朝の山歩き

心と頭の調整が音楽だとすれば、身体の調整を担っているのは、私の場合、毎朝の山歩きです。骨祖しょう予防を兼ねて、始めた箱根の山歩き。木々の枝の間から朝の光りがスーッと差し込んで、とても気持ちいいのです。

ひと晩眠って、前日の疲れがすっきり解消されるのが理想ですが、年を重ねるにつれ、身体がすっきり目覚める朝ばかりではありません。身体を動かすことによって身体が活性化して、不調の部分が解消されます。

そして、毎朝歩くことで、箱根の山のエネルギーをもらっているような気がします。
背中を痛めて、身体の筋肉を鍛える大切さを知り、必要に迫られて始めた山歩きでしたが、筋肉作りだけではなく、心身の調整にまで役立ってくれているようです。
「この場所が好き!」と思える散歩コースがあると、それだけで元気になれますよ。この楽しみにはお金はかかりません。歩きやすいスニカーが一足あればそれで十分ですものね。

亜麻の花咲く町

北海道・当別町に行ってまいりました。
「浜さ~ん、亜麻の花が咲きましたよ!」とのお誘いを頂きました。
“亜麻色の髪の乙女”という歌がありましたよね。どんな色なのかしらと、ず~と思っておりました。亜麻色の髪というのは花の色ではなく、花が散ったあとの種子と茎が栗色、あるいは金色で、花は薄紫にブルーがかかったような色です。この美しい一輪の花の命は はかなく早朝から半日で散ってしまいます。
亜麻の種が日本に入ってきた年代ははっきりしないのですが、2つの説があると言われています。一つは元禄時代に薬物植物として江戸王子の薬草園で栽培されていた。もう一つはキリスト教伝来時(1549年)、西洋医術と同時にオランダ船により輸入されていた。どちらの説とも古い歴史があります。
古代ギリシャの医学の父、ヒポクラテスは「亜麻種子」を食べると胃腸の不快を解消するとして栽培を推奨したようですし、古代エジプトでは亜麻の布は「月光で織られた布」と呼ばれ広く神事にも使われていたそうです。かつてエジプトではミイラを包む布として、また女性の下着やシーツなどリネンとして肌触りがソフトだったので使われていたとか。
じつはこの町は、私も審査委員をしております”美の里づくりコンクール”で審査会特別賞を受賞されているのです。途絶えてしまった亜麻をもう一度復元させようと、農家の若手が立ち上がり、民間企業と農家が連携して亜麻の生産が始まりました。それを行政がサポートする。無農薬での栽培ですから、雑草や害虫との闘い。熱心なリーダーのもとで様々な活動が評価されたのです。
亜麻を全国に発信し、収益も上げ始めたそうです。札幌の大学生も時には除草の手伝いにみえるとか。
地域づくりはこうした連携プレーが大事なのですね。今後、亜麻の花を見に来る方、亜麻のオイルやリネンが全国に知られるように・・・と願っております。
私が伺ったときも初夏、花の開花期に合せて「亜麻まつり・イン 当別」が開催され、都市と農村の交流が行われていました。
よみがえれ!亜麻の花

片岡鶴太郎展『こころ色』

今年の夏も箱根やまぼうしで片岡鶴太郎展『こころ色』を開催することになりました。
画業15年目を迎える鶴太郎さん。多彩なキャリアをお持ちですが、ますます芸術の世界での鶴太郎さんは魅力を増されています。1954年生まれ、56歳を迎える鶴太郎さんは以前こんな話をしてくださったことがあります。
「40歳で初めて絵を発表したのですが、40歳は僕にとって人生の区切りでした。これからの人生、何を頼りに、何を求めて生きたらいいのか・・・人生の中にポツンと置かれた孤独、焦り・・・そんな日々がありました」・・・と。
よく分かります。
私自身も40歳が人生の大きなターニングポイントでした。
時には立ちつくしたり・・・ひとつ山を越えたとホッとして顔をあげると、また別な山が。目の前にあるのはいつだって曲がりくねった道でした。
でも、年を重ねるって素敵なこと。
鶴太郎さんの作品を拝見していると、いくつもの山を越え、寂しさも、悲しさもそして喜びもが作品に表現されているのです。どうぞ箱根の我が家で鶴太郎さんの積み重ねていらした人生を、作品をご覧ください。
詳しくはHPで。
http://www.mies-living.jp/events/10kokoroiro.html

近畿大学・答志島へのフィールドワーク

三重県鳥羽市にある離島、答志島に行ってきました。
4月から近畿大学の客員教授として講義を受け持っています。
テーマは「自分らしさの発見―暮らし・食・農・旅がもたらすもの」
一回目は「現場を歩く大切さ」についてでした。
机を前にして考えることも大切ですが、机の上の資料には限界があり、現場を足で歩かない限り見えてこないことがあることを、40年以上農山漁村を歩き回ったフィールドワークから私は実感しました。
現場を歩くなかで、人は一人で生きているのではない、多くの人に支えられて生きているのだということを、学生に感じとってほしい・・との願いがあります。他者を理解することは、自分を理解すること。大地を歩き、人に出逢い、話を聞き、語り合い、その中から見えてくる切実な現実から導きだされた問題解決法にこそ、真の力が宿るということを知ってほしいのです。
そこで、以前授業で観た民族文化映像研究所の「寝屋子」について「現場に行きたい!」との要望が学生からあり行ってきました。この島の歴史は古く、持統天皇の伊勢行幸にあたって都に残った柿本人麻呂が
「釧着く答志の先に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ」
と万葉集で詠んだ地です。
そこに「若者宿」とよばれる「寝屋子制度」があります。かつては、中学を卒業した男子が仲間を作り、頼んでどこかの家をヤド(宿)にそこに寝泊りするのです。日本には古くからあるシステムでしたが、大正期を境に減少。現存するのは、答志地区のみになってしまいました。

血のつながった親子ではないけれど、生涯、親子のように付き合う。
寝屋子同士も死ぬまで兄弟同然。
その背景には漁業という命をかけた仕事には、地域の人びとの関係性、共同性、結びつきが大切だということがあります。今も島ではこの制度は住民の精神的な居場所であると共に、地域の教育力の基盤になっています。もちろん時代の流れの中で少しの変化を経ても、「住民が助け合う」文化は受け継がれています。
インターンシップのレポートでは
「寝屋子の制度は日本の宝といえる文化だと思う」
「日本で薄れてしまっている人と人との関わりの大切さを実感した」
「子供たちに限らず大人たちにも人のつながり、仲間はすごく大切な存在なんだと改めて感じた」
「現在、農村や漁村では少子高齢化によって、後継者となる子供が減少しており、より一層過疎化が進むなかで寝屋子制度にヒントがあるかもしれない」
など、皆さん感想を寄せてくれました。
さて、ビデオを観て感じたことを実際に「現場を歩き」どのような思いがしたでしょう。次回の授業で聞かせてもらいます。
梅雨の中、当日は眩しいほどの太陽が海を渡ってくる風も心地よく、船着き場でかつて寝屋親であり大勢の子供たちの親だった山下正弥さんが、船が見えなくなるまで手をふって見送ってくださった姿に、暖かな人のぬくもりを感じた答志島の旅でした。

浜美枝のいつかあなたと ~嵐山光三郎さん

文化放送「浜美枝のいつかあなたと」(日曜10時30分~11時)
今回は2週に分けてゲストに作家の嵐山光三郎さんをスタジオにお招きいたしました。
嵐山光三郎さんは雑誌「太陽」の編集長をつとめられたのち、作家活動にはいられました。旅や食、文人に関する執筆が多く、これまで書かれたご本に「素人包丁記」、「悪党芭蕉」など多数。現在、文春文庫から発売中のご本「とっておきの銀座」から東京を代表する町、「銀座」の魅力をたっぷり聴かせていただきました。
スタジオには、帽子に下駄姿。帽子は多分「トラヤ帽子店」のでしょう。初夏にふさわしいアイボリィーのソフト帽。そして、やはりアイボリィーのジャケット。何でも今まで5つのソフト帽を買い全てがボルサリィーノとか・・・。おしゃれ!
下駄ひとつ買って涼しき銀座かな
                      嵐山光三郎
老舗「ぜん屋」の下駄。
まず下駄の板をきめて、それに合わせて好みの鼻緒をすげるとか。
「毎日はいていると1ヶ月ですりきれちゃいますよ」と。
下駄には嵐山さんは様々なエピソードをお持ちです。
それにしても粋ですね!
番組では銀座の食べ物屋さんや、甘み処、便箋から傘まで。奥が深い大人の街のお話が満載です。
そして、2本目は「新廃線紀行」から今まで歩かれた廃線跡のお話。帯には「廃線旅行は、ノスタルジアではなく、命がけの探検となる」書かれています。嵐山さんはこれまでにも松尾芭蕉の足跡を訪ねる旅をされたり、温泉(秘湯)を訪ねる旅をされたり・・・旅好きの私はため息ばかり・・・。
もちろん旅先での食べ物のお話もたっぷり伺いました。
あとはラジオをお聴きください。放送日(7月4日、11日)