移住ブームに思うこと-琉球新報「南風」

沖縄移住下見ツアーが話題になっている。若い人だけでなく、リタイア後に沖縄移住を希望する人も多いという。青い海、南国の太陽、温かな人々に憧れて、沖縄を目指す人が増えてきたというのも、納得できるのだが、一抹の不安も感じる。
最近の沖縄のマンションの建築ラッシュなどを見ると、かつての日本列島大改造やバブルの時代をふと思い出したりするのだ。あの時代、古き美しい日本の田舎の風景が音をたてて壊され、失われていった。そして二度と元には戻らなかった。
沖縄の伝統的な家や風景までが、同じような道を辿らないで、と私は祈るような気持ちでいる。もちろんこのムーブメントが沖縄の地域経済の活性化にとってプラスであることもわかる。だからこそ、開発に当たっては知恵を絞り、バランスよく進めていってほしいと願わずにはいられない。
先日、友人から素敵な話を聞いた。体の不自由な父親と沖縄を旅したとき、首里城はとても車椅子をおして歩きとおせないと、観光をあきらめようとしたという。そのとき、「私が押してあげましょう。首里城をぜひ、見てほしいんです」とタクシーの運転手さんがいってくれたという。汗だくになりながら、車椅子を押し、首里城と琉球王朝の歴史を語る運転手さんの姿に、「民族として誇りと、人としての優しさを同時に感じた」と彼女はいった。父娘にとって、首里城とその運転手さんが、もっとも心に残った沖縄となったという。
移住する人の中には、“沖縄はリゾート”的感覚のみで来る人もいるだろう。でも、沖縄は、素晴らしい歴史と文化を持つ地であり、過酷な時代もあったことも知らずして、本当の沖縄生活はないと思う。移住を志す人には、まず首里城で歴史を辿り、さらに沖縄の田舎でゆっくりした時を過ごすことを勧めてみてはどうだろう。
琉球新報「南風」2006年9月19日掲載

花図鑑-薄(すすき)


薄は私にとって、子ども時代のある風景と結びついた特別な植物です。戦後間もないころ、日本全国、どこでもそうだったのですが、我が家も貧しくて花を買う経済的余裕などありませんでした。けれど、母は野原や道端で積んできた野の花を一輪か二輪と活けて、暮らしに彩をそえてくれました。
ある年の秋、「今日はお花見だから」と母と私とで丸い小さな団子をいくつも作り、父の徳利にさした薄と並べました。そして満月が空に昇り、爽やかな風が部屋を吹きぬけ……なんでもない父の白い徳利が月の光に照らしだされ、薄がそよとそよぎ、私は幼心にモノトーンの美しい絵を見ているような気がしました。薄をみるたびに、私は、美しい暮らしに目覚めたその日のことを思い出すのです。
箱根にある仙石原湿原植物群落は国の天然記念物に指定されています。その近くには「箱根湿性花園」があり、シーズンごとに多くの人で賑わうのですが、特に秋は見ごたえがあります。まるで薄の海ではないかと思うほど、一面の薄が穂をゆらすのです。その光景は自然の美しさだけでなく、力強さをも感じさせてくれるほどです。
薄はまた、秋の七草のひとつです。別名として尾花という名前も持っています。穂が尾の形に似ているからでしょう。
秋の七草は、萩 尾花、葛、なでしこ、女郎花、藤袴、桔梗の7つ。
「秋の野に咲きたる花を指折りかき数ふれば七草の花。萩の花、尾花、葛花、撫子の花、女郎花また藤袴、朝顔の花」 (山上憶良) 

という歌があります。「朝顔」はヒルガオ科のアサガオ(平安時代に渡来)ではなく、キキョウであろうとされています。

イネ科 Poaceae  ススキ属
花言葉は「勢力・活力」

小松政夫さんをお迎えして

「どうして! どうして! おせーて!」「もう、イヤ、こんな生活!」といったギャグや「しらけどり音頭」、淀川長治さんのものまねなどで人気のコメディアンであり、同時に最近では本格的な演技力が求められる芝居でなくてはならない個性ある俳優としても活躍なさっている小松政夫さん。
その小松さんが「のぼせもんやけん」(竹書房)という本を出版されました。
小松さんはお父様を早くになくされ、俳優をめざして上京したものの、生活のために働くことがまず必要だったため、魚河岸の若い衆を振り出しに、さまざまな職業を転歴、自動車のセールスマンとなりました。そして植木等さんの付き人兼運転手として芸能界に入られました。
この本には、小松さんが植木さんの付き人になられるまでのことがまとめられているのですが、そのおもしろいことったら、ありません。おもしろいばかりでなく、私はぺージをめくるごとに、懐かしさでいっぱいになりました。ああ、こういう人がいた。こういう町の風景があった……。昭和30年代の活力ある日本がどのページからも濃厚に香ってくるのです。
「ブル部長はモーレツな人でした。自分にも他人にも厳しく、仕事一筋に生きた人です。こういうとんでもないバイタリティとこだわりを持った人たちに、日本は支えられていたんだと思います。日本はぎらぎらと燃えていました。明日という明るい未来を信じて猪突猛進しておりました」(小松政夫著「のぼせもんやけん」より)
私も、中学を出てすぐにバス会社に就職。バスの車掌となりました。毎朝5時前に起きて、炭火を入れたコテをおこし、制服の白襟をピンとさせて、6時前には出社。バスの掃除をしました。私の担当するバス路線は、工場との往復で、朝早くから工場勤務の人がのってきました。終バスは遅くまで工場で働いていた人でいっぱいでした。汗と油でどろどろになった作業服を着て、座席に座るなり、窓ガラスに頭をつけて腕を組んで、こっくりこっくり、寝てしまうんです。でも、みんな、同じ時代に働く仲間というような気持ちがあったような気がします。そして、みんな、まっとうに働けて幸せだと思っていたようにも感じます。
私は、クレージーキャッツの映画にたくさん出演させていただいたので、当時植木さんの付き人であった小松さんとも顔なじみでした。いちがいに昔がいいなんていう気持ちはありませんが、シンプルで素朴で、誰もが希望を持ちうる時代が昭和30年代だったような気がします。今、昭和30年代がブームというのも、時代が持っていたあの活力とあたたかさに惹かれるからなのではないでしょうか。
ラジオの収録では、本を書いた思いなどを語っていただきました。お互い、同じ時代を生きてきたものですから、話が弾んで……。枠内におさめるために、泣く泣く切ってしまった話もたくさん。もっともっとみなさまにお聞かせしたかった……。
とにかく元気が出る本なので、ぜひ、本屋さんで見かけられたらお手にとってみてください。ラジオの収録後、「小松政夫とイッセー尾形びーめん生活2006in東京」を拝見しました。これは、現代に生きる人間たちの姿を描くオムニバススタイルの二人芝居。小松さんはその中で、初老になってキャバレーの呼び込みに雇われた男、どこか陰のあるバイオリニスト、妻に養ってもらっている自称小説家、そして、何十年間もロシア演劇だけを上演している劇団のベテラン女優を演じていました。思い描いていたような生活から、どこかで道を外れ、人生の旅路に迷っているような人たち。それは、現代人が心のどこかにその存在を感じている「自分の姿」でもあるかのように思えました。人生の味は苦い、しかし、捨てたもんじゃないというメッセージをいただいたように思います。

のぼせもんやけん―昭和三〇年代横浜 セールスマン時代のこと。
のぼせもんやけん―昭和三〇年代横浜 セールスマン時代のこと。 小松 政夫

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沖縄は、民芸の「美の王国」-琉球新報「南風」

先日、東京・駒場にある日本民藝館を訪ねた。民芸運動の創始者である柳宗悦氏がお住まいになっていた家・旧柳宗悦邸復元工事が終わり、一般公開が始まったのだ。民芸と家作りが大好きで、民芸を思いながら、長年かけて箱根の家を作ってきた私は、この家を拝見しながら至福の時間を味わった。
旧柳宗悦邸は、昭和初期の、和洋混在の木造建築である。例えば洋風の食堂に隣接する床の間つきの和室は人が腰掛けられるように高くなっていて、ふすまをはずせば食堂と一体化して、ワンルームのようになる。書斎は、出窓、漆喰の天井、フローリングなど英国風の部分と、和の障子を組み合わせてあった。
柳氏が家にかけた思いの深さを感じ、美意識が凝縮したその形に心打たれ、組み合わせの妙に思わずため息をもらした。
当日、いつもは静かな民芸館にたくさんの人がいらしていた。暮らしの美を求める民芸の世界をひとりでも多くの人に知ってもらいたいと思ってきた私にとって、それは本当に嬉しいことだった。
ところで、民芸館には、壺屋焼や嘉瓶(ゆしびん)、酒器(ちゅうかあ)、仏壇、魚籠、宮古上布、芭蕉布、ティサージ、紅型など、多数の沖縄の民芸も所蔵されている。
柳氏は昭和13年に沖縄をはじめて訪ね、沖縄の手仕事の健全さに心を奪われた。そして、沖縄は自分が思い描いた民芸の理想郷「美の王国」だとし、昭和15年までに集中的に沖縄の美を調査研究・蒐集活動を行ったのである。
また、民芸館には、沖縄の道具や布そのものだけでなく、沖縄のエッセンスが色濃く反映している河井寛次郎の作品や沖縄の紅型に触発された芹沢銈介などの作品も、所蔵されている。
旧柳宗悦邸を訪ねてきた多くの人たちが、そうした沖縄の美を彷彿とさせる作品の数々をも、きっと目にされただろうと思うと、それもまた、私は嬉しくてならない。
琉球新報「南風」2006年9月5日掲載>