環境教育は自然を感じることから

あなたの学生時代、学校にはいくつ、ゴミ箱がありましたか?
もう昔のこと、覚えていないわ!ですよね。

では、お子さん、お孫さんの学校・幼稚園ではどうでしょうか。この頃、特に”フードロス”の問題がニュースで取り上げられるようになりましたね。つまり”ゴミ問題”です。

私はかつてグリーンツーリズムを学ぶために、農村女性の方々と15年近くドイツに毎年行きました。そこで聞いた話しです。

ドイツのフライブルグ市にあるメルディンガー小学校には、たった一つのゴミ箱があるだけだそうです。メルディンガー小学校は、ミミズによる環境教育で世界的にとても有名な小学校でもあります。

教室に置かれた木枠とガラス板でできた箱の中には、土と枯葉が入れられており、ミミズがそこに棲んでいます。子どもたちは、ときどき水をかけて土が乾かないようにしています。餌は食べ残しなどを与えます。

ミミズの名前が「カーロ」。カーロが姿を見せることはほとんどありませんが、カーロが生息しているので、食べ残しや枯葉が分解されます。そこで、カーロが生きて活動していることを、子どもたちは知るそうです。

カーロの箱にはアルミやプラスチックなどは土に変えることができないことを子どもたちは、ごく自然に理解します。自分の体験として、環境型社会の仕組みと、ゴミを減らす大切さを感じるわけです。

昼食はお弁当箱に、飲み物はペットボトルではなく水筒に入れて学校に来るようになりました。そして、出すゴミが少しづつ減り続け、一つのゴミ箱ですむようになったそうです。

また、小学校のミミズによる環境教育をきっかけに、子どもたちの親によって、やがて地域全体へとゴミを減らす運動に広がっていったそうです。  

開発や土地利用計画において、ドイツの環境規制は世界一厳しいといわれます。私も何どもお邪魔していますが、ドイツのその徹底ぶりにはいつも舌をまいていました。土地開発と自然保護とは相反することのように思われますが、ドイツでは自然を復元・創造し、都市生活と両立できる方向で土地開発も進められてきました。

現地でお話を伺うと、これが一朝一夕に成し遂げられたものではないことがわかります。   ドイツも、日本同様、戦後、環境破壊が進みました。けれど1980年代に入って、国をあげて自然環境保護に取り組むようになったのです。

今、ドイツに広がる緑豊かな森の多くは、破壊から再生への道をたどったのだそうです。こうした、自然環境保護を支えるのが、”環境教育”です。  

私が訪ねたある幼稚園では、園地の池にプラスチックをはじめとするさまざまなゴミを投げ込んで、それを見せるのだそうです。日にちがたつうちに、有機質のゴミは朽ち果ててやがて分解されていきます。けれどプラスチックはいつまでもその形のまま。やはりこちらも体験として、環境型社会に必要とされる基礎知識を学んでいくわけです。

こうした教育を受けた子どもたちが大人になれば、土に還るものを、あるいはリュースできるものを当たり前のこととして選び、環境型社会を築く一役を担うはずです。  

オピニオン・リーダーたちが「環境破壊反対!」と述べることも大切です。けれど、ひとりひとりが環境を守るための知識を持ち、行動していくほうが力になるのではないでしょうか。

ドイツに住む長年の友人が語ってくださいました。

「環境教育は短時間ではできないんですよ。促成栽培ではダメ、じっくり時間をかけて、段階的に連続して行うことが大切。そのなかで重要なのは、自然体験だといわれています。自然を身近に感じると、子供たちの環境感がポジティブなものに変わると、親も教師も、まわりの人たちもみんな認識します。」  

頭だけじゃなく、肌で、匂いで、音で、目で、舌で、と五感をフルに働かせた経験は、楔のように、人の心にがっちりと食い込んでいくように思うのです。  

日本経済新聞(5月31日)に『ごみ363万トン大移動』とありました。産業廃棄物が処理場を求めて日本列島を移動している。首都圏は6年で満杯になるそうです。

またこちらも日本経済新聞(6月4日)に『使った食器捨てずに返そ!』プラごみ削減へシェア事業。とありました。 コロナ禍でテイクアウトが生活に定着しました。ドイツではカップやトレーを含め使い捨て容器の使用が禁じられているそうです。海外では取り組みが進んでいる。とありました。

日本でもさまざまな取り組みが行われ始めました。昔、子供のころお鍋を持ってお豆腐屋さんに買いに行きました。卵は新聞紙に包んでもらいました。買い物籠をさげての買い物。昔に戻ることは出来ないけど、工夫はできますよね。

コロナが落ち着いたら、”マスク”をはずじ、思いっきり子どもたちに自然のなかで遊んでほしいな、と思うこのごろです。

特別展 琉球

待ち焦がれた展覧会に行ってまいりました。「特別展 琉球」。
上野の山には初夏を思わせる日差しが降り注いでいました。

沖縄は先月15日、復帰50年を迎えました。

私が沖縄に、そして沖縄の工藝に魅せられたのは中学時代。図書館で出会った柳宗悦の本がきっかけでした。「民藝紀行」「手仕事の日本」などに引き寄せられたのです。

柳は大正末期に始まった民芸運動の推進者で、”旅の人”でもありました。彼は「民藝の故郷は沖縄にある」と述べています。中国や朝鮮半島の影響を強く受けた沖縄文化に、柔軟で開かれた姿勢を高く評価したのです。

多様性に満ちた文化に触れながら、柳は「すべてのものを琉球の血と肉に変えた工藝」とも表現して、琉球工藝に注目しました。

そうした彼の著作に触れ、私の関心は一気に琉球の工藝へと向かいました。私の”沖縄通い”は復帰の前年からスタートし、既に半世紀を越えました。

今回の展覧会には琉球の芸術・文化、中でも首里城を舞台にした琉球王家代々の宝物などが数多く展示されています。漆器や染織など、それらの高い技術や美意識は、どのように生まれたのか?まるで、歴史絵巻を眺めるような雰囲気の会場でした。  

私が特に楽しみにしていたのは、「国宝・紅型綾袷衣装」でした。胸や肩に鳳凰が舞う、鮮やかな黄色地。腰から裾には、中国の官服に見られる文様の入った紅型です。これは、若い王族が儀式などで用いた衣装でした。

琉球王朝は15世紀から19世紀まで450年続きました。そして、先の大戦も含めて混乱と破壊。琉球の多くの”宝”は散逸し、消滅しました。その中で、明治以降、県外に運び出された文化財も多かったといわれています。

生き残った”宝”を、これからどう守り、伝えていくのか?会場に設けられた最後のコーナーには、”未来へ”というタイトルが付けられていました。

将来を見つめる国宝級の”御玉貫”は、王家で使われた祭祀の道具です。県が音頭を取り、王朝時代からの歴史を紐解きながら復元させた逸品です。新たな文化を育てていく役割がある。そこにも、未来を展望する復帰50年の展覧会にしたいと願う、多くの関係者の熱意が感じられました。

今回の展覧会では、私の出逢いたかった国宝など、撮影可の場所などがあり、ぜひ皆さまにもご覧いただきたいです。

感嘆のため息をつきながら会場を巡っていると、女性客の中で何人もの方が和服を召されていることに気がつきました。この季節にふさわしい一重の琉球紬や久米島絣などが目に入ったのです。 文化、融合、そして伝統。琉球の豊かな風は、上野の山にも確かに届いていました。

特別展公式サイト
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2131

岩波ホール

岩波ホールは来月7月29日(金)をもって54年の歴史に幕を閉じます。
親しかった友人。
いいえ、永年お世話になった心優しい先生とお別れするような気分です。

スタート以来、半世紀以上のお付き合いをさせていただいたことになります。岩波ホールは私を含め、多くの映画ファンにとって”世界とつながる架け橋”でした。

夢のような日々は、あっという間に過ぎ去りました。世間知らずで生意気盛りだった若い頃、仕事を続けて行く上でも生きていく上でも、私にとって岩波ホールは極めて大きな存在でした。

世界中の質の高い映画、欧米の作品だけではない、アジアに中東に、そして中南米に、大草原の広がるモンゴル。「大地と白い雲」のあの美しい白い雲…。一度は行きたかったブータンの山奥深い村。素晴らしい作品は限りなくあるし、作り出されているのだ、ということを具体例をもって教えられました。

それらを発掘し、紹介したのが岩波ホールでした。

1月22日の朝日新聞には「岩波ホールに行けば必ず心に残る映画に出会うことができた。思い出をありがとう」という読者の投稿がありました。そうですね、私も一緒です。

これまでも、このブログに2回書かせていただきました。そして、4年前の2月に、開館50周年ということで私の担当するラジオ番組に、ホール支配人の岩波律子さんをお招きし、お話しを伺ったことがありました。

その中で岩波さんは映画にたいする情熱を、静かな熱気で話されました。入り口に立ち、「見に来てくださった方々の声を、どれだけ聞くことができるか。そのためには、様々な機会を作り、生の声を知りたい。」

このような映画館を私は他に知りません。  

今回は映画ファンの方々を代表して『54年にわたって、本当にお疲れさまでした。そして、ありがとうございました。』と永年の感謝の気持を伝えたいと思い、番組をご一緒している寺島尚正アナウンサーと神保町のホールへと足を運びました。

神保町の地下鉄の駅から直結でエレベーターに乗り10階まで。胸をワクワクさせながら、この半世紀何十回通ったことでしょうか。先日ラジオ番組でやはり生でお話し伺いたいと岩波ホールをお訪ねしたのです。  

岩波律子さんのお話しはラジオでじっくりお聴きください。さまざまな作品のお話しも伺い、私は胸が熱くなりました。だって、『私の青春』だったのですから。 ただ、岩波さんは『いったん閉じるけれど、また新しい動きが出てきてくれれば、と若い子に期待しています。』(2月27日の朝日新聞)と語っておられます。  

現在上映中の作品は、「歩いて見た世界 ブルース・チャトウインの足跡」です。英国の紀行作家だったチャトウインの生涯を描いたドキュメンタリー映画。

美術品の収集家だった彼は、考古学の研究者でもあり、パタゴニアやオーストラリアを歩き回ったノマディズム(放浪)の信望者でもありました。その彼の思想と行動を自らの足で辿ったのがドイツのベルナー・ヘルツオーク監督でナレーションも担当しました。

30年前にわずか48歳で亡くなったチャトウイン。岩波ホールの幕を静かに下ろすのにはふさわしい映画かもしれません。近々私も見にまいります。  

さよならではなく、いつかまたどこかで同じ時間と空間を持ち、同じ匂いをかいでみたいと夢みるのです。  

文化放送 「浜美枝のいつかあなたと」
6月12日 放送 日曜日 午前9時半から10時まで  

映画「 AUDREY 」

美しすぎるヘプバーン。
でも彼女は、ただ美しいだけの存在ではありませんでした。
子どもの頃から抱え続けた喪失感。

それは親の離婚と父に去られてしまったという、癒しきれない心の空洞でした。彼女はその傷と最後まで伴走したのです。

本人はもちろん、多くの友人や知人が彼女を語り尽くしたドキュメンタリー映画に出会いました。

『オードリー』
素晴らしい作品でした。

バレーダンサーになることが夢だった彼女は、ふとしたきっかけで映画の世界に足を踏み入れます。そして、主演した『ローマの休日』でアカデミー賞・主演女優賞に輝いたのです。24歳でした。追いかけるカメラマンやマスコミ。殺到する映画への出演依頼。そんな華やかさの中で彼女は唯一人、冷静だったようです。  

家族を持ちたい!
子どもを抱きしめたい! 
世間の喧騒を意識的避けながら自分の夢をつかみ取ろうと、もがき続けたのです。

デザイナーのジバンシィに可愛がられ、ファッションのアイコン(偶像)とも言われた彼女は静かに自分の心の中を見つめていたのでしょう。残された多くの映像や音声が恐ろしいほど正直に彼女の姿を追いかけています。  

生きる意義? 幸せとは? 愛するとは?
自分を隠せなかった彼女は、スクリーンに”等身大”の”彼女自身”を表現してくれました。  

私が22歳の時、映画の撮影でロンドンのドーチェスターホテルに滞在しておりました。そこに現れたのがヘプバーンさん。ジバンシィのベージュのコートを身に付け、ホテルに入ってきました。

11月のロンドン、美しい人でした。美しい笑みでした。そして、30年以上前、彼女が来日した時のことです。東京駅の新幹線のホームで人々のざわめきが聞こえました。大きなスーツケースと共に彼女が歩いていきます。同行の日本人スタッフが”持ちましょう!”と話しかけると、彼女は”いいえ、ありがとう自分で持ちます!”と答えました。

その優しい声を今でも覚えています。地に足を着け、凛とした姿が目に焼きついて離れません。   輝き続けた一人の女性の人生。彼女の”まとめ”はやはり、国連のユニセフ支援活動でした。

優しさと決意が同居した彼女の眼光には物事をやりとげようとする人間の確かな熱意があふれていました。  

彼女の声が流れます。貧困や飢餓に苦しむ世界の子どもに対し、「私に罪はない。しかし、責任がある」。 彼女が苦難の末にたどり着いた地平だったのでしょう。

客席は9割以上が中高年の女性で占められていました。静かな共感が広がった館内。 ヘプバーンの生き方を改めて見つめ直し、心の叫びを聞くことができたと思います。  

美しく、そして愛(いと)しい人に感謝いたします。

映画公式サイト https://audrey-cinema.com/