秋の信州

私は一時期、何かに憑かれたように長野に凝っていた時期がありました。私には、元来、ある「地」に憑かれるというちょっと不思議な習性があって、そういう気持になるともう矢も楯もたまらず、そこに行かなければ気がすまなくなるのです。長野もそうでした。

長野県下のロードマップは東京より詳しいくらい。夜中に子供を寝かせてから車を飛ばす・・・。今思っても、よくあんなエネルギーがあったなと思うほどでした。

朝日がのぼるころ長野について、そのままただ、また帰ってきたり、ときにはお休みをとって、車と私はひとつになって山野をかけめぐるのでした。林道、農道、さまざまな小径にも分け入り、とにかく走り続けた時期がありました。

軽井沢を、追分を走るうちに、とても好きな道に出会いました。秋の始まりの信州は、私の大好きな色合いをしています。柔らかなモスグリーン、ベイジュ、柿色。日本の秋の色彩の美しさのすべてが目の前に広がります。みとれることしばし、私はひとり野に立ちつぶやきます。「日本ってすてき!」

ある一角が気になりだしました。そこに、とても日本とは思えない風景が紛れ込んでいるのに気がつきました。その感じは微妙で、木立の立ち並び方から、畑のたたずまい、畑の奥のほうに建つ家の様子・・・。

すべてが、ヨーロッパの田舎を思わせるのです。どんな方が住んでいらっしゃるのかしら。何をしている方?と、外から何度も畑を覗きながら気になりだしました。佐久の町が眼下に一望できて、それは気持がいいんです。

それが今は亡き村田ユリさんとの出逢いです。後に知ったことですが、ユリさんは知る人ぞ知る植物の研究家であり、マスコミにはお出にならないけれど、いろんな分野の方から慕われている大変な方だと後になって知ったのです。

どういうわけかユリさんにお会いした瞬間、私はこの方をずっと知っていたような気がしました。年中お会いしているわけではありません。地方から、私が召し上がっていただきたいと思った物を少し送らせていただいたり。そんなお付き合いが続きました。家に帰って、机の上にユリさんからのお手紙が置いてあるのをみたときには、ラブレターをもらったときよりも喜んでいる自分に気がつきます。

ときどきお邪魔して、お酒を飲みながらお話しを伺うと、大変な経験をしていらっしゃることが少しずつわかってきました。ドイツをはじめ、ヨーロッパに永くいらっしゃったとのこと。戦中、戦後の大変な時代を背筋を伸ばして生きてきた方なのです。

あるとき、疲れ果てて夜遅く10時頃にユリさんの家に着いたことがありました。そのときユリさんは、ご自分の庭で採れたハーブを木綿の袋につめ、それをお風呂に入れて「気持いいわよ、お入りなさい」と進めてくれました。お風呂の中にはお庭にある、ゆっくり休めて体が温まり、気持ちよくなるもの全部が集まっているようでした。そしてお風呂の後、ベッドに入ると枕の下には、さっきととは違う種類のハーブがしのばせてありました。

その細やかな心遣いが嬉しくて、涙が出るほど感激しました。

そのユリさんの畑で黙々と土に触れていらしたのが玉村豊男さんの奥さま、抄恵子さん。

寒い夜、暖炉に薪をくべ、暖かい火に一緒にあたりながら、ワインを飲んだり、ウイスキーを飲んだり、当時はまだご近所に住む玉村豊男さんご夫妻とご一緒し、豊男さんが腕を奮ってくださった料理をいただく機会にも恵まれました。

”ご縁って不思議なもの”ですね。

そして、後にご夫妻は長野県東御(とうみ)市の里山に移り住み、豊男さんが植えた500本の苗木は、いまや11ヘクタールの葡萄畑を持ちワインを作っておられます。ワイナリー経営の先駆者的な存在です。

ヴィラデストガーデンファームアンドワイナリー

カフェで美味しいランチをいただきました。今回の長野の旅は友人ご夫妻とご一緒で、ドライブの旅でした。5人で思う存分おしゃべりをいたしました。庭には抄恵子さんたちの丹精込めた花々が美しく咲き、ふっとユリさんのことを思い出しておりました。このお庭をユリさんがご覧になったらさぞ喜ばれたことでしょう。

帰りにショップで国際サミットで提供された、「ヴィニュロンズリザーブ、メルロー、シャルドネ」を抱え、友人の運転してくださる車窓から秋の景色を、そして、何度も「道の駅」で地元の野菜や手づくりの菓子や花などをどっさり車に積んで家路に着きました。

普段はひとり旅。列車での移動ですからお買い物はほとんどしませんけれど、日本の豊かさ、生産者の方々の思いを実感できた旅でもありました。

車窓からは雄大な霊峰富士が美しく、玉村ご夫妻と2年ぶりの長野での再会。やはり、人と出逢い、ふれあい、めぐり会えたことの幸せを心からかみしめた”秋の信州の旅”でした。

樋口一葉展 ~ わが詩は人のいのちとなりぬべき

僅か24年の生涯を足早に駆け抜けた作家。その息遣いに触れたくて、横浜に向かいました。港の見える丘公園にある神奈川近代文学館では、凛とした表情の一葉が出迎えてくれました。

「樋口一葉展  わが詩は人のいのちとなりぬべき」

来年、生誕150年となる彼女の特別展が開かれています。照明を少し落とした会場入り口の左側には、父親から贈り物である文机が置いてありました。紫檀で作られ、梅花の透かしが彫りうっすらと見える机は、独特の空気感と文化の匂いを漂わせていました。右側には、羽織を着たときに布地を継ぎ合わせたのがわからないよう仕立てられた着物が、ひっそりと飾られていました。

家計の浮沈を乗り越えた彼女の鮮烈な意志と生き方が、入り口から滲み出ていました。

そして今回、私のもう一つのお目当ては日記でした。子供の頃から読書好きで利発だったという彼女の日記に、以前からとても魅せられていました。一度は直筆の文字をこの目で見てみたい!日記から一葉の心模様を知りたかったのです。

ようやく念願が叶いました。とても流麗な文字は部分的には読み取りにくいところもありましたが、見惚れてしまう、やはり美しいものでした。14歳から書き始めたという日記は、日々の行動の記録に留まりませんでした。

自らの心に「おもひあまりたる」ことを、率直に綴っていました。そして、男性上位の社会で感じる悔しさや失望を繰り返し吐露しているのです。

一葉の短い人生は、波乱万丈と言ってもいいでしょう。士族にまで取り立てられた父親が事業に失敗し、一葉が17歳の時に亡くなります。一家の柱となった一葉は、駄菓子店を切り盛りしながら苦しい生活に耐えるのです。

しかし、一葉が文学に対する情熱を失うことは全くありませんでした。筆一本で家族を支える覚悟を決めた一葉は店を閉じ、息つく間もなく創作活動に集中します。”奇跡の14か月”という言葉が残っています。

明治27年12月に22歳で「大つごもり」を発表。その後、「たけくらべ」、「にごりえ」を書き上げました。この仕事ぶりに驚きを隠さなかったのが、泉鏡花、幸田露伴ら文壇の大御所たちでした。森鴎外などは、「この人に、まことの詩人という称を於くることを惜しまない」と絶賛しました。

その後、一葉は「十三夜」を完成させ、明治29年11月に亡くなりました。肺結核が進行していたのです。24歳6ヶ月でした。

会場を出て、深呼吸しました。秋麗(あきうらら)、爽やかで穏やかで、そして少し眩しい秋晴れの一日でした。

夭折した一葉の無念を思いつつ、経済的困窮や、時代の流れに抗いながら、懸命に生き抜いた彼女の意志と振る舞いに、秋晴れ以上の眩しさを感じたのです。

神奈川近代文学館 公式サイト
https://www.kanabun.or.jp/exhibition/15455/

 

映画「MINAMATAーミナマタ」

ともすると、時の流れは知識や記憶の輪郭を薄れさせてしまう。2時間近くの映画を見ながら、そんな思いが去来しました。

アメリカの報道カメラマン、ユージン・スミスの苦悩と使命感を描いた「MINAMATA ミナマタ」。スクリーンには一人の男性が挫折と再生の中で、取材対象の歴史的意義と自らの社会的責任を見つめ直し、ひたすら前に進もうとする静かな熱気が溢れていました。

この映画のテーマは、”水俣病はまだ終わっていない”です。

水俣病は化学肥料会社・チッソが工場排水を熊本県の不知火海に放出したことで発生しました。沿岸の住民は汚染された魚介類を食べ、重い神経疾患を抱える患者が続出しました。当初、原因不明の病とも言われたこの公害病は、今から65年前に水俣病と公式に確認されました。その後、患者は損害賠償の訴えを起こし、現在も裁判が続いています。

主人公、ユージン・スミスが水俣を訪れたのは1971年でした。それまでの彼は、フォト・ジャーナリストとして歴史に残る多くの作品を発表し、40歳になったばかりで、「世界の10大写真家」に選ばれるほどの実績を残しました。

しかし、50代半ばに差し掛かった彼は、失意の中、酒浸りの日々を送っていたのです。そんな時、後に妻となるアイリーン・美緒子さんからの情報などで、水俣の悲惨な実態を初めて知ることになります。

「この現実を、世界に伝えなければ」。眠っていたジャーナリスト魂を蘇らせた彼は、アイリーンさんを伴い水俣に入ります。以後3年にわたる現地での取材活動で、彼は患者やその家族に情理を尽くした対応を続け、強い信頼を得ていきます。そして、公害を発生させた企業の社長に対しても、捨て身の取材を続けたのです。

そのユージン・スミスを演じたのはハリウッド俳優、ジョニー・デップでした。しかしこの作品では、役者が”演じる”という言葉は、ピンと来ませんでした。”なり切っている”とも違います。スミスがデップに乗り移っている”気配”を強く感じたのです。もしかしたら、”憑依”という言葉が当たっているかもしれません。

この作品はドキュメンタリーとは異なります。しかし冒頭、「史実に基づいた物語です」と明示したことは、デップの並々ならぬ決意と自信の表れだったと思います。スクリーンのスミスを見つめながら、デップを想起したことは全くありませんでした。これは決して失礼な表現ではなく、二人が完全に一体化していた証でもあるともいえます。

この作品に登場する日本人俳優の存在は当然、大きいものがありました。その代表は真田広之さんでした。チッソと闘う活動家の役でしたが、自分の撮影シーンがなくとも現場に来てアドバイスや手伝いを自発的に続け、デップを始め周囲に強い感銘を与えたということです。

デップは語っています。「MINAMATAの歴史は語り継がねばならない。大勢の人が後に続いてくれるだろう」。この言葉は、おそらくスミスとデップ、二人の共同宣言のようにも聞こえました。

この作品のエンドロールは強烈です。現在も発生している世界各地の公害問題が次々と表示されました。アジア、アメリカ、欧州、アフリカ。その数は20ヵ所を超えており、日本の福島第一原発の事故も含まれています。

2時間の上映時間は決して長くありませんでした。

薄らいでいた自身の記憶を鮮明にし、より理解を深めるための、短すぎる貴重な時間でした。

映画公式サイト
https://longride.jp/minamata/

わたしの秋

私はいつも「今」を起点にして少し前はどうだったのか、ずーと前は?それよりもっと昔はどうだったのか、と「今」の根っこを追い求め旅を続けてきました。

ダムの底に沈む集落や、手仕事をこつこつしているお婆ちゃんを訪ね、農村や山奥の集落の人々の暮らしの歴史や文化を見て回るうちに、人間という存在の原初のエネルギーと高度な文化性、知恵と本能、生と死、伝承のうつろいなどにふれることができました。

そこには人の生きてきた連綿たる歴史があり、そして未来を見るヒントがかくれています。

集落を歩いていると爽やかな秋風に揺れる穂は、野山を黄褐色に染め、日の光に輝く美しさといったら、ため息がでます。でも日が陰り夕暮れ時には寂しい風情へと変化します。

そんな美しい日本の秋をたくさん旅し、たくさんのことを学んできました。『野にある花のように生きたい』と想ったのもそんな秋の季節だったと記憶しています。秋の花には人生を重ねることができます。

たとえば”野アザミ”。

どの角度からみても野あざみは、花弁をとがらせ、外に向って虚勢を張っています。本当は誰よりも弱い自分だから、角のようなとんがりで、自分を抱いているのです。小さな頃の私は、まるでいきり立った野あざみのようでした。自分というものがまだどういう人間なのかわからない頃、爪の先から頭のてっぺんまで、ツンツンにとがらせて、私自身を防御していたような気がします。

さすがに70代後半になった私は昔々ほど強く元気なトゲではなくなりました。

先日思いたって仙石原のススキ草原へ行ってみました。少し早めだったので銀色にキラキラと輝いていて草原の遊歩道が真っ直ぐに伸び、小雨降るなか秋の匂いが心地よかったです。まもなく黄金色の穂が風にゆれて本格的な山の秋をむかえます。このような見事なススキは、3月中旬~下旬には自然体系を守るために山焼きが行なわれます。

そして、歩いて湿生花園へ。私の大好きなところです。四季折々にここでしか見られない風景と湿原の可憐な花々を楽しめます。  落葉広葉樹林区ではコナラやケヤキなど雑木林とその中に咲く草花。低層湿原区、ヌマガヤ草原区、高山に咲く花々、箱根仙石原湿原区、湿生林区など、ほとんど人もいなく秋の花が楚々と咲いていました。

”春の七草”は七草粥。”秋の七草”は花の美しさを愛でる。どちらも好きです。
ホトトギス・エゾリンドウ・ワレモコウ・アサマフウロ・オミナエシ・ヤマハギ・マツムシソウ・・・そうそう、ホトトギスにこんな種類が豊富だったと初めて知りました。

どうぞ秋の草花をお楽しみください。そして秋の美しさが際立つ時期、”秋日和”には箱根にお越しくださいませ。

箱根湿生花園公式サイト
https://hakone-shisseikaen.com/

中原淳一さん

この一ヶ月はイギリスに住む息子家族の孫の”絵本”を選ぶのを楽しみました。

わが子が幼いころも、お誕生日のプレゼントは絵本でした。成長につれ内容も絵本から本に変わり4人の子ども達の成長にあわせての本選びでした。今はイギリスの孫2人の本選びです。お誕生日が近づく1ヶ月くらい前からママに今どんなことに興味をもっているのかをさり気なく聞き、喜びそうな本や絵本選びです。幸せを感じます。

なぜって、私が幼いころは絵本は憧れでした。家の事情で本を買ってもらえるような環境ではありませんでしたから、本屋さんに並ぶ絵本を眺め、いつか自分で本が買えるようになったら”思いっきり買おう”と思い、小学生の頃から図書館通いをしていました。

でも、図書館にはない私の大好きな画集。『中原淳一画集』

そう、中原淳一さんの絵が幼い頃の憧れでした。雑誌「ひまわり」や「それいゆ」表誌を眺めているだけで内容を読むことはできませんでした。

中学生になってお菓子屋さんでアルバイトをして最初に手にしたのが雑誌「ひまわり」でした。表誌の少女の美しさはもちろんのこと、美しい花や生活まわりの全てに虜になりました。

母が働いていましたから家事は私の役割。貧しくても、辛くても、中原先生の愛に包まれて、幼い私は頑張れたし、幸せを感じることができました。女優になり、働くようになってからは「それいゆ」も「ひまわり」も画集もそろえることができました。展覧会があると仕事の合間をぬって「中原淳一展」に通いました。

昭和21年に「それいゆ」が発刊され毎号、爆発的に売れ、全国に中原フアンが広がりました。私も生前、女優になりたての頃に一度だけお目にかからせていただきましたが、憧れの先生は雲の上の存在でした。先生のお描きになった挿絵はすべて好きで、さまざまなお洒落のヒントを本からいただいたものです。

お会いしたときに厚かましくも画集を持参し、サインを頂戴しました。私の”宝もの”です。そして、展覧会で改めて、以前は気づかなかった中原先生の文章に素敵な人間哲学があることに気づきました。そんな文章をご紹介いたしますね。

「愛すること」  中原淳一

女性は愛情深い人間であって欲しいのです。朝食の支度をするのなら、その朝食を食べてくれる人の一人一人に愛情をこめて作って欲しいのです。窓を開けたら新鮮な空気を胸いっぱいに吸って、幸せを感じ、窓辺の植木鉢にも愛情をこめて水を注ぎたいし、掃除をするならそこに住む人はもちろん家具、柱、壁にも愛情をこめられる人であって欲しいのです。

世の中がどんなにめまぐるしくなっても、そんな悠長なことは言っていられないなんて言わないでください。生きている限り、愛情深い女性でいてください。そういうことを知っている女性が必要でなくなることは、ないはずです。

ファッションだけではなく、暮らし、そして生きること全般に美を追求されてきた中原先生の、心底、思うことがこの一文に現れているのだと思います。「それいゆ」や「ひまわり」はまさに女性にありとあらゆる「暮らしの技術」を教えていることに気づきました。「愛情深い女性でいてください」このフレーズが心にのこります。

世の中はすっかり変わりました。でも、私は幼いころに中原先生の世界を知り、大人になってからもその美しさに魅かれ心の中にずっとその想いを抱き続けていられることはナント幸せなことでしょうか。