横須賀美術館『運慶』

皆さまは、このコロナ禍をどのようにお過ごしでしょうか。はじめの頃は”1年くらい我慢をすればいいのかしら”と思った方が多いのではないでしょうか。私もそうでした。まさか、このように長引くとは…。自粛もあり始めは緊張もしておりましたが、「でも、最大限、気をつけて”日常生活”はなるべく変わらずに続けることが大事」と私は思いました。

ですから、早朝の1時間半の山歩き。東京でのラジオ収録。そして、映画・美術館の鑑賞。どこも、最大限の注意をはらい、換気、消毒など対応している状況を見て安心して見に行っております。なぜならば、閉じこもってしまい、精神的に疲弊することのほうが良くないと思ったからです。

どんなに気をつけていても、”もしも”はあるかも知れません。でも、私のような高齢者!になると一番の心配は筋肉の衰えです。骨折はとてもコワイです。そして、外の空気に触れないと好奇心も衰えます。友人たちとの会食はしばらくは我慢して…でも、その分手紙の交換、ラインでの”飲み会”、メールでのやりとり、と新たな楽しみも生まれました。ですからこのブログでも、映画や展覧会のご報告もしております。

先日、久しぶりに娘と鎌倉で合流し、彼女の車で「横須賀美術館」に行ってまいりました。普段は仕事の関係もあり別々が多いのですが、たまたま「私も見たいと思っていたの」と娘。一緒に出かけました。

何度か横須賀美術館は行きたいと思いながら、チャンスがなく今回初めて車で行きました。我が家からバスで1時間で小田原に着き、東海道で、と”小さな旅”気分。横須賀美術館は観音崎公園内にある美術館。目の前には東京湾。後ろは観音崎の自然の森という環境の中でアートが楽しめます。別館では週刊新潮の表誌絵で知られる谷内六郎作品も見られます。

十二神将像や宗元寺瓦など横須賀ゆかりの文化財の里帰りが実現!とありました。12世紀末から13世紀初頭にかけて活躍した仏師・運慶。奈良での造仏はよく知られていますが、鎌倉時代に関東での仏教彫刻を私はあまり知りません。

入り口を入ると運慶作「不動明王立像」「毘沙門天立像」(1189年 国指定重要文化財)が迎えてくれます。2メートル以上あるでしょうか。運慶らしい力強さと繊細な彫り。

会場を進むと鎌倉時代の「観音菩薩立像」も素晴らしいですし、三浦半島の歴史と文化をあまり知らない私は三浦一族の造仏を見ながら、運慶が鎌倉幕府という新政権と密接に結びつき、東国での活躍の場を得たことを知りました。もちろん”運慶工房”の作品が中心ですが、運慶のエネルギーには圧倒されます。

じゅうぶん堪能した後には楽しみにしていた、隣接しているリストランテアクアパッツァの日高良美シェフが料理長をつとめる「横須賀アクアマーレ」でランチをいただきました。美術館開館と共にオープンしたレストラン。お勧めです。ランチセットが手ごろな値段でいただけます。しかもとっても美味しいのです。東京湾を一望できるガラス張りの店内。私は地元食材を使ったサラダ&パスタをいただきました。外では風を感じながらビールを飲んでいる中年の方々。コロナ禍でもこうした楽しみ方は素敵だと思います。

そうそう…私の小さな旅のお供の本選びも楽しみのひとつです。列車の中で読む文庫本。今回は『少しぐらいの嘘は大目に 向田邦子の言葉 (碓井広義 編)』帯には”女はあんまり謝っちゃダメよ”

大好きな女(ひと)です。
最後に向田邦子さんのエッセイから

帰り道は旅のお釣である。
残り少なくなった小銭をポケットの底で未練がましく鳴らすように、
「ああ、終わってしまったなあ」軽い疲れとむなしさ、わずらわしい
日常へともどってゆくうっとうしさ。
それでいて、住み慣れたぬるま湯へまた浸かってゆくほっとした感じがある。

「小さな旅」より

横須賀美術館公式サイト
https://www.yokosuka-moa.jp/archive/exhibition/2022/20220706-696.html

東北へのまなざし

東京駅のステーションギャラリーで「東北へのまなざし」展が9月25日まで開催されています。ドイツ人の建築家ブールーノ・タウト(1880~1938)。民藝運動を展開した柳宗悦、ペリアン、今和次郎など、東北と縁が深い人たちの”想い”を知る展覧会です。

1930年代以降はモダンとクラッシック、都会と地方がゆれ動いた時期とも言われています。東北には豊かな文化があり、そこに生きる人びとの生活に魅せられた人たち。1933年に来日したタウトもそのひとりです。

私がブルーノ・タウトの名前を知ったのは「桂離宮」の本でした。その文章により”日本再発見”をしたのです。タウトは「キレイ」という言葉をよく使ったそうですが、桂離宮や伊勢神宮の美、そして農村文化にも魅かれたそうです。

雪国の秋田には何度か訪れ祭りや風景、人びとの暮らしに深く共感し、柳宗悦、バーナード・リーチたちとも交流を深めていきます。地方の工房や農民や漁師の間に残っている優れた技術と形を保存、蒐集し後世に残そうとしました。

しかし、タウトの考える”美”と柳宗悦たちの考えには多少の違いがあり、結局、両者はお互いに好意を抱きつつも、それぞれの道を歩むことになったのです。

私は今回の展覧会で見たかった、知りたかったことの一つはタウトと柳の書簡でした。タウトが日本文化に寄せた鋭い観察と愛情、そして「日本の心」を知りたかったのです。

タウトが日本を去るときのパーティーでは柳が英語でスピーチをし感謝を述べたそうです。タウトは日本を後にし、アンカラの国立芸術大学建築家主任教授として赴任しますが、イスタンブールで急逝します。享年59。

展覧会では死後に日本の友人に託された日記、アルバムや原稿など遺品が展示され東北への足跡をたどることができます。タウトがデザインした「椅子」や「パウダーケース」も見ることができます。

一方、柳宗悦は20回以上東北を訪ね「驚くべき富有の地」と語り、蓑・刺子・陶芸などを蒐集し、染織家の芹沢桂介や棟方志功の作品、東北の玩具(こけしを中心)など素晴らしいコレクションです。こうして先人たちが私の水先案内人になってくれて私の「東北への旅」が始まります。

私は東北への憧れがありました。  

朝きよらかな鳥海の 雄姿を仰ぎ伸びゆくところ
豊かな大地に先人の たゆまぬ努力を受けつぎ励む

町民歌にある通りの町。本庄市の南に隣接し、三方を鳥海山麓由利原の高原に囲まれ、中央部に楕円形の美田を抱える。その美田を囲むように集落が点在しています。(2005年3月22日に由利郡西目町は本庄市合併により「由利本庄市西目町」になる)

日本が高度成長をとげ、列島の風景が大きく変わり、高速道路が走り集落の様子も変化を遂げていきました。 秋田のどこかで、しんしんと降りすむ雪のように糸を布に刺す女(ひと)がいる。いつかお会いしたいと思いながらすでに十年の歳月が流れていました。40年ほど前のことです。雪の季節になると、いつも必ず、その本でみた刺子が窓の外の雪の降りしきるさまと重なるのです。

私は、長いこと夢みていました。刺子をさすその人の手元を飽かずにみつめていたいと。石塚トクエさん(当時81歳)、刺し子の名人にお会いしたら、その手を見せていただこうと思いました。

うかがった日の秋田は、小春日和の冬でした。田を囲む集落に建つ家々は、すっかり冬ごもりに入っていました。刺子の名人は、暖かな家庭の和の中に、まあるく座って手を動かしています。ぽかぽかと暖かいおばあちゃんの部屋にはきちんと整頓されたお針箱がありました。

昔々から、農家の娘たちはせっせと縫い物をしつけられました。手先の器用な娘は、いい嫁さんになる資格を持っていることになります。昼は田畑で働き、夜は刺子を刺したり、縫い物をしたりで働き通し。私の母もそうでした。

野良着、手甲、脚絆…六年生のとき、麻の葉を刺して甲をもらった少女は、針と糸が人生を織り成していく道具とは気づきませんでした。一家中の野良着の始末が、当時はたちで嫁いだ石塚さんの手にかかっていました。ランプの下で、せっせせっせと針を運びました。

戦争中もそうでした。戦後の暮らしも、針と糸で支えてきました。 自由を得た私たち。でもいま、心の片隅でしきりと針と糸のある暮らしも恋しいのです。手を動かしているのが分からないうちに、布の上に糸が走ります。

「肩懲りしませんか?」と私。
”肩こりなど、したことがない”と。

なるほど、どこにも力む感じがしません。

”手にも、目にも、むりをさせないことがいいんだと思います。手は自然に動くし、目もジーッとこらしてみつめるのではなく、流れを追う感じ。そのかわり、少し暗くなったら、もう仕事はやめます。”

”浜さん、子どもは叱ってもダメ。ほめてほめて、育てた方が、いいなぁ”

”息子、嫁、孫、孫の嫁、ひ孫……そのみんなが宝物。宝物のために、刺し子してるんす”と。

子育て真っ只中にあった私。石塚さんのように肩ひじはらず生きていきたいと心底思いました。石塚家に別れを告げて、夕暮れの田の道を行くとき、雨が雪に変わっていました。夕暮れに舞う雪が、刺し子に見えます。果てしない空を一針一針、踏みしめるように生きるしかないことを、石塚さんの刺し子が教えてくれたように思いました。  

ブルーノ・タウトも柳宗悦も見た「東北の風景。」先へ先へと急ぐ私たち。伝統と近代。私たち日本人は”按排(あんばい)をどの国の人よりも大切にしていると思うのです。

東京ステーションギャラリー
https://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/202207_tohoku.html

沖縄の美

東京駒場の日本民藝館で「復帰50年記念 沖縄の美」展が8月21日(日)まで開催されています。

琉球王国として独自の文化を形成してきた沖縄。このブログにも何度か沖縄の工藝については書いてまいりました。今回の展覧会では館蔵する紅型や織物、陶器など、特に沖縄離島の織物など、八重山上布や宮古島の紺絣、久米島の鮮やかな黄色地の絹織物など、勿論私の好きな花織など島々の織物を一堂に見られます。

柳宗悦が初めて沖縄を訪問したのは1938年。以来、4回にわたり工芸調査や蒐集を重ね「沖縄の美」を紹介してきました。そして「美の宝庫」であることを世に紹介してきました。

私自身、この民芸館には何十回訪れたことでしょうか。何度見ても感動する「てぃさあじ」。漢字で書くと「手」。女性が兄弟や想い人のために、旅の安全や健康を祈りながら心を込めて作り贈った布です。いろいろありますが、日本民藝館に所蔵されているてぃさあじは芭蕉布が多く、命をかけて漁に出る男達に贈った手拭いのような布。華やかさのなかに温もりがあり、女心がよく現れています。大好きな織物です。

民芸館の正面の階段を上り、シックな長椅子に腰掛、私はしばし、「なぜ、こんなにも日本の手仕事が好きなのかしら?」と思いました。

昭和18年11月。私は東京・亀戸で段ボール工場を営む父と母のもとに生まれました。父は九州八代の出身、母は三重県伊勢の出身です。父は出征し、空襲の続く下町で母ひとりで奮闘することが、どんなに大変だったか、想像にかたくありません。乳呑み児の私を背中に背負い、小さかった兄の手をひきながら、工場を見回り、女工さんたちと働くという日々でした。

いよいよ戦火がはげしくなり、下町の人々がどんどん疎開を始め、私たち母娘もとにかく疎開することに決めたのです。女工さんたちにも早く帰るよう言い残し、母は二人の幼子の手をひいて親戚のいる神奈川へ疎開しました。あの東京大空襲の前夜のことでした。工場の留守を守った女工さんたちは、工場もろともその夜、亡くなりました。たった一日の違いが、女工さんと私たち家族の運命をこうもひきさいたのでした。

東京の空が赤く燃えるのを、母は身をもがれるような思いでみつめたと後に語っていました。私たち家族は女工さんにいのちを分けていただいたのでした。戦後、父は復員してきましたが、戦後の混乱のさなか、なかなか立ち直れず、母が仕立て仕事をしながら私たちを育ててくれました。

手先の器用な母は、仕立て仕事の腕もよく、大変忙しくしていましたから家事の多くを5~6歳の私にやらせました。お米のとぎ方、かまどの火のこと、おかずの心配…貧乏のつらさにうちのめされそうになると、母は私に聞かせたものです。「あの女工さんたちの尊いいのちとひきかえに得たいのち、それがあなたのいのちなのよ。大切にしなければ……」貧乏のつらさにうちのめされそうになると母は、私にこの言葉を聞かせ、そうして自分にムチ打って生きてきたのでしょう。

甘えたい思いも強くありました。でも、口には出すべきではないという私なりの意地がありました。子どもらしくない子どもだったのです。私はしっかりした、よく手伝えるお姉さん。しっかりお手伝いしなければいけない…。あれはたしか6歳だったと思います。

七・五・三を前にして母は、赤いキモノを私に着せたくて、それこそ夜なべして赤いキモノを仕立ててくれました。ところが私は、そのキモノが好きになれませんでした。なぜなら、女の子は赤、ときめつけ、私の意志でなく母の意志のもと勝手につくられてしまったそのキモノは、私を無視しているというふうに受け止めてしまったのです。

私は母に着せられた赤いキモノ姿で外へ飛び出し、ペンキ塗りたてと書いた青い塀の前へ、ペタンと全身ではりついたのです。今思い出しても、なんて可愛くない子だと呆れてしまいます。なんとも勝気な六歳の私が、遠景の平野にぽつんと立って頑張っている図が浮かびます。  

民芸館の椅子に座りながら幼かった頃の私に出会います。 沖縄の女性には特別な霊力があるといわれます。「オナリ神」信仰があり、女性は家族や恋人への無事を祈り思いを込めて織った「てぃさあじ」はまさに沖縄の美であり、温もりであり、手仕事ならではの美しさです。心豊かな午後のひとときでした。

日本民藝館
https://mingeikan.or.jp/exhibition/special/?lang=ja

映画「エルヴィス」

遥か昔の思い出を、つい最近の出来事と思い込んでいた。暫くぶりに、そんな体験をしました。『エルヴィス』。引き寄せられるように、日比谷の映画館に足を運びました。  

エルヴィス・プレスリーに歓声をあげて興奮したわけではありませんが、彼こそがアメリカなのだ!あの国の若者の象徴なのだ!と納得していた時代が、私にもありました。1960年代でした。それから半世紀以上、私の”エルヴィス像”はその頃のまま、ほとんど変わりませんでした。  

エルヴィスはアメリカ南部のミシシッピ州で生まれました。日本の年号で言えば、昭和10年でした。今以上に人種差別の激しい時代、そして地域でありました。しかし、エルヴィスには、それを包み込もうとする音楽的感性や、精神的な柔軟さが備わっていたようです。

10歳の頃から地元の”のど自慢大会”に出演したり20才を前にレコードデビューも果たしました。下半身を振り絶叫する。黒人文化を思わせるようなエルヴィスの仕草と存在そのものが、当時のアメリカ南部の保守層には許せないことだったのです。「逮捕する!」と警察に脅されたエルヴィスが、こうした社会の空気や圧力にどのように抵抗していったのか。この作品には、その様子がドラマチックに再現されています。  

エルヴィスを演じたのはオースティン・バトラー、31才。彼は出演が決まってから2年間、家族や友人との接触を断ち、役作りに専念したそうです。その大変な決意がスクリーンでは、見事に花を咲かせました。

そして共演は、アカデミー主演男優賞を2年連続で受賞したトム・ハンクス。エルヴィスのマネージャーの役を演じました。しかし、この役は共演というよりも、もう一人の主役という意味合いが強かったです。エルヴィスという素材を大切にしながら、いかにビジネスとして成功させるのか。エルヴィスとの衝突を覚悟して、プロの役割を貫きました。  

この映画の監督は、『華麗なるギャッツビー』のバズ・ラーマンでした。綿密に計算されたドラマ仕立てとドキュメンタリーの匂いが同居していて、不思議な魅力に溢れた世界が広がっていました。  

この作品の最後は、エルヴィスが歌い上げる『アンチェインド・メロディー』のコンサート・シーンが流れます。アンチェインドとは、鎖につながれていない!自由に羽ばたく!という意味が込められているようです。人生の最後まで求め続けたエルヴィスの理想を、ラーマン監督は何としてでも強く訴えかけたかったのでしょう。

多少むくみの目立つエルヴィスの表情が、心震えるほど迫ってきました。  

客席は中高年の方々で、ほぼ満員でした。しかし、20代の若者たちの姿も目につきました。自分たちが生まれる前の大スターの生き方や時代精神を、今の彼らはどう受け止めたのでしょうか。   エルヴィスが僅か42才で亡くなってから、もう45年が経ちました。8月16日の命日が間もなくやってきます。

映画公式サイト
https://wwws.warnerbros.co.jp/elvis-movie/