沖縄・首里城

テレビ画面に突然映し出された燃え盛る炎を見て、思わず息が止まりました。

2019年10月31日、午前2時半。沖縄の首里城が猛火に包まれました。朝のニュースで世界遺産の焼失を知った時、文字通りわが身が燃えるような痛みを実感したのです。早いもので、それから1年が経ちました。

火災発生から1週間後、私は首里城へ向かいました。取り敢えずお見舞いに行かなくては、との一念からでした。長くお世話になっている地元の友人と一緒に、石畳の小道ゆっくりと歩みました。

そして坂道を登り切り、守礼の門をくぐったところで、無残に焼け落ちた正殿の跡と再会したのです。正殿は苦しみを懸命に耐えているように見えました。友人と私は手を合わせ、肩を震わせるしかありませんでした。茫然自失だったのです。

首里城との出会いは、今から40年以上も前になります。

若いころから工芸品に心ひかれた私は、柳宗悦先生の民藝運動に興味を持ち、時間を見つけては頻繁に展覧会などに足を運んでいました。その中で、沖縄の民芸や工芸品の素晴らしさ、そして豊かさを教えられ、長く続くことになる”沖縄通い”が始まったのです。

「紅型」の魅力に引き込まれるなかで、染織家で人間国宝の芹沢銈介さんの世界も知りました。そして、同じ人間国宝の与那嶺貞さんとお会いする機会にも恵まれ、「花織」の歴史と奥深い美に魂を揺さぶられていったのです。

私が民芸や工芸などを学ぶとき、いつもその”要”としてそびえ立っていたのが、首里城だったのですね。しかし、首里城には、長い苦難の歴史もありました。およそ600年前の完成から、何度も火災や戦禍に遭遇し、焼失は昨年で5回目だったそうです。それだけの歴史と痛みに耐えてきた首里城は、県民の皆さんにとっては心の支えであり、拠り所でもあるのでしょう。

これまで繰り返し困難を克服されてきた県民の皆さん、皆さんは数年後には持ち前の粘り強さと明るさで、きっと首里城の再建を立派に成し遂げられることでしょう。

コロナの猛威が世界的にも収束を見いだせず、復興へ向けての足元は決して平坦ではないでしょう。でも微力ながら私も、首里城再建の歩みに参加させていただきたいと、改めて思っております。

これまで抱えきれないほどの愛情をいただき、勉強させていただいた首里城であり、沖縄なのですから。

沖縄の友人から最近の首里城の写真が送られてきました。

日本美術の裏の裏

裏の裏?

どうゆうことかしら?そんな思いでサントリー美術館に行ってまいりました。肩のこらない解説にまず魅せられます。

”ごあいさつ”には「日本人にとって「美」は、生活を彩るものです。室内装飾をはじめ、身のまわりのあらゆる調度品を、美意識の表現の場としてきました。そのような「生活の中の美」を、ひとりでも多くの方に愉しんでいただきたい」とあります。

私が民芸や骨董に出逢ったのは10代のころでした。私は骨董だからいいとか、民芸だから好きとか、思い込んでいるわけではありません。ただ、私が「いいなぁ~」とため息をついたり、ちょっと無理してでもほしいと思うのが、骨董だったり民芸だったりすることが多いのです。

ものが長い年月を、生れたときの形を保ちながら生き続けているということは小さな奇跡だとおもいます。10代の頃読んだ「民芸とは何か」で柳宗悦先生は書かれております。

「真に美しいものを選ぼうとするなら、むしろあらゆる立場を超えねばなりません。そうしてものそのものを直接に見ねばなりません」と。

今回の展覧会の会場はすべて撮影可です。皆さんにご覧いただきたく何枚も写真を撮ってまいりました。

展覧会は6つの章からできています。分かりやすい解説、見やすい構成、いわゆる”美術品”鑑賞ではありません。

第1章  「空間つくる」
江戸時代の絵師・円山応挙が描いた「青楓漠布図」がまず目に飛び込んできます。絵を鑑賞し語るよりも、その空間を想像します。「どこに飾ったらすてきかしら」。襖や屏風も昔の人々はその風景を空間の中に置くことで春夏秋冬を日常で感じてきたのでしょうね。絵巻を観て季節の移ろいを感じ、ひとつの場所で季節を愛でて・・・贅沢ですね。私が好きだったのは「武蔵野図屏風」薄の生い茂る武蔵野を描いた屏風。この季節に東京の真ん中で観る薄。遠くに富士山も見えます。

第2章  「小をめでる」
平安時代の作家・清少納言が著した「枕草子」には、「なにもなにも、ちひさきものはみなうつくしき」という一説があります。と書かれています。つまりミニチュアです。指先でつまめるものばかり、乙女心をくすぐられます。

第3章  「心でえがく」
ウマイ・ヘタではないのですね。なぜか観ているうちにジワジワと心奪われていく作品にも出逢えます。

第4章  「景色をさがす」
私がもっとも見たかったコーナーです。壷や花入れなど焼き物には”裏の裏”がありどこからどのように見て、どのように景色をさがすか・・・私が京都の古美術店「近藤」で小さな手の平に納まるくらいの室町時代の古信楽の種壷に出会い「私にこの壷を分けてください」いまから思うと赤面のいたりなのですが、そこに「ある景色」をみてしまったのです。高温の炎で長時間焼成しますから、そこにはさまざまな”景色”が見えてくるのです。焼き物の面白さです。今でも私の大切な壷、10代で出会った私の景色です。

第5章  「和歌でわかる」
「生き物はみんなみんな歌を詠む」とは「古今和歌集」の序文の言葉です。かつての日本人は、動物でさえ和歌を詠むと考え、ラップのように和歌でバトルを繰り広げるなど、生活のいたるところに和歌があふれていました」と書かれています。文字と絵、工芸。和歌がわかればもっと愉しめるのに・・・

第6章  「風景にはいる」
江戸の浮世絵師・歌川広重は風景画の名手として知られていますが代表作「東海道五十三次」では小田原・箱根・沼津・江尻なども描き、まるで作中の「点」のような小さな人物と一緒に旅をしている気分になれますし、風景の雄大さを体感できました。

東京・六本木のサントリー美術館で11月29日まで。
https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2020_2/index.html

”漆黒”の美

”漆黒”という色には、さまざまなニュアンスが塗り込まれているのだと教えられました。

ポルトガルの首都・リスボンで繰り広げられる静かな”心理劇”はカラー映画なのにまるでモノクロームを思わせるような画面でした。

映画『ヴィタリナ』は、塗炭の苦しみを味わいながらも、強く生きようと歩みだす女性を描いた、”告白劇”ともいえます。

リスボンのはずれに、”移民街”と呼ばれる地域があります。そこには、アフリカ大陸の北西沖に浮かぶ島国、カーボ・ヴェルデから出稼ぎに来た多くの人たちが住んでいます。

リスボンの空港に一人の女性が降り立ちます。初めてのポルトガル。彼女の夫が職を求めてカーボ・ヴェルテから単身この国にやってきたのは、はるか昔のことでした。しかし、夢にまで見た夫との再会は、ついに果たせませんでした。夫はすでに亡くなっており、葬儀も3日前に終わっていたのです。彼女は”移民街”にある夫の部屋に荷をほどき、”来し方”の回願を始めます。

私はただただ、あなたの帰国を待ち望んでいた!それも、気の遠くなるほどの長い時間!

夫の借りていた部屋に何人もの彼の知り合いがやってきては弔意を示し、思い出を語ります。彼女はそれを聞きながら、これまでの自身の不安や苦労、そして夫に対する憤りまでも口に出さざるを得ないのです。

涙と絶望の淵にいた彼女が、いかに自分の未来を切り開こうと足を踏み出すのか。彼女の独白と心境の変遷は、計算され尽くした”漆黒”の画面構成によって見事なまでに客席に迫ってきます。

そして、スクリーンから発散される”漆黒”は刻々と変化を示すのです。それは、彼女が苦悩から立ち上がろうとする姿に、必死に寄り添っているようにも思えました。

こんな感動的な映画を作ったのはポルトガルのペドロ・コスタ監督。彼は今回の舞台となったリスボンの”移民街”を題材にして、20年以上も前から数多くの作品を撮り続けています。

そして、主役のヴィタリナを演じたのは、カーボ・ヴェルデ出身のヴィタリナ・ヴァレラさん。今回の作品は彼女の名前をタイトルにしたのですね。血の色にも見える彼女の涙は、演技の域をはるかに超えていました。

ヴィタリナさん、強い意志が全身に溢れ出る、本当に美しい俳優です。

映画公式サイト
https://www.cinematrix.jp/vitalina/

花は野にあるように

これは、有名な利休の言葉だそうです。

この季節になると、思い出すのが今は亡き茶花の先生、楠目ちづさん。25年ほど前、逗子海岸近くにお住まいになっておられた先生をお訪ねしました。

玄関に一歩足を踏み入れると、ハッと息をのむような静寂が、私を迎えてくれました。そこには花はなく、ただ、花の気配だけが漂っています。窓辺に置かれた常滑の壷が待っているのは、むくげ?芙蓉?それとも、楓の一枝でしょうか・・・。

透明なまなざし、柔らかな笑顔、銀色に輝くおぐし、そして和服をさり気なく上品に着こなされた、その楚々としたたたずまい・・・。美を深め、美を極められるその方ご自身が、まさに日本の美そのものなのでした。

お茶を点てる席というものは、なぜかいつも俗世とは一線を画した小宇宙です。炉にはしずかにお湯が煮え、仄かにたなびく湯気に風の気配を知り、ふと、生けられた花に目が止まります。古い瓢箪掛に吾亦紅(われもこう)と女郎花(おみなえし)茶室にふっと秋が舞い降りたような景色です。

「その、はかなさと哀れさ、そこに花の美しさのすべてがあります。」

「ふだん花が野に咲くとき、枝が、葉が、幹が自然のなかに立つときの在りようを、まずよく見ることが大切ですね。」

と語られる先生は野歩き、山歩きが大好きな方でした。

私の一日の始まりは4時半起床、ストレッチをして夜明けとともに山歩きがはじまります。1時間は速歩きで。そして帰りの道は足元に咲く野の花を愛でながら、ゆっくり歩きます。

「早朝に咲く花は早朝に、夕暮れの花は夕暮れに見てこそ、最も美しいのです」と教えてくださったのも楠目先生です。時には虫の音を、野草の匂いを、早朝の静寂ななかの山歩きは私の暮らしを豊かにしてくれます。『野あざみ』が美しく咲いています。

私の若狭の家の周辺にも野アザミが何本か咲いていて、あぜ道にもポツンポツンと咲いていました。ある年の夏、もう少し寄せ集めて咲かせたらキレイだろうなと思い立ち、わが家のすべてをお世話してくださっている渡辺さんに頼んでおきました。

翌年の夏の終わりに行くと、わが家の前庭は野アザミの群生地。まぁ、それは見事に赤紫色のボンボンが風に揺れ、私の到着を待っていてくれました。

ボンボンのところがとんがっていて、バリバリしていて、傍にも寄れないくらい。とてもつかめない。葉も茎も、バリバリ。私はつくずく思いました。あっ、この花は青春の私。いつも怒っていて、いつも燃えていて、いつも突っ張っていた。でも勢いがあって、そう最もテンションの高かった時代の私。何時間もみとれてしまいました。

私はあんなだったろうか。「ちょっと庭には痛そう。敷地のはしに移そうかしら。」という私に、「秋になれば、立ち枯れするんですよ。」と渡辺さん。まぁ、立ち枯れですって。枯れてもいたいのかしら。急に寒くなると、そのバリバリのまま立ち枯れるんですって。いやだな。野アザミのまま、肘はったまま立ち枯れてドライフラワーになるのは願い下げだわ。

77歳に近づいて、、早朝の山歩きをしながら野アザミや野の花に出逢って、いい秋が始まろうとする今、私はどんな野の花のように生きよう。そうね、どんな環境のなかでも”私たちは自然の一部”であることは忘れないようにしましょう。

太陽のテノール

31年ぶりの再会でした。今まであまり知られていなかった彼の魅力の原点を、改めて感じ取ることができました。”神の声”持つ天才テノール歌手、ルチアーノ・パヴァロッティ。彼の心の奥底は、プライベートな領域にまで入り込んだ映像と最先端の音響技術とによって十分、伝わってきました。

「パヴァロッティ 太陽のテノール」

これは全編、ドキュメンタリー映画です。パン職人の家庭に生まれたパヴァロッティは、父親の希望で小学校の先生になりました。しかし、母親に「あなたの歌は心に響くのよ」と励まされ、音楽の道を歩み始めます。

まだ世に出る前の彼は、「あの声に恋しない人なんている?」という女性と家庭を持ち、3人の娘にも恵まれて、オペラ界の頂点を目指すのです。周囲の人々を引き付ける天性の明るさは、類まれな美声を世界中に広げる上で、とても大きな役割を果たしたことでしょう。

彼は一歩一歩、成功の階段を登っていきますが、金銭だけでは計れない、音楽と自身の社会的な責任にも心を向けるようになります。

イギリスのダイアナ妃と公演で知り合い、二人は親友となります。それをきっかけに、パヴァロティは世界各地で慈善運動に奔走します。

そして、これからのオペラの世界をどのように切り開いていくのか?パヴァロッティはロック界のスーパースター、U2のボノとのコンサートを実現させました。オペラ界からは当然のように猛烈な逆風が吹きましたが、彼は全くブレませんでした。チャリティー活動もロックとのコラボも、彼が広く世界に目を向けたいと願う、アリア(独唱曲)からの新たな旅立ちだったのですね。

こうした貴重なシーンが、スクリーンには絶え間なく登場します。プライベートな映像の多くは”ホームビデオ”で、撮影者は再婚した妻でした。20人を超える家族や友人たちへの貴重なインタビューは、まばたきすら許さないほど、リアリティーに満ちていました。

そして、パヴァロッティの驚くべき美声をあるがままに伝えた音楽技術の匠。それらをまとめ切ったロン・ハワード監督には、ただ感謝のブラボー!のみでした。

満面の笑みをたたえたステージのパヴァロッティさんにお会いしたのは1989年、東京ドームでしたね。もう、31年も前になります。

そして、今から13年前、僅か71歳で私たちの前から突然、姿を消されました。抱えきれないほどの生きる幸せを与えてくださった人生のアーティスト、パヴァロッティさん。

いつまでも、いつまでも、夢のようなあなたの歌声を聴き続けます。

映画公式サイト
https://gaga.ne.jp/pavarotti/