Mie’s Livingからのお知らせ~正直な作り手の味・第一弾

Mie’s Livingで紹介している「正直な作り手の味」の第一弾をようやく皆さまにお届けできることになりました。
記念すべき第一弾は伊豆にある間菜舎(まなしゃ)の高田啓冶さん・葉子さんご夫妻が心をこめて焙煎したコーヒー豆です。高田さんのコーヒーの恵みを、ブラジルから伊豆・松崎町経由で皆さまへお届けします。
私は毎朝の山歩きから帰ると、まず湯を沸かし間菜舎のコーヒーを飲みます。いい香り。このコーヒータイムが、このうえなく贅沢かつ優雅な時間に変わり、私の一日が始まります。
私はこれまでの30年間に渡り、日本全国の農山漁村を訪ね歩く旅を重ねています。それらの旅の中で数多くの生産者とお逢いすることができました。
「こだわり」をもってその味を作っている方々にお逢いすることができることは、私にとってとても幸運なことです。ただ単に味が美味しいだけではなく、作り手の誠実なお人柄、生きる姿勢、世界観や哲学までもがそれらの品々に垣間見ることができます。
それぞれの土地に根ざして生きる人々の「正直」を貫かれた味。その「正直な味」はとても尊く、美しく、そして美味しいと私は感じます。本当の意味での「豊かな食」とは、生産者は自分に正直に、そして安全なものを生産し、消費者がそれを買い支え、お互いに信頼し合うことの上に成り立つのではないでしょうか。
私が今まで出逢った日本全国の「正直な作り手の味」をこれから少しずつ皆さまにご紹介できればと思っています。
高田さんのコーヒー豆はじっくりと焙煎して頂くため、初回は50袋限定とさせて頂きます。詳しくはホームページをご覧下さい。

NHKラジオ深夜便「大人の旅ガイド~日本の故郷を歩く」

今回ご紹介するところは、静岡県賀茂郡松崎町・石部地区です。
松崎町は人口8,200、戸数3,150の小さな町です。昭和10年以前に建造された外壁が海鼠壁(なまこかべ)の建物が200軒ほど現存しています。
伊豆半島西南部に位置し、三方を天城山稜に囲まれ、西に駿河湾を望み、
屈曲に富む海岸線は富士箱根伊豆国立公園に指定されるなど、豊かな自然は訪ねると心が安らぎます。その松崎町の中心部から5キロほど南下した場所に石部地区の集落が広がります。
この集落は、昭和30年頃まで約18haの棚田がありました。しかし、高齢化、
労働力不足、減反政策などにより耕作放棄地が進み、猿や猪などの有害鳥獣被害の拡大などもあり、荒れ放題となり山林原野化してしまったのです。
石部の棚田が歴史的文献に現れたのは文政7年(1824年)、今から185年前のことです。この年に大規模な山津波が石部の棚田を襲い、ほとんどの棚田が崩壊したと記録にあります。棚田の年貢は免除され、約20年もの長期に渡る過酷な作業により、現在の石積みの畦道を築きあげており、先人の努力や苦労がしのばれます。
「何とかしなくてはいけない・・・この棚田を守っていかなければ」との住民の思いが結集します。
ここまでくるのには並大抵なご苦労ではなかったはずです。反対もあったでしょう。しかし、地元区では「棚田保全推進委員会」が発足し草刈や石垣の補修などが行われ、平成12年5月には田植えを実施、実に十数年ぶりに棚田がよみがえりました。
「日本の原風景・棚田」が脚光を浴び、静岡県の「棚田等十選」に選ばれました。
この石部の棚田は「百笑の里」とよばれています。標高120m~210mのなだらかな傾斜地にあり、駿河湾を眺み、遠くには富士山や南アルプスの山並みを見ることができます。棚田一帯には、図鑑にでている草花や鳥や昆虫と身近に接することができます。
以前お邪魔した時にはなかった交流施設(休憩所・水車小屋など)ができていました。交流棟は松崎らしく、海鼠壁をいかした建築様式で棚田の風景にマッチし、電気はソーラーパネルと風力発電を利用し、環境も考慮した美しい建物です。囲炉裏を囲んでの会話はさぞかしはずむことでしょう。
平成14年からオーナー制度を開始し、現在105件の応募があり、
このオーナーによって、田植えや稲刈りが行われています。
私は知っています。
お米作りの大変さを。
ましてや棚田です。
一枚が小さく、機械が入らない田もあります。
私もかつて10年間、福井県若狭三森に古い農家を移築し、田んぼをお借りして、師匠の松井さんご夫妻に農業のイロハを手ほどきいただきました。私の田んぼはわずか7畝(1反弱)ですが、松井さんたちのおかげで、美味しいお米を育てることができました。
手植え、手刈り、はさかけ・・・。その間の水の管理、草取り、様々な作業があります。また米作りにともなう農村の営みと、折々の機微を教えていただきました。花一本、草一本、虫一匹にも役割があることを、しみじみ感じとれた経験でした。
今回も石部棚田保全推進委員会、代表の高橋周蔵さんにお会いしました。
この地域の活動のキャッチフレーズは
「子どもに夢を 老人に生きがいを」です。
「このような美しい棚田をよみがえらせたのは、静岡県内の学生さん、ボランティアの方々のおかげです。活動を通じ、地域住民も棚田を貴重な地域資源として、都市住民との交流をはかり楽しく守っていきたいです。」とおっしゃる周蔵さんのお顔は輝いていました。

地元民宿などの観光業と連携したグリーンツーリズム組織も整ったようです。6月に入ると沢沿いに蛍が舞いはじめ、夏にはカブトムシ、セミ等昆虫が捕り放題とのこと。子供にはたまりませんね。
棚田米は天城山からの伏流水と完熟堆肥により美味しいお米がつくられるのです。また、棚田の黒米を使った焼酎・うどん・パンなども作られています。
これからの美しい集落づくりは、ただ生産の場としてだけではなく、グリーンツーリズム、エコツーリズムの拠点として”みんなの財産”という概念が必要だと思います。
先日16日、17日の週末に田植えが行われました。小さなお子さんから大人まで105組総勢550人が集まり、田植えを楽しみました。田植えの後には地元の方々が美味しいおにぎりでもてなしてくださったそうです。夕日に染まる棚田、伊豆西海岸の夕日と棚田の風景は心の故郷です。

そして、松崎町は見どころいっぱいです。古き良き明治の街並みが楽しめます。海鼠壁の建物はよく見ると左官職人の見事な技を感じます。この技術の保存のため、「松崎夢の蔵(仮)”蔵つくり隊プロジェクト”」が発足し、後継者育成に取り組んでいます。タイムスリップしたような感覚になる街です。
那賀川沿いの時計塔と明治商家・中瀬邸はレトロなデザイン。
外観をそのままに室内は喫茶スペースとなっています。
国の重要文化財、岩科(いわしな)学校。
露天風呂・温泉健康施設(こちらは明治初期まで呉服屋を営んでいた旧商家が現在無料の休憩所として開放され、足湯も楽しめます)

今回は静岡県賀茂郡松崎町石部地区と松崎町をご案内いたしました。
【旅の足】
列車では
東京~熱海(新幹線55分)~蓮台寺(伊豆急1時間30分)~松崎(バス40分)
東京~蓮台寺(直通電車2時間50分)~松崎(バス40分、30分間隔)
東京~修善寺~松崎(バス1時間45分、40分間隔)
船では
清水港~土肥港(駿河港フェリー65分)~松崎(バス40分)
車では
東名沼津ICより三島経由国道136号。
松崎72km(下田より27km)
松崎から石部までは西伊豆東海バス
0558-42-1190
松崎町観光協会
0558-42-0745

ゆうゆうサロン

昨日(14日)雑誌”ゆうゆう”の読者の方々と、東京・目白の椿山荘で「旅とおしゃれと人生と」をテーマにお話をさせて頂きました。新緑の美しい庭の見える会場は、おしゃれをした女性たちでいっぱい。
第1部はスタイルスト石田純子さんの
“もっと楽しく、センスよく~大人の旅スタイル”
石田さんのアドバイスによって旅することが楽しくなりそうです。
第2部で私は”箱根の暮らしと旅での出会い”をテーマにしました。
“ゆうゆう”での4年間の連載を一冊の本にまとめてくださいました。
浜美枝 凛として、箱根暮らし
ゆうゆう読者は50歳代から60歳代。連載開始当時60歳になったばかりの私。読者の皆さんと共に身近な暮らしを見つめ直し、等身大の自分の気持ちを、ありのまま語らせていただきました。
これまであまりプライベートについて語ってこなかった私ですが、働く女性として感じたことや子育てをしながら感じてきたこと、あるいは母でも妻でも女優でもないひとりの人間として感じたことなど・・・。
ありのままを語ることは、とても新鮮であると同時に、厳しい作業でもありました。けれど、連載を通して自分を振り返ることで、私自身、しっかりリセットできたような気がします。
昨日は同世代、ちょっと下の世代、年齢を越えて同じ女性同士。とても楽しいおしゃべりができました。
私の女優時代。
「名優たちに囲まれていた60年代の東宝撮影所」。1961年の私は17歳、映画デビューの年でした。今思い出すと夢のような時代、まさにキラ星そろい・・・
スターの時代でした。
「銀座の恋人たち」
「キングコング対ゴジラ」
「クレージー作戦」
「無責任シリーズ」で植木等さんたちとの共演の時代もありました。
今のようにスタイリストの方がいるわけではなく、スタッフの方々と衣装を決めていました。当時の撮影所の雰囲気は忘れられません。映画のよき時代に仕事ができたことが、私にとって一番の収穫だったと思います。
私の憧れの中の憧れ、原節子さんを何度もお見かけしました。いつも背筋を伸ばし歩く姿が美しいのです。原さんの美しさは何かあたりをオーラで包むような「気」がありました。
そして旅の始まり。
イタリア映画に魅せられていた私は迷うことなくイタリアに向かいました。17歳のひとり旅。数々の名作を生んだチネチッタ撮影所、大フアンのマストロヤンニさんの芝居、見たい!一生懸命さが何より雄弁です。マストロヤンニさんの楽屋までたどりついたのですから。額に光る大粒の汗に、俳優の仕事の結晶のようなものをみたのです。
女優という仕事に、どこか徹底できていないでいた私の気持ちをふっきらせてくれたとでも申しましょうか。その時にご一緒に撮らせていただいた一枚の写真。私の宝ものです。

マストロヤンニさんの額の汗に当時の「私」は突き動かされたのでした。
それからたくさんの旅をしてきました。なぜ・・・旅をするのか。私自身にとって”旅”はいつも学校でした。塾であり、思索の場でした。
いつか教わったことがあるのですが、昔、旅という字は、今の旅行の旅ではなく「賜る」という字を書いて「賜ぶ(たぶ)」と読んだそうです。人の出会い、人から必ず恩を頂く。ちょっと”おしゃれをしてこれからも心賜る旅”を続けたいと思います。
そんなお話をさせて頂きました。読者の皆さまの日ごろの思いも語っていただき、和やかに会を終えました。
ゆうゆうは今年創刊7周年になります。これからも私達女性の身近で素敵な存在でいてくださいね。

「日本メキシコ友好400年記念特別企画・メキシコ音楽祭2009」

本日 5月8日紀尾井ホールでのコンサートが中止になりました。私も行く予定にしておりました。ご存知のように「新型インフルエンザ」の感染者数は、メキシコで1204人、死者44人 世界の24の国と地域で2400人を超える感染者が確認されました。これ以上感染が拡大しない事をただただ祈るばかりです。
今回のコンサートによせて帰国なさり準備に追われていたバイオリニストの黒沼ユリ子さんを文化放送「浜美枝のいつかあなたと」に1ヶ月ほど前お招きしお話を伺いました。
黒沼ユリ子さんは東京のお生まれ。
小学校在学中からバイオリンを始められ、高校1年生の時、日本音楽コンクール1位を受賞。1958年、プラハ音楽芸術アカデミーに進まれ、同校を主席で卒業されました。そこから世界的なバイオリニストの道を歩み始めます。ヨーロッパで考古学を学ぶメキシコ人男性と結婚。62年からはメキシコを本拠に世界各国で演奏活動を始められ、各地で多くの聴衆にバイオリン演奏の魅力を伝えてこられました。
2008年、メキシコ最高の音楽賞「モーツアルト・メダル」を受賞。
受賞理由のひとつとして、1980年から続けられている「子供達への音楽教育」があると伺いました。(80年に設立した「アカデミア・ユリコ」で子供達に音楽教育を行っていらっしゃいます)
1983年、ユリ子さんは日本全国に子供用のバイオリンの寄付を呼びかけました。メキシコには子供用のバイオリンがなく、大人用を使っていたそうです。日本の子どもたちから百丁のバイオリンがメキシコに届けられました。
1985年、学院の生徒たち12人が来日し、各地でお礼のコンサートを行いました。その半年後、メキシコは大地震に襲われます。
日本の子供達はさっそく義援金を集め、メキシコ大使館に贈ったそうです。
「今では、学院の卒業生は1,000人を超え、演奏者として活躍している人もいます」とユリ子さんは語られます。
ユリ子さんには「メキシコのわが家へようこそ」というご本があります。
メキシコの邸宅「カーサ・デル・ヴィオリン(バイオリンの家)」での暮らしを紹介されたご本です。メキシコの食材・食べ物がいかに豊かであるかが記されています。
「なんだか、昔、日本で食べた本物の味がするの・・パワーが貰える、というような、今風ではなく古風な味のままなの」と語られておられました。
今回の「メキシコ音楽祭2009」の副題に「400年前の人類愛記念」とあります。
今年は日本メキシコ友好400年。1609年、メキシコの帆船が千葉県御宿沖で座礁した時、地元民が総出で317名の遭難者を救出したのが友好の始まりです。
国や文化圏の違う人々の音楽祭でしたが、残念です。
友好の架け橋になっておられる黒沼ユリ子さん。
いつでも私たちはお待ちしております。
そして、これ以上「新型インフルエンザ」の感染が拡大しませんように。


唐津・洋々閣への旅

皆さまはゴールデン・ウイークはどのようにお過ごしでしょうか?
私の住む箱根のこの時期は身動きが取れないほどの渋滞になってしまうので、自宅でのんびり過ごすことに致しました。そんなこともあり、先週かねてから念願だった唐津の「洋々閣」に行ってまいりました。そこで「中里隆のうつわ展」が開催されているからです。
「洋々閣」は私の憧れの宿でした。
唐津には何度かお訪ねしているのですが、敷居が高い・・・宿でした。
今回ようやくその夢がかないました。この宿は九州の中でも格別の宿です。
無人駅の「虹の松原駅」から宿にたどり着くまでが、まるでドラマのようでした。
無人駅には藤の花が咲き誇り、旅人を迎えてくれます。
宿には郷土を愛する人々の愛と理想と夢が込められています。
私は、一度親しくなると、人でもものでも、長くお付き合いをさせて頂くのですが、最初の一歩がなかなか踏み出せないところがあります。意を決して泊めていただきました。
“大正解”でした。
まず、中里隆さんの素晴らしい作品に出逢えたこと。かねがね中里さんのお噂は伺っておりました。七十歳で窯変した記念すべき展示でした。
(5月31日まで開催)
世界を旅し、その土地ならではの土を用い作陶に没頭された姿が想像できます。
今回、私は”ピッチャー”をもとめました。
「用の美すなわち日常に使えてこそ”美”は存在すること」を見事に表現してくれた展覧会でした。時を忘れたように、数々の作品に見入りました。
宿のご夫妻の美意識のこだわりを拝見いたしました。
日本の美を体現しているような静謐な美しさをたたえている旅館でした。
玄関を一歩入ると「花守」になる壷の活花。
器好きにはたまらない程の”器と料理”・・・全てが満足の滞在でした。
なによりも感じたことは「宿の主人と作り手の作家との”心の通い合い”」でした。素晴らしい滞在に感謝し、清清しい気持ちで帰路につけたことに心より御礼申し上げます。