沖縄への旅

沖縄へ通い始めてかれこれ45年がたとうとしております。
きっかけは『沖縄こそが民芸のふるさと』と、柳宗悦の本に書かれていたからです。民芸はもちろんのこと、なぜ私がこんなに沖縄に魅力を感じ、沖縄を訪ねると第二の故郷に戻ってきたかのような安堵感を覚えるのでしょう。
その理由は人だと思うのです。
特に沖縄の女性たちの、辛いことがあっても空を見上げてスクッと立ち続ける明るさとたくましさ。面倒見が良くて、働き者で健康的な気質。そのすべてに強くひきつけられているのです。
12月も押し迫り、明日はクリスマスイブ。
沖縄タイムス「タイムス女性倶楽部」の会に招かれ講演を24日にいたします。
今年は沖縄にとっても政治に翻弄された大変な年でした。
同じ日本人として、心から申し訳なく思います。
沖縄の痛みは私たち日本人全員の痛みです。
沖縄に住む人々が恐怖や苦しみを味わうことなく、平和に暮らせる日が早く来ることを願っております。そうしていかなければならないと念じております。
沖縄は食文化の宝庫でもあります。
沖縄料理の世界は深く優しいです。
たとえば、うちなーぐちの「くすいむん」や「ぬちぐすい」という言葉がありますが、私はこのふたつの言葉を口ずさむと、すっと背が伸びるような気持ちになります。この言葉は、生きることの根っこに食べることがあるということを教えてくれます。そこには感謝の気持ちも含まれています。
生きるために食べる。大切に食べる。命を大事にする。
沖縄が昔から暮らしの基本として守り伝えてきた、こうした言葉を、そして、言葉の奥に秘められた謙虚な生き方を大切に守り、次の世代につなげていかなくてはならないと思います。
沖縄調理師専門学校校長である新島正子先生に、以前、沖縄の食文化についてお聞きしたことがありました。
「苦闘の歴史を経てなお、人々の記憶の底に郷土の味が残っていた。
文化は滅びない。占領されない」との新島先生の言葉は忘れられません。
沖縄には4日間の滞在です。
私を温かく迎えてくれる
美しい島(チュラジマ)
沖縄の(ウチナーヌゥ)
ネーネー。アンマァ。オバァ。
待っていてくださいね。

お逢いしたいです、ユリさん

おばさまが亡くなられてあと少しで13回忌ですね。
とても、とてもお逢いしたくて早朝、箱根の山を下って長野の御代田に向かいました。その日は朝から富士山が美しく、早朝の旅を見つめていてくれました。
あれは25年ほど前のことになるでしょうか。
林道、農道、さまざまな小径に分け入り、とにかく走り続けたあの日。
秋の始まりの信州は、私の大好きな色合いをしていました。
柔らかなモスグリーン、ベージュ、柿色。
日本の秋の色彩の美しさのすべてが目に広がったのです。
そこで日本とは思えない風景がまぎれこんでいる一角に出逢いました。
それがユリさんの農場でした。
お会いした瞬間、私はこの方をずっと知っていたような気がしました。
ユリさんからのお手紙が置いてあるのをみたときは、ラブレターをもらったときよりも喜んでいる自分に気がつきます。
村田ユリさんは、知る人ぞ知る植物の研究家であり、マスコミにはお出にならないけれど、いろいろな分野の方から慕われていた方です。
ドイツをはじめ、ヨーロッパに長くいらっしゃったとのこと。
戦中、戦後の大変な時代を背筋を伸ばして生きてこられた方なのです。

何よりも日本の自然が破壊されていく過程を憂えていらっしゃいました。
あるとき、疲れ果てて夜遅くユリさんの家に着いた時があります。
そのときユリさんは、ご自分の庭で採れたハーブを木綿の袋につめ、それをお風呂に入れて「気持ちいいわよ。お入りなさい」とすすめてくれました。
こまやかな心遣いが嬉しくて、涙がでるほど感激しました。
ひたすら疲れ果て、ただただ眠りたかったのです。
私は、私たちが出会った頃のユリさんと同じ年齢になりました。
人のために自分の空間と時間をすっと人に差し出せる豊かさなど持ち合わせていません。そうなりたいと願っているのですが・・・。
寒い夜、暖炉に薪をくべ、暖かい火に一緒にあたりながら、ワインを飲んだりおしゃべりをしたり。そんな時ご近所に住む玉村豊男さん、奥さまの抄恵子さんと出会いました。豊男さんが腕を奮ってくださった料理をいただく機会にも恵まれました。
ユリさんは昼間はほとんどの時間を、長靴をはいてシャツと作業着を着て、手は土にまみれ、額に汗を光らせていました。夕方、シャワーを浴びて宮古上布か芭蕉布か、サックリした風合いの上布の襟を合わせ、背筋をのばして・・・とても美しかったです。
とてもとても、ユリさんにお逢いしたくなり、抄恵子さんにお願いしてしまいました。「おばさまのお家に連れていって」・・・と。そして、ユリさんのスケッチブックをいただいてきました。

夜は玉村さんの家に泊めていただき豊男さんの料理、そしてご自身で丹精込めて作られたワインをいただきました。
嬉しかったです。
ありがとうございました。
ユリさん、『もう一度お逢いしたいです。』

地域活性化に向けた食と農のあり方

先日、山口県周南市で第23回全国農村アメニティー・シンポジウムが開催されました。私は『土地ごとの暮らしと知恵を見直して』と題してお話をさせて頂きました。その後はシンポジウムにも参加いたしました。
ふれあいセンターに着くと、地元のお母さんたちが温かく迎えてくださり、彼女たちの手づくりの美味しい料理の数々が並び「浜さ~ん!久しぶり!」と声をかけられ嬉しかったです。

この20年近く、私は地域で活躍する農村の女性達を応援してまいりました。私の役割は、生産者である農山漁村の人々に「がんばってください!」とエールを送ることであり、また消費者である都会の人々とのパイプ役になることだと思っております。
「食は命」であり、暮らしの原点であり、文化です。
女性はその担い手であり、守り手といえるのではないでしょうか。
日本のさまざまな場所で女性たちが、それぞれひたむきに活動してきました。
郷土料理の復活、地域の食材を子供たちの給食へ、老人センターや地域の病院から委託を受け、加工品を納入したり、また都市との交流・活性化にむけファーマーズ・マーケット運営など20年前には考えられないほどです。
女性の繋がりは縦ではなく、横の関係です。
「この指とまれ!」方式です。
「こう思うのだけれど」
「それ、いいわね」
「こっちはどう?」
平等な位置関係で思い思いに話しを進めていきます。
けっして声高に語られることはありません。
自然と向き合いながら、彼女たちは作るものに惜しげもなく手間ひまをかけます。無理に背伸びをしない、身の丈にあった等身大の活動です。だから私は尊敬できるのです。
私たちにとって、もっとも大切な「食」が、今、揺れています。
TPPはどのような方向に行くのでしょうか。
30年、50年先、いえ100年先を見すえて議論してほしいと思います。


今回のテーマである『土地ごとの暮らしと知恵を見直して』という観点で考えると、村おこし、町おこし運動は、上の人から押し付けられるものではなく、その村、町が再生するための「宝」は人、風景、事象も含めて今自分たちの暮らしているその「場」にあると思います。
自分達の生まれ育った地域を深く愛し、「この村、町を滅ぼさせない」・・・という強い目的があれば必ずその「宝」は見つけられると思っています。そんな話をさせて頂き、素晴らしい町づくりをしてきた全国10ヶ所を、写真をお見せしながらご紹介しました。

最後にご紹介したところは福島県飯館(いいたて)村でした。
この村は「魅力ある人が行う農業は、魅力ある農業を育む」という信念のもと、他とは違う快適な農村環境の中で「愛情」と「信頼」で結ばれ、活力ある村づくりを長年なさっていらした村です。私は何度もお訪ねしました。
ご承知のように東日本を襲った最大の地震。
そして、福島第一原発事故で、村が計画的避難区域に指定されました。地域共同体は今もしっかり生きていますが、故郷を離れざるを得ない村民の方々の現実。かけがえのない多くの人命と営々と築きあげた暮らしが一瞬にして失われ、数十万もの人々が被災しました。今までのご苦労を思う時、胸がはりさけそうになります。
今回のシンポジウムでは山口からの発信として素晴らしい活動をしている周南市の事例も伺い、改めて「食・農」のあり方を考えました。
「美しい日本の暮らし」を求め、私の旅は続きます。

『訪ねちまった中也の故郷』

日経新聞夕刊(11月2日)に詩人・中原中也のことが掲載されていました。
かねがね訪ねたかった「中原中也記念館」
先週小倉での仕事の後、また”寄り道”をして私も「訪ねちまった」のです。
新山口からJR山口線に乗り湯田温泉で下車。
記念館は中也生誕地にありました。
中也の生家は広い敷地をもつ大きな医院だったそうですが、火事で茶室と蔵を残して焼失してしまい、記念館はその生家の敷地の一部に建っています。
入り口には中原家の庭にあった木が残されていました。

小雨降る日でしたから、かえって落ち着いて拝見できました。
バッグの中に「私はその日人生に、椅子を失くした」をしのばせていました。
(鑑賞解説・高橋順子/小学館)
傷つきやすい魂は、中也節とよばれる。
独特のリズムに乗って、喪失の海をさまよう。
やさしく、やるせなく、時に残酷に。
と書かれています。
記念館には中也の遺稿や遺品を中心にさまざまな貴重な資料があります。
繊細すぎる心と体。30歳の若さで世を去ります。
中也自筆原稿を読み、ようやく私の中の中也が浮かびあがってきました。
かねがね不思議に思っていたことがあります。
中也が眠る中原家の墓石の文字を中学2年の中也が書いたと言われています。
「なぜ中学生の中也が書いたのかしら?」
それも分かりました。
資料館にある中也の文字の美しさ。
きっと大人より美しい文字を中也は書いていたのでしょう。
『帰郷』も好きな詩です。
ああ、おまえはなにをしてきたのだと・・・
吹き来る風が私に云う

記念館を後にし、中也の眠る墓に行きました。
車で10分ほど行くと  「中原家累代之墓」がありました。
お参りをすませ竹林のある小道を歩いていると手押し車のおばあちゃんとすれ違いました。
中也の故郷・・・をからだごと感じた”寄り道”でした。