映画『ホテル・ムンバイ』

かつてその町はボンベイと呼ばれていました。50年以上も前の記憶は、今も鮮明です。私は仕事の合間に少しでも時間ができると、躊躇なく旅に出ました。仏教美術、特にガンダーラの仏像に魅せられ、インドへと向ったのです。

”バックパッカー”という洒落た言葉がまだ一般には存在しない頃、文字通り、リュックサック一つで憧れの大地を歩き回りました。

いま、映画「ホテル・ムンバイ」が上映中です。ボンベイは現在、ムンバイに名前を変えました。

2008年11月、ムンバイを代表する「タージマハル・パレス・ホテル」がイスラムの過激派によって占領されました。これは駅や高級ホテルなど、人の多く集まるところを狙った同時多発テロでした。テロリストたちは3日にわたってホテルに篭城しましたが、この映画はその間の模様を、あたかもドキュメンタリーのようなタッチできめ細かく描いています。

宿泊客は多岐にわたりました。生まれたばかりの赤ん坊を抱えた米国人夫妻やロシア人の実業家、画面はそれぞれの人間模様や心の葛藤を丁寧に追いかけます。

理不尽な殺戮が続く中、何とか無事に脱出できたケースもありました。しかし、ホテル内には一時、500人以上が取り残されたのです。逃げ遅れた宿泊者を冷静・沈着に誘導し、その命を守ったのがホテルの従業員、つまり料理長やウェイター、そして電話交換手らスタッフでした。

彼らの献身的な努力で多くの人質は無事脱出、生還することができました。しかし、このホテルだけでも30人以上の命が失われ、そのうちのおよそ半数はホテルの従業員だったのです。

このように甚大な被害を受けたホテルでしたが、事件から僅か1ヶ月後には営業を一部再開されました。それは、テロには決して屈しないという経営者や従業員の決意、そして客からの強い応援があったからです。

この映画の監督は脚本・編集も担当したオーストラリアのアンソニー・マラス。インドとアメリカも加わる3か国の共同制作でした。テロへの怒り、人質への共感、そしてホテルの従業員への賛辞。

心ゆさぶられる2時間は、またたく間に過ぎました。

50年以上前のボンベイ。当時「タージマハル・パレス・ホテル」に泊まることなど考えられなかった私は「せめて見るだけでも」と、1階のラウンジに腰を下ろしました。そして、英国式の本格的な紅茶を注文し、ゆっくりと港を見ながら飲みました。私にとって、それは最高の贅沢だったのです。

機会があれば、もう一度「タージマハル・パレスホテル」を訪れたい。そして、開業以来110年を超える名門ホテルの苦悩と栄光の歴史に心からの敬意を表しながら、鮮明に記憶に残る紅茶の味を、もい一度味わいたいと思うのです。

東京ステーションギャラリー:没後90年記念 岸田劉生展

「ステーション」「駅」・・・という響きに皆さまはどのようなイメージをお持ちになられますか。

18歳でのヨーロッパひとり旅でローマを訪ねた時の「テルミニ駅」は「終着駅」の映画の舞台。イタリアの巨匠ヴィットリオ・デ・シーカ監督。主演はジェニファー・ジョーンズとモンゴメリー・クリフト。1953年公開作品です。荷物を地下に預けてあのラストシーンのホームに立ちました。「終着駅」という言葉に郷愁・哀愁を感じたことを覚えております。

パリの「オルセー美術館」はもともと1900年のパリ万国博覧会に合わせてオルレアン鉄道によって建設されたオルセー駅兼ホテルでありました。長距離列車のターミナルでかまぼこ状の大屋根の美しい建築が、1986年に現在の美術館として生まれかわったのです。

建物内部に鉄道駅であった面影が残っています。絵画・彫刻だけではなく、写真、グラフィックアート、家具、工芸品など19世紀の作品を観ることができます。かまぼこ型のガラスからは陽光が射し、美しい元ステーション美術館です。

そして「東京ステーションギャラリー」。

東京駅は生活の一部です。私は旅に出かける時、また仕事の時の出入りに映画を観たり、美術館巡りをしたり、友人とのおしゃべりで出会う時など東京駅もよく訪れます。

そんななかでの楽しみのひとつは駅構内にある「東京ステーションギャラリー」です。まずギャラリーに入る前に丸の内側の天井を見上げます。そして館内に。2012年秋に復元工事を終えて新しいスタートを切りました。

ギャラリーで絵を見る前に鉄骨レンガ造りが目にはいります。その美しさには震災、戦争をくぐり抜けてきたストーリーが秘められていることに気づかされます。関東大震災と第二次世界大戦を経てきた建設当時のレンガが使われていて、それが「アート」になっています。歴史的建造物としての100年の記憶を感じつつの絵画の鑑賞です。

今回の展覧会は「岸田劉生展」です。没後90年記念です。

大正時代に活躍し、今も人気の高い画家・岸田劉生(1891~1929)。今回の展覧会の見どころは多くの作品を年代順に並べられているので、その変遷が浮き彫りになり、私ははじめて「岸田劉生像」を知ることができました。

ある時期に集中して描く対象物、それが自画像であったり友人達の肖像画であったり、写実で細密な画風に変わり、雑誌「白樺」でゴッホやセザンヌの影響を受けたり、レンブランドやゴヤなどに惹きつけられていく行程。

そして、あの有名な「切通之写生」15年の「道路と土手と堀」に出会います。不思議な絵です。左手の石垣の細かい陰影。土の道が斜めになり天に突き出たような晴れ渡った青空。雑草や小石まで精密に描かれています。

そして16年から取り組んだ静物画。この年の7月に肺病と診断され、戸外での写生が出来なくなるのです。「林檎三個」は病と闘う劉生が自分と妻、娘の麗子の「一家三人の家族の像」だと気づかされます。

38歳で急逝した劉生の”祈り”を感じます。そして、あの「麗子坐像」19年8月23日に完成。愛する娘を細密描写で描いた油彩画。麗子のよこに置かれた赤い林檎が印象的です。

麗子はじっと動かずその姿でモデルになっていたので、うっすらと目には涙が浮かんでいます。深い愛情を感じます。早世の直前に渡った中国東北部を描いた風景画は光あふれ、未来を信じて描いたのでしょうか。それとも余命を感じて描いたのでしょうか。

それにしても38歳とは・・・もっともっと自己の道を歩みたかったことでしょう。そうした一人の画業、生き方を知ることができた展覧会でした。

個人的には日本的な椿を西洋風に描いた「竹籠含春 ちくろうがんしゅん」も好きです。二色に染め分けられた竹籠に六輪の大ぶりの椿がいれられています。

会場を出ると美術館に来た人だけが見られるギャラリー2階の回廊からのドームを見上げられます。干支の彫刻が繊細に描かれています。改札口からの人の流れを見ながら「ステーション」の床にも目がくぎずけになります。

このように満たされた日はステーションホテルのバーで軽くカクテルを・・・

“さぁ山に戻りましょう”と帰路につきました。

美術館公式サイト
http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/201908_kishida.html

映画『ある船頭の話』

先日、素敵な映画に出会いました。

オダギリ・ジョー監督の「ある船頭の話」。
スクリーンには”日本の原風景”がとても穏やかに、そして丁寧に描かれていました。

時は明治の終わり頃でしょうか。日本が急速に近代化の歩みを進める中、一人の年老いた船頭が山奥の川で、来る日も来る日も渡し船をこぎ続けています。

身元の分からない少女が船頭に助け上げられたことを除けば、特にドラマチックな展開があるわけではなく、淡々とした日常が繰り返されます。

船頭役の柄本明さんには、心を揺さぶられました。”演技”と表現するのが失礼なほど、山村の風景に溶け込んでいました。変りゆく社会、それに引きずられる人々の心。しかし、決して捨て去ってはいけないものがあるのだと、寡黙な船頭は話したかったのでしょう。

自然と一体になった船頭を一層際立たせたのが、ワダエミさんが担当した衣装デザインでした。”紺”という一言では括り切れない複雑で繊細な色模様が、スクリーンを奥行きのある空間に変えていました。

少女役の川島鈴遙(かわしま りりか)さんの衣装も象徴的でした。一見すると国籍不明の服は、西洋にはない、極めて日本的な深い赤に染められていました。この映画全体で唯一光を放った色は”赤”でした。

「ある船頭の話」はもちろんカラー作品ですが、モノクロと勘違いするような奇妙な感覚に何度も襲われました。水墨画の世界を思わせるような味わいのある映像が、所々で独特の”色彩”を放っていたのです。水墨画と赤、一見相対すると思われるようなものが、しっとりと同居していました。

オダギリ・ジョーさんが長編映画の監督をするのは今回が初めてです。参加したスタッフも実に多彩。撮影監督はオーストラリアのクリストファー・ドイル、音楽はアルメニアのティグラン・ハマシアン。そして、ワダエミさんが色と素材の深みで語ってくださったのです。

”日本の原風景”を描き切るために、東西の優れた感性が重なり合ったのですね。

この映画は先の「ベネチア国際映画祭」で公式上映されました。終了後、満員の客席からは暖かい拍手がいつまでも鳴り止まなかったと報じられています。おそらくそれは、国境や文化、そして時代をも飛び越えた、見事なコラボレーションへの惜しみない賛辞だったのでしょう。

奈良大和四寺のみほとけ

東京国立博物館本館で「奈良大和のみほとけ」展が9月23日まで開催されております。

安部文殊院・長谷寺・室生寺・岡寺。奈良県北東部にある4つの古刹の名宝があつまりました。国宝4点、国の重要文化財9点が一堂に会しました。

奈良市内の大寺に比べれば地味なお寺さんです。これら四寺はいずれも7~8世紀に創建された古刹です。その中でも私が一番心惹かれるのは”室生寺”。それにはわけがあるのです。

写真家の「土門拳の古寺巡礼・第五巻 室生寺」に出逢ったからです。もう半世紀ほど前のことです。「室生寺はいつ行ってもいい。ぼくは ただ室生寺のあれこれを、また撮られずにはいられない」と記され、「釈迦如来坐像」(国宝)を「日本一の美男子」と称えた平安初期の仏像です。

10代だった私が土門先生に出逢い『本物と出会う』ことを教えられてはじまった骨董や仏像に出会う旅。今回の展覧会でも流麗な衣文線がなんとも美しく、女性的で優しい雰囲気をたたえた十一面観音菩薩像(国宝)など・・・時のたつのを忘れて魅入りました。このような”みほとけ”を拝観できるなんて・・・なんと贅沢なことでしょう。

「魅かれるものに魅かれるままジーッと眺める。モノを長く眺めれば眺めるほど、それがそのまま胸にジーンとしみて、僕なりの見解が沸く。要するに余計なことを考えず、ただ胸にジーとこたえるまで相手をじっと見る。見れば見るほど具体的にその魅かれるものが見えて来る。よく見るということは対象の細部まで見入り、大事なものを逃さず克明に捉えるということなのである。」(土門拳「私の美学」あとがきより)

古寺も仏像も、土門さんにとっては、ひとしく、美たりうるものであったのでしょう。

写真集「古寺巡礼」の撮影中に一度倒れられ、不死鳥のように立ちなおり、強い意志でもって復帰なさったのですが、再度、倒れられ、車椅子の不自由なおからだになった土門さん。

奈良の病院で療養をなさりながら、1939年(昭和14)初めて室生寺に行ったときから30回近く通うも「雪の室生寺」が撮れない、撮りたいとの執念で3月に寒波到来を知り、定宿にしている橋のたもとの橋本屋に移り、雪を待ち続けました。

12日、二月堂のお水取りの日の早朝、橋本屋の女将が「先生、雪が・・・」と。土門さんは涙を流したといわれています。うっすらと雪の鎧坂が表紙になっております。私の宝ものです。

雪降るなかの五重塔、杉の木立の階段、梅の匂いに包まれた季節、椿、石楠花、そして紅葉、と何度訪れたことでしょうか。”みほとけ”に出会うために。

今回は博物館でこんなに身近で出会えました。優しいほとけさまたちと。

そして、みほとけ のなかから土門先生が現れました。先生が仰られた「胸にジーンとしみてきました」

もう次の旅を計画している私。箱根から室生寺、そして高野山への旅を・・・晩秋かしら、初冬かしら、令和になったのですもの、やはり大和の紅葉の季節かしら、万葉の心にふれる旅をしたいです。

東京国立博物館サイト
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1966

原三渓の美術

横浜美術館に「原三渓の美術展」を観に行ってまいりました。

横浜・本牧の三渓園には何度か足を運び、四季折々の美しい庭園や三渓自身が京都や鎌倉などから移築した古建築や茶室など楽しんでまいりました。

これらの美の世界を構築したのが原三渓自身であったこと。その美意識に感嘆し、庭を歩き「原三渓」という人物にとても興味をもっていました。

なによりも私利私欲を超え将来有望な画家たちを物心両面で支援した本当の意味での”パトロン”であったことなどは良く知られていました。その「芸術のパトロン」は明治・大正期の精神風土が生み出したものです。この時代にはそうした本物のパトロンが存在していたことは他でもみかけられますが、今回の展覧会ではその全貌を観ることができました。

原三渓は慶応4(1868)~昭和14(1939)、本名・富太郎。生糸貿易で財をなした実業家です。古美術コレクター、茶人、そして近代美術を支えたパトロンでもあります。広大な土地に「三渓園」を造園し、自らも書画など描いたアーティストでもあります。

そしてその三渓園を市民に無料で開放しました。『美術品は専有するものではなく他者と共有するもの』との考えがあり、その審美眼で集めた作品は5千点以上といわれます。

1923年の関東大震災が起き横浜が焼け野原になった時には一切の収集を止め復興に私財を投じ心血を注いだといわれています。関東大震災が起きなければ「原の美術館建築」が実現していたのでしょうが、今回の展覧会でそれらを一堂に観ることができました。

今に伝わる名品の一つ、孔雀に座る明王が静かなまなざしをむける「孔雀明王像」(国宝)。色彩がよく残っていて荘厳。私がびっくりしたのは宮本武蔵の「「眠り布袋図」です。構図といい、穏やかな布袋といい宮本武蔵像がかわりました。

尾形光琳の「伊勢物語図・武蔵野・河内越」。平安時代の「古今和歌集巻第五」。茶器では朝鮮時代の井戸茶碗の「銘・君不知」。「信楽茶碗」。そして本人の描いた「白蓮」。三渓愛蔵の名品の質の高さに驚かされます。

そして三渓が支援した近代の日本画家の作品が並びます。横山大観、下村観山、今村紫紅、速水御舟の「京の舞妓」など。これら三渓はすべて高い値段で買い上げ、生活費を渡し、それだけではなく新進画家や美術史家らを自宅に招き夜を徹して芸術論を戦わしたそうです。

この時代に素晴らしい絵画、美術品が海外に渡りました。今回の展覧会では『日本美術』を守り育て、そうした情熱と審美眼を知ることができました。

コレクターでありパトロンであり、自らも筆をもち、才能を支援し、岐阜の豪農の家に生まれながら、”芸術にたいする愛”を惜しみなくそそいだ『原三渓』に敬意を表しました。

秋になったら紅葉した美しい三渓園を歩きたいと思いました。

韓国と私

あれは17、8年前ころでしょうか。コスモスの美しい季節でした。まだ夏の暑さがすこし残っていましたが、ピンクや濃桃色、真っ白なコスモスが群生していて、風が柔らかにそよいでいました。

ソウルのインチョム空港から東に、80キロ、忘憂里(マウリー)の丘にある淺川巧(あさかわたくみ)の墓に詣でる旅でした。

巧は1891年(明治24年)山梨県に生まれました。山梨農林学校を卒業したあと、朝鮮総監府農工部山林課の技師として、ソウルに渡りました。緑化運動に成果を上げるかたわら、半島各地を歩き、日常に民衆が使っている道具に、健全な美を発見したのです。

巧は、普段から朝鮮服を身に着け、朝鮮料理を食べ、朝鮮語をマスターしていました。そして、お給料の大半を学生たちに援助をし、朝鮮の人から慕われ、朝鮮人と間違われることもたびたびだったそうです。

朝鮮半島の七百ヶ所近い窯跡を調査しつつ、「朝鮮の膳」、「朝鮮陶磁器名考」といった著書を著し、韓国陶磁器の全体像を明らかにしました。残念ながら、巧は四十歳の若さで、肺炎をこじらせて、還らぬ人となりました。

ソウルを眼下に望む忘憂里の丘のお墓は今でも韓国の方が守ってくださっています。そして墓には、巧が愛した朝鮮白磁の壷が花崗岩でかたちどられており、林業試験場の方々によって作られた記念碑には「韓国の山と民芸を愛して、韓国の人の心の中に暮して生きて去った日本人、ここ韓国の土になりました」とハングル文字で刻まれています。

あちらでは人が亡くなったとき、三角形のお煎餅を配る習慣があるのだそうですが、巧の葬儀の日、大勢の人々が見送りに来てくださり、ソウルの煎餅がすっかりなくなったという逸話を、以前、私は墓を守ってくださっている韓さんから聞きました。韓さんは、お父さんから、その話を聞いたそうです。

あれから幾度となく訪れた韓国。

私は韓国の家具にも強く心惹かれます。隅々まで、びしっと計算されつくし、完成された日本の家具と比べると、李朝の家具はほんとうに素朴にみえます。心がふっとなごんで落ち着く柔らかさを李朝の家具に感じるのです。

朝鮮半島は、何度も戦いにさらされました。その中で、人々は打ちひしがれ、ときには恨みや悲しみを抱くこともあったでしょう。そうした辛い、激しい、感情が昇華したときに、はじめて心のなかに表れる静かさというような、落ち着きとたたずまいを私は李朝の家具に感じるのです。陶磁器も多くは朝鮮半島から渡ってきています。

現在、韓国と日本は政府間でたくさんの問題を抱えております。伝統、文化の違いもあるでしょう。巧が民の中に飛び込み、民とともに生き、民によって守られていることも事実です。

どうぞ、よい方向に向っていただきたい、と願うばかりです。私には韓国に大切な友人達もおります。またコスモスの美しく咲くころに忘憂里の丘に詣でたいと思います。

『リーチ先生』

今、原田マハさんの「リーチ先生」(集英社)を読んでおります。

7月にイングランド西端の港町・セントアイビスに念願だったバーナード・リーチの工房を訪ねたことはブログでも以前ご紹介いたしましたね。

何故、英国人のリーチがこれほどまでに”日本の美”に魅せられたのか・・・が不思議でなりませんでした。

最初は60年ほど前に民藝運動の創始者、柳宗悦の本でリーチのことを知りました。まだ中学生だった私が手にした本「民藝とは何か」。わけも分からず読み、その人が宗教哲学者であり「白樺」の同人であることを知ったのは女優になってからのことでした。

映画界はいっけん華やかな世界、でも私自身は居場所を見失い心細い日々が続いていた10代。また「民藝とは何か」のページを開きました。

「あの平凡な世界、普通の世界、多数の世界、公の世界、誰も独占することのない共有の世界、かかるものに美が宿るとは幸福な報せではないでしょうか」とありました。

高価なものではなく、民衆的工芸、つまり「民藝」の心は「美しいと心に響く、感じる心が大切」とも理解しました。「そうなのだわ、心に響く何かを見つければ心の安定が得られるはず」そう思い民藝の世界へと誘われていきました。

「真に美しいものを選ぼうとするなら、むしろあらゆる立場を超えねばなりません。そうしてものそのそのものを直接に見ねばなりません。立場は一種の色眼鏡なのです。ですから知識で見たり概念で見たりしたら、末葉の性質に引っかかって、本質的なものを見逃してしまうのです。ものの美しさは何よりも直感に依らねばなりません。」(民藝とは何か)より。

バーナード・リーチ、濱田庄司、河井寛次郎、などなど、そのときに知った名前でした。それから現在まで「民藝の旅」は続いております。

原田マハさんの本は大分県小鹿田(おんだ)にリーチが訪ねてきたところから始まります。現在でも窯元が多くあり、小鹿田の土は豊かで「陶土」には適しているといわれます。1ヶ月ほど滞在しリーチはその土で作陶を続けます。

半分ほど読んだところでしょうか。もう止まりません。柳宗悦がリーチを訪ねてきて、時には美について激しい口論になったとしても、お互いを認め合い、濱田庄司たちとの友情を育んでいったのです。この「リーチ先生」を読んでいるとまさにその場に居合わせたかのような錯覚におちいります。

ちょうど深沢のギャラリー・セントアイビスで「夏のコレクション展2019」が始まりバーナード・リーチの1950-60年代の作品を中心にギャラリー所蔵作品などが拝見できるので行ってまいりました。

オーナーの井坂浩一郎さんはたびたびセントアイビスはじめイギリス国内でのリーチ作品を巡っておられます。

そうそう興味深かったのはリーチのエッチングです。本の中にも出てきますが、英国を代表する芸術家リーチは陶芸家でありエッチングも素晴らしく、日本に来て生活のために「エッチング教室」を開こうと思いエッチングの展覧会を開催し、そこに柳宗悦が見にきたのが出会いでした。

マハさんの本の中に登場するバーナード・リーチは濱田庄司との友情、柳宗悦と親友になったことなど、その人間味溢れる描写には東洋と西洋の架け橋になった人間「リーチ先生」が描かれております。

”読み終わるのがもったいない!”とおもいつつ読み続けております。

ギャラリー・セントアイビスの公式サイト
http://www.gallery-st-ives.co.jp/Top.htm

長野・東御町の旅

梅雨が明けて、私のお気に入りの信州・東御(とうみ)市へ友人たちと1泊の旅をしてきました。

東御には30年来の友人ご夫妻、エッセイストとして旅や料理、食文化、田舎暮らしの達人である玉村豊男さんご夫妻が住んでおられます。

当時は軽井沢から東御町に移り住んで間もないころでした。「のんびり畑でもやりながら療養をかねて道楽で自分が飲む分のワインでも造れたら・・・」が始まりだったとお聞きしました。

そして、お気に入りの宿「農の家」に泊まるのも目的のひとつです。上田から「しなの鉄道」ローカル線に乗り3つ目の「田中」駅で下車。

宿のご主人が「草刈をしていたので、こんな格好で失礼します。」と真っ黒に日焼けした笑顔で出迎えてくださいます。真夏の長野は昼間は30度近くまで気温があがり太陽光線も強烈ですが朝夕は湿度も少なく快適です。

「農の家」は最大6名まで、1日1組、仲間や家族で楽しめる古民家をほとんどご自分達でリノベーションした素敵な宿です。建物は江戸時代に建築され、150年以上経っています。おしゃれに、清潔で、センス良くリフォームされています。

仕上げの作業はほとんどご夫妻で手作りです。(床板貼り、壁の漆喰塗り、木部の柿渋ぬり、薪で焚く露天風呂などなど・・・)そして、朝食・夕食に出される野菜やフルーツは最大限自給しているそうです。

畑は原則耕起せず農薬類は一切使用せず化学肥料も使いません。「自分達が食べたいものを作っているので雑草だらけですが、この雑草が豊かな土を育むのです。」とおっしゃられます。

朝食のパンもジャムも手作り。牛乳の美味しいこと!近所の酪農家がこだわりをもって作っているとか。長年ペンションをなさっておられたから、料理はバツグンのフレンチで夕食はワインとともに堪能します。野菜中心でデザートまでしっかりいただきます。気のおけない仲間とおしゃべりしながらの食事、至福の時です。ワインも飲みました~~!

早朝はいつものように、ストレッチをしてから近所を散策。夏の花々が咲き、今年は長雨だったせいか、トウモロコシの生育は遅れているようですが、早朝の風、空気・・・信州の田園風景が拡がるなかで深呼吸をして、健康に感謝する朝です。

今回の旅では、ワイナリー巡り、地元の食材を使った天然酵母のパン屋さん、そしてワインに合う美味しいチーズに、道の駅で色とりどりの新鮮野菜や果物・・・などバッグがいっぱいになりました。

「帰ったら、この”おおひらたけ”とくるみのジェノベーゼでプチイタリアンにしましょ!チーズにワインも。」と『食を知る旅』でした。玉村夫人の抄恵子さんにご案内いただきました。

そして、いよいよ皆さん念願の玉村豊男さんがオーナーのヴィラデストへ。

ブドウ畑を見ながら、お庭の花々を眺めながらのランチ。この一体は「千曲川ワインバレー」とよばれ日本有数の小雨地域で、日照時間が長く、昼夜の寒暖差が大きいなど、ブドウ栽培に適しておりますが、最初から全てがうまくいったわけではありません。

耕作放棄地を開墾し、今でこそ手入れの行き届いた畑の風景が美しいですが、ここまでのご苦労を思うと「日本ワイン」にこだわり、新規参入者を受け入れ、レストランに農作物を提供し、みんなで作り上げた町つくりなのですね。

その中心的な役割を担っているのが玉村さん。「大企業がポンと大きな工場を作るよりもたくさんの人が集い、切磋琢磨していけば個性も生まれるし、新しい風が吹き込まれると思うのです」とおっしゃいます。

5000本のぶどうの苗木からはじまり、今や7ヘクタールもの広大な畑に。開業3年目で国際サミットのランチワインにも選ばれたという実績をもちます。情熱をもち気鋭の醸造家が集い、後進の育成にも励みます。

私はこうした旅が好きです。これからの私たちの旅の在りかたも変化してくるでしょうね。大きくからスモールへ。人の温もりが感じられる旅。そして、スモールな町づくり。そのほうが、日本列島には似合っていると思うのです。

「インバウンド」海外からのお客さまにも本当の”普段着の暮らし”を見て、感じていただきたいですね。もう始まっておりますよね。

ヴィラデストでのランチを美味しくいただき、ガーデンを散策し、山羊の「ヤギ子」に見送られ家路につきました。

世界報道写真展2019

先日、私は1枚の写真を前に立ち竦んでいました。2歳ぐらいでしょうか、1人の女の子が周囲の異様な空気に耐えきれず、母親の前で泣き叫んでいます。

昨年6月、アメリカ・テキサス州でのできごとです。中米・ホンジュラスからメキシコを経て、この母娘はやっとの思いでアメリカにたどり着いたのです。2人を待っていた最初の体験は国境監視員による取調べでした。

この写真の鋭さは、2人の大人の顔がフレームに入っていないことでしょう。人の表情が消えたことで、事務的で無機質な手続きが”淡々と”執行されていることを冷静に伝えています。

多くの理不尽さの集約でもあるこの光景を目の当たりにして、女の子だけが正直に反応しているのです。鮮やかな赤いシャツと靴。そして、ライトに照らし出された彼女の真っ黒できゃしゃな影が、不気味なほどのコントラストを描いています。

        ジョン・ムーア(アメリカ・ゲッティイメージズ)

いま「世界報道写真展2019」が開かれています。今年で62回目となるこのコンテストは、オランダで始まりました。今回は129の国と地域から、4700人を超えるプロのカメラマンが参加し、応募総数は7万8000点に達したそうです。その中から選ばれた45の入賞作品が展示されいます。女の子の泣いている写真は、「スポットニュースの部」で1位を獲得しました。

これ以外にも、迷彩服に身を包み、銃を手にした女性の作品が目を引きます。アフリカ南部のジンバブエ。眼光鋭い彼女は野生動物の密猟防止に向け、女性だけで組織された武装部隊のメンバーです。貧しい女性たちの仕事を確保し、長期的には地元住民の利益にも合致する活動ですが、娯楽目的で猟をする観光客からのお金を部隊の活動資金に充てています。矛盾を抱えた難しい現実が横たわっています。

      ブレント・スタートン(南アフリカ・ゲッティイメージズ)

そんな中、脚にケガをしたフラミンゴの姿が多少なりとも重い心を慰めてくれます。早期の回復を目指し、治療用の特別なソックスを履かされたフラミンゴですが、傷の治癒具合を自ら確かめるかのような姿が、カメラに優しくそして丁寧に捉えられました。カリブ海・キュラソーでの1コマでした。

          ヤスバー・ドゥースト(オランダ)

この写真展は楽しく、うきうきするような内容では決してありません。でも、この瞬間、世界が抱える問題を見事に切り取った象徴的で印象的な作品ばかりが集まっています。たくさんのフアンが、「世界の今」を静かにじっくりとご覧になっていました。展示会場の片隅に、ビデオを上映するコーナーがひっそりと設けられていました。そこには、日本の四季折々の美しい自然が心地よい音楽とともに穏やかに流れていました。世界の現状はあまりに厳しいけれど、僅かな光明だってあるはずだ。みんなの傷ついた心の翼をいたわり合いながら、また飛び出そう!主催者が、そしてカメラマンたちがわれわれに呼びかけた、優しくて力強いメッセージと受け取りました。

この写真展、私がお邪魔するのは5回目となります。やはり、やみつきになりそうです。

恵比寿の「東京都写真美術館」で8月4日まで開催中。
開館時間 10:00~18:00 (木・金は20:00まで)
休館日   毎週月曜日
https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-3437.html

映画『COLDWAR あの歌、2つの心』

1940年代末のポーランドから始まるラブストーリーの男と女は、東西冷戦下で15年にわたり、国境を越えて愛し合い、衝突し、別れ、また求めあい、ワルシャワから東ベルリンへ、そしてパリからユーゴスラヴィアへ。

再びパリからからポーランドへと舞台は移ります。3人の男女が冬のポーランドで村落を訪ね歩き、民族音楽を収集し「先祖伝来の音楽」と才能ある少年少女たちを探し求めて旅を続けます。

ピアニストであり楽団創設者のひとりでもあるヴィクトルは、ある村で魅力的な少女ズーラを見出し、心奪われ恋に落ちます。

結成された舞踏団も世界大戦後の冷戦構造に飲み込まれ社会主義政権やスターリン主義を支える音楽や舞踏へといやおうなく変化していきます。

社会主義政権の圧力で好きな音楽が出来ないことに絶望した彼はズーラを誘って亡命を決意しますが、東ベルリンで西側に脱出しようとしますが、彼女は現れません。そして、パリへ。

パリでジャズを演奏するヴィクトルの前にズーラが現れます。「西」と「東」を行き来しながら続く愛。しかし・・・そんな単純なストーリーではない心理描写をポーランド生まれのパヴェウ・パヴリコフスキ監督は感情ほとばしる白黒画面と音楽、魂の歌で静かに、鮮烈に観客に投げかけます。

『音楽が語る』とはこういうことなのですね。民族音楽、ジャズ、多彩な音楽が物語と共振し、なかでもポーランドの歌「2つの心」は一度聴いたら心から離れません。

単なるラブストーリーではなく男と女、どうすることもできない業や切なさ・・・15年の歳月の省略の美も包み込みます。スタンダード画面のモノクロ、こんな美しい画像の映画は久しぶりに観ました。

最後の10分で女の「ここから連れだして」というセリフに思いのすべてが凝縮されていて感動しました。ラストシーンはあえて書きませんね。

この美しさをどのように表現していいかは私には分かりません。観終わりしばらくは映像と音楽が頭から、耳から離れませんでした。そんな余韻を監督は観客にプレゼントしてくれたのですね、きっと。

エンディングロールに「両親に捧ぐ」とありました。調べてみたら主人公のズーラとヴィクトルという二人の人物は部分的に監督の両親を基にしているとのこと。

1時間28分。私はヒューマントラスト有楽町で観ました。本年度のアカデミー賞外国部門に監督賞・撮影賞にノミネートされている映画です。