日経新聞-あすへの話題

日本経済新聞(毎週土曜・夕刊)「あすへの話題」の掲載が始まり明日(8月1日)で5回目を迎えます。
身辺雑記、来し方の思い出、仕事のエピソード等々、「身近なことを自由に書いてください」とのご依頼を頂きました。
四人の子供達はたくましく私の手元から飛び立ち、自分の人生の建て直しを始めたのが50代でした。原稿を書くにあたりこれまでの自分に向き合ってみました。
やはり”人に逢う”ことが、仕事であろうがなかろうが私はとても好きです。
出会った方から多くの心をいただきもしました。
日本のいたるところに師がいる。
「このままでは日本が壊れてしまう!」と思ったことも度々ありました。
そんな気持ちを支えてくれたのが、無名の師たちとの出会いです。
勇気が湧いてくるのです。
嘆いていても始まらない・・・
一歩、半歩前に進みたい・・・
そんなことを考えながら 毎週原稿を書いております。
あと20回!今回は第2回から第4回分をご紹介します。
 
第2回・7月11日掲載「民芸の美に支えられて」

100年に1度の未曾有の不況だそうだ。大変な時代になったと感じる一方で、娘時代を過ごした戦後のことをふと思ってしまう私がいる。
我が家は戦前ダンボール工場を営んでいたが、戦災ですべてを失った。
「命は助かったから、よしとしなきゃ」
それが、出兵した父が戻り、再び笑顔を取り戻した母の口癖だった。
それから長屋住まいし、リンゴ箱に藍の布をかけて、ちゃぶ台代わりにするような暮らしが続いた。担任の先生に強く高校進学を勧められたが、早く働き手になり、家計を助けたくて、中学を卒業するとバス会社に就職、バスの車掌になった。
あの時代と比べようもないほど、今は豊かだ。モノはあふれ、飢える人は少ない。けれど「働けば豊かになれる」という希望が今は見えないと誰もが口を揃える。確かにそうかもしれない。が、ここでまた、私は思ってしまう。ではその豊かさとは何なのか、と。戦後、豊かさを求め、辿り着いたのはバブルだった。そして今、また同じ豊かさを目指すのか。
中学2年の秋、私は民芸運動の創始者・柳宗悦氏の本を読み、感動し夢中になった。子ども時代の終焉を意識しつつあったあのときの私は、自分がよって立ちうるものを必死に求めていて、何かに導かれるように民芸に出会ったのではないかと今になって思う。以来、幸せなことに、65歳になる今までその民芸と共に生きてきた。
民芸が提唱する用の美、無名の人が作る美しい道具…それは知れば知るほど豊かに広がる美しい世界である。これからの社会に必要なのは、そうした身の丈の豊かさではないだろうか。そんな社会を目指してほしいと、私はひそかに祈っている。 

第3回・7月18日掲載「農村の女性たちとの絆」

私の机の引き出しの中に、何枚かの写真が入っている。原稿に詰まったときなど眺めるだけで、励まされる気持ちになれる写真だ。そこにまた素敵な1枚が加わった。それは今年6月に集った「食アメニティ・ネットワークの会」の女性たちの写真だ。
平成6年、ヨーロッパの農業視察に行った私は、グリーンツーリズムが日本の農村を活性化するひとつの選択だと確信した。そこで、地域の食文化の保存と開発・普及につとめる農山漁村地域の女性たちを表彰する「食アメニティ・コンテスト」(農村開発企画委員会・農林水産省との共催)で「ヨーロッパのグリーンツーリズム研修旅行」を呼びかけたのである。
おかげさまで研修旅行は実りの多いものとなった。すると、旅行が終わってしばらくして「もう一度みんなで会いたい」という声が参加者からあがり、箱根の我が家に参加者のほぼ全員が集合。その中で、「せっかく集まるなら、ひとつの問題にみんなで取り組み、勉強したい」という話になり、平成12年「参加する人、この指、止まれ!」方式の、食アメニティ・ネットワークの会が誕生した。
ヨーロッパ研修旅行は12年間続けた。今も韓国の有機農業の視察などに多くの女性が参加してくれる。毎年1回、大会とシンポジウムなどの研修会も全国各地で開催している。今年6月には120名の女性たちが全国から東京に集まり、大会を盛大に盛り上げ、会終了後、その多くが我が家を訪ねてくださった。自然発生的に生まれた会だが、10年を経て、全国で活動する農村の女性たちを繋ぐ役割を果たすまでになったのではないかと思う。その女性たちひとりひとりが私の大事な宝物である。

第4回・7月25日掲載「美しい山里に想う」

先日、富山県の南西端にある南砺市、越中五箇山をお訪ねした。菅沼合掌造り集落「五箇山」は世界遺産にも登録されている。集落全体が一面の銀世界になる冬など、数回伺ったことがあるが、今回は集落の人々が田や山で働く姿が強く心に残った。
民宿の、77歳になる笠原さつ子さんの料理も素晴らしかった。岩魚の塩焼き、五箇山豆腐と山菜の煮しめ、うどと身欠きニシンを炊いたもの、こごみのピーナッツ和え、かっちりいも、山菜ごはん、岩魚の骨酒。最後には手打ち蕎麦まで。今、伝統料理や郷土料理が見直されつつあるが、それはまさに五箇山の歴史と人々の暮らしが凝縮した品々だった。
各地で失われつつある郷土料理がこの地に生き続けているのには理由がある。古くから浄土真宗が共同体の結束を強めてきた五箇山では、今も僧侶の講和をお聞きする報恩講後に、みんなで郷土料理を囲む習慣が根づいている。「結(ユイ)」という相互扶助の慣習も残っている。だからこそ合掌造りの萱の葺き替えなども協力して行うことができるのだろう。
けれどここ五箇山でも高齢化と過疎の問題は進行している。農や食の問題に消費者と生産者が垣根を越えて取り組む必要があるように、美しい村里や郷土食に関しても、いまや住民だけではなく、それらを心の故郷と感じる都会の人たちが共に手を携え、行動する必要があるのではないだろうか。
都会の人はその活動を通して、もうひとつの故郷を見つけることだろう。そして美しい村里は都会のサポーターにも支えられ、美しいまま次世代に継がれていく。そんな関係をもっと築けたら、素敵だと想う。

LA BELLE TABLE&大皿展

初夏の心地よい季節、今年もまた箱根の我が家で京都「ギャルリー田澤」の展覧会が開催されています。第4回目のこの夏は ”LA BELLE TABLE&大皿展”と題し「和蘭陀食卓」をメインに、夏から秋にかけてのエキドチックなテーブルが広がります。
古伊万里の大皿、鉢、オランダ・デルフト、ブリストル、バカラ、ルネ・ラリック、デルボー、クロス等 「ギャルリー田澤」の放つ輝きは特別なものです。
そして、素晴らしいコンセプトのひとつに、”日常に使えるもの”を扱っていることです。ですから、全てのものが綺麗に洗われ、磨かれ、家に帰ってすぐ使えるのです。
「最も大切なことは、普段、日常のなかで、季節感と取り合わせを考慮して、好きなもの、とっておきのものを使うことだと思います。その上で客さまに喜んでいただけるものはなにかと考えるのです」と田澤ご夫妻はおっしゃいます。
“遊び” ”発見” ”感動” のようなものが感じられる素敵な展覧会です。
8月1日(土)まで開催しております。

そして、来月の展覧会のお知らせ。
岡鶴太郎展「こころ色」が開催されます(09年8月22日~30日)
鶴太郎さんの作品には、暖かな小さな命がふくふく息づいていて見る者を自然の中にいざなう豊かさと優しさがあります。鶴太郎さんの作品に触れるたび、私は「作品は人なり」と思わずにはいられません。
毎日、見ていたくなる・・・。
暮らしの美を再発見する・・・。
共にこれからの時間を過ごしたくなる・・・。
どうぞ古民家を再生した箱根の我が家で出逢ってください。
詳しくはホームページにアクセスしてください。

NHKラジオ深夜便「大人の旅ガイド~富山県・五箇山」

今回ご紹介するところは世界遺産に登録されている合掌の里「五箇山」です。
越中五箇山とは、富山県の南西端にある南砺市(なんとし)の旧平村、旧上平村、旧利賀村を合わせた地域を指します。ここは、まさに「日本のふるさと」です。遥か縄文の時代から人々の営みがあったところ。平家の落人が住み着いたと伝えられています。
初夏の緑豊な中を旅すると身も心も緑に染まりそうです。今回私は、利賀村の民宿・笠原さんのお宅に泊めていただき、菅沼合掌造り集落へと足を延ばしました。

世界遺産は世界中に五百十数ヶ所あるそうです。日本には最古の木造建築・法隆寺をはじめとして、屋久島など文化遺産や自然遺産が登録されています。これらの遺産は、私たちが暮らす日本という国を通して、身近な自然や文化財をグローバルな視点から見直し、人類が次世代にどう継承していくべきかを、改めて私たちに問いかけます。
私と合掌造りの家とは、切っても切れない関係にあります。合掌のカタチにひかれて、生活のスタートラインに立った、といっても過言ではありません。家の骨格ともいうべき柱と梁は、何か私の心の中の骨組みでもあるのです。自然と共存して生きることの、とてもシンボリックなカタチ。
もう何十年にもなるでしょうか。この集落に通い、さらに日本中を旅し、自分が求める暮らしのあり方や、心の置き場所を探す旅を続けてきました。白川郷や五箇山は冬なら二、三メートルの豪雪に埋もれる雪の里です。雪を深々とかぶった集落は神々しく、よそ者は雪の上に足跡を残すのさえ、ためらわれたものでした。
厳しい豪雪の中に建つ合掌造りの家は静謐な祈りのカタチです。
そして、今回、初夏に訪ねた合掌造りの家は穏やか瞑想のカタチです。
ここに来ると、私はいつも自分の原点に帰ってくるような気がします。日本の歴史の嵐に翻弄されることなく、ずっと身を隠しながら、何世紀も生きてきたものだけが持つ神々しいまでの家々です。集落の中に江戸時代から変わらない道があり、屋敷の間を村道が縫い、昔の姿をとどめていますが、そこには現代の人々が暮らしているのです。
バイパスが通り便利になり、訪れる人も多くなりました。
「おじゃまします・・・」とつぶやいて一歩一歩集落へと踏み出すのです。
見下ろすと、茅葺き屋根が青々とした田園の中に佇んでいます。戸数8戸の小さな世界遺産・菅沼合掌造り集落。集落の中を、庄川が蛇行しながら流れ、背後には急峻な山地が迫り、緑豊な懐に抱かれています。
かつて五箇山では農作物以外の換金産物が必要でした。塩硝づくりと養蚕、紙すきは合掌造りと深いつながりをもっています。耕作地の狭い土地柄、火薬の原料となる塩硝が、加賀藩の奨励と援助を受けて、五箇山の中心産業となったといいます。平野部の農村の米作りに匹敵するほど重要だったのです。
合掌造り家屋は、屋根裏部分を2層3層に区切り、天井に隙間を空け囲炉裏の熱が届くようにして養蚕が行われていました。囲炉裏から上がったスス(煤)が柱や綱に染込んで強度を増す効果もありました。私は合掌造りの家にはいるとこの匂いが何とも好きで、つい囲炉裏の端に座ってしまいます。
今回泊めていただいた利賀村の民宿、笠原さつ子さん手づくりの料理の美味しかったこと。「イワナの骨酒」を飲み、イワナの塩焼き、五箇山豆腐と山菜の煮しめ、うどと身欠にしん、こごみのピーナッツ和え、かっちりいも、山菜ごはんには、すす竹・舞たけ・人参・よしな・椎茸などが入っていました。最後は手打ちそば。美味しかった!!さつ子さんは77歳。お顔はつやつや。笑顔の美しい方です。
「ごちそうさまでした」

五箇山でこんなに美味しい料理が食べられるのは、かつて村人が報恩講や祭り、正月、そば会などで持ち寄った自慢の味や、郷土料理の数々が伝承されているからなのです。「報恩講」とは門徒が僧侶の講話を聞く法会。その後に必ずみんなで飲み食いするのが楽しみとか。
我が家の囲炉裏も昔々のものです。灰をかき、炭を真っ赤に熾して、家族や友人とそれを囲むひとときは、他のどんな空間にもない時間が流れます。囲炉裏はタイムマシーンのようです。時間を忘れさせる装置であり、時を飛ばすマジシャンでもあります。太い梁や囲炉裏でワインやシャンパンを飲むのも新鮮です。
古くから伝わる郷土の知恵と工夫がぎっしり詰った「五箇山・合掌の里」をご紹介しました。
【旅の足】
~電車~
東京駅(上越新幹線1時間15分)→ 越後湯沢駅(北陸本線2時間20分)→ 高岡駅(JR城端線50分)→ 城端駅(加越能バス40分)→ 五箇山
大阪駅(北陸本線3時間)→ 高岡駅 → 城端駅 → 五箇山
~車~
練馬IC(関越自動車道3時間)→ 長岡JCT(北陸自動車道2時間)→ 小矢部・砺波JCT(東海北陸自動車道25分)→ 五箇山IC
吹田IC(名神高速道路1時間30分)→ 米原JCT(北陸自動車道2時間30分)→ 小矢部・砺波JCT → 五箇山IC

「日経新聞-あすへの話題」

日本経済新聞夕刊1面コラム「あすへの話題」の執筆がスタートいたしました。
2009年7~12月まで。毎週土曜日、計26回の予定です。
身辺雑記、来し方の思い出、仕事のエピソード、社会的な事象など、身近なことを記してまいりたいと思います。
今回は4日に掲載された分をご紹介致します。次回以降の話題はおいおいブログでご紹介してまいりたいと思います。
日本経済新聞7月4日掲載
「あすへの話題~箱根に暮らして」
箱根に家を構えてから30年の月日が流れた。30年前といえば日本列島改造のスローガンのもと何百年も人々の暮らしを見守ってきた古民家が次々に壊され、新建材の家に建て替えられた時代だった。
当時、民芸に魅せられて、日本各地を旅していた私は、そうした古民家がなぎ倒される、心痛む場面に、何度も遭遇した。そしてついにたまらなくなり、ある家の解体現場で「この家を私に譲ってください」といってしまったのだ。
そうして12軒の古民家の廃材をすべて買い取ったのだが、当時は、古民家再生の技術はおろか、その言葉さえなかった。正直、廃材を前に途方にくれたこともある。けれど縁あって箱根に土地を見つけることができ、大工さん、鳶職さんと手探りで、試行錯誤を繰り返しつつ何年もかけて建てたのが、今の箱根の我が家である。
40歳で女優の仕事を卒業し、以来、食と農の現場を訪ね続け、日本の農業のサポーターを自認している私の仕事は、旅も多い。「箱根が拠点だと不便ではないですか」とご心配いただくこともあるのだが、どんなに早く家を出なくてはならなくとも、遅くたどり着こうと、私にとって我が家は、心身を開放してくれる特別な場所である。
磨き上げた床、柱、好きで集めた西洋骨董、民芸の道具、子どもたちを育てた記憶…。すべてが渾然一体となって、家は私を包み、支えてくれる。窓に目をやれば、美しい箱根の自然が優しく心を慰めてくれる。自分でこの土地を見つけ、家を作ったように思っていたが、そうではなくむしろ私がこの土地やこの家に呼ばれ、導かれたのではないか。今は、そんな風に感じている。

浜美枝のいつかあなたと ~ 片岡鶴太郎さん

文化放送「浜美枝のいつかあなたと」(日曜10時半~11時)
今回はお客さまに俳優・画家の片岡鶴太郎さんをスタジオにお招きいたしました。早くからテレビの世界で活躍され、やがて俳優としても数多くのテレビドラマ、映画に出演されてきた鶴太郎さん。
その一方、30代の後半からは絵の創作をはじめられ、95年には初の個展を開催。鶴太郎さんが創作された絵や書は多くの支持を集め、98年には草津に「片岡鶴太郎美術館」もオープンしました。
実は8月22日から30日まで箱根の我が家で、展覧会を催すことになりました。
「こころ色」と銘うって。
詳しくはホームページでご覧ください。
初めて鶴太郎さんと親しくお話をさせていただいたのは、新幹線の中でのことでした。全く偶然の出会いでしたが、我が家に飾っていた絵の話になり、それがご縁で後日、画集対談でお越しになられました。
鶴太郎さんの作品には、暖かな小さな命がふくふくと息づいています。
花、魚、果物・・・暮らしを美しく彩り、爽やかな風を空間に吹き込むような素晴らしい作品ばかりです。
「作品は人なり」と思わずにはいられません。
生きることにひたむきで、思いやりが深く、優しく、けれど決してやわではない。そんなお人柄が、どの作品からも感じられるのです。
ラジオの中で興味深いお話を伺いました。
全く絵にはふれたことのない鶴太郎さんが30代の終わりのある日・・・、2月の寒い朝5時頃のこと、ロケがあり家を出るときに、何か視線を感じたそうです。その視線の方を振り返ると、隣の庭に朱赤の椿が咲いていて(その頃は花の名前も知らなかったとのこと)
「うわぁ素敵だな、君はひとりで、誰も見てなくてもきちんと咲いているのか」
と思われたそうです。
当時、これからの人生、何を頼りに、何を求めて生きたらいいのか・・・、人生の中にポツンと置かれた孤独感、焦り・・・、そんな日々が続いていたそうです。その時「この花を描ける人になりたいなぁ」と、心底思われたのだそうです。
ものまねでも、役者でも、ボクシングでも、この椿を見たこの感動は表現できない。それで、絵で表現できるようになりたい。美術学校に行って基礎を勉強していたら、もしかしたら感動がないまま絵の世界に入っていたかもしれないと。
私にはとてもよく分かるのです。そのお気持ちが。
私も40歳で演じる女優は卒業しました。あの時の孤独感は私に生きる力を与えてくれました。
お互いに「日本人の美」の本質を感じることができる自分になりたいですね。
話はつきることがありませんでした。
7月5日が放送です。ぜひお聴きください。
今回の展覧会はデパートでの展覧会と違い狭い我が家が会場です。普通に暮らす空間に鶴太郎さんの絵を飾ってみたい・・・との思いでからです。ぜひホームページへとアクセスしてみてください。
片岡鶴太郎展「こころ色」 8月22日~30日 箱根・浜美枝邸にて