夏椿に魅せられて

先日、岡山山陽新聞社主宰の「山陽レディース倶楽部文化講演会」に招かれ伺ってきました。
岡山シンフォニーホール、2000名の会場は女性たちで満席。
「農と食の文化を考える~心とからだを元気にしてくれる食」というテーマでお話をさせていただきました。
私はこの40年、全国にお邪魔しておりますが、その土地に伺う時その街の空気をすいたくてなるべく前日に入ります。
新幹線から岡山の駅に下り立ち、お椀をふせたような小さな山がぽこぽこと続いている風景を拝見するたびに、ああ帰ってきたとつぶやきたくなるような懐かしさを感じます。そしてまるく高く広がっている空を見ると、心がふわっとひろがっていくような開放感にいつも包まれます。
今回もそうでした。そして地元の新聞を読みます。
山陽新聞・朝刊、岡山市民版に「ナツツバキ涼しげ」・・・とカラー写真と記事が載っておりました。

北区一宮の徳寿寺の境内でナツツバキが開花。とあります。ナツツバキのことは知っておりましたが、梅雨時に咲く花で、なかなかタイミングがなく今まで見たことがありませんでした。
さっそく早朝、徳寿寺にまいりました。6時すぎでしょうか。お寺のおばあさまにご挨拶いたしましたら、裏庭にご案内してくださいました。真っ白な可憐な花がこの梅雨時に爽やかに朝日を浴び咲いておりました。
おばあさまが、「ご覧になって、花びらに紅をひいたように赤がありますでしょ」と教えてくださいました。
艶ぽい・・・。
ナツツバキはツバキ科の落葉高木。
朝に咲いて夕方には落下する一日花のため、平家物語で世の無常の象徴である「沙羅の花」とされた。と記事に載っていました。
足元には落下したナツツバキ。
また幸せな時間がもてました。
岡山でお食事をいただくと、その美味しさに驚かされます。何気ないメニューであっても。お野菜もお魚も卵もお肉も本当においしくて、関心してしまうのです。それも道理、岡山の販売農家数は、中国地方では一番多く、全国でも十六番目。およそ6万戸の農家がこの地で生産にがんばっていらっしゃる。
桃太郎伝説誕生の地にふさわしい、気品あふれる白さととろけるような味わいが特徴の岡山白桃。そして、エメラルドグリーンの房と豊かな芳香で「果物の女王」と呼ばれるマスカットの素晴らしい味わい。これらの果物は芸術品だとさえ思えます。
また、岡山県は全国に先駆けて、有機無農薬農業に取り組んだ県です。私たち、安全で安心なものを求める消費者にとっては、「おかやま有機無農薬農産物」はまさに信頼のブランド農産物です。私は、岡山にうかがうと、ヨーグルトを必ずと言っていいほど、いただきます。ジャージー牛の牛乳で作られていて、甘く、深いコクがあるのです。岡山はジャージー牛全国第1位の県であるからです。
さらに、ママカリ・牡蠣・タコ・鯛・アナゴ・シャコなど瀬戸内海の魚介類のおいしいこと。
海・山・川の自然に恵まれた岡山の豊かさを感じさせていただきました。
会場の女性たち、みなさん それらを生かし、親から子へ子から孫へとつないでいらっしゃる方々ばかり。
会場の皆さま!ありがとうございました。またお逢いしたいです。

女性たちが元気で美しい山間の町

岐阜県山県市の美山地域に残る伝統素材「桑の木豆」を、地域の味として伝えていこうと頑張っているの女性たちのいる「ふれあいバザール」をお訪ねしてきました。
バザールが発足して15年です。
美しい山の町という、まさにその名の通りの町です。
私を迎えてくださったのは、20年来の友人、元山県農業改良普及センターの山岡和江さん。美山の女性たちの頑張りは山岡さんの指導のお陰かも知れません。

山岡さんがまず連れていってくださったのが、「あじさいの山寺・三光寺」境内花園では、二百余品種・一万余株にも及ぶ「山アジサイ・額アジサイ」が花曼荼羅のように咲いていました。初めて見る「岩がらみ、そしてブルースカイ・紅花甘茶・白妙」など等あじさいを見ながら庭の木の下で、、ところてんを頂きながら至福のひとときでした。
ふれあいバザールの女性たちとは、私が「食や暮らしや環境」に興味のある女性たちとヨーロッパ研修にでかけて知り合い、その情熱・実行力・優しさに感動していらいのお付き合いです。
田園暮らしに関して、ヨーロッパのライフスタイルは日本に比べて、一日の長があります。農業が暮らしとあいまって、豊かな生活環境の創出に素晴らしい知恵が発揮されているのです。その環境作りを学ぼうと、英国・ドイツ・フランス・イタリアなどの田園の暮らしぶりや、さまざまな農業環境を視察し、あちらの女性たちとの交流の旅を20年近く、延べ200名くらいの女性たちの参加でした。
そんなご縁で、美山には以前にも伺っております。
みやま・・・古代から美濃森下紙が漉かれ、貴族や寺社に尊ばれたという町です。
美山は品と豊かさとセンスのある町です。
気持ちよく余所者を受けとめ、なごませてくださる。
「ふれあいバザール」がまさにそうした空間なのです。
周囲を山々に囲まれ、山百合が咲き温かな空気、人々の、えも言われぬ優しさ。そんな場所にあります。

建物に入ると左手側に地元でとれた新鮮な野菜や加工品などが並び右手側が食堂。この地域でしか栽培していない「桑の木豆」、国産そば粉の手打ちそば。これを目当てに大勢の人たちが訪れます。店舗前の駐車場は午前中から静岡名古屋など他県ナンバーの車でいっぱいです。奥の厨房ではすべて手作りでそばを打ち、山菜天ぷらを揚げ、てきぱきと働く姿の美しいこと。
1997年4月のオープン以来の黒字経営です。
生産者に85パーセントは支払い、その残りの15%で市から借りている建物の家賃やスタッフの人件費、などすべて賄われています。建物の改修や駐車場の整備など行政に頼らず自立しています。そんな経営を学びたいと、全国からの視察が相次ぎ、注目を集めています。リーダーの藤田好江さんとも長いお付き合いです。彼女はじめ、皆さんが兼業農家か趣味で農作物を栽培しています。
皆さんバザールで生き生き働いています。
皆さんの『とびきりの笑顔』が何よりのおもてなしです。
生産・加工・販売、そして食堂経営。
理想的なかたちです。
そばは毎朝、200名分を手打ちで作り、天ぷらは摘みたての桑の葉やミズキ、ダイコンの葉、水菜、どくだみの葉もすべてカラッと揚がっています。藤田さんはお客さんが「美味しい・美味しい」と言って食べてくれるだけで幸せです・・・と。
『食は命そのもの。農を考えることは、未来を考えること』だと私は思っています。
「ふれあいバザール」のみなさん!そしてサポーターの生産者や地元の方々、他県の人。皆さんありがとう!また伺いますね。
美山という町で私は、非常にバランスのとれた「人と産物と環境」を見せていただきました。東京から名古屋から岐阜へ。岐阜から入っていく夢回廊などと呼びたい、いわゆる観光地とは一味も二味も違う、暮らしの広がりと農村の未来がそこにひろがっているそんな旅をしてまいりました。

英国大使の御庭番

あと1ヶ月余りでロンドンオリンピック!楽しみですね。
文化放送「浜 美枝のいつかあなたと」(日曜10時半~11時)
東京・千代田区にあるイギリス大使館で25年間、専属庭師として美しい庭作りに取り組んだ 濱野義弘さんをお客さまにお迎えいたしました。
1万坪のイギリス大使館の中で、およそ1000坪と最も大きい大使公邸の庭を一人で管理したのち、大使館全体の庭の責任者であるヘッドガーデナーとなり、去年の3月まで従事されていました。
濱野さんは1960年のお生まれ。東京・杉並区のご出身です。
私はイギリス大使館に入ったことはありませんが、千鳥が淵の周辺を、特に桜の季節の散策は素晴らしいです。イギリス大使館の広大な敷地をどんな風に管理され、どんな庭なのかしら・・・と、とても気になっていました。
この度「英国大使の御庭番: 傷ついた日本を桜で癒したい!」(光文社)を濱野さんは上梓されました。

そもそも、どんなきっかけで大使館の御庭番になれるのか?
新聞で見つけた”英国大使館専属庭師募集”の三行広告だったそうです。
当時、25歳の濱野さん。
「親方にも信頼をしてもらい、仕事も忙しく流れてくる仕事を、ただ”こなす”植木屋に慣れすぎてきたいたのかもしれません。このままじゃダメだな。もっと素敵な庭を作りたい」・・・と思われたそうです。
三行の広告が人生を大きく変えました。
「これっきゃないでしょ!」と未知の世界へと飛び込みます、住み込みで。独学で生み出したバラやランの管理、大使夫人は難題を時には持ちかけます。でも、それはそれは美しい大使館の庭を25年かけて作り上げたそうです。
「多くの客人が大使公邸へと向かう途中を、桜を愛でてもらいましょう」・・・と大使。大使館の四季は美しすぎるほどです。特に桜の季節は・・・と濱野さん。
濱野さんが大使館に入った翌年1986年5月8日、大使館に新婚のチャールズ皇太子とプリンセス・ダイアナ妃がやってきました。
日本庭園の飛び石も丁寧に洗ってお迎えの準備。
バラの美しい季節「ダイアナ プリンセス・オブ・ウエールズ」というクリーム色とピンクの覆輪が鮮やかなバラがあるそうですが、間近で見るダイアナ妃は華のあるとてもチャーミングな方だったそうです。
そして、25年の勤務を終えようとした、2011年3月9日。
退職記念に桜の木を植樹しましょう・・・と公使の申し出に感激し土入れを行ったそうです。
翌々日、3月11日 あの大震災が起こります。
濱野さんは現在、福島県南相馬市の私立幼稚園や他の幼稚園に桜を植樹し
これからも傷ついた日本を桜で癒したい・・・と活動をなさっておられます。
子供たちから「さくらをうえてくれてありがとう!」と手渡された写真付きの手紙に「ありがとう。これからも頑張って植えるからね」
そう伝えるのが精一杯でした。と語ってくださいました。
スタジオでの濱野さんの笑顔がとても美しく輝いていました。
放送は6月17日です。
ぜひお聴きください。

日本の戦前のジャズの世界を聴こう

先日、箱根やまぼうしで「戦前・戦中のジャズ研究家の毛利眞人さん」をゲストにお迎えして蓄音機で戦前のジャズを聴く会を開催いたしました。
初めて聴く蓄音機でのジャズ・・・音色は想像したよりもボリュームもあり澄んだ音でした。我が家の100年は越える木々も気持ち良さそうにスイングしています。

幕開けは大正時代とのこと。
日本のジャズの歴史は、なんと軍楽隊から始まったそうです。
ダンス音楽としてジャズが日本に流入し、その「新しい音楽」を演奏できる楽団は軍楽隊・・・というわけです。
毛利さんは1972年のお生まれ。
中学生のころからレコードのコレクションを始められ、現在は音楽に関する執筆をはじめ、とくに戦前のジャズ・ポップスに関して詳しい研究・執筆をされています。また1万枚のSPレコードを蒐集されています。
第二次世界大戦が終わったあと(昭和20年)、町にジャズがあふれた・・・ということは知っていましたが、大正時代、昭和の初期から戦争まで、いえ戦争中も、日本ではジャズはよく聴かれていたそうです。ジャズの香りがする音楽が映画館で演奏されていた・・・民衆の思いはたとえ戦時中でもかわらなかったのですね。
当時マニラは東洋のアメリカと呼ばれるほど洗練された街、日本人にジャズを親しく教えたのはフィリピンから来日していたジャズメンたち。
やがて日本でもジャズ・コンサートを開くジャズバンドも現れ、ラジオからも最先端の音色が流れます。特に唄入りのジャズを日本語に訳詞した「ジャズソング」が爆発的に流行したそうです。
「アラビアの唄」を蓄音機を通して聴きました。(昭和3年9月13日録音)
二村定一・日本ビクター・ジャパン。
このレコードから日本のジャズソングがはじまります。
毛利さんが時々クランク(ハンドル)をまわします。
リズムを取りながら・・・。
“ジャズってこういうものなのだ!懐かしい!”と思わず身を乗り出してしまいます。お客さまの年齢もさまざま。皆さんからだで、足でリズムをとっています。窓からは深い新緑が風になびき心地よいこと。
初期のジャズソングは浅草オペラの流れを引き継いだ声楽的な歌い方でしたが、昭和7年にサンフランシスコ生まれの日系二世歌手・山畑文子が来日したのをきっかけに、本場アメリカの雰囲気を漂わせた日系シンガーが続々と日本で活動し始めます。
チャップリンのモダンタイムの中から、「川畑文子のティティナ」
ベティー稲田の「懐かしのホノルル」
森山久の「南米の伊達男」
昭和10年代は戦前のジャズ黄金時代。
服部良一や仁木他喜雄といったすぐれたジャズ・アレンジャーが育ち、日本人のジャズ・フィーリングも飛躍的に進歩した・・・と毛利さんはおっしゃいます。そして戦時中はアメリカ映画は禁止されますが、ジャズの人気は盛り上がり、なんと・・・「日の丸数え歌」として戦争をジャズに!には驚きです。
笠置シズコさんの「ペニイ・セレナーデ」(昭和15年3月19日録音)
民謡にみせかけて実はジャズの 「草津節」
このころは役人とジャズマンたちが「知恵比べ」をしていたのでしょうか?
おおっぴらには演奏することは禁止されていたのですから。
毛利さんは当時の資料が少ないため古本屋や当時の新聞を調べたり・・・と大変だったようです。私は普段はCDでジャズを聴きますが、蓄音機から流れてくるレコードの演奏に何だかとても幸せなときを過ごせました。
ぜひ、次回は戦後のジャズも”蓄音機”で聴きたいです。

六月の杜・明治神宮御苑

東京での仕事の合間、東京の森を散策してきました。
私はこの森が大好き。ニューヨークのセントラルパークやパリのブローニュに負けない、いや勝っているかもしれない美しい森です。

原宿駅に降り立ち、神宮橋を渡り、右手奥に第一鳥居が見えてきます。この鳥居をくぐると、もう一瞬のうちに森に抱かれる感じがして、心がゆったりとしてきます。昼下がりのひととき・・・初夏の風が心地よく、椎の木、樫の木、楠などが、豊かな葉をしげらせて私を迎えてくれます。外国の方々も多く、明治神宮までの参道を樹木を見ながら歩いています。
明治神宮は、大正九年(1920年)、なんと今からおよそ100年前に明治天皇と昭憲皇太后を祀るために造られた神宮です。面積は約七十ヘクタール。当時、この辺りは代々木御料池のあった所で、武蔵野の一部だったそうです。おしゃれの町、原宿も原宿村だったんですね。この辺一帯は、農地や草地で林は少ししかなく、荘厳な神社を造るためには、林の造成が必要だったんですね。

樹木の多くは全国の篤志家の献木だったそうです。
荘厳な森林というのは、すぐできるわけではありません。
神宮造営のために、当時の最先端の林学・農学・植物学者から造園家まで、多くの人々が森造りに参加したのですね。
ここに、人の手によって神宮の森の造成が始まり、庭園とゆうよりもっと昔の森林の状態を再現しました。当時の資料によると、東京市の小学生児童の献木は五千件以上あったそうです。それらの樹木が、今の神宮の南北両参道に植えられたそうです。参道を歩くとき、小さな手で造成現場に献木を持って行った小学生の姿が目に浮かびました。
昔、昔のみなさん、有難う。
豊かな樹木を見ると、思わず大正時代の多くの先達に感謝したくなります。
六月はなんといっても菖蒲です。
見ごろは中旬ころ。
私は何度も通いました。現在は百五十種にも増え、あまりの美しさに息を飲む、そんな感動が体験できます。
鬱蒼と繁る樹木の一本一本に、”ありがとう”と声をかけ、気持ちがスーッとしました。
たくさんの酸素が神宮全体をキレイにしているように感じました。
たった2時間の小さな旅でした。