没後50年 藤田嗣治展

約100年前、パリを拠点に海外で活躍した藤田嗣治(1886~1968)。没後50年の節目に、代表作約120点を集めた回顧展が、東京・上野の東京都美術館で開催されています。

これまで、何度となく藤田の展覧会には足を運びましたが、今回の回顧展は点数だけではなく、章ごとに藤田の人生と絵画世界をより知る構成になっています。

改めて藤田嗣治について語る必要のないほど日仏を舞台に活躍した画家・藤田嗣治。

今回の回顧展では26歳で仏に渡り、風景画や静物画を手がけ「乳白色の裸婦」で評価を高め、パリ郊外にある小さな村”ヴィリエ・ル・バクル”で藤田が終の棲家として死の直前まで君代夫人と暮し、81年の生涯を閉じるまでその家で使っていた手づくりの身のまわりの品々まで見ることができます。

箱根ポーラ美術館で『藤田嗣治~手しごとの家』を観てその生涯を知りたくてパリ郊外の小さな家を訪ねたのが2011年9月のことでした。
そのときのブログをご覧ください。2011年9月23日

乳白色の裸婦から「自画像」へ。この自画像(東京国立近代美術館蔵)で謎がとけるようにも思います。

そして27歳の時に現地で描いたおかっぱ頭の自画像が、宇都宮市内で見つかった。と新聞に先日報道されていました。パリで藤田と交流があった作家・島崎藤村らと友へ送るために寄せ書きをしているという記事です。もっとも古いとされています。他の画家の”自画像”とは異なるのです。

そして『戦争画』。3年前、東京国立近代美術館で藤田の戦争画全14点が一挙に公開され、大画面のその戦争画を観たときには「藤田と戦争」について考えてみました。

ヌードを描いた人が戦争画を描く。そして、祖国を去らざるをえない状況になり、最後は宗教画に打ち込み、洗礼を受け、静かに人生の幕を閉じます。

先日NHKの「日曜美術館」を観ていたら、終の棲家のアトリエから藤田自身の”生の声のテープ”が発見されオンエアされました。それは、ユーモアをまじえながらの藤田の”遺言”のような気がしました。

「天声人語」が心に残りましたのでここに載せます。

太平洋戦争末期、俳優の児玉清さんは東京から群馬へ集団疎開していた。ある日、教室で先生から言われた。「悲しいニュースがある。東京に空襲があって、君たちの中に家が焼けてしまった人がいる」。ところが、家が焼けたと伝えられた子たちは喜んで万歳をはじめた。

児玉さんもその一人だった。「お国のために役に立ったんだと、誇らしい気がしてね」。家が無事だった子たちはしゅんとしていたという(梯久美子著『昭和二十年夏、子供たちが見た戦争』)

身に降りかかった災禍を、栄誉と思い込む。戦時下の異常な発想が、子どもにも浸透していた。この絵にも、そんな空気がまとわりついていたのだろうか。東京都美術館で開催中の藤田嗣治展で、戦争画「アッツ島玉砕」を見た。

北太平洋の島で日本軍2600人が全滅した戦闘に、洋画家は材を取った。暗い色調。敵味方も判然としない兵士たちが、折り重なるように闘う。苦痛に顔が歪む者。いま見ると反戦画かと思えてしまう。

藤田が会心の作としたこの絵は陸軍に献納され、戦意高揚に使われた。公開されると、絵の前でひざをついて祈る人もいたと伝わる。死は、社会に埋め込まれていった。やがて「一億玉砕」が叫ばれるようになる。

戦前のパリで名声を得た藤田の絵は、画面に広がる乳白色が特徴だった。その画風を捨てて打ち込んだ戦争画は賞賛され、戦後は手のひらを返すように批判された。時代に歯車を狂わされた一人であろう。(8月23日掲載の朝日新聞)

テープの中から聞こえてきた藤田の声。

会場最後に飾られている箱の上の十字架風の祭服を着た幼子イエス・キリストが描かれた(十字架)は、藤田亡きあと君代夫人の枕元にいつも置かれていたそうです。

最後に、10年ぶりに撮った小栗康平監督の映画『FOUJITA』(ブログに載せております2015年10月16日)で監督はこう語ります。

『フジタが生きた二つの時代、二つの文化の差異。パリの裸婦は日本画的といってよく、反対に日本での”戦争協力画”はベラスケス、ドラクロアなどを手本としてきた西洋クラッシックの歴史画に近いものだ。これを、ねじりととるか、したたかさととるか。ともあれ、一人の人間が一心に生きようとした、その一つのものだったか、を問いたい』と。主演はオダギリジョーさん。

回顧展を観てから一ヶ月。カタログを見ながら、やはりフジタは人間への愛と絵画への情熱をもち続けた画家であったと改めて思いました。

東京都美術館 公式サイト
https://www.tobikan.jp/exhibition/2018_foujita.html

映画『祈り』

岩波ホール創立50周年記念・特別企画で上映されているのが、『祈り三部作』の「祈り」「希望の樹」「懺悔(ざんげ)」です。

3作品の中で私は「祈り」を観てまいりました。監督はジョージア(グルジア)の巨匠・テンギズ・アブラゼ。荘厳なる映像詩「祈り」は51年の歳月をかけて日本で初公開されました。

ジョージア映画が誕生して今年で110年になるそうです。自国の民俗文化を取り入れてソ連邦時代をとおして、激動する時代の影響を受けながらも、かずかずの名作を制作してきました。テンギズ・アブラゼ(1924-1994)監督の三作品は20年近くの歳月をかけて完成されたそうです。「祈り」(67)「希望の樹」(76)「懺悔」(84)

コーカサスの厳しい自然を背景に、人々の対立をモノクロームの荘厳な映像ではじまります。冒頭に、ジョージアの国民的作家ヴァジャ・プシャヴェラ(1861-1915)の

「人の美しい本性が滅びることはない」

という言葉がスーパーででます。

監督の願いがこめられているのでしょか。まず、そこで胸が熱くなります。コーカサスの美しくもあり厳しい山々に囲まれた村、分断と対立が広がる現代に、監督は私たちに何を手渡そうとしているのか・・・人間の限りない愛情と信頼、寛容、愛、自由に対する祈りがこめられているのでしょうか。

映画ですが、セリフはいっさいありません。全編ナレーションです。ストーリーは隣り合って暮すヘヴレティの住民山岳地方のジョージア人とキスティ(チェチェン・イングシー人)の間の争いを描いています。

宗教の違う人間同士。自ら殺した男の果敢な戦いぶりに感じ入った主人公が村の掟(腕を切って持ち帰る)に従わず村の長老の怒りを買い、村を追われます。

宗教の異なる異民族の男を尊敬すべき相手として認めるのですが、社会がそれをゆるしません。私はこのあたりの歴史や文化をよく理解していないのですが、全編が叙事詩です。モノクロームの光りと影、辺境ともいえる中世の石造りの家々。白と黒のコントラストは、きっと監督は善と悪、光りと闇の対立を意識しての映像なのでしょう。

美しい白い衣服を身にまとった女性。とにかく映像がこの上なく美しいのです。全編が沈黙。ナレーションによって映画は進められていくのですが、ひとこと一言が社会的不正義を告発し続けた監督の人間への深い信頼と愛、自由への祈りがこめられているように想いました。

51年ぶりにこの映画を観ることができ岩波ホールに感謝です。そして、人種や宗教が違えども人間は信頼にたりうるのだと深く感じ取らせてくれた監督に感謝です。

残りの二部作品も近々観にいくつもりです。テンギズ・アブラゼ監督のファンになりました。過去の9作品全部観たいです。

岩波ホールを出て、しばらく神保町の街並みを歩き、その余韻に浸り、心が静かになり、温かな気持ちになりました。

素晴らしい映画でした。
10月13日(土)~26日(金)まで岩波ホールでジョージア(グルジア)映画際が開催され新旧の未公開作品が一挙上映されます。

岩波ホールの公式サイト
https://www.iwanami-hall.com/

追憶の旅 北海道 美瑛(びえい)

その葉書が届いたのは、そう・・・もう24,5年前でしょうか。
旭川から富良野に行く途中の美瑛の美しい丘陵のハガキでした。
友人は北海道をひとり旅をしていて、その美しさに感動をしたとのこと。

写真は美瑛の丘陵に惚れ込んだ世界的な風景写真家・前田真三さんのものでした。麦畑やジャガイモ畑、咲き乱れる花々。その美しいハガキにこちらが感動し、彼女の優しさに胸がキュンとしたことを鮮烈に覚えております。

『行きたいな~・日常から解放されたいな~』との思いで、ハガキは夏でしたが、晩秋の頃に2泊3日で旭川からJRに乗り美瑛に行きましたっけ。

20年前に亡くなられた前田真三さんが開設した、個人のギャラリー「拓真館(たくしんかん)」がありました。廃校になった小学校の跡地を利用し、1987年7月にオープンしたとのこと。
拓真館公式サイト:
https://www.biei-hokkaido.jp/ja/sightseeing/takushinkan/

中に入ると目を奪われます。前田さんは美瑛の丘の美しさに衝撃を覚え、「この丘への思いは募るばかりである」と語っておられます。

氏の代表作「麦秋鮮烈」。赤麦と呼ばれているタクネコムギの強烈な赤の色彩には、「突然の夕立が、作物についた埃などを洗い流し、色合いも鮮やかになって斜陽した瞬間をとらえた」と説明がされていましたが、しばらくはその美しさの前に私は立ちすくんでおりました。

四季折々の風景を観てロフトになった展示コーナーには「心の眼で撮る」という前田氏の感性が伝わってくる世界感があります。

たっぷり一日は過ごしたでしょうか。写真を堪能した後は白樺が美しい散策路を歩き満喫したことが、昨日のことのように思い出されます。2300本の白樺、小路には野の花が咲き、この上なく幸せな気持ちにさせてくれます。

丘の大地が生まれたのは、十勝の峰々が200万年ほど前から、繰り返し大噴火を引き起こし、泥流、火山灰が積み上げ丘や平地が形成されたのですね。その肥沃な土地での農業・酪農など、先人の努力で現在の美しい恵みが誕生し、「農の町」となり、温泉にも恵まれ観光地としても豊かな町になっているのでしょう。

その美しさを広めたきっかけは前田真三さんの写真だと思います。
『美しい丘は農業を営む人たちにより創りだされています。』とパンフレットにもあります。

そうなのですね。文化放送「浜 美枝のいつかあなたと」(日曜10時半~11時)の中のコーナーで「よい食と共に」があり、毎回その土地でとれたものを、生産者の創意工夫でその地域ならではの特産品をリスナーの方々にお伝えしています。

そこで、『美瑛』につながります。ある日「丘のおかし焼きとうきび」をご紹介したのですが、まあ~~美味しいこと!しょうゆの風味が香ばしい、美瑛産のとうきびのフリーズドライ。スタジオではひと口なのですが止まりません!ほんとうに止まりません!

有楽町駅前の交通会館の地下にあるアンテナショップ「美瑛選果」に行きました。ありました!さっそく6袋購入。1袋(300円)広くはない店内ですが左手に10名くらい座れるテーブルと椅子があります。

皆さん「美瑛豚」を使用しているカレーを美味しそうに召し上がっておられましたが、私は昼食はすんでいたので、美瑛牛乳で作られた「ソフトクリーム」をいただきました(389円)満足・満足!ショップにはいろいろ、とくにあずきも美味しそう。次回は買いましょう。

と、言うわけで『追憶の旅』は食も、農も、風景も、農家がつくっている。そんなことを思い出させてくださいました。

アンテナショップの「焼きとうきび」お薦めです!

美瑛町の公式サイト https://www.biei-hokkaido.jp/ja/

没後10年 石井桃子展「本を読むよろこび」

翻訳『ピーターラビット』シリーズや『クマのプーさん』、創作『ノンちゃん雲に乗る』など優れた児童文学に生涯をささげた石井桃子さん(1907~2008)に光りをあてた展覧会「没後10年 石井桃子展」が横浜の海の見える丘公園内にある県立神奈川近代文学館で開催されております。(9月24日(月・振休)まで)

ある晴れた日、箱根の山から横浜まで、小さな旅をしてまいりました。

昭和初期から101歳で亡くなるまで、編集者、翻訳家、作家として幅広く活躍され、児童文学の研究や”家庭文庫”の開設など、その幅広い業績は多くの人々に影響を与えました。

今回改めて文学館で、書簡や原稿、また写真をはじめ、約400点の資料を丹念に見ていくと、石井さんは戦争の時代を乗り越え、働く女性の先駆者的な役割を担ってこられたことが良くわかります。

『クマのプーさん』の原稿を売り込む手紙や、児童文学者A・Aミルンが書いたプーさんのお話を親友のために少しずつ翻訳し、1940年に『熊のプーさん』として刊行したことも知りました。

私が生まれる3年前のことになります。あの軍国主義が広まっていく時代背景を思えば、大変なことであり情熱を注いだことがよくわかります。

石井桃子さんは1907年(明治40年)3月10日、埼玉県の浦和で、銀行員の父・福太郎と母・なをの間に生まれ、兄ひとり、姉四人、祖父母、いとこなど大家族の末っ子として愛されて育ちます。

住む家も敷地内に畑があり、自給自足の生活の姿は昔のまま。広々とひろがる田畑を遠く囲んで林が見え、その林の上に富士山が見え、それが、私の世界の果てであったと「幼ものがたり」に記されています。児童文学への素地はこのような環境におおいに関係があるのかも知れませんね。

日本女子大学校に在学中から、近くに住む作家・菊池寛のもとでアルバイトをし、その縁で卒業後、翌年、菊池が組織した「文筆婦人の会」の一員として文藝春秋の仕事に関わるようになります。「婦人サロン」や「モダン日本」の編集にも携わり、親友となった小里文子ともここで出逢います。

今回の資料で嬉しい発見がありました。それは、『なぜ、石井さんはプーさんに惹かれたのか』ということが分かったからです。

私は「クマのプーさん」が大・大・だい~好き・・・だからです。小学生になり、家は貧しかったので本を買うことはできませんでしたが、図書館でよく借りていました。何度も・何度も借りてきて読んだのが「クマのぷーさんプー横丁にたった家」でした。

1929年ころから、石井さんは菊池の紹介により作家で政治家でもあった犬養健の父・犬養毅の書庫の整理を任されます。

健や妻や子どもたちと親しく交流するなかで、『プー横丁にたった家』の原書と運命的な出会いをします。それは1933年(昭8)クリスマスイブの晩、犬養家に招待されそこでA・Aミルン作の原書に出逢い、犬養家の道子、康彦姉弟にせがまれその場で訳して聞かせながら、石井さんは「プーという、挿絵で見ると、クマとブタの合いの子のような一種不思議な世界に入り込んでいった」と「プーと私より」に書かれています。

この出逢いがなければ生まれていなかったかもしれませんよね!「クマのプーさん」は。

私はといえば「いつか働けるようになったら”プーさんの本”を絶対に買おう!」と決めていました。女優になりお給料をいただき1962年11月の第一刷発行を待って手にした『クマのプーさん プー横丁にたった家』。

今でも大切に手元に置いてありますし、それから・・・本を手にしてから4・5年経って東宝映画から「パンナム」の日本~ロスアンゼルス間の就航にご招待いただき、ディズニーランドにも連れていっていただき、そこで出逢った「プーさん」50センチはあるでしょうか。帰りの飛行機で私は膝に抱え大事に一緒に帰国しました。私の4人の子どもたちも一緒になって遊び、鼻が少し、取れかけたり・・・と、思い出がいっぱいです。

プーのあの丸々した、あたたかい背中は、いつもそばにありました。その背中は、私たちが悲しい時、つかれた時、よりかかるには、とてもいいものなのです。とりわけ、私が深くプーに感謝したのは死を前にしたある友だちを、プーが限りなく慰めてくれた時でした。(『熊のプーさん』あとがきより)

そうなのですね・・・石井桃子さんもプーに慰められたのですね。私も一緒。

今回の展覧会では、岩波の子供の本や、奨学金を受けて横浜港からアメリカへ出発し全米各地の公共の図書館見学や、ドイツ、フランス、イギリス、イタリアなどまわり多くの有能な図書館員との交流は戦後の日本の児童文学の礎になったことでしょう。

こどもたちよ 子ども時代をしっかりとたのしんでください。
おとなになってから
老人になってから
あなたを支えてくれるのは
子ども時代の「あなた」です。

石井桃子
2001年7月18日

心に残る素晴らしい展覧会でした。

★会期中の関連イベントはすべて満席でした。残念!

神奈川近代文学館 公式サイト
https://www.kanabun.or.jp/exhibition/7991/

琉球 美の宝庫

美しいものが生まれる島 ”琉球”

現在、六本木・東京ミッドタウンのサントリー美術館で開催されている展覧会に行ってまいりました。(9月2日まで)中でも8月22日~9月2日まで開催中の展示国宝王冠(復元)は必見です。

琉球の染色、琉球絵画の世界、琉球国王尚家の美、琉球漆器の煌めき、『生活の中の美』をコンセプトにしているサントリー美術館ならではの企画展です。これまでも”琉球の美”をテーマに数多く展覧会が開催されてきました。2007年に六本木に移転され開催された「美を結ぶ。美を開く」というメッセージは私にとってこの上ない喜びでありました。

何度かブログには載せましたが、私が沖縄の美(琉球の美)に出会ったのは民藝運動の創始者・柳宗悦氏の「手仕事の日本」を手にしたときから始まります。まだ本土復帰前のことです。旅好きの私は日本の地図を広げるのがとても好きです。「山や川や平野や湖水も、それぞれに歴史を語っているからです」・・・ではじまる「手仕事の日本」。

『沖縄ほど古い日本の姿をよく止めている国はありません。』

本の最後のほうにこう「沖縄」が出てきます。
長文ですが最初のところを載せますね。

「火燃ゆる桜島を後にし、右手に開聞ヶ岳の美しい姿が眼に入りますと、船は早くも広々とした海原に指しかかります。煙に包まれる硫黄島とか、鉄砲で名高い種子島とか、恐ろしい物語の喜界ヶ島とか、耳にのみ聞いたそれらの島々を右に見、左に見て進みますと、船は奄美大島の名瀬に立ち寄って、しばし錨をおろします。

更に南へと船首を向ければ、早くも沖縄の列島に近づきます。行く手に細長い島が横わりますが、古くからこの島を沖縄と呼びました。沖に縄が横たわるように見えるので、その名を得たといわれます。

支那ではこの島を琉球と呼びました。沖縄はその本島のほかに沢山の島々があって、中久米島とか宮古島とか八重山島とかの名は、度々耳にするところであります。

日本では一番南の端の国で、荒れ狂う海を渡って行かねばならないので、昔はそこに達するのが並大抵な旅ではありませんでした。この文明の世の中でも、神戸から早い船ですら三日三晩もかかります。島の人達は孤島にいるという淋しい感じをどんなに屡々味わったことでありましょう。

ですが、面積の小さな島でありながらも、一つの王国を成していましたから、長い歴史が続き立派な文化が栄えました。尚王が城を構えたのは首里で、その近くの那覇は国の港でありました。外との往き来が不便でありましたから、すべてのものをこの国で作らねばならなかったのでありましょう。このことが沖縄に独特なものを沢山生み出させた原因となったと思われます。」

そうなのです。この一文に惹かれて私の沖縄の旅は始まりました。心惹かれる染色や織物。南国の花々は四季折々絶えません。緑は濃く、海は青く地は白い。

その自然が生み出したものに「紅型・びんがた」。型紙を用いて染めます。染物にも劣らず、美しい織物。絣の見事さ。織物類は彩の多い柄が麗しくその美しさに目を奪われます。

中でも私が心奪われたのが「読谷村の花織」です。500~600年前に南洋から伝来した織物と言われ、その織りかたが複雑なため織り手がいなくなり、その再現に一生懸命だったのが、読谷村に暮す与那嶺貞さんでした。たった一枚のちゃんちゃんこを手がかりに再現したのです。30年ほど前から通い続けました。今は亡きこの方から、私は忘れられない言葉をいただいたのです。

”ザリガナ サバチ ヌヌナスル イナグ”
もつれた糸をほぐして、ちゃんとした布にする女・・・

こんがらがって織れないからといって切って捨てたら一生布は織れません。女として、それは、丹念にほぐしていきましょうよ。与那嶺貞さんは機織の向こうで穏やかそうにおっしゃるのです。

今回の展覧会には日本民藝館から「花織」が出品されています。
柳宗悦の「手仕事の日本」の中に「沖縄の女性達は織ることに特別な情熱を抱きます。」と書かれております。

展覧会の絵画では、江戸で琉球ブームがおきるきっかけとなった琉球使節を主題とする品々。それはそれは見事な漆器。まさに『琉球の美』を堪能することができる展覧会でした。

私たち本土の人間はこのような歴史や文化をどこまで理解しているでしょうか。先の戦争でどのようなことが起き、沖縄の人々、文化を失ったのでしょうか。今起きているさまざまなことを、もう一度振り返り、この「琉球の美」に改めて触れることの大切さを教えてくれた素晴らしい展覧会でした。

サントリー美術館 公式サイト
https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2018_3/

深夜航路

なんとも羨ましい旅をなさっておられる方がいらっしゃいます。午前0時からはじまる船旅です。日本で現在運航している深夜便(午前0時~3時発)の全14航路を旅した方です。

北は函館ー青森間。
南は鹿児島ー奄美大島間。
羨ましいのは敦賀ー苫小牧東港。948キロを20時間で結ぶフェリーです。敦賀港(福井県)と苫小牧東港(北海道)深夜航路の中では最長の航行距離。敦賀を出たら能登半島、そして佐渡島・・・ひたすら北上します。

出航が00:30発で翌日の20:30着。「すずらん」(1万7382トン)は本州と北海道を結ぶトラック・貨物がメインですが、旅客サービスにも力を入れていて快適な空間だそうです。

船室は3階層でレストランのみならず事前予約をすればグリル、露天風呂!まであるそうです。あ~いいな!私は憧れていたのです、深夜航路。

クルーズ船とはちょっと違う世界が広がっています。山口の徳山港を午前2時に出航する竹田津港(大分)行き「ニューくにさき」。中国地方と九州を結ぶ唯一の深夜航路、2時間!

旅した方は清水浩史さん。
この度素敵な本を出されました。『深夜航路』(草思社)

午前0時を過ぎると・・・・・。
そこには、「扉」がある。
もうひとつの世界へと通じている扉が。

そうだ。午前0時を過ぎると、扉が見つかるはず。
深夜は誰からも干渉されることのない時間。
最も日常から離れられる時間だからこそ、
見えてくるもの、感じられるものがあるはず。
午前0時に旅立ちたい。
全国の深夜航路の旅に出かけよう。  (深夜航路より)

清水さんは書籍編集者でライターがご本業です。毎日慌しい生活を送る中での深夜航路の旅へと出かけます。これは詳しくお話を伺いたい!とラジオ「浜美枝のいつかあなたと」にお招きし、お話が伺えました。

深夜の旅では、自身の内面が開かれてくる。自己対話、内的省察の扉が開かれてくるのだそうです。日中は知覚がが開かれているので、目の前のことを次々と対処していかなければならない。思索したり、想像することを忘れがちになってしまう。所用時間15分の直島(香川県)と宇野などワクワクしてしまいます。

直島はアートの島として今やフランス人はじめ海外からの観光客で賑わっていますが、深夜になるとまた素敵だそうです。そうですよね~、真夜中に見えてくるもの・・・ってありますものね。まだ若いころから憧れていた「深夜航路」を実践している方がいらしたなんて!

昔、若き頃、コロール島やマップ・ヤップ島で見た満天の星空も、カナカ人が小船に乗って月明かりをたよりに島に辿りついた時の話しを古老から聞いたのも「深夜」でしたっけ。

これからでもまだ出来るかしら・・・。「深夜航路」が。

まずはラジオをお聴きください。
そして素敵な表紙の本をご覧いただき”旅した気分”を味わってください。

文化放送「浜美枝のいつかあなたと」
日曜日10時半~11時
放送8月19日

映画「グッバイ・ゴダール!」を観て。

現在87歳のジャンリュック・ゴダール監督は今年もカンヌ映画祭に新作を出品している現役監督です。フランス・ヌーベルバーグの草分け的存在だった監督。フランス映画界において「生ける伝説ジャンリュック・ゴダール」ともいわれます。

60年の「勝手にしやがれ」そして「気狂いピエロ」など、私には衝撃的な映画でした。その監督を描いた「グッバイ・ゴダール」を観てまいりました。

『グッバイ・ゴダール』を撮ったのは「アーティスト」でアカデミー作品賞と監督賞を取っている巨匠ミッシェル・アザナヴィシウス監督。

ストーリーは「中国女」の主演にアンヌ(ステイシー・マーティン)を抜擢します。ノーベル賞作家フランソワ・モーリャックの孫娘。その19歳のアンヌに一目惚れしたゴダールは彼女と2度目の結婚をします。

原作は昨年亡くなった彼女自身の回顧録によるものですが、ミッシェル監督がどこまで物語構成しているか分かりません。新聞記事によると「彼の脚本には、皮肉とともに軽妙さがある。この映画の撮影は、ギリギリの線上を歩き続けることが必要でした。誰もが常に『やりすぎていないか』ということを注意していました」と書かれていました。

世界中で学生たちが反乱を起こした1968年前後。フランスでも5月革命が起り、まさに政治の季節。ゴダールもデモに積極的に参加します。フランスは、自由・平等・博愛を国是としている一方で、つかまった学生たちはあの五月革命の頃には警察署から悲鳴が耐えなかった、と知り合いから聞いたことがあります。

そんなデモに参加していたゴダール。警察隊と学生や群集が血を流す、そんな場面もゴダールの行動をユーモラスに捉えているのです。プライベートでは嫉妬深く、エゴイズムで、アンヌとの仲も彼女が女性として成長していく過程で徐々に暗雲をはらんでいく・・・。

『人間ゴダール』を描いているのですが、そこは、フランス。ユーモアのなかにも「どこまでが真実なの?」とも思いました。べつに「真実」が必要だとは思いませんが、あの時代のゴダールフアンにとっては”何か虚仮(コケ)にされてるな~”という思いにかられます。

以前私が10代の頃にカンヌ映画祭で、と来日された時にお目にかかったことがあります。私の目には人間的に魅力的で理論家、そしてユーモラスな人との印象が残っています。もちろん人間ですから表面だけでは分かりません。

でひ聞いてみたいです。『ゴダール監督!いかがでしたかこの映画は?』と。ただ、横に手を振るだけでしょうか。それとも笑って許すのでしょうか。ゴダールフアンの方、ご覧になったら感想をお聞かせください。

アンヌ役の主演女優 ステイシー・マーティンが素敵です。美しいです。ゴダールの活躍したあの時代の空気間は見事に伝わってきます。

『グッバイ・ゴダール』   いいえ、あなたは永遠です。

映画公式ホームページ
http://gaga.ne.jp/goodby-g/

長野への旅

今回はめずらしく”ひとり旅”ではなく、30年来の友人との”女ふたり旅”でした。

私は一時期、憑かれたように長野に通っていた時期がありました。かれこれ35年ほど前のことです。私には元来、ある「地」に憑かれるというちょっと不思議な習性があって、そういう気持ちになるともう矢も楯もたまらず、そこに行かなければ気がすまなくなるのです。

つまり、「あ、あそこへ行きたい」というそれだけの思いなのですが、今、「あそこ」という方角が私をうごかすのです。長野はそういう土地でした。

長野県下のロードマップは東京より詳しいくらい。夜中、子供を寝かせてから車をとばす・・・。今思っても、よくあんなエネルギーがあったなと思うほどです。車と私はひとつになって山野を駆けめぐるのでした。林道、農道、さまざまな小経にも分け入り、走り続けた時期。

追分から一気に上田へ抜けてしまう国道の、その裏道に1000メートル林道があります。埃だらけの道をぐんぐん走ると、視界が変わっていきます。そこで、出会った畑の奥のほうに建つ家の様子・・・。すべてが、ヨーロッパの田舎を思わせるのです。

その家の主、村田ユリさんとの出会いはこうしてはじまりました。今は亡きおばさま。後にその方は知る人ぞ知る植物の研究家であり、マスコミにはお出にならないけど、いろいろな方から慕われている大変な方だと知りました。

見ず知らずの私を手を広げ迎えいれてくださいました。あるとき、疲れ果てて夜遅く10時頃に村田さんの家に着いたことがあります。そのときユリさんは、ご自分の庭で採れたハーブを木綿の袋につめ、それをお風呂に入れて「気持ちいいわよ。お入りなさい」とすすめてくれました。

ベットに入ると枕の下には、さっきと違う種類のハーブがしのばせてありました。緊張がとけて、寂しさがこみ上げて、でも幸せな気分で、その香りの醸し出す優しさに、私は打たれ、眠りにつきました。

女性が仕事や、家庭、子供・・・それぞれに全力投球してもなにか、虚しい・・・どうすることもできないこと。自分がどうしようもなくなったとき、”一晩でもいいから、あの香りに身を置かせてほしい・・・”と願った時代です。

そんなある日、ご近所に住む玉村豊男さんご夫妻と知り合いました。玉村さんが腕を奮ってくださった料理をいただく機会にも恵まれました。

ユリさんは昼間はほとんどの時間を、長靴をはいてシャツと作業着で、畑で過ごします。その先の畑で出逢ったのが、現在は上田から近い東御市で”ヴィラデスト・ガーデンファーム・アンド・ワイナリー”でレストランと、そして何よりも美しいガーデンを造った玉村夫人の抄恵子さんなのです。

エッセイストで画家の豊男さん。東御市でワイン用ぶどうの栽培をはじめたのは1992年。試行錯誤しながらもワイン造りの夢を実現しました。今や国産ワインコンクールで連続受賞し、高い評価を得る実力派ワイナリです。

遠く北アルプスを望む標高850mの南斜面には、メルローやシャルドネなど15000本を越える葡萄の木が植えられています。

私も74歳になり、少し大人になりました。孤独って素敵なこと・・・と思えるようにもなりました。今まで両手に抱えていたものを、少しずつ手放し、心が自由になりました。”玉村さんご夫妻にお逢いしたい”との思いで長野の旅にでかけました。

まずは、小田原から東京、そして新幹線を乗り換え上田まで。しなの鉄道に乗り換え「田中駅」に。駅には「農の家」のご主人が迎えにきてくださいました。

今回の宿泊は玉村夫人のご推薦の宿です。東には軽井沢、西には上田市、北へ行くと長野市。「農の家」の建物は江戸時代に建築され、建物の周りの石垣は亀甲形で、作られています。

その農家を4年ほどかけご自分たちでリノベーションし、素敵な宿泊施設に生まれ変わりました。骨格は大工さん。床板張り、壁の漆喰塗り、木部の柿渋塗り、露天風呂など・・・ご自分達でされたそうです。

素晴らしくセンスがいいのです。一日一組。畑を借りて農作物を作り、お食事は野菜やフルーツはほぼ自給し、畑は原則耕起せず、農薬は一切使用していません。カジュアル・フレンチ。美味しいのです、なにもかもが。

なによりもご夫妻のお人柄がすてきです。”何もしない時間・空間”は最高の贅沢です。薪で焚いてくれた露天五右衛門風呂のなんと贅沢なことか。(詳しくは「農の家」でネットでお調べください。)お薦めの宿です。夕食・朝の散歩と朝食。満たされてヴィラデストに行く前に近くの北国街道海野宿(うんのじゅく)へ。

江戸時代・北国街道の宿場町として栄えた城下町。延長650m、幅10mの両側には、旅籠屋造り、茅葺屋根など歴史的な建物が残っています。でも・・・なにしろこの猛暑!日陰を歩きましたが、途中ガラス工房のカフェで カキ氷をいただきました。あずきミルクのカキ氷、久しぶりです。

朝顔・風鈴・カキ氷。日本の夏の風物。

そして、一路玉村ご夫妻に会いにヴィラベストへ。ご夫妻とは1年ぶりくらいでしょうか、お目にかかるのは。まだご自宅を建設中からお邪魔させていただいております。多くを語らずとも30数年の友情は変わることなく、お逢いすると、ユリおばさまとご一緒した時代が思い出され、私など胸がキュンとします。

レストランは満席。お客さまはワインを片手にお料理を楽しまれる方や、女性同士楽しげにランチをなさっている方々など、素敵な空間です。

ガーデンの夏の花々と玉村さんご夫妻に見送られ友人と上田へと向かいました。”おんな二人旅”。

自分で自分を抱きしめたいような気持ちで帰路に着きました。
旅はやめられません。
足腰を鍛え、旅を続けたい!・・・としみじみ思った旅でもありました。

映画・青い山脈と原節子さん

先日、神保町シアターで開催されている(7/7~8/10)映画で愉しむ「石坂洋次郎の世界」で「青い山脈」を観てまいりました。

7日から1週間、一日一回の上映でした。最後の日、7月13日16時半の回でした。

1949年(S24)東宝と藤本プロ共同制作の白黒。1時間32分の映画でした。石坂の新聞連載小説を原作にした、戦後の青春映画の代表作といわれています。

戦後間もない田舎町での、偽のラブレターに端を発した恋愛騒動を描く、新しい時代の開放的な青春群像。公開されたときの私は6歳ですから観ているはずもなく、その後、女優になってからもスクリーンでは1度も観ておりません。監督・今井正、主演・原節子・池部良・小暮実千代・杉葉子など。

実は今回どうしても観たかったのは、原節子さんに関してノンフィクション作家の石井妙子さんがお書きになられた「原節子の真実」を再び熟読したからです。

以前に文化放送の私の番組「浜美枝のいつかあなたと」にゲストとしてお招きしお話を伺い、ブログにも掲載いたしましたが、知れば知るほど、『原節子さん』の生きた時代、映画界、そして彼女の心情・・・など、真実を知りたくなったのです。

石井妙子さんの3年にも及ぶ取材、そして筆力に魅了され、平成27年9月5日、伝説を生ききった95歳の原節子さん、いえ本名の会田昌江さんについてもっと知りたくなったからです。

ご本に書かれておりますが、「ヒロインには原節子を起用してほしい。この小説は、そもそも彼女をイメージして書いたものだから」と石坂洋次郎は言ったそうです。

この映画は空前の大ヒットとなり、これまでにない女性像を原節子は生き生きと演じています。

島崎先生(原節子)は教壇から現代的な考えを「自分の言葉」で語るよう「民主的な考え」を長回しのシーンでは圧倒されますが、石井さんの取材から、このシーンの考え方、生き方は「原節子」そのものであることがよくわかります。

2週間に500万人が映画館に詰めかけ、原節子は国民的女優になるわけですが、石井さんの「原節子の真実」のまえがきに

『原節子と会田昌江、その女性(ひと)はすでに生きる伝説といわれて久しく、世間からのあらゆる接触を半世紀以上も絶って、自分の生死すら覚られまいとしていた。』・・・と書かれております。

亡くなる3ヶ月前の6月17日、原節子さんの誕生日にお祝いの花束を抱えて3回目の訪問をしています。もちろんご本人は緑深いその暮す家に姿を現すことはありません。同居する親族に花束を届け、「原節子さんはお元気なのでしょうか」と訊ねると、わざわざ木戸まで出てきて「お蔭さまで元気にしております」と語られたそうです。

半世紀以上も沈黙し続け、何を思い、どのように女優として生きてこられたのか・・・何に悩み、何を仰りたかったのか、などを知る手がかりになる本でした。

「青い山脈」に続き、休む間もなく松竹で小津安二郎監督の「晩春」に出演し、なぜ東宝とその後専属契約を結び、イングリット・バーグマンに憧れ「カサブランカ」に感動し、彼女のような役を演じたいと切望するも、日本映画には、そうした成熟した大人の恋愛映画を創る土壌がなかったのでしょう・・・

年を重ね40歳になり、その時彼女が何を思ったのか・・・間もなく静かに、忽然と姿を隠します。「意思の強い女を演じたい」と願った原節子と世の中のファンが求めるイメージとの差があったのでしょうか。

私が女優になった昭和35年、原節子さんは40歳を迎えます。そして、安保改定問題で幕を開け、強行採決に反対する学生が国会議事堂を取り囲み、連日のデモが東宝撮影所の食堂の白黒テレビから流れてきます。

原節子さんは「娘・妻・母」「東京物語」などに出演しています。

東大生・樺美智子さんが死亡するニュースが画像に写しだされます。

その同じ頃、食堂の前の噴水の向こう側を背筋を伸ばし、やや歩幅を広く、白いブラウスに紺系のフレアースカートをはいた原節子さんの姿を何度かお見かけしました。

人と群れることなく、ひとり歩く姿が印象にのこり、私もファンのひとりでした。

『引退する時は誰にも気づかれないように消えていきたい』と石井さんの本に書かれています。そして、「青い山脈」の監督・今井正氏は、語っておられます。

「いつか生活の条件が変わるならば俳優であることを止め、静かな別の生活に入りたい・・・そんな気持ちがいつも君の心の底に動いている。俳優であることに心からの生き甲斐を感じていない、そんな風に僕は思えるのです』
石井妙子・原節子の真実より(「近代映画」昭和24年8月号)

最近、原節子さんのエッセーが見つかりました。戦前・戦中・戦後を生き抜き「戦後の日本への提言」として書かれたエッセーと新聞に載っておりました。

女性が女性として伸びやかに生きることの難しかった昭和の時代。

素晴らしい美貌でありながら、「強い女性を演じたい」と思い続けた原節子さん。青い山脈」では原節子さんが自ら”女性の生き方”を語っているようにも思えました。

一作の映画から、自分自身の歩みを振り返ることができます。映画館には、かつての「映画青年」であったであろう人たちの姿も見られ、皆それぞれの”昭和”をかみしめていたように思いました。

世界報道写真展 2018

恵比寿にある「東京都写真美術館」で今年も「世界報道写真展」が開催されています。

今年で61回目を迎えます。私は5年ほど前から毎年観にまいります。『記録された瞬間 記憶される永遠に』とありますが、さまざまな事件、事故、自然破壊、会場に一歩足を踏み入れ、目の前の写真に胸をえぐられそうになったり、直視できないような写真であったり、考えさせられる写真であったり・・・ニュースでは知っていたことが、目の前にリアルに差し出される世界の「いま」。克明に伝える写真の数々が紹介されます。

世界中の約100会場で開催される世界最大級の写真展です。今回は、125の国と地域から4、548人のフォトグラファーが参加し、73、044点の応募があったそうです。

その中から「現代社会の問題」、「一般ニュース」、「長期取材」、「自然」、「人々」、「スポーツ」、「環境」の8部門において、22ケ国42人が受賞しました。

「一般ニュースの部」ではイヴォル・プリケット(アイルランド)が撮影しニューヨーク・タイムズに掲載されたイスラム国(ISIS)からのモスル奪還を巡る戦闘に巻き込まれる市民や廃墟と化す街。

また、「人々の部」ではイスラム過激派の誘拐から逃げ出し、自爆用爆弾から免れた少女たちの姿。密猟者からの保護のため自由を脅かされざるを得ない動物や、大統領に対するベネズエラでの抗議活動、デモ参加者が警察機動隊と衝突した際、洋服に引火し炎に包まれた28歳の青年(命は助かったそうです)。

「現代社会の部」ではアメリカ・ナショナルジオグラフィックに掲載された組写真、中国では、所得水準の急上昇に伴い人々の食生活が変化し、食肉、酪農製品、加工食品の需要が増大しているため、世界の耕作可能な土地の約12パーセントを使って、世界人口の19パーセントに迫る割合を占める自国民を養っていかなければならないそうで、町中を無造作に肉を運ぶ姿を写した写真には考えさせられました。衛生面など大丈夫なのでしょうか。

そして、私が深く考えさせられたエジプト「現代社会の問題の部」での組写真。カメルーンでは、思春期に達した少女の胸のふくらみを抑え、その発育を食い止めるるためにマッサージや圧迫を行う”ブレストアイロニング”呼ばれる風習が残っているそうです。

なぜか・・・これによってレイプや性的な接触をさけられると信じられているそうです。この現代において青春を謳歌し、成長を喜ぶ親としての姿はそこにはありません。これが「現代社会」の現実かと、考えさせられました。

会場には老若男女一人ひとりが、真剣に写真に見入っていました。外国人も見られました。

世界の報道は新聞やテレビ、ラジオで見聞きしますが、「写真」のもつ圧倒的な力、説得力・・・やはりリアルに「いま世界」で何が起きているのか・・・を知る貴重な『世界報道写真展』です。

8月5日(日)まで。
休館日・毎週月曜日(但し716日(月・祝)開館、翌17日休館。
恵比寿駅より徒歩約7分。

世界報道写真展2018 公式ホームページ
https://www.asahi.com/event/wpph/

東京都写真美術館公式ホームページ
https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-3060.html