浜 美枝の「いい人みつけた」

現在の文化放送「いつかあなたと」の前、1983年から14年ちかく、TBSラジオで番組をもたせていただいておりました。

放送が開始されて一年あまり、お逢いした方は80人になろうとしていました。月曜~金曜で10分ほどの番組でした。

ゲストをお招きし、その方々のお話が素晴らしかったので一冊の本にまとめました。私がうかがった”いい話”をどうしても独り占めしたくなかったのです。頁の都合ですべての方のお話をお載せできませんでしたが、どの方のお話しにもその方ならではの人生のかくし味がしのばれました。

現在コロナ禍の中で読書は欠かせません。本棚から見つけた本の中の”いい話”をみなさんと共有したいと思い、今月はそんな素敵な方のお話です。

誰にとっても人生は出逢いの連続です。誰かと出逢うことで知らされる道しるべの多いこと!自分が熟慮と綿密な行動計画で歩く道を選択しているかというと、決してそればかりではなく、ある日、ふと出逢った人に人生の重要なヒントを与えられ、そこから違う生き方が開けてくるようなことがあると思います。

私などは、その最たるもので、一人の考え休むに似たり。多くのことを、多くの人に教えられて、今日まで何とか歩いてこられたように思えるのです。伺ったお話は1983年から84年です。

淡谷のり子さん(1907-1999)
日本のシャンソン界の先駆者。
愛称は「ブルースの女王」

今でも、あの香りは忘れられません。

淡谷さんがスタジオに入っていらしたらとてもいい香りがしたんですよ、と私。

「音大を出て、世の中にでましたの。クラッシックやってましたけど、レコーディングすることになって、もちろん流行歌ですが、レコード会社で少しまとまったお金をいただいたので、まず買ったのが香水なの。そう、香水と帽子と靴と。着物に帽子をかぶってた人もいたわ。香水は”黒水仙”が好きなの。日本にはなくてフランスへいらっしゃる方に頼んでね、たった一軒あるんですって。それもなかなか売らないんですって。」

喜寿のお祝いをなさったばかりの頃のインタビューでした。ほとんどシワがないお顔でした。

「シワがない顔なのよ。ペタッとしちゃって。凸凹がないでしょ。凸凹のある人ほど、きれいな人ほどシワがあるんですよ。でも人さまの前に出るから、週に一度は全身美容には通っています。」

「母は十七歳で私を産んだのかな。よく本読んだり勉強していましたね。新しい女のいく道。平塚らいてうさんだとか、ああいう方たちの本を読んで、隠して読んで、本も読ませないんだから。商人は学問はいらないって。で、三十を過ぎて私達を連れて東京に来て、自分で働いて学校に入れようと思ったんですって、でも贅沢に育った母は半年でお金がないの。でも、貧乏しても子供たちには教育を受けさせたかったって。あの母があったから私がいるんだと思いましたね。何が悲しいって、母との別れが一番悲しかったですね、私。」

淡谷さんの男性観、結婚観みたいなものは、ご両親の生活から影響があったのですか。

「ありますね。ずいぶんありますね。私これでも結婚したことがあるんですよね。一度だけ。とってもね、私には合わないのです。合わないので失礼しましたけどね。私ああいうこと、嫌い、結婚は。歌が大切なの。奥さんになるには才能がなければ駄目。私はそういう才能はなかったですよ。とにかく歌だけきゃ駄目なの私。五十四年歌い続けて壁にぶつからなかった、悩まなかった。ぶつかったのは戦時中ですね。それでも戦争中もやっていましたから。警察と軍隊にずいぶん始末書書いたりしましたよ。おしゃれしちゃいけない、モンペはけとか・・・みっともない格好してステージはでられませんから、ちゃんとイブニングドレスで最後まで、何と言われても。”非国民”だとか言われましたよ、ずいぶん。あれも歌っちゃいけない、これもいけないと言われて、外国の歌はね全部駄目なの。許されたのはアルゼンチンタンゴだけ。だから日本語でアルゼンチンタンゴだけ歌いました。」

慰問先でも夢を与え続けた淡谷のり子さんが、喜寿を迎えておっしゃいました。

「なんとしても、今まで長いこと歌ってきましたね。でもどうしてもこれからクラッシックをもう一ぺん勉強したいと、そんな夢を持っているんですよ。もう一度勉強したいんです。」

クラッシックは、淡谷さんの郷愁みたいなものなのでしょうか。

「そうなんです。郷愁なのです。でもね、普通あるところまで人生いくと、特に女性はね、もうこれでいいや、もうここまでやったら満足だ、と欲望やロマンから遠ざかっていきがちですね。美しく年をとりたいの、私。無理しないで、だけど年とったからとか、あまり考えないほうがいいですよ。それ隠すでしょ、女性は、特に年は。隠さないで出せばいいのです。私はいくつなのよ今年は、って言ったほうが楽になりますよ。」

最後に”愛されるということよりも、愛することって幸せじゃないかと思うんです”・・・と、おっしゃいました。

歌手生活五十余年、一貫してご自分の哲学を通し抜いた姿に深く感動すら覚えたことがよみがえります。

そして淡谷さんの歌。
いつかあるところで聴いた『恋人』。

いまだに耳の底に残っています。歳月を超え、世代を超え、男も女も超えて、そこに集う人々の心の中を縫っていきました。淡谷さんが歌い終わった瞬間、怒涛のような拍手がわきおこり、拍手するその手で涙を拭っている人が大勢いました。もちろん私も。一人の女性の人生を通して歌われる歌の大きさ、深さに興奮し、その夜は眠れませんでした。

(YouTubeで淡谷さんの歌、お話しが聴けます)

静かなお正月

早いものですね。新年もあっという間に一週間が過ぎました。どうか穏やかな一年となりますよう、心からお祈りいたします。

賀状や年末年始のカードには、皆様のいろいろな想いが綴られていました。こんな文章が、ドイツから届きました。

「いつの日か、すべてがうまくいくでしょう。
それは、私たちの希望です。
いま、すべてがうまくいっている。
それは、私たちの幻想です。」

フランスの哲学者の言葉が引用されていました。世界中がいま、同じ苦しみに耐えているのです。

毎年、年末年始になると列車や高速道路がどんなに混んでも帰省を繰り返すのも、せめてお正月だけは、幼いころに育った家に戻って、家族や幼なじみと交流し、お互いの健康を確認しあう、そんな当たり前のことが出来ない年末年始でした。

”当たり前のこと”

実はとても尊いことであり、またそうした平凡なことに幸福を感じられることが、健康な人生という気がします。民俗学者の宮本常一は「文化は足元にあり、足元から生まれる」とおっしゃっていますが、当たり前の暮らしが出来ない・・・それはとても息苦しく、辛いことです。

子どもたちが幼い頃はおせち作りと年越しの行事を終えるまではただただ忙しく、ほっと息つく間もないほどせかせかと時間に追われて過ごしたものです。でも、子ども達が成長するとお正月を迎えるために重ねてきたさまざまな仕事の手順を自然に覚えてくれていて、参加してくれていました。

ラジオから流れる除夜の鐘を聴きながら、囲炉裏を囲んで家族がそろい、電気を消して、飛騨古川の三嶋ろうそくの揺れる光のなか、年越しそばを啜るとき、何も語りあわなくとも自然にひとつになっていました。帰省を見合わせた方々は、形は違えども ”ふるさと” への想いは一緒でしょう。

今年はとても静かなお正月でした。例年ですと元旦の明け方、空が茜色に染まるころ箱根神社に初詣に行きます。その代わり今年は毎朝の早朝ウオーキングで元旦の日の出前に雑木林を抜け冬ざれの中、湖へと向かいました。

空には月が湖を照らし、霊峰富士がかすかに姿を見せてくれました。「なんて美しいのかしら」帰るころには青空も見え「初晴」でした。

「どうぞ どうぞ早く穏やかな日常が戻りますように」と三が日が過ぎ初詣に行き祈りました。

2日3日は毎年箱根駅伝の選手たちをゴール近くで応援するのですが、今年は沿道での自粛要請が出ておりましたので、家でラジオ、テレビでの応援でした。通常は各校の応援団の太鼓などの音が響く中、選手は飛び出していくのですが、3日朝は静かな復路スタートとなり無人の山中を駆け下りていきました。

そしてお正月は、松の内に上野の寄席に新春落語を聴きに行き”初笑い”をして一年が始まるのですが、今年は我慢しました。静かなお正月でした。

緊急事態宣言が1都3県に発令されました。
皆さまどうぞご自愛くださいませ。

メリークリスマス

そして、医療従事者の皆様方へ。

皆様の献身的なお仕事が、いかに私たちの日々の生活を支えてくださっているのか、改めて教えられました。旅行や会食などとは無縁の毎日。年末年始もほとんどないことを存じております。心より感謝申し上げます。この思いが皆様の元へ届くことを心より願っております。

お身体に気をつけてお過ごしくださいませ。

私は今年、喜寿を迎えました。大病をすることなく、ここまで無事に歩んでこられたことに、感謝の気持でいっぱいです。何か記念に残るものをと思い、漆芸家の浅沼ゆう子さんのペンダントをもとめました。わずか2cmの可愛い天使。バロックの淡水真珠に蒔絵で天使が描かれています。お洋服のボタンまで。

まもなく一年が終わろうとしています。2021年が良い年になりますように。

そして、私のつたないブログにお付き合いくださった皆さまに心より御礼申し上げます。寒さも厳しくなってまいりました。ご自愛のうえ、来年こそよい年になりますようお祈りいたします。

はるにれ

長女が幼稚園に通っている頃に、『はるにれ』(写真・姉崎一馬、福音館書店)という絵本をよく読みました。読むといっても、その絵本に文字もなく、絵もなく、あるのは写真だけ。その写真が素晴らしく、語りかけてくるものの力強さに圧倒され、子どもよりも私のほうが夢中になってしまったのです。

主人公は北海道の十勝平野に立つハルニレの大木。

春、ハルニレは命の開花をします。芽吹きの葉の美しさは輝くばかり。夏に向け、枝は緑の葉を青々と繁らせ、充実の時をむかえます。

そして秋、葉は色を変え、まろやかに穏やかに変貌しはじめます。茂り実り、燃えるように色づき、ある日一陣の風が吹き、季節は冬に。ハルニレの木は、寒風に耐えつつ凛と枝を伸ばし、太い根は雄々しく大地をつかみ続けます。

そんな一本の木の、一年のさまざまな表情とドラマを、私たちに見せてくれる本でした。

私にとって木は特別なものです。

樹齢何百年という大木のそばに行くと、その太い幹にそっと体をすり寄せたいという衝動にかられます。手で触れると、何か人知を超えた天空の意思を感じ、その木からエネルギーのようなものが体の中にどっと流れ込むのを感じます。

太古に通じる水脈から命を得、時空を超えて屹立する木には、人を癒し、浄化し、勇気や元気をくれる力があるように思います。

コロナ禍のなかにあって、私たちは息苦しさを感じ、乗り越えようとしています。あと少し、あと少し・・・深呼吸をして。人は人と出あうことで悲しみを分かち合い、喜びを倍にできる・・・あと少しです。

『はるにれ』の木が見守ってくれています。

映画『おもかげ』

微妙に揺れ動く女性心理をこれほど繊細に描ききるとは。監督の感性が、どきりとするほどスクリーン全体に溢れ出ていました。スペインのロドリゴ・ソロゴイェン監督は最新作の「おもかげ」で、主人公の心のひだを一枚、一枚、丁寧に解きほぐしていきます。

マドリードに住む女性の元に、6歳の息子から一本の電話が入ります。息子は、別れた夫と2人でフランスを旅行していました。しかしその電話の内容は、どこかの海辺で父親と離れ離れになり、迷子になってしまったというものです。しばらく話すうちに電話は切れてしまい、連絡は一切取れなくなります。

これが冒頭のシーンです。まさにスリルに富んだ、”サスペンス映画”を思わせるスタートです。そして、この約15分間のシーンは基本的に編集をしておらず、いわゆる”ワンカット”の映像なのです。いやでも緊張感が高まり、迫真の展開に引き込まれていきます。

そして次ぎのシーンは、10年後に飛びます。まだ見つからない息子の姿を追い続けながら、フランスの海岸でレストラン従業員として働く女性。そこで遭遇する少年に、彼女は息子の面影を見るのです。周囲を巻き込みながら、二人は精神的なつながりを急速に深めていきます。

実は最初のシーンは、ソロゴイェン監督が3年前に作った短編映画でした。ヨーロッパ各国で高い評価を得ましたが、監督はこの短編をそのまま導入部に置いて、今回の作品を企画・制作したのです。テーマは一人の女性が生き抜いていくことの苦悩と、再生への決意でした。

彼女の心の葛藤は、海岸に繰り返し打ち寄せる大西洋の荒波が見事に代弁していました。撮影、編集など技術陣の確かな力量が遺憾なく発揮されていたのです。

多くの謎が謎として残されたまま、ストーリーは進みます。悲しみも憎しみも、そして愛情や希望さえも、彼女は身ひとつで受け止める覚悟をかためたのでしょう。一見、唐突とも思われるラストシーンは、おそらく監督の問いかけだと感じました。受け止めは、見る側に委ねられたのです。

今年39歳のスペインの監督は”心理劇”の名手といっていいでしょう。そして、息子の影を追い求める女性を演じた同じスペインのマルタ・ニエトさん。彼女は母として女性として、揺れ動く心模様をドラマティックに表現していました。ヨーロッパでは既に多くの賞を受けるなど、実力派としての評価が定着しています。彼女も来月、39歳の誕生日を迎えます。この同年コンビに、これからも目が離せなくなりました。

映画公式サイト
http://omokage-movie.jp/

紅葉の美しい箱根

箱根の紅葉は芦ノ湖からはじまる、と言われています。

早朝のウォーキングでまだ人のいない湖畔沿いを堪能してから家へと戻ります。

「そろそろ強羅の紅葉が見ごろを迎えたころだわ」と11月下旬の晩秋の晴れた日に出かけてきました。

この頃は「小さな旅」を楽しんでおります。近くて混まない時間に・・・贅沢な楽しみ方ですね。

普通ですとバスで国道一号で乗り換え1回で行けるのですが、”旅気分”を味わいたくて旧道をバスで下り、箱根湯本駅まで行き、登山電車で強羅駅までのコースです。

2019年10月の台風19号で湯本~強羅間で甚大な被害をもたらした箱根登山電車。当初は2020年秋に復旧の見通し、と言われておりましたが3ヶ月前倒しで7月23日に全面開通しました。

「当初はどこから手を付けていけばよいか、分からなかった」という関係者。バスから見上げると沢から流れ落ちた大量の岩石、崩れた陸橋、「復興は可能なのかしら?」とも思ったほどでした。

昼夜を問わず復旧工事をしている姿を目にしておりましたので、「ぜひ乗ってみたい」と思いました。スイッチバックをしながら登る登山電車。その健気な姿に感動をおぼえました。車窓からも美しい紅葉が見られます。

強羅駅からは坂道を(けっこう急です)を上っていくと「箱根美術館」に着きます。(ケーブルに乗れば一駅)

日本古陶器を中心に展示されいる箱根美術館は国の登録記念物にされた庭が美しく、苔と紅葉で多くの方が季節には訪れます。苔の緑と200本以上のモミジ、竹庭に紅葉が映えます。11月中旬から見ごろを迎えますが、まだ12月上旬までは美しいです。

コロナ禍のなかでも、密をさけ美しいものを観る、感動する”小さな旅”は私にはとても大切なひとときです。

寒さも深まり晩秋から季節は初冬へと移り、あたりも枯れ色が増してきました。 「冬紅葉」も散り遅れて枝に残る季節。日本の一番美しい季節ですね。

箱根美術館 公式サイト
http://www.moaart.or.jp/hakone/

ショーンさん、ありがとうございました。

ショーン・コネリさんが亡くなって、間もなく1ヶ月が経とうとしています。

逞しく、颯爽としたスクリーンのショーンさん。でも私が接した彼はとても物静かで、細やかな気遣いを忘れない紳士でした。今から50年以上前、私がまだ20代前半の頃の思い出です。

ショーンさんが主演して大ヒットした”007シリーズ”の5作目、「007は二度死ぬ」への出演オファーがきました。撮影のためイギリスを訪れた私を待っていたのは、右も左もわからない、文字通り”異邦人”としての日々でした。今思えば、不安そうな表情で戸惑っていたのでしょう。その時のショーンさんの言葉と表情は決して忘れられません。

「大丈夫かい?」
「心配事はないかい?」

撮影開始前、繰り返し声を掛けてくださいました。彼にとっては、毎朝のさりげない挨拶のようなものだったのでしょう。でもそこには単なる言葉だけではない、人を抱きしめるような暖かい気配が感じられました。

あれから半世紀、文字通り”光陰矢の如し”ですね。彼は”007”を飛躍台に、深みも渋みも備えた、確固たる俳優の地位を築いていきました。

貧しかった子供時代、ショーンさんは学校生活もそこそこに様々な職業を転々としたそうです。そして英国人ではなく、”スコットランド人”であることに生涯誇りを持ち続け、スコットランドの独立運動を強く支持してきました。虐げられた人々、社会的弱者へのまなざしは、自身の厳しい体験から生み出されたものなのでしょう。

突然の訃報に驚き、一つまたひとつ、記憶を辿っていると、朝日新聞の「天声人語」にショーンさんの追悼記事が載っていました。そこには20年前に公開された彼の主演作、「小説家を見つけたら」が紹介されていました。

隠遁生活を送る老小説家と聡明な黒人高校生との心の交流を描いたものです。人生をそろそろまとめ上げようと考える老人を、ショーンさんは丁寧に演じていました。

自らの思いをいかに次の時代に手渡していくのか。老小説家には人種や年齢など超えた、強い思いがあったのでしょう。「友情という贈り物を受け取った」と表現する場面は、この作品のとても静かなハイライトでした。

おそらく、ショーンさんはその小説家に自身を重ね合わせていたのだと思います。俳優としての幕引き、つまり引退を意識して出演を決意したのでしょうね。

エンディングの高校生との掛け合いが秀逸でした。「旅に出る。生まれたところに!」と呟く老小説家に「アイルランドですか?」と聞く高校生。「スコットランドだよ!」と反論する作家に「冗談ですよ!」と微笑みながら返す高校生。

ショーンさんがどうしても入れたかった”ワンシーン”だったと感じました。

彼が70歳の時のこの作品には、人間味溢れる穏やかな表情のショーンさんが演技の域を超えて、ごく自然に存在していました。「007」のショーンさんとは声も違う、熱量も違う、枯れた魅力いっぱいの人生の達人が、確かにそこにはいました。

人との接し方、気持の表し方などをそれとなく教えていただいた日本の娘もつい先日、喜寿を迎えました。

ショーンさん、本当にありがとうございました。

喜寿をむかえて

全国の100歳以上の人口は7万人を越え、その数はさらに増加しつつあります。

ついこの間までは、人生80年といわれていたのに、すでに「人生100年時代」は始まっているのですね。

私は今月、喜寿を迎えました。
この世に生を受けて77年。

大病をすることなく、仕事にも恵まれ、折々に学びの機会を得ることもできました。4人の子どもたちもそれぞれ独立し、孫の笑顔にも触れる喜びも味わっています。

平坦な道ではありませんでしたが、ここまで無事に歩んでこられたことに、今、感謝の気持ちでいっぱいです。と同時に、急激なデジタル化、未曾有のコロナ禍と、変化の激しい現代にあって、これからの日々を生きるための指針のようなものが必要だと改めて感じています。

私にとっては、ひとつは「学び」でしょう。
私の半生は常に民芸とともにありました。

民芸の柳宗悦先生を心の師として、私はその足跡を何十年もかけてたどってきました。民芸の故郷と柳先生がおっしゃった沖縄に足繁く通い、韓国には2年間部屋を持ち、古民家の美しさを呼吸したいと12軒の古民家の材料をすべて使い作り上げた家に住んでいます。

そして今、柳先生の著書をもう一度読み直しているのですが、何十回も繰り返し読んだにもかかわらず、新しい気づき、発見があることに驚かされています。

真に美しいものごとの本質に近づく―――その道程にゴールはないのでしょう。心をまっさらにして、今後も学び続けたいと願っています。

二番目は「つながる」ことです。

これまで仕事やボランティアを通して、様々な人たちと出会い、信頼関係を築き、自分の可能性が広がることを実感してきました。

中でもJAグループが提供してくださっているラジオ番組(文化放送)『浜美枝のいつかあなたと』は、私にとって最高のつながりの場であり、宝物です。多様な体験をしてきた人々の活躍を伝え、現場ならではの経験を持つ人たちの思いをすくいあげ、ラジオに耳を傾けて下さる人々との共感を深くしていくこの場を、これからも大切にしていきたいと思っています。

三番目は「健康」。

これまで私は日本の農業と食を考え続けてきました。農業に携わる女性たちとのネットワークもつくり、女性の地位向上と新しい農業のあり方を求め、活動してまいりました。

農業の実際を知るために、10年間に渡り米作り畑作りにも挑戦しました。身体は食べたもので作られていると考え、家族の食にも気を配ってきたのですが、60代のある雨の日に、パンプスで濡れた床を踏み、ついバランスを崩し、背中を強打してから、運動の必要性を感じさせられました。

以来、箱根の家で過ごすときは、朝のストレッチと、すがすがしい空気を呼吸しながらの散歩が習慣となりました。整形外科、歯科、産婦人科……それぞれ信頼する医師に定期的に診ていただいています。

近ごろでは必要に応じ、サプリメントもとりいれる大切さも感じています。また、清潔なおしゃれと、艶のある肌を保つ心がけを忘れないようにしたいとも思います。

いくつになっても食と運動、身だしなみに気を配れる自分であるようにできることはしていきたいと、心をひきしめています。

数年前の冬、「高野山」の「生身供(しょうじんぐ)」を拝見したくて、朝まだ暗い中、空海が入定された奥の院を目指したことがありました。

そのときに、杖をついてやはり奥の院に向かって歩く高齢の女性が私の前を歩いていらっしゃいました。杖に頼りながら一歩一歩、ゆっくり足を進める、その巡礼のような姿がそのとき私の胸に深く刻まれました。

なぜそんなにも印象的だったのか、ずっとわからなかったのですが、もしかしたら、これからの私の歩みをその高齢の女性の姿の中に見たからかもしれないと、今、思っています。

映画 アイヌモシリ

スクリーンに映し出された阿寒湖はどこまでも静謐でした。湖を取り巻く森や集落も、ゆったりと時を刻んでいました。主人公の少年は14歳。中学を卒業したら村を出て、高校に進みたいと考えています。多感な少年の澄み切った瞳が、画面いっぱいに広がります。

映画「アイヌモシリ」は、静かな熱気をはらんでいました。そして1時間半、ドキュメンタリー作品と勘違いするような不思議な感覚に包まれました。

少年はアイヌコタン(アイヌの人々が住むムラ)で民芸品店を営む母親と暮しています。学校ではバンド活動に夢中ですが、自分はアイヌとしての誇りを持ちながら、これからどう生きていくのか?自分が自分であること、つまりアイデンティティーを求める旅を始めたばかりの揺れ動く少年なのです。

この映画がなぜ真実味をもって迫ってくるのか?主人公の少年も、その母親も、そして多くの登場人物も、アイヌの人たちが演じているのです。母親役と息子役の二人は、実の親子です。作り込んだ”芝居”を軽々と飛び越えた世界が、そこにありました。

この映画を作った福永荘志監督は、「特別な演技指導はしていない」と語っています。「できるだけ普段の言葉で話してもらった」とも振り返っています。これこそがリアリティの源泉であり、出演した方々を全面的に信頼していたのですね。

福永監督は北海道生まれですが、20年近く前からニューヨークで映像制作を続けてきました。今回はその経験を活かして、カメラや音声、そして照明などスタッフをニューヨークの友人たちで固めたということです。アイヌに対する固定観念を持たない人たちが必要だ、という強い思いが伝わったのでしょう。出演者やスタッフに共通する姿勢は、国際性も相まって、作品に幅と奥行きをもたらしています。

少年の母親が営む店には、「あなた、日本語うまいね!」という無邪気に話しかけてくる観光客が登場します。母親は、「一生懸命、勉強したから!」と微笑んで返します。これはおそらく、実話を元にした挿話でしょう。あまりに自然すぎるシーンなのです。

熊の魂を神さまの元へ送り返すという厳粛な儀式に、少年は複雑な思いを抱きます。なぜなら、そのために人の手で熊の命を奪わなければならないからです。映画の最後には、「制作にあたり、いかなる動物も危害を加えられていない」旨の字幕がでました。

これからの時代を生きる主人公の少年は、これまでの歴史と文化にどう向き合っていくのか。悩みながら、躓きながら歩んで行く、彼の決意なのかもしれません。単なる静けさだけではけっしてない、凛々しさも感じさせる旅立ちと受け止めました。

とても示唆的なエンディングの映像、心憎いスタッフの感性です。

映画公式サイト
http://ainumosir-movie.jp/