『白い土地 ルポ 福島「帰還困難区域」とその周辺』

間もなく3月11日 東日本大震災から10年を迎えます。

そして、先日13日の土曜日深夜23時8分には震度6強の地震があり、また被害がでました。皆さんのお気持を思う時、”なぜまた”との思いがいたしました。

朝日新聞記者でルポライターの三浦英之さんが出版された本を読み、今まで報道されてきたこと以外に福島の現実を知りました。

ぜひ皆さんにも知っていただきたくて、ラジオのゲストにお招きしリモートでお話しを伺いました。

三浦さんは1974年、神奈川県のお生まれ。これまで震災報道や国際報道を担当したほか、『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で第13回開高健ノンフィクション賞はじめ数々の賞を受賞なさっておられますが、「現場の人・職業記者」です。

現在、福島県南相馬市にお住まいです。福島の前はアフリカでの勤務。ぜひ生の声を、生のお話しをお聴きいただきたいです。

本のタイトルになっている「白い土地」とは白地(しろじ)といって帰還困難区域の中でも、国が復興を進める「特定復興再生拠点区域」に含まれない、将来的にも住民の居住の見通しが全く立たないおよそ310平方キロメートルエリアの隠語だそうです。

三浦さんは着任し、すぐに公立図書館に足を運ぶと無数の震災・原発の本があり、自分の取材する隙間が残されていなく絶望したそうですが、その後、避難指示が解除されたばかりの浪江町でたった一人新聞配達をしている人に出会い、「新聞配達をさせてほしい」と頼み、朝の夜明け前2時頃から手伝い、雨の日も雪の日も、新聞を自宅に届けていて初めて「生の情報」が得られたと仰います。

そうですよね、私たちはテレビの画像などでインタビューに答えておられる姿に「ご無理なさっている」と感じることがしばしばあります。本音で語り合い、話をじっくり聞き、取材なさって本ができました。

『どうしても後世に伝えて欲しいことがあります』浪江町の町長は死の直前、ある「秘密」を三浦さんに託します。

政府は「復興五輪」と位置づけ東京オリンピックの開催を決めました。この背景も三浦さんは取材しています。私はほんとうに知らないことばかりでした。オリンピック開催の象徴、聖火ランナーは原発事故の地からスタートします。

『復興五輪』・・・という言葉を三浦さんはどのように受け止めていらっしゃるのか、ぜひ本を、そしてラジオをお聴きください。

文化放送「浜美枝のいつかあなたと」
放送は3月7日 日曜日 午前9時半から10時

この番組も20年を迎えました。毎回番組の最後にゲストの方に「忘れられないあの味」をお聴きしております。三浦さんは「震災直後に現場で頂いた塩をまぶした小さな”おむすび”です。」と。「家族や娘、息子を失った方々もいらっしゃいました。」と答えられました。懸命に握る姿を想像し、思わず私は涙がこぼれました。

曽我の梅林

寒さがゆるみ、春らしい気配がしてきました。
春の訪れを待ち望んでいる私。

この1週間ほど朝日新聞記者でルポライター・三浦英之さんの書かれた『白い土地・ルポ「帰還困難区域」とその周辺」』の本を読んでおりました。

ラジオのゲストにお迎えし、お話しを伺うことになっています。その様子は次回このブログで詳しく皆さまにお伝えしたいと思います。

間もなく東日本大震災から10年を迎えます。三浦さんはアフリカ勤務の後、2017年の秋、福島県に着任し、実際に南相馬に拠点を置きルポされた本です。深く考えさせられました。

春めくや藪ありて雪ありて雪   小林一茶

早朝のウオーキングでは霊峰富士もまだ雪化粧をしており白銀の世界です。

毎朝「白い土地」のことを考えながら歩いておりました。

ふっと春の訪れを感じたくて、小田原市東部の曽我梅林に行きたくなり、小田原から国府津へ。そしてJR御殿場線に乗り換え車窓から梅林が見えてきます。

一つ目の下曽我駅で下車し、白いマスクを着けた方々が数人一緒に降り歩いて梅林に向かいます。のんびりと散策しながら歩いていると白梅の香りがしてきました。

「いい香り!」と思わず嬉しくなりました。

満開に近い白梅に枝垂れ梅の紅梅も咲き始めていました。開花は例年より早いそうです。

新型コロナウイルスの感染防止のため、イベントなどは中止になり、申し訳ないほど人も少なくのんびりできました。

約3万5千本の梅の木が植えられているそうです。こうして巣ごもりの状態でも”春を見つけ”小さな旅を楽しんでおります。

そうそう帰り道、無人販売で曽我のみかんを買ったり、昔ながらの和菓子屋さんで美味しい「田植え餅」を見つけお土産に買って帰り、家でいただきました。

ポーラ美術館

コネクションズ
海を越える憧れ、日本とフランスの150年

立春が過ぎたものの、箱根の山はまだ”春浅し”。
朝はまだ零下4,5度であったり、時には春らしさを感じたり、春探しの日々です。

先日、穏やかな日差しの中観たかった展覧会に行ってきました。箱根の山はとても静かです。観光客もほとんどおりません。コロナ禍での自粛。私も仕事で東京に行く以外はこの箱根におります。

幸せなことに箱根には素敵な美術館がいくつもあり、40年暮していて、どれほどの幸福をいただいてきたことでしょう。

今回は「ポーラ美術館」で開催されている展覧会です。
ソーシャルディスタンスはしっかり取れました。

とても観たかった2枚の絵。

ラファエル・コラン(1850-1916)の<眠り>(1892)が120年ぶりに公開されています。

1900年のパリ万博で公開されて以来、個人蔵であったのか、様々なエピソードがありますが以降現存さえも知られていませんでした。私がコランの裸婦像を始めて観たのは多分オルセー美術館だったと記憶しています。

田園に横たわる柔和で優美でそこに降り注ぐ自然の光。コランの裸婦に惹きこまれました。そのコランを師と仰いだ「黒田清輝」が多分パリ万博でもその<眠り>を見たであろうと言われています。

今回の展覧会では、黒田の<野辺>と一緒に<眠り>が飾られています。黒田の女性は左手に野の花を持ちモデルは日本人でしょう。(今回の会場は一部の絵をのぞき、撮影が可でした。)

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、日本の浮世絵や工芸品はフランスの芸術に大きな影響を与え、ゴッホやモネなどジャポニズムの時代が到来します。また多くの日本人画学生がフランスへ留学します。黒田清輝もです。

展覧会場では、ユトリロと佐伯裕三、ゴッホ、セザンヌ、ルノワール、ゴーガンなど。そして日本人画家、岸田劉生、村山魁多、関根正二、安井曾太郎、戦後に祖国を追われ、最期はフランス人として生涯を終えるレオナール・フジタ。(藤田嗣治)日本人として誇りを持ち続けたフジタ。

皆さま、なかなか美術展には行かれない現状ですが、館内の静けさと写真でお楽しみください。


ポーラ美術館公式サイト
https://www.polamuseum.or.jp/

コネクションズ
海を越える憧れ、日本とフランスの150年
は4月4日まで。

浜 美枝の「いい人みつけた」その4

柳家小三治さん
このラジオ収録は1984年初秋でした。

小三治師匠の落語に始めて出逢ったのは40年ほど前、富山の宇奈月のお寺でした。師匠の噺に聞き惚れていました。それ以来です。”おっかけ”は。

それにしても、改めて本を読み直すと赤面のいたり・・・よくそんなことまで伺うわ、と我ながら申し訳ないことばかりです。噺家らしからぬ噺家っていっても、私たちファンにはとうに小三治さんの個性、そのらしからぬところに惹かれてているのですから。

私びっくりしちゃったんです。スタジオにいらした時の格好!ヘルメットかぶってオートバイで。その格好で走ってらしたら、小三治さんを何とお呼びしていいか分からなくなりました。何とお呼びしたらいいかしら。

「小三治です。大三治はお断りしています。」

落語家とバイクは、ちょっと結びつかなかったです。

「ほんとにそうですね。今までの観念からいうとね。私は噺家になりたいなと思っていた時分はね、そういうことをやらなかったかもしれないし、またやっても内緒にしてましたよね。僕が生まれたころ、特に育ったのも山の手ですしね。下町の雰囲気っていうものは身の回りになかったでしょ。だからなんとか噺家になりたい、いかにも噺家らしく下町の味をいっぱい口の中にほうばったようなそういう人になりたいと思ったんだけどね。

ずいぶんそれで悪戦苦闘しまして、四、五年はそんなつもりでいましたかね。でもこりゃ、どうも生まれや育ちは変えられるものではないと気がついてやめたんです。噺家になろうと思うことをやめたんです。これはたまたま実益をかねてる趣味だと、だからずっとこれをやっているかどうかわからない。ダメなときはやめてしまえばいいんだ。

ただ、今、俺は好きなことをやらしてもらってんだとそう思ったとたん、気が楽になってね。それからですよ。スキー、オートバイ、スキンダイビングとか自分の好きなことのびのびやりだしたのね。噺家の常識からいえば、当然日本舞踊とか長唄なんかの素養があり三味線かなんかちょいっとつまびく。

ところが、そういうのが大嫌い、私は。正直言って、まあなんとかなろうとしましたから踊りも習いました。そういう歌も興味をもって聞きましたから、多少は普通の方より聞いてはいます。でもほんとのこと言うと、やっぱりジャズ聞いたりクラッシック聞いたり、歌謡曲やニューミュージックなんか聞いているほうが面白い。今ふうの若者のなれのはてなわけですよ。」

落語家になろうとしていたときに、それらしく、いかにもそれらしく努力していらしたわけですね。

「不思議なんですよ。前々からどうして噺家になりたいと思ったかっていうとね。小三治さんは噺家らしからぬ噺家だって言われた。それですから、なんとか噺家になりたいと思ったところが、噺家なるのやめたと思ったとたんにね、どこがどうなったのか知りませんけどね、

「さすが噺家さんですね。噺家さんらしいですね」って言われるようになったところに、私は大きななんか生きるうえで秘密があるような気がするね。肩の力が抜けちまってどうでもいいやと思ったとたんに急にさすが噺家さんとか噺家らしいとか・・・。なんでしょうね。

そう思ったとたんに、逆に言えばプロらしくなった。なんとかこれで食ってやろうと思っているうちは、ほんとうのプロにならないのかもわからないね。だけど最初からそう思ってちゃダメかもわからないね。それまでのものがそこでもって花が咲いた。花はさかないけれど何かになった。」

なぜオートバイに乗るのですか。

「なぜでしょうね、なぜなんでしょうね。単純に言って面白いからですよ。こんなに面白いもの、ほんとに生きている間知ってよかったなって、つくづくそうおもいますよ。」

凝り性なんですね。

「そう、凝り性ですね。同じ人間なのに、あいつがうまくできて俺ができないってのは悔しいです。負けず嫌いといえば聞こえはいいけど、それをひっくり返せば潜在的劣等感といいますかね。負けず嫌いってのは劣等感の裏返しかもわからない。

劣等感のない人は負けず嫌いじゃないんじゃないですか。負けていても平気でいられる、そういう人はよほど自信のある人か何かです。ゴルフの場合でも、力を入れたら飛ばない。オートバイの場合もそうです。自分を乗り越えていかないとうまく操れるようにならない。」

危険なときには肩の力が入っているようではなおさら危ないですか。

「だって危険なときってのは、体にどうしても力が入ります。そこをスッと肩の力を抜くとそれが突然安全に変化するんですね。そういうことを自分自身で乗り越えていくってところが、落語やってもパチンコやってもみんなそうだったけど。パチンコなんかもね、入っていちいち喜んでるようじゃ玉は入らない。だから人間の本能に逆らっていくように。パチンコもセミプロまでいきましたけどね。」

小三治・少年期、青春期(初恋のはなしなど)、父親論など等。

マイクを前にして、私、小三治さんに女性観に話しが及んだときなんか、いじわるおばさんふうになっていたかもしれません。言いにくいこといっぱい言わせてゴメンナサイ。男の人の少年の心、聞いていて、私ドキドキしたんです。(これは当時の感想です)

この時代にお話しを伺えてほんとうに幸せでした。

『人間国宝 柳家小三治師匠』

これからも”おっかけ”を続けさせてください。