【イングリッシュ・ガーデン】 英国に集う花々

パナソニック汐留ミュージアムで素晴らしい【ボタニカル・アート】の花々が観られます。
私が「007は2度死ぬ」の撮影でロンドンに滞在していた間、郊外にあるキュー植物園には何度となくも足をはこびました。世界中から集められた植物を広大な敷地内を散歩しながら、また温室の中でもみることができます。225年という歳月をかけ造園された歴史ある空間に身を置くとイギリス人の植物に対する想いが肌で感じることができます。
今回、汐留ミュージアムではキューの美術コレクションの中から”ボタニカル・アート”(植物画)が多く出品されて、その歴史を知るチャンスですし、室内調度や服飾品、日常生活に使うタイルや陶器、植物をモチーフにしたドレスなど身近に感じられとても素敵です。
キュー王立植物園は2003年にユネスコ世界遺産にもされました。
イギリス郊外などを旅すると、小さな家や邸宅など、どの家々も良く手入れされ花が咲き誇り、その美しさに見惚れます。
゙自然の美゙の庭園、庭作りはイギリス人にとって植物への夢と憧れるなのでしょうね。私たち日本人にも共通する点があります。
会場では、アネモネ、チューリップ、ザクロ、ケシ、マーガレット、ダリアなど美しい花々が咲き誇っています。またデザインが素敵です。いつの時代にも植物、花々は心を癒してくれます。
植物の世界を理解するには非常に素晴らしい展覧会でした。新橋駅からも歩いてすぐです。ほんのひととき、花々に囲まれ心を癒してみてはいかがでしょうか。


パナソニックミュージアムの公式HP

田中一村 記念美術館

鹿児島で仕事があり終了後、一日休みをとり奄美大島の「田中一村美術館」へ行ってきました。鹿児島空港から約1時間で奄美へ到着。車で7,8分の奄美パークの一角に美術館はあります。


2001年にオープンしてから今回は4度目です。田中一村のことを知ったのはNHKの「日曜美術館」でした。その時の衝撃は今でもはっきりと覚えています。「これって日本画?」従来の日曜美術館で観る絵画とはまったく異なり、その画像からうけるあまりにも異端といってもよい画風に衝撃を受け、また感動を覚えました。『実物が観たい』そんな思いをかなえてくれたのが巡回展でした。昭和60年だったと記憶しております。福岡の岩田屋に日帰りで観に行きました。目の前にテレビで見た作品の数々。テレビで見たときとはまた違う静謐で亜熱帯の植物を描きながら、そこには一村の生き方、奄美での暮らしはストイックといってもいいほどの生活なのに、絵の中には人物は描かれていないのに人々の温もりが感じられる作風。ただただ涙がこぼれるほどの感動を昨日のことのように思い出します。


一村の過ごした奄美での19年の歳月。50歳という年を迎えての奄美行き。”なぜなのだろう”という疑問。奄美の地に深く身をまかせ、ガジュマロの大木、ビロウ樹、鳥や魚、亜熱帯の植生のもつエネルギー。日本画ではあるのにどこかモダン。すべてが驚きと感動の展覧会でした。
これほどの才能の持主がなぜ存命中に世に認められなかったことが不思議でなりませんでした。それからです、「田中一村」の追いかけを始める旅がはじまったのです。本、新聞、映画、売るための絵を描くことなく、誰ひとり看とることなく台所で食事の支度中に倒れその69歳の生涯を終えたのです。生計を立てるため大島紬の染色工として働き、朝、夕と散歩をしその自然を観察し、魚屋さんのご夫婦に鮮度の良い美しい色をした魚を描かせてもらったり・・・そこに一村の純粋で妥協を許さない厳しさ、自然を知り尽くした画家の目を感じることができます。
前回の奄美では終の棲家、倒れた家や一村が歩いたであろうと思われる山にかこまれた熱帯林の道。そこには「南国の明るさ」はなくむしろ静謐な空気を感じ、ただただ一村の存在を感じたくての旅でした。
1908年7月22日栃木生まれ1977年9月11日没。
千葉に暮らし、若きころからその才能はすでに確立されていたように思います。恵まれた家庭環境にはなく、若き日「米邨(べいそん)となのっていた時代」の襖絵を今回見ることができました。南画を描いた時代、東京美術学校(現・東京芸術大学)の同期には東山魁夷、橋本明治などがいました。でも中央画壇からはなれ南の島奄美へ。それはなぜ・・・
かつて読売新聞に「果たせぬ望みへの静かな諦めと一種の悟り」と書かれていました。
水辺の上に立つ美術館。
ひとり静かに思う存分独りじめできた一村の絵との出会い。
エネルギーがわいてきました。
奄美の湿気を含んだ風に見送られ帰路につきました。

『正直』

この本をお書きになったのは松浦弥太郎さんです。
松浦さんのことはかねがね”気になる”方でした。「暮らし手帳」の元編集長。民藝運動にたいして、というより「人の手」を感じられる「手仕事の道具」に対しての考え方に大変興味深い文章を読んでおりました。民藝に対して疑問に思うことも私自身と共通しておりました。ひと昔前は民藝は土臭いというイメージでしたが、実は非常には洗練されていて、もしこの民藝という「手仕事」が、また「民藝運動」がなければ私達日本人の暮らしはどのようになっていたか・・・と時々考えるのです。
さて、今回はその松浦さんが昨年春にお書きになられた「正直」を読んで、大変感銘を受け、ぜひスタジオで直接お話を伺いたいとお招きいたしました。
松浦さんは、1965年、東京生まれ。18歳で渡米し、アメリカの書店文化に惹かれ、帰国後、オールドマガジン専門店「m&co. booksellers」を赤坂に開業。2000年、トラックによる移動書店をスタートさせ、その後、中目黒にCOW BOOKS」をオープン。2006年、「暮らしの手帳」編集長に就任。9年間務めた後、去年、日本最大の料理レシピ投稿検索サイト「クックパッド」に入社されました。なぜ180度違う世界に飛び込んだのか・・・・その辺もうかがいたかったのです。
著書も数多く、「本業失格」、「くちぶえサンドイッチ」、「おいしいおにぎりが作れるならば」などがあります。本、雑誌、ラジオ、インターネットなどあらゆるメディアで、今、幅広い世代から注目されている松浦さん。今回の本「正直」には、仕事をはじめ、何かを懸命に頑張っている人たちの背中を押す言葉が数多くつづられています。
仕事とは何か、を考える本でもあります。
成功している人はなぜ成功しているのか、答えをしりたくて1年考え続け『成功している人は、人を助けている』と気づいたそうです。現代社会はお金優先が多いです。「全ての仕事は人を助けること。」そうですね・・・。そしてこうもおっしゃいます。「人生で、自分に関係ないことはひとつもない。学び、そして好奇心をもつこと。無関心が一番怖い」たしかに無関心な人が増えているとおもいます。
「人間はみな、弱くて狡くて不完全だ。全員が悩み、苦しみながら生きている。だからこそ、何かあっても許し、受け入れ、人は信じ合い、許しあってこそ、関係が築ける」と考えているそうです。「成功の反対は、失敗ではなく何もしないこと。」とてもあたたかな人生の応援歌、教科書です。
50歳を迎えるときに、リスクを自覚しながら、新たなフィールドに飛び込む松浦さん。かっこいいです!ぜひ、ラジオをお聴きください。そして本を読んでください。
文化放送「浜美枝のいつかあなたと」
1月31日 日曜10時半~11時まで。

松の内

雪一日 日和一日も松の内   原 石鼎
と申しますが、皆さまは新年をどのようにお迎えになられましたか。
お正月らしい晴れやかな空気は昨日まで(関東では)。我が家では昨日(7日)、玄関のお飾りをはずし2016年仕事はじめです。と、申しましても私は12日の文化放送「浜美枝のいつかあなたと」の収録が仕事始めですが、その前にゲストにお招きする方の本をお正月から読み始めております。
それにしても、暖かなお正月でしたね。
元旦、御節で新年を祝い、私のお正月は「箱根駅伝」で始まります。本格的に箱根に戻り、この十年は2日、3日は私にとっての大事な駅伝応援です。私の住む箱根町は駅伝のゴール・スタート地点です。2日は選手が元箱根に着くまでは、ラジオ、テレビでの観戦。そして、新春の陽光にてらされアンカーがゴールにさしかかる前に家を出て選手をむかえます。



昨年、「山の神」としてその名をとどろかせた青山学院の神野大地選手が、あの険しい箱根の山を美しい走りで目の前を駆け抜けてゴール。おめでとう!と思わず声にだしてしまいました。故障に苦しんだ1年、そして重圧。その重圧をはねのけての堂々とした5区のゴールでした。
箱根湯本駅から本格的な坂が始まります。標高差は約860mに及びます。選手一人ひとりにドラマがあります。たった5秒差で襷を渡せなかった神奈川大学の選手はさぞ悔しかったでしょう。沿道にはたくさんの応援する人々、富士山もその走りを応援するような美しさで迎えます。往路は青学の圧勝でした。10位までのシード権争いでは、順大、日体大、帝京大がトップ10に返り咲きました。


3日早朝、まだ月、星が見える6時過ぎにはスタート地点に行きました。私は8時スタートまでのこの時間が至福のひと時です。昨年は-5度の寒さでしたが、今年はそれほどの寒さもなく、周辺を歩きました。テレビクルーやラジオクルー、そして各新聞社のカメラマンの方々などがスタートに向けて様々な取材や準備をしています。こうしたことが、画面や紙面、そしてラジオ生中継にいかされるのです。前日の走者が周辺に集まることもあります。私のもっとも好きなところは応援する人たちです。最後の走者が終わるまで大きな声で応援し続けます。
2016年「第92回東京箱根間往復大学駅伝」は往復217.1キロ、
青山学院大が往路に続いて完全優勝で連覇を達成しました。
なぜここまでこられたのか・なぜあれほどまでに”のびのび”と選手が走れるのでしょうか。それはやはり原監督の哲学にあるのでしょうか。原監督はたえず「陸上界を変えたい」とおっしゃっています。監督は奥さんとともに選手寮に住み寝食を共にしています。奥さんは選手達の母親代わり。ビジネスの世界に長く身を置いた監督は陸上界のあしき因習にとらわれることなく、専門トレーナを招き、独自のトレーニングを続けてきたといいます。何よりも、その信頼関係は選手にとってどんなにきつく辛い練習も笑顔に変えられるだけの環境が整っているのでしょう。
「箱根駅伝」は優勝したチームだけではなく、挫折や栄光、さまざまな経験をする若者達選手に私達は眩しいような”何か”を与えてくれます。選手たちはもう来年に向けて始まっているのでしょうね。4年生は人生の新たなスタート地点に立ちましたね。ありがとう!選手の皆さん!


そして、4日は夜明けとともに箱根神社に参拝します。
“どうぞ2016年が世界平和でありますように”と、祈願いたしました。


5日は恒例の上野「鈴本演芸場・新春爆笑特別興行」で初笑い。落語、漫才、曲独楽、に講談、ものまね、お正月ならではの寿獅子、林家正楽師匠の紙きりでは、お客様からの要望で「箱根駅伝」「猿と門松」など。粋な三味線は小菊さん。そして、落語家の贅沢なこと。柳家権太郎・喬太郎師匠。そして・・・追っかけを自認する柳家小三治師匠に、トリは弟子の柳家三三師匠。並んだかいがありました。
幸せ・幸せ。
さ~あ、今年も”がんばろう”というルンルン気分で山に戻ってまいりました。


松の内最後の朝は「七草粥」をいただきました。
春の七草(せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ)若葉をそろえ、包丁でトントントン。豊作や無病息災、長寿を祈ります。
皆さま健康にご留意され今年も佳き年にいたしましょう。
まどろめるわれを見守り福寿草   河部みどり女

新年のご挨拶

浜年賀状2016.jpg
新年おめでとうございます。
旧年中は大変お世話になりありがとうございました。
今年も佳き年でありますよう 心よりお祈り申し上げます。
70代となりまた一つ歳を重ね、より自然に等身大の自分に向き合えていることに気が付きました。
年齢を重ねるのもよいものだと日々しみじみ感じます。
今の私だからこそできるチャレンジを忘れず、今年も新しいステージに向かって歩んでいきたいと思います。
春風が吹くころ、本が一冊、船出する予定です。