八ヶ岳・夢宇谷へ。

早春のある日、箱根から山中湖、河口湖を抜けて
八ヶ岳に行ってまいりました。
一面の菜の花畑が広がる大地。
足もとで咲く可憐な菫。春の息吹を感じつつの小さな旅。

森を抜けると私の大好きな「夢宇谷(むうだに)」につきます。
夢宇谷・・・とは夢の広がる谷、という意味でつけられたそうです。
オーナーは世界中をエネギィッシュに飛び回っている幸義明さん。
森を切り拓き、自ら創作場を造り、そして、蒐集した骨董や世界の
作品がところ狭しと飾られています。

今回はイスタンブールから届いた
「アナトリアン・キリム・パッチワーク」を見たくてでかけました。
幸さんもトルコのめずらしいこの絨毯が好きで自ら選んできたそうです。
アナトリア地方のキリムのパッチワーク。
オールド絨毯を切り取り、パッチワークしてつくられたカーペットです。
パッチワークですから、造り手のセンスで作品が変わります。
素敵な色づかい、風合い、トルコならではのセンスが魅力的でした。
帰り道、桜が舞い散り、春風とともに家路につきました。
夢宇谷 Weekends Gallery 「MUU」
山梨県北杜市大泉
TEl:0551-38-0061
ご興味のある方はお問い合わせください。

天草のスーパースマイルを訪ねる旅

熊本県天草に行ってまいりました。

90歳を迎えた味噌名人の横山さん。
84歳の野崎さん。
そして、惣菜一筋笑顔のチャーミングな吉永さんも80代。
皆さん天草にお住まいです。
長野から、宮城から、東京、岐阜とそして熊本・天草の方々。
総勢30名ちかくの集まりでした。
皆さん、持ち寄りで美味しい・それはそれは美味ばかりの手作りの料理。
採れたての魚や貝などテーブルに溢れるほどのお料理でした。

30年ほど前に「これからの農を支えるのは女性の力」と思い、農・食の問題を勉強してまいりました。
スタートしたときはには、個人的な興味だったものが、いつしか社会的な関心へと高まっていきました。農業を営む多くの人々と知り合い、生の声をたくさん耳にするようになりました。
30年の間に農業がどう変化したのか、生産者と消費者の両方から見ることができました。政府関係の各委員や農業関連のジャーナリストとも交流が生まれ、各種の研究会で勉強させて頂きました。
その間に、だんだんとわかってきたことがあります。
それは、農業が、何より、生命とかたく結ばれている、”母なる業”であること。
そして農業のあり方が、この国に住む人間の環境を左右すること。
農業こそが私たちの未来の鍵を握っているということ。
私は20年ほど前から、主に女性たちで、農山漁村に伝わる「食」をテーマに、生産者と都会の消費者とで交流しあう「食アメニティ活動」を行なっているのですが、ここに集う女性たちの素晴らしさにはいつも目を見張ります。
彼女たちは、自分の手で作った素材や山々から摘んできた素材を丹念に処理し、手間をかけて、素材を生かした味わいを生み出します。ひとつの無駄もなく、産物を使いきろういうその姿勢は見事なばかりです。
「グリーンツーリズム」を学ぶためにイギリス・ドイツ・イタリア・オーストリア・オランダ・フランス、そして韓国でも女性たちとの交流を深め学んできました。
そんな仲間が全国にいてくださいます。
真摯に生きてきた女性たちならではの知恵と工夫。
女性のおおらかさとたおやかさ、土に根ざした強さとでもいうのでしょうか。
合理性や効率を追求しがちな男性社会にはない、命を育む者が持つ底力ようなものを感じています。
今、日本は岐路にあります。
「農は命に直結している」・・・ことだけは忘れないでください。
バスの車窓から見た美しい海は忘れられません。
皆さん、ありがとうございました。
また伺いますね。
スパースマイルの皆さま・・・お元気で!

小浜市の伝統行事と食

先日、福井県若狭で「小浜市の伝統行事と食」というシンポジュームに招かれ伺ってきました。

「若狭のよもやま話」・・・と題して、民俗学者の神埼宣武さんとご一緒に若狭・小浜の伝統文化や食について興味深いお話が伺えました。
豊かな歴史と自然に育まれた若狭小浜は「御食国」「鯖街道」「社寺と町並み」など伝統行事が各地区で守られ、海・山・里が一体となって文化が守られている地域です。
私が若狭に通い始めたのはかれこれ20年ほど前でしょうか。
京都でもなく、北陸の各都市とも違うこの地、初めはワケもなく惹かれ、京都と金沢を行き来する間に何度も途中下車して寄り道してきた歴史があります。
四季折々の空の色。
海辺の町のおかずの匂い。
この地に釘づけになったのです。
旅人でありながら住み着くことを考えるほどこの地に惹かれてしまったのです。
特に夏の終わりの「地蔵盆」のことは人づてに聞いていました。
その頃に訪ねたい・・・と思いうかがったのが17年前です。
ゆく夏を惜しむかのように鉦や太鼓で送る子らの念仏が今も心に残ります。
「伝えなければすぐに途絶えてしまう」
そういう思いで守られてきた伝統行事です。
14歳までの少年たちが8人、小部隊を組んでとり行われます。
15歳からは青年会に入ります。
地蔵盆で男子は社会の仕組みを知るらしいです。
8月20日の地蔵洗いと厨子洗いに始まり旗づくり。行灯をつるす松をとりに山へ行く。子供たちだけでワッショイ、ワッショイととってくる。お堂建て。このお堂で子供たちは泊まります。
この行事は男の子が成長する大切な通過儀礼であり、それが伝統。
子どもの祭りだから大人は”手をださない”子ども任せ。
子供たちはカネやタイコではやしたて、町ゆく人、旅人を引きとめて、
そなえてもらうよう願います。
「な~もじぞう、な~もおけそこ」という不思議な呪文。
夏の終わりの祭りです。
見事な彩色地蔵は、やはり若狭小浜の独特の風習。
私は思うのです。
“都会を追い求めないで”・・・と。
日本の食文化は、ひとつの食材を「走り・旬・名残」とうつろいの中で楽しみます。季節の食材を大切に慈しんできました。
今の教育現場では「食育」という言葉が使われます。
もちろんそれも大切です。
でも・・・こうした日常の暮らしの中から子供たちが成長していくことを大人たちは大切にしてほしい・・・と感じた若狭の旅でした。

浜からの風を感じながら、お魚市場での買い物。
焼鯖づしを買いローカル線に乗り、帰路につきました。
(車中で焼鯖づしとビールで乾杯!)です。

映画『マリーゴールド・ホテルで会いましょう』

素敵な映画を観てきました。
「マリーゴールド・ホテルで会いましょう」 TOHOシネマズシャンテで。
インドが舞台です。
ごく普通に生きてきた熟年7人の男女が自分の意思でインドへと旅立ちます。
それぞれの事情を抱えてやって来た男女7人。乗り継ぎ便の欠航のため、満員の長距離バスで目的地ジャイプールにようやくたどり着きます。あふれる音・色彩のなかそこで待ち受けていた想像を超えた体験。
監督は「恋におちたシェイクスピア」(98)でアカデミー賞7部門獲得したジョン・マッデン、1949年英国ポーツマス生まれ。キャストは英国の名優たち。

中でもイブリンを演じるジュディ・デンチは最高です。
「恋におちたシェイクスピア」ではアカデミー賞助演女優賞を受賞していますし、「007シリーズ」で上司M役を演じています。

夫が亡くなり自分は無一文だと突然しらされ、少ない出費で長く暮らせそうな
可愛らしいホテルを目指してインド行きを決意するのですが、そこで待ち受けていたホテル・・・・とは。
すべて前向きに受け入れて挑戦していく姿に感動するのです。
主人公は”旅人”です。
「この国は感覚を刺激してくる」・・・と彼女は言います。
とても良くわかります。
私がインド通いを始めたのは10代終わりのころから約10年間でした。
パトナー、ナーランダー、ラージギル、ブッタガヤー、ベナレス、サルナート
おもにインドの北部を周っていました。長距離バスにのり、人で溢れる列車に乗り、ガンダーラや石仏など地方の像を訪ね歩き、終バスが来なくて村の家に泊めてもらったり・・・。
人なつこい人々。貧しくとも、逞しく、くったくない笑顔。
ガンジス河に朝日が昇るのをインドの人たちと拝み、沐浴の意味を考え若かった私に、「人が死ぬ」ことの意味を考えさせてくれました。

映画の舞台はデリーの少し下のジャイプールが舞台です。
ユネスコ世界遺産登録されている美しい・・・というより、エネルギーのかたまりのような街。華麗な寺院、色鮮やかなサリーが溢れる万華鏡のような街。
7名がインドに来て45日が過ぎたころ、それぞれの人生が輝きはじめた
時に突然終わりがきます。
ひとり一人の生きてきた人生。
選択はさまざまです。
私もこの年齢になってみて、この映画のもつ魅力が理解でき、感動し、生きる力をもらい、幸せについて考えました。
なんか・・・いいな~。
忘れかけていた胸の奥の奥のほうの切なさが心地よい映画でした。

18ひつじ《私たちの時代》

先日、36年続いてきた18年生まれのひつじ会で古希の集いが開催されました。53名の”ひつじたち”
事務局からこんなメッセージが配られました。
18ひつじ 《私たちの時代》
私たちは、太平洋戦争の最中、昭和18年ひつじの年に生まれました。
真珠湾攻撃の華々しい戦果の後、ミッドウエイ海戦に破れ、ガダルカナル島を攻略され、戦争の帰趨に暗雲が漂い始めた時期です。
その後、父は戦場に送られ、残された母と子は空襲の中を逃げまどいながらも終戦を迎えました。 外地で終戦を迎えた”18ひつじ”は更に引き上げという苦難を味わいました。
もちろん、私たちに戦争の記憶はありません。そして、戦後、日本のゼロから出発。貧困の時代から高度成長を経て、豊かな時代へ。日本の成長と私たちの成長は重なっています。生まれて70年、激動の時代を生き抜いた”18ひつじ”は本当に幸せ者だと思いませんか。
「18ひつじ古希の集い」
さまざまな職業の人の集まりです。
ファイティング原田さんは、エデル・ジョフレを破って世界バンタム級チャンピオンに。2階級制覇。彼が22歳の時。
私、浜美枝がイギリス映画「007は二度死ぬ」に出演したのは24歳の時。
昭和44年には東大紛争安田講堂崩落。
昭和45年大阪万博。
昭和47年あさま山荘事件・田中角栄列島改造論。沖縄日本復帰。
そして、昭和52年我々が34歳の時に「18ひつじ会」が発足しました。
昭和64年昭和天皇崩御。
ベルリンの壁崩壊。
そして、事務局の方が一人ひとりに生まれた日の新聞を用意してくれました。
私の生まれた日の毎日新聞には、ほとんどが戦争に関する記事でした。
この間、天に召された仲間もいます。
私が大好きだった女優・大地喜和子さんも。
みんなで献杯をしました。
戦争真っ只中にあって生まれた私たち。
でも、世界を見渡せば戦争は続いています。
逃げまどう子どもたちがいます。
どうぞ・・・平和な世界が訪れますように。


C・W・ニコルさん

20日(水)東京で「C・Wニコル来日50周年、アファン財団設立10周年」の記念パーティーが開催され、私は司会をつとめさせていただきました。

会場にはニコルさんの友人・知人・関係者、またアファンの森を応援してくださっている人たち、300名近い方々が全国から集まられました。
私がニコルさんと始めてお会いしたのは30年ほど前のことでしょうか。
対談をして、とても記憶に残るお話をしてくださいました。
“強くなりたかったら森へ行け”と小さな頃おばあさまに教えられたニコルさん。木と兄弟になるために木に抱きついてお願いしたそうです。
“兄弟になってくれ”と。
木の脈を感じ、木の声を聞いたそうです。
「耳をすますと、木が答えてくれますよ・・・木を抱くことは自分より強いものの存在を感じとることだった。」とおっしゃいます。座談会のときにうかがったお話です。そういう自然との接触が今日のニコルさんの心の基盤なのです。

彼が日本に住むと決めたのは、ひとえに自然の美しさ。
住んでみて分かったこと、住んできた歳月の中で急速に変化したことの多くがニコルさんの最初の思いや憧れを打ち砕くものでした。
“愛していればこそ、その破壊ぶりに噴りを感じる”と、当時語ってくださいました。
私にはよくわかるのです。
私も全国を歩いていて、壊されていく家々を何度も、何十回、いえ何百回と見てきましたから・・・。

パーティーで素敵なスピーチをしてくださった、アメリカ出身で日本文学と日本文化研究においては第一人者であり、3・11以降コロンビア大学退職後に日本国籍を取得されたドナルド・キーン氏のお話は、私たちが忘れかけている”日本の美”について語ってくださいました。そして、ニコルさんの現在の活動に賞賛の言葉を贈られました。

森づくりを始めて28年、長野県信濃町黒姫の荒廃した里山の再生活動を行なってきたアファンの森財団。
そのアファンの森をニコルさんと二人三脚でつくられた森のパートナー、松木信義さんが黒姫から苦手な都会の会場に駆けつけてくださいました。
松木さんは15歳から森で生きてこられた方です。
80歳になろうとしている松木さんは、引退して森を去りましたが、いつでも必要な時は駆けつけてくださるそうです。「松木さんほど森を知っている人は誰もいないのです」・・・とニコルさん。

そして、歌手の加藤登紀子さんはニコルさんと一緒に東松島で津波被害にあった学校を高台に移し「森の学校」づくりに協力し、パーティーで「鳴瀬未来中学校校歌」をお披露目してくださいました。

最後に「ニコルズバンド」の曲にのり、ニコルさんの素敵な歌声を聴きながら閉会いたしました。だれもが、名残惜しくなかなか会場を後にできませんでした。
22歳で日本の地を踏んでから50年。
アファンの森はこれから先、50年、100年経ち「たとえ自分はもういないとしても、将来に向けてなにか素晴らしいことが出来るはず森は未来だ」とニコルさんはおっしゃいます。
そうですね、将来の子供たちのために、私たちは今何をなすべきか・・・。
ニコルさん、ありがとう!!
そして、これからも宜しくお願いいたします。

「僕、72歳の赤鬼はもう年寄りです」な~んて言わないでくださいね。
人間として憧れています。ニコルさんの”木を抱く”生き方に。

生誕100周年記念 『中原淳一展』

日本橋三越本店・新館7階ギャラリーで18日(月)まで展覧会が開催されています。

「時を越えて魅了するモダン&チャーミング」
と書かれております。
戦前から戦後にかけて、ファッションデザイナー、人形作家、インテリアデザイナーなど多彩な才能を発揮した中原淳一。
展覧会があると、仕事の合間をぬってはよく見にゆきます。
今回も早速行ってまいりました。
昭和21年に「それいゆ」が発刊され毎号、爆発的に売れ、全国に中原フアンが広がりました。私も小さな頃から「それいゆ、ひまわり」のファンでした。でも、本屋さんで表紙を眺めているだけ・・・。だってとても高価な本でしたから、私には。
生前、女優になりたてのころにお目にかからせていただきましたが、憧れの先生は雲の上の存在でした。中原先生のお描きになった挿絵はすべて好きで、さまざまなおしゃれのヒントを本からいただいたものです。でも、あるとき展覧会で、改めて、以前は気づかなかった中原先生の文章に素敵な人間哲学がありました。
そんな文章をご紹介いたします。
『愛すること』     中原淳一
女性は愛情深い人間であって欲しいのです。
朝食の支度をするのなら、その朝食を食べてくれる人のひとり一人に愛情をこめて作って欲しいのです。
窓を開けたら新鮮な空気を胸いっぱいに吸って、幸せを感じ、窓辺の植木鉢にも愛情をこめて水を注ぎたいし、掃除をするならそこに住む人はもちろん家具、柱、壁にも愛情をこめられる人であって欲しいのです。
世の中がどんなにめまぐるしくなっても、そんな悠長なことは言っていられないなんて言わないでください。生きている限り、愛情深い女性でいてください。そういうことを知っている女性が必要でなくなることは、ないはずです。
飾とは、ファッションだけではなく、暮らし、そして生きること全般に美を追求されてきた中原先生の、心底、思うことがこの一文に現れているのだと思います。
「それいゆ」や「ひまわり」はまさに女性にありとあらゆる「暮らしの技術」を教えていることに気づきます。
「愛情深い女性でいてください」
このフレーズがこころにのこります。

【出典:中原淳一・若き日の名作選『中原淳一と少女の友』より】

山陰への旅・美の里コンクール

今回の旅は山陰地方です。
第8回「美の里づくりコンクール」現地調査です。
(財)農村開発企画委員会主催、農林水産省後援
全国から応募のあった20事例から書類審査を経て、上位6事例を決定します。どこも素晴らしい活動をなさっておられるので、甲乙つけがたいのですがその中から3事例に対して現地調査を行います。
審査基準は
1:美しい農山漁村の景観の総合的な保全・形成への寄与
2:多様な主体の参画による景観保全・形成
3:地域資源を活かした景観保全・形成
4:景観を活かした地域経済の活性化
前身の「農村アメニティーコンクール」から数えると30年近く、私は審査に参加しております。農山漁村ならではの自然景観、居住景観の魅力を活かして都市住民等と活発に交流しているところも多くみられます。何よりも「自分たちの暮らしている故郷を愛している」こと。
今回も委員が3ヶ所に別れ現地にお邪魔いたしました。
私は写真家の沼田早苗委員とご一緒に、島根県浜田市旭町都川(つかわ)地区。もう1ヶ所は浜田市三隅の室谷(むろだに)集落です。
広島駅から石見交通バスで瑞穂インターで下車。
都川地区は、中国山地の山懐に抱かれた清流の豊かな農山村です。
ご多分に洩れず、過疎と高齢化は進んでいますが、集落の景観の美しいこと。全国棚田百選にも選ばれた歴史的風致、「石垣棚田」は見事としかいえません。

中国地方で江戸時代に盛んに行なわれた「たたら製鉄」の原料を採集した「鉄穴(カンナ)流し」に由来するものです。この美しい棚田はおよそ200年前、たたら製鉄が目的で鳥取城からやってきた侍によって作られたと言われています。高いところでは5メートルはあるでしょうか。その石垣にハシゴをかけ草取りをするのは、ご高齢の方々。手で1本1本抜いていくのです。
このような貴重な歴史的遺産をもくもくと守る姿に頭の下がる思いがいたします。

そして、伝統芸能「石見神楽」を田代神社に奉納する「大蛇」を拝見しました。広島の神楽団体との共同公演などをして都会の人たちとの交流をはじめています。今では、毎年旧小学校の体育館には入りきれない程の観客がきてくれるとの事です。

たくさんの創意工夫があります。
その中で”縁側喫茶”があります。5月~11月までの第1、第3日曜日に豊かな自然を眺め、縁側でお茶と漬物での「おもてなし」評判をよび、いまでは30名近い人が訪れ、目の前に広がる手入れされた棚田での、耕作の苦労話や、じいちゃん・ばあちゃん達の話にゆったりしたと時間のなかで「心地よい」ときを楽しんでいるようです。

お話を伺っていて、関心させられたのは、あくまでも「自然体」なのです。問題はたくさんあるはずです。ご苦労だってたくさんあるはずです。
イベント的な無理な発想ではなく「自分たちの暮らし」を守りながら生きがいを見つけての暮らし。
ほんとうの豊かさを教えていただきました。
郷土料理の美味しかったこと・・・。
都会の人に「極上の癒し」を楽しんでもらっている姿が想像できます。
神楽を観ながら「どぶろく」も振舞われました。
「いつもこうして楽しんできたのですよ」と。
雪深いこの地域では、待望の春の訪れを待って、「春の風物詩」石積み棚田での田植えがはじまるのでしょう。
『三隅・室谷集落』
浜田から山陰本線・三隅駅下車、15分ほどの山間に室谷の集落があります。三隅の「むろだに」は、今年も元気です。を活動のキャッチフレーズに、棚田は現在1,000枚に減ってはいるものの、室谷連合自治会は、上室谷、下室谷、諸谷の3集落の自治体から成り、現在66戸、人口約160名、高齢化率35%の組織です。
この地の人々は情が厚く、地域の結びつきが強いため、人々の地域興しに対する意識は高く、様々な活動がなされています。
棚田は米作りなど生産の現場であるだけではなく、独自の景観にはこれまでの数百年の歴史と文化が蓄積されて、それがこの地に住む人々の誇りとなっていることが伺えます。
前会長の「一番大切なのは、両谷の棚田が、遠くから見にきてくださるほどの財産であることに地元の人に知ってほしいことです。住民が誇りを持つことが何よりの村づくりだと思います」・・・と。
子どもたちも元気です。
残念ながら小学校が統合され春からは三隅まで通うことになりますが、集落で周りの大人たちから暖かく見守られたきた思い出はしっかりと胸にきざまれたことでしょう。
昼食の、郷土食研究会の婦人方による心のこもった「むろだに会席膳」も美味しかったです。

棚田を見渡せばその先に日本海も一望でき、自然と見事に調和した日本の原風景は後世に語り継がれていくでしょう。過疎の問題を解決していくためにも、都会の人々の役割は大きいです。
『桃源郷のような集落』を訪ね、この先からはプライベートの「ひとり旅」です。三隅から山陰列車に乗り込み「益田」へと向かいました。このごろ、なぜか、ローカル列車に乗り、ひとり旅がしたいのです。

「旅はうかうかしてはいけない」
と言ったのは周防大島の貧しい農家に生まれ、73歳の生涯を地球を4周分を歩いた民俗学者・宮本常一の父親が、息子が15歳で故郷を離れる際、に言った言葉です。
汽車の窓からは家々の人の営みがみえます。
田畑を見れば、その土地の産業や豊かさが伺えます。
休みをとって益田に行こう!
と思ったのは、グラフィックデザイナーで作家、居酒屋文化の本を多数出されている太田和彦さんから
「ひとり旅 ひとり酒」が送られてきました。
「益田、浦島太郎と日本一の居酒屋。」と書かれているではありませんか。
旅のお好きな浜さんへ。
とひと言がそえられていました。
もう~ダメです。
2泊3日の旅を計画しました。
今回は天候に恵まれ、春のぽかぽか陽気。
まず向かったのは益田市内から30分ほどの「唐音の蛇岩」で有名な西平原町の唐音水仙公園で200万株のスイセンが見頃を迎えていました。

日本海沿いの丘陵を埋めるように咲くスイセン。
潮風に乗って爽やかな香りが漂います。
上から岩石のあるところまで歩きます。地元住民が1990年から約3ヘクタールの公園に植え付けはじめ、少しずつ増やしてきたのです。
スイセンの香りを後に、向かったのは太田さんご推薦の雪舟作庭の「萬福寺」と「医光寺」。

広縁に座り、雪舟が住職を勤めた寺で静かに庭を眺め、日本庭園の美を堪能しました。本をなぞるように、本堂に置かれた「釈迦涅槃図」を拝見し、離れがたい衝動に”このまま居たい”と呟いてしまいました。
素晴らしい・・・。
もう一度来よう!と思いました。
夜は居酒屋『田吾作』へ。
詳しくは太田さんのご本をお読みください。
ひとり旅ひとり酒
これも真似して、翌日の昼食にもう一度行ってしまいました。
イカ丼の美味しかったこと。
列車に乗る前に「石見美術館」へ。
石州瓦が使われた美しい美術館です。
駅前の魚市場のおばちゃんに、カレイとキスをさばいてもらい、持参し家路に着きました。
日本は美味しい! 美しい! 優しい!
そんな素敵な「美しい日本の暮らし」を皆で守っていきたいと思った旅でした。

心とからだを元気にしてくれる食

千葉県柏にある麗澤大学・麗澤オープンカレッジに招かれ先日伺ってまいりました。
「地域にひらかれる、大学の知性」
大学で学びたい夢を、ぜひ実現のものに・・・をテーマに大勢の方が学ばれています。5、6、70代の男性・女性、ホールは大勢の方が参加してくださいました。
私は「食料危機」をテーマの柱にしてお話をいたしました。
1時間45分。
「食料危機」といっても、ピンとこないかも知れません。
スーパーに行けば、野菜も肉も魚も卵もあふれんばかりに並べられています。
コンビニにも様々な種類のお弁当が彩り豊かに並んでいます。
街にでれば、和食、中華、洋食、ハンバーガーや牛丼、ドーナッツなどのファストフードの店が数えきれないほど軒を並べています。ですから、「カロリーベースで日本の自給率は約4割」と言われても、実感がわきません。
でも、この数字は座して待っていて、なんとかなるだろうではすまない数字です。先進国で最下位なのですから。
「でも国産牛、国産豚、国産の鶏肉、卵。そういうものがあるから大丈夫ですよね」という方が結構います。ラベルを見ると、確かに国産と書いてあります。
問題はこれらの家畜のエサは何かということなのです。
ほとんどが「輸入」ものです。
醤油の原料の大豆、砂糖の原料のサトウキビやサトウダイコン。
これらもほとんどが輸入ものです。
もし、輸入がストップしたら、食べものはスーパーやコンビニの棚から無くなってしまう。
農の現場は、高齢化・過疎化が進んでいます。
農業従事者の平均年齢は65・8歳です。
もちろん地域でがんばって農業をビジネスとしてなりたたせている若者も多くいますが、米作農家に限れば平均70歳です。皆さんお元気で本当に若いのですが、10年後ほとんどの方々が引退を余儀なくされることが予想されます。
この20年で農業従事者の数は約900万人から560万人に激減しました。
日本の耕作放棄地は今、40万ヘクタールに拡大してしまいました。
埼玉県(37万ヘクタールくらい)より広いのです。
一度放棄して荒れてしまった土地を、また畑に戻すのは至難の業です。
日本の農業が衰退したら、「輸入すればいい」という考えをもつ人もいらっしゃいます。日本は電化製品や車を輸出しているのだから、食糧も輸入してバランスをとればいいという考え方もあります。
養鶏業者、ブロイラー飼養業者も激減しています。
それには輸入飼料の値上げが大きくかかわっています。
酪農家もしかりです。
2006年秋、国際的穀物価格が高騰しました。
トウモロコシから始まり、大豆、小麦にも飛び火しました。
その背景としては、
・中国・インドなど経済発展にともなう食肉消費増大と飼料穀物需要の拡大。
・バイオエタノール原料向けのトウモロコシ利用激増と飼料穀物の不足。
・トウモロコシのエタノール化にともなうアメリカにおける大豆からトウモロコシ作りへのシフト。
・オーストラリアなど穀物輸出国の異常気象による小麦収穫量などの激減。
米を主食とするフィリッピンは米が値上がりして、暴動になりかねなかったのは2008年のことでした。世界的に見ても、今、米や穀類の不足が大きな問題になっています。
『自給できない国、それは国際的な圧力にさらされる危険を抱える国なのです』といったのは、アメリカのブッシュ大統領。息子さんではなくお父さんのほうです。
そのアメリカに日本の食は依存しています。
フードマイレージ。「輸送に要した距離×重さ」
日本は約9、000億トンキロメートル。韓国の3,4倍、アメリカの3,7倍。
生産地と食卓の距離が遠くなるほど、輸送時に地球温暖化ガスや大気汚染の原因と考えられている二酸化炭素(CO2)や二酸化窒素(N02)が排出され、環境に悪影響を及ぼします。
『今、日本はフードマイレージが世界一』です。
そして、バーチャル・ウォーター(仮想水)
食料を輸入することは仮想水も輸入されるということです。
ロンドン大学のアンソニー・アラン氏が提唱した概念とされています。
日本が輸入しているバーチャル・ウォターは、国内の年間水使用量と同程度になるとの試算もあります。
100グラムの輸入牛肉ステーキを食べるのは、他国の2,5キロの穀物を食べ、他国の2トンの水を飲んでいるのと同じということになります。
輸入に食料を頼っている日本の輸入しているとされるバーチャル・ウォターも世界的に見てぬきんでて多いのです。
でも、私は日本の食に絶望はしていません。
あきらめるわけにはいかないのです。
私のまわりには、日本の農業の未来を信じ、汗水流すことをいとわず、上質な野菜を、卵を、果物を、肉を作る人が大勢がいます。安心して食べられる食べ物、丁寧に食べたくなる安全な食べ物。
『日本の食を育てるために』
何が私たちにできるでしょうか。
それは「地産地消」・・・です。
トレーサビリティ。
地域で取れたものを地域で消費する。
できるだけ近くでとれたもの、できるだけ誰がどんなふうに栽培したものかわかるものを購入する。
ひとりひとりの力は微力であっても、みんながこうしたことを心がければ、他国の水資源を消費し、北アフリカや中東を中心とする貧しい23カ国20億人以上の人たちが、生きるための水が足りない「水ストレス」の解消に少しは役立つはずです。
自分たちの安全安心のためにも、日本農業のためにも、世界のためにも、「地産地消」が理にかなっている・・・と私は思います。
農業は日本の「文化」の根幹です。
日本は生物の多様性に恵まれた国です。
他の命と大地とはつながっているということを、多くの人が感じ取っている国です。
『自然の恵みのもとで培われてきた日本人の感性がこれほど試される時代』はありません。
このようなお話をさせて頂きました。
それは、私が4人の子どもの食を担い「食と命は直結している」と子育て時代に実感したからです。
皆さんのお考えを伺いたいです。
広大な、緑多いキャンパスの中を通り、受講くださった方々と何だかお互い共有できた幸せを胸に箱根に戻ってまいりました。
皆さま”ありがとうございました”
また、お逢いしたいです。


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『飛騨の円空』千光寺とその周辺の足跡

東京国立博物館(上野公園)で4月7日まで展覧会が開催されています。
雪のまだ残る上野の森に箱根から出かけていきました。

  「深い森に育まれた仏たち」
正面を入って、最初に出逢うのが私の大好きな「おびんずるさん」です。
賓頭盧尊者坐像。(びんずるそんじゃざぞう)
撫で仏とも呼ばれ、頭やからだがつやつやし、首をかしげて口端しを上げ笑みをたたえています。円空仏のほほえみは、見つめるほどこちらに移ってくるようです。
25年ほど前に始めて円空さんの足跡をたどる旅に出ました。
私にとって円空さんは、遠い過去の仏像というより、今なお生きている僧侶であり、どこかで仏様を彫り続けているお方のような気がしてならないのです。
なぜ、私が円空さんの仏像にひかれ始めたかとといいますと、それは木に始まります。
仏様以前に、信仰に似た気持ちを樹木に抱いたのです。
木には何か人知を超えた天空の意思を感じるのです。
その木に宿った魂のすべてが一刀の鑿(のみ)によって命を刻む・・・・・。
私が旅先で円空に魅せられた最初は、岐阜の千光寺でのことでした。
千光寺は飛騨の高野山の異名があるくらいで、その奥深さと神秘的な佇まいは底しれないものがありました。
何百年もの歳月を経た木がそこに生きていたからです。
身動きできないくらい感動したものでした。
円空さんは、江戸時代初期。寛永9年(1632年)美濃の国、郡上郡、美並村に木地師の子どもとして生まれたと推定されています。
私はかなり円空さんに恋してきましたから、さまざまな伝聞の中から、彼の人間らしい側面が出てこないかしらといつもあちこちの資料を見ては、想像たくましくしているのです。
円空さんだって男性です。
仏門に入ったら恋心は関係ないのかしら、と思うのは、円空さんの木像の中に女性の姿が何体もあるのですね。
幼くして仏門に入られた円空さん。
美濃の大洪水でおかあさんを亡くしています。
幼くし寺に奉公を余儀なくされたのもそんな事情ゆえだったのかもしれません。
円空歌集には、
「わが母の命に代わる袈裟なれや法のみかげ万代をへん」
と詠まれており、母との死別が円空の仏縁を濃くしたのだろうといわれています。
母亡き後、身を寄せていた寺を出奔するのですが、そこには恋愛がからんでいたという説もあり・・・。私には、青年・円空にはおおいに悩みがあったほうが自然に思えるのです。
だから、人々の悩みを受け入れ、その優しさが、温かさが、人をなごませ、喜ばせ、また他の人の喜びを引き出すのではないでしょうか。
仏像を拝見しますと、これは宗教とか哲学とかではなく、とても分かりやすい希望や未来「なごみ」や「やすらぎ」、日々の気持ちを表したものかなと、思いました。
博物館から外にでると、清々しい気持ちになり、箱根の我が家へと向かいました。