『夢へ。いっぽ、いっぽ。宮崎』

口蹄疫ウイルスの終息宣言から8月27日で2年がたちました。
2年前の4月20日、侵入経路が今もわからない口蹄疫ウイルスが発生しました。復興の現状と宮崎の農業の将来像を語り合う「夢へ。いっぽ、いっぽ。宮崎 シンポジウム~口蹄疫からの飛翔」に宮崎日日新聞にお招きいただきました。


宮崎のみなさんが我が子のように育ててきた牛や豚が次々に感染し、約30万頭の牛や豚を処分するという、考えられないほどの大きな犠牲を払いやっとのことで口蹄疫ウイルスを封じ込めました。
宮崎日日新聞社の報道からは、口蹄疫の本当の生々しい姿を、県民に寄り添いながら地元紙としてまさに「県民一丸となって難局を乗り切るために役割を果たす」という熱い思いが一文字一文字から伝わってきました
私は当初から口蹄疫問題に大きな危機感を抱いていました。
行政の危機管理の低さ、そして国が口蹄疫対策本部を設置して、初会合を開いたのは約1カ月後。
農場は消毒用の消石灰で真っ白になり、県民は感染拡大を恐れて外出を自粛。畜産農家だけではなく収入が途絶えた商工業者も多かったと聞いています。
復興が進みつつありますが、まだまだこれから。
「農業は国の根幹を支える聖なるなりわい」と私は思っています。
当事者でなくても自分の問題としてとらえ『記憶を風化させてはならない』と考えます。
シンポジウムでは口蹄疫からの復興に力を傾ける、酪農家の川上典子さん(JA尾鈴理事)、そして口蹄疫発生を機に企業を退社して実家へ戻り農業を続ける土器美里さん、口蹄疫で沈んだ町経済の再起を目指す三原明美さん(川南町商工会女性部長)、3名のパネリストの方々とご一緒でした。
『夢へ。拓こう 宮崎農業の新たな地平』
お一人お一人のお話を伺っていると胸が熱くなりました。
会場の皆さんの元気なお顔を拝見して、ホッとすると同時に、よくぞ、皆さんあの困難な時期を乗り越えてくださったと、感謝の気持ちでいっぱいです。
『口蹄疫は、あらゆる危機管理に対する警鐘であった』とも感じます。
私たち国民一人ひとりがけっして風化させてはならない・・・と心から思った一日でもありました。
宮崎は農業で、日本を支えているのです。
どうぞ、その誇りを胸に、これからも一歩一歩、歩いていっていただきたいと願います。

宮崎の皆さま、ありがとうございました!

『近畿大学の学生たちと』

近畿大学で客員教授として授業を受け持ち今年で3年目になります。
私自身の学びの場でもあります。
私は中学しか出ていません。
大学や高校という学び舎で勉強する機会には恵まれませんでしたが、社会に出てから出会った多くの先輩方、そして本や映像を通して巡りあうことができた素晴らしい先人たちから、たくさんのことを学ばせていただきました。
そんな経験から机の上の学問だけでなく、現場に赴き、この目で見、耳で聞き、肌で感じながら多くのことを学んでほしい。
大地を歩き、人に出会い、話しを聞き、語り合い、その中から見えてくる切実
な現実から導かされた問題解決にこそ、真の力が宿っているということを学生
の皆さんに感じ取ってほしい・・・。
キャンパスを港として、フィールドワークに出かけましょう!といい続け今年も私の若狭の家での合宿をおこないました。

近畿大学総合社会学部のチャレンジ
「社会と人と自然を見つめるチカラを磨く総合社会学部」
『道なき道を拓く』は学部長の荒巻裕先生の言葉です。
出会う喜び、学ぶ喜び、語る喜びが満ちた新学部を築きます。
現代の先達に学ぶ・自分らしさの発見「暮らし・食・農・旅がもたらすもの」
をテーマに様々なことを学生たちと学んできました。
この夏のフィールドワークでの学生達の感想をお読みください。
環境系専攻1年 井實 彩嘉
福井に着いてまず目の前に入ってきたのは広大な自然の風景でした。
広がる緑の田畑山々は私たちの疲れを癒してくれました。
気温は大阪に劣らず暑かったけれど、風は爽やかでとても気持ちがよかったです。農道を自転車で走っているときも、自分が田んぼの中にいるようでした。これこそ日本の夏休みだと感動していました。
今回おおい町の案内をしてくださった松井さんはとても明るい方で、私もたくさんの元気をもらいました。大変大きな農園を持ってらっしゃることもそうですが、その交友の広さには驚きました。農業をやっている方はもちろん、畜産業や漁業、芸術家の方々までたくさんの出会いがありました。みんなあたたかい方ばかりで、おおい町の人の良さがにじみ出ていたような気がします。
最後のバーベキューの時もたくさんの人が集まってくれ、本当に楽しく過ごせました。最近農業を始めた方々のお話も聞くことができました。今まで講義を聞いて、多くの問題と向き合ってきましたが、実際に現場に行ってみないとわからない多くのことを感じました。どれもこのインターシップでしか学べないような経験ばかりでした。また改めて地域コミュニティの大切さを感じました。この体験と出会いをこれからも大切にし、生かしていきたいと思います。

社会マスメディア系専攻2年 奥野 隼平

福井県の大飯町。私が、この町を知ったのは日本の原発再稼働問題でのことでした。この大飯町は、原発問題に実際に直面していた町だった。
ニュースを見ている限りでは、この大飯町がどんな町であるか全くわからなかった。しかし、このインターンシップではたまたまこの大飯町に行くことができた。とても運がいいと思った。
実際に、この大飯町はとても自然豊かな町であった。行きつくところみんな田んぼや山や畑で緑で覆われていた。そこには、たくさんの虫もいて、中には蜂のような危険な虫もいたが、本当に多くの虫に囲まれて生活できた。都会では、最近は虫が減ってきていて、本当に少しの間であったが自然に帰ることが出来た。
また、今回のインターンシップで、とても大きなものを手に入れたように感じた。それは、都会にはない田舎でしかない地域の結びつきである。都会暮らしでは、どうしても地域一体となって行動できない。現に、隣に住んでいる人の顔さえ知らない状況である。しかし、田舎の人たちは本当に近所づきあいが盛んであると思った。これは、都会も見習わなければならないのもあるが、田舎の人たちの温かさにとても感動を覚えた。
環境系専攻3年 小田島 史弥
私はこのインターンシップを通じて、多くのことを学ぶことができました。まず福井県はとても自然の豊かな場所で、私たちとは正反対の生活を送っていることが分かりました。
最初に感じたことは都会に住んでいる中で普段、どれだけたくさんのものに依存しているかと言うことです。食で言えば、スーパーなどのお店に頼る人がほとんどだと思います。しかし向こうでは農業が盛んで食べ物は自分で作り、また収穫した野菜や米は別の農家と交換するなどお互い支え合いの心を持っていることが分かります。ある農家の人は自分の作った野菜を美味しいと言ってくれる人がいると作りがいがあるとも仰っていました。このことから人間関係の大切さに気付かされました。またこの三日間でお祭りやバーベキューなど楽しいイベントも盛りだくさんで、インターンシップのメンバーとも交流を深めることができる良い機会になりました。
環境系専攻2年 仲 勇至
普段大阪に住んでいて自然と触れ合うことがまったく無かったので、今回のやまぼうしでのフィールドワークはとても貴重な経験となりました。
田んぼ道を自転車で走りながら風景を楽しみ、山を登り滝に打たれたりして自然と触れ合ったことや、ブルーベリーの収穫の手伝いや田んぼの雑草を抜いたりして農業を体験できたこと、地元の「大火勢」という祭りを見に行ったことなど、どれも楽しく、また良い経験となることばかりでした。
その中でも一番印象に残っていることは、実際に農業を営んでいる方々からのお話を聞けたことです。環境系専攻なので、農業も進路の一つとして考えていたのですが、あまり農業にいいイメージを持っていなくて、前向きには考えていませんでした。しかし、話を聞いていると、食べ物にも困らないし生計も十分立てることができ、自分の好きなことを一生懸命できる良い仕事だということを知りました。もし将来、職に就くことが困難になり、どうすることもできなくなったら、思い切って農業をするということも考えようと思います。

環境系専攻1年 西村 直

今回やまぼうしへのフィールドワークを行って学び、懐かしさを感じ、そして驚くこともありました。やまぼうし付近の道路が北海道ほどではありませんが、真っ直ぐな道があり、車も動いている数が少なく、静かで気持ちがよかったです。特に自転車の移動がそう感じさせたのかもしれません。
そこでいろんな所を回りました。きのこの里、ブルーベリー農園、牧畜などを見たりしました。きのこの里では長いすべり台に滑り楽しみました。一番印象に残っているのは、各農園を回ったことです。例えば、ブルーベリーを収穫したり、牛に餌をあげたり、松井農園では、トマトを収穫し、草をむしり、綺麗なトルコキキョウを見せてもらいました。幼稚園や小学校の時にこういった体験をしたことはありましたが、大きくなるに連れて離れていきました。
そして最後のバーベキューでお世話になった人達が来て下さったときはこの地域には多くのつながりがあるなと思いました。このフィールドワークを通じて農業の大変さを知り、また子供の頃にあった気持ちを思い出しとてもいい経験になりました。

環境系専攻3年 西村 陽菜

やまぼうしでのフィールドワークはとにかく楽しかったです。もちろん農家の方のお話を聞いたり、様々な施設を巡ったりして、農業というものを身近に感じることができ、多くのことを学ぶことも出来ました。また、福井県では何もしていなくても、自然のにおいや緑豊かな風景を見たり感じたりすることで癒され、清々しい気持ちになりました。
そして、私はやっぱり自然が好きなのだと実感しました。お世話をしていただいた松井さんは、私たちのことを一番に考えてくれていて、おかげでとても楽しくフィールドワークを終えることが出来ました。お祭りにも行くことが出来たし、そこで見た花火は今まで見たことがないくらい綺麗で、あの映像は脳裏に焼き付いています。地元にいるだけでは体験できないことを、たくさん体験できたフィールドワークになり、とてもいい経験になったと思います。また、福井県にいきたいです。最後に、現地でお世話になった方々に本当に感謝しています。
環境系専攻3年 藤道 美那
私は幼い頃に何度か、家族で福井県にある海水浴場を訪れた事がある。海は透明度が高く、様々な魚が泳いでいるのを何度か見かけて感動したことを今でも覚えている。そんな幼少期の記憶から、福井県は海が綺麗な所であるという印象は前々から持っていた。
今回、インターンシップの合宿で久し振りに福井県を訪れることになり、すごく楽しみにしていた。海を訪れることは無かったが、バスで移動している時に一瞬だけではあるが見ることができてそれだけでも嬉しかった。しかし、海以上に感動する事が待っていた。到着してすぐに私の目に飛び込んできたのは、辺り一面に広がる山々、透き通るような青空、そして青々とした田園風景であった。私はずっと住宅街で育ってきたこともあり、昔から自然豊かな土地に憧れを持っていた。そんな私にとって、そこはまさに理想の空間であった。合宿中の移動はほとんど自転車であり、農道を自転車で走り抜ける時の爽快感はとても言葉では言い表し難いほどである。自然から力を貰ったのか、合宿中はほとんど疲れを感じる事はなく、むしろどんどん身体を動かしたいという気持ちになる事ができた。福井県は海だけでなく、山や田園等の景観も素晴らしいことを知った。
このインターンシップのキーワードの一つである、「食」の面でも色々と考える事があった。今回の合宿では農業を営んでおられる松井さんに大変お世話になったのだが、松井さんの農園を訪問させていただいた際にトマトを味見することができた。やはり、地元のスーパー等で売られているものとは全然違って調味料をつけなくても美味しく頂くことができた。また、朝ご飯は福井県の周辺で採れた作物をいくつか使ってメンバーで手分けして何品か調理したのだが、皆で机を囲んで食事を摂ったのも調味料の一つとなり、どれもすごく美味しかった。地産地消は環境に優しいだけではなく、食べ物を美味しく頂けるのだということを感じた。
さらにもう一つ、「人とのつながり」の面でも考えさせられた事があった。前回の答志島合宿にも感じていたのだがそこに住む人々は皆、周辺の人と仲が良く互いに支えあいながら生きている。私の住んでいる地元ではとても考えられないことである。私たちのような見知らぬ者に対しても同様に温かく接してくれる人が多いように感じた。年々、地域同士のつながりが希薄になってきていることを感じていたが、そこではそういったことは全く感じられなかった。
今回の合宿で改めて自然を守らなくてはいけない事、食の大切さ、人とのつながりについて学んだ。講義でも学ぶ事はたくさんあったが、合宿で実際に体験や実感をすることによってこれらのことは本当に大切なんだと思えた。今後生活していく上でとても大きなヒントを得たと思う。そして、そうした地域をこれからも守っていかなければならないと思った。また機会があれば、福井県を訪れたいと思う。

環境系専攻1年 三谷 信悟

僕は今回の福井県でのフィールドワークを通して自然と人に囲まれた暖かい時間を過ごせました。まず都会とは違い自転車での移動も蒸し暑さがあまりなく風が気持ちよくて爽快でした。辺り一面に広がる田んぼを見ながらのサイクリングは暑さを忘れるくらいでした。滝を見に行く時には自転車をおして登りきり滝に到着した時には疲れもとれるくらい爽やかな空気でした。水も澄んでいて綺麗でした。
そして近大農園の稲はとても立派に育っていました。思っていたよりも広くて驚きました。様々な場所へ僕たちを案内するために車で送ってもらったり話をしたりして初対面にも関わらずみなさん優しい人でした。農業の話はもちろん、絵や陶芸など幅広く話を聞くことができて以前よりさらに関心が深まりました。数日間、たくさんの人のフォローがあり貴重な話も聞くことができました。改めて自然の恩恵を感じ取ることができて今後の参考にもなりそうなインターンシップだったと思います。
社会マスメディア系専攻2年 山内 和磨
やまぼうしでは大阪ではあまり体験出来ないような自然にたくさん触れることが出来て、とても感動的でした。やまぼうしに着いて、自転車を渡された時は、「えっ、これ?」と思いましたし、とても暑かったですが、今思い返せば、自転車だったからこそより多くの自然と触れ合うことが出来たのではないか他にもさまざまな形で自然と触れ合えて、とても楽しかったです。
中でも、牛との触れ合いは滅多に経験できることではないので、とても印象的でした。実物の牛は私の想像していたものよりも大きくて驚きましたが、人懐っこくてとてもかわいかったです。大火勢花火大会もとても印象深かったです。あんなに近くで、あんなにたくさんの花火を見たことはなかったですし、地元の同世代の方々とも親交を深めることが出来てよかったです。
やまぼうしでは本当に貴重な体験が出来ました。私は生れてからずっと大阪に住んでいます。確かに、交通面や物を買うことなどはとても便利かもしれませんが、やまぼうしのような自然に囲まれた環境はほとんどありません。大学に入り、福井県、広島県から大阪に引っ越してきた友人と心斎橋のアメリカ村に行った時、友人は「なんか臭くない?」と言ったのですが、私にとっては普通なのでとても驚きましたが、やまぼうしに行った時、その言葉の意味がわかりました。やまぼうしはとても素晴らしい場所でした。また行きたいと思います。
社会マスメディア系専攻3年 寺西 香須未
私は大阪生まれ大阪育ちなので、幼い頃から身近に自然を感じることなく過ごしてきました。いつも遊ぶのはアスファルトの上が普通でしたが、このフィールドワークで大飯町に行ってもし私が小学生の時こんな環境の中で遊べていたらもっと楽しかっただろうなぁと思いました。
大飯町は自然がいっぱいで大阪では感じることのできないマイナスイオンをたくさん感じることが出来ました。自転車を暑い中みんなで漕いでいると小学生の夏休みを体験しているような懐かしい気持ちに胸がウキウキしました。また大火勢祭りでは今までで見た中で一番すごい花火を見ることが出来てすごく感動しました。
最後の夜は松井さんの家族の方やたくさんの方とお話ししながらバーベキューや花火をして日頃聞けないお話をしたりこのフィールドワークに参加して仲良くなった友達とたくさん話せてすごく楽しかったです。松井さん、私たちを暖かく迎えてくださって本当にありがとうございました。松井さんの家族は皆さんすごく素敵で心がすごくホカホカしました。
社会マスメディア系専攻2年 山田萌
おおい町に着いてからの主な移動手段は自転車で、暑くて大変だろうなと思っていました。しかし実際は、自然の豊かな風景をじっくり眺めながら移動できて気持ちよかったです。都会だとビルなどの建物が立ち並び遠くの景色まで見ることは難しいですが、おおい町では広々とした田畑やその向こうにある山々を見ることができ、とても開放的でした。
農家を営むいろいろな方からお話をうかがっていると、農業という職業が身近に感じられました。今まで、農業は親から受け継いでいくものだと思っていましたが、お話を聞かせてくださった方の中には、親は農業をやってないという方もいました。また、「自分に合った会社なんてほとんどなく、就職するのなら自分が会社に合わせなければならないが、農業は自分のペースでできる」とおっしゃっている方もいました。もちろん農業にも、大変なことやつらいことがあると思いますが、今回のフィールドワークで今まで知らなかった農業の魅力を感じることができました。

夏が似合う女性(ひと)

灼熱の太陽がジリジリ肌を焦がす季節を少し過ぎ、夏の名残りを感じるこの季節になると、森瑤子さんを思い出します。
彼女は私が知っている女性のなかで、誰よりも夏が似合う女性でした。
貴女とお別れしてからこの夏で20年が経つということが信じられません。
それは、お知り合いになってまだ間もない頃に、与論島の彼女の別荘にお邪魔したときの印象があまりにも強烈だったせいかもしれません。
「浜さん、ヨロンに遊びに来ない?裸で泳がせてあげる。」
仕事を通じての出会いだったこともあり、まだお友達と呼べるほどの親しい会話もかわしていない搖子さんから突然そんなお誘いを受けて、私は心底びっくりし、長いあいだ憧れ続けていた上級生から声をかけられた女学生のように、半ば緊張しながらも素直にうなずいていたのでした。
白い珊瑚礁に囲まれて熱帯魚の形をした、あまりにもエキゾチックな匂いのする与論島。サトウキビ畑の真ん中にある空港に降り立つと、真っ白なつば広の帽子を小粋にかぶり、目のさめるような原色のサマードレスを着た搖子さんが待っていてくれました。
「この島は川がないでしょう。だから海が汚れず、きれいなままなの。娘たちにこの海を見せてやりたくて・・・」
私は搖子さんの言葉を聞きながら、母親の思いというものは誰でもいつも同じなんだなと感じ、急に彼女がそれまでよりもとても身近な存在に思えたのでした。
長いあいだの専業主婦の時を経て、突然作家となり、一躍有名人になられて、そして仕事がとても忙しかったことで、搖子さんは絶えずご主人や娘さんたちに対して後ろめたさのようなものを抱え続けていらっしゃるように私には思えました。
妻として母親としての役目を完璧にこなしていた搖子さん・・・そんな女性に会ったことがありません。
そう、都会の男と女の愛と別れを乾いた視点で書き続けた森搖子という作家は、個人に戻ればどこまでも子どもたちのことを思う「母性のひと」であったのです。
十代の頃から社会に出て働き続けてきたせいか、他人に甘えることのとても下手な私。心にどんなに辛いことがあったとしても、涙を流すのはひとりになってから。他人さまの前ではいつも背筋をシャンと伸ばして、爽やかな笑顔でいることが仕事を持つ女の美徳と信じ込み、ずっと長いこと、肩肘張って生きてきたような気がします。
あの頃の私は妻としても母親としても、そして仕事の上でも実にさまざまな悩みごとを抱えていて、激しい精神のスランプ状態に陥っていたのですが、そのことを誰にも言えずしひとり苦しんでいた時期でした。
真夜中、月が煌々とあたりを照らす海で泳ぎましたね・・・裸で。
静かに水をかき分け、ときおり肩や背中が月明かりを受けて輝いて見えたのが、私の目の中に残っています。
あの夜、まさに私の内のすべてを見抜いてくださっていた搖子さん。
甘えることのできるひとをみつけた嬉しさでいっぱいの私でしたのに、搖子さんはそれからあまり間を置かず、永遠に私の前から姿を消されてしまったのです。
与論の島に眠る搖子さん、お逢いしたいです
でも、瑤子さん、安心してくださいね。私、あと少しで60代を過ぎる今、ようやく自分の泣き顔を他人(ひとさま)に見せることができるようになりました。
そうしてもいいのよ、教えてくださったのは搖子さん、あなたです。
今までよりも、生きていくことがずっと楽になりました。

鎌倉・円覚寺

円覚寺(山号・瑞六鹿山円覚興聖禅寺)に伺ってまいりました。
円覚寺はJR横須賀線「北鎌倉」から徒歩2分ほどのところにあります。
入り口の石段を登る総門をくぐると、重厚な山門がそびえ立ち、往時の隆盛を伝えています。

今回は「夏季講座」に招かれてお話をさせていただきました。
この円覚寺創建の主な目的は、蒙古襲来で戦没した多くの霊を敵味方なく弔うことで、高僧無学祖元によって開山されました。
階段を一歩一歩進むと、鎌倉・室町・そして明治へと円覚寺がたどった歴史の中に身を置くことができます。
梅雨も明け、山門は三解脱門(空・無相・無願)を象徴するといわれますが私などは、煩悩を取り払うこともできず、もちろん娑婆世界を断ち切ることなど到底できず、仏殿にお参りし会場に向かいます。妙香池を左手に見、国宝の舎利殿(お釈迦様の歯がまつられている)へと。舎利殿は関東大震災で倒壊しましたが、昭和四年に復元されています。

会場の方丈(本来は寺の住持の住む建物)では現在は各種儀式・行事・法話座禅などに使われています。畳に500名ほどの方が座り、まず官長さまのお話をうかがいます。
私は「自然とともに生きる」をテーマにお話をさせていただきました。
なぜ都会を離れ箱根に住まいを移したか。百年、百五十年という貴重な歴史を持つ家々が、住みにくい、維持が大変、跡継ぎがいない・・・などの理由で次々に捨てられていった悲しい時代でした。土地のおばあちゃんに「何とかこの家を守ってほしい」と、手を合わされたこともありました。
煤を払い、水で洗いました。手は真っ黒になり、爪にも煤が入り込んで・・・。当時女優の仕事が入ると、あわててマニュキュアを塗って出かけていく日々でした。一本一本梁や柱の木材を箱根神社のお神酒で清めて・・・
40年ほど前のことです。
「木の霊」・・・木々がうっそうと繁る森の中に立つと、私には木々一本一本が立木像に見え、ざわざわとなる木の騒ぎ、耳に響き渡る瞬間があります。樹齢何百年という大木のそばに行くと、その太い幹に、そっとからだをすりよせたい衝動にかられます。
人生には様々なことが起こります。
私もまた、子育てに悩んだり、夫と小さな諍いをしたり、仕事で行き詰まりを感じたときなど、はっとすると、目に涙があふれていたことだってありました。
人は絶えず、死と隣り合わせに生きていて、穏やかな日々を過ごせるということが、奇跡のような幸せであると、しみじみ感じます。
円覚寺では官長さまの法話と座禅をくむことができます。
ゆったりと流れた時間・皆さまと共有した空間・・・
木々に囲まれた境内、緑深い匂い。
幸せな刻でした。

旅する女

素敵な本に出逢いました。
旅する女』筒井ともみ著(講談社)
お会いしたくて先日ラジオのゲストにお招きいたしました。
「浜美枝のいつかあなたと」(文化放送 日曜10時半~11時)
『女たちは、自分のための自由な旅をもとめて動きだした!』とあります。
筒井さんは、1948年東京生まれ。
叔母に女優の赤木蘭子さん、叔父に俳優の信欣三さんを持ち、大学卒業後、シナリオライターの道に進みました。
1996年、「響子」、「小石川の家」で、第14回向田邦子賞を受賞。
2004年には映画「阿修羅のごとく」で第27回日本アカデミー賞・最優秀脚本賞を受賞されています。
著書も「舌の記憶」、「食べる女」、「おいしい庭」など数多くあります。
何よりも毎日の食事をとても大切にされている筒井さん。
「料理とは聖なる祝祭」とのこと。
「旅する女」は、ある1人の個人旅行のコーディネーターが突然亡くなってしまい、彼女を頼りにしていた依頼者4人が、その後、自分のために新しい人生を求めて動き出す物語です。
たとえ今、少し元気がない人でも、優しく背中を押してもらえるような素敵な小説でした。
とにかくセクシーでスリリング。
本来ならば、スタジオでのお話の様子をみなさんに聞いていただくのですが、う~ん、むずかしです。
筒井さんの声、お話の間、そして、”ことば”
表現できません。
ぜひぜひラジオをお聴きください。(7月29日・日曜放送)
それよりも驚いたことがございます。
筒井さんのご本「おいしい庭」での一文です。
「子供のころ、梅雨の庭に出て紫陽花の傍らにしゃがんでいたのを覚えているそれも一回や二回じゃなくて、雨が降ると小さな傘をさして度々しゃがんだ。母から許しが出ると、その紫陽花の花を二つほど切り取る。ついでにもう一本、花のついていない太めの茎をえらんで切る。玩具にするためだ。 葉っぱをとって茎だけになったものを一、二センチの長さでポキポキと折る。それをそっと持ち上げると、納豆がネバをひくように樹液がのびて、折った筈の茎がスダレのようにつながるのだ。それを顔の前にぶら下げてまたジワッと見る。それだけのことだけれど、梅雨にしかできない悪戯でけっこう楽しかった。」
私もまったく同じ経験をしたことを思い出しました。
友達と遊ぶよりひとり遊びが好きなヘンな子・・・でした、私。
筒井さんも同じ・・・ヘンな子だったのかも知れませんね。
庭の紫陽花が美しく咲いています。
白と薄紫の花をそっと切り、リビングに活けました。
なんだか・・・胸がキュンとしてしまいました。

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伊勢湾に浮かぶ答志島

近畿大学・総合社会学部の客員教授として講義を受け持って今年で3年目です。アッというまの3年。前半期、月2回の講義です。
その中でも楽しみの一つが、フィールドワーク。
勝手に私が『師・先生』と仰いでいる方が民俗学者の宮本常一です。名著「忘れられた日本人」(岩波文庫)を読み、足元を見つめ直すきっかけを与えてくださいました。何より「現場」を大切になさった方です。旅程はほぼ16万キロ。地球を4周に及ぶといわれています。ときには辺境と呼ばれる土地で生きる古老を訪ね、その一生を語ってもらい、黙々と生きる多くの人々を記録にとどめました。私など足元にも及びませんが、宮本さんは、常に「主役になるな。主流になるな」という言葉でもって、自分を戒めておられたそうです。
学生達には「現場を見てほしい」・・・と常々思っています。
授業で「寝屋子制度」について学びました。

授業を終えて、近鉄で鳥羽に向かいます。佐田浜から市営定期船で30分ほどで伊勢湾に浮かぶ「答志島」に着きます。船上で「わ~あ、私この授業を受けていなかったら一生この島には来なかったかもしれません」という学生。
私が始めて島を訪ねたのが17年ほど前のこと。
この島には「寝屋子制度」が日本で唯一残っているところです。
「若者宿」とよばれ、少年期から青年期にかけて男子が一緒に寝泊りする集団。仲間を作り、頼んでどこかの家を宿にし、毎晩そこで寝泊りします。その若者達を預かり、宿を提供するのが、「寝屋親」です。血のつながりはありませんが、生涯、親子のような付き合いをします。

なぜ寝屋子制度はできたのでしょうか。
漁業は、板底一枚下は地獄と言われる危険な仕事。
いざ、という時に、理屈よりさきに身体が海に向かいます。

今回もお世話になったかつて漁師歴50年の山下正弥さんも、荒波の中で奥さんが海に落ち寝屋子に助けられたそうです。
「まあ~時代が変わったから多小の変化はありますが、今も島の精神的な居場所になっています」と話してくださいました。
民宿に泊まり、島の方々の優しいもてなしを受け、お話を聞き、島を散策し、たった2日間でしたが学生達は「何か」を感じとってくれたようです。
「無縁社会」が話題になる現代社会ですが、この島は違います。
答志の島に生まれ、育ち、寝屋親をし、海で生き抜いた正弥さんは言います。
「漁業が元気でなければ、この制度もなくなる・・・」と。
早朝ひとり港の周りを散策していると、かつては海に潜っていた海女のおばあちゃんが声をかけてくださいます。「おはよう」と。顔中のシワは人生の宝です。80代でも現役の海女さんがいらっしゃいます。路地を歩きながら、干した魚を見ながら、「幸せってこういうところにあるのだわ」と思いました。

埠頭の桟橋でいつまでも見送ってくださった正弥さん。
学生達にたくさんの宝をありがとう・・・と感謝いたしました。

旅は曼荼羅

朝、ベッドの上で目覚めると、一番先に思うのは、ここはどこ?
日本列島は仕事の旅。講演や取材で訪ねる先々で知り合った人々との交流は果てしなく続き、二度目三度目はプライベートな旅に変わっていきます。
旅は一期一会とよく言いますが、そういう思いを深く味わうためにはそれなりの旅の工夫がいると思います。地球上には無数の旅先があります。人より少し多くを旅している私ですが、訪ねたところはまだまだ少ないです。行ってみたいところにこと欠かないのですから、恐らくこれからも旅を続けることでしょう。
あちらにはいつもときめきがある。あちらに行って、こちらの私がみえてくる。旅先で現実をふりかえると、現実の問題もよりくっきりと整理されよくみえてくる。なんだ、そうだったのかと、自分の進む道がみえてくることもあります。迷い道があるから広場に出られて、まわり道をするから目的地が恋しくなるのです。
関西での仕事の帰り、京都へ寄り道をしてきました。
『法然院』は、京都東山の鹿ヶ谷にある浄土宗の山寺です。
銀閣寺から南禅寺や永観堂のある南方へ10分ほど歩いたところ。

山門までの石段を一歩一歩と進むと初夏の風が心地よく、青い樹木一色。
山門をくぐると、両側に白い盛砂があります。
水を表す砂壇の間を通ることは、心身を清めて浄域に入ることを意味しているそうです。
白砂壇(びゃくさだん)
そう・・・、気持ちよい空気の流れです。
桜や紅葉の季節ではないので人もそれ程多くはありません。
ガイドブック片手の海外からの旅行客が数人。
境内には蔵、隅に古い石塔が佇んでいました。

今回も法然院 貫主・梶田真章住職の法話を聞かせていただくのが目的でした。昨年の3・11以降、心のざわつきが治まらず、おはなしを伺ったのが最初でした。
「私を存在させているのは私ではなく、周りとのご縁で生かされているのです。なるべく他の存在を生かすように、生きとし生けるものに慈しみと悲しみの心を向けなさいとお釈迦様は説きました。それが慈悲です・・・」と。そして、「あらゆる命とかかわりあう」こともお話しくださいました。
清々しい気持ちで法然院を後にし、夕暮れ人の少ない哲学の道を散歩して帰路につきました。そうそう・・・哲学の道には”おいしい”スポットがたくさん集まっています。私はまる豆かんを食べました。

夏椿に魅せられて

先日、岡山山陽新聞社主宰の「山陽レディース倶楽部文化講演会」に招かれ伺ってきました。
岡山シンフォニーホール、2000名の会場は女性たちで満席。
「農と食の文化を考える~心とからだを元気にしてくれる食」というテーマでお話をさせていただきました。
私はこの40年、全国にお邪魔しておりますが、その土地に伺う時その街の空気をすいたくてなるべく前日に入ります。
新幹線から岡山の駅に下り立ち、お椀をふせたような小さな山がぽこぽこと続いている風景を拝見するたびに、ああ帰ってきたとつぶやきたくなるような懐かしさを感じます。そしてまるく高く広がっている空を見ると、心がふわっとひろがっていくような開放感にいつも包まれます。
今回もそうでした。そして地元の新聞を読みます。
山陽新聞・朝刊、岡山市民版に「ナツツバキ涼しげ」・・・とカラー写真と記事が載っておりました。

北区一宮の徳寿寺の境内でナツツバキが開花。とあります。ナツツバキのことは知っておりましたが、梅雨時に咲く花で、なかなかタイミングがなく今まで見たことがありませんでした。
さっそく早朝、徳寿寺にまいりました。6時すぎでしょうか。お寺のおばあさまにご挨拶いたしましたら、裏庭にご案内してくださいました。真っ白な可憐な花がこの梅雨時に爽やかに朝日を浴び咲いておりました。
おばあさまが、「ご覧になって、花びらに紅をひいたように赤がありますでしょ」と教えてくださいました。
艶ぽい・・・。
ナツツバキはツバキ科の落葉高木。
朝に咲いて夕方には落下する一日花のため、平家物語で世の無常の象徴である「沙羅の花」とされた。と記事に載っていました。
足元には落下したナツツバキ。
また幸せな時間がもてました。
岡山でお食事をいただくと、その美味しさに驚かされます。何気ないメニューであっても。お野菜もお魚も卵もお肉も本当においしくて、関心してしまうのです。それも道理、岡山の販売農家数は、中国地方では一番多く、全国でも十六番目。およそ6万戸の農家がこの地で生産にがんばっていらっしゃる。
桃太郎伝説誕生の地にふさわしい、気品あふれる白さととろけるような味わいが特徴の岡山白桃。そして、エメラルドグリーンの房と豊かな芳香で「果物の女王」と呼ばれるマスカットの素晴らしい味わい。これらの果物は芸術品だとさえ思えます。
また、岡山県は全国に先駆けて、有機無農薬農業に取り組んだ県です。私たち、安全で安心なものを求める消費者にとっては、「おかやま有機無農薬農産物」はまさに信頼のブランド農産物です。私は、岡山にうかがうと、ヨーグルトを必ずと言っていいほど、いただきます。ジャージー牛の牛乳で作られていて、甘く、深いコクがあるのです。岡山はジャージー牛全国第1位の県であるからです。
さらに、ママカリ・牡蠣・タコ・鯛・アナゴ・シャコなど瀬戸内海の魚介類のおいしいこと。
海・山・川の自然に恵まれた岡山の豊かさを感じさせていただきました。
会場の女性たち、みなさん それらを生かし、親から子へ子から孫へとつないでいらっしゃる方々ばかり。
会場の皆さま!ありがとうございました。またお逢いしたいです。

女性たちが元気で美しい山間の町

岐阜県山県市の美山地域に残る伝統素材「桑の木豆」を、地域の味として伝えていこうと頑張っているの女性たちのいる「ふれあいバザール」をお訪ねしてきました。
バザールが発足して15年です。
美しい山の町という、まさにその名の通りの町です。
私を迎えてくださったのは、20年来の友人、元山県農業改良普及センターの山岡和江さん。美山の女性たちの頑張りは山岡さんの指導のお陰かも知れません。

山岡さんがまず連れていってくださったのが、「あじさいの山寺・三光寺」境内花園では、二百余品種・一万余株にも及ぶ「山アジサイ・額アジサイ」が花曼荼羅のように咲いていました。初めて見る「岩がらみ、そしてブルースカイ・紅花甘茶・白妙」など等あじさいを見ながら庭の木の下で、、ところてんを頂きながら至福のひとときでした。
ふれあいバザールの女性たちとは、私が「食や暮らしや環境」に興味のある女性たちとヨーロッパ研修にでかけて知り合い、その情熱・実行力・優しさに感動していらいのお付き合いです。
田園暮らしに関して、ヨーロッパのライフスタイルは日本に比べて、一日の長があります。農業が暮らしとあいまって、豊かな生活環境の創出に素晴らしい知恵が発揮されているのです。その環境作りを学ぼうと、英国・ドイツ・フランス・イタリアなどの田園の暮らしぶりや、さまざまな農業環境を視察し、あちらの女性たちとの交流の旅を20年近く、延べ200名くらいの女性たちの参加でした。
そんなご縁で、美山には以前にも伺っております。
みやま・・・古代から美濃森下紙が漉かれ、貴族や寺社に尊ばれたという町です。
美山は品と豊かさとセンスのある町です。
気持ちよく余所者を受けとめ、なごませてくださる。
「ふれあいバザール」がまさにそうした空間なのです。
周囲を山々に囲まれ、山百合が咲き温かな空気、人々の、えも言われぬ優しさ。そんな場所にあります。

建物に入ると左手側に地元でとれた新鮮な野菜や加工品などが並び右手側が食堂。この地域でしか栽培していない「桑の木豆」、国産そば粉の手打ちそば。これを目当てに大勢の人たちが訪れます。店舗前の駐車場は午前中から静岡名古屋など他県ナンバーの車でいっぱいです。奥の厨房ではすべて手作りでそばを打ち、山菜天ぷらを揚げ、てきぱきと働く姿の美しいこと。
1997年4月のオープン以来の黒字経営です。
生産者に85パーセントは支払い、その残りの15%で市から借りている建物の家賃やスタッフの人件費、などすべて賄われています。建物の改修や駐車場の整備など行政に頼らず自立しています。そんな経営を学びたいと、全国からの視察が相次ぎ、注目を集めています。リーダーの藤田好江さんとも長いお付き合いです。彼女はじめ、皆さんが兼業農家か趣味で農作物を栽培しています。
皆さんバザールで生き生き働いています。
皆さんの『とびきりの笑顔』が何よりのおもてなしです。
生産・加工・販売、そして食堂経営。
理想的なかたちです。
そばは毎朝、200名分を手打ちで作り、天ぷらは摘みたての桑の葉やミズキ、ダイコンの葉、水菜、どくだみの葉もすべてカラッと揚がっています。藤田さんはお客さんが「美味しい・美味しい」と言って食べてくれるだけで幸せです・・・と。
『食は命そのもの。農を考えることは、未来を考えること』だと私は思っています。
「ふれあいバザール」のみなさん!そしてサポーターの生産者や地元の方々、他県の人。皆さんありがとう!また伺いますね。
美山という町で私は、非常にバランスのとれた「人と産物と環境」を見せていただきました。東京から名古屋から岐阜へ。岐阜から入っていく夢回廊などと呼びたい、いわゆる観光地とは一味も二味も違う、暮らしの広がりと農村の未来がそこにひろがっているそんな旅をしてまいりました。

六月の杜・明治神宮御苑

東京での仕事の合間、東京の森を散策してきました。
私はこの森が大好き。ニューヨークのセントラルパークやパリのブローニュに負けない、いや勝っているかもしれない美しい森です。

原宿駅に降り立ち、神宮橋を渡り、右手奥に第一鳥居が見えてきます。この鳥居をくぐると、もう一瞬のうちに森に抱かれる感じがして、心がゆったりとしてきます。昼下がりのひととき・・・初夏の風が心地よく、椎の木、樫の木、楠などが、豊かな葉をしげらせて私を迎えてくれます。外国の方々も多く、明治神宮までの参道を樹木を見ながら歩いています。
明治神宮は、大正九年(1920年)、なんと今からおよそ100年前に明治天皇と昭憲皇太后を祀るために造られた神宮です。面積は約七十ヘクタール。当時、この辺りは代々木御料池のあった所で、武蔵野の一部だったそうです。おしゃれの町、原宿も原宿村だったんですね。この辺一帯は、農地や草地で林は少ししかなく、荘厳な神社を造るためには、林の造成が必要だったんですね。

樹木の多くは全国の篤志家の献木だったそうです。
荘厳な森林というのは、すぐできるわけではありません。
神宮造営のために、当時の最先端の林学・農学・植物学者から造園家まで、多くの人々が森造りに参加したのですね。
ここに、人の手によって神宮の森の造成が始まり、庭園とゆうよりもっと昔の森林の状態を再現しました。当時の資料によると、東京市の小学生児童の献木は五千件以上あったそうです。それらの樹木が、今の神宮の南北両参道に植えられたそうです。参道を歩くとき、小さな手で造成現場に献木を持って行った小学生の姿が目に浮かびました。
昔、昔のみなさん、有難う。
豊かな樹木を見ると、思わず大正時代の多くの先達に感謝したくなります。
六月はなんといっても菖蒲です。
見ごろは中旬ころ。
私は何度も通いました。現在は百五十種にも増え、あまりの美しさに息を飲む、そんな感動が体験できます。
鬱蒼と繁る樹木の一本一本に、”ありがとう”と声をかけ、気持ちがスーッとしました。
たくさんの酸素が神宮全体をキレイにしているように感じました。
たった2時間の小さな旅でした。