映画「クライ・マッチョ」

クリント・イーストウッドにお会いしたくて、取るものもとりあえず東京・日比谷に向かいました。

感染防止の態勢は、見る方も受け入れ側も万全でした。座席は十分な間隔がとられていて、一人静かに、うっとりと、そして何かを確かめるようにスクリーンを見つめ続ける中高年のファンが目立ちました。

 「クライ・マッチョ」、イーストウッドの新しい魅力が満載の映画でした。  

主人公は元カウボーイ、かつてはロデオ大会で優勝もしたスターでした。しかし、落馬によるケガや交通事故で妻と息子を亡くしたことなどで人生が暗転します。酒浸りになり、身を持ち崩してしまうのです。

そんな彼に職を与えてくれた牧場の経営者が頼みごとを持ち込んできます。その牧場主には別れた妻がいて、メキシコで13歳になる息子と暮しています。しかし、経済的には豊かでも奔放な彼女は、息子の面倒をほとんど見なかったのです。

そんな中、我が子をアメリカに連れ戻してほしいと牧場主から懇願されたのです。誘拐罪にも問われかねない危険な依頼ですが、世話になった雇い主からの願いを、結局受け入れます。

”義理と人情”でしょうか?
それとも、
”マッチョの心意気”からでしょうか?  

一人で車を運転しながら、メキシコへの旅が始まります。ようやく見つけ出した少年が、すぐに心を許すはずもありません。反発、疑心暗鬼。誰も信じられず、ただ”マッチョ”を夢見る若者と、”元マッチョ”の老人との、アメリカへ向けての二人旅が始まります。

追っ手から逃れ、出会った人たちに助けられながら、国境が近づくにつれて少年の心は徐々に柔らかさを取り戻し始めるのです。

この”マッチョ映画”では、お決まりの乱闘シーンなどはほとんどありませんでした。極めつけはエンディングです。少年はとても素敵なプレゼントを老人に手渡します。心の扉にようやく鍵を差し込んだ少年は、アメリカで自立し、”マッチョ”への道を目指すのでしょう。

そして老人はメキシコに留まり、プレゼントを大切に抱えながら思い出を語り合うことになるのかもしれません。新しい友との出会いが待っているのは、決して少年だけではないのです。きっと老人にも、心ときめく豊かな時間が待ち受けているはずですから。  

クリント・イーストウッドさん!少し前かがみで、静かに歩む後ろ姿。 ”マッチョ”なんてとっくに卒業して、とてもセクシーな91歳のあなたでした。”マッチョ”なんて、”看板に偽りあり”でしたよ。こんなにワクワクし、心温まる映画を見せていただいたのですから。 やはり、お会いできてよかった!

映画公式サイト
https://wwws.warnerbros.co.jp/crymacho-movie/

正直なつくり手の味

日本に生まれてよかった…と、私がもっとも強く感じるのは、四季折々、この国の豊かな食材に出会った時です。

もう半世紀以上も、全国を旅して歩く仕事をしてきました。「仕事」と、ひとことで言ってしまうのはちょっと申し訳ないような贅沢な日々を重ねていくうちに、いつの間にか、その土地土地の「極上の味」と出会うことが、私の旅の目的のひとつになっていたのでした。

そして何より嬉しいのは、おなかだけではなく心まで満たされる美味しいものとめぐり合った時、必ず、「誇り」と「こだわり」をもってその味を作った方々と出会えるという幸運に恵まれたことです。

「食」にこだわり、時間と手間と心をかけ、じっくりと自分だけの味を生み出そうとしている方々が、日本じゅうにこんなにもたくさんいらっしゃる……それを私は、とても素晴らしいことだと思うのです。

これから、折にふれこのブログでもご紹介させていただきたいと思います。 未来へと羽ばたく子供たちの身体と心を健やかに育んでくれるものばかりです。  

和歌山・湯浅「角長の醤油」

知らなければ知らないでいられたものを、知ったばかりに、もうそれなしではいられない……というような経験、ありませんか。それが食品だった場合、今までの人生がひっくり返るほどではないにしろ、何か、大きく損していたという思いに愕然としますね。

初めて「角長(かどちょう)」のお醤油を口にした時が、私にとってそれでした。角長のお醤油は、今日、私たちが醤油と呼び、味わっている、いわゆる醤油の原点であり先達であり、「極上とは何か」を教えてくれる醤油なのです。

角長は1841年(天保12年)の創業です。 そもそも、日本の醤油の源は鎌倉時代にまで遡ります。紀州の禅寺・興国寺の開祖・法燈円明国師が中国から伝えた嘗め味噌の一種、「径山寺(きんざんじ味噌」(現在は金山寺味噌)の上澄み液から作ったのがはじまりといわれています。

和歌山県湯浅町を訪ねた時、江戸時代以来、当時五代目になる当主・加納長兵衛さんにお目にかかり、私ははじめて醤油のなんたるかをしらされたのでした。戦中戦後の一時期を除いて、角長は醤油の原点に戻り、醤油発祥以来の伝統を守り、いい材料で昔風に造る努力をなされています。

昔のままを守るというのは、実に大変なこと。老舗とはこういうものか、と思いしらされました。手順も設備も、おそらく江戸時代そのままだと思われます。吉野杉でできた仕込み桶を床に埋め込んだ仕込み蔵。これは創業以来といいますから200年ものですね。

コロナが流行する前に私は湯浅の「角長さん」を訪ねました。しっかりと、六代目当主が伝統を受け継いでいましたし、家族総出での家業。 現代の食文化にあった商品も開発されています。

私の好きな銘柄は「紫摘(しずく)」と「濁り醤(にごりびしお)」です。煮物や赤味の魚には、紫摘を。濁り醤は白身魚に合うでしょう。もちろん、お野菜の煮物にも角長は本領を発揮します。つまり醤油の本領である、自己主張しすぎず、素材の味を活かし、それを最大限豊かに発揮させる。そんな奥深い仕事をしてくれるのです。

冬季のみの寒仕込みを守り、機械化に頼らず昔ながらの手づくり醤油。 私が伺ったときには外国の方も訪ねてこられ、今や”醤油”は日本の食文化を担って世界へ羽ばたいております。  

角長(かどちょう)
和歌山県有田郡湯浅町湯浅7
TEL 0737(62)2035
FAX 0737(62)4741  
冬に造り、在庫がなくなり次第販売終了。
営業時間 9時~17時。日曜定休。
詳しくはホームページで。  
https://kadocho.co.jp/

小椋桂さん

東京・渋谷のコンサート会場に足を踏み入れると、温かい空気が溢れていました。それは、街に残っていた雪のかけらが、まるで別世界のように感じられる世界でした。

多くは中高年の方々、男女などは問いません。皆さん笑ったり、うなずいたり、しんみりしたり、それぞれの時を静かに過ごしていました。  

『余生、もういいかい』と銘打った小椋桂さんのファイナル・コンサートツアーです。

「歳を取りました。今日は最後まで歌えなかったら、ごめんなさい」などと笑いを誘いながらの”愚痴”でスタートした小椋さん。いざ歌い始めると、声の張りと艶やかさに改めて驚かされました。

”愚痴”と歌唱とのギャップ、プロの力量を冒頭からまざまざと見せつけられたのです。音楽とトークが満載の”小椋ショー”は2時間半を超えました。

「歳を取ると高い声が出ません!」などと”小椋節”を続けながら、誰もが何度も口にする、20近い名曲が次々と飛び出します。「愛燦燦」、「夢芝居」、「シクラメンのかほり」・・・。

やはり、艶が心を射る!想いが深い! 間もなく(1月18日)78歳を迎える小椋さんは歌はもちろん、トークでも会場を魅了し尽くしました。自らの容姿、容貌を肴にしながら、生い立ちや青春時代を甘さも苦さも含めて回顧するのです。

会場でほっこりとした幸せ感に満たされながら、私は胸の中でそっと呟きました。「小椋さんは単に思い出を唱っているのではない。自身の歌と心を、これからの時代を生きる若者や子供たちに伝えたいのだ」と。

振り返るだけではない、次の世代への継承を大切にしていることが言葉にも歌にも溢れ出ていました。お孫さんとの”合唱”を、何気なく挿入されていたほどですから。そして、バトンタッチはステージだけでなく、先月出版された本にも書かれていました。

「もういいかい まだだよ」(双葉社刊)という題名の、ユーモアや含蓄に富む小椋さんの本です。ステージと活字の、いわば”二刀流”ですね。

同世代人として、今回のコンサートを心静かに楽しむことができました。 ありがとうございました。

実は小椋さん、8年前に「生前葬コンサート」を開催し、世間を驚かせました。そして、翌年には、「一周忌コンサート」まで開いているのです。

小椋さん、一つお願いがあります!4年後の2026年に「生前の十三回忌コンサート」を開いていただけませんか? 「もういいかい」などとおっしゃらないでください。

今回のコンサートで、カーテンコールをじっと拝見いたしましたよ。背筋をピンと伸ばした、ステージの立ち姿と歩き姿!「まあだだよ」です。

私、次のコンサートに参ります。もう一度、ありがとうございます!を申し上げたくて。  

新春を迎えた箱根

箱根の山に新春が訪れました。      

人日の こころ放てば山ありぬ
               長谷川双魚

今日、一月七日は ”人日(じんじつ)の日” 。
年が明けて、初めて訪れる節句の日です。

七草粥を炊いて豊作や無病息災、そして長寿を祈る日でもあります。正月のお酒やごちそうで少し疲れた胃を休ませる食べ物が、この七草粥です。

台所で母がトントントンと七草を叩いていた素朴で懐かしい音。子供の頃、1月7日は七草粥。11日はお供え餅を切ってお汁粉を食べる鏡開き。15日はあずき粥。

生活のなかで1月の催事を自然に学んでいきました。

七草粥を食べながら、セリ、ナヅナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロと気が付いたら暗記していたのも、この頃でした。

今年もまた、コロナ禍のお正月でしたね。昨年に引き続き、帰省するかどうか悩んだ方も多かったことでしょう。幼い頃に育った家に戻り、一同がお互いの無事と健康を確認し合うお正月。

そんな当たり前のことが制約を受ける年の初めは、やはり辛いものです。わが家のお正月もずいぶん変わりました。

子供たちがまだ幼かった頃、おせちを作り終えるのを待ちかねたように除夜の鐘の音が聞こえてきました。それを耳にして年越しそばを食べてから、箱根神社へ参りました。

そして、2日と3日は箱根駅伝の応援が定番でした。我が家から歩いて数分の所が芦ノ湖のゴール・スタート地点ですから、家族揃って応援に出かけたものです。今は子供たちもそれぞれ家庭を持ち、自分たち流のお正月を迎えているようです。

今の私はといえば、元旦の、それも夜が明ける前に箱根神社に詣で、旧年の感謝と新年のお願いをするのです。そして、翌日からの2日間は箱根町町民にとっては”お年玉”ともいえる駅伝応援に参加するのが”恒例”でした。

もちろん、昨年、今年とラジオ、テレビを通しての声援でしたが、密を避けるためには仕方のない我慢ですね。

ただ、とても幸せなことがまだあります。毎年の晩秋から初冬にかけて、この町ならではの素晴らしい体験ができるのです。凛とした空気の中、まだ周囲が闇に包まれていても、何人もの選手たちが黙々と練習を続けているのです。

私は杉の木立を歩いていますが、少し上の道からは忍び寄るような足音が聞こえてきます。”タッタッタッタ”それは静かで力強く、神秘的ですらあります。あの時間、あの場でなければ決して味わえない、独特の感覚なのです。

その音を耳にしながら、「どうか怪我なく箱根路を、そして青春を駆け抜けてください!」と祈るのです。

箱根の山に新春が訪れました。 2022年のスタートです。
どうか今年こそ仲間や家族、そしてたくさんの方々が集い、 存分に笑い、おしゃべりができますように。