植木等さん追悼

 3月27日、植木等さんが亡くなられました。私は、10代の終わりから20代の半ばにかけての7年間に、植木さんの14本の映画にご一緒させていただきました。植木さんの訃報を聞き、いろいろな思いが胸にこみあげてきました。
 
 植木さんと初めてご一緒させていただいたのは、東宝入社3年目、18歳のときのことでした。テレビの「シャボン玉ホリデー」で活躍され、「スーダラ節」が大ヒットし、映画「ニッポン無責任時代」でスターとしての地位を確立した植木さん。
 
 しかし、その素顔は違いました。私は仕事場での植木さんしか存じませんが、植木さんは他の俳優やスタッフとお酒や食事を共にすることもなく、撮影が終わった「じゃ、また明日」とさっと家路につく人でした。また撮影の合間には、撮影所のセットの片隅ですっと背筋を伸ばし、腕組みをしたまま、目を閉じて静かに佇んでいらっしゃいました。その姿を見て、ふと仏像に似ていると、感じたこともありました。無責任男が「動」ならば、素の植木等は「静」だったのです。
 
 ときどき、植木さんは目を開けて「浜ちゃん」と新人女優だった私に声をかけてくださいました。決して言葉数は多くはなかったのですが、そのひとことひとことに心にしみるような滋味がありました。私がいただいたギャラで、お釈迦さまの生涯を辿るためにインドを旅した話をすると、植木さんは驚いたように目を開き、「お釈迦様もそんな風に旅をして歩いたんだよね。仏教とは難解な思想じゃなく、とても人間的なものなんだよ」とうなずいてくださいました。そして仏教の教えや生命に対する考え方を、小さな声で、まるでひとり言葉をかみしめるように、語ってくださいました。
 
 植木さんは三重県の浄土真宗のお寺の生まれで、お父様は平和や差別解消を説かれ、投獄されたこともあったほどの信念の人物だということを後に知りました。植木さんが口癖のように私に何度もおっしゃったのが、まさにそのことでした。「浜ちゃん、人間はね、心が自由じゃなければいけないよ」 今、この原稿を書きながら、あのときの植木さんの声が聞こえるような気がします。
 
 そんな植木さんでしたが、監督の「よーい、スタート!」でカメラが回りはじめたとたん、軽妙なしぐさと高笑いで無責任男を演じられるのでした。その変わりようは天才的でした。当時の東宝では、黒沢明さんや成瀬巳喜男さんといった巨匠が活躍しておられ、大ヒットしていても娯楽作品は格下に見られるような傾向がありましたが、そのことについても植木さんは私に「やっていることはばかばかしくても、それで他人様が喜んでくれるなら、いいじゃないか」といって、私を励ましてくださいました。つたない演技ではありましたが、これらの映画に出演させていただいたことを今、私は心から誇りに思えるのは、植木さんのあのときの言葉もあってのことだと感じます。「多くの方に喜ばれ、大声で笑ってもらう。それもいいじゃないか」 植木さんの言葉に、私はどれだけ勇気づけられたでしょう。
 
 最後に植木さんにお会いしたのは数年前、私がパーソナリティをつとめるラジオにお招きしたときでした。「やぁ、浜ちゃん、元気?」とスタジオに入ってこられて、近況を穏やかな口調でお話くださいました。素敵に年齢を重ねてこられた姿に胸が熱くなりました。そして収録が終わると「それじゃぁ、またね」とおっしゃって、植木さんはすっとスタジオを出られました。かつてとまったく変わりませんでした。
 人は生まれ、いずれ去っていきます。これはどうしようもないこと。それでも寂しさを感じる気持ちは心の奥底から湧き上がってきます。
 植木等さん、ありがとうございました。
 植木さんに会って教えていただいたことが、私の人生に豊かさをもたらしてくれました。これからも多くの言葉を心に刻み、歩んで行きたいと思います。