片岡鶴太郎 四季彩花

片岡鶴太郎さんの展覧会がパナソニックの空間演出ソリューション特別展が汐留ミュージアムで開催されています。
先日拝見しに行ってまいりました。
画業20周年を迎えられた鶴太郎さんは、絵画だけではなく陶器、ガラス器、染色・・・とそれぞれの分野で制作を続けておられます。今回の展覧会は、美しい日本の四季への思いが込められた作品の数々。そして、今回は初めての試み、最先端のテクノロジーによって4Kを含む各種映像・照明、その空間演出は今までの個展とは異なり、新たな世界が広がる素晴らしい展覧会でした。
鶴太郎さんは高校卒業後、片岡鶴八に弟子入り。3年後、東宝名人会、浅草演芸場に出演し。その後、バラエティー番組を足掛かりに大衆の人気者になり、現在は幅広いキャラクターを演じられ役者としても活躍中です。
あれは、7年前のことでした。我が家で対談をさせて頂いたのが始めての出会いでした。なぜか、とても気になる存在でした。展覧会で作品を拝見して、「どういう心の移り変わりがあったのかしら・どのようにしてこの世界にお入りになったのかしら」など等。
『40歳で始めて絵を発表したものですから、40歳というのは、僕にとって人生の区切りであり、新たな始まりでした。恵まれた芸能生活もある時、40歳の手前で、同時に全部無くなり、引き潮の中でポツンと取り残されたような、何ともいえない、無常観がたまらなく悲しかった。これからの人生、何を頼りに、何を求めて生きていったらいいのか・・・人生の中にポツンと置かれた孤独感と焦り、そんな時2月の寒い朝、ロケで家を出る時に、何か視線を感じ振り返ると、お隣の庭に朱赤の椿が咲いていたのです。”花という命”と始めて語り合えた・・・「この花を描ける人になりたい」そう思ったのがきっかけです』と。
不思議なご縁を感じました。
私も40歳の時に演じるという女優業を卒業いたしました。
そして、人生のギアーテェンジをいたしました。17歳で始めて出会った古信楽”蹲”には寒椿を生けます。
鶴太郎さんと偶然新幹線の中でお会いし、おしゃべりをしていたら共通の画家が好きで、思わず私は鶴太郎さんに「我が家のスペースで展覧会をしてください。生活空間の中で鶴太郎さんの絵を拝見したいのです」と、申し上げておりました。描く絵は野に咲く花であったり、野菜や魚、そこには私は専門的なことは分かりませんが、細密画ではなく、深いところを見ていながら、どこかで思い切って省く・・・そこに見る側を優しさで包み込むようなそんな絵。
それから我が家”やまぼうし”の空間で5回の展覧会をさせていただきました。
2015年3月、書の芥川賞といわれる「第10回手島右卿賞」を受賞されました。
絵画だけではなく書も魅力的な展覧会です。
人は人生の中で何度か壁に阻まれます。
その時に救われるのが芸術なのではないでしょうか。
今回の展覧会はそんな優しさに満ちた会場でした。
2015年9月17日~10月18日(日)まで。
パナソニック汐留ミュージアムにて開催中。
☆新橋駅から歩いて5~6分です。
http://panasonic.co.jp/es/museum/shikisaika/

「青春18きっぷ・ポスター紀行」  飛騨路への旅

待っていた一冊の本がやっと届きました。
JR「青春18きっぷ」ポスター紀行(講談社)
25年分のポスターが一挙に掲載!されているのです。
皆さんは旅をなさる時、もちろん新幹線や飛行機が多いでしょうね。
私も使いますが、時間が許せば普通列車でのんびり旅がいいですね。
とくに無人駅のようなローカル線に乗り、お互い旅人同士、目があい挨拶を交わす・・・列車がホームに入り、その列車もどこか遠くから旅してきたようなそんな感じ。駅や渡り廊下に貼ってあるポスターに旅情をかきたてられてずい分旅をしてきました。
青春18きっぷ
本を眺めていたら、高山本線も出てきました。


「そうだ、飛騨に行こう!」と思い立ち2泊3日で行ってまいりました。
小田原から名古屋までは新幹線で。そして高山本線で高山まで。沿線の景色をぼ~と眺めながら。7割は外国の方には驚きました。奥飛騨から乗鞍のほうまで足をのばすのでしょうか。


「円空さん」に逢いたくて、高山の街のはずれ車で20分ほどの千光寺に向かいます。旅先には宝ものがあります。その宝物に逢いに行く旅もあると思います。飛騨路の旅の宝物は円空さん。飛騨びとの心に住む円空仏は、まさに木から生まれた仏さま。人々はエンクさんエンクさんといって親しんでいます。
円空さんは1632年、岐阜の羽島の生まれといいます。少年期は大飢饉のさなかであったり、美濃の洪水にみまわれて母を亡くしたりで大変不幸でした。幼くして寺に奉公を余儀なくされたのもそんな事情が重なったのでしょう。その寺を後に出奔するのですが、恋愛がからんでいたという説もあります。そのあたりが青年円空の人間くさい一面を想像させえて、私はあれこれと思いを巡らすのです。
生涯12万体の仏像を全国で彫ったといわれています。辺境の地、離れ島、山間僻地・・・人々の貧困、病苦を救おうと一心に彫りつづけました。想像を絶する旅を続けて、村を訪ね、人と出逢い、交流の中で仏の教えを説いたのでしょう。素朴な仏像はおもちゃとして用いられたかもしれません。
千光寺の宝物殿には円空が立木に梯子をかけてそのままオノをふるって造仏したとされる「立木仁王像」。そして、私の大好きな「おびんずるさん」無病息災を願う千光寺のなで仏。表情の優しさは人の心を抱きしめるような安らぎに満ちています。そうなのですね・・・旅の先には宝ものがあります。ここ千光寺の円空さんに会う他に、こちらの住職さんも会いたい人なのです。端正なお顔立ちと良い声の持ち主で、大下住職は12歳のときにこの寺に入られ修行をつんでこられた方。
以前伺ったことがあります。
『人は一生のうち三度ほど生命の無常を感じます。私は12歳のときに死について考えました。つまり生について考えるということです。それが仏門に入ったきっかけです。寺から中学に通い、やがて高野山へ修業にでました。』
今回もお話を伺うだけで何だかとても心が落ち着きました。
“また、おびんずるさん撫でにきます”と心の中でつぶやき千光寺を後にしました。
そして、旅の空の下には友がいます。私を待っていてくれる人が・・・。
秋の陽射しを浴び萩や薄が遠来の客を迎えてくれます。


私には心の故郷と呼べる土地がいくつかありますが、この飛騨古川の街に引き寄せられるように、何十回とこの街を訪れ、今ではこの町に着くと、「帰ってきた」という感慨が胸に染みわたります。
地方創生・・・という言葉さえない時代に若者たちとの町づくりに夢中になり40年が経ち、若者へとバトンタッチされています。
『ふるさとに愛と誇りを』という8ミリ映画が完成して40年。
端正な町並み、人々の優しい振る舞いややわらかな言葉、美味しい山の幸の数々。水の清らかさ。町を流れる川には鯉が泳ぎ、遠くを見れば乗鞍岳、さらに日本アルプスの山々が町の背景に悠々とそびえています。
『青春18きっぷ』から半世紀がたっても心は変わりません。
「旅情は距離がつくる」と書かれています。
旅先で自分の過去の記憶が現在いまこうして暮らしている私の心を刺激してくれます。
やっぱり旅は素敵です。

朝が来る

辻村深月さんの「朝が来る」(文藝春秋)を拝読し、ぜひ、お会いしお話を直接伺いたいと、ラジオのゲストにお招きいたしました。
家族のあり方、子どもを持つこと、また子を産みたくとも産めない女性、子供を手放した女性。異なる立場の2人を軸に物語は展開されていきます。
日本ではまだ養子縁組がさほどポピュラーにはなっていません。そして、不妊治療も夫婦にとっては大変です。まして女性の場合、仕事をしながらの通院は負担が大きく大変です。
家族3人で穏やかに暮らしていたものの、ある日、自宅マンションに若い女性が訪ねてきます。ここから先は是非、実際に読んでいただきたいです。
直木賞作家、辻村深月さんは1980年、山梨県生まれです。
2004年、「冷たい校舎の時は止まる」で文学新人賞を受賞し、作家デビュー。
2011年、「ツナグ」で吉川英治文学新人賞受賞。
2012年、「鍵のない夢を見る」で直木賞を受賞なさいました。
作家デビューしてからも6年間はふる里、山梨でOL生活をしていました。
「その間の経験はとても大切な時間でした」とおっしゃいます。
私は辻村さんのミステリー、ファンタジー、青春もの・・・などコンスタントに、いろいろなジャンルの小説を発表する原点と書き続けられる理由を知りたいと思っていました。幼い頃から、読書が好きで、絵本、漫画・・・なんと小学3年生で小説(ホラー)を発表しているのです。
スタジオにいらした辻村さんは妊娠8ヶ月目。第2子を妊娠中でした。「子どもは育てている、というより”育てさせてもらっている”という感じです」と笑顔で語られる姿がとても清々しいです。きっと大変なことも沢山おありでしょう。
女性として、働き方や生き方が問われる時代。
30代の辻村さんの生き方、考え方を知りたく思いました。
そして、今なぜ今回のようなテーマを選ばれたのか。
息切れせずに、いい作品を書き続けることが出来る源は何なのでしょう。
小説のラストシーンがとても素晴らしいのです。
考えさせられる素晴らしい小説でした。
お話はぜひラジオをお聴きください。
2週にわたり放送いたします。
文化放送「浜 美枝のいつかあなたと」
日曜日 10時半~11時まで。
9月27日と10月4日放送です。


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『いい人みつけた』

先週の水曜日、TBSラジオの「大沢悠里のゆうゆうワイド」に生出演させていただきました。
もう30年続いている番組です。そんな 「ゆうゆうワイド」にゆかりの人がその週は交代でゲスト出演致しました。私は20年前まで13年間、その中で10分の帯番組を月曜~金曜日に出演いたしました。
浜美枝の「いい人みつけた」というタイトルで、ゲストをお招きしお話を伺いました。最初の1年間だけでも、そうそうたる方をお招きしているのですね。文園社から『ただいまラジオで放送中 浜 美枝の「いい人みつけた」』という本を昭和59年12月1日に初版で出しております。
淡谷のり子・安野光雅・内海桂子・大塚末子・大貫栄子・佐藤直子・篠田正浩・妹尾河童・高石ともや・中山あい子・姫田忠義・柳家小三治・村松友視・・・さんなど、素晴らしいゲストの方々です。
亡くなられた方もおられます。
走馬灯のように、当時のことが蘇えります。
ブルースの女王とよばれる淡谷のり子さんがスタジオにお越しくださったのは”花曇”の日でした。(ノートにその日の天候と印象に残る言葉を綴っておりました)薄曇で生暖かいその日、もうすぐ桜の花の咲く季節。
“クラッシックをもう一ぺん勉強したい。それが私の夢なの・・・”とおっしゃるスタジオには、すごくいい香りがしたのです。黒水仙」とか。フランスにたった一軒あるんですって売っているお店が。淡谷さんらしい素敵な香りでした。
「音大出て、世の中に出ました。クラッシックやってましたけど、レコーディングすることになって、もちろん流行歌ですが、、レコード会社で少しまとまったお金をいただいたのでまず買ったのが香水なの。」
19歳と17歳のご両親の結婚。すぐに生まれたのが淡谷さん。ご苦労されたお母さまについて「あんなできた母っていないですね。こどものときから勉強しろって一度も言わないの、でも読んでいた本は、新しい女のいく道。平塚らいてうさんだとか、ああいう方たちの本をかくして読んでいましたよ。」
「あの母があったから私がいるんだと思いましたね。今でもそう思っています。」
歌に燃えて、歌いつづけて54年。
「戦時中には警官と軍隊に、ずいぶん始末書書いたり・・・慰問にいくのに、モンペはいてクラッシックとか、そんなみっともない姿でステー出られませんから。ちゃんとイブニングドレスで。最後まで何を言われても。非国民だとかいわれてね。」
若輩の私は先輩の仕事をもつ女性としての男性観、結婚観にも興味がありました。一度淡谷さんは結婚したことがあります。
「私ああいうこと嫌い、結婚は。自分が一番大切なの、私は。歌が大切なの。私には主婦の才能がないのよ、あれは才能がいるのよ、みそ汁つくったり、ご飯炊いたり・・・なんてできない。それでね、私はちょっと自分だけが大切・・・それではいけないかと思うんですけどね、自分だけを大事にしたみたいで。ところがね、私は歌い手になったんだから、やっていかなきゃいけないでしょ。私は大体男を追い回すほうなの。追い回している間が楽しいの。今になってみれば、アラ探しをするのがイヤだったのね、きっと。」
・・・・・女性として今まで生きてこられて幸せでしたか・・・・・と伺ってしまいました。
「女であってよかったと思います。男でなくてよかったと思いますね。女だからこうやって歌を歌って生きていかれるのですもの。女性はきれいに生きていける、美しく年をとりたいの、私は。」
39歳だった私には淡谷さんが出された「生きること」を読んでもほんとうのところ、奥深くまでは理解できていなかったでしょう。「生きることは愛すること。全てを愛せるということは、幸せだと思うんですよ。」
肌は白く、艶があって、シワがないのです。天性の美しさに加えて、毎日のお手入れ。女性としての先輩、淡谷さんに大敬服するとともに、その美しさへのひたむきな努力と歌にかける情熱のかけらを、私なりに頂戴したいなと思いました。
淡谷さんの歌 『恋人』。いまだに耳の底に残っています。
歳月を超え、世代を越え、男も女も超えて、一人の女性の人生を通して歌われる歌の大きさ、深さに、ようやく私自身が意味を理解できるようになってきたのかも知れません。
  ゆで玉子むけばかがやく花曇    中村汀女
こうして、先週はたまたま昔の自分自身を知るきっかけをいただきました。
この秋には72歳になる私。
淡谷さんのように背筋を伸ばして、ひたむきに生きていきたいものです。