ガブリエル・シャネル展 MANIFESTE DE MODE

ガブリエル・シャネル(1883-1970)の回顧展が丸の内の三菱一号館美術館で開催中です。この展覧会では、創業者(通称ココ・シャネル)のファッションだけではなく、その哲学を知ることができます。

あまりにも有名なシャネル。天涯孤独の創業者ココ・シャネルの世界は貴族に愛された高級ブランドとはひと味違います。彼女の波乱万丈な人生はこれまで映画、書籍などで多く語られてきました。

1883年フランスのソミュール地方で生まれ、母親が死去し、父親は行商として出稼ぎに行っていたため姉妹とともに修道院で育ちました。孤児院にいた6年間裁縫を習い18歳で施設を出て、お針子として働きはじめます。孤児という恵まれない環境から一代で”シャネル”を世界的なブランドに育て上げました。

今回の展覧会は2020年にパリで開催された回顧展を再構成したもの。日本でシャネル展の本格的な展覧会の開催は32年ぶりだそうです。  

なぜこれほどに人を魅了するのでしょうか?
ただ”ブランド”だから…ではありません。
彼女の生き方、ポリシーに人々は惹きつけられるのだと思います。

『女性の自立と自由』を体現したのです。会場でその服やアクセサリー、香水瓶など138点と記録映像で「20世紀で最も影響力の大きい女性デザイナー」といわれることに納得します。

コルセットは日常着としてしめつけ不自由な時代に、女性らしいのにシックで実用的で動きやすく、ウエストもしめつけない女性の自立を揚げた「シャネル・ルック」。

米大統領ジョン・F・ケネディーの妻、ジャックリーンが着用したピンク色のスーツに帽子姿が記憶に残ります。 むしろフランスより最初はアメリカで人気が高まったのではないでしょうか。  

「私のつけているのは”シャネルNo5よ”」と微笑んだのはマリリン・モンロー。あまりにも有名な話です。シャネルのNo5は1921年に誕生し世界的ベストセラーになります。

「黒のドレス」もかつては「喪服の色」という常識をひっくり返し、ゆとりのある軽やかなドレスに、でも女性らしい曲線美が美しいイブニングドレス。

「マトラッセ」(キルティングされた)のショルダーバックはチェーンがあしらわれ、高い金や宝石ではなくカジュアルなアクセサリーなど新しい価値観が生まれました。  

しかし、第2次世界大戦後、第一線から退いていたココ・シャネルが71歳でファッション界に復帰し、このときに生まれたのがシャネルスーツであったのです。

私は個人的には”シャネルスーツ”が一番似合う女性は「ジャンヌ・モロー」だと思います。それは2013年に封切られた映画「クロワッサンで朝食を」を観たときです。

「なんて素敵にシャネルを着こなしているの!」

当時彼女は83歳くらいだったと思います。ジャンヌ・モローはエストニアからパリへと移住してきて、パリジェンヌそしてマダムへ。誇り高く生き、背筋を伸ばした生き方はココ・シャネルと共通しているように思います。

「クロワッサンで朝食を」はプライドが高く気むずかしい老女を主演。孤独な女性を演じ素晴らしい映画でした。映画の中で着る”シャネル”の洋服は普段着もスーツも全て自前だったそうです。「主人公が長年着慣れた洋服は自前でないと雰囲気がでないのよ」と。

家の中での赤いブラウスや家政婦と一緒に腕をかりてパリの街を歩く黒のスーツに白のブラウス、アクセサリーなど、長年大切に着こなしてきたことがよく分かり、映画そのものを引き立たせていました。

私の憧れの女優さんです。「私もいつの日か、”シャネルのスーツ”を着てみたい」と思いましたが、でも3、40代では無理、似合わない…と思い、いつの日か、と想い続けてきました。ようやくスーツを着たのは50代始めの頃に一着だけもとめました。”大人になった気分”大切な思い出です。  

モードをリードしてきたガブリエル・シャネルは晩年は「仕事をしないと退屈なの」と住まいのホテル・リッツで数々のデザインの仕事をし、心ゆるせる友人達と散歩をしたり食事をしたりと穏やかに過ごしたそうです。

71年1月10日、リッツの自室で息を引き取りました。87歳で、新しいコレクションの制作中だったとのこと。  

最期にココ・シャネルが残した名言を。  

「私の人生は楽しくなかった。だから私は人生を創造したの」  
「シンプルさは、すべてのエレガンスの鍵」  
「人生がわかるのは逆境のときよ」  
「かけがいのない人間になるには、常に他人と違っていなくちゃ」  

三菱一号館美術館 「ガブリエル・シャネル展」は9月25日まで。  
https://mimt.jp/gc2022/

映画「エリザベス 女王陛下の微笑み」

世界で最も有名といわれている女性をご存知ですか。エリザベス・アレキサンドラ・メアリー・ウィンザー。そうです、イギリスのエリザベス女王です。

女王は今年4月に96歳の誕生日を迎えました。25歳で女王に即位してから70年が経ちました。その女王の日々の姿を追い続けたドキュメンタリー映画に先日、出会いました。

『エリザベス 女王陛下の微笑み』

これまでに撮影された膨大な量の記録映像をまとめたものです。しかし、これは単なる”公式記録集”ではありませんでした。厳かで、お洒落で、そしてユーモアたっぷりの物語りでした。  

各国首脳との会談に臨んだり、英国議会に姿を見せるのは通常の業務で、アメリカの歴代大統領は当然のように、就任の挨拶にやってきます。そして、海外の要人の訃報などに接すると、いち早く哀悼の意を表し、その国の人々と悲しみを共にします。それらは勿論、側近とのきめ細かな意思疎通の結果でしょうが、女王の日々の心配りが想像できます。

実に多忙な日常なのですね。  

そんな中で、女王が大好きな競馬観戦のシーンが出てきます。当たり馬券を握りしめて、「16ポンドよ!」と飛び跳ねる女王。現在のレートに換算すれば、2000円ほどでしょうか?あまりに人間的で魅力的な女王の姿です。  

こうした映像に花を添えているのが、ビートルズやナット・キング・コールの歌声です。数々の名曲がスクリーンに流れていきます。また、女王について語る市民の声も耳から離れません。5、6才の女の子は、「女王はどんな人?」と聞かれて「私たちが困ったら、助けてくれるの」と無邪気に答えていました。

尊敬、崇拝に加え、更なる世界が広がっているのを感じました。

心温まるこの映画の監督は、イギリスのロジャー・ミッシェル。20年以上前に世界的なヒットとなった「ノッテイングヒルの恋人」を作りました。

ミッシェル監督は今回のエリザベス女王の作品に全身全霊を捧げたのです。最後の音響作業を終えた去年9月、彼は急逝しました。文字通りの遺作となりました。  

4年後の4月21日、エリザベス女王は100才の誕生日を迎えます。今年6月、在位70年の記念式典で女王が身につけた目を見張るようなドレスとアクセサリー、そして帽子。その姿をまた拝見したいのです。

そこには今年6月の式典で同席した曾孫のルイ王子もいるでしょう。ジェット機の騒音に驚き、「うるさいよ!」と耳をふさいだ4才の王子。

彼も100才の女王を囲む王室の一員として、立派な8才の少年になっているはずです。   女王の末永いご健康を、お祈り申し上げます。

映画公式サイト
https://elizabethmovie70.com/#modal

若狭 初夏の蛍

夜明けどき、深い穏やかな眠りのなかにいた私は、家の遠く近くでする鳥のさえずりに目を覚まします。あのいそがしげな鳴き声は、ホトトギスかしら?そう、ホトトギスは「時鳥」と書いて夏の到来を告げる鳥。

福井県若狭の地。私が30年ほど前に古い茅葺の農家を移築して、”田んぼを持ちたい、お米を作りたい!”との思いで、自分へのプレゼントとして設けた「故郷の家」です。「農・食」をテーマに学んでいた時代。けっして生易しいことではないと承知で、専業農家の方、村の方々に教えていただき「10年・10回」は経験したかったのです。  

私はパジャマのままで縁側に座って、いつまでも、時を忘れてその美しさに見入ります。  

植田水 なみなみと日の 上りたり   石原舟月
文机に 座れば植田 深く見ゆ     山口青邨

若い日々、農家の人々の暮らしのなかの道具やモノに寄せていた私の関心は、それが深まるごとに、農業そのものへと少しずつひろがっていきました。 スーパーマーケットに行けば、一年中季節にとらわれることなく食べものがあふれかえっているこの時代。でも、どうでしょうか?このような世界事情で食べものが海外から入ってこなくなる!なんて予測したでしょか?

自給率の低い日本。田んぼで言えば休耕田がますます増えてきました。飢餓状況にある国々の人たち。私はずいぶん前から、日本の農政のあり方に疑問を持っていました。フランスもドイツも、他の国々はそれぞれ「農業国」でもあるのです。

その季節にとれたものを、その日の食卓にのせる。その食卓にのった食材によって季節の移ろいを感じ、また、旬の食材を尊いと思う。時を選ばず何でも手に入る環境にいる子どもたちこそハンデが大きい、と思います。  

ある夏の日。午後から降り出した雨のせいもあり、一日じゅうゆっくりと読書三昧の日をすごしました。雨上がりの夜八時過ぎ、「そろそろ蛍が舞うよ」と近所の方が教えてくださいました。

家を出ると水田のあぜ道に行ってみました。その時、私はその水田のなかに、ほんとうにこの世のものとは思えないような光景をみたのでした。月を背負ってそこに立っている私自身のシルエットが、水田の水面にくっきりと映っています。

ノースリーブにギャザースカートの黒い影が、水の中でゆらゆらと揺れていました。そしてしばらくすると、そのスカートの形のなかに何十匹もの蛍が、美しい光を放ちながら舞っているではありませんか。蛍たちがスカートのシルエットなかで踊っているさまをいつまでも眺めていました。

先日の新聞(7月2日、日本経済新聞「くらし探検隊」)に興味深い記事が掲載されていました。「日本固有種であるゲンジボタルの発光の周期は東日本と西日本で違う」そうです。

光って飛び回るのはオスで、葉に止まったメスに求愛しているのですが、この求愛の発光回数が日本列島を東西に分けると東は4秒に1回の「長周期形」、西は2秒に1回の「短周期形」に分かれるそうです。

九州の西端の五島列島は、1秒間に1回光る「超短期型」だそうです。「どうやら西に行くほど求愛はせっかちになるようだ。」と書かれており、わぁ~知らなかった!ということばかりでした。

でも、私は紫式部の「源氏物語」に由来する…お話しのほうが夢があっていいな~と思いました。(これにも諸説あるそうです)   今年は猛暑に雨、生産者の方々は全国でご苦労されております。頑張ってください!

若狭はお陰さまで早生には少しづつ穂が見え始めたそうです。早くコロナが落ち着いてまた縁側から見える山々の稜線を見に行きたいです。

映画『歩いて見た世界~ブルース・チャトウィンの足跡』

ノマド(放浪の民)という言葉に、どのようなイメージを思い浮かべるでしょうか。人類の長い歴史と未知の世界、そして、知らないことへの好奇心。

先日、心温まる映画を見ました。

アフリカ大陸の東側と言われる人類発祥の地。そこからアジアやアラスカなどを経て、南米のパタゴニアに辿り着いた古代人。また、オーストラリアで独自の文化を築いた先住民のアボリジニ。そんな移動の歴史や文化の形成に強い関心を持ち続けたイギリスの作家がいました。

そして、彼の行動に深く共鳴したドイツの映画監督がいたのです。2人の”共同作品”に出会いました。

英語の原題には、「Nomad」というタイトルが付いていました。 
『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』

作家のチャトウィンは30年ほど前に病気で亡くなりました。この映画はチャトウィンという人物をじっくり掘り下げたドキュメンタリー映画で、関係者への膨大なインタビューを軸に構成されています。

この作品の最大の特徴は、チャトウィンが歩いた行程をヴェルナー・ヘルツォーク監督が自分の足で体験したことです。2人は40年近く前にオーストラリアで知り合いました。そして、ヘルツォーク監督の「世界は徒歩で旅する者にその姿を見せる」という言葉に感銘を受けたチャトウィンは、共に歩み続けることにしたのです。

この映画には2人の思想が色濃く投影されています。自分の足で歩き、旅を続け、人との触れ合いの中で温もりを感じる。スクリーンからは心地よいパワーが溢れでてくる、素晴らしいドキュメンタリー映画でした。

この作品は3年前、チャトウィンの没後30年を機に作られました。ヘルツォーク監督はチャトウィンに向けて、友情に満ちた送別の辞を、改めて捧げたのでしょう。この映画のエンディングにはチャトウィンが自らの作品を朗読する音声が流れます。

映像は緑溢れる木々の出迎えでした。チャトウィンはユーカリの木陰で命を終えたということです。この最後のシーンには、遥か先に木漏れ日が見えていました。決して終わりではない、新たなスタート。

これからもエンドレスのバトンタッチを繰り返していくのだという、凛としたメッセージを感じることができました。  

この映画は岩波ホールで拝見しました。今月29日に最終日を迎える岩波ホールでの最後の上映作品でした。そして、それにふさわしい映画でした。

人生の旅の光を見つめることのできる、とてもいい映画に出会えました。   コアラが食べることで知られるユーカリ、花言葉は「再生」とのことです。

『沖縄 慰霊の日』  

6月23日、沖縄戦が終わってから77年の「慰霊の日」です。

多くの命が奪われた沖縄戦から77年。
日本復帰50年。
その日23日は梅雨が明け、雲ひとつない青空。夏の強い日ざしが射している沖縄の飛行場に私は降り立ちました。

この日は、県民の方々の祈りの日。
私は静かに心の中で祈りを捧げました。

県内各地でも慰霊祭が行われ、最後の激戦地となった糸満市摩文仁では沖縄全戦没者追悼式が執り行われ、犠牲者の冥福を願い、平和の誓いを新たにしました。

正午の時報に合わせ、1分間の黙とう。追悼式では山内小学校2年の徳元穂菜さんが、「平和の詩」を朗読しました。タイトルは「こわいをしって、へいわがわかった」。真っ直ぐに見つめ、素直な言葉が心に響きます。

美術館で戦争の絵を見て怖く悲しい気持になり、隣にいた母親にくっつくと暖かく感じて安心した経験を詩につづっていました。

岸田文雄首相は「沖縄が歩んだ苦難の歴史の上にある」と言及しました。県遺族連合会の宮城篤正会長は、今も遺骨や不発弾が見つかっていることを挙げ「沖縄の戦後は終わっていない」と説きました。

私は日曜日に糸満市摩文仁の平和祈念公園へと向かいました。式典当日には行けなかった多くの方々が訪れ、手を合わせていました。「平和の礎(いしじ)」に刻み込まれている名前には「国籍を問わず」の考えのもと、1万4千人余りの米軍兵士たちの名前もありました。

今年新たに55名が追加され総数24万1686人の名前が刻まれています。指でなぞりながら祈る人々の姿を遠くから見ながら「真の平和」はいつ実現するのだろう……と思いました。

外国人の若い方々も訪れていました。

青空をごう音とともに横切る灰色の米軍機。ロシア、ウクライナ侵攻が続く中での慰霊の日。今、この時、尊い命が奪われ、人々は傷つき、同じことを繰り返しています。

親やきょうだいの生前の姿をしのび石版を指でなぞり、喉の渇きや空腹を癒してもらおうと食事や水、そして花や線香を手向ける方々の姿が目に焼きついた日でした。

そして、戦争の犠牲になった多くの御霊に手を合わせ祈りました。  

帰りに同じ敷地内にある「沖縄県平和祈念資料館」に寄り、「沖縄戦への道」沖縄戦に至るまでの歴史や戦争がなぜ起こったのか。また住民の視点から描く状況。戦後の27年間の米軍統治、復帰運動、平和創造を目指す沖縄。

そして「未来を展望するゾーン」では「いま、せかいで何が」を子供たちに分かりやすく平和について語りあえる場がもうけられています。  

徳元穂菜さんの「へいわをつかみたい ずっとポケットにいれてもっておく」という詩には「世界中の人が仲良くなって協力してほしい」という願いが込められていたそうです。  

沖縄の夏は美しい花々が咲き誇っております。どうぞご覧ください。