韓国 食アメの旅

昨年同様、9月初旬に、コスモスの花が美しく咲く韓国に行ってまいりました。
“食アメニティーを考える会14回・韓国で農村女性グループと交流する会”
総勢40名です。毎年一度、ヨーロッパでグリーンツーリズムを学ぶ会を12回行い、昨年から韓国のパルタン地域、華川郡トゴミ村の自然学校、龍湖里(ヨンホリ)村では農家民泊・・と4泊5日の旅です。
私は、これまで40年にわたり、日本の農山漁村を歩いてきました。
最初は民藝に惹かれての旅でした。
日本の民藝運動の創始者である柳宗悦先生が書かれた本に、中学時代に出会いました。無名の人が作った道具に美を感じる・・・用の美の世界に惹かれ、感動し、以来、人々の暮らし、そして道具というものに、ずっと興味を持ち、その思いを育んできました。
「あちらに古い美しい道具があるよ」
「あそこのお蔵を見せてくださるそうだよ」と誘われれば、仕事の合間を縫って駆けつけました。
日本の古く美しい道具を見たいと始めた旅の行き先は、もっぱら日本の農山漁村でした。やがて私は、そこでごく自然に、農や食の現実に触れることになりました。
「今、農業は大変でね」とか、「国の政策がこうだから」とか、「跡継ぎがいなくて」 等々。おしんこをご馳走になりながら、サツマイモをいただきながら、農家のおばあちゃんや おかあさん、おじいちゃんや、おとうさんから、胸の内をお聞きするにつけ農の厳しさ、又楽しさ、ときには政治に左右される農のありようなどを、実感するようになったのです。
縁あって農政ジャーナリストの会の会員となり、政府の各種審議会の委員も務めさせて頂きました。
現場を歩くうちに農山漁村の女性たちとたくさんの出会いを重ねてきました。それは、私にとって、女性たちの強さ、優しさ、未来へとつなげていくしなやかな力を、改めて再認識する日々でもありました。
そこで生まれたのが「食アメニティーコンテスト」であり、研修旅行で知り合った人たちとの「ネットワークの会」です。
私は会の会長をさせていただいておりますが、横の連帯を大切に、 ”農業をもっと元気にしたい” “食を正面から取り組みたい”など思いを同じにする全国の女性達の交流の場となっています。
「浜さん、私、この会で一生つきあえる友人と出会えたのよ」
「ひとりでは淋しいときもあるけれど、同じ思いの友がいる。自分の味方になって励ましてくれる友がいる」などという声を聞くことが出来ます。
自然発生的に生まれた会も今や全国で活動する女性たちをつなぐ線の役割を果たしているのではないかと自負しております。
前置きが長くなりましたが、そんな仲間との韓国の旅でした。
台風9号が上陸する朝、羽田からの出発となりました。秋風が立ち、美しい韓国の農村地帯が私達を迎えてくれました。大好きなコスモスが一面に咲き、韓国の美しい季節です。
今日は韓国の「親(しん)環境農業」についてお話いたします。
パルタン地域は、ソウル市民の飲み水となる川、ハンガンの上流にあたります。ハンガンの水はソウル市、周辺都市に住む2000万人の飲み水となります。この地域では、ハンガンの水質を守るために、環境を守るための農業が1994年から行われてきました。
農薬や化学肥料の使用抑制、糞尿の排出禁止などの規制強化をきっかけに、最初は12軒の農家が「環境を保護し、水質を保全しながら自分たちも生計を立てられる方法」をめざし、パルタン上水源有機運動本部を設立、今では生産者会員が100軒という組織になりました。
日本ではまだあまり知られていないのですが、韓国では有機農産物をはじめとする親環境農業による農産物の生産、そして有機農産物の消費拡大のため活動など、実に積極的に行われているんですね。
日本では、2001年4月から有機認証制度が始まりました。しかし、販売価格に反映されにくいため、マーケットの広がりは思ったほど進んではいません。
韓国では、国家主導の下、生産者へのバックアップが充実しています。その追い風をうけ、消費者の認識も近年、目をみはるほど向上してきました。特に、パルタン地域の親環境農業は、ソウルに住む都市の消費者を巻き込む
形で推進していて、特に市民が負担する水道代には、「水利用負担金」という項目があり一戸あたり月約360円負担します。
町で出会った若者に、この負担金、パルタンのことを聞いてみました。「もちろん知っていますよ」。「ソウルに住む主婦でパルタンのこと、知らない女性はいませんよ」との事。市民の信頼を得ての農業、環境保全が行われているのですね。
長年、日本の農業に携わってきた私にとっては、羨ましいような思いがございました。
安全な農産物を食べるためには、農村の環境を守ることが不可欠だということ、その底流に流れているのは、消費者の理解なしの農業の未来はない・・・ということ。それをあらためて認識した旅でした。
自然学校内の食堂で韓国のオモニにキムチ作りも体験させて頂きました。本場の冷麺の美味しかったこと。
最後の日の夕ご飯はサムゲタンとチジミで、韓国の食も満喫。南大門市場で粉唐辛子などどっさりおみやげを買って家路につきました。

ラジオ深夜便-「大人の旅ガイド・日本のふるさとを歩く」

今回ご紹介するのは、福島県舘岩村(たていわむら)です。
この村は2006年3月に合併し現在は南会津町 旧舘岩地域となっております。人口2200名。
「ヘルシーランドたていわ」ほんとうの自然と、いろり端の暖かさを残した、素朴でやすらぎのある村をめざし高山植物の宝庫であり、田代山湿原や湯ノ岐川、西根川、鱒沢渓谷の季節の移ろいの美しさは素晴らしいです。
舘岩村は、福島県の西南端の栃木県境に位置し、四方を1.500m級の山々に囲まれ、面積の95%が豊かな森林に覆われた、まさに「山紫水明」の美しい山村です。会津若松から車で、おおよそ2時間。現在は「会津鬼怒川線」が開通しているので東京からは電車・バスで4時間の地点となりました。
冬季は気温が低く雪に閉ざされますが、様々状況を克服するために行政・住民が一体となって、美しい山々、いわなが住む清らかな川、そしてひなびた湯の花・木賊温泉といった豊かな自然を大事にしながら、スキー場もあり若者にも魅力ある雇用の場も確保しています。
交通手段は
電車の場合・・・浅草から東武鉄道鬼怒川温泉を経由して会津高原尾瀬口下車。そこから会津バスで40分。舘岩村下車
車の場合・・・東京から宇都宮・・東北自動車道で西那須野・塩原ICから400号で上三依。そこから121・352号線を経て舘岩村へ。
新幹線の場合・・・東北新幹線郡山。磐越西線で1時間、会津鉄道で会津若松・会津田島経由、会津高原尾瀬口下車。会津バスに乗り換え舘岩村へ。会津高原からのバスの車窓から見える風景は素晴しいです。
村は、4つの地区に大きく分かれますが、どこも自然と調和のある村づくりを目指しています。
① 上郷地区は、スキー場を中心としたヨーロピアンスタイルのホテル、ペンションなどリゾート地環境が形成されています。
② 湯の花地区は温泉地で田代山も近いため自然を生かした滞在型。木賊温泉の共同浴場・露天風呂は700年前からあるとされ、地域住民の井戸端会議の場でもあり観光客・釣り客のふれあいの場になっています。(ちなみに、私はまだ入っておりません。次回はぜひ!)
③ 下郷地区は公共施設が集まっていますが、貴重な「曲家」が数多く残って いる前沢曲家集落もこの地区にあり、景観にあった保存がされています。
曲家とはエル字型の平面をもつ民家で、かつては農耕馬とともに生活をしていました。
囲炉裏のある、うわえん・したえんにある「ユルリッパタ:囲炉裏辺」では家人ないし客の座る場所が決まっていました。
③宮里地区は「さいたま市立舘岩 少年自然の家」があり都市との交流も盛んです。貴重な露天風呂もあり、地域は、2,059mの帝釈山を最高峰とし緑の山と清流に恵まれ、新緑・紅葉と四季折々の景観が美しいです。
伝統文化の保存にも住民の皆さまは積極的に取り組んでおられます。”湯の花神楽”いつ頃から始まったかは定かではありませんが、「舘岩 民俗芸能保存会」によって継承されています。
17歳の私はヨーロッパに一人旅に出たのですが、その農地の広大さに感動し、食料の自給できる国は滅びないと聞いたのも、この旅のときでした。
イタリアもフランスもドイツも、都市からほんのちょっと離れただけで、農村の風景は変わります。地平線まで真緑の麦が青々と揺れて広がって、まるで麦の海原のように見えたこと。忘れられません。
地方は高齢化、過疎化も進んでいますが、舘岩の方々の「村への想い」には頭が下がります。
今は亡き東京大学名誉教授でいらした木村尚三郎先生は、あるシンポジウムで次のようにおっしゃいました。
「その土地ごとに、暮らしの在り方や知恵があります。全世界どこでも共通する技術、文明を追求する時代から、その土地にしかない生きき方、そこに安心の根拠を生み出す時代に、今、全世界が大きな転換期を迎えています。技術文明の時代から、土地ごとの地方文化の時代です。土の匂いのするものが再び大事となり、ふるさと志向が生まれています・・・・」
この言葉を聞いたときに、私は身体が震えるような感動を覚えました。
「土の匂いのするものを大切にする」
「その土地に生きることを自分の中心に据える」人が少しづつ増えていったら日本は変わる・・・・そう信じております。
舘岩の赤かぶの栽培の歴史は古く、この種類のかぶは舘岩村でしか赤く育たないとか・・・。 伝統的な食べ方として、かぶ飯・かぶ練りなど数多く伝承されています。
集落内の水路や水場は今でもお野菜や洗濯物の洗い場として女性達の交流の場として使われています。
昔、木地師たちが、山仕事を始める前に山の神へ供え、作業の安全を祈願して食べていた「ばんでい餅」も美味。味は、うるち米のあっさりとした食感でじゅうねん味噌の香ばしさが食欲を誘います。
紅葉の季節、露天風呂にでも入り村の方々とおしゃべり・・・なんていいですね。

敬老の日に思うこと

私には全国、いえ外国にも20人から30人のおばあちゃんがいます。
あちらこちらのおばあちゃんを訪ねるのが楽しいし、旅の途中で、さまざまな温もりもいただいた、忘れられないおばあちゃんがたくさんいらっしゃいます。
もう、だいぶ前、私は「日本人再発見の旅」という企画で全国各地のおばあちゃんをお訪ねしました。その企画は「おばあちゃんの宝もの」といいまして、おばあちゃんの人生で大切にしてきたコトやモノ、思い出でを聞かせていただくというものでした。
その中から、忘れられないひとりのおばあちゃんのお話をさせて頂きます。
今は亡き松崎せいさんは、島根県の松江にお住まいでした。
松崎さんの宝物は姉様人形。
松崎さんが嫁いだ家が傾いたとき、この家のおばあさまが内職として紙人形作りに取り組みました。
松崎さんが嫁いだ家には、松平家の奥女中として高い教養と行儀作法を身につけたおばあさまがいて、その方が姉様人形の作り方を教えてくださったのでした。
子供、娘、女の紙人形がひとつの箱におさめられています。女の一生がお下げと桃割れと島田、三つの髪型で表現されていていました。古裂れと綿を和紙にくるんで頭を作り、これに鼻をつけて上張りし、その上に胡粉を塗って顔ができます。
髪は半紙に墨を塗り、かつらを作ります。使うノリはご飯を練ったもの。それは可愛い紙人形でした。お会いしたとき、松崎さんは84歳でしたが、肩凝りしらず、目もよく見えて、細かい手仕事を器用にこなしていらっしゃいました。
「人形作りで、自分も作られたかもしれません」と語ってくださいました。
私がお年寄りにひかれるのには、ある原体験というか、原風景があります。
幼児期を過ごした川崎の下町で私は近所のおばあちゃんに育てられたのではないかと思います。母は仕立て仕事で忙しかったのです。ワタナベのおばあちゃんは、いつも私の長い髪を手のひらですいてくれ、キレイにお下げに結ってくれました。志村のおばあちゃんは、夜に宿題を見てくれました。
母が忙しかった分、私は町内のおばあちゃんに育てられたも同然です。55年の歳月が過ぎても、私の後頭部から両サイドの髪の毛にキレイにキュキュとお下げに結ってくれたおばあちゃんの手のあとを感じることができるのです。
感触の記憶は確かです。
おばあちゃんになるのも、悪くはないなと思う、この頃です。

広島のこと

夏の照りつける太陽の中、8月末広島を訪ねました。
“広島市民文化大学”のお招きを頂きました。
昭和18年生まれの私にとって、広島、長崎は特別な場所です。
当日は広島記念公園内の広島国際会議場フェニックスホールで1500名の方々が待っていてくださいました。
思わずこんな言葉からお話をさせて頂きました。
本日、こちらに着きまして、気がついたら、空を見上げておりました。私は、この地、広島に、夏にお伺いすると、夏空を見上げずにはいられないんです。
まぁるく広がる青い空、もくもくと浮かんだ入道雲。そしてその下に広がる家並み、ビル。人々の活気あふれる表情。
そうした風景を目に焼きつけ、安堵すると同時に、62年前のことを思わずにいられません。時を経ても、決して風化することのない痛みを、この土地は経験してきたからです。
私は今、63歳です。終戦のときは1歳。戦争の記憶をたどるには幼すぎる年齢です。でも、なぜか強烈に覚えているというか、私の心に戦争の悲惨さが深く刻まれているのは、おそらく次のような体験を経ているからでしょう。
終戦の年の3月、東京は東京大空襲にあいました。我が家は、その空襲に襲われたまさに、下町にありました。私の家では、ダンボール工場を営んでいたのですが、すべてを失いました。家も、道具も、わずかな写真も、一つ残らず灰になってしまったのです。
 
でも、空襲の前日に、我が家は親戚の家に疎開して、家族の命が助かりました。下町では大勢の人がなくなったというのに、我が家は全員、無事だったんです。
物心ついたころから、母や祖母から、その話を何度も何度も繰り返し聞かされました。また、「私たちの命は、もらった命よ」と、母はことあるごとに、私たち子供にいってきかせてくれました。
祖母も「なくなった人たちに申し訳ない」と繰り返していました。
 
そのためでしょうか。私が実際に経験したわけではないのに、下町の空襲や近所の人々との永遠の別れのことまで、まるで見てきたことのように記憶されてしまったのです。
 
そしてここ、広島の土地に立つと、私も母や祖母と同じことを思わずにはいられません。自分の命がもらった命である、と。そして、自分の胸に問わずにはいられません。亡くなった多くの人たちに申し訳ないと思うような生き方をしてはいないか、と。

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