ラジオ深夜便-「石川県能登半島」

ご紹介するのは石川県能登半島の輪島です。6月に能登の付け根の橋立、福浦の港町をご紹介いたしましたが、今回は突端の輪島です。
旅をしていて思うのですが、寒い季節に寒い土地へ行くのも旅のコツ。美味しいもの、人情・・・温かさがひときわ嬉しい旅になります。そこに、伝統工芸の世界があればもっと嬉しくなります。
日本は広く、日本は豊か。私たちが住むこの国は、素晴らしい技と知恵の宝庫です。
“日本の日本的なるもの”に気づいて以来、私はこの小さな島国日本に限りない愛着を持っております。
今回の「能登半島地震」は、大きな被害をもたらしましたが、本当に皆さま頑張って復興されています。あの、本町商店街・輪島朝市のおばちゃんたちも元気・元気!魚や干物、野菜や漬物などおばちゃんや、おばあちゃんが声高く売りさばいています。静かな輪島もここだけは、いつも活気いっぱい。手づくりの漬物や干物の何と美味しいことか。今はカニの季節ですね。
11月6日~3月20まで解禁となるズワイガニや甘エビ、殻つき牡蠣など、贅沢な海の幸をはじめ、奥能登の伝統調味料「いしる」やふぐ、鯖、とびうお、はまちなどの粕漬けも美味。
疲れたら、朝市通りにある自家焙煎コーヒーで冷えた体もここでホッとひと息。趣のある珈琲屋さんがあります。
私が能登、輪島を最初におとずれたのは・・・もう20年ほど前になるでしょうか。旅は最良の師や友を私に与えてくれます。今は亡き 漆芸家 角偉三郎さんに出会い、とても女の片手では持ち余る大きさの「合鹿椀」に出会い、木のぬくもり、漆の肌そのものの質感が手にふれ、カタチの強さがしっかりと手につたわったのです。
漆の原点である椀。
何に使われた合鹿椀か。そう両手の中にすっぽりと納まる大きさです。飯盛りだけではなく、なんにでも使われたとのこと。合鹿とは地名で、昔は柳田の漆器と呼ばれていたそうです。大正期に後継者が途絶えましたが、その椀を見事に復元し、独自の世界を築いたのが角偉三郎さんです。父は下地職人、母は蒔絵の仕事の家に生まれ、輪島を代表する工芸家でした。
輪島塗の繊細にして流麗(りゅうれい)な椀の対極にある、土臭くて無骨な合鹿椀。寒村の生み出した椀に出会い、そこから輪島の旅がはじまったのです。
輪島はまさに海の文化の拠点。
北前船や遠い大陸から客人が持ち寄ったものを積み上げて歴史が作られてきました。輪島の人はつねに海辺にたって向こうをみていた気がします。
「海からの文化は、又、海から出ていく文化でもありますね」・・と語っていらした角さん。
そんな輪島にはたくさんの魅力がつまっています。おすすめは、輪島塗の「工房めぐり」です。お問い合わせは輪島観光センターまで。「工房めぐりガイド」のマップがあります。ここに載っている工房は輪島塗の奥の深さを知って頂こうと専用の看板をかかげている有志の職人さんの工房です。マップを入手してから必ず電話連絡し、都合をうかがってから訪ねてください。
木地、塗り、上塗り、蒔絵、・・・輪島塗の工程を学んだら、“ギャラリーわいち”へ。朝市がたつ本町通リの商店街と重蔵神社の間にある「わいち商店街」にあります。「うるしはともだち」をキャッチフレーズに木地師さん、塗師(ぬし)さん、蒔絵やさん9名が集まり、伝統の美を伝えながらも従来の枠にとらわれない自由な発表の場として情報発信と交流の場となっています。と同時に、普段使い出来る素敵な器を買い求めることが出来ます。
ちなみに私はスプーンでカレーライスを食べることも出来てしまう、傷のつきづらい器を買ってまいりました。私の友人の桐本泰一さんも、ギャラリーわいちの仲間です。新しい輪島の魅力を教えてくださった若い友人でもあります。
ご紹介いただいたのは、能登の玄そばを石臼でひいた昔ながらの手打ちそばをいただける「輪島・やぶ本店」。
宿は「民宿深三(ふかさん)」宿のオーナーは深見大さん、瑞穂さんご夫妻。
定年後に民宿をはじめたお父様から受け継ぎ、2000年にお二人の思いのつまった民宿にリニューアル。能登ヒバや杉をふんだんに使った柿渋下地の拭き漆の床が気持ちよく素足で歩きたいほどです。数代前までは呉服屋さんだったということで、蔵に眠っていた箪笥、古布、着物が見事に甦り宿に彩りを添えています。冬の寒さでも温かさを充分に感じるのは、暖房だけではなく、漆の温もりと、何よりオーナーご夫妻のおもてなしです。食事は全てお二人で調理を担当されると伺い嬉しくなりました。
美しい輪島塗の器とテーブル・・・地の新鮮な魚や山菜、そして美味しいお米、朝、夕飯共に大満足でした。他にも素敵な宿、民宿がございます。
交通アクセスは
羽田~能登を1時間で。
東京から上越新幹線「とき」で越後湯沢乗換え、ホクホク線「はくたか号」利用
大阪から特急「サンダーバード号」で和倉温泉へ。そこからはバスで輪島へ。
金沢からは能登有料道路にて輪島まで。
おすすめは輪島市コミュニティバス「のらんけバス」各ルートがあります。
輪島、和倉特急バスも1日4往復、和倉温泉始発のJR特急も便利です。
輪島~金沢直通バスもあります。
最後に、今回の災害で大きな被害をうけた輪島市門前町。
震災で法堂や仏殿など建物が傾いたり壁が崩れる被害を受けた曹洞宗の総持寺祖院では、雲水と僧侶の方々が復興義援金を募るため托鉢をし今後は県内各地のほか富山市など県外でも予定しているそうです。
復興に頑張っている輪島を是非訪ねてください。
それも大きな支援になります。

第20回 東海道シンポジューム箱根宿大会

第20回 東海道シンポジューム箱根宿大会が私の住む箱根で開催されました。私もお招きを受け「東海道箱根宿」について話をさせて頂きました。
箱根に住むようになり、30年になりました。子育てをしながら、女優の仕事を続けていましたし、普通に考えますと、東京都心に住むほうがずっと便利でした。
でも、箱根に住んではどうだろうか。そう、思い始めたら、箱根が私にぴったりの場所に思えてきたのです。山から小田原に下りれば、新幹線で東京まですぐですし、箱根は自然環境に恵まれ、ゆっくりと子育てができる場所でもあります。
美しい山々に囲まれ、湖もあり、温泉もある箱根は、癒しの場所であり、10代の頃の私の趣味のひとつであった水上スキーもできるリゾートでもあります。しかも、箱根は古くからの宿場町だからでしょうか。人が訪ね、人が帰っていく。そういう風通しのよさが、町の中にどこか感じられました。
歴史ある町でありながら、その歴史ゆえに、他のところから来る、よそものに対してもどこか開かれているように、私は感じていました。もしかしたら、箱根に居を定めた最大の理由は、箱根が古くから「宿場町」だったからかもしれません。
旧東海道の杉並木の道は私の毎朝の散歩コース。人生のほぼ半分を私は箱根で過ごし、今ではすっかり箱根人になりました。
さて、東海道の歴史は古く、律令時代から、東海道は諸国の国分を駅路で結ぶ道であったといわれます。箱根路は、800年頃、富士山の噴火によって足柄が通行不能になって開かれたものなのですね。でも、箱根路は、距離は短くても、ご存知のように天下の剣。急峻ですから、足柄路が復興され、ともに街道筋として利用されたそうです。
源頼朝が鎌倉に政権を樹立すると、東海道は京都と鎌倉を結ぶ幹線として機能するようになりました。そして、江戸時代になり、事実上の首都が江戸に移ると、東海道は五街道の一つとされ、京と江戸を結ぶ、日本の中で最も重要な街道となりました。
江戸時代の東海道は、日本人にとって憧憬をかきたてずにはおかない存在ではないでしょうか。私も、江戸時代の東海道に惹かれるひとりです。
その理由のひとつに、浮世絵の風景があるのではないかと思います。初代、歌川広重が描いた東海道の各宿場の風景画です。これらのシリーズは、広重が描いた作品のなかでも有名なものですが、爆発的な売れ行きで、以後、「狂歌入り東海道」「行書東海道」「豆版東海道」などが次々刊行されたといいます。
そして、これらの浮世絵の流行によって、人々の間に、旅や東海道そのものに対する感心がいっそう高まったのでしょうね。実際、その絵を見ていますと、四季の移ろい、気象の変化、各地の風物が伝わってくると同時に、旅する人たちやそれを迎える地元の人たちの様子も伝わってきて、江戸時代の庶民が絵を通して、旅に憧れを抱くのが、わかるなあ・・という気がいたします。
そして、江戸時代といえば落語。
中でも柳家小三治師匠の高座は特別。江戸時代、庶民の生活は大変だったですよね。でも、生活は大変でも、笑い飛ばしてしまう庶民の力強さがあるんです。それが落語の中に感じられる。
それから、江戸の人々の遊び上手なこと。ものはなくとも、精神がとても豊かな面もあるんですよね。
落語をきいていると、文化の成熟ってなんだろうと、考えさせられることも少なくありません。落語の中に、旅ものが多くあるんですね。小田原や箱根近辺が舞台のものですと、町内の面々がそろって大山参りにいくことになって起きる騒動を語る「大山詣り」、仲のいい三人が旅に出て、小田原の宿・鶴屋善兵衛に泊まる「三人旅」やはり小田原の宿が舞台の「抜けすずめ」「竹の水仙」・・。
さらに「御神酒徳利」。大磯が舞台の「西行」そして箱根、箱根山がでてくる「盃の殿様」あげればキリがないほどです。
落語の「旅もの」は、江戸庶民にとって、憧れの旅へのいざないでもあったわけですが、現代に生きる私たちにとっても、江戸時代の旅にいざなってくれるものなのですね。
私も小さな旅を含めたら、1年の半分は旅しているといっていいほど、今も旅に出ることが多いのですが、それほど旅好きな人間なのですが、落語を聴いていると、とても羨ましくなったりするのです。何にうらやましさを感じるかというと、それは、やはり、“歩いて移動する旅”という点なんです。
歩くことで見えてくる・・・・。
歴史ある町には、その歴史が、文化ある町にはその文化が、目には見えなくても、しっかり刻まれていて、それは歩くことによってのみ、感じ取ることができるのです。
町の匂い、町の佇まい、町の奥行き、町の存在感といったものが歩くと発見できるのです。  私は、それを町の記憶と、ひそかに呼んでいます。
たとえば箱根の町に、私が感じる町の記憶はと申しますと、箱根は後世に「天下の剣」といわれた箱根山の往来は、困難を極めたところです。車だとすぐですが、ちょっと歩くだけでも、その一端がうかがいしれます。
笠をかぶり、杖をつき、わらじをはいて、荷物をかつぎ、旅した人たちの大変さ。それでも前へ前へと進もうとする人の姿。ときに、足を止め、富士山の美しさにため息をつき、芦ノ湖の静かな水面に心慰める・・・そんな、当時の旅人の気持ちに近づける・・・。
歩いた後はぜひ、温泉に肩までつかり、お湯のよさと、「一夜湯治」の贅沢を味わってもらいたいと思います。江戸時代から、何万人という人が歩いて旅した記憶というのは、日本の記憶でもあるんですね。
東海道という道は、それだけの重さと豊かさを持ったものなんです。
自分の住む町や村に誇りを持つということで、歴史を知り、文化を知り、そこで営まれてきた人々の暮らしを知り、今と繋がっていることを認識してはじめて、自分の住む土地が好きだといえるのではないでしょうか。
私は、箱根人として、旧東海道の杉並木が残されていることを誇りに思います。


私の信仰と円空上人

先週に続き「円空さん」についてお話いたします。
私にたったひとつ、信仰があります。
それは木。
木に何か人知を超えた天空の意志を感じるのです。
太古に通じる水脈から命を得、時空を越えて屹立する木、その精に。円空が彫り、極めた果てに見出したものに心ひかれます。木に刻まれた平穏の深さと無垢、無音の歓喜。それこそ木の精霊との出逢い。円空の会心の笑みをみる思いがします。
円空上人は今から三00年ほど前の漂泊の僧でした。1632年に美濃に生まれ、大飢饉のさなかに少年期を過ごし、母を早く亡くしたこともあり、幼くして、寺に奉公したのですが、32歳にして出家。
岐阜、志摩、東北、北海道までも、巡礼の旅を歩きました。どこえいっても厳しい迫害にあったそうです。それでも彼は12万体造仏祈願という途方もない仕事を自らに課し、全国各地でたくさんの木彫りの仏像を残したのです。
辺境の地や離れ島、山間の地などに住む人々の病苦や貧困を救おうとして造仏だったのかもしれません。
また、円空さんは、白山信仰、観音信仰にも帰依しました。
岐阜県美並村(現郡上市)の洞泉寺にあったのは、円空さんの手になる「庚申座像」でした。この仏さまは横座りをして、小首をちょっとかしげて微笑んでいらっしゃる。お顔には幾重にもシワが刻まれていますが、それがなんとも優しいこと。前に立った人がみな、ふっと笑顔に変わるのです。
「比丘尼(びくに)像というのが、ありますがその方が、円空が恋した女性ではないかという節があります。青年円空の人間くさい一面を想像させて、私はあれこれと思いを巡らすのです。
そして、飛騨路の旅の宝物。千光寺の「お賓頭盧さん(おびんずるさん)」
無病息災を願う千光寺のなで仏です。表情の優しさは人の心を抱きしめるような安らぎに満ちています。
多くの人がこの仏さまをなで、心の平安を祈ったことでしょう
私の大好きな仏像です。
千光寺を最初に訪れたのは、NHKの日曜日美術館で円空を取り上げたときでした。坂道の途中に天然記念物の五本杉がそびえ立ち樹齢1000年の木とか。
この木に聞けば、円空さんってどんな人?ここでどう過ごしたの、と、みんな聞けそうな気がしました。あの時も全山、紅葉にもえ、晩秋の飛騨路の夕暮れは早く、さっきまで真紅に燃えていた紅葉があっという間に暮れなずんできました。
“また、おびんずるさん撫でにきます”
円空さんの造仏の鉈の音を感じながら千光寺をあとにしました。
旅先で出逢う宝物。木の仏像
円空上人の旅のあと。
これからも、円空さんの歩いた道を旅したいと思います。