追憶の旅 北海道 美瑛(びえい)

その葉書が届いたのは、そう・・・もう24,5年前でしょうか。
旭川から富良野に行く途中の美瑛の美しい丘陵のハガキでした。
友人は北海道をひとり旅をしていて、その美しさに感動をしたとのこと。

写真は美瑛の丘陵に惚れ込んだ世界的な風景写真家・前田真三さんのものでした。麦畑やジャガイモ畑、咲き乱れる花々。その美しいハガキにこちらが感動し、彼女の優しさに胸がキュンとしたことを鮮烈に覚えております。

『行きたいな~・日常から解放されたいな~』との思いで、ハガキは夏でしたが、晩秋の頃に2泊3日で旭川からJRに乗り美瑛に行きましたっけ。

20年前に亡くなられた前田真三さんが開設した、個人のギャラリー「拓真館(たくしんかん)」がありました。廃校になった小学校の跡地を利用し、1987年7月にオープンしたとのこと。
拓真館公式サイト:
https://www.biei-hokkaido.jp/ja/sightseeing/takushinkan/

中に入ると目を奪われます。前田さんは美瑛の丘の美しさに衝撃を覚え、「この丘への思いは募るばかりである」と語っておられます。

氏の代表作「麦秋鮮烈」。赤麦と呼ばれているタクネコムギの強烈な赤の色彩には、「突然の夕立が、作物についた埃などを洗い流し、色合いも鮮やかになって斜陽した瞬間をとらえた」と説明がされていましたが、しばらくはその美しさの前に私は立ちすくんでおりました。

四季折々の風景を観てロフトになった展示コーナーには「心の眼で撮る」という前田氏の感性が伝わってくる世界感があります。

たっぷり一日は過ごしたでしょうか。写真を堪能した後は白樺が美しい散策路を歩き満喫したことが、昨日のことのように思い出されます。2300本の白樺、小路には野の花が咲き、この上なく幸せな気持ちにさせてくれます。

丘の大地が生まれたのは、十勝の峰々が200万年ほど前から、繰り返し大噴火を引き起こし、泥流、火山灰が積み上げ丘や平地が形成されたのですね。その肥沃な土地での農業・酪農など、先人の努力で現在の美しい恵みが誕生し、「農の町」となり、温泉にも恵まれ観光地としても豊かな町になっているのでしょう。

その美しさを広めたきっかけは前田真三さんの写真だと思います。
『美しい丘は農業を営む人たちにより創りだされています。』とパンフレットにもあります。

そうなのですね。文化放送「浜 美枝のいつかあなたと」(日曜10時半~11時)の中のコーナーで「よい食と共に」があり、毎回その土地でとれたものを、生産者の創意工夫でその地域ならではの特産品をリスナーの方々にお伝えしています。

そこで、『美瑛』につながります。ある日「丘のおかし焼きとうきび」をご紹介したのですが、まあ~~美味しいこと!しょうゆの風味が香ばしい、美瑛産のとうきびのフリーズドライ。スタジオではひと口なのですが止まりません!ほんとうに止まりません!

有楽町駅前の交通会館の地下にあるアンテナショップ「美瑛選果」に行きました。ありました!さっそく6袋購入。1袋(300円)広くはない店内ですが左手に10名くらい座れるテーブルと椅子があります。

皆さん「美瑛豚」を使用しているカレーを美味しそうに召し上がっておられましたが、私は昼食はすんでいたので、美瑛牛乳で作られた「ソフトクリーム」をいただきました(389円)満足・満足!ショップにはいろいろ、とくにあずきも美味しそう。次回は買いましょう。

と、言うわけで『追憶の旅』は食も、農も、風景も、農家がつくっている。そんなことを思い出させてくださいました。

アンテナショップの「焼きとうきび」お薦めです!

美瑛町の公式サイト https://www.biei-hokkaido.jp/ja/

没後10年 石井桃子展「本を読むよろこび」

翻訳『ピーターラビット』シリーズや『クマのプーさん』、創作『ノンちゃん雲に乗る』など優れた児童文学に生涯をささげた石井桃子さん(1907~2008)に光りをあてた展覧会「没後10年 石井桃子展」が横浜の海の見える丘公園内にある県立神奈川近代文学館で開催されております。(9月24日(月・振休)まで)

ある晴れた日、箱根の山から横浜まで、小さな旅をしてまいりました。

昭和初期から101歳で亡くなるまで、編集者、翻訳家、作家として幅広く活躍され、児童文学の研究や”家庭文庫”の開設など、その幅広い業績は多くの人々に影響を与えました。

今回改めて文学館で、書簡や原稿、また写真をはじめ、約400点の資料を丹念に見ていくと、石井さんは戦争の時代を乗り越え、働く女性の先駆者的な役割を担ってこられたことが良くわかります。

『クマのプーさん』の原稿を売り込む手紙や、児童文学者A・Aミルンが書いたプーさんのお話を親友のために少しずつ翻訳し、1940年に『熊のプーさん』として刊行したことも知りました。

私が生まれる3年前のことになります。あの軍国主義が広まっていく時代背景を思えば、大変なことであり情熱を注いだことがよくわかります。

石井桃子さんは1907年(明治40年)3月10日、埼玉県の浦和で、銀行員の父・福太郎と母・なをの間に生まれ、兄ひとり、姉四人、祖父母、いとこなど大家族の末っ子として愛されて育ちます。

住む家も敷地内に畑があり、自給自足の生活の姿は昔のまま。広々とひろがる田畑を遠く囲んで林が見え、その林の上に富士山が見え、それが、私の世界の果てであったと「幼ものがたり」に記されています。児童文学への素地はこのような環境におおいに関係があるのかも知れませんね。

日本女子大学校に在学中から、近くに住む作家・菊池寛のもとでアルバイトをし、その縁で卒業後、翌年、菊池が組織した「文筆婦人の会」の一員として文藝春秋の仕事に関わるようになります。「婦人サロン」や「モダン日本」の編集にも携わり、親友となった小里文子ともここで出逢います。

今回の資料で嬉しい発見がありました。それは、『なぜ、石井さんはプーさんに惹かれたのか』ということが分かったからです。

私は「クマのプーさん」が大・大・だい~好き・・・だからです。小学生になり、家は貧しかったので本を買うことはできませんでしたが、図書館でよく借りていました。何度も・何度も借りてきて読んだのが「クマのぷーさんプー横丁にたった家」でした。

1929年ころから、石井さんは菊池の紹介により作家で政治家でもあった犬養健の父・犬養毅の書庫の整理を任されます。

健や妻や子どもたちと親しく交流するなかで、『プー横丁にたった家』の原書と運命的な出会いをします。それは1933年(昭8)クリスマスイブの晩、犬養家に招待されそこでA・Aミルン作の原書に出逢い、犬養家の道子、康彦姉弟にせがまれその場で訳して聞かせながら、石井さんは「プーという、挿絵で見ると、クマとブタの合いの子のような一種不思議な世界に入り込んでいった」と「プーと私より」に書かれています。

この出逢いがなければ生まれていなかったかもしれませんよね!「クマのプーさん」は。

私はといえば「いつか働けるようになったら”プーさんの本”を絶対に買おう!」と決めていました。女優になりお給料をいただき1962年11月の第一刷発行を待って手にした『クマのプーさん プー横丁にたった家』。

今でも大切に手元に置いてありますし、それから・・・本を手にしてから4・5年経って東宝映画から「パンナム」の日本~ロスアンゼルス間の就航にご招待いただき、ディズニーランドにも連れていっていただき、そこで出逢った「プーさん」50センチはあるでしょうか。帰りの飛行機で私は膝に抱え大事に一緒に帰国しました。私の4人の子どもたちも一緒になって遊び、鼻が少し、取れかけたり・・・と、思い出がいっぱいです。

プーのあの丸々した、あたたかい背中は、いつもそばにありました。その背中は、私たちが悲しい時、つかれた時、よりかかるには、とてもいいものなのです。とりわけ、私が深くプーに感謝したのは死を前にしたある友だちを、プーが限りなく慰めてくれた時でした。(『熊のプーさん』あとがきより)

そうなのですね・・・石井桃子さんもプーに慰められたのですね。私も一緒。

今回の展覧会では、岩波の子供の本や、奨学金を受けて横浜港からアメリカへ出発し全米各地の公共の図書館見学や、ドイツ、フランス、イギリス、イタリアなどまわり多くの有能な図書館員との交流は戦後の日本の児童文学の礎になったことでしょう。

こどもたちよ 子ども時代をしっかりとたのしんでください。
おとなになってから
老人になってから
あなたを支えてくれるのは
子ども時代の「あなた」です。

石井桃子
2001年7月18日

心に残る素晴らしい展覧会でした。

★会期中の関連イベントはすべて満席でした。残念!

神奈川近代文学館 公式サイト
https://www.kanabun.or.jp/exhibition/7991/

琉球 美の宝庫

美しいものが生まれる島 ”琉球”

現在、六本木・東京ミッドタウンのサントリー美術館で開催されている展覧会に行ってまいりました。(9月2日まで)中でも8月22日~9月2日まで開催中の展示国宝王冠(復元)は必見です。

琉球の染色、琉球絵画の世界、琉球国王尚家の美、琉球漆器の煌めき、『生活の中の美』をコンセプトにしているサントリー美術館ならではの企画展です。これまでも”琉球の美”をテーマに数多く展覧会が開催されてきました。2007年に六本木に移転され開催された「美を結ぶ。美を開く」というメッセージは私にとってこの上ない喜びでありました。

何度かブログには載せましたが、私が沖縄の美(琉球の美)に出会ったのは民藝運動の創始者・柳宗悦氏の「手仕事の日本」を手にしたときから始まります。まだ本土復帰前のことです。旅好きの私は日本の地図を広げるのがとても好きです。「山や川や平野や湖水も、それぞれに歴史を語っているからです」・・・ではじまる「手仕事の日本」。

『沖縄ほど古い日本の姿をよく止めている国はありません。』

本の最後のほうにこう「沖縄」が出てきます。
長文ですが最初のところを載せますね。

「火燃ゆる桜島を後にし、右手に開聞ヶ岳の美しい姿が眼に入りますと、船は早くも広々とした海原に指しかかります。煙に包まれる硫黄島とか、鉄砲で名高い種子島とか、恐ろしい物語の喜界ヶ島とか、耳にのみ聞いたそれらの島々を右に見、左に見て進みますと、船は奄美大島の名瀬に立ち寄って、しばし錨をおろします。

更に南へと船首を向ければ、早くも沖縄の列島に近づきます。行く手に細長い島が横わりますが、古くからこの島を沖縄と呼びました。沖に縄が横たわるように見えるので、その名を得たといわれます。

支那ではこの島を琉球と呼びました。沖縄はその本島のほかに沢山の島々があって、中久米島とか宮古島とか八重山島とかの名は、度々耳にするところであります。

日本では一番南の端の国で、荒れ狂う海を渡って行かねばならないので、昔はそこに達するのが並大抵な旅ではありませんでした。この文明の世の中でも、神戸から早い船ですら三日三晩もかかります。島の人達は孤島にいるという淋しい感じをどんなに屡々味わったことでありましょう。

ですが、面積の小さな島でありながらも、一つの王国を成していましたから、長い歴史が続き立派な文化が栄えました。尚王が城を構えたのは首里で、その近くの那覇は国の港でありました。外との往き来が不便でありましたから、すべてのものをこの国で作らねばならなかったのでありましょう。このことが沖縄に独特なものを沢山生み出させた原因となったと思われます。」

そうなのです。この一文に惹かれて私の沖縄の旅は始まりました。心惹かれる染色や織物。南国の花々は四季折々絶えません。緑は濃く、海は青く地は白い。

その自然が生み出したものに「紅型・びんがた」。型紙を用いて染めます。染物にも劣らず、美しい織物。絣の見事さ。織物類は彩の多い柄が麗しくその美しさに目を奪われます。

中でも私が心奪われたのが「読谷村の花織」です。500~600年前に南洋から伝来した織物と言われ、その織りかたが複雑なため織り手がいなくなり、その再現に一生懸命だったのが、読谷村に暮す与那嶺貞さんでした。たった一枚のちゃんちゃんこを手がかりに再現したのです。30年ほど前から通い続けました。今は亡きこの方から、私は忘れられない言葉をいただいたのです。

”ザリガナ サバチ ヌヌナスル イナグ”
もつれた糸をほぐして、ちゃんとした布にする女・・・

こんがらがって織れないからといって切って捨てたら一生布は織れません。女として、それは、丹念にほぐしていきましょうよ。与那嶺貞さんは機織の向こうで穏やかそうにおっしゃるのです。

今回の展覧会には日本民藝館から「花織」が出品されています。
柳宗悦の「手仕事の日本」の中に「沖縄の女性達は織ることに特別な情熱を抱きます。」と書かれております。

展覧会の絵画では、江戸で琉球ブームがおきるきっかけとなった琉球使節を主題とする品々。それはそれは見事な漆器。まさに『琉球の美』を堪能することができる展覧会でした。

私たち本土の人間はこのような歴史や文化をどこまで理解しているでしょうか。先の戦争でどのようなことが起き、沖縄の人々、文化を失ったのでしょうか。今起きているさまざまなことを、もう一度振り返り、この「琉球の美」に改めて触れることの大切さを教えてくれた素晴らしい展覧会でした。

サントリー美術館 公式サイト
https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2018_3/

深夜航路

なんとも羨ましい旅をなさっておられる方がいらっしゃいます。午前0時からはじまる船旅です。日本で現在運航している深夜便(午前0時~3時発)の全14航路を旅した方です。

北は函館ー青森間。
南は鹿児島ー奄美大島間。
羨ましいのは敦賀ー苫小牧東港。948キロを20時間で結ぶフェリーです。敦賀港(福井県)と苫小牧東港(北海道)深夜航路の中では最長の航行距離。敦賀を出たら能登半島、そして佐渡島・・・ひたすら北上します。

出航が00:30発で翌日の20:30着。「すずらん」(1万7382トン)は本州と北海道を結ぶトラック・貨物がメインですが、旅客サービスにも力を入れていて快適な空間だそうです。

船室は3階層でレストランのみならず事前予約をすればグリル、露天風呂!まであるそうです。あ~いいな!私は憧れていたのです、深夜航路。

クルーズ船とはちょっと違う世界が広がっています。山口の徳山港を午前2時に出航する竹田津港(大分)行き「ニューくにさき」。中国地方と九州を結ぶ唯一の深夜航路、2時間!

旅した方は清水浩史さん。
この度素敵な本を出されました。『深夜航路』(草思社)

午前0時を過ぎると・・・・・。
そこには、「扉」がある。
もうひとつの世界へと通じている扉が。

そうだ。午前0時を過ぎると、扉が見つかるはず。
深夜は誰からも干渉されることのない時間。
最も日常から離れられる時間だからこそ、
見えてくるもの、感じられるものがあるはず。
午前0時に旅立ちたい。
全国の深夜航路の旅に出かけよう。  (深夜航路より)

清水さんは書籍編集者でライターがご本業です。毎日慌しい生活を送る中での深夜航路の旅へと出かけます。これは詳しくお話を伺いたい!とラジオ「浜美枝のいつかあなたと」にお招きし、お話が伺えました。

深夜の旅では、自身の内面が開かれてくる。自己対話、内的省察の扉が開かれてくるのだそうです。日中は知覚がが開かれているので、目の前のことを次々と対処していかなければならない。思索したり、想像することを忘れがちになってしまう。所用時間15分の直島(香川県)と宇野などワクワクしてしまいます。

直島はアートの島として今やフランス人はじめ海外からの観光客で賑わっていますが、深夜になるとまた素敵だそうです。そうですよね~、真夜中に見えてくるもの・・・ってありますものね。まだ若いころから憧れていた「深夜航路」を実践している方がいらしたなんて!

昔、若き頃、コロール島やマップ・ヤップ島で見た満天の星空も、カナカ人が小船に乗って月明かりをたよりに島に辿りついた時の話しを古老から聞いたのも「深夜」でしたっけ。

これからでもまだ出来るかしら・・・。「深夜航路」が。

まずはラジオをお聴きください。
そして素敵な表紙の本をご覧いただき”旅した気分”を味わってください。

文化放送「浜美枝のいつかあなたと」
日曜日10時半~11時
放送8月19日

映画「グッバイ・ゴダール!」を観て。

現在87歳のジャンリュック・ゴダール監督は今年もカンヌ映画祭に新作を出品している現役監督です。フランス・ヌーベルバーグの草分け的存在だった監督。フランス映画界において「生ける伝説ジャンリュック・ゴダール」ともいわれます。

60年の「勝手にしやがれ」そして「気狂いピエロ」など、私には衝撃的な映画でした。その監督を描いた「グッバイ・ゴダール」を観てまいりました。

『グッバイ・ゴダール』を撮ったのは「アーティスト」でアカデミー作品賞と監督賞を取っている巨匠ミッシェル・アザナヴィシウス監督。

ストーリーは「中国女」の主演にアンヌ(ステイシー・マーティン)を抜擢します。ノーベル賞作家フランソワ・モーリャックの孫娘。その19歳のアンヌに一目惚れしたゴダールは彼女と2度目の結婚をします。

原作は昨年亡くなった彼女自身の回顧録によるものですが、ミッシェル監督がどこまで物語構成しているか分かりません。新聞記事によると「彼の脚本には、皮肉とともに軽妙さがある。この映画の撮影は、ギリギリの線上を歩き続けることが必要でした。誰もが常に『やりすぎていないか』ということを注意していました」と書かれていました。

世界中で学生たちが反乱を起こした1968年前後。フランスでも5月革命が起り、まさに政治の季節。ゴダールもデモに積極的に参加します。フランスは、自由・平等・博愛を国是としている一方で、つかまった学生たちはあの五月革命の頃には警察署から悲鳴が耐えなかった、と知り合いから聞いたことがあります。

そんなデモに参加していたゴダール。警察隊と学生や群集が血を流す、そんな場面もゴダールの行動をユーモラスに捉えているのです。プライベートでは嫉妬深く、エゴイズムで、アンヌとの仲も彼女が女性として成長していく過程で徐々に暗雲をはらんでいく・・・。

『人間ゴダール』を描いているのですが、そこは、フランス。ユーモアのなかにも「どこまでが真実なの?」とも思いました。べつに「真実」が必要だとは思いませんが、あの時代のゴダールフアンにとっては”何か虚仮(コケ)にされてるな~”という思いにかられます。

以前私が10代の頃にカンヌ映画祭で、と来日された時にお目にかかったことがあります。私の目には人間的に魅力的で理論家、そしてユーモラスな人との印象が残っています。もちろん人間ですから表面だけでは分かりません。

でひ聞いてみたいです。『ゴダール監督!いかがでしたかこの映画は?』と。ただ、横に手を振るだけでしょうか。それとも笑って許すのでしょうか。ゴダールフアンの方、ご覧になったら感想をお聞かせください。

アンヌ役の主演女優 ステイシー・マーティンが素敵です。美しいです。ゴダールの活躍したあの時代の空気間は見事に伝わってきます。

『グッバイ・ゴダール』   いいえ、あなたは永遠です。

映画公式ホームページ
http://gaga.ne.jp/goodby-g/