時空を超えて輝き続ける志

20世紀初頭のヨーロッパ大陸で、あり余る才能を惜しげもなく発揮した2人の若い画家がいました。

エゴン・シーレ。
オーストリアのウイーンで生まれ、少年時代から抜きん出た絵画の才能を示しました。その頃、既に名声を得ていたクリムトは17歳の青年シーレが描いた作品を眺め、「君には才能がありすぎる!」と呟いたそうです。当時、ウイーンで盛んだったジャポニスムの影響などを受けながら、シーレは浮世絵版画にも心惹かれたようです。

見る人に強烈なインパクトを与えるシーレの自画像。それは、人間の存在とその不確かさを捉えようとしたもので、そうしたシーレの根源的な問題意識は、女性の自立した生き方というテーマにも表現の対象を広げることになります。意思的な姿が眩しい裸婦像の作品が社会的にも大きな衝撃を与え、”不道徳だ!”という批判すら巻き起こしたのです。

そんな絵画が顔を揃えた「エゴン・シーレ展」を見に行きました。会場は上野の「東京都美術館」。入り口には長い行列ができるほど、多くのファンが詰めかけました。ひとりで来た高齢の男性が、自画像の前でじっくり眺める姿が印象的でした。

そして、女性ファンが多いことも驚かされました。全体の7-8割を女性が占めていたでしょうか。シーレの生き方、そして当時の女性たちの想い、それらを自画像や裸婦像の中に見つけ出そうとしているようでした。

作品を凝視する若い女性の真剣な眼差しには、女性の生き方がどれほど変わったのか、変わったものと、変わらないものとは何なのか?彼女たちはその答えのきっかけを掴もうとしているではないかと思いました。会場には静かな熱気が感じられたのです。


上野を後にして東京駅に向かいました。展覧会の”ハシゴ”は初めての経験です。会場のステーション・ギャラリーでは”街に生き、街に死す”とも言われた佐伯祐三の回顧展が開かれていました

エゴン・シーレと佐伯祐三が同じタイミングで鑑賞できる。こんな機会は本当に珍しい!”ハシゴ”は当然でした。

佐伯は19世紀の終わりに大阪で生まれ、東京美術学校を出た後、パリに渡ります。パリの裏町の風景、彼は風景画に自らの心象を投影したのでしょうか。形を変えた”自画像”だったのかもしれません。妻子を連れてのパリへの渡航。2度にわたるパリの生活は4年余りでしたが、質も量も実に豊かなものでした。急ぐように、せかされるように、短期間でパリを描き続けた日々でした。

20世紀初頭のヨーロッパで、シーレと佐伯が直接会うことはありませんでした。シーレは第一次世界大戦に出征し、大流行していたスペイン風邪に罹患します。子を宿していた妻が死亡し、その3日後、シーレも亡くなるのです。1918年、わずか28歳でした。

佐伯はシーレの死から5年後、妻子を伴いパリへと向かいます。2回目の生活は”結核”を抱えながら、思いつめたような”速筆”ぶりだったということです。そして、パリの病院で亡くなるのです。30歳でした。同行していた娘も、同じ病で半月後に後を追いました。

猛烈なスピードで世紀の狭間を駆け抜けた2人の天才画家、余りにも惜しい夭折ですが、彼らの存在は単なる”一陣の風”だったのではありません。今も見る人の心を射貫くような素晴らしい感性が永遠に輝きを放っているのですから。

ステーションギャラリーを去る時、壁に残された古いレンガが目に飛び込んできました。時代を感じさせ、心を落ち着かせる壁画のレンガ。これは1914年(大正3年)に創建された東京駅で歴史を見続けた証人でもあるのです。

エゴン・シーレや佐伯祐三の、いわば”同時代人”とも言える存在でしょう。時と場所を飛び越えて旧友たちが一堂に会したような錯覚を覚えながら、温もりすら感じるそのレンガを見つめ続けました。

東京都美術館 https://www.egonschiele2023.jp/
東京ステーションギャラリー https://www.ejrcf.or.jp/gallery/