監督は80代の映画青年!

イタリアのシチリア島で勢力争いを繰り広げるマフィア。実在した大物マフィアの姿を描いた映画を見ました。

”マフィアもの”だからといって、全編、血生臭いだけの作品ではないはずです。やはり、その思いが裏切られることは、ありませんでした。

「シチリアーノ 裏切りの美学」

一人の男が生き抜く心情を、夫婦愛や家族愛を交えながら丁寧にたどった作品でした。

1980年代のシチリアでは、マフィア同士の派閥抗争が激しさを増していました。その中で逮捕されたのが一方の組織のボスでした。

彼は10代からあらゆる犯罪に手を染めて、マフィアのリーダーとしての頭角を現しました。しかし、時代の流れとともに、組織そのもののあり方やメンバーの意識の変化に、抜きがたい違和感を覚えるようになります。

さらに、対立する陣営は彼の兄や息子たちに手をかけてしまったのです。悩みに悩んだ末、彼は取り調べの判事に組織内部の情報を話し始めます。

”服従と沈黙”。

つまり、マフィアにとっての”血の掟”を、ボス自らが破ってしまったのです。

”誇り”と”脆さ”。

幾重にも続く複雑な心の波動をスクリーンは主人公に寄り添うように映し出していきます。その結果、逮捕され裁判にかけられた被告は476人。全員が特設の法廷に集められ、主人公との対決が繰り広げられます。このシーンは最大の見どころで、いわば「舞台劇」そのものでした。

拳銃や爆弾の音が鳴り響いても、映画全体のトーンはあくまで静謐でした。それは、間もなく81歳を迎えるイタリア映画界の巨匠、マルコ・ベロッキオ監督の心が強く投影されていたからでしょう。監督はこの作品を、”人間ドラマ”として描きたかったのだと、改めて感じました。

この映画に興味を持ったそもそもの理由は、40年以上前に遡ります。その時、私はイタリアのミラノを旅行中でした。モロ元首相の誘拐事件がローマで発生したのです。1978年3月16日のことでした。「何か大変なことが起きた!」その声に背中を押されるように、ミラノ駅からすぐにスイス経由でフランスに出国したことを、昨日のことのように鮮明に覚えています。

その事件から20年以上が経ち、”モロ元首相の誘拐・暗殺事件”が映画化されました。

題名は「夜よ、こんにちは」。監督はあの巨匠、マルコ・ベロッキオだったのです。もちろん見ました。テロリストたちの揺れ動く視線で事件を映像化し、高い評価を得ました。やはり監督は、「夜よ、こんにちは」でも、”心理劇”を描いたのですね。

「シチリアーノ」、初秋を迎えた平日の午後、有楽町の映画館で見ました。入場者も徐々に戻ってきたようです。会場の入り口に設置されたアルコール消毒液で丁寧に手を拭きながら入っていく女性が何人もいらっしゃいました。

見終わったあと、余韻に浸りたくてコーヒーショップに入りました。150分を超える大作をもう一度噛みしめるには、どうしても必要な時間と空間でした。

一人でコーヒーを飲みながら耳の中にこだましていた音楽は、日本でも有名なラテンの名曲「ある恋の物語」でした。この映画では、2度も流れていました。

まだまだお若いベロッキオ監督の次の作品、私は首を長くしてお待ちしております。

映画公式サイト
https://siciliano-movie.com/

”夏の終わり”に思うこと

とても素敵な映画に出会いました。

主人公は凛とした気高い女性。彼女は映画俳優で、今はゆったりと静かな日々を送っています。彼女がどうしても済ませたかった夏の終わりの”宿題”。それは、家族や友人たちに集まってもらい、自分の大切な思いを伝えることでした。

夫、元夫と息子、そして、仕事上の親友とその恋人。次々に登場する顔ぶれは実に多彩で、彼女にとっては皆、”肉親”なのです。

彼らと改めてふれあい、それぞれ悩みを抱える心に少しでも寄り添い、自分の夢と希望を手渡していきたい。そんな一日だけの舞台として彼女が選んだのは、ポルトガルの避暑地、シントラでした。

首都・リスボンの郊外にひっそりと佇むシントラ。ユーラシア大陸の西の果て、大西洋が眼の前に広がる古い歴史の街では、緑豊かな森が人々を包み込んでいます。世界遺産にも登録されたこの美しい街は、物語の展開になくてはならない、もう一つの”主人公”でもあるのです。

今回の映画は、「ポルトガル、夏の終わり」でした。

主人公の女性を演じるのはフランスのイザベル・ユペール。これまで、「カンヌ」、「ベネチア」、「ベルリン」の国際映画祭で受賞を重ねた実力派です。そして監督はアメリカのアイラ・サックス。彼は女性の微妙な心のひだを実に繊細に映像化しています。共演者もアメリカ、ベルギー、イギリス、アイルランド、フランスなど、各国から集まりました。

主人公が家族や仲間たちに伝えたかった思いとは何だったのでしょうか?

森の中を一人ゆっくりと歩む彼女の衣装は実に意思的です。パープルのスカーフとスカート、そしてブルーのジャケット。周囲の緑に吸い込まれそうな色彩が、最後まで背筋を伸ばして存在を主張しています。

来し方行く末へのさまざまな思いを受け止めながら、自分の足跡を見つめ直し、できれば、仲間たちがそれを受け継いでいってほしい。病の存在を知らされた主人公は、気丈さと優しさを込めて舞台にたったのです。

この映画のエンディングは、おそらく忘れられないでしょう。主人公と仲間たち全員が、大西洋を見下ろすシントラの山頂に登ります。大陸の果ては海の始まり、頂の大舞台に並んだ彼らへのカーテンコールは、繰り返し打ち寄せる大西洋の波でした。

それは、いつまでも命をつないでいくことへの、大自然の限りない賛歌でもありました。その時、主人公は目の覚めるようなオレンジ色のスカートを身に着けていました。

まだ見ぬシントラ。是非行ってみたいと心から願った、今年の夏の終わりでした。

映画公式サイト
https://gaga.ne.jp/portugal/

夏休みの旅、鎌倉

思い通りの旅ができない日々が続く中、私はやっぱり旅が好きです。

旅行・トラベル・旅・・・”旅”が一番しっくりきます。江戸期の庶民の旅は「寺社詣で」一生に一度の伊勢参り・・・など、今のように便利に自由に旅ができなかった時代の旅はむしろほんとうの旅を楽しんだのではないかしら。

松尾芭蕉は『おくのほそ道』の旅に出てゆくとき、住みなれた家を人手に渡しているのですね。人生五十年の時代と百年の時代では旅のしかたも違います。(芭蕉は五十一歳で歿している)

この頃の私の旅は”ゆっくり・のんびり”の旅が多くなりました。若い頃の旅は不安などなく好奇心のかたまりでした。そんな旅好きの私が自由に旅ができない!のはかなりのストレス・・・とコロナ禍の始めは思っておりましたが、実は身近に素敵な場所はいっぱいあるのですね。人ごみを避け、静かな旅です。

我が家からバスで小田原に出て東海道線で大船、鎌倉へ。2時間弱です。今回は娘と合流し、まずは鎌倉山のアンティークショップやカフェのある「House of Pottery」でのランチ。

とても素敵で大好きなところ。外国にいったような気分になれます。JR大船駅より京急バス4番で、鎌倉山下車。徒歩2分ほどです。オーナーの荻野さんと新しく始められた「Kamakurayama Holiday Flat」のお話などおしゃべりをしながらの楽しいひとときでした。

いつもは日帰りコースなのですが、”小さな旅”がしたい!と一泊。初めてでしたが、泊まると見えてくる風景、匂い、感覚も違うのですね。

”ゆったり・のんびり”今回の旅でどうしても行ってみたかったのは鶴岡八幡宮の境内にある神奈川県立近代美術館(現在は鎌倉文華館鶴岡ミュージアム)と、そして、稲荷山・浄妙寺。娘から枯山水のお庭が素晴らしいの、と聞いておりましたので。

JR横須賀線・鎌倉駅東口下車、京急バス5番線 浄明寺下車徒歩2分。鎌倉五山五位の寺格をもつ臨済宗建長寺派の古刹。

天生年間(1500年代)僧が一同に茶を喫した『喜泉庵』でいただく冷抹茶と美鈴さんの生菓子。庭園は杉苔を主とした枯山水。夏の朝、お茶室を抜ける風が心地よく、のんびりしました。

午後からはかつての県立近代美術館へ。日本初の公立近代美術館は土地の借地契約満了に伴い2016年にいったん閉館し、改修、耐震工事を経て19年に鶴岡ミュージアムとしてオープンしました。

70年前、この近代美術館の白い建物を設計したのが坂倉準三(1901~69年)20世紀建築の巨匠ル・コルビュジエに学び日本の現代建築に足跡を残した坂倉準三のモダン建築がどのように生かされているのか・・・とても興味がありました。

彼の建築の空間は日本的で、屋根はあるけれど、風が抜け、平家池に面した天井は池の水面が反射し、ゆらゆらと揺れています。近代建築のモダンさに日本の詩情がうかがえる素晴らしい美術館に生まれ変わっていました。

旅の終わりは美術館に併設されているカフェで『カキ氷』でしめくくり。短い旅でしたが、充実した身近な旅を堪能しました。

「ゆっくり、とした旅」いいですね。

若いときのようにはいかなくとも豊かな自然と文化に満ちている日本の旅。

皆さんも、身近で見つけてください。美しい日本を。

堀 文子さんの「ブルーポピー」

日本画家の堀文子さんが、昨年2月5日にお亡くなりになられました。100歳でした。

私は10年前に読んだ”堀文子の言葉~ひとり生きる”を本棚から取り出して読みはじめました。私は堀さんの描く「野の花」がとても好きです。

そして堀さんの生き方に学びます。
「群れない 慣れない 頼らない これが私のモットーです」とおっしゃられます。

生前私は一度だけ軽井沢のアトリエに雑誌のインタビューでお邪魔しお目にかかりました。1960年にご主人を亡くし、その翌年、かねてから願望だった古代から世界の歴史をたどる旅に三年間出かけます。ご主人を亡くされての喪失感はそうとうなようでした。

そして帰国後、ものづくりは自然のなかで暮らすべきと考えられ1967に大磯に転居。79年に軽井沢にアトリエをもたれます。その頃です、お目にかかったのは。

科学者になる夢をもちながら、女性の社会的な自立や自由が制限されていた時代、”縛られない自由”を求め画家になります。70年後半から80年にかけて日本はバブル狂乱の時代、そんな日本を後にし、69歳のときにイタリア・トスカーナへと脱出します。

最初は全くイタリア語は話せなかったそうですが5年間暮らし、美しいトスカーナの野の花などを描きます。そして、さらなる未知の世界を求め、77歳で(今の私の年齢)アマゾンへ。80歳でペルー、81歳でヒマラヤ山脈に幻の花「ブルーポピー」を求めて旅を続けます。馬にまたがり標高4500mの高地をスケッチの旅です。

ご著書のなかにこのように書かれています。

『自由は、命懸けのこと。
完全に自由であることは不可能ですけれど、私は自由であることに命を懸けようと思ったことはたしかです。自由というのは、人の法則に頼らず、しかしワガママ勝手に生きることでもなく、自分の欲望を犠牲にしないと、本当の自由はやってきません。ですから、命と取替えっこぐらいに大変なことなのです。

群れをなさないで生きることは、現代社会ではあり得ないことです。何をするにしても誰かと一緒にしなければならない。それを私はしないような道を選んで、モグラのように地下に潜って生きてきたと思います。そういう生き方を選びましたが、私のような職人にはよかったと思います。』

83歳のときに大病に倒れ奇跡的に回復し、停滞することなく画を描き続け、その瑞々しさに感動をおぼえます。そして人々へ勇気を与え続けてくださいました。

インタビューをさせていただいた時、

「よく聞かれるのよ(ひとりで寂しくありませんか?)ってね」

そして、しっかり私の目を見てこうおっしゃいました。

「みんなひとりが寂しいといいますが、人といれば本当に寂しくないのかしら?人はそもそも孤独なのです。」と。

忘れられないことばです。

私の家から杉並木を歩き30分ほどで隣町にある「成川美術館」に着きます。現代日本画美術館です。収蔵は4,000あまり。

現在「堀文子収蔵セレクション第1回~野に咲く花たち~展」が開催されていて「ブルーポピー」も出品されています。

何度目になるでしょうか、拝見するのは。標高4,500mに咲く花にはトゲがたくさんあります。幻の花を求め、82歳で筆を持つ堀文子さんからたくさんのエネルギーをいただきました。

成川美術館公式サイト
http://www.narukawamuseum.co.jp/exhibition/ongoing_2.html

沖縄

このたび、沖縄県観光功労者に選んでいただき、表彰を受けることになりました。このような光栄ある賞をいただくことができたのは、よきみなさまに恵まれたおかげだと感謝の気持でいっぱいです。

沖縄は私にとって、ずっと特別な場所でした。

民芸の師と仰ぐ柳宗悦先生の、沖縄こそ理想郷『美の王国』との言葉に導かれ、初めて沖縄の地におりたのはまだパスポートが必要な時代でした。

花織をはじめとする織物、八分茶碗などの焼き物・・・・・沖縄の手仕事の美しさ、その形にこめられた人々のありように心を奪われ、以来、時間をみつけては通うようになりました。

沖縄の女性たちの明るさとたくましさを知り、仲間と呼べる友人にも恵まれました。その中でごく自然に、沖縄の事業などの応援をし、沖縄の魅力をひとりでも多くの人に知ってほしいと行動するようになりました。

今、沖縄は首里城再建という大事業を控え、さらにはコロナ禍という思いも寄らぬ事態にも見舞われています。観光功労者の表彰式は、例年、観光が最も盛り上がる8月に行なわれていましたが、今年は表彰式も中止になりました。

素晴らしい歴史と文化を持つ沖縄。
過酷な時代も乗り越えてきた沖縄。
訪れる人を魅了してやまない沖縄。

沖縄に、両手を広げて人々を受け入れられる日常が一日でも早く戻ってくることを心からお祈りするとともに、これからも私は沖縄の皆さんの心に寄り添い、微力ながらも沖縄の観光発展のために力を尽くしていきたいと思います。

若狭の家

先日とても懐かしい写真が送られてきました。京都在住の元新聞記者の方からでした。私のコマーシャルを観てくださり、「お元気なんだ」と安心し、福井県大飯町(現おおい町)三森で田植えや稲刈りの時の写真を送ります、とのことで25年前の懐かしい写真をフィルムからプリントしてくださいました。

”農と食”を勉強したい・・・との思いから女優を退き、実際に畑を作り、野菜や果物の育つ様子をこの目で確かめながら暮らしたい。子供たちに、蛍がりや小川のせせらぎ・・・故郷の原点のような田舎を持たせたい。そんな思いが実り、「すずめのお宿」みたいな茅葺の家を持つことになりました。

おおい町は、さば街道の起点として有名な小浜から車で小一時間の山あいにあり、海も近いので、新鮮な魚介も豊富。冬はとても寒いのですが、茅ぶきとともに、さまざまな野菜が育ちます。

「田んぼで米作りにも挑戦したい!」など無謀とも思える行動に。「この目で確かめ、自分で経験したい!」これが私のこれまで生きてきたモットーです。

でも、素人の私が簡単にできることではありません。隣の集落に住む画家の奥さんが「おはよう、浜さんよう寝むれましたか?」と畑のなかから満面の笑顔が早朝から顔をだします。私の野菜作りの師匠です。

私の若狭の家を、畑を陰で守り続けてくださいました。「浜さん、今年は茄子の出来がいいなあ」はちきれそうなインゲンの緑、太った茄子の紫、トゲトゲの痛いきゅうり、泥のついたにんじん・・・それらを籠いっぱいに摘んで、縁側によいしょと座り込みその日の献立を考えます。

わが家の畑でできた野菜は、お世辞にも器量よしとはいえないものばかり。でも、どれを手にとっても、わが子のように可愛くて仕方がないのです。”あばたもエクボ”なんですね~。子供たちも夏休みにはやってきて、山ほどの魚を釣ってきます。

料理教室など通ったことさえない私が『娘たちへ 毎日の幸せおかず』(講談社)を出版したのが1994年。それは子供たちに料理作りが苦手でない女性に育って欲しい・・・との思いから。お芋の煮っころがしやきんぴらが得意な人になって欲しい・・・そして、”土のもつ力”を知って欲しい。そんな思いからです。

コロナ禍の中で”移住”が話題になっています。都会には都会の良さがあります。しかしこれからの時代”本当の豊かさ”が求められてくるのではないでしょうか?

「農」は命に直結しています。他国に頼っていることはどれほど不安になるか・・・を今回実感した私たちです。

「10年は米作りを」を目標にしました。専業農家のご夫妻に手ほどきを受け、水の管理、草取り、手植え、はさかけ、収穫までにどれほどの手間がかかるか。10年といってもたったの10回の経験です。

でも、自慢ではないのですが「浜美枝のひとめぼれ」を収穫しました!現在は10年前に客員教授として迎えられ一緒に学んだ大学生たちが泥んこになって励んでいます。(今年はコロナで参加できません)

天候や気候に気を配りながら、肥沃な土のなかで育っていく野菜や米たちの成長ぶりを自分の目で確かめる暮らし。そんな日々の営みこそが、自然に抱かれ生きる人間の、とてもまともな、そしてほんとうの豊かさのある暮らしなのだと少しでも感じてほしいのです、若者たちへ。ITの時代これからは新たな時代を迎え、きっと新しい農業のあり方も生まれるでしょう。

今年はコロナで若狭の夏を体験できませんが、ある年の夏。午後から降り出した雨のせいもあり、一日じゅうゆっくりと読書三昧の一日を過ごしました。そして、雨あがりの夜八時過ぎ、「そろそろ蛍が舞いそう」と家を出ると水田のあぜ道に行ってみました。その時、私はその水田のなかに、ほんとうにこの世のものとは思えないような光景をみたのです。

月を背負ってそこに立っている私自身のシルエットが、水田の水面にくっきりと映っています。ノースリーブにギャザースカートの黒い影が、水の中でゆらゆらと揺れていました。そしてしばらくすると、そのスカートの形のなかに何十匹もの蛍が、美しい光を放ちながら舞っているではありませんか。私はただうっとりとその場に立ちつくして、蛍たちがスカートのシルエットのなかで踊っているさまをいつまでも眺めていたのでした。

田んぼの早生米もまもなく収穫のときを迎えます。美味しいごはんをしっかり食べて、元気にこの夏を乗り切りましょう!そして、一日も早い収束を心から願います。

ロンドン・ナショナル・ギャラリー展

梅雨も明け猛暑日の午後、ラジオ収録後に上野の国立西洋美術館を訪れました。

ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」が開催されています。本来ですと3月3日からの予定でしたが、延期となりようやく観られるようになりました。

あらかじめチケットはネットで購入していたので、これまでだったら話題の大型展だったら大行列するでしょうけれど入場者を制限し、30分単位での入場ですからとてもスムーズに入ることができ、会場も人の頭越に作品を見ることもなく、快適に鑑賞することができました。

今回は感染予防対策としてのシステムですが、これからもこのような新しい方法での鑑賞ができたらいいですね。

ロンドン・ナショナル・ギャラリーは、”みんなに開かれた誰でもが来られる美術館”を目指し1824年5月10日に開館しました。

市井の人の寄付、コレクターの寄贈などでできあがりました。そして、ロンドンでは入場は無料です。(私もロンドン滞在中には何度も訪れました)

今回の作品はすべて日本初公開の作品ばかり。ギャラリーはまもなく設立200年を迎えますがこれまで一度も外国で展覧会を開いたことがないそうです。

そして、これらのコレクションが、王室などを由来としたヨーロッパの美術館と異なり英国民の手で英国民のために作られたとか。今回は61点の作品に出会えますし、まさに西洋美術史の教科書を学べるように、イタリア・ルネッサンスが花開いた15世紀からポスト印象派に至る19世紀末までの名品ばかりが集まっています。

私は展覧会の鑑賞の仕方として、全て観てクタクタになるのは苦手ですので、あらかじめ自分が見たい作品を6,7点決めておいて真っ直ぐその作品と対面します。

一番観たかったフェルメールの「ヴァージナルの前に座る若い女性」。

そしてフィンセント・ファン・ゴッホの「ひまわり」。

ゴッホが共同生活を送る親友ゴーギャンの寝室を飾るために描いたこの作品。歓びの後の哀しい結末・・・この絵を見つめているとゴッホの喜びが伝わります。

モネ、ルノアール、レンブランド、ターナー・・・宗教画・神話画・風景画・肖像画・風俗画。バルトロメ・エステバン・ムリ-リョの「窓枠に身を乗り出した農民の少年」これも見たかった一枚です。タヒチ時代にはヨーロッパから球根を取り寄せ育てた花の絵は以外にもゴーガン。花も好きだったのですね。

というわけで、あっという間の2時間でした。上野から東京駅に。新幹線で真っ直ぐ小田原に出て山に戻ってきました。”巣ごもり”でも工夫してこのような時間はやはり必要ですよね。

展覧会公式サイト
https://artexhibition.jp/london2020/

夏が似合う女性(ひと)

梅雨も明けて、まもなく灼熱の太陽がジリジリと肌を焦がす季節をむかえると、森瑤子さんを思い出します。

彼女は私が知っている女性のなかで、誰よりも夏が似合う女性でした。1993年7月6日。52歳という若さで天に召されました。四谷の教会で静かに笑みをうかべた瑤子さんとのお別れ・・・夏でした。同じ季節、私は森の中であなたを想っています。

それは、お知り合いになってまだ間もない頃に、与論島の彼女の別荘にお邪魔したときの印象があまりに強烈だったせいかもしれません。

「浜さん、ヨロンに遊びに来ない?裸で泳がせてあげる」

仕事を通じての出会いだったこともあり、まだお友達と呼べるほどの親しい会話も交わしていない瑤子さんから突然そんなお誘いを受けて、私は心底びっくりし、長いあいだ憧れ続けていた上級生から声をかけられた女学生のように、半ば緊張しながら素直にうなずいていたのです。

白い珊瑚礁に囲まれて熱帯魚の形をした、あまりにもエキゾチックな匂いのする与論島。サトウキビ畑の真ん中にある空港に降り立つと、真っ白なつば広の帽子を小粋にかぶり、目のさめるような原色のサマードレスを着た瑤子さんが待っていてくれました。

「この島は川がないでしょう。だから海が汚れず、きれいなままなの。娘たちにこの海を見せてやりたくて・・・」私は瑤子さんの言葉を聞きながら、母親の思いというものは誰でもいつも同じなのだなと感じ、急に彼女がそれまでよりもとても身近な存在に思えたのでした。実際私の知る限り、森瑤子さんほど妻として母親としての役目を完璧にこなしていた女性に会ったことがありません。

長いあいだの専業主婦の時を経て、突然作家になられ、一躍有名人になられて、そして仕事がとても忙しかったことで、瑤子さんは絶えずご主人や娘さんたちに対して後ろめたさのようなものを抱え続けていらっしゃるようでした。

書かれている小説の内容や、お洒落で粋な外見の風貌とは裏腹に、娘たちにとっての良き母親であろうとする日本女性そのものの森瑤子さんがいつも居て、仕事も家庭も、どちらも絶対におろそかにすることのない女性でした。

そう、都会の男と女の愛と別れを乾いた視線で書き続けた森瑤子という作家は、個人に戻ればどこまでも子どもたちのことを思う、「母性のひと」であったのです。

私は四十代の中頃まで、そんな瑤子さんに対しても、自分自身の心の内の辛さや痛さなど他人(ひと)に打ち明けることのできない女でした。十代の頃から社会に出て働き続けてきたせいか、他人に甘えることのとても下手な人間だったのです。心にどんなに辛いことがあったとしても、涙を流すのはひとりになってから。肩肘をはって生きてきたような気がします。

そんな私が、「花織の記」というエッセー集を出版したとき、あとがきを瑤子さんにお願いしました。あの頃の私はさまざまな悩みを抱えていて、スランプ状態に陥っていたのです。

そんなある夜更け、突然瑤子さんからお電話がかかりました。「あとがきができたからいまから送るわね」という優しいお声の後に、FAXの原稿が流れてきたのです。

「私は浜美枝さんの母の顔を見たことがない。同様に妻の顔も見ていない、(中略)私の知っている美枝さんは、一人の素顔の女すらでもなく、仕事をしている時のハマミエその人だけだ。けれども仕事をとってハマミエを考えられるだろうか?今ある彼女を創ってきたのは、彼女の仕事であり、今日まで出逢ってきた何万人もの人々との出逢いである。そうして生きて来ながら、彼女はたえず自分自身に疑問を投げかけ、その自問に答えることによって、今日あるのだと思う。」

さらに瑤子さんは、妻であり、母親であり、仕事を持つ女性の苦悩をご自身の体験に重ねて書かれた後にこのようにしめくくってくださったのです。

「時に私は、講演会などで人前で喋ると、身も心も空になり、魂の抜けた人のように茫然自失してしまうことがある。あるいは一冊の長編を書き上げた直後の虚脱感の中に取り残されてしまうことがある。そんな時私が渇望するのは、ひたすら慰めに満ちた暖かい他人の腕。その腕でしっかりと抱きしめてもらえたらどんなに心の泡立ちがしずまるだろうかという思い。けれども、そのように慰めに満ちた腕などどこにも存在しないのだ。そこで私は自分自身の腕を前で交錯して自分自身で抱きしめて、その場に立ちすくんでしまうのだ。

おそらく、美枝さんも、しばしばそのように自分で自分を抱きしめてきたのではないかと、私は想像する。今度もし、そんな場面にいきあたったら、美枝さん、私があなたを抱きしめてあげる。もしそういう場面にいきあたったら———–」

ひとり温かな涙を流し続けたあの夜。

その瑤子さんがそのわずか二年後にこの世から消えてしまわれるなんて、どうして想像することができたでしょうか・・・・・?

そうね、時には弱音をはいたりすることが、恥ずかしいことではないと貴女が教えてくださいました。

心が落ち着かない日々が続いておりますが、こうして夕暮れ時に瑤子さんを想うとき、心があたたかくなります。いつまでも語り続けたくなります。

芦ノ湖の青春

早朝、雨の降らないかぎりウォーキングを楽しむ毎日です。杉の木立を抜け、芦ノ湖に向かいます。人とはほとんど出会わず、樹木の濃い匂いや風を感じ”幸せ”と、つぶやくことがおおいです。釣り人の背中越しに見る芦ノ湖。

時には正面に美しい霊峰富士を、時には霧に包まれた湖を、穏やかな湖面、荒波が立つ湖面、様々な光景が広がります。

湖の淵に腰掛け湖を見つめていたら青春時代の私に出逢いました。陽がようやく西に傾きはじめた時刻。目の前にひろがる芦ノ湖の湖面は先刻までより更にきらきらと、まるで宝石箱をひっくりかえしたように金色の輝きを放っています。

その眩しさにうっとりと見とれていると、美しい銀色の光の放射のなかを一艙のモーターボートが白い水しぶき上げて行き、その後ろを水すましが水面の上を跳ねるような水上スキーの男の姿が続きます。

考えてみれば、芦ノ湖の水上スキーが私を箱根に住まわせることになったその出発点だったかもしれないな、と水着の男性のダイナミックな滑りを見ながら、私の心はいつしか私自身の夏の青春の日々へと返ります。

待ちに待った十八歳、私は月々のお給料を長いあいだかけてためたお金で運転免許証を取り、そして念願の中古車を買いました。仕事に疲れて戻った部屋で、私は深夜になっても何故か気持ちが昂ぶって、なかなか眠りにつくことができません。

そんな夜は買ったばかりの車に乗って夜の第三京浜を横浜まで走ったり、都心の見知らぬ街を、ただあてなどなくドライブしたりして時を過ごすのが好きでした。また、たまたまいただいた休みの日には、湘南の海や箱根の山のなかまで足をのばして行くことも、楽しみのひとつでした。

車から降りてひとり散歩をしていた芦ノ湖湖畔、夕暮れどきの朱く染まった空と水の上、白い水着姿の女性が気持よさそうに水上スキーに興じている姿が目に止まりました。なんてすてきなの!・・・私もやってみたい・・・生まれてはじめて見る女性の水上スキーは力強く颯爽としていて、たちまち私を夢中にさせました。

中学の頃、バスケット・ボールをやっていた私は、社会に出てからスポーツをする機会がなくなってしまったことがとても不満でした。冬になったらスキーをやりたいと思っていたところ、日活の石原裕次郎さんがスキー場で骨折されるという事故が起きたのです。以来、会社から俳優と女優にスキーをやってはいけないという禁止令も出て、私の欲求不満は頂点に達していました。

「スキーは禁止でも水上スキーは駄目とは言われてないわ・・・」私は、芦ノ湖で白い水着の女性を見たその日のうちに、自分も水上スキーを始める決心をしていたのでした。

それからは休みになるとかならず箱根に出かけては、湖畔のボート屋さんでボート洗いのアルバイトをさせて貰いながら、夕方の三十分、一時間と夢中になって水上スキーを習いました。

そうして大好きな水上スキーがしたくて芦ノ湖に通い続けているうちに、お知り合いの人たちもたくさんできて、箱根という土地が私にとっていちばん心安らぐ場所となり、後年木の家を持とうと考えたとき何の違和感もなく「箱根に住もう」ということになったのです。その山の中で4人の子どもが育ちました。

湖の上に夜の帳がおちはじめるころワイン片手に静かに湖面を見ながら、私の青春時代に想いを馳せている私。

コロナ禍は自分自身と対峙する時間でもあるのですね。

苔庭の美しい美術館

日々落ち着かないなか、遠出の旅も控え、なるべく近くの”小さな旅”を楽しんでおります。3密をさけひとり旅です。幸せなことに箱根の山の中には何度もブログには書きましたが、美術館がいくつもあり、思いたったらすぐに行けることは、このような環境下ではありがたいと思っております。

最近、苔が静かなブームになっていて、お部屋でカジュアルに楽しむ方もふえているとか。わが家も箱根という場所がら苔にとっては育ちやすい(自生)環境なので、庭や石垣にも生えています。

苔寺で有名な京都・西芳寺は境内一面をおおう苔の美しさから「苔寺」として有名ですね。私はこの梅雨の時期に何度か訪ねました。

先日、朝から霧雨の日、苔庭の美しい「箱根美術館」に行ってまいりました。霧におおわれ苔もしっとりと深緑。目にとても優しいのです。

美術館は強羅の斜面を活用し海抜630mにある美術館です。箱根湯本駅から登山電車の終点、強羅駅から歩いて15分ほどですが、上り坂がけっこうキツイので登山ケーブルで一駅「公園上」下車。徒歩2分で「箱根美術館」です。ちょっとした”旅気分”を味わえます。

エントランスを入ると苔とモミジに彩られた「苔庭」が目に入ってきます。

一朝一夕にはこのような庭は難しいでしょうね。モミジが紅葉する頃は人でいっぱいです。

まずは、茶室・真和亭でお庭を眺めながら一服のお茶をいただきました。そして庭園を散策してから美術館へ。

(フラッシュ無しのみ撮影可)

日本、中国、韓国などの”中世のやきもの”を中心に、縄文時代から江戸時代までの瀬戸や備前の壷、古伊万里など等、充実しております。のんびり半日を過ごし強羅からバスで帰路につきました。

嬉しいお知らせがあります。2019年台風で線路滑落後、工事が終了し長期間運休していた箱根登山電車が箱根湯本駅~強羅間で7月23日に運行が再開されます。

箱根山の風景には登山電車はなくてはならない存在です。
スイッチバックを繰り返し登る姿は愛しさを感じます。

どうぞ、のんびり登山電車に乗り、”小さな旅”におでかけくださいませ。

美術館公式サイト
http://www.moaart.or.jp/hakone/