キノコ狩り

毛無山に広がる上ノ平高原を抜けて車が進むとブナの原生林。箱根とはまた違う奥信州にキノコ狩りに家族と出かけてまいりました。

宿泊は野沢温泉。江戸時代から湯仲間という制度があり地域ごとに守られてきた共同浴場(外湯)

そんな中にキノコ名人がいる宿に泊まり、その名人にご案内いただきました。”キノコ狩り”は始めての経験です。一緒に行った孫たちももちろん始めて。

ブナ林を分け入り上っていくと空気が違います。豊かな水、澄んだ空気、山の豊かさを身体ごと感じることができます。山道を少し歩くと朽ち木や土の上にキノコ・キノコ。

食用・有毒、みわけはまったくできません。名人が「これは毒キノコ、手の平ほど食べたら天国に行っちゃうよ!」と。ブルブル。そして、始めて見る天然のなめこ。「え~こんなに大きいの、丸まっていないの?」と私。「八百屋で買うのとは違うでしょ!天然は美味しいよ~」と名人。

奥信州の味覚、なめこは雪深い山奥でブナの大木に自生しているのです。ちょうど晩秋の紅葉の頃より発生し降雪期まで採取できるそうです。根のほうから静かに採ると香りが違います。「え~これ、しめじですか」と私。普段はオガクズより人口栽培されたものをいただいておりますが、自然しめじは原木に発生しています。時間を忘れ夢中になってしまいました。

ナメタケ・シイタケ・クリタケ・ムキタケ・ヒラタケ・アミタケ・ナラタケ・・・など等。なめこや、しめじの料理の下準備、料理方法も教えて頂きました。

下準備1:きのこの石突き(軸の末部分)をはさみで切る。
2:きれいに水洗いする(なめこは数時間水に漬けておくと簡単に洗えます)

料理方法:沸騰した湯の中へ1分ほどつけてから取り出し、傘の裏側へレモン汁と醤油をかけていただく。なめこ汁・酢の物・吸い物・寄せ鍋などいろいろ。

保存方法も教えていただきました。
石突きを切り取りよく水洗いしたきのこを2時間ほど水につけておきフリーザーパックへ1回に使用するだけ入れ冷凍保存・解凍方法は、凍ったまま沸騰した湯の中にいれ解凍。

夕食は寄せ鍋・酢の物・しいたけ・ひらたけ・くりたけの天ぷら。これがとても美味しかったです。物質的には恵まれた豊かさの中にある現在の暮らし。名人からは山の現状など、様々なことも教えていただきました。

8割が森林の日本。戦後山々に杉の木が植林されました。しかし、現在は安い、ということで国産材を使うことが少なく、海外の材料が多く使われています。山は荒れています。下草を刈り、間伐をし、太陽を浴び、風を通し、”健全な森”にしなければなりません。

山の管理のあり方はとても重要です。経済優先だけでは山は守られません。動物や植物の生態系も変化し続けています。情報もふんだんに溢れ、平和も、自由も、世界の国々に比して少しも引けをとらない程に手にしています。

でも・・・心からの「豊かさ」を実感できないこともあります。自然の中に身を置く、時には必要ですね。

赤々と燃えていた木々の葉がすっかり落ちて、秋の終わりを告げるころ白銀の世界がひろがり、奥信州にも本格的な冬がやってくるのでしょう。

沖縄・首里城

11月9日、30年来の沖縄の友人と共に、首里城に行って参りました。

10月31日に起きた首里城の火災から9日。前々日には沖縄に入っていたのですが、焼失した正殿、南殿、北殿を目にすることがためらわれ、伺うことができたのは沖縄滞在最後の日でした。

瓦が残っている北殿を仰ぎ見、失ったものの大きさに、改めて愕然としました。

失われたのは建物だけではなく、琉球王国時代から伝わる貴重な収蔵品や、多くの人々が技術をつくし、心を注ぎ込んで作り上げた復元品も失われました。私を惹きつけてやまなかったそれら工芸の数々を思い出し、胸に悲しみがあふれました。

私を民芸の世界に導いてくださった民芸の創始者・柳宗悦先生は、沖縄の織物や焼物、漆器などの工芸品に魅せられ、沖縄を『驚くべき美の王国』と記しました。その言葉に背中を押されるように、私は沖縄に通いはじめ、沖縄こそ民芸の故郷と思うようになりました。

その中で、琉球王国と王家に伝わる文化財の多くが沖縄戦によって失われてしまったこと、この首里城建設には、沖縄の宝を収集し、技術を再現し、後の世に伝えていくという意味も含まれているということも、知りました。

沖縄は和の島です。
その中心にある首里城は、美の城です。祈りの城です。
沖縄の人たちの誇りであり、大切なよりどころです。

私たち、日本人の宝物です。

「必ず再建する」と、沖縄県、那覇市、そして国も立ち上がりました。

「沖縄、がんばって」
「応援しています」

日本だけでなく世界中の人から、多くの励ましも寄せられています。

「もう一度ですね」
「やりましょうね」

目に涙を浮かべつつ、友人が力強くうなずきました。

建物はもちろん、工芸などの復元にも、多くの、おそらくは技術的な困難があるでしょう。けれど、きっと乗り越えて、守礼門から再び首里城の美しい姿を見られる日が来ると、私は信じます。

明日を素敵に生きるために

先日、佐賀県の基山町のお招きを受け講演にお邪魔してまいりました。

博多からJR鹿児島本線の快速わずか30分、都会の喧騒を離れ自然豊かな魅力的な町でした。まもなく晩秋、山々が紅葉に彩られ美しい風景がみられることでしょう。

50代から80代までの幅広い町民の方々の前で約1時間のお話をさせていただき、その後パネルディスカッションに参加させていただきました。ディスカッションでは魅力ある町づくり、未来へ向けて豊かな町づくりなど
皆さん真剣にお話くださいました。

今回は、基山町でお話させていただいた講演の一部をご紹介させていただきます。私自身が今感じていること、考えていること、などを皆さんにご報告したくて。

『明日を素敵に生きるために』 浜 美枝

健康を支えるのは「食」と「運動」
1.健康寿命(健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間)を伸ばす。

『私の朝は早いんですよ。普段の日は、5時に目覚めると、ベッドの中でしばし瞑想します。それから起きて、30分のトレーニングとストレッチを、体と向き合う気持ちでじっくりと行い、天気がよければ箱根の山を1時間ほど歩きます。

以前は足腰を鍛えたいと、速足で2時間近くも険しい山道を歩いていたのですが、あるとき体が悲鳴をあげまして、今は無理はしなくなりました。

何事もゆっくりゆっくり。
山歩きもうっすら汗ばむ程度で十分。
無理は禁物と自分にいいきかせています。』(講演より抜粋)

2.野菜と肉や魚、バランス良く。

『食事は三食、基本的に自分で作ります。野菜と肉や魚、バランス良く三食なるべく自分で作り、しっかりかんで食べる。週に1回、小田原で買い物に行き、一週間分の食材を仕入れてきます。

忙しいころは、野菜の切れ端をうっかり余らしてしまったりすることもありましたけれど、今は全部の材料使い切り、冷蔵庫を空にします。食品ロスはゼロというのが、私のひそかな自慢です。』

3.「筋肉貯金」で一生歩ける体を作る。

『70歳になっても80歳であっても、筋肉を鍛えることはできるといわれます。一生、元気に歩くための筋肉を作り、「筋肉貯金」を今から、はじめませんか。

私は山歩きをしていますが、家の近所を毎日歩くだけでも筋肉は鍛えられます。またこうしたトレーニングを続けることで、病気や認知症のリスクも遠ざけることができるともいわれます。』

4.運動の小さな目的を作る。

『ウォーキング、ヨガ、フラダンス、なんでもいいので、自分にあったものを探し、体を動かすことを楽しんでいただきたいと思います。

毎日、30分歩く。週に1回、ヨガスクールで汗を流す。
こうした小さな目的を持つことは、生活のはりにもつながります。』


*精神の健康は「わくわく」が肝心。
 1.新聞の切り抜きで自分の興味を発見する。

『精神の健康も重要です。これをやっていると楽しい。わくわくする。
そういったものをみなさん、お持ちですか。たまに「もう何もおもしろくなくて」と嘆かれる方もいらっしゃいますが、それは自分と向き合っていないからではないかと思います。

自分が何に興味があるかわからないという方におすすめのひとつは、新聞の切り抜きです。

最初はちょっと気になった記事はみんな、切り抜いてしまってください。続けているうちに、自分の興味の傾向がわかってきますよ。』

2.勇気をだして行動、新しい世界に飛び込む。

『女性の生き方、ボランティア、映画、演劇……。興味が持てることがわかったら、行動しましょう。家から外に出かけていくんです。

あの映画を見るために日比谷に行く、劇場に足を伸ばす、ボランティアがどのようにおこなわれているのか、どこで行っているのかを調べて、話を聞きに行く……目的があればひとりで行動することもさびしくありません。

私の知り合いは、朗読のボランティアをやっています。そのために、本屋や図 書館に足繁く通い、おもしろい本を探し、滑舌をよくするために毎日「あえいうえおあお」の訓練や早口言葉を練習しています。』

3.家を片付ける。花を飾る。

『家の中を片付けることも、精神を輝かせるためにとっても素敵なことだと私は思っています。好きな食器やグラス、座り心地のいい椅子、窓から見える緑、部屋を彩る植  物や花瓶の花……。

私も毎日、植物に水をやり、花瓶の水をかえ、週に1回、花を求め、ときには庭の草取りもやっています。そういうことをやり続けることがまだできる自分が嬉しいですし、同じことをしているようで、そうではないんですね。咲く花も毎日違います。

ほほをなでていく風も日々変わります。ふと季節の変化を感じたりすること も、また楽しいものなんです。

こうして好奇心を持ち、体や心を動かし続けていれば、世の中が愛おしくなってきます。』

*孤独を怖がらない。
1.子どもは独立していくもの。

『子どもが巣立ち、子どもが独立していく。これは親としてもっとも喜ぶべきこと。それが子育ての目的といっても過言ではないですよね。

私は4人の子どもを育てました。それぞれ、個性が違いましたし、成長のスピードや、成長する時期も違って、子どもともに悩み、母親として私も共に、成長させてもらったように思います。

子育ての最中、どんなときも揺らがなかったのは、子どもは預かり物であり、社会で独り立ちできるまでが、私の大仕事だということでした。』

2.夫婦のどちらかが必ず残る。

『どんなに仲がいい夫婦でも、死ぬまでふたり一緒に過ごせるわけではないんですよね。必ず、どちらかが先に旅立ち、もう一方がこの世に残されます。

そして女性の方が一般的に長生きなので、妻があとに残されるケースが多い のも、世の摂理なんですね。

大家族で暮らしていても、世代が違えば、興味も異なりますし、やはりひとりの時間を生きなくてはなりません。

誰かと共にいるから、孤独と無縁であるとはならないんです。
人間とは、そういうものなのではないでしょうか。』

*ひとりの時間が、あなたを磨き、育ててくれる。

『年齢を重ねれば、ひとりで過ごす時間とより仲良くしなければなりません。誰も自分を楽しませてくれなくなるからです。自分を楽しませ、励まし、喜びをもたらしてあげられるのは、自分なんです。

ひとりの時間の可能性に、もっと光をあててほしいんです。
ひとりだからこそ、自分の好きなことができます。

明日のことを考え、自分に向き合うことができます。
孤独だからこそ、自由でいられます。
自分を知り、自らに優しくも厳しくもなれます。

孤独の深さを知っているからこそ、家族や友人をより深く愛し、そうした人々がいてくれることに感謝の気持ちを抱くことができます。

ひとりの時間を上手に過ごすことで、自分の可能性を信じ、変化し続けることを望み続けることができるんです。

ひとりの時間、そして孤独は怖いものなどではなく、むしろ、自分らしく生きる ために不可欠なものなんです。』

*いくつになっても人は変化し、進化することができる。

『あなたの中にどんな新たな芽が潜んでいて、これから何に夢中になるのでしょう。どうぞ、一日一日を大切に、わくわくしながら進んでいっていただきたいと思います。』

 

沖縄

昨日、首里城の正殿、南殿、北殿が焼失しました。

首里城は、私にとって、特別な思いのある場所です。

民藝の柳宗悦先生に導かれるように、私が初めて沖縄の地を踏んだのは、まだパスポートが必要だった時代でした。そこで、琉球時代から伝わる織物、塗り物、焼き物など、素晴らしい作品を作り続けていた人々と出会いました。

太平洋戦争の激戦で多くの人命が奪われた沖縄で、悲しみをこらえ、再び琉球の文化を次世代へとつなげようと、もう一度、立ち上がった人たちでした。

そうした人々が30年という歳月を費やし、建物はもちろん、内部の道具類に至るまで復元したのが首里城です。細部に至るまで清らかで美しく、琉球の心に触れる思いがしました。美に抱かれるとはこのことかと思いました。

多くの人々の英知、技術の粋、琉球の心が詰まった首里城が失われたと思うと、あまりに残念で、悲しくてなりません。

涙を流しながらでもいい、私にできることは何だろうか、みんなでどう応援すれば沖縄のためになるだろうか、と、考えていきたいと思います。

映画『ホテル・ムンバイ』

かつてその町はボンベイと呼ばれていました。50年以上も前の記憶は、今も鮮明です。私は仕事の合間に少しでも時間ができると、躊躇なく旅に出ました。仏教美術、特にガンダーラの仏像に魅せられ、インドへと向ったのです。

”バックパッカー”という洒落た言葉がまだ一般には存在しない頃、文字通り、リュックサック一つで憧れの大地を歩き回りました。

いま、映画「ホテル・ムンバイ」が上映中です。ボンベイは現在、ムンバイに名前を変えました。

2008年11月、ムンバイを代表する「タージマハル・パレス・ホテル」がイスラムの過激派によって占領されました。これは駅や高級ホテルなど、人の多く集まるところを狙った同時多発テロでした。テロリストたちは3日にわたってホテルに篭城しましたが、この映画はその間の模様を、あたかもドキュメンタリーのようなタッチできめ細かく描いています。

宿泊客は多岐にわたりました。生まれたばかりの赤ん坊を抱えた米国人夫妻やロシア人の実業家、画面はそれぞれの人間模様や心の葛藤を丁寧に追いかけます。

理不尽な殺戮が続く中、何とか無事に脱出できたケースもありました。しかし、ホテル内には一時、500人以上が取り残されたのです。逃げ遅れた宿泊者を冷静・沈着に誘導し、その命を守ったのがホテルの従業員、つまり料理長やウェイター、そして電話交換手らスタッフでした。

彼らの献身的な努力で多くの人質は無事脱出、生還することができました。しかし、このホテルだけでも30人以上の命が失われ、そのうちのおよそ半数はホテルの従業員だったのです。

このように甚大な被害を受けたホテルでしたが、事件から僅か1ヶ月後には営業を一部再開されました。それは、テロには決して屈しないという経営者や従業員の決意、そして客からの強い応援があったからです。

この映画の監督は脚本・編集も担当したオーストラリアのアンソニー・マラス。インドとアメリカも加わる3か国の共同制作でした。テロへの怒り、人質への共感、そしてホテルの従業員への賛辞。

心ゆさぶられる2時間は、またたく間に過ぎました。

50年以上前のボンベイ。当時「タージマハル・パレス・ホテル」に泊まることなど考えられなかった私は「せめて見るだけでも」と、1階のラウンジに腰を下ろしました。そして、英国式の本格的な紅茶を注文し、ゆっくりと港を見ながら飲みました。私にとって、それは最高の贅沢だったのです。

機会があれば、もう一度「タージマハル・パレスホテル」を訪れたい。そして、開業以来110年を超える名門ホテルの苦悩と栄光の歴史に心からの敬意を表しながら、鮮明に記憶に残る紅茶の味を、もい一度味わいたいと思うのです。

東京ステーションギャラリー:没後90年記念 岸田劉生展

「ステーション」「駅」・・・という響きに皆さまはどのようなイメージをお持ちになられますか。

18歳でのヨーロッパひとり旅でローマを訪ねた時の「テルミニ駅」は「終着駅」の映画の舞台。イタリアの巨匠ヴィットリオ・デ・シーカ監督。主演はジェニファー・ジョーンズとモンゴメリー・クリフト。1953年公開作品です。荷物を地下に預けてあのラストシーンのホームに立ちました。「終着駅」という言葉に郷愁・哀愁を感じたことを覚えております。

パリの「オルセー美術館」はもともと1900年のパリ万国博覧会に合わせてオルレアン鉄道によって建設されたオルセー駅兼ホテルでありました。長距離列車のターミナルでかまぼこ状の大屋根の美しい建築が、1986年に現在の美術館として生まれかわったのです。

建物内部に鉄道駅であった面影が残っています。絵画・彫刻だけではなく、写真、グラフィックアート、家具、工芸品など19世紀の作品を観ることができます。かまぼこ型のガラスからは陽光が射し、美しい元ステーション美術館です。

そして「東京ステーションギャラリー」。

東京駅は生活の一部です。私は旅に出かける時、また仕事の時の出入りに映画を観たり、美術館巡りをしたり、友人とのおしゃべりで出会う時など東京駅もよく訪れます。

そんななかでの楽しみのひとつは駅構内にある「東京ステーションギャラリー」です。まずギャラリーに入る前に丸の内側の天井を見上げます。そして館内に。2012年秋に復元工事を終えて新しいスタートを切りました。

ギャラリーで絵を見る前に鉄骨レンガ造りが目にはいります。その美しさには震災、戦争をくぐり抜けてきたストーリーが秘められていることに気づかされます。関東大震災と第二次世界大戦を経てきた建設当時のレンガが使われていて、それが「アート」になっています。歴史的建造物としての100年の記憶を感じつつの絵画の鑑賞です。

今回の展覧会は「岸田劉生展」です。没後90年記念です。

大正時代に活躍し、今も人気の高い画家・岸田劉生(1891~1929)。今回の展覧会の見どころは多くの作品を年代順に並べられているので、その変遷が浮き彫りになり、私ははじめて「岸田劉生像」を知ることができました。

ある時期に集中して描く対象物、それが自画像であったり友人達の肖像画であったり、写実で細密な画風に変わり、雑誌「白樺」でゴッホやセザンヌの影響を受けたり、レンブランドやゴヤなどに惹きつけられていく行程。

そして、あの有名な「切通之写生」15年の「道路と土手と堀」に出会います。不思議な絵です。左手の石垣の細かい陰影。土の道が斜めになり天に突き出たような晴れ渡った青空。雑草や小石まで精密に描かれています。

そして16年から取り組んだ静物画。この年の7月に肺病と診断され、戸外での写生が出来なくなるのです。「林檎三個」は病と闘う劉生が自分と妻、娘の麗子の「一家三人の家族の像」だと気づかされます。

38歳で急逝した劉生の”祈り”を感じます。そして、あの「麗子坐像」19年8月23日に完成。愛する娘を細密描写で描いた油彩画。麗子のよこに置かれた赤い林檎が印象的です。

麗子はじっと動かずその姿でモデルになっていたので、うっすらと目には涙が浮かんでいます。深い愛情を感じます。早世の直前に渡った中国東北部を描いた風景画は光あふれ、未来を信じて描いたのでしょうか。それとも余命を感じて描いたのでしょうか。

それにしても38歳とは・・・もっともっと自己の道を歩みたかったことでしょう。そうした一人の画業、生き方を知ることができた展覧会でした。

個人的には日本的な椿を西洋風に描いた「竹籠含春 ちくろうがんしゅん」も好きです。二色に染め分けられた竹籠に六輪の大ぶりの椿がいれられています。

会場を出ると美術館に来た人だけが見られるギャラリー2階の回廊からのドームを見上げられます。干支の彫刻が繊細に描かれています。改札口からの人の流れを見ながら「ステーション」の床にも目がくぎずけになります。

このように満たされた日はステーションホテルのバーで軽くカクテルを・・・

“さぁ山に戻りましょう”と帰路につきました。

美術館公式サイト
http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/201908_kishida.html

映画『ある船頭の話』

先日、素敵な映画に出会いました。

オダギリ・ジョー監督の「ある船頭の話」。
スクリーンには”日本の原風景”がとても穏やかに、そして丁寧に描かれていました。

時は明治の終わり頃でしょうか。日本が急速に近代化の歩みを進める中、一人の年老いた船頭が山奥の川で、来る日も来る日も渡し船をこぎ続けています。

身元の分からない少女が船頭に助け上げられたことを除けば、特にドラマチックな展開があるわけではなく、淡々とした日常が繰り返されます。

船頭役の柄本明さんには、心を揺さぶられました。”演技”と表現するのが失礼なほど、山村の風景に溶け込んでいました。変りゆく社会、それに引きずられる人々の心。しかし、決して捨て去ってはいけないものがあるのだと、寡黙な船頭は話したかったのでしょう。

自然と一体になった船頭を一層際立たせたのが、ワダエミさんが担当した衣装デザインでした。”紺”という一言では括り切れない複雑で繊細な色模様が、スクリーンを奥行きのある空間に変えていました。

少女役の川島鈴遙(かわしま りりか)さんの衣装も象徴的でした。一見すると国籍不明の服は、西洋にはない、極めて日本的な深い赤に染められていました。この映画全体で唯一光を放った色は”赤”でした。

「ある船頭の話」はもちろんカラー作品ですが、モノクロと勘違いするような奇妙な感覚に何度も襲われました。水墨画の世界を思わせるような味わいのある映像が、所々で独特の”色彩”を放っていたのです。水墨画と赤、一見相対すると思われるようなものが、しっとりと同居していました。

オダギリ・ジョーさんが長編映画の監督をするのは今回が初めてです。参加したスタッフも実に多彩。撮影監督はオーストラリアのクリストファー・ドイル、音楽はアルメニアのティグラン・ハマシアン。そして、ワダエミさんが色と素材の深みで語ってくださったのです。

”日本の原風景”を描き切るために、東西の優れた感性が重なり合ったのですね。

この映画は先の「ベネチア国際映画祭」で公式上映されました。終了後、満員の客席からは暖かい拍手がいつまでも鳴り止まなかったと報じられています。おそらくそれは、国境や文化、そして時代をも飛び越えた、見事なコラボレーションへの惜しみない賛辞だったのでしょう。

奈良大和四寺のみほとけ

東京国立博物館本館で「奈良大和のみほとけ」展が9月23日まで開催されております。

安部文殊院・長谷寺・室生寺・岡寺。奈良県北東部にある4つの古刹の名宝があつまりました。国宝4点、国の重要文化財9点が一堂に会しました。

奈良市内の大寺に比べれば地味なお寺さんです。これら四寺はいずれも7~8世紀に創建された古刹です。その中でも私が一番心惹かれるのは”室生寺”。それにはわけがあるのです。

写真家の「土門拳の古寺巡礼・第五巻 室生寺」に出逢ったからです。もう半世紀ほど前のことです。「室生寺はいつ行ってもいい。ぼくは ただ室生寺のあれこれを、また撮られずにはいられない」と記され、「釈迦如来坐像」(国宝)を「日本一の美男子」と称えた平安初期の仏像です。

10代だった私が土門先生に出逢い『本物と出会う』ことを教えられてはじまった骨董や仏像に出会う旅。今回の展覧会でも流麗な衣文線がなんとも美しく、女性的で優しい雰囲気をたたえた十一面観音菩薩像(国宝)など・・・時のたつのを忘れて魅入りました。このような”みほとけ”を拝観できるなんて・・・なんと贅沢なことでしょう。

「魅かれるものに魅かれるままジーッと眺める。モノを長く眺めれば眺めるほど、それがそのまま胸にジーンとしみて、僕なりの見解が沸く。要するに余計なことを考えず、ただ胸にジーとこたえるまで相手をじっと見る。見れば見るほど具体的にその魅かれるものが見えて来る。よく見るということは対象の細部まで見入り、大事なものを逃さず克明に捉えるということなのである。」(土門拳「私の美学」あとがきより)

古寺も仏像も、土門さんにとっては、ひとしく、美たりうるものであったのでしょう。

写真集「古寺巡礼」の撮影中に一度倒れられ、不死鳥のように立ちなおり、強い意志でもって復帰なさったのですが、再度、倒れられ、車椅子の不自由なおからだになった土門さん。

奈良の病院で療養をなさりながら、1939年(昭和14)初めて室生寺に行ったときから30回近く通うも「雪の室生寺」が撮れない、撮りたいとの執念で3月に寒波到来を知り、定宿にしている橋のたもとの橋本屋に移り、雪を待ち続けました。

12日、二月堂のお水取りの日の早朝、橋本屋の女将が「先生、雪が・・・」と。土門さんは涙を流したといわれています。うっすらと雪の鎧坂が表紙になっております。私の宝ものです。

雪降るなかの五重塔、杉の木立の階段、梅の匂いに包まれた季節、椿、石楠花、そして紅葉、と何度訪れたことでしょうか。”みほとけ”に出会うために。

今回は博物館でこんなに身近で出会えました。優しいほとけさまたちと。

そして、みほとけ のなかから土門先生が現れました。先生が仰られた「胸にジーンとしみてきました」

もう次の旅を計画している私。箱根から室生寺、そして高野山への旅を・・・晩秋かしら、初冬かしら、令和になったのですもの、やはり大和の紅葉の季節かしら、万葉の心にふれる旅をしたいです。

東京国立博物館サイト
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1966

原三渓の美術

横浜美術館に「原三渓の美術展」を観に行ってまいりました。

横浜・本牧の三渓園には何度か足を運び、四季折々の美しい庭園や三渓自身が京都や鎌倉などから移築した古建築や茶室など楽しんでまいりました。

これらの美の世界を構築したのが原三渓自身であったこと。その美意識に感嘆し、庭を歩き「原三渓」という人物にとても興味をもっていました。

なによりも私利私欲を超え将来有望な画家たちを物心両面で支援した本当の意味での”パトロン”であったことなどは良く知られていました。その「芸術のパトロン」は明治・大正期の精神風土が生み出したものです。この時代にはそうした本物のパトロンが存在していたことは他でもみかけられますが、今回の展覧会ではその全貌を観ることができました。

原三渓は慶応4(1868)~昭和14(1939)、本名・富太郎。生糸貿易で財をなした実業家です。古美術コレクター、茶人、そして近代美術を支えたパトロンでもあります。広大な土地に「三渓園」を造園し、自らも書画など描いたアーティストでもあります。

そしてその三渓園を市民に無料で開放しました。『美術品は専有するものではなく他者と共有するもの』との考えがあり、その審美眼で集めた作品は5千点以上といわれます。

1923年の関東大震災が起き横浜が焼け野原になった時には一切の収集を止め復興に私財を投じ心血を注いだといわれています。関東大震災が起きなければ「原の美術館建築」が実現していたのでしょうが、今回の展覧会でそれらを一堂に観ることができました。

今に伝わる名品の一つ、孔雀に座る明王が静かなまなざしをむける「孔雀明王像」(国宝)。色彩がよく残っていて荘厳。私がびっくりしたのは宮本武蔵の「「眠り布袋図」です。構図といい、穏やかな布袋といい宮本武蔵像がかわりました。

尾形光琳の「伊勢物語図・武蔵野・河内越」。平安時代の「古今和歌集巻第五」。茶器では朝鮮時代の井戸茶碗の「銘・君不知」。「信楽茶碗」。そして本人の描いた「白蓮」。三渓愛蔵の名品の質の高さに驚かされます。

そして三渓が支援した近代の日本画家の作品が並びます。横山大観、下村観山、今村紫紅、速水御舟の「京の舞妓」など。これら三渓はすべて高い値段で買い上げ、生活費を渡し、それだけではなく新進画家や美術史家らを自宅に招き夜を徹して芸術論を戦わしたそうです。

この時代に素晴らしい絵画、美術品が海外に渡りました。今回の展覧会では『日本美術』を守り育て、そうした情熱と審美眼を知ることができました。

コレクターでありパトロンであり、自らも筆をもち、才能を支援し、岐阜の豪農の家に生まれながら、”芸術にたいする愛”を惜しみなくそそいだ『原三渓』に敬意を表しました。

秋になったら紅葉した美しい三渓園を歩きたいと思いました。

韓国と私

あれは17、8年前ころでしょうか。コスモスの美しい季節でした。まだ夏の暑さがすこし残っていましたが、ピンクや濃桃色、真っ白なコスモスが群生していて、風が柔らかにそよいでいました。

ソウルのインチョム空港から東に、80キロ、忘憂里(マウリー)の丘にある淺川巧(あさかわたくみ)の墓に詣でる旅でした。

巧は1891年(明治24年)山梨県に生まれました。山梨農林学校を卒業したあと、朝鮮総監府農工部山林課の技師として、ソウルに渡りました。緑化運動に成果を上げるかたわら、半島各地を歩き、日常に民衆が使っている道具に、健全な美を発見したのです。

巧は、普段から朝鮮服を身に着け、朝鮮料理を食べ、朝鮮語をマスターしていました。そして、お給料の大半を学生たちに援助をし、朝鮮の人から慕われ、朝鮮人と間違われることもたびたびだったそうです。

朝鮮半島の七百ヶ所近い窯跡を調査しつつ、「朝鮮の膳」、「朝鮮陶磁器名考」といった著書を著し、韓国陶磁器の全体像を明らかにしました。残念ながら、巧は四十歳の若さで、肺炎をこじらせて、還らぬ人となりました。

ソウルを眼下に望む忘憂里の丘のお墓は今でも韓国の方が守ってくださっています。そして墓には、巧が愛した朝鮮白磁の壷が花崗岩でかたちどられており、林業試験場の方々によって作られた記念碑には「韓国の山と民芸を愛して、韓国の人の心の中に暮して生きて去った日本人、ここ韓国の土になりました」とハングル文字で刻まれています。

あちらでは人が亡くなったとき、三角形のお煎餅を配る習慣があるのだそうですが、巧の葬儀の日、大勢の人々が見送りに来てくださり、ソウルの煎餅がすっかりなくなったという逸話を、以前、私は墓を守ってくださっている韓さんから聞きました。韓さんは、お父さんから、その話を聞いたそうです。

あれから幾度となく訪れた韓国。

私は韓国の家具にも強く心惹かれます。隅々まで、びしっと計算されつくし、完成された日本の家具と比べると、李朝の家具はほんとうに素朴にみえます。心がふっとなごんで落ち着く柔らかさを李朝の家具に感じるのです。

朝鮮半島は、何度も戦いにさらされました。その中で、人々は打ちひしがれ、ときには恨みや悲しみを抱くこともあったでしょう。そうした辛い、激しい、感情が昇華したときに、はじめて心のなかに表れる静かさというような、落ち着きとたたずまいを私は李朝の家具に感じるのです。陶磁器も多くは朝鮮半島から渡ってきています。

現在、韓国と日本は政府間でたくさんの問題を抱えております。伝統、文化の違いもあるでしょう。巧が民の中に飛び込み、民とともに生き、民によって守られていることも事実です。

どうぞ、よい方向に向っていただきたい、と願うばかりです。私には韓国に大切な友人達もおります。またコスモスの美しく咲くころに忘憂里の丘に詣でたいと思います。