映画「夢のアンデス」

息を呑む大自然と、胸を締め付けられる人間社会の営み。この圧倒的な落差をアンデスの山々が見つめている。今、そんな映画が公開されています。「夢のアンデス」、南米・チリのドキュメンタリーです。  

1973年、チリでクーデターが発生しました。3年前に選挙で選ばれたアジェンデ政権が倒されたのです。クーデターの首謀者はピノチェト将軍で、それから20年近くにわたり独裁体制が続きました。軍事政権による弾圧は厳しいものでした。逮捕、虐殺などの恐怖政治が日常的な光景となり、約3000人が犠牲となりました。しかし、実際の被害者は数万人に達したともいわれており、詳細は現在もわかっていません。

「夢のアンデス」のパトリシオ・グスマン監督も弾圧を受けた一人でした。クーデターの混乱の中で逮捕、監禁されました。その後、彼はチリを離れ、フランスなどを拠点に独裁体制を批判する映画を製作してきました。 今回の作品でも登場するように、多くの人たちがそれぞれのやり方で強権政治に対する抗議の声を上げました。彫刻家や文学者、そして音楽家も異議申し立てをしたのです。

彫刻家のフランシスコ・ガシトゥアはアンデスの山から切りだされた岩に一筋一筋、魂を込めた無言の抵抗を刻みこみました。もし岩が言葉を話し、その言葉が翻訳できたならば、彼らに語らせたい。いや、岩石を削ること自体が翻訳なのだ。なぜなら、彼らは人々の生と死をずっと目撃していた、歴史の証言者なのだから。グスマン監督は、アンデスの山々に寄せる自分自身と彫刻家の心情を静かに語っています。証人の中には、自国のチリに留まりカメラを廻し続けた映像作家もいました。パブロ・サラス監督はピノチェト時代の圧政と現在のチリの姿を、捉え続けています。

軍事政権は30年も前に崩壊しましたが、今なお、独裁政治の負の遺産は社会の隅々に陰を落としています。当時の政権は外国資本の導入を積極的に押し進め、基幹産業である銅の採掘などにも影響を与えています。そうしたことも原因となり、経済格差は現在、無視できないほどの広がりを見せていると報道されています。

そんな現状に心を痛めながらも、グスマン監督は祖国への限りない愛情と未来への希望を捨てていません。今年7月には、軍事政権時代から続いている現行憲法を改めるための議会がスタートしました。男女ほぼ同数のこの議会では、先住民の女性が議長に選出されています。来年半ばには、新憲法制定の国民投票が実施される予定です。

幾多の試練を乗り越え、未来を切り開こうとしているチリの人々。その目撃者たるアンデスの山々は、いま何を思っているのか。   グスマン監督は改めて大自然に問いかけながら、祖国への思いを訴えかけたかったのだと思います。

映画公式サイト
https://www.uplink.co.jp/andes/

美しい日本の秋

振り返れば、この半世紀あまり私は日本国内ずいぶん旅を続けてきました。訪ねる先には農村の女性が待っていてくれたり、手仕事の職人さんであったり。

ときには円空上人が何度も訪ねたという袈裟山千光寺。高山の高野山と異名をとる神秘的なたたずまいの寺で、真紅に燃える木々がうっそうと繁る原生林のなかに立つと、その辺りの樹木一本一本が立木像に見え、ざわざわと鳴る木の騒ぎが耳に響きます。秋の夕暮れは早く、さっきまで真紅に燃えていた紅葉があっという間にくれなずんでしまいます。

晩秋の津軽平野ではつい昨日まで赤々と燃えていた木々の葉がすっかり落ちて、道端のナナカマドに美しい赤い実だけが残る頃、津軽は早くも秋の終わりを告げて、もうじき長く厳しい冬がやってくることを人々に教えます。

全国各地を旅するときはいつもたったひとりで行動する私ですが、晩秋の津軽平野を歩いていて、不意に冷たいみぞれが落ちてきたりすると、やはりたまらなく寂しくなることもありました。けれど、旅の途中の寂しさはいつもほんの一瞬だけのこと。その先にはたくさんの同士とも呼べるべき女性たちが待っていてくれて、いつも私を温かく迎えてくれました。

移りゆく季節の中に折りなす人々の営み、表情豊かな草花たちの息吹に触れるとき、私はこの美しい日本に暮すことのできる喜びとやすらぎにつつまれます。

小春日和のような一日私はバスを乗り継ぎ強羅の箱根美術館に行ってまいりました。

苔の緑と200本以上のモミジが鮮やかな庭。毎年11月になると訪れるところです。イロハモミジや大きな葉が真っ赤に染まっています。

和菓子とお抹茶を一服いただきながら庭をながめながらのひととき。

私は78歳になりました。歳を重ねるって素敵なことです。

まもなく山にも初霜が降り本格的な冬を迎えます。

箱根美術館公式サイト
https://www.moaart.or.jp/hakone/

「いのちを耕す」

この頃、時間があると本棚にある本を手に取り”あの頃どんな本を読んでいたのかしら”と思うことが多くなりました。なんとか、ひと目でもいい、お会いすることができないものか、とひたすら思い続けた女性(ひと)がいました。

作家の故住井すゑ先生。不朽の名作「橋のない川」の作者としてどなたもご存知の方です。

ある日、本屋さんでふと手にとった住井先生と長野県佐久総合病院(当時)の総長若月俊一先生との対論集『いのちを耕す』という本でした。御年九十三歳の住井先生と八十五歳の若月先生。対談のはじまりに住井さんは、「私もいくつになったら自分が年を取ったという意識をもつのか。一生もたないのではないかと思ってね」とおっしゃっているのです。

なんと素敵なことではありませんか。本のなかのお写真をお見受けするその笑顔は童女のように愛らしく、また観音さまのように、私の心を優しく包み込んでくださるようでした。

農民文学者の犬田 卯(しげる)氏と結婚されて、四人のお子さまを育てながら農民文学運動と作家活動を続けて来られた住井さん。その先生がご著書の中で一貫して「農業は一つの産業じゃなく、生命そのものですよ」と。

この時代にいかに「農」が大切であるかを語っていらっしゃるのです。当時、「いのちを耕す」を読んで、「あぁ私がいまこだわって見続けているものは、けっして間違っていなかったのだ、」とたまらなく嬉しく思えたのが昨日のことのようです。思わず書庫の椅子に座り読み続けてしまいました。

住井すゑさんは1997年6月16日に老衰のためご自宅で逝去されました。(享年95)

四人の子を持つ母親の視点から出発されて、いま、「農業というのは母なる業(わざ)です。母の問題には科学も何もいらない。そんなの超越しているわけです」と言いきられる住井先生の哲学は、宇宙の法則を語るまでの拡がりを持っています。そして先生のお言葉のひとつひとつが、私たちが生きて行く上で何が大切なことかを教えてくださいます。

「今や人々はカネを追い回すのに忙しすぎて”人間”のことなど考えるヒマがないのでしょうか、幸か不幸か、カネを追い回す才覚など持ち合わせない私は、オハナシを産もうと腐心します」

とおっしゃる九十三歳のひとりの女性が、亡きご主人の故郷の地である茨城県牛久の里で、農作業の傍ら童話を書き続けていらっしゃる・・・。そのお姿を想像するだけで勇気がわいてきます。背筋がしゃんと伸びる気がするのです。

大地に足を踏みしめて生きながら、政治や社会悪と闘い続けてこられたひとりの女性。

その方が「二十一世紀は、食料の自給できない国からつぶれていくでしょう」と断言されれば、それはどんな学者や評論家の予言よりも間違いないことと思えました。

あれから25年の歳月がながれました。現在「農」の現場は若者たちが環境に配慮し、あらたな世界が生まれつつあります。コロナ禍のなかで”心地よい暮らし”を模索している人も増えてきました。きっと良い方向に向いていくことを信じています。

住井すゑさんが天に召された翌月7月6日に県民センターでお別れの会がありましたが、「住井すゑさんと未来を語る会」と題されていました。私も一番後ろの席で参列させていただきました。左前の席に映画監督の山田洋次さんが目を閉じ静かにお聴きになっている姿が印象的でした。

先日11月3日 文化の日に「牛久市住井すゑ文学館」が開館しました。

農民文学者の夫・犬田卯の故郷の牛久村城中に家族で移住し、以来この地で執筆活動を続けてきました。住井さんは、家事、子ども四人の世話、夫の看病、畑仕事をしながら執筆し、その原稿料で一家を支えたといわれます。

私は35年ほど前に先生が『大地のえくぼ』と呼んだ牛久沼。その辺に建つお住まいを遠くから拝見しました。そしてその美しい風景を”きっと先生も見ていらっしゃる”と思ったものです。

開館翌日に東京駅から常磐線に乗り、文学館を訪ねました。旧居の跡に建った文学館は書斎・抱僕舎(ほうぼくしゃ)などの建物と土地が、ご遺族より牛久市へ寄贈され、改修工事が行なわれ誕生したのです。

執筆をした机上には原稿、使い古した広辞苑やペン、夫に使用した注射器など。こよなく愛した窓から見える沼の風景。

私はやはり「日記」に注目しました。

「もう五、六日前、あなたの毛糸ものを出したらふいに悲しくて、床にもぐって涙。そのせいか、川をへだてて、どうしてもあなたのそばにいけぬ苦しい苦しい夢をみた。」

「この日記帳をもらうことにしたからそのつもりでね」と、犬田の日記を住井が自身の日記にしたことが書かれています。

逞しくてあたたかい 住井すゑさん。

意外な素顔がわかるのが、ジャーナリスト・エッセイストで住井すゑと犬田卯の次女・増田れい子(1929~2012)の『母 住井すゑ』(海竜社)を読まれると素顔がよく分かります。

生まれた大和。その美しい風景から「橋のない川」がこの世に誕生したこと。いたみをバネに生きるつよさ……

わがいのち
おかしからずや
常陸なる牛久沼辺の
土とならむに                  住井すゑ

文学館の庭から見える沼の向こうに夕陽が沈みかけ前の藪の中には「木守柿」がぶら下がっていました。季節は晩秋からやがて冬へ。

なんだか…とてもあたたかな気持になりました。

牛久市住井すゑ文学館
https://www.city.ushiku.lg.jp/page/page010300.html

印象派・光の系譜

モネ、ルノアール、ゴッホ・・・70点近い印象派の名画が並んでいる!そんな夢のような展覧会は、あまり聞いたことがありませんでした。

取るものもとりあえず、東京・丸の内の会場に足を運びました。三菱一号館美術館でした。

入場者は体温を測り、手指を消毒し、静かに場内に吸い込まれていきました。

印象派・光の系譜」と名付けられた今回の展覧会は、20人を超える印象派の画家の作品が集められ、それらはすべてイスラエル博物館所蔵のものでした。

エルサレムにあるこの博物館は、50万点もの膨大な文化財を保有する、世界でも有数の博物館といわれています。

建国後、僅か10数年しか経っていないイスラエルが国の威信をかけ、そして世界中の同胞の支援を受けて1965年に開館したのですね。

会場にはルノアールやセザンヌ、ゴッホの作品はもちろん、モネの傑作”睡蓮の池”が、さりげなく飾られていました。そんな中で、私が思わず立ち止まり、動けなくなってしまった一隅がありました。

ゴーガンが描いた”ウパウパ”(炎の踊り)です。

彼が最後までこだわったのは大都会のパリではなく、南太平洋の島・タヒチの人々と自然でした。先住民が大切にしてきた文化。

それに対する理解と共感を持ち続けたゴーガンは、炎の横で踊り続ける島民の姿を目に焼きつけ、それをカンバスによみがえらせたのです。

古来からのポリネシアの日常を想起させるようなこの光景こそが想い描いてきた”理想郷”だったのでしょう。
当時のタヒチはフランスの植民地でした。そしてフランスは、官能的すぎるという理由でこの踊りの禁止令をだしたのです。

伝統文化を手放せない島民は、隠れて踊ったのですね。この作品が描かれたのは、1891年、日本では明治24年のことでした。

近代文明から距離を置きたいと望んだ島の人々。ゴーガンは当時のタヒチの社会に、ごく自然に同化することができた、いや、同化したかったのだと思います。

それは南太平洋の島々に特有の、湿度と肌のぬくもりをゴーガン自身が何よりも求めていたからだろうと、勝手に推測しました。

「印象派の作品の中心的な要素は、水の反射と光の動きだ」、という解説にうなずきながらも、”炎の踊り”をたまらなく気に入ってしまう自分に驚き、そして嬉しくなってしまうのでした。

”見る人の心を解放してくれる絵画”。やはりゴーガンは素敵でした。

もう一度、足を運びます。来年の1月16日まで、直接お会いできるのですから。

通常、展覧会でのカメラの使用は認められていませんが、最近は”一部撮影可”というケースも増えてきました。この展覧会の雰囲気を少しだけ、ご紹介させていただきます。

展覧会公式サイト
https://mimt.jp/israel/