津軽三味線 高橋竹山さん

「ちくざん さーん!」。思わず大声を出しそうになり、慌てて口を押さえました。そして、静かな拍手を送り続けました。津軽三味線奏者の二代目・高橋竹山さんが上野の山に戻ってきたのです。

日本で一番好き、と彼女が語る東京文化会館小ホール。600席を超す会場は、気持の昂ぶりを両手でしか表現できない竹山ファンで、ほぼ埋め尽くされました。「襲名25周年記念演奏会」と銘打った今回の舞台は、ピアノを中心に多彩な音楽活動を繰り広げている小田朋美さんを加えて、”高橋竹山の今”を存分に感じさせるものとなりました。

竹山さんは少女時代から津軽三味線に心を奪われ、初代 高橋竹山に弟子入りします。三味線一つで東北や北海道などを巡る初代に弟子の竹山さんは同行し、修行を重ねたのです。そして、訪れる先は国内に留まりませんでした。アメリカを始め、フランスやイギリスへと、海外公演は繰り返されます。各地を歩く中で、竹山さんは演奏の技術だけではなく、津軽三味線の魂そのものを学んでいったのでしょう。こうして25年前に二代目を襲名した竹山さん、今回の記念演奏会は素晴らしいものでした。背筋をピンと伸ばした凛々しい立ち姿。ピアノとの共演も、2時間に及ぶ舞台の巾と奥行きを豊かなものにしていました。

アイルランドの詩が朗読されました。そして、詩人・茨木のり子さんの、「わたしが一番きれいだったとき」が語られました。平和と自由を賛美する、各国で翻訳された詩です。さらに、ファドも登場します。女性が哀調たっぷりに唄う、ポルトガルの”民謡”ですね。

私がまだ20代の頃、ポルトガルを旅したことがありました。田舎町の酒場で踊り唄い続ける黒い瞳の痩せたダンサー。彼女に促され、私も踊りました。客たちは、用意された素焼きの小皿を床に叩きつける、店にはそんな”約束事”があったようです。初めての体験に驚きながら、私も小皿を投げました。店内の人たちの地を這うような喋り声、そして呻きとも聞こえる合いの手。竹山さんの舞台は半世紀前のそんなシーンを、まざまざと思いだすきっかけとなりました。

東北の土着の息遣いから、多国籍の広がりを持つ世界の感性へと昇華した津軽三味線。

神々しさすら感じた舞台を、じっくりと拝見することができました。

高橋竹山公式サイト
https://www.chikuzan.jp/

どんぐり

森を歩くことは人生を歩むことに似ていると、その日もしみじみ思ったことでした。以前、軽井沢の野鳥の森で馬場さんという森の先生にお会いしました。野鳥の名前や習性や木々の話……。うかがいながら歩く森は、生き生きと生きる森。

なかでもドングリの話は、本当に感動的でした。ドングリの実って、ほら、先がつんととんがって、まあるく台座にのっかっていますね。あの形にはワケがあるんですって。馬場さんのお話によると、こうです。

「ドングリが地面におちるときが種の旅立ちです。どう落ちるかで、種の生存、繁栄が約束されます。もしドングリがただまんまるというのでは、溝やくぼみにはまって枯れてしまう。まんまるでないことで、ドングリは遠くへ転がっていけるのです。親木の下にいたのでは、葉が繁ってくると成長できません。できるだけ遠くへ飛んでいくことで、ドングリは成長できるのです」

すごい話だと思いませんか。私には四人の子どもがおり我が子も形さまざま。孫もおります。さぁ~どこに飛んでいくのでしょうか。

ドングリが落ちるのは秋ですが、私の子供の頃は近くの雑木林にたくさんドングリが落ちていました。拾うと実は形や大きさはバラバラ。どのぐらいの種類があるのでしょうね。ドングリとはブナ科の果実の俗称で、コナラやクヌギなど国内に22種が存在するそうです。

さまざまな動物に食べられるドングリ。先日新聞を読んでいたらこんな記事が載っていました。「ネズミなどの動物は冬の間の食料にしようとドングリを別の場所に運び、他の動物に見つからないように土中に埋める。春になり、食べのこされたドングリはその場で芽生える。動物によって遠くに運ばれることは、分布を広げやすくなったりすることにつながる」とありました。

気候変動の変化でしょうか。森林の管理が行き届いていないせいでしょうか。最近ニュースなどで市街地にクマの出没が相次いでいるそうです。ネズミやクマにとってもドングリは冬の前の重要なエサです。日本は本当に森林の国だな~と旅していると思います。国土の7割が山野です。ただし、どんな山野かとなると……疑問です。

手入れされずに放置されている山で木々が”泣いている”とある山男に聞いたことがあります。森が啓示している日本列島。ネズミやクマと共存して暮せる環境を作りたいものです。

箱根の秋

箱根に暮すようになって、もう40年以上の月日がたちました。 

”古民家再生”という言葉も当時はありませんでした。長男をおなかに宿していたとき、まるで何かに導かれたかのように、古民家の解体現場に行き合わせ、勢いというか運命というかわからないのですけれど、その古民家を譲り受けることになり…その廃材をどう生かせばいいのか考えあぐねた末に、箱根に家を建てることになりました。”移住”などという言葉もそれほど使われる前のことです。ただ、「箱根」は大好きな場所でした。国立公園の中にあり自然豊かで、都会からもさほど遠くなく、住むなら箱根!と憧れを抱いていました。

古民家再生は当時、まさに手探りの連続でした。最初にできたのは枠だけ。当初3年は台所もお風呂もなく、プロパンガスの簡易ガス台で調理し、近所の旅館にもらい湯をさせてもらったりもしました。その間、子どもたちと顔を合わせて「まるでキャンプ生活みたいね」と笑ったこともたびたびでした。そんな時代に箱根の四季折々の美しさに魅せられていきました。

湯本から1000mほど上ると芦ノ湖をはじめ仙石原・強羅・そして小涌谷。古刹も美術館も、美しい庭園も。東京よりひと月ほど早く木々が色づきはじめます。

長女が小学生になった頃、赤く燃えるような木々の間で遊びました。  ”モミジの葉 赤いテントの木のしたで”と彼女が詠んだときは 「あぁ、ここで子育てができるって幸せ」と思いました。50代になり、子どもたちが少しずつ私の手から離れていきました。60代に入って微妙に私の心が揺るぎはじめました。このまま、50代のスピードで走り続けていくことが私にとって幸せなのかしら…… ”私はこれからどう生きていきたいの”と自問するようになりました。

年上の友人たちが晩年の暮しかたを次々に選択しつつありました。東京から田園に住まいを移し、農業を始めた人もいれば、自然豊かな場所から便利な都会に戻ってきた人も、病に倒れ、残念なことに突然、この世を去った人もいます。晩年の暮らしのあり方を自分の問題として、本気で考えました。東京のオフィスを箱根に移し、暮らしのダウンサイジングを進めました。そうなのです!この箱根があったから、自分にしっかり向き合うことができました。箱根で静かに暮すのが、私の幸せのひとつの形。それは確かなのですが、ただ静かにしているのを私はまだまだ望んでいないのです。

旅もしたい。東京に行き、ラジオの収録で様々な分野で活躍なさっている方々との語らい。大きなスクリーンで映画も観たい。美術展へも…と興味はつきません。それは「箱根」が待っていてくれるから。美しい紅葉も間もなく見ごろを迎えます。大好きな場所もあります。

今回は皆さまに仙石原にある「湿生花園」の秋の花をお届けいたします。さわやかな澄んだ空気と空の色。

10月に入ると秋も深まりススキが見ごろを迎えますし、湿原、川、湖沼などで育つ植物が約1700種。ここでは四季の花が見られ、林ではホトトギス、アキチョウジ、オミナエシ、ワレモコウ、リンドウなどが自然のかたちで見られるのです。

園内は歩きやすく木の遊歩道です。さわやかな澄んだ空気と秋の空。湿生花園から北側斜面に広がる「すすき草原」のススキが太陽の光にてらされ美しく光っています。今年は例年にない酷暑となり、仙石原周辺も平年以上の暑さに見舞われたようです。

でも晴れの日が多く、陽光をよく浴びて輝いています。徒歩で10分ほどで”すすき草原につきます。3月には、ススキの植生保全や維持管理を目的にした山焼きが3年ぶりに行われました。秋深まるこの季節のススキは「金色のじゅうたん」と称されるほどの美しい風景です。

草原の中心部には台ケ岳の中腹まで続く遊歩道があります。

「箱根の秋」を堪能した一日の小さな旅でした。

湿生花園は12月1日から翌年3月19日まで冬季休園となります。

湿生花園公式サイト
https://hakone-shisseikaen.com/

追悼 ジャン=リュック・ゴダール監督

ゴダールさんの訃報に接して、また私の青春が遠のいていきました。『勝手にしやがれ』は1960年公開のフランス映画界にヌーベルバーグ(新たな波)を起こし、革命児でもあり続けたジャン=リュック・ゴダールさんが9月13日、スイスの自宅で死去されました。91歳。

私の青春史は、1960年代の映画史とダブります。特に60年代の幕明けともなったフランスの二人の監督作品は、時代の幕明けにふさわしい衝撃でした。

少年院を逃げ出した少年が海に行きつき、そこで身動きもならず立ち尽くしてしまうラストシーン。「大人は判ってくれない」(フランソワ・トリュフォー)。くわえ煙草で街行く女のスカートをまくり、自転車をかっぱらって、あげくの果てはパリの裏通りで死んでいく青年。「最低だッ」とつぶやいて自分で自分のまぶたを閉じて死んでいく破滅男をとった「勝手にしやがれ」(ゴダール)のラストシーン。青年の反抗精神とペシミズムが、せつないほど胸に迫り、スクリーンを見据える私にも新しい自己主張を持った映画の時代=私たちの時代を予感するに充分な手応えを残したものでした。

ヌーベルバーグ(新たな波)は、きれいごとの青春とは違う生々しい肉声を持った青春を私につきつけたのです。”私たちの映画”をみせつけてくれたゴダールさんに逢ったのは、カンヌの映画祭でした。

いまは亡き川喜多長政さんにお願いして紹介していただいたのです。私、そのときあまりのカンヌのまぶしさにサングラスをしていました。川喜多さんに紹介していただいたとき、サングラスをとらずにゴダールさんと握手して、後で川喜多さんに注意されたのを思い出します。「人に出逢ったときは、サングラスをはずすんですよ」それ以来、私はあまりサングラスをしなくなったのです。そのときのゴダールさんは、まさに映画祭中の人気を独り占めしていました。

本屋の配達人、テレビ局のカメラマン、演出助手、ダム工事の土方、撮影所下働きなど下積みの生活を経てきた青年の、したたかな輝きが満ちていました。「女と男のいる舗道」「小さな兵隊」など、次々に話題作を作っていました。

当時はアンナ・カリーナとまずくなりはじめた頃だったと聞きました。案の定、「軽蔑」や「恋人のいる時間」などにアンナ・カリーナは出演拒否しています。”映画監督の中で一番モテない男”というウワサをそのとき耳にしました。そうかな……

1966年、ゴダールさんが来日したときは、映画仲間とゴダールさんを囲んで映画論を隅っこで聞いていました。よく理解はできませんでしたが、何をみんなは夢中で議論していたのでしょうか。

青春のある一日は、まるで遠い映像です。夢中で燃えて過ごした日々は一体どこへいってしまったのでしょう。1966年、日本は高度成長の真っ只中。繁栄の時代に入ったにもかかわらず、日本映画界は早くも低迷期に入ろうとしていました。アメリカでもその頃、ハリウッドの映画産業界が、次々と他の産業に身売りしていた時代でした。

ゴダールさんとの出逢いに象徴される私の映画青春史……サングラスごしの出逢いのように、いままたセピア色の記憶になりつつあるのです。

  ジャン=リュック・ゴダール監督  ご冥福をお祈りいたします。