
そんな目で改めて都会の風景や、空、人々の暮らしを見つめると、日本のモダニズムから、和洋の融合がみてとれ、胸がキュンとしてくるのは、1943年生まれのせいでしょうか。
余韻に浸りたくて、美術館の庭園の椅子に座り、しばしぼーっとしておりましたら、中年の女性2人はお弁当持参で、楽しい語らいをしておられました。庭には黄色や赤色のバラが咲き、晩秋の一日を楽しみました。
12月6日に記念講演が開催されます。
「アール・デコの東京~震災復興の時代と建築」
松葉一清氏(武蔵野美術大学教授)
午後2時~3時30分 定員250名(先着順・無料)
住所 東京都港区白金台 5-21-9
最寄駅 目黒 白金台
TEL 03-3443-0201
FAX 03-3443-3228
休館日 毎月第2・第4水曜日(祝祭日の場合は開館し翌日休館)、年末年始

紅葉が深まる箱根にて

12軒の古民家を譲り受け、1本の木も無駄にしないようにと、作り上げた箱根の家。
この家に住み始めてから、30年以上の年月が流れました。4人の子どもたちも、それぞれ自分が生きる道を求め、社会に巣立っていきました。
今、箱根の家は、大人だけの静かな空間になり、また新たな表情を見せてくれています。
2年前からは、長年親しくさせていただいている京都「ギャルリー田澤」主催の展覧会も大広間で開催するようになりました。それらの会を重ねるたびに、「他にはない、この家をもっと活用して欲しい」「人々が集えるサロンを開いて欲しい」という声が、驚くほど多く寄せられました。
皆さまの声に背中を押され、振り返ってみますと、確かに、箱根の家は、家族が暮らすためというだけではなく、当時、壊され消えていくだけだった古民家がしのびなく、その美しさを何とかとどめ、次世代につないでいくことができないかという思いで建てた家であったことに、改めて気がつきました。
同時に、この箱根の家をこれからもっと活用することが、私に与えられたもうひとつの役目のような気がしてきました。
来年の春に向け、少しずつ始動していきたいと考えています。
明日に向かう力を呼び込むような、あるいは日常に彩が戻ってくるような、素敵な企画が生まれましたら、ご案内させていただきます。
写真はとある旅企画でお越し頂いた皆さまと。多くの方とより上質で、有意義なひと時を過ごせれば、と思っております。

若狭路

若狭路を旅してまいりました。

福井県大飯町三森に、私の家があります。
この家も取り壊される寸前に出くわし、譲っていただいたものです。
この家は別の場所にあったのですが、最初に借りた土地が、私の理想の立地だったんです。背後に竹林、前に田んぼと佐分利川。だから、家の方をこちらの土地によいしょ、よいしょと運んでもらいました。そうしたら、私が夢に描いた”日本の農家”が出現したというわけなんです。
浜さんはなぜ、農業や農家に感心があるのですか、という質問をたくさん頂きます。
最初は国土庁(現在は農林水産省)「農村アメニティー・コンテスト」、現在は「美の里づくりコンテスト」の審査委員を20年近くしております。
このコンテストは農村という限られた範囲だけを対象とするものではなく、この国の未来をも問う意味合いがあるんです。農業は食と、食は生命と結ばれています。農業のありようが、そこに住む人間に快適環境を与えているかを、問う審査なんです。
快適であるための基盤整備などハード面だけでなく、そこに生きる人々の生きるエネルギーのありようも含めて、つまりはその姿をアメニティーといいます。そのような政府の仕事にかかわる中で、私自身が大いに触発され、勉強しながら、自分なりにできることから始めてみようとしました。
若狭・三森の家、ここで、まず、米を作ろう、そう決心しました。
「10年はやってみよう」
凝り性の私ですから、米作りは地元のベテラン専業農家の松井栄治さんのおかげで、素人の私も田植えから収穫までの農業を知ることができました。土と水と苗、それを支配する天候。見守る人間。こういう営みの繰り返しで人類は生き延びてきたことを思うと、やはり田植えは神聖な行事だなぁと思います。
(現在は松井さんご夫妻におまかせ・・。ブランド名は「浜美枝のひとめぼれ」)
なぜ、若狭だったのか・・・。
初めはもちろん旅人としてここを訪れました。
2、3度目だったか、小浜の冬の市場に行ったことがありました。日本海の魚のおいしさに感動し、その時いただいたお酒が「濱小町」という銘柄だったんです。(残念ながら現在は造られていません)
あ、これは私のお酒、自分の酒、つまり自酒。
そのお酒とあらゆる魚の美味にうたれて、すっかり若狭フアンになったのが、最初だったと思います。若狭の新鮮な魚はもちろん美味しいのですが、この地の魚加工の歴史と技術は日本一だと思います。

若狭は京都の台所でもあります。一塩に加工されたカレイやカマスなど絶品です。鯖街道もありました。今回も市場で魚や若狭カレイの干物などを我が家に送り、私は市場の食堂で早朝、焼きさば定食(900円)を食べました。
旅から始まり、食に感動し、そして家にたどりつき、田んぼまで。
私の旅はこうして農業にたどりついたのです。
ちょうど、そのころ農村のお母さんたちとヨーロッパの農村を訪ねる旅にでていました。そこで視察したのは、農村女性たちによる”グリーンツーリズム”でした。
都会に住む人に農村でゆっくり休暇をとってもらい、農家は現金収入を得る。EU諸国は各国とも、”グリーンツーリズム”を提唱しています。20年ほど前のことです。
私も農家のミセスたちともそんなことを話しておりました。
ようやく、世の中はファーマーズ・マーケット、農家レストラン、農家民宿へと感心がよせられる時代になり良かった!・・と思います。
片道七時間はかかる若狭までの道のりを、なんの苦もなくせっせと通っていた時代。
やっぱり若かった・・・のですね。
御食国(みけつくに)小浜は「とらふぐ王国」、昨日からズワイガニが解禁になり、浜焼きさば・鯖寿司・冬の若狭かき・・・と美味満載。

奈良東大寺二月堂のご本尊にお供えする”お水送り”国宝めぐりも素晴らしいです。
今回の旅で私は、真言宗御室派・「明通寺」にお参りしてまいりました。静寂な中、ひとり静かに本堂でお坊さまのご説明を受けました。ゆずり木を切って、薬師如来、降三世明王、深沙大将の三体。国宝建造物の中はまさに旅の醍醐味を味わう空間でもありました。

帰りは小浜線に乗り家路つきました。