夏が似合う女性(ひと)

梅雨も明けて、まもなく灼熱の太陽がジリジリと肌を焦がす季節をむかえると、森瑤子さんを思い出します。

彼女は私が知っている女性のなかで、誰よりも夏が似合う女性でした。1993年7月6日。52歳という若さで天に召されました。四谷の教会で静かに笑みをうかべた瑤子さんとのお別れ・・・夏でした。同じ季節、私は森の中であなたを想っています。

それは、お知り合いになってまだ間もない頃に、与論島の彼女の別荘にお邪魔したときの印象があまりに強烈だったせいかもしれません。

「浜さん、ヨロンに遊びに来ない?裸で泳がせてあげる」

仕事を通じての出会いだったこともあり、まだお友達と呼べるほどの親しい会話も交わしていない瑤子さんから突然そんなお誘いを受けて、私は心底びっくりし、長いあいだ憧れ続けていた上級生から声をかけられた女学生のように、半ば緊張しながら素直にうなずいていたのです。

白い珊瑚礁に囲まれて熱帯魚の形をした、あまりにもエキゾチックな匂いのする与論島。サトウキビ畑の真ん中にある空港に降り立つと、真っ白なつば広の帽子を小粋にかぶり、目のさめるような原色のサマードレスを着た瑤子さんが待っていてくれました。

「この島は川がないでしょう。だから海が汚れず、きれいなままなの。娘たちにこの海を見せてやりたくて・・・」私は瑤子さんの言葉を聞きながら、母親の思いというものは誰でもいつも同じなのだなと感じ、急に彼女がそれまでよりもとても身近な存在に思えたのでした。実際私の知る限り、森瑤子さんほど妻として母親としての役目を完璧にこなしていた女性に会ったことがありません。

長いあいだの専業主婦の時を経て、突然作家になられ、一躍有名人になられて、そして仕事がとても忙しかったことで、瑤子さんは絶えずご主人や娘さんたちに対して後ろめたさのようなものを抱え続けていらっしゃるようでした。

書かれている小説の内容や、お洒落で粋な外見の風貌とは裏腹に、娘たちにとっての良き母親であろうとする日本女性そのものの森瑤子さんがいつも居て、仕事も家庭も、どちらも絶対におろそかにすることのない女性でした。

そう、都会の男と女の愛と別れを乾いた視線で書き続けた森瑤子という作家は、個人に戻ればどこまでも子どもたちのことを思う、「母性のひと」であったのです。

私は四十代の中頃まで、そんな瑤子さんに対しても、自分自身の心の内の辛さや痛さなど他人(ひと)に打ち明けることのできない女でした。十代の頃から社会に出て働き続けてきたせいか、他人に甘えることのとても下手な人間だったのです。心にどんなに辛いことがあったとしても、涙を流すのはひとりになってから。肩肘をはって生きてきたような気がします。

そんな私が、「花織の記」というエッセー集を出版したとき、あとがきを瑤子さんにお願いしました。あの頃の私はさまざまな悩みを抱えていて、スランプ状態に陥っていたのです。

そんなある夜更け、突然瑤子さんからお電話がかかりました。「あとがきができたからいまから送るわね」という優しいお声の後に、FAXの原稿が流れてきたのです。

「私は浜美枝さんの母の顔を見たことがない。同様に妻の顔も見ていない、(中略)私の知っている美枝さんは、一人の素顔の女すらでもなく、仕事をしている時のハマミエその人だけだ。けれども仕事をとってハマミエを考えられるだろうか?今ある彼女を創ってきたのは、彼女の仕事であり、今日まで出逢ってきた何万人もの人々との出逢いである。そうして生きて来ながら、彼女はたえず自分自身に疑問を投げかけ、その自問に答えることによって、今日あるのだと思う。」

さらに瑤子さんは、妻であり、母親であり、仕事を持つ女性の苦悩をご自身の体験に重ねて書かれた後にこのようにしめくくってくださったのです。

「時に私は、講演会などで人前で喋ると、身も心も空になり、魂の抜けた人のように茫然自失してしまうことがある。あるいは一冊の長編を書き上げた直後の虚脱感の中に取り残されてしまうことがある。そんな時私が渇望するのは、ひたすら慰めに満ちた暖かい他人の腕。その腕でしっかりと抱きしめてもらえたらどんなに心の泡立ちがしずまるだろうかという思い。けれども、そのように慰めに満ちた腕などどこにも存在しないのだ。そこで私は自分自身の腕を前で交錯して自分自身で抱きしめて、その場に立ちすくんでしまうのだ。

おそらく、美枝さんも、しばしばそのように自分で自分を抱きしめてきたのではないかと、私は想像する。今度もし、そんな場面にいきあたったら、美枝さん、私があなたを抱きしめてあげる。もしそういう場面にいきあたったら———–」

ひとり温かな涙を流し続けたあの夜。

その瑤子さんがそのわずか二年後にこの世から消えてしまわれるなんて、どうして想像することができたでしょうか・・・・・?

そうね、時には弱音をはいたりすることが、恥ずかしいことではないと貴女が教えてくださいました。

心が落ち着かない日々が続いておりますが、こうして夕暮れ時に瑤子さんを想うとき、心があたたかくなります。いつまでも語り続けたくなります。

芦ノ湖の青春

早朝、雨の降らないかぎりウォーキングを楽しむ毎日です。杉の木立を抜け、芦ノ湖に向かいます。人とはほとんど出会わず、樹木の濃い匂いや風を感じ”幸せ”と、つぶやくことがおおいです。釣り人の背中越しに見る芦ノ湖。

時には正面に美しい霊峰富士を、時には霧に包まれた湖を、穏やかな湖面、荒波が立つ湖面、様々な光景が広がります。

湖の淵に腰掛け湖を見つめていたら青春時代の私に出逢いました。陽がようやく西に傾きはじめた時刻。目の前にひろがる芦ノ湖の湖面は先刻までより更にきらきらと、まるで宝石箱をひっくりかえしたように金色の輝きを放っています。

その眩しさにうっとりと見とれていると、美しい銀色の光の放射のなかを一艙のモーターボートが白い水しぶき上げて行き、その後ろを水すましが水面の上を跳ねるような水上スキーの男の姿が続きます。

考えてみれば、芦ノ湖の水上スキーが私を箱根に住まわせることになったその出発点だったかもしれないな、と水着の男性のダイナミックな滑りを見ながら、私の心はいつしか私自身の夏の青春の日々へと返ります。

待ちに待った十八歳、私は月々のお給料を長いあいだかけてためたお金で運転免許証を取り、そして念願の中古車を買いました。仕事に疲れて戻った部屋で、私は深夜になっても何故か気持ちが昂ぶって、なかなか眠りにつくことができません。

そんな夜は買ったばかりの車に乗って夜の第三京浜を横浜まで走ったり、都心の見知らぬ街を、ただあてなどなくドライブしたりして時を過ごすのが好きでした。また、たまたまいただいた休みの日には、湘南の海や箱根の山のなかまで足をのばして行くことも、楽しみのひとつでした。

車から降りてひとり散歩をしていた芦ノ湖湖畔、夕暮れどきの朱く染まった空と水の上、白い水着姿の女性が気持よさそうに水上スキーに興じている姿が目に止まりました。なんてすてきなの!・・・私もやってみたい・・・生まれてはじめて見る女性の水上スキーは力強く颯爽としていて、たちまち私を夢中にさせました。

中学の頃、バスケット・ボールをやっていた私は、社会に出てからスポーツをする機会がなくなってしまったことがとても不満でした。冬になったらスキーをやりたいと思っていたところ、日活の石原裕次郎さんがスキー場で骨折されるという事故が起きたのです。以来、会社から俳優と女優にスキーをやってはいけないという禁止令も出て、私の欲求不満は頂点に達していました。

「スキーは禁止でも水上スキーは駄目とは言われてないわ・・・」私は、芦ノ湖で白い水着の女性を見たその日のうちに、自分も水上スキーを始める決心をしていたのでした。

それからは休みになるとかならず箱根に出かけては、湖畔のボート屋さんでボート洗いのアルバイトをさせて貰いながら、夕方の三十分、一時間と夢中になって水上スキーを習いました。

そうして大好きな水上スキーがしたくて芦ノ湖に通い続けているうちに、お知り合いの人たちもたくさんできて、箱根という土地が私にとっていちばん心安らぐ場所となり、後年木の家を持とうと考えたとき何の違和感もなく「箱根に住もう」ということになったのです。その山の中で4人の子どもが育ちました。

湖の上に夜の帳がおちはじめるころワイン片手に静かに湖面を見ながら、私の青春時代に想いを馳せている私。

コロナ禍は自分自身と対峙する時間でもあるのですね。

苔庭の美しい美術館

日々落ち着かないなか、遠出の旅も控え、なるべく近くの”小さな旅”を楽しんでおります。3密をさけひとり旅です。幸せなことに箱根の山の中には何度もブログには書きましたが、美術館がいくつもあり、思いたったらすぐに行けることは、このような環境下ではありがたいと思っております。

最近、苔が静かなブームになっていて、お部屋でカジュアルに楽しむ方もふえているとか。わが家も箱根という場所がら苔にとっては育ちやすい(自生)環境なので、庭や石垣にも生えています。

苔寺で有名な京都・西芳寺は境内一面をおおう苔の美しさから「苔寺」として有名ですね。私はこの梅雨の時期に何度か訪ねました。

先日、朝から霧雨の日、苔庭の美しい「箱根美術館」に行ってまいりました。霧におおわれ苔もしっとりと深緑。目にとても優しいのです。

美術館は強羅の斜面を活用し海抜630mにある美術館です。箱根湯本駅から登山電車の終点、強羅駅から歩いて15分ほどですが、上り坂がけっこうキツイので登山ケーブルで一駅「公園上」下車。徒歩2分で「箱根美術館」です。ちょっとした”旅気分”を味わえます。

エントランスを入ると苔とモミジに彩られた「苔庭」が目に入ってきます。

一朝一夕にはこのような庭は難しいでしょうね。モミジが紅葉する頃は人でいっぱいです。

まずは、茶室・真和亭でお庭を眺めながら一服のお茶をいただきました。そして庭園を散策してから美術館へ。

(フラッシュ無しのみ撮影可)

日本、中国、韓国などの”中世のやきもの”を中心に、縄文時代から江戸時代までの瀬戸や備前の壷、古伊万里など等、充実しております。のんびり半日を過ごし強羅からバスで帰路につきました。

嬉しいお知らせがあります。2019年台風で線路滑落後、工事が終了し長期間運休していた箱根登山電車が箱根湯本駅~強羅間で7月23日に運行が再開されます。

箱根山の風景には登山電車はなくてはならない存在です。
スイッチバックを繰り返し登る姿は愛しさを感じます。

どうぞ、のんびり登山電車に乗り、”小さな旅”におでかけくださいませ。

美術館公式サイト
http://www.moaart.or.jp/hakone/

トラックドライバーにも言わせて

この度豪雨で甚大な被害に見舞われた九州はじめ多くの方々にお見舞い申し上げるとともに亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。球磨川流域、筑後川流域、飛騨川流域などでは氾濫が発生し、あの美しい風景が一変してしまいました。何度も訪れた街もございます。これ以上の被害が広がることのないよう祈るばかりです。

その豪雨の中でもトラックは走り続けています。

日本の貨物輸送の9割以上を担うトラックは「国の血液」。そうならば「道路」は「国」という「体」の隅々に張り巡らされた「血管」で「荷物」はその血液が血管を通して運ぶ「栄養」。

こうおっしゃるのは自ら大型自動車一種免許を取得し、11年間ハンドルを握り片道500キロをピストン輸送するなど、トラックドライバーとして活躍し会社経営もなさっていらした、橋本愛喜さんです。

お父様が経営していた工場を、病に倒れたあとに引き継ぎ大型トラックの運転士として活動している中で、あれほど日本の物流を第一線で支える配送ドライバーの現状を世間の人にはあまり知られていない・・・そんな思いで書かれたのが「ドライバーにも言わせて」(新潮新書)です。

大学卒業後はニューヨークへ歌の勉強のために留学する予定を取りやめ工場に入社。その後、10数年してから、工場は閉鎖し、目的だったニューヨーク留学を経験し、現在はフリーのライターとして活躍。労働問題、災害対策、差別など幅広いテーマで執筆しています。

今回の本「ドライバーにも言わせて」は全国のドライバーさんたちが、いかに厳しい環境で働いているかがわかる一冊です。その現状から日本が抱える問題点も明らかになっています。電話ではありましたがラジオでじっくりお話を伺いました。

私も箱根に住んでおりますので、山を上り下りする時にトラックとのお付き合いは多いです。荷物が重くてのノロノロ運転かと思っていたらそれだけではなく、大きくあいた車間は荷崩れをさけるための距離であったり、休憩中にエンジンを切らない理由など等。ドライバーさんが心身ともに疲弊するのは「荷主」とのやりとりだったり。

私たちの日常生活での「宅配」などはもう欠かせませんが「再配達」や「時間指定」などあたり前のように思っているところがありますが、それらは無料で行なわれているにもかかわらず、受取人から数分遅れるだけで「何のための時間指定だ」というクレームもあるそうです。便利になった現在、「おせち」も全国から取り寄せられます。

私たちの家庭に届く「要冷蔵」「要冷凍」の荷物が「冷蔵冷凍庫」と呼ばれるトラックです。休憩時路上でハンドルに足上げ姿は過酷な労働環境の表れで、足や下半身の血流が悪くなり、できた血液の塊(血栓)が肺の血管に詰まる病気で呼吸困難になる場合もあるそうです。

私は橋本さんに伺いました。「なぜ女性トラックドライバー」の数がふえないのですか?」と。やはり女性には過酷なのだそうです。「重い荷物の取り扱い」、「不規則で長い労働時間」、筋肉・体力のある男性のほうが有利になることが多いし、女性には、「結婚・出産」という問題もあります。

いずれにしても、コロナ問題が起きてからはさらにネットショップが普及した現在、多い時で1日200個を超える荷物を扱う中、ドライバーさんの高齢化の問題もあります。

お中元やお歳暮など、他の国にはない「贈り物」の習慣もあると橋本さんは語られます。「トラック野郎」は情に厚く、仲間意識は強く、眠気覚ましに話しに付き合ってくれることもあるとか。それぞれが「過酷な労働環境の中で、自分たちは日本の経済活動には欠かせない仕事をしている」という強い誇りを持って日本各地を走っています。と語られます。

配送の需要が急増した現代社会。私たち消費者はお互いを思いやり、実情を知り、より良い環境が生み出せたらいいですね。
橋本愛喜さんのお話をぜひお聴きください。

文化放送 「浜 美枝の いつかあなたと」
7月19日放送 日曜9時半~10時

ロバート・キャンベルさん

私は美しい日本語でお話しをされるロバート・キャンベルさんのファンです。

先日、新聞に彼の記事が掲載されておりました。
「日本古典と感染症」について語られておりました。
そして国文学研究資料館館長でもあるキャンベルさんが同館公式サイトで動画を配信していることを知りました。

さっそく拝見すると古典には感染症と向き合った長い歴史が刻まれているという。歴史ある膨大な資料に囲まれた書庫の中で、語るキャンベルさんのお話は大変興味深く、これはラジオのゲストにお招きしお話をお伺いしたいと思いました。電話でのご出演でしたが、丁寧にご説明くださいました。

国文学研究資料館館長のロバート・キャンベルさんはニューヨーク生まれ。ハーバード大学大学院 東アジア言語文化学科・博士課程終了後、1985年、九州大学文学部研究生として来日。

近世・近代日本文学が専門で、江戸時代の終わりから明治の前半の漢文学に関連の深い文芸ジャンル、芸術、メディア、思想などに関心を寄せています。

近代医学が発達していなかった江戸時代の人が感染症とどのように向き合っていたのか。お互いを支えあっていたのか。幕末の1858年、コレラが流行しました。「頃痢(ころり)流行記」という書物は木版の多色刷りで、江戸の人はたくさんの人が亡くなって遺体の処理が順番待ちになっている様子を「直視」し、厳しい状況を見据え、お互いを支えあおうとしていたそうです。

そして、戯作者の式亭三馬の「麻疹戯言(ましんきげん)」には笑いで災いを浄化する様子が描かれている。皆んなで書物を通して情報を共有し、不安の中、「自分は一人ではない」という気持になったそうです。

今回のコロナ禍は様々なメディアが情報過多と思えるほど報道が多いように私には思えます。不安にもなります。『お互いを支えあう』ことの大切さを日本古典から学べます。

コロナ収束後の社会について、またもし私たちの子孫が100年後に今回のコロナ禍を調べたり、新たな感染症から立ち上がるために動きだしたら、キャンベルさんはどんな言葉をかけますか?とも伺いました。

私の個人的な気持ですがウイルスも自然の一部です。闘うのではなく自然を畏敬し、共存することを知っていた先人に学ぶことが多いのではないでしょうか。太陽が出たら手を合わせ、しっかり太陽を浴びましょう。

ロバートキャンベルさんの動画は下記です。

放送 文化放送 「浜 美枝のいつかあなたと」
7月12日(日曜) 9時半~10時まで