花は野にあるように

私は野歩き、山歩きが好きでよく歩きます。早朝に咲く花は早朝に、夕暮れの花は夕暮れに見てこそ美しいと思います。とくに早朝の花、湖……小路に秋の風を感じるこの季節、私は美しい女(ひと)のことを想い浮かべます。

2010年に97歳で惜しまれながらこの世を去った華道家。長寿社会に生きて行く”道しるべ”。かつて「花のように生きれば、ひとりも美しい」という本を出されました。

玄関に一歩足を踏み入れると、はっと息をのむような静寂が、私を迎えてくれました。そこに花はなく、ただ、花の気配だけが漂っています。窓辺に置かれた常滑の壷が待っているのは、むくげ?芙蓉?それとも、楓の一枝でしょうか……。

神奈川県逗子海岸。耳を澄ませば遠くに波の音が聞こえる木造二階建て、昭和10年代の建造物。長いこと憧れ続けていた、茶花の先生。楠目ちづさんをお訪ねしたのは、もう25年ほど前のことです。

透明なまなざし、柔らかな笑顔。銀色に輝くおぐし、そして和服をさり気なく上品に着こなされたその楚々としたたたずまい…。美を深め、美を極められるその方ご自身が、まさに日本の美そのものでした。

楠目さんは大正2年北九州のお生まれ。愛情深く趣味豊かなご両親のもとで、美の滋養を存分に取り入れて幼女期と少女期を過ごされました。やがて父上が亡くなり、少女のころより病弱だった先生とお母さまは戦争の折、空襲で危険な東京から命からがら逗子へと移られました。

そして、戦時中よりさらに厳しかったあの戦後が始まります。逗子へと転居された頃、先生のご病気はすでに、死を覚悟せざるを得ないほど進んでいたのです。結核でした。動けない身体で、窓から見える空の色、雲の形、松の枝、鳥の声…。それだけが相手の毎日、ふと出会った一冊の本が、思いがけず先生を死に向かう日々から生への意欲へとかき立てます。

「生け花作家で茶の湯にも造詣の深い、西川一草先生の作品集でした。柳に牡丹、小さな蝉籠の隠元豆に、むくげの向掛け……それは美しく、目も心も奪われました。やがて病魔も、私の花思いほどには強くなれずに、その後徐々に快方に向かいました」と微笑まれました。

お茶を点てる席というものは、なぜかいつも俗世とは一線を画した小宇宙。炉には静かにお湯が煮え、仄かにたなびく湯気に風の気配を知り、ふと、生けられた花に目が止まります。吾亦紅(われもこう)に女郎花(おみなえし)茶室にふっと秋がまいおりたような景色です。

茶席に花を飾る。その演出を考えたのは千利休といわれます。茶花の姿は、わずか二時間余の存在です。先生から伺う花にまつわるお話のひとつひとつが、改めて日本の文化の素晴らしさ。

たとえば、”花所望”それは茶の湯の席で客人に花を生けてもらうという、ゆかしい遊びといいます。茶席を終えて辞去するとき、客は花を懐紙にとって置いて帰ります。それが惜別の美、謙虚の美、そして花供養…。ひとつの行為にいくつもの無言の意味が含まれています。先生のおそばに向き合っているとその美意識はどこからくるのかしら…と思いました。「花は野にあるように」という、利休のことばが支えていらしたのかしら。

「結婚もしない、子どももいない、つつましく暮しているは。でも私は自由でした。人生それぞれ だからこそおもしろいのね」と。八十二歳という年齢を迎えられても、お元気に花修行の手を休めることのないお姿に、「美の本質をつかむこと」について語ってくださったことが忘れられません。

美の本質をつかむことは、実は『生きる本質をつかむこと』であったのだと、この年齢になり少しだけ分かったように思います。部屋の窓辺に秋の花を飾り楠目ちづさんを想いました。

『ザ・ニュースペーパー』

たくさんの中高年の男女が、笑いを求めて週末の東京・大手町に集まってきました。皆さんの顔は、「さあ、おもいっきり笑うぞ!」という決意?に満ち溢れていました。

それもそのはず、いつまでたっても先の見えないコロナの行方や、ウクライナ情勢の泥沼化。それに、止まらない物価高や政治と宗教の絡みまで加われば、世の中は明るくなるはずもありません。そんな空気をぶち壊そうと、マジメでトボケて、冴えた男たちが今年もやってきました。

「ザ・ニュースペーパー」、62才から35才までのメンバー9人からなるグループは、政治・経済・社会、そして国際問題も視野に入れてエライ人たちをバッサ・バッサと切りまくるのです。忖度とは全く無縁の舞台空間が、そこにはありました。つまり彼らは市民の感覚に味方する、社会風刺コント集団なのですね。

舞台に登場する人物は、岸田首相・菅前首相・安倍元首相・麻生元首相。そして、公明党の山口代表や共産党の志位委員長らも加わり、アメリカのバイデン大統領やトランプ前大統領、さらにロシアのプーチン大統領まで顔を出すという”豪華絢爛”たるものでした。

9人の役者がそれぞれを演じる内外の政治家の姿、それは声帯模写ではなく、絶妙な形態模写であり、選び抜かれたセリフなのです。その快刀乱麻ぶりに600人近い観客は、溜飲を下げ続けるのですね。

こうした”スッキリ感”はテレビでは決して見られず、新聞の紙面でも読むことは難しく、この舞台の独占物なのかもしれません。劇団「ザ・ニュースペーパー」は、今から33年前に産声を上げました。その後、各地で活動を続けながら、2013年に大手町での定期公演がスタートしました。今回の公演は10回連続公演となったのです。

ニュースの切り口と役者の表現力だけで勝負する舞台劇、それは登場人物をただ切り捨てて終わり、ではありません。今回の公演の最後には、安倍元首相への追悼の言葉が静かに映し出されました。

そして、この劇団を30年以上にわたって引っ張ってきたリーダーの渡部又兵衛さん(72歳)が9月7日、長い闘病生活を経て逝去されました。今回の公演のわずか10日前のことでした。

そのことを当然知っていた会場の観客は、最後の舞台挨拶でメンバーはどのようなコメントを口にするのか?と小声で囁き合っていました。しかし、団員の皆さんはリーダーの死に一言も触れることなく、ライトが絞られました。

冷たいのでは決してない、「リーダーの遺志を継ぎ、前を向いて歩いて行こう!」という意思を固めた、文字通りプロとしての振る舞いに徹したのでしょう。来年の大手町公演は10月末ということです。

11回目となる「ザ・ニュースペーパー~演じる新聞、観る新聞~」  
来年も参ります。

公式ホームページ
http://www.t-np.jp/

映画「オルガの翼」

15歳の体操選手・オルガは鉄棒の練習にひたすら汗を流します。ウクライナ代表として欧州選手権に出場し、勝利を得るために。映画「オルガの翼」は、体操に青春をかけながら、それが許されないアスリートの心の襞を、細やかに描き出します。

2013年、ウクライナは大混乱に陥っていました。当時の大統領の汚職と圧政は頂点に達し、”マイダン革命”と呼ばれた市民運動が火を噴いたのです。その中でオルガの母親はジャーナリストとして、政権批判の記事を書き続けます。

そして、母親が運転する車が何者かに襲われ、一緒に乗っていたオルガも怪我をしました。娘の身を守るため、母親はオルガを亡き夫の故郷・スイスに出国させます。”一人ぽっちの避難民”でした。

言葉も文化も大きく異なるスイスでの新しい生活。オルガはそこで練習を再開します。孤独の中でスタートしたオルガは懸命な努力を重ねますが、母親やウクライナの厳しい現状を「SNS」によって知ることになります。

そして、心は大きく揺らぐのです。生まれ故郷の苦悩や自身の将来を案じながらの日々。「政治とスポーツは別だから!」、国際試合で顔を合わせたかつてのコーチの言葉を、はっきりと拒絶するオルガでした。混乱や不合理の真っただ中にいる若き当事者にとって、政治とスポーツが切り離せないことを知ってしまったのです。単なる”スポーツ根性もの”と一線を画す奥行きが、スクリーンに溢れ出ていました。

この映画を現実感あるものにしているのは、スマホによる会話や映像でした。”マイダン革命”の生々しいシーンは、デモの参加者が実際にスマホで撮影したもので、際立った迫真力を見せています。

更に、主人公のオルガを始め多くの選手たちは、体操の得意な俳優が演じたのではなく、全欧選手権などに出場した本物の選手たちが選ばれたのです。オルガを演じたアナスタシア・ブジャシキナもその一人でした。リアリティーある映像は、ドキュメンタリー映画を思わせるものでした。

この映画はフランスのエリ・グラップ監督、28歳によって作られました。制作はウクライナの混乱、ロシアによるクリミア半島の併合などが進む中で続けられ、昨年完成しました。まるで、今年2月のウクライナ侵攻を予感させるような内容となっています。監督がこの映画の企画を立て始めたのは、まだ20歳を過ぎたばかりの頃でした。近づく戦火の足音を感じながら、地続きのヨーロッパで若い感性は研ぎ澄まされていったのでしょうか。

監督は”マイダン革命”で見た多くの人々の連帯感に心打たれたと語っています。そして、体操選手の役はプロの俳優にはオファーしたくなかったとも告白しています。

先行きの見えないウクライナの情勢ですが、この映画の最後のシーンは見る人を勇気づけるものでした。主人公・オルガの瞳は遥か先を見つめ輝いていました。次の世代、そして次の時代への確かな引継ぎを、既に始めているのです。

ウクライナの厳しく複雑な歴史を断片的にしか知りませんでしたが、この映画を見たことで、きっかけが掴めたようです。

素晴らしい選手たちと監督に、感謝と声援をお送りします。

映画公式サイト

映画公式サイト
http://www.pan-dora.co.jp/olganotsubasa/#main

自然と人のダイアローグ

この絵の前でどれほどの時間佇んでいたことでしょう。他の方の邪魔にならないように……フィンセント・ファン・ゴッホ(1853~1890)人生でもう出逢えないと、諦めにちかい気持でおりました。うねるような麦畑。農民が一人もくもくと鎌を振るって刈り入れをしています。夏の炎天下。初来日となりました。「刈り入れ(刈り入れをする人のいるサン=ポール病院裏の麦畑)」1889年。

私は中学卒業後、バスの車掌になりました。川崎の工場街を走る路線を担当。バスの中は働く人たちの汗と油のにおいがし、連帯感のようなものを感じ「労働の喜びとつらさ」も体で感じました。そして、女優という未知の世界へと飛び込み、不安と緊張に押しつぶされそうになり、”もう、やめようこの仕事”と思い、ひとり旅にでました。

18歳の秋です。わずかなお金しか持たず、でもイタリア・イギリス・そしてオランダへ。ゴッホのことは中学の授業で知ったくらいでした。(ひまわりの画家)としての認識くらいでしたが、でも、”何だか”気になる画家でした。60年ほど前、アムステルダムのまだ古い「ゴッホ美術館」に朝一番で出かけました。

ギシギシと軋む木の階段を上ると、天窓から朝の光を浴び「馬鈴薯を食べる人々」の絵が目に入ってきました。テーブルの上にふかしたジャガイモを一家で囲み、ランプの灯りがほのぼのと暖かく、労働を終えた家族の一枚の絵の前でクギ付けになりました。「あの、ひまわりのゴッホがこのような絵を描いていたの!」と驚き、それ以来沢山の本を読み、ゴッホの人生をしりました。その一枚の絵に出逢えたことで、女優を続けていく勇気をもらえました。

南仏アルルで芸術家村の夢に破れたゴッホは、入退院を繰り返した後、サン・レミの精神療養所に移り、そこで母や妹のために描いた習作をもとに描かれたのが本作品です。多くの人は「死」のイメージを見たといいます。そして、ゴッホは「この死のなかには何ら悲哀はなく(中略)明るい光のなかで行われている」と記し、その翌年の夏、自ら命を絶ちました。

展覧会が開催されている「国立西洋美術館」は、2016年に世界文化遺産に登録され、同館は前庭を創建当時(1959年)のル・コルビュジェの構想に近づける工事が行われました。すっきりとした広場にロダンの彫刻。今回リニューアルオープン記念としての展覧会です。

本展は同館と、今年開館100周年を迎えるドイツ・エッセンのホォルクヴァン美術館とのコラボレーション企画です。ドイツには何度か訪ねているのに、チャンスを逃し、もう諦めていたところに朗報でした。「会える!ゴッホの刈り入れに」と感動しました。「馬鈴薯を食べるひとびと」に”生きる勇気と、労働の喜び”を。そして、今回は”人生はままならない”ことを教えられました。芸術って素晴らしいですね。

私は雲を見つめるのがとても好きです。この絵も。ゲルハルト・リヒター「雲」1970年

産業や科学など急速な近代化が進んだ19世紀から20世紀。芸術家たちはどのように自然と向き合っていたのでしょうか。素晴らしい作品の数々。今回の展覧会は一部を除いてほとんどが撮影可でした。

クロード・モネ、アンリ・マティス、フェルディナント・ホドラー、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ、カミーユ・ピサロ、ギュスターヴ・クールベ、オディロン・ルドン、エドヴァルド・ムンクそして

フィンセント・ファン・ゴッホなど等。

最後に病室の窓から眺めた「ばら」の風景の絵をしっかり瞼におさめ会場を後にしました。18歳で出会った一枚の絵に勇気を与えてもらい、70代終わりに、炎天下の麦畑と農民の姿に見入り、人生を見つめることのできた展覧会でした。

自然と人のダイアローグ展
https://nature2022.jp/

美しい村 原村

先週末、日帰りで長野県八ヶ岳の麓にある「原村」に行ってまいりました。小田原に住む友人夫妻とご一緒に。

ご主人の運転で御殿場経由、中央道に乗りおよそ2時間半のドライブでした。鉄道の場合は、新宿駅から特急あずさ号で富士見駅か萱の駅下車。私は普段は電車や列車、バスでの移動がほとんどですから、車窓から見る風景はまた新鮮です。

今回の目的は、毎年開催されている原村での「イングリッシュサマーフェアin原村」が見たくて行きました。このフェアに鎌倉でアンティークショップ”フローラル”を営んでいる娘も参加しているのでのぞいてみました。

マーマレードなどジャムが美味しいイングリッシュキッチンさんは英国ダルメインで2016年から7年連続金賞受賞。そして自家製紅茶とコーディアルはスティルルームさん。お菓子は鎌倉山で素敵なカフェをしているハウスポタリーさん。と、今回もまるでイギリスを旅している気分にしてくれる素敵なフェアです。お庭ではティーセミナーが開催されていました。皆さん楽しそう…やはり人が集い語り合うってとても大切ですね。

原村はなだらかな傾斜地に広がる美しい高原の村です。北アルプス、南アルプス、天気がよければ富士山も見渡せる360度のパノラマが広がっています。農村風景、そして都会からの移住した方々の家やペンションが林の中に建ち、和と洋がほどよくミックスし、看板も最小限にし、ヨーロッパの田舎の風景です。放牧した牛が気持よさそうにのんびりしています。林道を爽やかな風が抜け、澄んだ空気が心地よい村です。

原村の人口は7、642人。
面積は43.26㎢。

村の歴史は400年余り前の新田開発から始まったそうです。当時は高冷地で水も不足していたことから先人は大変苦労して稲作をしていたそうです。反面高原特有の冷涼な気候を利用して高原野菜や花き類もさかんです。瑞々しく甘みのある野菜が育ち、私も完熟トマトや茄子などカゴいっぱい買いました。

そして前回来た時に購入して美味しかった無添加のブルーベリーがたっぷり入ったジャムや果物。友人は蜂蜜や、やはり野菜・果物をカゴいつぱいに。お昼は原村の洋風の素敵な建物で庭には花いっぱいの蕎麦やさんで美味しいお蕎麦をいただきました。ほんとうに美しい村です。

猛暑の続いた今年の夏も、季節は晩夏から秋へと移ります。鳳仙花や草花、麦畑の白い花……高原の風と花を皆さまにお届けいたします。