樋口一葉展 ~ わが詩は人のいのちとなりぬべき

僅か24年の生涯を足早に駆け抜けた作家。その息遣いに触れたくて、横浜に向かいました。港の見える丘公園にある神奈川近代文学館では、凛とした表情の一葉が出迎えてくれました。

「樋口一葉展  わが詩は人のいのちとなりぬべき」

来年、生誕150年となる彼女の特別展が開かれています。照明を少し落とした会場入り口の左側には、父親から贈り物である文机が置いてありました。紫檀で作られ、梅花の透かしが彫りうっすらと見える机は、独特の空気感と文化の匂いを漂わせていました。右側には、羽織を着たときに布地を継ぎ合わせたのがわからないよう仕立てられた着物が、ひっそりと飾られていました。

家計の浮沈を乗り越えた彼女の鮮烈な意志と生き方が、入り口から滲み出ていました。

そして今回、私のもう一つのお目当ては日記でした。子供の頃から読書好きで利発だったという彼女の日記に、以前からとても魅せられていました。一度は直筆の文字をこの目で見てみたい!日記から一葉の心模様を知りたかったのです。

ようやく念願が叶いました。とても流麗な文字は部分的には読み取りにくいところもありましたが、見惚れてしまう、やはり美しいものでした。14歳から書き始めたという日記は、日々の行動の記録に留まりませんでした。

自らの心に「おもひあまりたる」ことを、率直に綴っていました。そして、男性上位の社会で感じる悔しさや失望を繰り返し吐露しているのです。

一葉の短い人生は、波乱万丈と言ってもいいでしょう。士族にまで取り立てられた父親が事業に失敗し、一葉が17歳の時に亡くなります。一家の柱となった一葉は、駄菓子店を切り盛りしながら苦しい生活に耐えるのです。

しかし、一葉が文学に対する情熱を失うことは全くありませんでした。筆一本で家族を支える覚悟を決めた一葉は店を閉じ、息つく間もなく創作活動に集中します。”奇跡の14か月”という言葉が残っています。

明治27年12月に22歳で「大つごもり」を発表。その後、「たけくらべ」、「にごりえ」を書き上げました。この仕事ぶりに驚きを隠さなかったのが、泉鏡花、幸田露伴ら文壇の大御所たちでした。森鴎外などは、「この人に、まことの詩人という称を於くることを惜しまない」と絶賛しました。

その後、一葉は「十三夜」を完成させ、明治29年11月に亡くなりました。肺結核が進行していたのです。24歳6ヶ月でした。

会場を出て、深呼吸しました。秋麗(あきうらら)、爽やかで穏やかで、そして少し眩しい秋晴れの一日でした。

夭折した一葉の無念を思いつつ、経済的困窮や、時代の流れに抗いながら、懸命に生き抜いた彼女の意志と振る舞いに、秋晴れ以上の眩しさを感じたのです。

神奈川近代文学館 公式サイト
https://www.kanabun.or.jp/exhibition/15455/

 

映画「MINAMATAーミナマタ」

ともすると、時の流れは知識や記憶の輪郭を薄れさせてしまう。2時間近くの映画を見ながら、そんな思いが去来しました。

アメリカの報道カメラマン、ユージン・スミスの苦悩と使命感を描いた「MINAMATA ミナマタ」。スクリーンには一人の男性が挫折と再生の中で、取材対象の歴史的意義と自らの社会的責任を見つめ直し、ひたすら前に進もうとする静かな熱気が溢れていました。

この映画のテーマは、”水俣病はまだ終わっていない”です。

水俣病は化学肥料会社・チッソが工場排水を熊本県の不知火海に放出したことで発生しました。沿岸の住民は汚染された魚介類を食べ、重い神経疾患を抱える患者が続出しました。当初、原因不明の病とも言われたこの公害病は、今から65年前に水俣病と公式に確認されました。その後、患者は損害賠償の訴えを起こし、現在も裁判が続いています。

主人公、ユージン・スミスが水俣を訪れたのは1971年でした。それまでの彼は、フォト・ジャーナリストとして歴史に残る多くの作品を発表し、40歳になったばかりで、「世界の10大写真家」に選ばれるほどの実績を残しました。

しかし、50代半ばに差し掛かった彼は、失意の中、酒浸りの日々を送っていたのです。そんな時、後に妻となるアイリーン・美緒子さんからの情報などで、水俣の悲惨な実態を初めて知ることになります。

「この現実を、世界に伝えなければ」。眠っていたジャーナリスト魂を蘇らせた彼は、アイリーンさんを伴い水俣に入ります。以後3年にわたる現地での取材活動で、彼は患者やその家族に情理を尽くした対応を続け、強い信頼を得ていきます。そして、公害を発生させた企業の社長に対しても、捨て身の取材を続けたのです。

そのユージン・スミスを演じたのはハリウッド俳優、ジョニー・デップでした。しかしこの作品では、役者が”演じる”という言葉は、ピンと来ませんでした。”なり切っている”とも違います。スミスがデップに乗り移っている”気配”を強く感じたのです。もしかしたら、”憑依”という言葉が当たっているかもしれません。

この作品はドキュメンタリーとは異なります。しかし冒頭、「史実に基づいた物語です」と明示したことは、デップの並々ならぬ決意と自信の表れだったと思います。スクリーンのスミスを見つめながら、デップを想起したことは全くありませんでした。これは決して失礼な表現ではなく、二人が完全に一体化していた証でもあるともいえます。

この作品に登場する日本人俳優の存在は当然、大きいものがありました。その代表は真田広之さんでした。チッソと闘う活動家の役でしたが、自分の撮影シーンがなくとも現場に来てアドバイスや手伝いを自発的に続け、デップを始め周囲に強い感銘を与えたということです。

デップは語っています。「MINAMATAの歴史は語り継がねばならない。大勢の人が後に続いてくれるだろう」。この言葉は、おそらくスミスとデップ、二人の共同宣言のようにも聞こえました。

この作品のエンドロールは強烈です。現在も発生している世界各地の公害問題が次々と表示されました。アジア、アメリカ、欧州、アフリカ。その数は20ヵ所を超えており、日本の福島第一原発の事故も含まれています。

2時間の上映時間は決して長くありませんでした。

薄らいでいた自身の記憶を鮮明にし、より理解を深めるための、短すぎる貴重な時間でした。

映画公式サイト
https://longride.jp/minamata/

わたしの秋

私はいつも「今」を起点にして少し前はどうだったのか、ずーと前は?それよりもっと昔はどうだったのか、と「今」の根っこを追い求め旅を続けてきました。

ダムの底に沈む集落や、手仕事をこつこつしているお婆ちゃんを訪ね、農村や山奥の集落の人々の暮らしの歴史や文化を見て回るうちに、人間という存在の原初のエネルギーと高度な文化性、知恵と本能、生と死、伝承のうつろいなどにふれることができました。

そこには人の生きてきた連綿たる歴史があり、そして未来を見るヒントがかくれています。

集落を歩いていると爽やかな秋風に揺れる穂は、野山を黄褐色に染め、日の光に輝く美しさといったら、ため息がでます。でも日が陰り夕暮れ時には寂しい風情へと変化します。

そんな美しい日本の秋をたくさん旅し、たくさんのことを学んできました。『野にある花のように生きたい』と想ったのもそんな秋の季節だったと記憶しています。秋の花には人生を重ねることができます。

たとえば”野アザミ”。

どの角度からみても野あざみは、花弁をとがらせ、外に向って虚勢を張っています。本当は誰よりも弱い自分だから、角のようなとんがりで、自分を抱いているのです。小さな頃の私は、まるでいきり立った野あざみのようでした。自分というものがまだどういう人間なのかわからない頃、爪の先から頭のてっぺんまで、ツンツンにとがらせて、私自身を防御していたような気がします。

 

さすがに70代後半になった私は昔々ほど強く元気なトゲではなくなりました。

先日思いたって仙石原のススキ草原へ行ってみました。少し早めだったので銀色にキラキラと輝いていて草原の遊歩道が真っ直ぐに伸び、小雨降るなか秋の匂いが心地よかったです。まもなく黄金色の穂が風にゆれて本格的な山の秋をむかえます。このような見事なススキは、3月中旬~下旬には自然体系を守るために山焼きが行なわれます。

そして、歩いて湿生花園へ。私の大好きなところです。四季折々にここでしか見られない風景と湿原の可憐な花々を楽しめます。  落葉広葉樹林区ではコナラやケヤキなど雑木林とその中に咲く草花。低層湿原区、ヌマガヤ草原区、高山に咲く花々、箱根仙石原湿原区、湿生林区など、ほとんど人もいなく秋の花が楚々と咲いていました。

”春の七草”は七草粥。”秋の七草”は花の美しさを愛でる。どちらも好きです。
ホトトギス・エゾリンドウ・ワレモコウ・アサマフウロ・オミナエシ・ヤマハギ・マツムシソウ・・・そうそう、ホトトギスにこんな種類が豊富だったと初めて知りました。

どうぞ秋の草花をお楽しみください。そして秋の美しさが際立つ時期、”秋日和”には箱根にお越しくださいませ。

箱根湿生花園公式サイト
https://hakone-shisseikaen.com/

中原淳一さん

この一ヶ月はイギリスに住む息子家族の孫の”絵本”を選ぶのを楽しみました。

わが子が幼いころも、お誕生日のプレゼントは絵本でした。成長につれ内容も絵本から本に変わり4人の子ども達の成長にあわせての本選びでした。今はイギリスの孫2人の本選びです。お誕生日が近づく1ヶ月くらい前からママに今どんなことに興味をもっているのかをさり気なく聞き、喜びそうな本や絵本選びです。幸せを感じます。

なぜって、私が幼いころは絵本は憧れでした。家の事情で本を買ってもらえるような環境ではありませんでしたから、本屋さんに並ぶ絵本を眺め、いつか自分で本が買えるようになったら”思いっきり買おう”と思い、小学生の頃から図書館通いをしていました。

でも、図書館にはない私の大好きな画集。『中原淳一画集』

そう、中原淳一さんの絵が幼い頃の憧れでした。雑誌「ひまわり」や「それいゆ」表誌を眺めているだけで内容を読むことはできませんでした。

中学生になってお菓子屋さんでアルバイトをして最初に手にしたのが雑誌「ひまわり」でした。表誌の少女の美しさはもちろんのこと、美しい花や生活まわりの全てに虜になりました。

母が働いていましたから家事は私の役割。貧しくても、辛くても、中原先生の愛に包まれて、幼い私は頑張れたし、幸せを感じることができました。女優になり、働くようになってからは「それいゆ」も「ひまわり」も画集もそろえることができました。展覧会があると仕事の合間をぬって「中原淳一展」に通いました。

昭和21年に「それいゆ」が発刊され毎号、爆発的に売れ、全国に中原フアンが広がりました。私も生前、女優になりたての頃に一度だけお目にかからせていただきましたが、憧れの先生は雲の上の存在でした。先生のお描きになった挿絵はすべて好きで、さまざまなお洒落のヒントを本からいただいたものです。

お会いしたときに厚かましくも画集を持参し、サインを頂戴しました。私の”宝もの”です。そして、展覧会で改めて、以前は気づかなかった中原先生の文章に素敵な人間哲学があることに気づきました。そんな文章をご紹介いたしますね。

「愛すること」  中原淳一

女性は愛情深い人間であって欲しいのです。朝食の支度をするのなら、その朝食を食べてくれる人の一人一人に愛情をこめて作って欲しいのです。窓を開けたら新鮮な空気を胸いっぱいに吸って、幸せを感じ、窓辺の植木鉢にも愛情をこめて水を注ぎたいし、掃除をするならそこに住む人はもちろん家具、柱、壁にも愛情をこめられる人であって欲しいのです。

世の中がどんなにめまぐるしくなっても、そんな悠長なことは言っていられないなんて言わないでください。生きている限り、愛情深い女性でいてください。そういうことを知っている女性が必要でなくなることは、ないはずです。

ファッションだけではなく、暮らし、そして生きること全般に美を追求されてきた中原先生の、心底、思うことがこの一文に現れているのだと思います。「それいゆ」や「ひまわり」はまさに女性にありとあらゆる「暮らしの技術」を教えていることに気づきました。「愛情深い女性でいてください」このフレーズが心にのこります。

世の中はすっかり変わりました。でも、私は幼いころに中原先生の世界を知り、大人になってからもその美しさに魅かれ心の中にずっとその想いを抱き続けていられることはナント幸せなことでしょうか。

映画『大地と白い雲』

大自然の最大の魅力は、私たちを癒してくれることです。どこまでも続く大きな空。そして、穏やかな稜線は見る人の心を落ち着かせてくれます。そんな非日常的光景が、モンゴルの果てしない草原にありました。

中国の最も北に位置する内モンゴル自治区。そこで繰り広げられる若い夫婦の夢と不安の心模様を、映画「大地と白い雲」はじっくり描きます。

内モンゴルの大平原で、若い夫婦のチョクトとサロールは牛や羊の放牧で生計を立てています。緑あふれる夏も、凍てつく厳冬の季節も、昔ながら遊牧民としての日々が続きます。しかし、現代は都市化やITが爆発的に進み、モンゴルも例外ではありません。そこに住む若者たちはそれをどのように受け止め、向き合おうとしているのか?

馬を上手に乗りこなし、牛や羊を追いかける夫のチョクトは外の世界のあこがれを捨てきれず、オートバイで突然姿をくらまします。しかし、妻のサロールは、このまま今の生活を送りたいと願います。未知の世界への挑戦を諦めない夫。大地に根を張り、厳しいけれど穏やかな暮らしを続けたい妻。若い二人は、これからどのような未来を切り開くのでしょう?

内モンゴルの面積は日本の約3倍。人口は東京都と神奈川県を合わせた数とほぼ同じ。最大都市・フフホトの人口は大阪市と変わらない300万人弱。

圧倒的な大自然の美!圧倒的な大都市と大草原の乖離。若夫婦のすれ違いは、決して二人だけの問題ではないのですね。

この作品を作った王端(ワン・ルイ)監督にとても興味を持ちました。王さんは北京生まれの漢民族。彼は北の辺境・モンゴルにそっと寄り添うように、この物語を紡ぎました。モンゴル出身の俳優を見つけ出し、モンゴル民謡を流しながら大草原を描くのです。

字幕翻訳者によれば、会話はほとんどがモンゴル語で、中国語は僅か2割程度でした。都市化、デジタル化に翻弄され続けるモンゴルの人々の心と生活。時代の流れは仕方がないと切り捨てない王さんの姿勢はやはり少数民族や異文化への理解と共生することへの興味や関心なのかもしれません。

王さんは、企画立案や様々な交渉を担ったのは妻だったと語っています。完成まで10年もかかったのは、制作費の調達などもあったようです。奥様は、文字通り戦友、同志だったのですね。

エンドロールには驚かされました。
「本作を亡き妻に捧げる」
完成を見ずに亡くなった奥様への、最大限の感謝と謝辞だったのです。

チョクトとサロールの人生の後半は、きっと妻の意見を入れてモンゴルの大草原に戻り、穏やかに暮らすのではないか?そんな想像を、一人勝手に巡らせていました。

映画公式サイト
https://hark3.com/daichi/

沖縄

沖縄は私の第二の故郷です。

民芸に魅せられてからおよそ50年、何度通ったことでしょう。友人もたくさんできました。しかし、コロナ禍は人々の心を千々に乱しました。この2年間、私は沖縄を訪れることができませんでした。

観光客の数が1000万人と、一時はハワイを抜くほどだった沖縄は今、大打撃を受けています。

そんな時、親友の下地貴子さんから連絡をいただきました。下地さんは沖縄観光コンベンションビューローの幹部の方です。彼女は観光振興の当事者として、文字通り、獅子奮迅の活躍をしています。

その彼女が話し出しました。「浜さん、とても嬉しいニュースがあります!」と、いつもの弾んだ声が聞こえてきます。「いろいろ大変なこともあるけれど、将来に希望が持てることもあるのよね!」

何か伺ってみると、こんな話でした。

山形市の私立・明正高校は、今年1月に予定していた沖縄への修学旅行を中止しました。それまで一生懸命、旅行の準備を進めてきた生徒たちにとって、コロナのためとはいえ、中止は大きなショックでした。

沖縄への興味と関心を諦めきれない生徒たちは、専門講師によるリモート講座なども含め、勉強を続けました。沖縄の歴史や文化、更には環境問題などについて考え続けたのです。そして、「今は沖縄には行けないけれど、何かこれまでの学習の集大成を残したい!」、生徒たちは、そう判断したのです。

「私たちの想いを、たくさんの人に伝えたい。コロナ蔓延の真っ只中に高校2年生だった私たちの想いを残したい。いつか、きっとお訪ねします!」

生徒たちは、数え切れない「千」もの想いを、「千羽鶴」に折り込みました。その折り鶴を使い、大きなモザイク画が完成しました。そのモザイク画は今、動画に収められています。

千羽の鶴は動画でどのような変化を遂げたのか?
生徒たちの心が、そして沖縄の明るい光がコロナの後の世界を照らそうとしているようです。

映画「モロッコ、彼女たちの朝」

地中海に面するモロッコ最大の都市、カサブランカ。ここを舞台にしたハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンの名画「カサブランカ」を、これまで何回見たことでしょう。

でも、先日の映画は同じカサブランカが舞台ですが、描かれる世界や登場する人々は全く異なりました。男女の物語というよりも、女性の生き方を女性同士が考え、悩み、そして自ら切り開いていくというものでした。

「モロッコ、彼女たちの朝」。
モロッコの劇映画が日本で公開されるのは、今回が初めてとのことです。

カサブランカの雑踏を、臨月のお腹を抱えた若い女性が一人歩いていきます。職も住居も失った彼女は、生活の糧を探し求めていたのです。ようやく一軒の手作りパン店にたどり着いたものの、すぐに色よい返事はもらえません。

お店の主人は女性でした。一人娘を抱えて、毎日を生きることに懸命です。しかし、臨月の女性の話を聞きながら、手を差し伸べてあげたいという気持が芽生えてきます。モロッコは昔ながらの男性中心社会。未婚の母は今もタブーなのです。それが容易に想像できる女性店主は、夫を事故で亡くしていました。

二人の女性が、これからどのような将来を目指していくのか?

この映画で、”心の介添え役”を演じたのが、店主の娘です。あまりに自然な演技は、監督が偶然にみつけたという、素人の少女でした。彼女なしには、この映画は成り立たなかったでしょう。女性二人の仲を取り持ったのですから。

そして、スクリーンに時折現れる、一枚の絵画を思わせるような映像。フェルメールの「牛乳を注ぐ女」の、まさにオマージュともいえました。監督はモロッコ生まれのマリヤム・トゥザニ。彼女は初めて長編映画に挑みました。

全編静けさが漂うスクリーンで唯一”心の躍動”を感じさせたのが、アラブ世界では有名な歌手・ワルダの歌声でした。彼女は夫に歌うことを禁じられたために離婚し、なお歌い続けました。聞く者の胸を揺さぶる彼女の愛と希望の旋律は、この作品の重要な”羅針盤”ともなっていました。

男性との対立を前面に押し出すのではなく、それよりも、女性の自立や自律を大事にしたい!「女性の、女性による、女性のための映画」。監督のそんな思いが、強く感じられました。

今から20年ほど前、私はカサブランカから車で2時間半ほどのところにある小さな集落を訪ねたことがあります。わずか4日間の滞在でしたが、そこではベルベル族(北アフリカの先住民)の女性たちが、家事の合い間に、アルガン樹の実を手で割り、オイルを採取していました。昔から食物であり、治療薬として大切にされてきたオイル。「生産協同組合」もでき、アルガンの木の保護や女性の自立支援、社会的地位向上も目指していました。

アルガンの実を”人生の実”と称されるほどです。

彼女たちは今、どうしているかしら?
コロナ禍が一段落したら、また行ってみたいと夢見ています。

映画公式サイト
https://longride.jp/morocco-asa/

藤戸竹喜  木彫り熊の申し子     ~アイヌであればこそ

木彫りの熊は離れて眺めても、その魅力が伝わってきません。近寄って見つめると、思わず触れたくなるようなリアリティーに驚かされます。毛一本一本の質感、そして何かを訴えかけるような表情にも、芸術性と熊の存在感が溢れ出ているのです。

今、東京ステーションギャラリーで「木彫り熊の申し子」と題された企画展が開かれています。”申し子”とは彫刻家・藤戸竹喜(ふじと・たけき)のことです。

「アイヌであればこそ」の副題が付けられた展覧会は熊を中心にした動物、そしてアイヌの先人たちの、まるで生きているかのような立像など、80点余りの作品が周囲を圧倒しています。

50年ほど前、東京・駒場の日本民藝館でアイヌの工芸品に出会いました。どうしても、その手仕事の現場を見たい!その後、テレビの仕事で北海道のアイヌコタン(アイヌの人々が住む集落)を訪れ、素敵な女性にお会いしました。

貝沢トメさん。

アイヌの大切な祭り・イヨマンテ(クマ送り)で熊を寝かせるための”花ござ”を編んでいました。彼女はアイヌの人々の暮らしぶりや織物の素晴らしさなどを、3日もかけて丁寧に教えてくださったのです。

今回の木彫り熊の企画展は、衣装や装飾から出発した私のアイヌ芸術への関心を一層広げ、深めることになりました。

デッサンも下絵もないまま、たった一つの木片から熊を彫り上げていく。なぜ、このようなことが可能なのか?それは、アイヌの人々の精神性に因るものだと感じました。

お寺も神社も持たない彼らは、動物なども含めた山や川、つまり自然そのものを神と崇めているのです。彫刻家の藤戸竹喜は、一つの木から魂を彫り続け、そして堀り当てたのでしょう。

「木彫り熊の申し子」展の会場として、ステーションギャラリーはぴったりでした。

かつての東京駅のレンガ壁を利用した展示場は、出展作品との息遣いがとても似ていたのです。昭和の観光ブームでお土産物として主役の座を維持し続けた木彫りの熊は、今では芸術・文化作品として、アイヌの手仕事の魂を代表する存在になりました。

その立役者の藤戸竹喜は、決して頑固一徹の人物ではなかったようです。会場には、若い頃の彼が大型3輪バイクに乗って微笑む写真が照れくさそうに飾られていました。自宅の工房には、趣味でジャズ喫茶が開かれていたとのことです。

藤戸竹喜さんは3年前に、84歳で亡くなられました。

アイヌの歴史と伝統に限りない誇りと愛情を持ちながら、別の文化にも理解の翼を広げていらしたのですね。

尊敬と合掌

東京ステーションギャラリー
http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/202107_fujito.html

映画「サンマデモクラシー」

沖縄を第二の故郷と思う私は、お邪魔する度に那覇市にある牧志公設市場に立ち寄ります。

そこには溢れんばかりの海や畑のものが顔を揃えています。そして店々からは”めんそーれー”(いらっしゃい!)と客に挨拶する、元気な”おばぁ”たちの掛け声が心地よい”伴奏”となって聞こえてきます。沖縄に帰ってきた!と実感する瞬間です。その牧志公設市場は現在、改修のため仮設の建物で営業中ですが来年の春にはリニューアルオープンするとのことです。

先日、沖縄の映画を見ました。笑ったり、考え込んだり、勇気付けられたり、とても魅力的な映画でした。

「サンマデモクラシー」

今から50年以上も昔の話です。当時の沖縄はアメリカの占領下にありました。その頃、牧志で魚屋を営む女性が当時の琉球政府を相手取り裁判を起こしたのです。つまり、アメリカと争うことになったのですね。

「庶民が食べるサンマに税金を掛けるのは許せない!これまで払った税金を返してくれ!!」というものでした。誰も考えなかった前代未聞の裁判。訴えたのは玉城ウシさん、当時60代半ばの女性だったのです。

さあ、ウシさんはアメリカを相手にどんな戦いを繰り広げるのか?

この映画は沖縄の噺家・志ぃさーさんがナビゲーターで登場し、俳優の川平慈英さんがナレーションを担当しました。沖縄のこれまでの苦難の歴史を改めて振り返り、ウチナーンチュ(沖縄人)の心の襞を知ってほしい!そうした製作者や出演者の皆さんの熱い思いが、スクリーンに溢れでていました。

私が初めて沖縄を訪れたのは、かれこれ半世紀も前のことです。”沖縄民藝”の魅力に心を奪われ、その後、”食の歴史”も学びました。そして、繰り返し通うことになった牧志公設市場。当時、ウシさんには直接お会いしたことはありませんでした。でも私は、ウシさんとお話ししたことがあると、思いたいのです。

「ハマさ~ん!ちゃーがんじゅうーねー?(元気でしたか?)」

これまで、何度となく声をかけてくださった市場の”おばぁ”の皆さんたち。様々な苦労を重ねながらも、怒り、笑い、泣き、行動し続ける。そんな何人ものウシさんの声が、今も耳に残っているのですから。

コロナが落ち着き、牧志公設市場が再びリニューアルオープンしたら、また伺います。必ず!

映画公式サイト
http://www.sanmademocracy.com/

世界報道写真展2021~私たちは生きる

物音一つしない会場に、突然閃光が走ったような気がしました。黄色で縁取られた光の中で、親子が抱擁している! でも、それは勘違いでした。

ブラジルのサンパウロにある養護施設で、看護師が85歳の女性を抱きしめているのです。コロナ感染予防のため、施設側には最大限の工夫が求められています。密着を避けながら、少しでも入所者の不安や孤独を癒す。

この難題を解決するために考えたのが、ビニール製の「ハグカーテン」でした。

デンマークのカメラマン、マッズ・ニッセンによるこの作品は「初めての抱擁」と題され、「世界報道写真展 2021」で大賞を受賞しました。

このコンテストは今年で64回目を迎えますが、私はここ数年、毎年のようにその写真展にお邪魔しています。今回は文字通りのパンデミック下、カメラマンの取材も困難を極めたことと思いますが、世界130の国と地域から、4300人を超える写真家が参加し、7万4000点以上の応募があったということです。

恵比寿の「東京都写真美術館」で開かれた写真展には、その中から選ばれたおよそ60点の作品が、それぞれの”今の世界”を語っていました。

そして、会場入口を入ってすぐ右手に、”無言の存在感”を示していた「初めての抱擁」がありました。その一枚の写真には、コロナと向き合う人々の恐れや困惑そして同じ時を生きる人たちとの絆や温もり、更には自分自身への誇りまでもが凝縮されていたのです。

目にした瞬間、足がすくみ、胸が締め付けられました。どれくらい立ち止っていたでしょうか。この女性はおそらく、一瞬の安堵を感じたはずです。懸命に生きてきた証であろう白髪が、今も目に焼きついています。

恵比寿での写真展は先日終了しましたが、9月以降は立命館大学びわこ・くさつキャンパスなどで開催される予定です。

https://www.asahi.com/event/wpph/