バラの香りとヌード展

初夏、どちらを向いても青々と茂れる緑。私たちの暮す日本の自然はこの時期はとくに”生命力”を感じます。

先日、お休みの日に早起きをして早朝のバラを観に横浜イングリッシュガーデンに行ってまいりました。

英国庭園をを思わせる素晴らしいガーデン。早朝はとくに香りがちがいます。正面を入るとローズトンネル。ローズ&クレマチス。ワインレッドやパープルやダーク・レッドのクレマチス。素晴らしいダマスクの香りを放っています。いい香り・・・ときめきガーデンの深紅のバラ。白バラを主役にした宿根草、純白、象牙色、青白などの植物が様々な白を楽しませてくれます。

ハーブの香りも素敵です。椅子に座り、その香りをじゅうぶん満喫しました。遅咲きのバラもまだ5月下旬ころまでは楽しめそうです。約300品種のアジサイとバラの共演。1800品種2000株のバラが見事です。

クレマチスも大好きな花。お花好きな女性連れの若い女性にカメラのシャッターを押していただき、しばらく長いすに座ってのおしゃべりを楽しみました。丹精をこめてこのような美しい花を見せてくださるスタッフの方々に御礼を申し上げます。

このガーデンは四季折々の草花や樹木を春の芽吹きから枯れゆく秋の自然の風景まで何年もかけて育ててくださるのでしょう。こうした空間が心の豊かさ潤いを与えてくれます。

そして、向かった先は「横浜美術館」。英国を代表する国立美術館、テートの所蔵作など134点。『ヌード NUDE-英国テート・コレクションより』展。

展示室には年代やテーマごとに絵画や写真。そして彫刻が並びます。アンリ・マティスが1936年に制作した「布をまとう裸婦」は豊満な裸体をあらわにし、ポーズをとる女性。花柄のガウンをまとう姿は、魅惑的で、エキドチックな植物が背景に描かれ、実に自然体のヌードです。

会場の8割がたが女性です。ネヴィンソンの「モンパルナスのアトリエ」。ターナーがスケッチブックに残した水彩画。この水彩画はターナーが旅先で遭遇した男女を官能的に捉えたもので、画家の死後、その名声を守るために多くは処分されたそうですが、廃棄を免れた貴重な作品です。

ピカソ、ルノアール、デルヴォーの「眠るヴィーナス」などの作品を観て最後に日本初公開のロダンの大理石彫刻「接吻」(写真撮影可)360度すべてを回りながら鑑賞できます。ロダンの人生も波乱万丈。どんな想いでこの作品に臨んだのでしょうか。

「ヌード」は根源的なテーマですよね。そして、そのヌードにどんな秘密があるのでしょうか・・・芸術表現としてどのような意味をもちうるのか。人間にとって最も身近なテーマに、西洋の芸術家たちは、美の象徴、愛の表現、内面にどんな思いを馳せて描いたかを想像するのも素敵です。

バラの香りとヌード。豊かな気持ちで帰路に着きました。

横浜美術館「ヌードNUDE 英国テート・コレクション」展は6月24日まで。

エミール・ガレ 自然の蒐集

ゴールデンウイークも終わり、また日常の生活にもどりましたね。皆さまはどのようにお過ごしでしたか。

私は日ごろ行き届かない掃除や読書。早朝のウオーキングは毎朝約1時間、芦ノ湖の周りを歩きました。皆さん、もう6時前から釣りを楽しんでいました。

富士山を見ながらのウォーキングは最高に幸せなのですが、もう少し出かけたくなり、強羅近くのポーラ美術館へとバスを乗り継ぎ、初夏の風を感じながら行ってまいりました。

観たかった『エミール・ガレ 自然の蒐集』です。

開館以来初となるエミール・ガレ展です。植物学や生物学など自然をモチーフに作品が素晴らしいガレ。今回、『ガレが魅せられた「神秘の森」「驚異の海」』と書かれています。

ガレが活躍した19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパでは日本植物ブームが起っていました。ガレは自邸の庭で、2500種あまりの植物を栽培していたとのこと。浮世絵などによる日本趣味だけではなく、「園芸のジャポニズム」も芸術に大きな影響を与えたことが良く分かる展覧会です。

日本の植物を持ち帰ったドイツ人の医師であり博物学者であったフリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796-1866)の存在は大きかったと思います。マツ、ソテツ、タケ、フジ、アジサイ、モミジ、ウメ、そしてユリにも魅せられたようです。ガレの植物リストにはテッポウユリを度々購入した資料もあります。ガレのガラスの作品の中で日本の花が見事に開花されています。

今回の展覧会でとても興味深かったのは、作品を彩るモチーフはただの装飾ではなく、ガレ自身の科学の観点からも捉えられているところです。

鉱物標本、昆虫、植物などの標本は「東京大学総合研究博物館」からの出品です。自然のかたちから多様なモティーフを工芸へと生み出された背景がとてもよく分かる展覧会なのです。

58歳という若さで白血病のために死去しますが、晩年のガレの作品からは、”自然の偉大さと生命の神秘”へのかぎりない愛が存在していたのでしょう。私たちより100年以上前にガレは環境保護の必要性を訴えています。

ガレの工房の扉には『わが根源は森の奥にあり』という言葉が掲げられていたそうです。

ときには喧騒を離れ、神秘の森に身をゆだねてみてもいいですね。

箱根はこれからアジサイが咲き、新緑のなか、箱根湯本から登山電車に乗り、終点の強羅で降り、「観光施設めぐりバス」に乗ると美術館の前に着きます。

そして、美術館を見終わったら、敷地内の「森の遊歩道」がお進めです。のんびり歩いても20分ほど。ブナ・ヒメシャラ(花は7月初旬に咲き、開花期は1週間ほど)ですが、5月~7月にはヤマボウシの花がまるで夏、真っ白の帽子をかぶったような姿がみられます。

初夏にかけてはメジロ、ウグイス、キビタキ、など美しい歌声が聴こえてくるでしょう。ペット連れの方もこの道はリードを使えばOKです。

「エミール・ガレ 自然の蒐集展」は7月16日(月)までです。
会期中は無休
開館時間午前9時~午後5時

美術館の公式ホームページ
http://www.polamuseum.or.jp

おにぎりと日本人

大型連休もあと2日で終わり。この連休中、おにぎりを握ってどこかえ出かけた、あるいはコンビニで購入してお出かけ、というご家庭もあったのではないでしょうか。

お子さまのお弁当に、受験の時の夜食におにぎりを握ったというお母さんもいらっしゃいますよね。いえいえ・・・この頃はお父さんが、という方もおられますよね。

私もお弁当作りはずいぶん長い期間いたしましたし、子どもが小さい頃は土曜・日曜などは庭にゴザを敷いて、おにぎり・卵焼き・ウインナーなどカゴにいれミニピクニックを楽しみました。

ところで”おにぎり”って日本にしか存在しない・・・って知っていました?

知っているようで知らない、日本人のソウルフード『おにぎり』について書かれた本に出会い、そもそも、おにぎりは日本でいつ頃から存在していたのか。稲作が中国大陸、あるいは朝鮮半島から伝わったことを考えると、中国や韓国にも当然おにぎりは食べられていたはずですし、「おにぎり」と「おむすび」の呼び方が違うのは何故?と謎は深まるばかりです。

そこで出会った素晴らしい本が、増淵敏之さんの『日本人とおにぎり』(洋泉社)です。

増淵敏之さんは1957年、札幌市のお生まれ。東京大学大学院・総合文化研究科 にて博士課程を終了。以前はFM北海道、東芝EMI、ソニー・ミュージックエンタテイメントなどに勤務され、現在は法政大学大学院・政策創造研究科の教授。地域の物語性を観光資源として活用するコンテンツツーリズムの専門家でもあります。

海外、日本国内をフィールドワークする学者であり、歴史や地域性を研究する方でもあり、ぜひラジオでお話を伺いたいとお招きいたしました。

コンビニで販売しているおにぎりの具材の多さにびっくりしますよね。鮭・昆布・梅干など昔ながら定番に加え、炙りサーモン、大葉味噌、チャーハンむすびに、あさり混ぜご飯など。よく聞く”ツナマヨ”を私は食べたことがなく、先日買って食べてみたら美味しい!のですね。この商品の生まれたエピソードも伺いました。

さて、そもそも、おにぎりは日本でいつ頃から存在したのか。

1987年11月、石川県中能登町にある弥生時代の遺跡「杉谷チャノバタケ遺跡」から、奇妙な物体が出土されたそうです。真っ黒に炭化した、手のひらに載るくらいの塊で全体が円錐状になっていて人為的なもの。塊が蒸した米であったことから、増淵さんは「おにぎり」である、とおっしゃいます。

弥生時代中期から後期、水耕稲作が大陸から日本列島に伝わり、定着したころのものと増淵さんは推測されています。

「原始的なおにぎり」と現在の「おにぎり」とは異なり、私たちが食するおにぎりは炊いたお米を握ります。しかし当時は、殺菌効果がある笹の葉に巻いて加熱したようなのです。

それらは「お供えもの」、つまり神事に使われていたようです。日本文化のお米は、信仰の対象なのですね。そうか・・・。私たちが日ごろ食べているおにぎりは、実は神聖な食べものであることが本を読むとよく分かります。

『源氏物語』にも「握飯(にぎりいい)」として登場します。

稲作が中国大陸(または朝鮮半島)からやってきたならば、なぜ中国には「おにぎり」がないのか。それは、中国人は冷えた食事をする習慣がないから、とおっしゃいますし、韓国にも「おにぎり」としてはなかったそうです。

鎌倉時代、承久の乱では幕府の武士におにぎりが配布され、戦国時代に全国に広がり、江戸時代には庶民の食べものになったとか。そこで、「おにぎり」と「おむすび」の違い!は?地域性なのか、他の理由があるのか?

答えはぜひラジオをお聴きください。

みんなが大好きな”おにぎり”には物語があるのです。私たち独自の素手で食べる「おにぎり」や「お寿司」って、人の温もりが感じられますよね。

”お母さんの握ったおにぎり”

やはり子供達にはその温もりが、愛が大切なのではないでしょうか。
増淵先生からいろいろなお話を伺いました。

文化放送「浜美枝のいつかあなたと」
5月6日 日曜日
10時半~11時の放送です。

綾小路きみまろさん

若い頃はよく愚痴をこぼしていました。
あれから40年。今はご飯をこぼすようになりました。
皆さまお元気ですか、綾小路きみまろでございます。

時が経つのは早いものです。
2002年に「あれから40年」のフレーズとともにブレイクした私ですが、あれから早15年。おかげさまで、こうしてまだ何とか芸能界で生き残っております。皆さまはいかがですか?まだ生きていますか?

こうしたフレーズではじまる綾小路きみまろさんのご著書「しょせん幸せなんて、自己申告」。帯には、山あり谷あり涙あり。売れない”潜伏期間”を経て、たどりついた「幸せのありか」と書かれております。

私がニューヨークタイムズの記事で綾小路きみまろさんを拝見したのは、7,8年前でしょうか。写真入りで大きく掲載されていました。

「中高年の女性の心を捉え、話術の巧みな漫談」というような記事だったと記憶しております。外国人の記者の目からも彼の才能と人間的な魅力が綴られており、その頃の私も「この方って只者ではないわ」との印象が強くありました。

”潜伏期間30年”ブレイクしたのは50歳を超えてからというきみまろさん。いつか、一度お会いしたいと思っておりました。今回のご本を拝読し、ただの苦労話ではなく、今、何かに悩んでいたり、迷っている人の背中を押す名言が散りばめられていて、ぜひ直接お話を伺いラジオをお聴きの皆さんにもご紹介したいと思いスタジオにお迎えいたしました。

ふるさとの鹿児島県志布志(しぶし)市を後にして上京します。「司会者」に憧れてのことでした。お父様は農耕馬の種付け師で、上京することには賛成し、背中を押してくださったようです。

最初は北千住の新聞販売店で住み込みで働き、その後キャバレーのボーイ時代に司会者に抜擢され成功しつつも自分が目指す「芸」の道とは違う!と思い、漫談の道をめざします。

高座にも立ち、自作のテープを観光バスに売り込み、2001年、寄席芸人「綾小路きみまろ」が誕生。”潜伏期間”にどんな思いで芸を磨いていたのか、学んでいたのか。人間、なかなか、これだけ長い期間潜伏!って出来ませんよね。そこには”山あり・谷あり・涙あり”きみまろさんならではの「幸せのとらえ方」を伺いました。

芸能の世界、”お笑い”の方々の努力は並大抵のことではないのですね。同じ時代を生きた、ビートたけしさんとの出会いも、初めてお会いしたのは、まだお互いに無名だった20代の頃。

当時の日本は、ちょうど高度成長期の終わる頃。人々の暮らしも豊かになり娯楽がもてはやされた時代。きみまろさんはキャバレーで活躍しつつ無名のどさ回りの芸人。

個性的な芸人など多彩だったそうですが、たけしさんは合方のきよしさんと舞台袖で掛け合いの練習を丹念になさっていらしたとのこと。

「オーラがあり近寄りがたい人」。”毒舌”の草分けで、早口で、政治や事件、芸能、ヤクザ、老人介護など、あらゆるタブーを一刀両断してしまう。ことごとく本質を突いているため、お客は眉をひそめながら、笑わずにはいられないのです。

きみまろさんもすでにこの頃から毒舌漫談で売っていた頃、「これは敵わないな」と思われたそうですが、80年に漫才ブームが到来し、たけしさんは時代の寵児としてスターダムを駆け上がっていきます。

そんな時代に木造アパートに住みながら、あいかわらずキャバレーまわりをして芸を磨いていたきみまろさん。

たけしさんとの最初の出会いは渋谷のパルコ劇場(当時は西武劇場)だったそうです。私も良く通った劇場です。正直、口にはだしませんし、頭では「自分は自分」と思っても夜、布団に入って目を閉じると、「ちくしょう・・・こんちきしょう!」という気持ちがこみ上げてきますよ、ときみまろさんはおっしゃいます。

そんな時には一人近くの公園に行き、疲れ果てるまでネタの練習をしたそうです。そこで「人生、多少の浮き沈みはあっても、みな平等に死んでゆく」「人間の死亡率100%」などのフレーズが浮かんだそうです。

腐ったら、終わり。
あきらめたら、終わり。
もう一度たけしさんと同じ舞台に立ちたい。

それから時代が巡って2015年。ある番組でたけしさんとご一緒し、馴染みの焼き鳥屋さんで飲みながら「昔からずっと憧れていたんです」と告白すると、たけしさんがこう言いました。「いや、違うんだきみまろさん。おいらがあんたに憧れていたんだ」と。

たけしさんは売れてからも、きみまろさんの出演しているキャバレーでやっている漫談をお忍びで観にいっていたそうです。「なんできみまろが表にでないんだ」と。

30年の時を経てこんにちのきみまろさんがいらっしゃるのですね。

人一倍照れ屋のたけしさんが、笑わずに、私の手を握りしめてくれました。たまらずうつむいた私に、たけしさんは穏やかな声で「よくぞ這い上がった。同じ時代を生きた男として、あなたを誇りに思います」と仰られたそうです。

「自分のことなんて、誰も気にしてやいない」そう思っても、どこかで必ず、誰かが見てくれています。そう本に書かれています。

しょせん幸せなんて自己申告』。
スタジオで孤独についても伺いました。

「人生終着駅では、みんな一人ぼっち。寂しいから笑うんです。」と笑顔でおっしゃるきみまろさん。ニューヨークタイムズの記者はそんなきみまろさんの人間的な魅力に魅せられたのでしょうね。

そして、全国の中高年の女性たちは、きみまろさんの毒舌を聞きながら「自分自身を励まして」いるのではないでしょうか。

ラジオは2週続けて放送いたします。
ぜひ、お聴きください。
そして本をお読みください。

文化放送「浜美枝のいつかあなたと」
日曜日 10時半~11時まで
3月4日と3月11日放送

熊谷守一 生きるよろこび

寒い日が続くなか、春を感じるような穏やかで暖かい日、先日ラジオ収録後、竹橋の東京国立近代美術館に没後40年を記念して開催されている『熊谷守一 生きるよろこび』展を観に行ってまいりました。


熊谷守一の絵を最初に観たのは、そう・・・かれこれ50年ほど前だったでしょうか。倉敷の大原美術館に行ったときです。

エルグレコの「受胎告知」が目的でしたが、熊谷守一の「陽の死んだ日」(15号の油絵)にまず出会いました。

最初は「何が描かれているのかしら?」と思う絵でした。赤い布を首のまわりに巻いた子どもが目をつぶっている絵。画面右下に「陽ノ死ンダ日」と書かれているのを見て、「子どもの死」であることに気づきます。

”わが子の死を絵にするの?”と驚き『熊谷守一』を知ることになります。それは熊谷の最晩年の時期だと思います。そして、その魅力に引き込まれていってから、半世紀がたつのですね。

今回の展覧会は明治時代後期から亡くなった1977年まで、約70年間も絵を描き続けてきた画家の200点以上が一堂に会します。

97年の長い人生 貧困や家族の死などさまざまなことがありながら、また絵がまったく描けなかった時代、それでも友情に恵まれ、愛され、妻秀子との出会いにより作風も変化し、大パトロンの木村定三氏の出会いも大きな存在でした。

この人ほど人生の節目節目で素晴らしい人に出会えているのもきっと彼の人間性でしょうか。生涯、名利に背を向け、文化勲章も辞退したそうです。

田村祥蔵さんのお書きになった『仙人と呼ばれた男』(中央公論新書)をお読みになるとその生涯がよく分かります。「誰が相手にしてくれなくとも、石ころ一つでも十分暮せます」と帯に書かれていますが、田村さんはご本人にまた奥様からも直接お話を聞かれておられます。

書から水墨画、デッサン、日記、スケッチなど、また個人蔵で普段みることのできない作品もあり、その人生を深く知ることができます。

雨滴、豆に蟻、蝋燭、ヤキバノカエリ、猫、土饅頭、畳、そして私が50年前に衝撃をうけた「陽の死んだ日」も大原美術館からきていました。晩年は自宅の庭でネコ、カエル、蟻や雨の粒・・・小さなものへの愛情があふれます。

最晩年の「朝の日輪」には言葉ではあらわせない”生きるよろこび”を体ごと感じることができました。会場には外国人・中高年・若い方々など幅広い層の人たちでいっぱいでした。

私の住む箱根の山は雪が消えるまであと少し。
春の足音を感じながら帰路につきました。

東京国立近代美術館
3月21日(水)まで
10時~17時
土曜日は20時まで。
休館日(水・祝)
竹橋から徒歩5分
美術館公式ホームページ
http://www.momat.go.jp/am/exhibition/kumagai-morikazu/

 

第三回『箱根三三落語会』

「箱根三三落語会」を今年も、箱根やまぼうしで開催いたします。
今年36歳の三三師匠。
若手落語家の筆頭を走り、お若いのにその芸はまことに正統派。
師匠の柳家小三治師匠は「芸は自分で磨くもの」とおっしゃっておられます。
三三師匠の魅力は、その「口調の良さ」といわれます。
4月22日。
箱根の我が家・やまぼうしはコメ桜が満開の季節を迎えます。
うつむき加減に下を向いて咲く可憐な桜。
古民家の柱や梁、イギリスの家具・李朝のたんすに水屋。 
みんなこの日を待ち望んでいます。
噺が始まるとそれらが、噺に引き込まれていくようです。
1回・2回・・・その空間は寄席とも違う空気で師匠のお噺がきけました。
さあ、3回目が楽しみです。
そして、終わってから三三さんを囲んでの食事をしながらの”おしゃべり”。
ほんとうに魅力ある・優しいお人柄。みなさんがその魅力に感動なさいます。
ご一緒にいかがですか、お待ち申し上げております。
なにより私がワクワクしております。
http://www.mies-living.jp/events/2012/hakonesanzakai1204.html

那須への旅

あれは秋深い、風の心地良い朝のことでした。
那須を訪れた時のことです。那須は十数年ぶり。
朝食をとるために階下のレストランに行くと、目に入ってきた美しい「ワインクーラー」。シャンパンが入れられ、グレープジュースと一緒に飲みました。
「このワインクーラーはどなたが作れれたのでしょう」と伺うと那須在住の若手作家とのこと。魅せられました。ダイナミックで、そしてエレガント。色は軽やか。
「このワインクーラーにシャンパンをいれクリスマスに飲みたい!」
そんな思いがいたしました。
そこで今週はじめに、その作家の方をお訪ねしてまいりました。雑木林の中にたつアトリエ。でも、作品からは海の香りがするのです。
沓沢佐知子(くつさわさちこ)さんは1976年三重県尾鷲のご出身。
子供時代を海のそばで暮らされたとのこと。
全関西美術展 彫刻 第一席受賞。
京都教育大美術科 大学院終了。
かずかずの立体個展をなさってこられたのです。
ご縁って不思議ですね。美しいものを探すきっかけってこうして出逢うのですね。美術館に収められている作品ももちろん素敵です。でも、私は毎日使うことが大事で、そこに遊び心があったら申し分なし。新しいとか古いというよりも、「自分の好きなもの」に心惹かれるのです。
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アトリエの作品を拝見すると、海の匂いと森の空気が融合しているのです。そして、横には素敵なバーがあるのです。声楽家だったご主人が料理を学び、カクテルをつくり、そこには”大人の空間”がひろがります。
箱根の森の「やまぼうし」で展覧会をしてください!佐知子さんの作品、ご主人のカクテルに料理で。とお願いをさせていただきました。「湘南の海で貝殻や砂など素材をさがしますね」と佐知子さん。
再来年の夏の終わり虫のすだく声を聞きながらの展覧会。
きっと素敵だと思います。
楽しみにしていてくださいね。
その前に・・・来年のクリスマスイブまでにキリッっとシャンパンを冷やすワインクーラーをお願いいたします、佐知子さん。

寒中お見舞い申し上げます。

寒中お見舞い申し上げます。
箱根の我が家から、冬、白くなった富士山がきれいに見えます。
朝日を浴びた富士山はそれは美しく、心が洗われるような気がします。
昨年、拠点を箱根の家ひとつに決めました。東京のマンションがないと出張のときなど不自由かもしれないと思わないこともなかったのですが、逆に楽しみも増えたように思います。
まず、暮らしがすごくシンプルになりました。
朝は日の出と共に目覚め、時間に余裕があるときには箱根の山を歩いています。すっかり寒くなったので、マフラーを首にしっかりとまいて、手袋をはめて。
清涼な山の空気を呼吸しながら、山道を歩くと、いつのまにか体もあたたまって、1時間が過ぎる頃にはもっと足を伸ばしたくなっています。
また、東京にマンションがあるときは、いつでもどこにでも行けると思っていたために、うっかり展覧会や映画を見逃したりしたこともありましたが、今ではすべてスケジュールに組みこむようになり、これはというものを見逃すことがほとんどなくなりました。
秋から年末にかけては例年通り、とてもいそがしく、仕事の合間を縫うようにしてプライベートのスケジュールをほんの少し入れるくらいだったのですが、これからは美術展を楽しむためだけに東京に足を伸ばすような、贅沢も少しずつ味わってみたいと思っています。
今年は、箱根の暮らしを楽しみつつ、じっくり自分と向き合っていくつもりです。
そして、仕事の面では、課題山積みの日本農業のサポーターとして活動を続ける一年にしたいと思っています。
いい年になりますように。
みなさまのご健康とお幸せを祈りつつ
               
浜 美枝