映画『ニューヨーク公共図書館』

先日、素敵な映画を見てきました。上映時間は何と205分!つまり、3時間半ですね。そんな長い映画を見たのは、もちろん初めてです。途中、伸びをするための10分間の休憩時間も、ちゃんと用意されていました。

映画のタイトルは「ニューヨーク公共図書館」。

図書館とは多くの老若男女が行き来し立ち止まる、文字通りの公共空間だということを丁寧に記録した、重厚なドキュメンタリー映画でした。

ここに描かれた図書館は、なぜ「公共」なのでしょうか?それは、一般市民からの寄付金などが、運営費の半分を占めていることもその理由です。単なる「公営」ではないのですね。今から108年前にオープンしたこの図書館は、現在では90を超える分館と6000万点の蔵書を誇る巨大な組織に発展しました。

映画の中で強調されたのは、図書館は単なる本の置き場所や書架ではないということでした。本を読みに来る人、借りる人。調べて資料を作成する人。そこには赤ん坊の泣き声が飛び込み、図書館職員の日常的な息遣いも交じります。

そして、この空間には様々なゲストも訪れます。パンクの女王、パテイー・スミス、英国のミュージシャン、エルビス・コステロ。彼らが講演会やトークショウなどを繰り広げるのです。職員の間では、経済的理由でネット環境に対応できない市民への対応策まで話し合われます。彼らは活字に限定された世界を飛び越えようとしています。

この映画の特徴は、会話やナレーションの翻訳を除けば、それ以外の字幕説明がないことです。有名歌手が話をしても、名前の紹介は字幕上はありません。図書館の利用者も職員も、そして高名なゲストスピーカーさえも、皆、この知的空間を支える参加者の一人だという、製作者の強い思いでしょう。

監督のフレデリック・ワイズマンさん。来年の年明けに90歳を迎える伝説の巨匠は、自国の文化と民主主義を心底愛し、誇りに思っているのですね。

3時間半、全然、長く感じませんでしたよ。
神保町 岩波ホールで上映中

イギリスへの旅のつづき~スリップウェア

日本にスリップウェアを広めるきっかけは一冊の洋書「クエント・オールドイングリッシュポタリー」(古風な英国陶器)だったそうです。1913年(大正2年)、日本橋丸善で同書を見つけた民藝運動の創始者、柳宗悦は当時まだ大学生で心驚かせたもののその洋書は高くて買えなかったそうです。

スリップウェアとは、やわらかく、穏やかで、親しみ深く、使いよさそうな器です。私がひと目惚れしたのが、25年ほど前に益子にお住まいだった濱田庄司先生の奥さまをインタビューのためお訪ねしたときでした。

角皿に細長い筍を湯葉で包み油で揚げて出して下さったときです。それまで日本民藝館でバーナード・リーチ、濱田庄司、富本憲吉など、日本民藝を支えた方々の作品を拝見していました。

富本憲吉は柳宗悦より少し前にその洋書を入手し、前金を払い残りは友人に借金をしたそうです。「金は貸すがしばらく預けろ」と言って聞かなかったのが陶芸家バーナード・リーチ(1887~1979)でした。

1920年(大正9年)、リーチは濱田庄司と一緒にイギリスに帰国して、セントアイビスで窯を築き、作陶をはじめます。そしてある日、近所の家にお茶に招かれた際、45センチほどの黒字に白い縞模様の大皿にお菓子が入っているのを目にして、その日常の美の美しさに驚きます。のちに多くの日本人の心をつかむことになります。

古くは古代ローマがもたらしたスリップウェアといわれています。

これは私の個人的な考えですが、柳宗悦はじめ民藝運動の方々によって、それまでは”飾りようの器”が中心だったものが、日常に使う「用の美」であるスリップウェアを世に送りだしたのだと思います。オープンでも使える器。イギリスでは低温1000度位で焼き、日本は高温で焼くためニュアンスが多少ちがいます。

スリップウェアがつないだご縁

濱田が皿をイギリスより持ち帰り神戸港に着いた足で京都の河井寛次郎家に直行し、そして柳もスリップウェアに出逢います。リーチは日本を訪れた折にスリップウェアの技法を広めます。

トットネスの町から南西へ車で2時間ほどのところにセントアイビスの街があります。繁華街を抜け、急な坂道を上っていくと住宅街の中に煙突が立つ三角屋根が見えます。

そこがリーチの工房跡、一度は老朽化が進み解体の危機もあったそうです。でも、工房は再建運動を経て、2008年(平成20年)にリニューアルオープンしました。

「どこもかしこも石、石、石のほか何もない」と濱田は綴っています。作陶ができるようになるまでには1年もの月日が過ぎ、ようやく本格的にスリップウェアがつくれるようになりました。

私はその工房に立ち当時の二人の苦労を思うとき、濱田先生の奥さまが私にその器もてなしてくださったことから、ついこの間のことのように思えて胸が熱くなりました。奥さまの影の支えがあってこその濱田先生。その時のお話でよくわかりました。

”この地を一度は訪れたい・・・”と想い続けてはいたものの最南端のセントアイビスには今までいけませんでした。道具も、登り窯も、土をねかせていた場所もそのままです。おふたりの真剣な作陶する姿が目に浮かびます。幸せで、幸せで・・・はるばる訪ねられたことに感謝いたしました。

最後はロンドンに戻り、朝は澄んだ空気の中、リージェントパーク内のクイーン・メアリーガーデンに薔薇の花を見に行きました。

春から夏にかけて咲く誇る薔薇はとりわけ美しく広い公園内を色とりどりに咲くバラ。香りがあたりを包みます。「ドリス・デイ」と名前のついた黄色の美しいバラもありました。

心ゆくまで緑豊かな公園を散策し、午後からはヴィクトリア・アンド・アルバード博物館のコレクションを観ました。ウィリアム・モリスがデザインした布やタイル、家具、そして他の美術、服飾、工芸品などを堪能した午後でした。

そして、ロンドン最後の夜は英国伝統の味「フィッシュ&チップス」(14ポンド・2000円くらい)を食べました。

街でよく見かけるファストフード的なお店とは違う「ザ・メイフェアー・チャッピー」で。魚の鮮度、衣の配合、使用する油などオーナーのこだわりがロンドンナーにも人気な小さなお店です。

黒白のタイルと木の組み合わせインテリアも素敵。混むので予約していったほうがいいかも知れません。お薦めです。イギリスは移民が多く受け入れているので、インド、タイ、マレーシア、エジプト、中華などそれぞれ美味しいレストランが多いのですが、やはり最後は「英国伝統の味!」美味しかったです。

こうして14日間のイギリスの旅を終えました。

私にとってイギリスは特別な国です。有意義で考え、感じ、よい旅ができました。

イギリスへの旅

初夏のもっとも美しい季節、花々が咲き、風が爽やかで、でも突然の雨に樹木が喜び・・・そんな頃の旅は久しぶりです。

今回の旅の目的のひとつはイギリスに住む息子家族に会うのがひとつ。孫たちはそれぞれ小学校、幼稚園にもずいぶんと慣れて元気いっぱいでホッとしました。

家族の住む街はロンドンから列車で約3時間のトットネスという町です。人口は約8000人。街の中を河が流れ、石だたみの道、シックな建物で緑豊かな美しい小さな街です。

私は箱根と同じように早朝のウォーキングをしました。川沿いを歩き、小さなパン屋さんで焼きたてのパンを買ったり、歩いて7,8分のところのショッピング通りではウィンドウショッピングを楽しんだりしました。朝の町には朝の匂い、生活の様子がよく分かり、私は好きです。

10時過ぎると町は活気づき、以前来たときに見つけた古い建築のカフェでティータイム。素朴なスコーンと紅茶。時にはひとりで。そして、ここもお気に入りのベジタリアンが通うビュッフェ式のお店でランチ。おかわり自由でたっぷり野菜料理がいただけます。7ポンド(980円位)で大満足です。

いつもイギリスで思うことは、日本は湿度の問題もありオーガニック栽培はむずかしい部分もありますが、ヨーロッパでは品揃えがとても豊富なことです。パッケージなども洗練されていて、日本も普通にこの位になるといいな~と思います。

映画の撮影でロンドンに8ヶ月くらい滞在しましたが、私はやっぱり田舎が好き。イギリスではカントリーサイドを訪れるとその風景の美しさに心奪われます。

目障りな看板や電柱もほとんどなく見渡すかぎりのなだらかな丘陵地帯。可愛らしい家々。しかし、そんなカントリーサイドの景観美は初めから存在していたわけではありません。

「ナショナルトラスト」(環境保護運動)が大きな役割を担っています。市民の手により守られてきた歴史があり、英国の美しい自然や貴重な歴史的建造物を市民が自ら寄付や寄贈によって保存してきたのです。

聞くところによると、現在ナショナルトラストの会員は約520万人。イギリスの人口が6600万人。11人に1人が会員というわけです(子供も含む)。会費はたとえば4人家族で年間120ポンド(18,000円程)で、全国に500以上ナショナルトラストはあります。

入場料、ショップやレストランの売り上げなど収益は約5億ポンド(750億)にもなるようです。スタッフは約12,000人。ボランティア61,000人。メンバーズシップの収益は1億6000万ポンド(250億)であとは寄付だそうです。

私も息子家族と一緒に一日のんびり過ごしました。イギリス人は歩くのがとても好きなようです。カフェのランチもスープとパンかサンドイッチくらい。どちらかとゆうとイギリスの庶民の生活は質素で堅実です。

なぜこれほどまでにナショナルトラストがイギリス国民に受け入れられ、社会的なうねりになって人々の支持を受けているのでしょうか。「ピーターラビット」の物語りの舞台が当時のまま残っていますし、英国の人々の憧れの地、コッツヴォルズ丘陵も、湖水地方と並んで、その多くがナショナルトラストの管理です。

この理念は人々の郷土愛。自らの国土を美しいまま次世代に残してゆく・・・・そのような思いが強くあるように感じます。

現在イギリスは多くの問題を抱え、国が揺らいでいます。

しかし、人々の暮らしは堅実であまりお金をかけずに自然の中でのピクニックや散策などとても自然体です。国土を愛する心を強く持っています。

どうか、良い方向に進み、歴史や文化を守りつつ若者が未来を託せるようなそんな国になってほしい・・・と旅をしていて切に願いました。

日本に暮す私たちも「美しい日本」を次世代に手渡すために今、何をなすべきか・・・学ばなければならないことがあるかも知れません。

来週は、もうひとつの私の旅の目的「バーナードリーチさん」の工房跡をお訪ねしたのでご報告いたしますね。

いい人みつけた

先日、目黒のホールに柳家小三治師匠の独演会を聴きにいってまいりました。この十数年師匠の”おっかけ”に夢中です。でも中々チケットが取れず・・・でも今回は2階の後ろの席でしたがラッキーにも入手できました!

双眼鏡を持参し、師匠の細やかな表情、しぐさなど落語は聴くだけでなく観るもの、と実感いたしました。おしゃべりとしぐさだけで、舞台の上にドラマが生まれ、また師匠の”まくら”は最高です。

何度かお仕事で対談はさせて頂きましたが、ふっと35年ほど前のTBS(東京放送)のラジオ番組でのお話を思い浮かべました。私が40歳になった時にスタートした番組です。

毎日、月~金の10分番組を13年つとめさせていただきました。当時の番組を「浜美枝のいい人みつけた」で本にし、師匠のページをめくりました。よみがえりました。35年前が。

そうそう・・・スタジオに現れた師匠の格好!ヘルメットをかぶってオートバイで。あの格好をみたら何とお呼びしていいものか分からなくなりました。「なんとお呼びしたらいいかしら」「小三治です。大三治はお断りしています(笑)」と。落語家とバイクはちょっと結びつきませんでした。師匠、いいお話を沢山して下さっているのです。

”力入れすぎちゃうとうまくいかない。落語もオートバイもゴルフも”と。私のそのときの印象は「悠悠マイペースで独自の噺の世界をいく少年の心を持った人」という印象でした。

噺家らしからぬ噺家っていっても、私たちファンはとうに35年前から小三治さんの個性、そのらしからぬというところに魅かれているのです。噺家ひとりひとりの芸、それを生み出す噺家の人生とか生活とか感性とかは、みんな違います。

人間国宝・柳家小三治師匠。
まもなく80歳になられるそうです。私、やっぱり”追っかけ”はやめられません。

本の中からお二人の方をご紹介いたします。

淡谷のり子さん

スタジオに入っていらしたら、すごくいい香りがしたんです。「黒水仙が好きなんです」と。音大出て、世の中にでました。クラッシックやってましたけど、レコーディングすることになって、もちろん流行歌ですが・・レコード会社で少しまとまったお金をいただいたので、まず買ったのが香水なの、あ、そうそうあと帽子。54年間歌い続け壁にはぶつからなかった、悩まなかった。もし、壁があるならば戦時中ですね。警察と軍隊にずいぶん始末書を書いたりいろいろありました。ほら、おしゃれしちゃいけない、モンペはけとか、いろいろね。そんなみっともない格好してステージ出られませんから。ちゃんとイブニングドレスで、最後まで。何を言われても。非国民だとか言われましたよ、ずいぶん。

”クラッシックをもう一ぺん勉強したい。それが私の夢なの・・・”と。ちょうど『生きること』。という本を出されたときでした。生きることはそれを愛すること。愛されるということよりも、愛することって幸せじゃないかと思うんです。とも。歌って歌って歌いぬいてなお学びたいという意欲に脱帽!

女性としての大先輩、淡谷のり子さんに大敬服するとともに、その美しさへのひたむきな努力と歌にかける情熱のかけらを、私なりに頂戴したいなと当時思いました。コンサートで淡谷さんが歌い終わった瞬間、怒涛のように拍手がわきおこり、拍手するその手で涙をぬぐっている人が大勢いました。もちろん私も。

安野光雅さん

”こどものときに虹を見たんです。津和野の虹。それが私を絵描きにしたのかもしれません”と。

安野さんの絵本は単純に「絵」だけの世界ではなく、「考えさせる」力を持っているような気がして・・・作家の原点はこどもの頃の津和野ですか?と伺うと「小さな頃の思い出という思い出を全部集めてね、たぐり寄せた結果、どうも子どものときに虹を見たときの思い出が、一番最初だった気もします。四つか五つの頃の。津和野という所は盆地ですから、周りじゅう全部山、山、山。ですから、山の向こうはどうなっているんだろうと強く思いますね。山に囲まれて育った人間でないと、ちょっと分からないかもしれない。山に囲まれていることは、ほんとに限りなく山のかなたへの夢をふくらましてくれるものなんです。気持ちは盆地の中になく、外へ外へと行くような気がするんです。」と。

「子どものときに見たもの、驚いたものを、大人は摘んじゃいけないね。あ、いけません。子どもの好奇心ほど強いものはありません。絵描きさんと思うとそうではなくて、偉大な科学者か哲学者か、はたまた天文学者、数学者かとの思いにかられました。アメリカを東から西までうろうろしたときのアトランタ。あの街は南北戦争の激戦地でした。キング牧師の家もあります。あの人の言葉で、僕は読むと涙が出てきてしょうがない演説があるんです。浜さん、読んでいただけますか。読ませていただきます。」

「私には夢がある。
いつの日かジョージアの赤い丘で
かつての奴隷の息子たちと
かつての奴隷所有者の息子たちが
兄弟愛のテーブルに共に座るという夢が・・・
私には夢がある。
いつの日か私の四人の子らが
その肌の色ではなく
その品性によって評価される国で
生活するという夢が。」
キング牧師の演説より

「アメリカ史とは、差別の歴史だったような気もする。インディアン、黒人問題など、いまだに差別意識を持っている人もいるし。でもね、そういう人がいることを知り、またもうそういう人が少なくなったことを知るのも旅なんでしょうね。行って、見て、感じてわかることがいっぱいあるんです。」と。

インタビューから35年がたちました。安野さんは、かつて津和野の彼方の空遠くに見たものを、追い続けているのでしょうね。

たまに、こうして20年、30年前のお話を現代社会で読み返すと、はたして心の豊かさってなんだろう・・・とおもいます。齢を重ねるのもいいものです。