美術家・篠田桃紅さん

会場に一歩足を踏み入れると、そこには驚くほど静謐な空気が流れていました。そして、キリリとした墨の直線が私を迎えてくださいました。墨の色と形は、作者の凛とした生き方そのものであり、改めて滝に打たれたような想いがいたしました。

先日、美術家・篠田桃紅さんの展覧会にお邪魔いたしました。篠田さんと書との出会いは、もう一世紀以上も昔に遡ります。幼少時に父親から書の手ほどきを受けた篠田さんは、墨と筆の世界に没頭し、独学で研鑽を重ねます。

終戦後、文字を超えて、墨の色や形の本質に迫ろうと、アメリカへ旅立つのです。ニューヨークでの2年間は、「水墨抽象画」という独自の世界を切り拓く大きなきっかけとなりました。余分なものをギリギリまで捨て去る発想は、もはや、文字の意味には捉われない、”心のかたち”となっていったのですね。

会場に展示された80余点の作品には、タイトルなどの個別情報は一切省かれていました。それは、「見る人の想像を狭めてしまう」という篠田さんの配慮を尊重したもので、「先入観を除き、作品そのものを見つめてほしい」との強い信念に沿ったものでした。

それにしても、「墨」の色は決して黒一色で括れないことがよく分かりました。奥行きのある、繊細で微妙な違い。これが墨色なのですね。篠田さんがニューヨークで体験したことは、「墨の色合いを表現し生かせるのは、湿潤さに満ちた日本の自然と社会だ」との信念に結実しています。

篠田さんがこれまで著書に記された多くの言葉を、今回もかみしめました。新刊に、「これでおしまい」があります。そこで述べられた一言は、穏やかで優しく、そして背筋が伸びるものでした。

「春の風は一色なのに、花はそれぞれの色に咲く。人はみんなそれぞれに生なさいってことよ」

明治の世が終わって直後に生を受けた篠田さん。一世紀を超えるその創作活動は、世界の美術界に多大な刺激を与え続けました。

今回の展覧会には、「とどめ得ぬもの 墨のいろ 心のかたち」という総合タイトルが付けられ、4月3日から横浜の「そごう美術館」で開催されています。そして篠田さんは展覧会オープンの直前、3月1日に凛とした気高い107年の人生を閉じられました。

作品に感動し、生き方まで教えて頂いた篠田さんの軌跡を今一度学びたい。5月9日の最終日までに再び、先生の謦咳に接したいと考えております。

感謝、そして合掌。

展覧会公式サイト
https://www.sogo-seibu.jp/yokohama/topics/page/sogo-museum-shinoda-toko.html

映画「ノマドランド」

  • アメリカ西部の大平原を、一台の古びたキャンピングカーが疾走しています。運転しているのは60代に差し掛かった一人の女性。彼女は過去から逃げるのではなく、新しい人生を求めて走り始めたのです。

映画「ノマドランド」は経済不況で仕事も家も失い、夫まで亡くしてしまった女性の、精神的な旅立ちの応援歌です。

ノマドとは「遊牧民」のこと。「流浪の民」とも言われます。主人公の女性・ファーンは、これまで築いてきた人間関係や財産を恨めし気に振り返るのではなく、本当に必要なものを改めて見つけ出す旅に出ました。

ファーンは「ホームレス」という言葉に反発します。「ハウスレス」だ、と言うのです。家を失ったが、キャンピングカーがある。そして、行く先々のオートキャンプ場で、心の通い合える仲間とホームができる。そこが、ノマドランドです。

ファーンのキャンピングカーには、亡き夫の必要最小限の思い出が積まれているだけです。モノはそれで十分、そんな思いなのでしょう。この映画には、豊かな奥行きや幅を感じることができました。

単にアメリカ西部の「非定住者」に限定された物語ではないのです。これはアメリカ在住の中国人女性、クロエ・ジャオ監督によって作られました。そして、主人公のファーンを演じたフランシス・マクドーマンはアカデミー主演女優賞を2度も獲得したベテラン女優ですが、「ノマドランド」では制作陣の一員としても参加しました。その成果は、ファーンの人物設定にも見て取れます。

大平原に佇むファーンには、男女の違いなどを超越した静かで力強い、ひとりの人間としての決意が滲み出ていました。2人の”合作”は、この作品に文化や人種、更には性別までも軽々と飛び越えた普遍性をもたらしました。

ノマドの人々は別れる際に「さよなら」とは言わないのです。
「また、どこかで会おう!」。
やはり、「ホームレス」ではないという自負心と凛々しさが溢れています。

勇気づけられ、少しゾクっとする映画でした。

映画公式サイト
https://searchlightpictures.jp/movie/nomadland.html

桜満開

箱根の森の中に家を建てて、かれこれ40年が過ぎました。ここでは日時計がなくて、年時計があって、春が来るたびにひとまわりするような大きな時計に支配されているような感覚があります。

淡い春の訪れが、樹々の色みの変化でしらされます。若葉がチラッと目につく前に、全山がぼおっとうす赤くなるんです。芽吹く前に一瞬の恥じらいをみせるかのような、こんな季節のひとときがたまらなく私は好きです。

前回もブログに書きましたが、山を下ると小田原の街があります。

ひと足早く季節を感じ、旬の食材を求め、山での暮らしを楽しんでおります。先週も桜満開のニュースを見て、「そうだ、小田原城の桜を見ましょう!」と出かけて来ました。

現在は満開ですが、先週は八分咲きくらいでした。人の少ない時間に出かけ満喫いたしました。小田原城は藤、菖蒲、ツツジと花々が咲き、いつも楽しんでおります。

箱根は標高差があるため長い期間桜が楽しめます。3月下旬から4月下旬まで、ソメイヨシノ、シダレザクラ、コメザクラ、そして私の大好きなヤマザクラが満開になります。庭の山桜は可憐な花がうつむいて咲き、愛しく想います。

子供が幼い頃は桜の木の下にゴザを敷き庭でのお花見を楽しみました。三月の土はもう充分柔らかく、あのときの”おむすびと卵焼き”は今でも懐かしいです。

小さな旅を含めたら、1年の半分は旅をしてきた私。仕事であったり、プライベートであったり・・・ほとんどが”ひとり旅”です。

桜が大好きな私。東京にもお気に入りの桜並木が何箇所もあって、「桜を一緒に見ない?」と女友達に電話して、一緒にお花見。今は不自由を強いられていますよね。

以前、小説「櫻守」をお書きになった作家の水上勉さんにお会いした時に、「桜は散って咲くから。春が来れば必ず咲く。散るはかなさではなく、散ってまた咲くということに、憧れるのですよ」とおっしゃるのを聞きました。

なるほど、そうなのかもしれないと思います。桜は散り際がいいとか、桜の花のようにパッと散ろうとかいわれたりしますが、私も水上さんのように桜の花を見ています。桜の花は散っても、桜の木はそれから芽ぶき、緑の葉を茂らせ、小さな実をいっぱいつけ、やがて紅葉。葉を落とし、冬は眠ったようになります。

そしてまた次ぎの春が来ると、再び花をまとう・・・。散るというのは、季節が巡ることであり、花を満開に咲き誇らせている桜の木に、私は命の永遠を感じ、安堵しているような気がします。私たちの命は終わる日がきても、桜が咲く春の風景は変わらないと、無意識に感じているのかもしれません。

来年は皆んなで静かに桜を愛でたいですね。

春の訪れ

私の一日の始まりは4時半頃に起床し、軽くストレッチをしてからウォーキングに出かけます。

冬の時期はまだ夜明け前。月明かりを頼りに歩き始めます。しばらく歩くと芦ノ湖の湖面にその美しい月が映り、星も輝いています。静謐な空気の中の山歩きは私には至福のときです。

春になると同じ時間でも夜は明け、外にでて空を見上げながら深呼吸をしてから歩きだします。最初の30分は速歩、そして帰りの30分は樹木を眺めながら、足もとの草花を愛でながら、季節の移り変わりを楽しみます。

先日”土筆”を発見!わぁ~春が来た・・・と嬉しくなりました。

子供のころ、野原や空地には沢山のツクシが出ているのですが、成長が早く時期も短いので、大急ぎでまめに探して摘みました。持ち帰り袴を取り、母の帰りを待ちます。

私は「卵とじ」が大好きです。今の時代にはとても信じられないことですが、私の子供の頃は、卵が貴重品でした。『ツクシの卵とじ』 一個の卵を丹念に溶いて、ゆっくりと鍋いっぱいに広げ、それを家族みんなで「今日はツクシの卵とじ汁だからごちそうだ」と、分け合って食べたものでした。子供心に、そのほろ苦さが春の訪れを教えてくれました。

正岡子規にも「くれなゐの梅ちるなべに故郷につくしつみにし春し思ほゆ」とあります。

これは明治三十五年三十五歳の春、病床を慰めるため、伊藤左千夫が、紅梅に土筆を配した盆栽を贈った時、それを眺めつつ作ったと書かれております。伊予の生まれの子規は故郷を思い浮かべながら詠まれたのでしょうね。

なんだか”春の香り”がほしくなりました。

さっそく先日バスで小田原のいつも行くスーパーに出かけてきました。我が家から約1時間揺られて小田原に着きます。1週間に1度は買い物に行きます。ほんとうに幸せです。

まず、朝獲れの近海魚が並んでいます。アジや金目鯛など。

野菜も地元の旬の新鮮な品々が並んでいます。この季節、キャベツ・新玉ねぎ・新じゃが・アスパラ・そら豆・さやいんげんなど等。そして山菜。たらの芽・うるい・野ぶき・ふきのとう・こごみなど、てんぷらでも、蕗味噌も美味しそう。ウドも三杯酢や味噌和えもいいですね。春の旬はたくさんあり、みずみずしいし、体に良い成分がたっぷり含まれています。”季節の恵み”に感謝です。

よく「山暮らしはお買い物が大変でしょう」と言われるのですが、そんなことはありません。1週間に1度の買い物は私にとって欠かせない重要な時間です。「いつまで、こうして買い物をし、重い荷物を持って、料理ができるかしら」とも思いますが、私にとって料理をすることはとても大切なな日常なのです。

子供の頃から母の手伝いをし、カマドでご飯を炊き、八百屋さんにいってはキャベツの外側の葉をタダでいただいたり、イワシを3匹買い、お手伝いを経験できたことはなんと幸せなことでしたでしょう。

料理学校に通った経験もなく、母がしていたことの見よう見真似でマスターしてお陰さまでいつのまにかレパートリーもふえました。4人の子ども達、男の子も料理好きです。

私たちの体は食べもので作られます。体だけではなく、心のもちようも、食事の内容で変わってきます。

心も?

そう。食べもので、人の気持も変化するのです。コロナ禍にあって若い人たちが料理に積極的に取り組む姿はとても美しく感じられます。  ガンバレ!

 

風景画家・コンスタブル展

先日仕事で東京に出かけ、その帰りに丸の内の三菱一号館美術館で開催されている「テート美術館所蔵 コンスタブル展」に行ってまいりました。

”あぁ~旅がしたい!”そんな日々を送っている私。

最初のひとり旅は、1961年10月末から約20日間。行き先はイタリア、フランス、イギリス、オランダ、デンマーク。

安いチケットを見つけ南回りで30時間近くかけての旅でした。ラフなプランのもとに旅立った当時の私ですが、なにぶん半世紀以上前のこと。自分のオリジナルツアーにしたいという一念で出かけた旅だったことは、現在でもよい思い出です。

ロンドンに着いてから最初に行ったロンドン・ナショナル・ギャラリーで初めて見たジョン・コンスタブルの風景画に魅せられました。

イタリアでの刺激的な旅のあと、穏やかな田園風景は旅の疲れを癒してくれました。19世紀イギリスの風景画家・・・という認識くらいでしたが、その田園風景は英国の「自然」が表現されていて”雲”の描き方に自分の暮す故郷への愛情が深く感じられ魅入りました。

今回のコンスタブル展はテート美術館所蔵の作品がメインで、国民的風景画家の、35年ぶりの大回顧展です。

ジョン・コンスタブル(1776~1837)は終生描き続けた故郷サフォーク州のイーストバーゴルド村周辺ののどかな情景は何だかイギリスの田舎を旅している気分にさせてくれます。

イギリスのもう一人の風景画家ターナーはずい分旅をして描いていますが、コンスタブルは生まれ育った故郷周辺をおもに描いているからでしょうか・・・とても懐かしさを覚える絵画なのです。

半世紀以上前に観たときの”雲”の印象は今回の展覧会でその意味を知ることができました。天候の移り変わりの激しいイギリス。私も一年だけですが暮してみて実感しました。

刻々と変化する空・雲。そして夕立を予告するような空・雲。よほど”自然”と向き合っていなければ描けない絵画です。そして、木々の表現。描かれるごくごく普通の人びとの表情。家族や友人と過ごした場所での制作。

ひたすら日常の中で自身の生活や環境から離れることなく描いた世界。暮らしを慈しみ、大切にしていること。

「イングランドの風景」の版画集も素晴らしいです。

コロナ禍の中での日々の暮らし。時には気分転換が必要ですね。特に私はイギリスの田舎が好きです。60年間に何度も訪れ、その”自然を美しく保つ”ことに国民が誇りを持っていることに感動を覚えます。

こうして、展覧会に行くだけでも旅ができるのですね。
展覧会は5月30日までです。
公式サイト
https://mimt.jp/constable/

『白い土地 ルポ 福島「帰還困難区域」とその周辺』

間もなく3月11日 東日本大震災から10年を迎えます。

そして、先日13日の土曜日深夜23時8分には震度6強の地震があり、また被害がでました。皆さんのお気持を思う時、”なぜまた”との思いがいたしました。

朝日新聞記者でルポライターの三浦英之さんが出版された本を読み、今まで報道されてきたこと以外に福島の現実を知りました。

ぜひ皆さんにも知っていただきたくて、ラジオのゲストにお招きしリモートでお話しを伺いました。

三浦さんは1974年、神奈川県のお生まれ。これまで震災報道や国際報道を担当したほか、『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で第13回開高健ノンフィクション賞はじめ数々の賞を受賞なさっておられますが、「現場の人・職業記者」です。

現在、福島県南相馬市にお住まいです。福島の前はアフリカでの勤務。ぜひ生の声を、生のお話しをお聴きいただきたいです。

本のタイトルになっている「白い土地」とは白地(しろじ)といって帰還困難区域の中でも、国が復興を進める「特定復興再生拠点区域」に含まれない、将来的にも住民の居住の見通しが全く立たないおよそ310平方キロメートルエリアの隠語だそうです。

三浦さんは着任し、すぐに公立図書館に足を運ぶと無数の震災・原発の本があり、自分の取材する隙間が残されていなく絶望したそうですが、その後、避難指示が解除されたばかりの浪江町でたった一人新聞配達をしている人に出会い、「新聞配達をさせてほしい」と頼み、朝の夜明け前2時頃から手伝い、雨の日も雪の日も、新聞を自宅に届けていて初めて「生の情報」が得られたと仰います。

そうですよね、私たちはテレビの画像などでインタビューに答えておられる姿に「ご無理なさっている」と感じることがしばしばあります。本音で語り合い、話をじっくり聞き、取材なさって本ができました。

『どうしても後世に伝えて欲しいことがあります』浪江町の町長は死の直前、ある「秘密」を三浦さんに託します。

政府は「復興五輪」と位置づけ東京オリンピックの開催を決めました。この背景も三浦さんは取材しています。私はほんとうに知らないことばかりでした。オリンピック開催の象徴、聖火ランナーは原発事故の地からスタートします。

『復興五輪』・・・という言葉を三浦さんはどのように受け止めていらっしゃるのか、ぜひ本を、そしてラジオをお聴きください。

文化放送「浜美枝のいつかあなたと」
放送は3月7日 日曜日 午前9時半から10時

この番組も20年を迎えました。毎回番組の最後にゲストの方に「忘れられないあの味」をお聴きしております。三浦さんは「震災直後に現場で頂いた塩をまぶした小さな”おむすび”です。」と。「家族や娘、息子を失った方々もいらっしゃいました。」と答えられました。懸命に握る姿を想像し、思わず私は涙がこぼれました。

曽我の梅林

寒さがゆるみ、春らしい気配がしてきました。
春の訪れを待ち望んでいる私。

この1週間ほど朝日新聞記者でルポライター・三浦英之さんの書かれた『白い土地・ルポ「帰還困難区域」とその周辺」』の本を読んでおりました。

ラジオのゲストにお迎えし、お話しを伺うことになっています。その様子は次回このブログで詳しく皆さまにお伝えしたいと思います。

間もなく東日本大震災から10年を迎えます。三浦さんはアフリカ勤務の後、2017年の秋、福島県に着任し、実際に南相馬に拠点を置きルポされた本です。深く考えさせられました。

春めくや藪ありて雪ありて雪   小林一茶

早朝のウオーキングでは霊峰富士もまだ雪化粧をしており白銀の世界です。

毎朝「白い土地」のことを考えながら歩いておりました。

ふっと春の訪れを感じたくて、小田原市東部の曽我梅林に行きたくなり、小田原から国府津へ。そしてJR御殿場線に乗り換え車窓から梅林が見えてきます。

一つ目の下曽我駅で下車し、白いマスクを着けた方々が数人一緒に降り歩いて梅林に向かいます。のんびりと散策しながら歩いていると白梅の香りがしてきました。

「いい香り!」と思わず嬉しくなりました。

満開に近い白梅に枝垂れ梅の紅梅も咲き始めていました。開花は例年より早いそうです。

新型コロナウイルスの感染防止のため、イベントなどは中止になり、申し訳ないほど人も少なくのんびりできました。

約3万5千本の梅の木が植えられているそうです。こうして巣ごもりの状態でも”春を見つけ”小さな旅を楽しんでおります。

そうそう帰り道、無人販売で曽我のみかんを買ったり、昔ながらの和菓子屋さんで美味しい「田植え餅」を見つけお土産に買って帰り、家でいただきました。

ポーラ美術館

コネクションズ
海を越える憧れ、日本とフランスの150年

立春が過ぎたものの、箱根の山はまだ”春浅し”。
朝はまだ零下4,5度であったり、時には春らしさを感じたり、春探しの日々です。

先日、穏やかな日差しの中観たかった展覧会に行ってきました。箱根の山はとても静かです。観光客もほとんどおりません。コロナ禍での自粛。私も仕事で東京に行く以外はこの箱根におります。

幸せなことに箱根には素敵な美術館がいくつもあり、40年暮していて、どれほどの幸福をいただいてきたことでしょう。

今回は「ポーラ美術館」で開催されている展覧会です。
ソーシャルディスタンスはしっかり取れました。

とても観たかった2枚の絵。

ラファエル・コラン(1850-1916)の<眠り>(1892)が120年ぶりに公開されています。

1900年のパリ万博で公開されて以来、個人蔵であったのか、様々なエピソードがありますが以降現存さえも知られていませんでした。私がコランの裸婦像を始めて観たのは多分オルセー美術館だったと記憶しています。

田園に横たわる柔和で優美でそこに降り注ぐ自然の光。コランの裸婦に惹きこまれました。そのコランを師と仰いだ「黒田清輝」が多分パリ万博でもその<眠り>を見たであろうと言われています。

今回の展覧会では、黒田の<野辺>と一緒に<眠り>が飾られています。黒田の女性は左手に野の花を持ちモデルは日本人でしょう。(今回の会場は一部の絵をのぞき、撮影が可でした。)

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、日本の浮世絵や工芸品はフランスの芸術に大きな影響を与え、ゴッホやモネなどジャポニズムの時代が到来します。また多くの日本人画学生がフランスへ留学します。黒田清輝もです。

展覧会場では、ユトリロと佐伯裕三、ゴッホ、セザンヌ、ルノワール、ゴーガンなど。そして日本人画家、岸田劉生、村山魁多、関根正二、安井曾太郎、戦後に祖国を追われ、最期はフランス人として生涯を終えるレオナール・フジタ。(藤田嗣治)日本人として誇りを持ち続けたフジタ。

皆さま、なかなか美術展には行かれない現状ですが、館内の静けさと写真でお楽しみください。


ポーラ美術館公式サイト
https://www.polamuseum.or.jp/

コネクションズ
海を越える憧れ、日本とフランスの150年
は4月4日まで。

浜 美枝の「いい人みつけた」その4

柳家小三治さん
このラジオ収録は1984年初秋でした。

小三治師匠の落語に始めて出逢ったのは40年ほど前、富山の宇奈月のお寺でした。師匠の噺に聞き惚れていました。それ以来です。”おっかけ”は。

それにしても、改めて本を読み直すと赤面のいたり・・・よくそんなことまで伺うわ、と我ながら申し訳ないことばかりです。噺家らしからぬ噺家っていっても、私たちファンにはとうに小三治さんの個性、そのらしからぬところに惹かれてているのですから。

私びっくりしちゃったんです。スタジオにいらした時の格好!ヘルメットかぶってオートバイで。その格好で走ってらしたら、小三治さんを何とお呼びしていいか分からなくなりました。何とお呼びしたらいいかしら。

「小三治です。大三治はお断りしています。」

落語家とバイクは、ちょっと結びつかなかったです。

「ほんとにそうですね。今までの観念からいうとね。私は噺家になりたいなと思っていた時分はね、そういうことをやらなかったかもしれないし、またやっても内緒にしてましたよね。僕が生まれたころ、特に育ったのも山の手ですしね。下町の雰囲気っていうものは身の回りになかったでしょ。だからなんとか噺家になりたい、いかにも噺家らしく下町の味をいっぱい口の中にほうばったようなそういう人になりたいと思ったんだけどね。

ずいぶんそれで悪戦苦闘しまして、四、五年はそんなつもりでいましたかね。でもこりゃ、どうも生まれや育ちは変えられるものではないと気がついてやめたんです。噺家になろうと思うことをやめたんです。これはたまたま実益をかねてる趣味だと、だからずっとこれをやっているかどうかわからない。ダメなときはやめてしまえばいいんだ。

ただ、今、俺は好きなことをやらしてもらってんだとそう思ったとたん、気が楽になってね。それからですよ。スキー、オートバイ、スキンダイビングとか自分の好きなことのびのびやりだしたのね。噺家の常識からいえば、当然日本舞踊とか長唄なんかの素養があり三味線かなんかちょいっとつまびく。

ところが、そういうのが大嫌い、私は。正直言って、まあなんとかなろうとしましたから踊りも習いました。そういう歌も興味をもって聞きましたから、多少は普通の方より聞いてはいます。でもほんとのこと言うと、やっぱりジャズ聞いたりクラッシック聞いたり、歌謡曲やニューミュージックなんか聞いているほうが面白い。今ふうの若者のなれのはてなわけですよ。」

落語家になろうとしていたときに、それらしく、いかにもそれらしく努力していらしたわけですね。

「不思議なんですよ。前々からどうして噺家になりたいと思ったかっていうとね。小三治さんは噺家らしからぬ噺家だって言われた。それですから、なんとか噺家になりたいと思ったところが、噺家なるのやめたと思ったとたんにね、どこがどうなったのか知りませんけどね、

「さすが噺家さんですね。噺家さんらしいですね」って言われるようになったところに、私は大きななんか生きるうえで秘密があるような気がするね。肩の力が抜けちまってどうでもいいやと思ったとたんに急にさすが噺家さんとか噺家らしいとか・・・。なんでしょうね。

そう思ったとたんに、逆に言えばプロらしくなった。なんとかこれで食ってやろうと思っているうちは、ほんとうのプロにならないのかもわからないね。だけど最初からそう思ってちゃダメかもわからないね。それまでのものがそこでもって花が咲いた。花はさかないけれど何かになった。」

なぜオートバイに乗るのですか。

「なぜでしょうね、なぜなんでしょうね。単純に言って面白いからですよ。こんなに面白いもの、ほんとに生きている間知ってよかったなって、つくづくそうおもいますよ。」

凝り性なんですね。

「そう、凝り性ですね。同じ人間なのに、あいつがうまくできて俺ができないってのは悔しいです。負けず嫌いといえば聞こえはいいけど、それをひっくり返せば潜在的劣等感といいますかね。負けず嫌いってのは劣等感の裏返しかもわからない。

劣等感のない人は負けず嫌いじゃないんじゃないですか。負けていても平気でいられる、そういう人はよほど自信のある人か何かです。ゴルフの場合でも、力を入れたら飛ばない。オートバイの場合もそうです。自分を乗り越えていかないとうまく操れるようにならない。」

危険なときには肩の力が入っているようではなおさら危ないですか。

「だって危険なときってのは、体にどうしても力が入ります。そこをスッと肩の力を抜くとそれが突然安全に変化するんですね。そういうことを自分自身で乗り越えていくってところが、落語やってもパチンコやってもみんなそうだったけど。パチンコなんかもね、入っていちいち喜んでるようじゃ玉は入らない。だから人間の本能に逆らっていくように。パチンコもセミプロまでいきましたけどね。」

小三治・少年期、青春期(初恋のはなしなど)、父親論など等。

マイクを前にして、私、小三治さんに女性観に話しが及んだときなんか、いじわるおばさんふうになっていたかもしれません。言いにくいこといっぱい言わせてゴメンナサイ。男の人の少年の心、聞いていて、私ドキドキしたんです。(これは当時の感想です)

この時代にお話しを伺えてほんとうに幸せでした。

『人間国宝 柳家小三治師匠』

これからも”おっかけ”を続けさせてください。

浜 美枝の「いい人みつけた」その3

大塚末子さん

私は40歳のときに演じるという女優を卒業し、新たな道へと進みました。

”自分の感じとった感性が一番尊い。その感性で種々の職業につくべきである”という言葉は日本の農民美術の指導者・山本鼎の教えです。この言葉は長野県上田市の神川小学校の入り口に掲げられています。

16歳で女優になり、不安にかられるとこの言葉にふれたくて、何度もこの小学校の前に立ち、この言葉をあおいだことがあります。

暮らしの中で、絶対だと思えるときがいくつもあります。子供を生んで、その可愛さにひたると、私は一生、母親で生きようと思う。しかし、三~四年すると、どこかムズムズと外の社会で働くことを思い出し、一瞬、子供の可愛さがうとましくなる。”絶対”と思えたことがどんどん動き変化していく・・・

どれが本当の自分で、どう在りたいのかを見失うこともあります。成長して変化していくのが人間ですから”絶対”と思えた中で生きにくくなったら、少しタガをゆるめて、少し柔軟に、もっと自分を許して、自分をラクにしてみる・・・

そんな呼吸法をみつけられたのは40代になってからでしょうか。それはある先輩の女性から大切なことを教えられたからです。

”嵐の中を生き抜くのって本当に大変。でもこれだけは確実に言えるわ。嵐を抜け出てきたほうが、後半、いい顔を持っているわよ”と。それからです。年上の素敵に生きている女性に出逢いたいと心から願い、お逢いしてきました。おかげさまで、ラジオの仕事は30代後半から現在も続いております。

大塚末子さんも、そのおひとりです。

大塚さんは「大塚末子着物学院・テキスタイル専門学校」という二つの学校の校長先生でいらっしゃいました。収録時は82歳。グレイの素敵な、上下別々のお召物と、赤と黒のスカーフ。おぐしが真っ白で当時このような着物の着かたをなさる方はいらっしゃいませんでした。

”針一本と残りぎれからの出発。・・・48歳での一人立ちでした”

未亡人になられて、それから着物学院その他のお仕事を始められた大塚末子さんの活動は私にとって当時眩しいほどのご活躍でした。

「伝統というのはただ守るだけではなく、積極的にこの現代に生かすことです」と82歳になられても意欲的に仕事をなさる大塚末子さん。私は今年40歳になりまして、大塚さんは82歳。こんなに美しくいられるっていうのは、憧れと同時に私たちの夢なんです。女の美しさってどんなふうに感じられますか?と当時の私はお訊ねいたしました。

「私、一番気をつかっておりますのは”健康”であるっていうこと。頭が白くなって、それからシワがよって、シミができる。これは仕方がない老人のシンボルでしょ。これをどうこうしようというより、やはり心身が健康であることが、一番私にとって大事なことかと。」

「私は針一本。残りのわずかなこの布(きれ)の中から何かをつくろう、こうしたならば子供たちが喜ぶであろうとか、こうしたものができるんじゃないかとか、これはささやかな自分の経験からでございますけれど、みんなあまりにも一つの規格の中に追いやられている。これは政府が悪いんですか個人が悪いんですかわかりませんよ。何かそういうものの考え方を考え直さなきゃ嘘ですね。」

「やはり老いたる者がああして欲しいという要求を持つよりも、若者から尊敬されるものを、老人は老人として考えていかなければいけない。自分だけが哀れっぽくなっちゃいけない。自分を幸福の神様見てくれてないんだというような、そういう心を持たないことが一番大事ではないかと。誰かが何か見ててくださる、そういうことを考えますと、この人にお世話になったから、この人に何かしなくちゃいけないじゃなくて、何かやはり生きていく限りつまずいた石ころにも一つのご縁があったのじゃないかしら、と今、思いますね。」

40年近く前のお話しです。さりげない言葉の裏側に大変なご苦労をなさって生きてこられた大塚末子さんのことばに優しさを感じ、胸が熱くなりました。大塚さんは「お陰さまで」ということばと「させていただく」ということばを何度も使われました。「いいひとを見つける」ためにはとても大事なことだと教えられました。

天は二物をお与えになった。いえ、三物かもしれない。美しさと自立した精神と、素晴らしいクリエイティブな能力。そして柔らかな腰の低さ。

40歳だったあのころ、現在77歳になった私。
少しでも大塚末子さんに近づきたいと心から思いました。