映画『しあわせの絵の具~愛を描く人 モード・ルイス』

「絵の具があるから。窓があるから。そこを鳥は通り過ぎ、枠いっぱいに、命があふれるから」。

「この手に筆、目の前に窓さえあれば、私は満足です」。

モード・ルイス自身のことば。
世界的には賞がらみの多いこの頃の映画界ですが、この真珠のような輝き、そして芯のある一作にくぎづけになりました。

カナダの東部の小さな村に、鍛冶職人の父、絵と音楽を愛する母にとって待望の女の子の誕生でした。しかし、子どもの時にリウマチにかかり、身体が不自由でした。父の死。そして最大の理解者だった母の死。叔母に預けられ厄介者扱い、失意の日々を過ごしていたある日、家政婦募集の新聞広告がモードの人生を大きく変えることになるのです。

雇い主は無骨で多くを語らない、孤児院で育ち字も書けない魚の行商で生計を立てている男・エベレット。俺が主人、犬が次。家政婦はビリ。そんなふたりがいつしかお互いを理解し結婚し、やがて彼女が小さな家の壁や外壁、窓に描く絵がニューヨークから避暑にきていた女性の目にとまります。

主演のサリー・ホーキンスとイーサン・ホークは町外れの家に住む天性の画家とその夫を見事に演じています。実力派女優のサリー・ホーキンスはもともと絵の素養があり、それでも役を演じるために画学校に通ったそうです。

モード・ルイス(1903~70)が描く絵、素朴派芸術(ナイーヴ・アート)とは、美術史、テクニック、観点においては正式な教育や訓練を受けていない人物が創作した芸術をさします。

簡素さと率直さ、心に響いた絵を描く彼女。無欲な彼女の絵はやがてカナダを代表する画家になるのです。5ドルから始まった絵は現在は美術館に入り途方もない値段になっているとか。

なによりも不器用な二人。このふたりの時間が育てた夫婦の愛は67歳で生涯を終えるまで、長年連れ添ったふたりだけに通じる強い精神と、寄り添い、貧しくとも豊かな、そして温もりのある家。家そのものが作品となっています。”ペインテッドハウス”は作品郡と共にノバスコシア美術館で見ることができるそうです。

人間、孤独な男と女は寄り添うことで愛はうまれるのですね。

実話をもとにアイルランドの監督アシュリング・ウオルシュとカナダの脚本家シェリー・ホワイト、女ふたりの協同作業がこのような素晴らしい映画を作り上げたのですね。

映画も多くは語りません。過去や心理描写には深入りせず、観る側に委ねてくれる心地よさ。

何も望まず、そっと今のままで・・・それでじゅうぶん。モード・ルイスが教えてくれる、人生で大切な喜びを・・・。

久しぶりに心が暖かくなりました。

私は東銀座の東劇で観ましたが、渋谷の文化村その他で上映中です。中高年の方々でいっぱいでした。

映画公式ホームページ
http://shiawase-enogu.jp

100歳まで動ける体になる「筋リハ」その2

先週に続き、今週も『筋リハ』です。先日スタジオに久野譜也(くのしんや)先生をお迎えし、直接お話とスクワットなどの仕方も指導していただきました。大変参考になるお話でした。

久野先生は筑波大学 大学院教授で1962年生まれ。スポーツ医学の分野において、中高年の筋力運動をはじめ、筋肉が減少して脂肪が増えるサルコペニア肥満、健康政策などを研究されておられます。全国の自治体や健康保険組合に、健康増進プログラムなどを提供しています。

年齢を重ねても、いつまでも元気でありたいですよね!私たちは加齢により筋肉の衰えから、疲れやすくなったり、太りやすくなったりするそうです。それはどのような仕組みなのか。専門分野の先生にお話を伺い、衰えさせないためにはどうしたらよいか?など貴重なアドバイスをいただきました。

ご著書を読んで頂くのがより分かりやすいと思いますが、まず『3つの柱』があります。

★筋肉運動(筋リハ)
★有酸素運動(ウオーキングなど)
★バランスのとれた食事

筋肉が脂肪に変わってしまうこともあるそうですよ~! 筋リハとウォーキングをセットにして行うといいようです。ウオーキングは1日8000歩の目標が適切だそうです。

でも、そんなに毎日歩けるかしら・・・と思わずつぶやいてしまった私に、心強いお言葉をいただきました。

今の科学では『歩きだめ』が可能!とのこと。ウィンドウショッピングでも、ちょっとした散歩でも家の中での家事など、トータルの歩数。今日少なければ明日・・・つまり1週間で5万歩が目安だそうです。

20分以上歩かないと脂肪が燃焼しないという神話は、今の科学で完全に否定されているのだそうです。1日に何回に分けても大丈夫だそうです。

筋肉を動かせば”認知症を防ぐ働き”も期待できるそうです。

運動で体を動かすと、筋肉組織からイリシンが分泌され、このイリシンが血液を通して脳に入ると、脳内で「BDNF(脳由来神経栄養因子)」という物質の分泌を促すのだそうです。

認知症はなんとか避けたいですよね!誰でも。頭を使って室内で「脳トレドリル」よりも普段から”頭”も”体”も両方ともしっかり動かすことが大事・・・だそうですよ。

でも、3日坊主にならずに運動をつづけるにはどうしたらよいか、も伺いました。

是非番組をお聴きください。
そして久野先生の分かりやすい本をご覧ください。

文化放送「浜美枝のいつかあなたと」
4月1日(日曜日 )放送
10時30分~11時

100歳まで動ける体になる「筋リハ」

「いつもお元気で何よりですね」。

そんな嬉しい言葉をかけていただくことが多いのですが、私も70代半ば。近頃は体調管理の必要性を切実に感じるようになりました。

年齢を経て気をつけなくてはならないのは転倒だとよくいわれます。実は私はその経験者。60代半ばの雨の日、ハイヒールをはいていた私は、濡れた大理石の床でバランスを崩し、背中を打ち、圧迫骨折してしまいました。

以来、足腰を鍛え直したいと、箱根の山を歩くことにしました。天気のよい日は富士山や芦ノ湖を見ながら、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んで、2時間ちかくも険しい山道をあるいていました。ところが、昨年アクシデントに見舞われました。突然、足があがらなくなり、歩くのが辛い、痛い。

すぐに整形外科の先生に調べていただいても、骨にも筋にもレントゲンでは異常なし。骨密度も問題なし。しかしかなりショックでした。『大変!このまま歩けなくなるのかしら』と、ちょっとしたパニックになり、体や足に関する本を読み漁り、マッサージも続け、歩きの専門家をも訪ね、ようやく理由がわかりました。

良かれと思って、山道を歩き回っていたことこそが原因だとわかりました。トレーナーに教えていただいたトレーニングとストレッチを朝の日課にしました。そんな時に出会った本が、筑波大学大学院教授の久野譜也さんの 『100歳まで動ける体になる「筋リハ」』です。

「落ちてきた体のさまざまな機能を”元気だったあの頃の状態”にまで戻すことができるのです。筋肉は、わたしたちの体の中で活力エネルギーを生み出している工場のような存在なのです」と書かれておりました。

70代を過ぎると、筋肉量は20代の時の半分程度になってしまうとか。でもその筋肉は無理なく再生が可能なのだそうで、運動が苦手な人でも日常生活の中でできる科学的なプログラムが書かれておりますし、「筋肉運動」と「ウオーキングなどの有酸素運動」の両方を行うことによってこそ、若さや健康を取り戻せます。と。

中高年の筋力運動、サルコペニア肥満、健康政策などを研究なさって著書も多数。

私は納得し、さっそく始めました。これは、ラジオお聴きのリスナーの方にもぜひ聴いていただきたいと思いゲストにお招きし、お話を伺うことにいたしました。収録は来週20日なので、次回のブログに詳しくご報告いたしますね。

きつくない、つらくない。がいいですね!

いくつになっても『動ける体』・・・を目指したいものです。体は限りある資源。決して無理をせず、かといって甘やかさず、自分の体にちゃんと向き合っていかなければと今、改めて思います。

ジャンヌ・モローさん

2月17日から3月2日まで有楽町の角川シネマで『華麗なるフランス映画』が4K映像で初上映されました。

ドロン、ドヌーヴ、モロー、ベルモント!毎日4回。
太陽はひとりぼっち・昼顔・ダンケルク・哀しみのトスカーナ・エヴァの匂い・突然炎のごとく・・・など、毎日違う組み合わせで上映されるので観たい時間を選べばよいのですが、私はなんと言っても『ジャンヌ・モロー』の大ファンなので、「エヴァの匂い」と「突然炎のごとく」を続けて観たく早朝のバスで下山し、1回目と2回目を観ました。

ジャンヌ・モローさんは2017年7月31日、老衰により89歳で亡くなられました。1957年の「死刑台のエレベーター」「危険な関係」「雨のしのび逢い」、そして1962年の「突然炎のごとく」「エヴァの匂い」。

最後の作品は2012年の「クロワッサンで朝食を」。この映画については以前ブログにも掲載いたしましたが、モローらしい・・・いえ、彼女そのもののような毅然とした孤独なブルジュワマダムを見事に演じていました。

衣装のシャネルスーツは彼女自身の自前だったそうです。ですから、よりリアルに、役を演じている・・というより彼女の日常を垣間見ているようでした。女優、脚本家、映画監督、歌手、さまざまな分野で活躍されましたが、私はやはり『女優ジャンヌ・モロー』が一番好きです。

今回の「突然炎のごとく」は、男二人と女一人の三角関係。モローの小悪魔的魅力を監督のフランソワ・トリュフォーが見事に演出しているのですね。

モノクロ、この時代の映画をカラーではなく今モノクロで観ると、こちらの想像力を駆り立てむしろ鮮明な色・空気・匂いまでもを刺激され楽しませてくれます。

自由気ままな彼女に翻弄されつつ・・・三人の長きにわたる恋愛模様は、やはりフランス映画だからのシチュエーションでしょうか。彼女の可愛らしさ、女としての匂い、たしかな演技力、トリュフォー監督屈指の傑作です。

私が最初に映画館で観たのはもう半世紀以上前。まだまだ子どもで、でも生意気盛り、「やっぱりトリュフォー、モローだわ!」などとつぶやいていましたが、なにも分かってはおりませんでした。あたり前ですよね。ラストシーンがあまりにも有名で、ショッキングだったので鮮明に覚えてはおりますが。

モローは1928年・パリ生まれ。父はフランス人のレストラン経営者。母はイギリス人のキャバレー・ダンサーで母の影響を受けて育ち、パリのフランス国立高等演劇学校で演技を学び、1947年に舞台デビュー。劇団コメディー・フランセーズで頭角を現します。

以前、彼女のインタビュー記事を読んだとき「私の生まれたモンマルトルは歓楽街に近く、そこに住むダンサーや情婦たちの世話になり、お金のない私にごはんをおごってくれたり、いろいろ世話してくれたの。そんな彼女たちの恩は一生忘れられないわ」と語っていました。独特のかすれた声、ざっくばらんな話し方。

「反骨の人」「自由人」・・・ジャンヌ・モロー死去。
一人暮らしの自宅で亡くなっているのを翌朝、家政婦が発見したそうです。いつも、毅然としていたモローは人生の終焉をひとりで迎え、それは覚悟して”ひとりで暮す”ことを選択した彼女の人生。

寂しささえも、自分の一部になっていたのでしょうね。
孤独だからこそ、自由でいられたのでしょうね。
そして、孤独はけっして怖いものではない。・・・とモローに教わりました。

下町、モンマルトルのビストロの”オニオングラタンスープ”が忘れられなくて、白ワインとスープをいただき、暗い夜空に輝く星を眺めながら帰路につきました。

綾小路きみまろさん

若い頃はよく愚痴をこぼしていました。
あれから40年。今はご飯をこぼすようになりました。
皆さまお元気ですか、綾小路きみまろでございます。

時が経つのは早いものです。
2002年に「あれから40年」のフレーズとともにブレイクした私ですが、あれから早15年。おかげさまで、こうしてまだ何とか芸能界で生き残っております。皆さまはいかがですか?まだ生きていますか?

こうしたフレーズではじまる綾小路きみまろさんのご著書「しょせん幸せなんて、自己申告」。帯には、山あり谷あり涙あり。売れない”潜伏期間”を経て、たどりついた「幸せのありか」と書かれております。

私がニューヨークタイムズの記事で綾小路きみまろさんを拝見したのは、7,8年前でしょうか。写真入りで大きく掲載されていました。

「中高年の女性の心を捉え、話術の巧みな漫談」というような記事だったと記憶しております。外国人の記者の目からも彼の才能と人間的な魅力が綴られており、その頃の私も「この方って只者ではないわ」との印象が強くありました。

”潜伏期間30年”ブレイクしたのは50歳を超えてからというきみまろさん。いつか、一度お会いしたいと思っておりました。今回のご本を拝読し、ただの苦労話ではなく、今、何かに悩んでいたり、迷っている人の背中を押す名言が散りばめられていて、ぜひ直接お話を伺いラジオをお聴きの皆さんにもご紹介したいと思いスタジオにお迎えいたしました。

ふるさとの鹿児島県志布志(しぶし)市を後にして上京します。「司会者」に憧れてのことでした。お父様は農耕馬の種付け師で、上京することには賛成し、背中を押してくださったようです。

最初は北千住の新聞販売店で住み込みで働き、その後キャバレーのボーイ時代に司会者に抜擢され成功しつつも自分が目指す「芸」の道とは違う!と思い、漫談の道をめざします。

高座にも立ち、自作のテープを観光バスに売り込み、2001年、寄席芸人「綾小路きみまろ」が誕生。”潜伏期間”にどんな思いで芸を磨いていたのか、学んでいたのか。人間、なかなか、これだけ長い期間潜伏!って出来ませんよね。そこには”山あり・谷あり・涙あり”きみまろさんならではの「幸せのとらえ方」を伺いました。

芸能の世界、”お笑い”の方々の努力は並大抵のことではないのですね。同じ時代を生きた、ビートたけしさんとの出会いも、初めてお会いしたのは、まだお互いに無名だった20代の頃。

当時の日本は、ちょうど高度成長期の終わる頃。人々の暮らしも豊かになり娯楽がもてはやされた時代。きみまろさんはキャバレーで活躍しつつ無名のどさ回りの芸人。

個性的な芸人など多彩だったそうですが、たけしさんは合方のきよしさんと舞台袖で掛け合いの練習を丹念になさっていらしたとのこと。

「オーラがあり近寄りがたい人」。”毒舌”の草分けで、早口で、政治や事件、芸能、ヤクザ、老人介護など、あらゆるタブーを一刀両断してしまう。ことごとく本質を突いているため、お客は眉をひそめながら、笑わずにはいられないのです。

きみまろさんもすでにこの頃から毒舌漫談で売っていた頃、「これは敵わないな」と思われたそうですが、80年に漫才ブームが到来し、たけしさんは時代の寵児としてスターダムを駆け上がっていきます。

そんな時代に木造アパートに住みながら、あいかわらずキャバレーまわりをして芸を磨いていたきみまろさん。

たけしさんとの最初の出会いは渋谷のパルコ劇場(当時は西武劇場)だったそうです。私も良く通った劇場です。正直、口にはだしませんし、頭では「自分は自分」と思っても夜、布団に入って目を閉じると、「ちくしょう・・・こんちきしょう!」という気持ちがこみ上げてきますよ、ときみまろさんはおっしゃいます。

そんな時には一人近くの公園に行き、疲れ果てるまでネタの練習をしたそうです。そこで「人生、多少の浮き沈みはあっても、みな平等に死んでゆく」「人間の死亡率100%」などのフレーズが浮かんだそうです。

腐ったら、終わり。
あきらめたら、終わり。
もう一度たけしさんと同じ舞台に立ちたい。

それから時代が巡って2015年。ある番組でたけしさんとご一緒し、馴染みの焼き鳥屋さんで飲みながら「昔からずっと憧れていたんです」と告白すると、たけしさんがこう言いました。「いや、違うんだきみまろさん。おいらがあんたに憧れていたんだ」と。

たけしさんは売れてからも、きみまろさんの出演しているキャバレーでやっている漫談をお忍びで観にいっていたそうです。「なんできみまろが表にでないんだ」と。

30年の時を経てこんにちのきみまろさんがいらっしゃるのですね。

人一倍照れ屋のたけしさんが、笑わずに、私の手を握りしめてくれました。たまらずうつむいた私に、たけしさんは穏やかな声で「よくぞ這い上がった。同じ時代を生きた男として、あなたを誇りに思います」と仰られたそうです。

「自分のことなんて、誰も気にしてやいない」そう思っても、どこかで必ず、誰かが見てくれています。そう本に書かれています。

しょせん幸せなんて自己申告』。
スタジオで孤独についても伺いました。

「人生終着駅では、みんな一人ぼっち。寂しいから笑うんです。」と笑顔でおっしゃるきみまろさん。ニューヨークタイムズの記者はそんなきみまろさんの人間的な魅力に魅せられたのでしょうね。

そして、全国の中高年の女性たちは、きみまろさんの毒舌を聞きながら「自分自身を励まして」いるのではないでしょうか。

ラジオは2週続けて放送いたします。
ぜひ、お聴きください。
そして本をお読みください。

文化放送「浜美枝のいつかあなたと」
日曜日 10時半~11時まで
3月4日と3月11日放送