沖縄で私を待っていてくれる女性たち

私にとって大切な沖縄の女友達。
出逢ってから20年は経つでしょうか。
今回は那覇ではなく宮古島で会いました。
私にとってかけがいのない女友達、皆んな40代です。
ある時は旧三月三日。女たちの浜下(はまおり)の日。
伝統行事だから、昔のような姿で。重箱に浜下りの料理をもって。
沖縄に来て癒されるのは、豊かな自然や芸術に加えて、
彼女たちとの交流が私に大いなる元気のもとを与えてくれます。
私が初めて沖縄を訪ねたのはパスポートが必要な時代でした。
民芸に出会い、偉大な先人たちが訪ね歩いた民芸の故郷を訪ねる旅が始まりました。道具と出会い、そこに暮らす人のお話を聴き、帰ってくるだけなのですが、心がいっぱいに満ちたりるのです。
今回の宮古島での一時は、さらなるエネルギィーを、愛情をいっぱい・いっぱい頂きました。宮古の島の優しさに満ちた人々。美味しい地産池消の食材を生かした料理。
ミヤコ(ミヤーク)とは「人(自分自身)の住んでいる所(地域・集落)」という意味だそうです。
「ミ(自分)ヤ(住んでいる)コ(場所・村)
宮古島には、日本本土や沖縄本島とも異なる独自の文化があります。
伝説もたくさん残っています。
まだまだ寒い箱根から、宮古の暖かさを贈ります。

NHKラジオ深夜便「大人の旅ガイド~三重県鳥羽市・答志島」

今回ご紹介するところは三重県鳥羽市にある離島、答志島(とうしじま)です。
東西約6キロメートル、南北約1.5キロメートルの細長い島です。面積約7平方キロメートルで、鳥羽湾および三重県内では一番大きな島ですが、島内は歩いて6,7時間で一周回れるくらの広さです。先週、私は小雪舞う箱根から行ってまいりました。鳥羽から島へ・・・風があり寒い日でしたが、穏やかな島はなに一つ変わっていませんでした。20年振りの答志島です。
この島へは、大阪や名古屋からでも近鉄鳥羽で下車し、徒歩で約5分の鳥羽港(佐田浜)から市営定期船で島に渡ります。答志島には三つの集落があります。島の北東部に答志(とうし)、南東部に和具(わぐ)、北西部に桃取(ももとり)。和具まで28分そして答志まで32分です。桃取は13分ほどですが、コースが違います。
この島の歴史は古く、持統天皇の伊勢行幸にあたって都に残った柿本人麻呂が
「釧着く答志の埼に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ」
と「万葉集」に詠んだ地です。
そして、戦国の将、九鬼嘉隆の悲しいロマンの地でもあります。織田、豊臣に仕え、いくつもの戦功をたてますが、息子の守隆は、家康の陣につき、父子が相対することになり、負けた嘉隆は島に逃げのびますが、自害します。嘉隆の胸中はいかばかりだったでしょうか。古墳、九鬼嘉隆の墓、首塚、胴塚など歴史的スポットが多くあり、潮音寺の観音堂には、弘法大師作と伝えられる観音像がまつられています。
小さな八幡橋を歩いて渡ると八幡神社があり、2月13、14、15日には神祭がおこなわれます。大漁、海上安全を祈願して行われる弓射の神事で、この的を持ち帰り戸口などにかけておくと、魔よけになるといわれており、壮絶な奪い合いが行われます。夏は海水浴、魚釣りなど、家族で楽しめるハイキングコースもあり多くの人が訪れる場所です。整備された見晴らし台からは、鳥羽湾に浮かぶ島々、知多半島が一望できます。

三つの集落の中でも答志は漁師町です。
ちょうど伊勢湾の出口にあり、魚の種類が豊富で、夫婦単位の船による漁が盛んで、一年を通じていろいろな魚を獲って暮らしています。ですから答志は海女漁が盛んな場所です。以前伺った「海女小屋」でのお話がとても印象に残っており、今回もお会いしたかったのです海女さんたちに。
日本で海女が一番たくさんいるのが志摩半島。漁から上がって、冷えた体を温めたり、食事をしたりする場所が「海女小屋」です。四畳半ほどの小屋の中で薪をくべ、この火場でのおしゃべりが何よりの楽しみとか。60代、70代でも現役です。冬に潜る海女さんたちは答志では14、5人。夏場になると多くなるそうです。夏は、海女は海に潜り、アワビ、サザエを獲っています。冬場はおもに「なまこ漁」1日2時間・2回潜ります。
今回も火場で話の輪に入れていただきました。真っ赤に燃える薪の横に獲れたてのほら貝を焼いてもらいました。美味しかった。
「火場は自分の御殿、オアシス」
「ここで仲間と家庭のことや、漁の情報交換をしてから家に帰るの、ストレスも発散してね」
「夫婦げんかはその日にかえせ・・・ってね、何しろ、分銅20キロくらいつけて潜り、父ちゃんに命綱をたぐってもらうから、けんかなんかできないさ。は・は・は!」
と海女歴60年のおばちゃんのお話に「なんか、うらやましいな!」と思った私です。
そして、この島には庶民が生み出した素晴らしい社会制度があります。土地の人が寝屋子(ねやこ)とよんでいる伝統的な若者宿が残っているのです。かつては広く日本中にあったのですが、昭和30年代から急激になくなりました。若者宿というのは、少年期から青年期にかけて男子が一緒に寝泊りします。その子供を引き受けて暮らすのが寝屋親たち。無償の行為です。実家で夕食をすませてから寝屋親へやってきます。めいめい勉強をしたり、おしゃべりなどをしたり若者同士悩みを相談することもあるでしょう。
「私たち寝屋親と寝屋子は、血のつながった親子ではないけれど、生涯親子のように付き合います」
と語ってくれた山下正弥さん。
「ある暮れに沖で船が横波をくらい女房が海に落ちたとき、真っ先に駆けつけてくれたのが寝屋子でした」と。
いざというときにはみんなで力をあわせ助けあわなければなりません。知識で知ることではなく、身体で覚えなければ身につかないことでしょう。20年前に伺ったときには8人の寝屋親だった山下正弥さん、今は陸にあがりました。その寝屋子が40代になり、また集まってくれました。西川長広さんの息子、長太君は寝屋子で漁師です。山下さん、濱口さんが言います。
「この制度が日本全国にあったら子供たちは悪いことなんてしませんよ」
また、正弥さんはおっしゃいます。
「漁業があるかぎり寝屋子は続きます。人は助けあい支えあって生きているのですから」
世襲でも強制でもない庶民が生み出した生活の知恵です。命を賭けて海で働き、海で生きる答志の庶民の暮らしから、学ぶことがたくさんあります。

旅の楽しみが景色だけ名所旧跡だけでなく、土地の人に出逢える・・・この喜びが加わって、旅は二倍三倍楽しくなるのですね。
伊勢湾に浮かぶ、離島・答志島・・・朝風が心地よく幸せな気分で帰路につきました。
今回は三重県鳥羽市、伊勢湾に浮かぶ 答志島をご紹介いたしました。

「日経新聞-あすへの話題」

海に生きる人たちを訪ね、鳥羽市の答志島に行って参りました。来週のNHKラジオ深夜便の取材です。答志島は風はあったものの、穏やかな海でした。日本列島は寒波に覆われていますが、島の優しい人達との触れ合いの旅でした。この島には「若者宿・寝屋子」とよんでいる制度が現在も残っているのです。詳しくは来週の放送後にご報告いたします。
半年間続いた日経新聞土曜日の「明日への話題」の残りを掲載いたします。正直にいって結構なプレッシャーでした。「身辺雑記でいいですから」とのお申し入れでしたが、私自身、このコラムのフアンでしたから「私にできるかしら・・・」と不安でした。しかし振り返ってみると自分の足元を改めて見つめ直す良い機会を頂くことができました。
日経新聞 第22回 11月28日掲載 「年齢というもの」
時間を見つけては書庫の整理をしている。仕事がら、読まなくてはならない本がたくさんある上、いつも本がそばにないと落ち着かない。そして本には魂がこもっている気がして捨てられない性格である。しかし収納できる冊数には限りがある。
けれど、これが遅々として進まない。おもしろそうな本を見つけると、つい読み始めてしまうからだ。懐かしさを感じる本、内容を忘れてしまった本、かつて読んだときとはまったく違う感想を抱く本。時間をおいて本に向き合うおもしろさがあることにも気がついた。高田宏さんの著書はまさに後者だ。例えば「還暦後」(清流出版)は出版された00年に読んだのだが、実際に還暦後になった今になって読むと、しみじみと実感を伴って言葉が沁みこんできて、こんな深いことが書かれていたのかと、驚いてしまう。
旅のあり方が少し変わってから2,3年になる。それまでは目的地から目的地への旅だった。仕事や用事をすませた、ほんの1~2時間でも町を散策できれば満足。子育て期間中は、長く家をあけられないという事情もあり、とんぼ帰りが当たり前だった。けれど今は、自由になる日が続いていたら、緩やかな時間の流れに身をまかせるようにその町に滞在し、その近くの、いつか行ってみたいと思っていた場所などに足を延ばしたくなる。
肉体や心の変化とともに、暮らしも、旅のあり方も、少しずつ変わる。年齢を重ねるということは、今このときをいとおしく思う気持ちが強くなることなのかもしれない。人にも、自然にも、時間に対しても丁寧に穏やかに接したいと思う気持ちが深くなっている。
日経新聞 第23回 11月5日掲載 「今、若者に伝えたいこと」
来年の4月から近畿大学に新設される「総合社会学部」で客員教授を務めさせていただくことになった。「農・食・美しい暮らし」をテーマに活動しているため、これまでお会いするのはもっぱら、農家の女性や子育て世代のお母さんたちが多かった。私も4人の子供を持つ働く母親であることもあり、出会いは公的な場であっても、互いに悩みを共有したり、個人的な友人関係に育ったご縁も少なくない。大学では、農業の現実や食の問題をテーマに、私が経験してきたことなどを伝えるとともに、我が子より若い学生さんたちと一緒に考えていく場にしたいと思っている。
私は、中学を卒業後、バス会社に就職したが、1年後にスカウトされ、女優になった。そして多くの人との出会いに導かれるように、民芸・骨董・絵画・建築などを独学で学び、その奥深さに触れると同時に、農業と食を自分の問題として考え続けてきた。机の上の学問だけではなく、現場に赴き、この目で見、耳で聞き、肌で感じながら多くのことを学んできた。高等教育を受ける機会を持つことができなかったという無念さが、私のバネになり、だからこそ向上心を持ち続け、学び続けなければならないと自分自身を励ましながら歩いてきたような気がする。
コミュニケーション力が不足した若者が増えていて、せっかく社会に出ても、心を病んでしまったりする人も少なくないと聞く。考える力としなやかな心を育てるために、人と人の絆が生まれる現場に赴くことの大切さも伝えたい。そして学生さんたちとのやり取りを通して、私もまたもう一度学び直すことができたらと、今から胸をわくわくさせている。
日経新聞 第24回 11月12日掲載 「山歩きに思う」
めっきり空気が冷たくなった。箱根の家では、毎朝1時間ほど山を歩くのだが、息の白さに、冬が来たと知らされる。寒くなったけれど、木々は葉を落とし、山道は明るくなった。これまでに何度かジムでマシン相手のウォーキングに挑戦したことがあるが、馴染めなかった。箱根で山歩きをはじめて、その理由がわかった。人工的な環境の中をただ歩くという行為は、私にとって退屈なだけでなく、大げさにいえば、私の生き方と反していたのだ。
山道の途中には、触れずにはいられない木もある。ごつごつとした木肌だが掌を押し当てると意外なほど心地よく、木が水を吸い上げる音さえ伝わってくるような気がする。数年前には、大きな木が雷に打たれた無残な姿も目にした。今は大きな切り株になったそこには、ぽっかりと空があいている。小さな木が芽吹き、太陽の熱と明るさとともに命の循環を感じさせる。貯まった落ち葉が数十センチにもなり、踏み入れた足がずんと沈む場所もある。これらの落葉は微生物たちの働きでじわじわと熱を放ち、やがてふかふかの土に帰る。土や草、風の匂いがいっそう濃くなる場所だ。
山は私の五感を研ぎ澄ましてくれる。木々の記憶を思い、遠い昔に想像が及ぶこともある。何よりひとり、山を歩いていると、自分が本来いるべきところにいるという安らぎに包まれる。だから歩くのが楽しいのだろう。山や森は豊かな命を生み育む、聖なる場所であり、私たちもまた山や森の一部なのである。けれど、残念ながら、日本の多くの山が手入れ不足で荒れている。取り返しのつかない事態になる前に、本当に大切なものを考え行動する必要があるのではないだろうか。
日経新聞 第25回 12月19日掲載 「働く女性たちに」
役職を持つ40代の女性が増えている。かつては仕事か結婚かと二者択一を迫られた女性たちがその両方を手にし、活躍している姿を見ると、いい時代になったと思う。40代は働き盛りであり、前も後ろも見渡せる年代でもある。仕事の責任は大きくなるし、親の介護など家庭の役割が増える場合もある。これからの生き方を改めて考える人も少なくないはずだ。
私にとっても、女優として演じることをやめ、農や食の問題に本気で取り組もうとしたのが、40代だった。この方向転換は予想以上に大変だった。女優という肩書きのために本気にされず、出鼻をくじかれることもしょっちゅうだった。しかし20代から農と食に関心を持ち、一生のテーマとして取り組もうと暖めてきたのだ。女優の仕事を続けるよう迫る人をも説得して、今こそターニングポイントだと、一大決心でスターとしたのだ。あきらめるなんてできない。学べるものは何でも学びたいと、手探りで多くの研究会に参加し、農村を歩きまわった。一方、家では4人の子どもたちのために、毎日5合のお米を炊いていた。
人生は順調なときばかりではない。大きな波が押し寄せ、立ちすくむこともある。もし困難に直面したら「自分がやりたいことが何か」を探り当て、それを胸に刻もう。悩みを打ち明けられる人や手伝ってもらえる人に「応援」を頼み支えてもらうのもいい。そして、とにかく「焦らずあきらめず、働き続け」、自分がやりたいことができる日に備えてほしい。辛い時期を乗り越える時は必ず来る。そしてその辛い時期をいかに過ごすかで、次に見える風景がきっと変わると思うのだ。

寒中お見舞い申しあげます

皆様には佳き年をお迎えになられたことと存じます。
昨年二月に義母が旅立ちました。一世代下の私を常に温かいまなざしで応援し続けてくれました。そんな義母に背中をおされるように、私もこれから若者を応援したいと思うようになりました。
「食と農、美しい暮らし」というテーマでの活動、そして昨年スタートした「Mie’s Living」に加え、この4月から近畿大学の客員教授という未知の世界にチャレンジいたします。
もちろん全国の農山漁村の女性たちとのネットワークの輪をさらに広げていきたい考えております。目をつぶると、全国を歩く中で出会った大勢の女性たちの顔が浮かびます。昨年もたくさんの人との出会いがありました。優しく、たくましく、しなやかな女性たち。厳しい現実にも負けずに、将来の夢を語る彼女たちの表情の、なんとまぶしかったことか。今年はさらに生活者の方々との交流もできたら・・・と願っております。
部屋には山形県の”みちのく初桜(啓翁桜)が満開に咲いております。
春まであと一歩。
皆様のご健康とご多幸をお祈りしております。