これからの私を支えてくれるもの

仕事机のパソコンの横に、1枚の絵を飾っています。高校生だった長女が描いた絵です。真っ赤なチューリップが添えられ、バッグを持ち、ハイヒールをはき、闊歩している私が切り絵のように描かれています。

仕事と4人の子育てを両立させるために、いつも駆けるように暮らしていた時代。その絵を見ると、当時の私は子どもたちの目にこのように映っていたのだなあと感じるのと同時に、そのころの子どもたちの姿を思い出さずにはいられません。

限られた時間の中であれもこれもやろうとしていた私を助け、上の子は下の子たちの面倒をよくみてくれました。

おかげさまで、子どもたちはそれぞれの生き方を探し、独立してくれました。普段はつかず離れずであってもさりげなく私を気遣ってくれ、ありがたいことに、きょうだいも仲良く思いあってくれています。

私を親にと育ててくれた子どもたち。

この絵を見るたびに、過ぎし日への感謝と、幸せな気持ちが胸にあふれます。

絵にあったように、おしゃれをして出かけるときはハイヒール派だった私ですが、70歳になるちょっと前から、その出番が徐々に減っていきました。雨の日に足を滑らせて怖い思いをしたこともあり、これからは歩きやすい靴がいいと思い始めたのです。

そして『アルカ』の靴と出会いました。良いお店があると聞いて訪ねてみると、足と靴の知識を持ったカウンセラーが靴を選び、さらに私の足に合わせて細やかな調整を重ねてくれました。

はいていることを忘れるほどの心地よさでした。

以来、私の靴との付き合い方が変わりました。

振り返ると、若い時は、私にとって靴はおしゃれのひとつのアイテムでした。旅に出るようになり、とにかく歩きやすい靴を探すようになりました。

そして今、私の足元を守っているのは『アルカ』の靴です。この時期に愛用しているブーツ、山歩きになくてはならないウォーキングシューズ、ドレッシーなファッションをひきたててくれるフラットシューズ……。

ダメージが生じれば修理を頼むことができます。長くはいて型崩れしたものや古くなって薄くなったインソールは、職人さんが丁寧な手仕事で、よりはきやすく美しい状態に甦らせてくれます。はきつぶして終わりではなく、一足一足が生涯、私に寄り添い続けてくれるものとなりました。

いくつになっても自分の足で歩きたいと思います。箱根の山を歩き、山と空に抱かれながら、緑の空気を呼吸し、風や小鳥のさえずりに耳を傾ける……そんな日常を、あの店に行けば私の足を守ってくれる人がいるという安心感が支えてくれています。

私らしく暮らすために欠かせないもの――外に向かう私に必要なものが靴だとしたら、家の中では一人用の椅子でしょうか。

ゆっくり寛げる椅子、ひとりの時間を心地よく過ごせる椅子をずっと探していました。

 そうなると、各地の工房を訪ね歩き、職人さんと話をし、座り心地、佇まい、デザインなどを見て回らずにはいられなくなる私ですが、これだというものに巡り合えずにいました。

そしてあるとき、はっとしました。十数年前に我が家に迎えたお客様用の椅子、黒革の一人用の椅子を、とても気に入っていることに、改めて気づいたのです。

スケジュールをやりくりし、その工房とショールームを再び訪ねました。飛騨高山の駅から車で15分ほど走ったところ、澄んだ空気と深い緑に囲まれ、アルプスを望む大自然の中に、『キタニ』の工房とショールームはありました。

デンマークのデザイナーのデザインした家具を飛騨の職人さんの手で作っている『キタニ』。ショールームには、キタニの家具をはじめ、リペアしたヴィンテージ家具がゆったりと展示されていました。素敵なショールームで寛ぎ、工房では職人さんの話をお聞きし、作成する姿をじっくり見せていただきました。

デパートにも都会のショールームにもたくさんの家具が並んでいます。デザインや質感の良しあしはそこでわかりますが、私にとってはそれらの道具がどんな人がどんな思いで作っているのかということも、とても大切なこと。できる限り、工房をお訪ねし、作り手と会うようにしているのです。会えば、手仕事の豊かさをよりしっかりと感じることができます。作り手の思いを知れば、作り手への敬愛とともにその道具を愛することができます。これもまた、民芸の教えかもしれません。

『キタニ』の工房で感じた職人さんの誇り、愛情を持ち真摯にものづくりに向かう姿に心打たれました。この人たちが作った椅子がほしいと切に思いました。

それから一か月。 
真っ赤な一人掛け用の椅子が私の部屋に届きました。

大好きな赤。包み込まれるような座り心地。何より作り手のぬくもりが感じられる椅子です。

この椅子のおかげで、ひとりの時間がより豊かになった気がします。

椅子に座り、映画や旅の番組を見るようにもなりました。かつて見た映画を見直して、当時は気づかなかった視点を見出したり、いながらにして旅をしている気持ちを味わったり。ただ瞑想しているときも、とても新鮮です。

これからの私と共に時を重ねていく椅子。その椅子に座り、過ごす家の時間も、大事にしていきたいと思います。

椅子を探すのは、私にとって、まるで宝物を探しているようなわくわくする時間でした。なかなか見つからない、その道程さえも楽しいのです。今回も各地で素晴らしい職人さんたちに出会うことができました。かつて『八木治郎ショー』の『手づくり旅情』というコーナーで、職人さんのものを作る手元を映像で残したいと、スタッフと共に全国の職人さんを訪ね歩いたことを、その道中にふと思い出しました。末の子を産み、復帰初の仕事でした。テレビの全盛期、良き時代にスタッフに恵まれ、心に残る仕事ができたことをありがたく思います。

㈱アルカ 〒170-0013東京都豊島区東池袋2-15-5

*㈱キタニ 〒506-0034岐阜県高山市松倉町2115番地

新年に寄せて

生きることは ひとすじがよし 寒椿

                  五所平之助

新しい年を迎えました。
いかがお過ごしでしょうか。

 人々が安心して暮らせる一年になりますように。
 子どもたちの笑顔があふれる一年となりますように。
 そう願い今年も箱根神社に手をあわせてまいりました。

今年は昭和101年にあたります。

生まれて二年後に終戦を迎えた私は、あの戦争が経て、世界は変わっていくと思っていました。人々が知恵を出し合い、互いへの理解を深めていけば、やがて争いは減り、平和な世界を築くことがきっとできるだろう、と。

けれど、世界では今も多くの対立が残り、人々が苦しんでいます。多様な人種・価値観を持つ人々との間に生まれた断絶、意見が異なる相手を悪とみなすことで深まる社会的亀裂、各地で起きた戦争や武力衝突により多くの都市が破壊され、犠牲者と避難民が急増し、深刻な人道危機が続いています。いかに文明が進んでも、人の心が追いつかなければ、人々の声を聞こうとしなければ、争いはなくならないのかもしれません。

そんな思いで心がざわざわしたとき、民藝研究家であり思想家であり宗教家でもあった柳宗悦先生の言葉が、私の耳の奥に響くのです。

『ものを作る人に美しいものを作らせ、ものを使う人に美しいものを選ばせ、この世に美の国を作ろう』

中学二年生になったばかりの放課後、いつものように図書館に行き、手に取った一冊。今では題名さえ定かには覚えていないのですが、その本の中に柳先生のこの言葉がありました。

家が貧しく高校への進学が許されなかった私は、心の芯となるものを懸命に探していたのかもしれません。柳先生のこの言葉がひたひたと胸に広がり、私を満たしてくれるかのようでした。以来、この言葉は私の生きる指針となりました。

人々ひとりひとりが美しい暮らしを志せば、きっと美しい世界、美の国を作ることができる――。 82歳になった今も、私はそう信じています。

先日、久しぶりに駒場の『日本民藝館』に行ってきました。日本民藝館は1936年に柳先生によって創設された、民藝運動の拠点となる美術館です。何十回と通い、そのたびにすみからすみまで見てきた、私にとっては懐かしい場所でもあります。

いつものように、階段をあがったところにある長い腰かけに座って、美しい道具が存在する温もりのある空間を味わいながら、柳先生は、私を導いてくれた大切な心の師であると、改めて感じいりました。

私が、民芸をめぐる旅に出るようになったのは、20代に入ってまもなくのことでした。それから民芸がつないでくれた、言い尽くせないほど多くの、かけがえのない出会いがあり、たくさんの学びがありました。

『沖縄こそが日本の民芸のふるさと』という先生の言葉に導かれ、まだパスポートが必要な沖縄にも通いました。焼きもの、織物など、用の美の美しさに触れ、作り手や使い手のお話を聞き、そこで終生の手本と仰ぐことができる与那嶺貞さんにも出会うことができました。

与那嶺さんは、かつて琉球王府の御用布であったにもかかわらず近代化や戦争により、技法は失われ、幻の織物となっていた『読谷山花織』を復元させた女性です。貞さんは夫を第二次大戦で失い、三人の子とともに戦火の沖縄をなんとか生き延び、55歳で民族の誇りである花織の復元に着手。見事に花織を再興し、後継者の育成も行い、国の無形文化財にも指定されました。

「浜さん、女の人生はザリガナ(もつれた糸のようなもの)よ。でも丹念にほぐしていけば、美しい花のヤシラギ(布)をウイルサビル(織ることができる)」

美しい琉球言葉で歌うように語ってくれたこの言葉に、私は何度、励まされたことでしょう。

柳先生と浅川巧氏の、朝鮮の民衆工芸をめぐる深い共鳴と友情に感動し、朝鮮の人々の暮らしに深く入り込み、生活者としてその美を体感した浅川氏にならいたいと、韓国にアパートを借り、市場で買い物をし、地元の人とともに銭湯に通いながら、浅川氏の足跡を追ったこともありました。日本と韓国を10年往復しながら、浅川氏の墓を詣で、浅川氏を今も慕う人々と出会い、貴重な話を聞かせてもらうこともできました。朝鮮の美と、人々の暮らしの結びつきをも肌で感じることができた貴重な体験でもありました。李朝の美を愛する彼の地の友人もでき、今も家族ぐるみのおつきあいを続けています。

長年、民芸に私なりに携わってきて、思うことがあります。

歴史も文化もそれぞれの国で異なっても、人は互いの美を認め合うことができるということ。美しいと感じることで、心が開かれるということ。こうしたささやかなことの積み重ねで、人は理解を深めていくことができるということ。

日本民藝館には日本人のみならず、多くの国の人が訪れていました。 美しいものを通して、人の心にたくさんの美の種がまかれ、美の国が少しでも広がっていきますようにと、願わずにはいられません。 

12月に思うこと

赤ん坊を前抱きにしている若いお父さんを、町でよく見かけるようになりました。小学校の入学式や運動会に揃って出席するご夫婦も増えています。

男性が外で働き、女性は専業主婦として家庭を守るという家庭のモデルは、「男女雇用機会均等法」(1985年)、「男女共同参画社会基本法」(1999年)など法制度の整備にも支えられ、劇的に変化しました。共働き世帯が増加し、育児休業の取得や女性管理職の登用なども進んでいます。子育てをしながら働く環境がちゃくちゃくと整えられつつある現代。本当にいい時代になったとしみじみ感じます。

私は25歳で結婚し、四人の子どもに恵まれました。あのころ、女優が出産どころか、結婚することさえ珍しかったのですが、私は自分のキャリアだけでなく、切に自分の家庭がほしかったのです。大きなお腹でワイドショーのキャスターを続けていたときには、応援してくれる人もたくさんいましたが、こんな姿で人前に出た女優ははじめてだといわれたりもしました。実際、そうだったのだと思います。

子育てに夫の手助けは期待できませんでした。それは私に限ったことではなく、「家のことに支障がないようにできるなら働いてもいいよ」といってくれるのが、理解のある夫といわれた時代でした。

仕事が終われば、冷蔵庫に残っているものを思い浮かべ、夕飯は何にしようかと考え、車を走らせ、駐車場に車をとめるやいなや走って台所に飛び込み、着替えもせずに、ガスに鍋をかけ、とりあえずお湯を沸かす……。実の両親や面倒見のいい長女の助けを借り、何より子どもたちの笑顔に励まされながら、なんとか乗り切った日々。母子ともに丈夫で幸いでした。

子どもたちとは忘れられない時間をたくさん過ごしました。

うちに迎える古民家を探しているときには、車に布団も積み込み、中でお昼寝をさせながら、日本中を走り回りました。岩手の遠野に連れて行ったときには、語り部のおばあさんが、河童や座敷童がでてくる民話を次から次に聞かせてくれ、子どもたちは目を輝かせてその世界を味わって……夢中で聞き入る子どもたちの姿にも、私の胸が熱くなりました。

ダムに沈む新潟県の北部・奥三面の夏も、子どもたちと一緒に過ごしました。この村の暮らしを映像記録に残そうとした姫田忠義先生に同行させていただき、私も3年間22回通った奥三面の最後の夏でした。清らかな谷川で子どもたちが若鮎のように泳ぎ、はしゃぎ、あっという間に真っ黒に日焼けして。村のおばあさんおじいさんには自分の孫のようにかわいがっていただきました。村の最後の夏。四人の子どもたちのおかげでにぎやかでよかったといっていただいたことも忘れられません。

箱根の家を建ててからも、子どもたちがいたからこそ、楽しくおもしろい時間を過ごすことができました。ガスがなかなか通じず、キャンプのような暮らしが続いたこともありました。寝袋で寝たり、外でご飯を炊いたり。息子が釣ってきたブラックバスをどうにかして美味しく食べ切ろうと、みんなで奮闘したことも。

子どもたちに伝えたいと、我が家ならではの四季の行事も大切にしてきました。たとえば大晦日、おせち料理のお煮しめを作り終えると、急いで人数分の巻き寿司を作って、家族そろって一本ずつ食べるという習慣。伊勢出身の母によると、この太巻きを食べることで、その年の厄払いをして、新たな福を呼び込むことができるといういい伝えがあるのだとか。

日が変わるころに、家の電気を消し、和蝋燭を灯し、囲炉裏の神様に感謝を捧げ、火種に灰をかぶせ、新年を迎えると、飛騨から取り寄せた豆ガラに火を移し、「今年もマメで元気で暮らせますように、不滅の火のように頑張れますように」と願うのも、我が家流です。箱根の家に暮らしはじめて数年後の大晦日の晩に停電になって、その深い闇に驚き、以来、1年に1度、大晦日の晩の数十分を、電気を消し蝋燭の灯りで過ごすことにしたのでした。

ひたすら仕事に没頭しつつも、精一杯やれることはやってきたとは思います。それでも振り返ると、子どもたちには寂しい思いをさせたのではないか、もっとしてやれることがあったのではないかという思いは消えません。

年の瀬は、これまでの日々を反芻する季節なのでしょうか。

12月は、家族や支えてくれる人を思う月なのでしょうか。

年を重ねていく私を、今は子どもたちがさりげなく見守ってくれています。そのあたたかなまなざしに包まれていることがわかるから、老いの階段をのぼるのも怖くないのかもしれません。

今年もありがとうございました。

家族に、そして私を支えてくださるすべてのみなさまに、心より感謝いたします。

自然と人。

―箱根の山、そして庭―

すとんと秋がやってきました。日中は温かくても、箱根では朝晩に暖房が必要になりつつあります。

雨上がりの青天の早朝、思い切って仙石原に足を延ばしました。標高約700m、台ケ岳の北西の山裾に広がる仙石原は、ススキの名所です。斜面を覆い尽くす様に広がる一面のススキ。朝日を浴び、きらきらと金色に輝き、風が吹けば大海原の波のように揺れ、うねり……息をのむような風景でした。

その足で、湿性花園に向かいました。こちらは湿原・川・湖沼などの水湿地に生育する植物を中心に、実に多くの草花がそれぞれの植生にあった場所に美しく配された、日本で初めて作られた湿生植物園です。

仙石原と湿性花園には、まだよちよち歩きだった子どもを連れてきたこともあれば、子ども一家と孫の手を引き遊びにきたこともありました。どちらも毎年、春と秋にお訪ねせずにはいられない、私にとって大切な場所です。

平日でもあり、開園時刻を待ち、入場したこともあり、私のほかにいらしたのは一組のカップルだけという贅沢さ。まず、今開催中の秋の山野草展に。可憐でありつつも、園芸種にはない力強さを感じさせる山野草の数々に力をもらい、それからゆっくり花園全体を味わいました。

園路は、低地から高山へ、初期の湿原から発達した湿原へと植物の生態系の流れを感じながら歩ける構造になっているのだそうです。木製の園路を歩きながら、さまざまな植物の生命力、そして大自然の息吹が体いっぱいに流れ込んでくるような気がしました。

途中、ベンチに腰をおろしていると、植物の手入れをなさっているスタッフの方々の姿に気づき、はっとしました。人工的な美しさではなく、自然にある命の姿が見られるということで知られる湿性花園ですが、ありのままの姿を伝えるためには、人の手も必要なのだと改めて気づかされました。

仙石原のススキにも、実は人の手が入っています。毎年、3月、山焼きが行われているのです。そのまま放置してしまうと、樹木が侵入して雑木林になってしまうのだとか。

自然と人との関係は、興味深く、本当におもしろいものですね。

箱根の我が家は山の中にあります。

けれど、40年前、私が手に入れたのは、平らな造成された土地でした。それを元の姿に戻したいと、役所に通い、本来の地形がどうだったかを調べ、盛り土をしたのでした。盛り土が落ち着くまで数年という時間が必要でした。

ですから、この庭に植えるのは、箱根の山に生えている植物だとも決めていました。業者に頼めば簡単なのに、山に車を走らせ、地主さんをみつけて、この木を譲ってほしいと頼みこみ、了解が得られれば「根回し」(移植する前に根を切って木の細根を再生させる作業)をし、根が再生したのを確認して翌年、移植し……そうして集めた何十本もの樹木で庭を造りました。庭木すべてを植え終えるまで5~6年はかかったでしょうか。

ヤマボウシ、ハコネバラ、モミジ、ヤマザクラ、サルスベリ、シャクナゲ、ツバキ、ハナミズキ……。

今では、どの木も気持ちよさそうに大きく育ち、まわりの山と自然になじんで、古民家を再生した我が家をぐるりと取り囲んでいます。

花園とは比べようもありませんが、それぞれの木や草花を生かすために、これまでの季節は雑草とり、これからは落ち葉掃除が欠かせません。それも含めて、木々に囲まれた庭がこのごろ、いっそう、いとおしく思えてきました。

仙石原と湿性花園に行き、もう一度、庭としっかり向き合いたいという気持ちが、湧き上がってきたような気がします。

箱根の紅葉は例年11月中旬頃が見頃です。白い帽子をかぶった富士山と、山々の綾錦をどうぞ楽しみにいらしてください。

インド更紗とともに、世界をめぐる

戦後の、もののない時代に、育ちました。我が家はかつて段ボール工場を営んでいたのですが、空襲ですっかり焼けてしまい、私が覚えているのは、家族が肩を寄せ合うように暮らしていた長屋での暮らしです。

リンゴ箱ふたつを並べた上に、藍染の木綿の布をかけたものをちゃぶ台代わりにしていた時期もありました。使い終わった布は洗濯板でごしごし洗い、物干しざおにかけ、お日様と風にあててきれいにして……高価なものではなく、もしかしたら大きな風呂敷だったのかもしれません。けれど何度も水に通した布は柔らかく、風合いが優しげで、私は大好きでした。

振り返ると、藍染のその1枚の布に導かれ、私は布に強く惹かれ、人生の大いなる楽しみを与えてもらったような気がしています。

ガンダーラ美術に興味を覚えて最初にインドに行ったのは、19歳のとき。それから10年間、インドに通い、多彩なインドの布にも魅了されました。さまざまな刺繍、模様、色、素材も綿、シルク、カシミアと豊かで、その一枚一枚に、人々の暮らし、風土、歴史があると感じさせられました。

先日、東京ステーションギャラリーで開催された展覧会「カルン・タカール・コレクション インド更紗 世界をめぐる物語」を見てきました。カルン・タカール氏はインド出身の更紗の世界的コレクター。氏のコレクションが日本で紹介されるのは初めてです。

数千年前にインドで誕生した「更紗」は、茜や藍などで細密な文様を描いた色鮮やかな染め物です。紀元1世紀には早くも東南アジアやアフリカへと渡り、17世紀に東インド会社が設立されると、ヨーロッパをはじめ世界中に輸出されるようになりました。

物語『ラーマーヤナ』の主人公・ラーマの戴冠式が描かれた掛布、長さ約8メートルにも及ぶ9世紀の南インドの詩聖マニッカヴァカカルの人生譚を伝える掛布、タイ王室が発注したというタイの守護神とヒンドゥー神話の神を描いた上衣、聖母子像を描写した儀礼用の布、岩山に力強く根を張り、大輪の花を咲かせた立木が中央に描かれたヨーロッパ用と思われるベッドカバー、オランダ女性の伝統衣装の胸飾りなど、展示作品は見事なものばかりでした。

世界をめぐる物語とタイトルにあるように、更紗がいかに人を魅了し、世界にと広がっていったのか。その先々でどう変化していったのかということも、よくわかる展示になっていました。

神話や聖人の物語を描き、宗教という人々の祈りと深く結びついていたインド更紗は、アジアでは儀礼用の布などに、ヨーロッパでは装飾品やインテリアにも。日本にやってきた更紗は、茶人に愛され、国内でも模倣・創作がはじまり、和更紗を生み、人々の暮らしに入り込んでいき、19世紀のイギリスではウィリアム・モリスらが更紗の美意識を継承し、アーツ・アンド・クラフツ運動へとつながっていったのです。

二時間ほどかけてゆっくり作品を見て歩きました。更紗とともに、世界中を、時代を超えて旅したような気がしました。

安価な商品が大量に流通し、スマホひとつで買い物ができ、翌日には手元に届く時代。そうした便利さ、簡単さを否定するものではありません。

けれど、職人たちが時間をかけて手で仕上げるものには、やはり感情や記憶に訴える力が宿っている気がしました。名もなき職人たちが作ったものです。でもそこには唯一無二の存在感がありました。作り手、使い手の思いも存在の中ににじんでいました。こうして作り続けてきたからこそ、技術や美意識が継承され、広がり、今にとつながっているのだとも実感できました。

どんな時代が来ても、人が手で作った美しいものを大事にしてほしい。そう願わずにはいられません。

※「カルン・タカール・コレクション インド更紗 世界をめぐる物語」は東京ステーションギャラリーにて、11月9日(土)まで開催されています。東京ステーションギャラリーは東京駅の中にある美術館。JR東京駅丸の内北口ドームから中に入ります。
https://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/202509_india.html

東京ステーションギャラリーは空間もとても素敵です。丸の内駅舎の北端に立つ八角形の塔の1つが展示空間。この美術館では、レンガにも注目してください。

2階の展示室には、駅舎が創設された当時の、つまり明治後期に製造され、大正時代に積まれた構造レンガがそのまま使われています。螺旋階段の壁面の黒くなっているレンガは、東京大空襲による火災で炭化したものだとか。レンガを間近で見るだけでも、東京駅が歩んできた歴史の重みが伝わってきます。

未来を考えるために

戦後80年となるこの夏、戦争の時代を振り返り、戦後の歩みを見つめなおそうとする企画が様々なメディアで取り上げられました。ウクライナや中東などの国際情勢が混迷を極める一方、日本を支えるのは戦争を知らない世代に。歴史を語り継いでいく大切さを思わずにはいられません。

8月24日放送の『浜美枝のいつかあなたと』(毎週日曜日 9時30分~10時00分 · 文化放送)でゲストにお迎えしたのは、ジャーナリストで映画監督でもある佐古忠彦さんでした。佐古さんは、『筑紫哲也NEWS23』『Nスタ』などのキャスターを歴任し、このたび、戦後の沖縄を扱った映画『太陽(ティダ)の運命』を制作なさいました(ティダ・はるか昔の沖縄で首長=リーダーを表す言葉)。

沖縄は、私にとっても特別の土地です。柳宗悦氏の民芸運動がきっかけで、日本復帰前から沖縄に行き、やちむんや琉球ガラス、漆器、織物など伝統工芸に魅了されました。中でも花織の美しさと歴史には心打たれました。その復興に尽力し、人間国宝にもなられた故与那嶺貞さんとのおつきあいは、私の心の宝物です。

沖縄に通う中で、戦中戦後の沖縄を、私も肌で知ることとなりました。沖縄戦では県民の4人に1人が亡くなりました。沖縄における全戦没者数は実に20万人を超えています。さらに本土復帰までの、27年間の米軍統治時代には、住民の土地が奪われ、基地が建設され、今もなお日本国内の米軍専用施設の7割が沖縄に集中しています。

キャスターやディレクターとして長年報道の現場に立ち続けてきた佐古さんは、番組内で、情熱的にたくさんのことを語ってくれました。その中で「戦後80年たっても沖縄に米軍基地が集中して存在し続けている。この不条理を支えているのが、日本の民主主義であり、政治の構造。沖縄の置かれた状況を、自分の問題として考えてほしい」という佐古さんの強い思いに触れ、この映画の意味をより深く理解できた気がしています。

『太陽の運命』は、第4代知事・大田昌秀さんと、第7代知事・翁長雄志さんの姿を描くドキュメンタリー映画です。

「沖縄県知事は全国でも特異な存在です。これほど苦悩して、決断を繰り返さなければならない立場は他にないだろうと思います。行政官としての立場と、民意を背負った政治家としての立場、そして国から一方的に強いられる負担、さらにはアメリカや自分自身とも向き合わざるを得ない。筑紫哲也さんは『沖縄に行けば、この日本が見える』といわれていました。政治的立場が正反対で、激しく対立していた太田さん、翁長さんでしたが、次第に言葉も歩みも重なっていく。そのおふたりの姿に、“日本の今“が見えるのではないかと思います」(佐古さん)

「日米地位協定」「米兵少女暴行事件」「普天間基地移設問題~辺野古新基地建設問題」「教科書検定問題」……新聞報道やテレビのニュースで断片的に知っていたことが、映画が進むにつれて、大きな流れとしてくっきりと浮きあがってきます。

地位協定や安保条約などというと、政治やイデオロギーの話だろうと敬遠されがちですが、沖縄のそれはすなわち、ごく身近な、「人としての尊厳を守る」問題であることも伝わってきます。

そしてこの映画で、沖縄の人が大切にしてきた歌を知りました。

若さる時ねー 戦争ぬ世
若さる花ん 咲ちゆーさん
家ん元祖ん 親兄弟ん
艦砲射撃ぬ的になてぃ
着る物 喰ぇー物むる無―らん
スーティーチャー喰でぃ暮らちゃんやー
うんじゅん 我んにん 
いゃーん 我んにん
艦砲ぬ喰ぇー残さー

       若い時分には戦争ばかり
       若い花も咲かずじまい
       家屋敷 ご先祖 肉親
       艦砲射撃の的になってしまい
       衣 食 何もかも失い
       ソテツを糧にして暮らしを立てたもの
       あなたも わたしも
       おまえも おれも
       艦砲の食い残し

平和なてぃから 幾年か
子ぬ達ん まぎさなてぃ居しが
射やんらったる 山猪ぬ
我が子思ゆる如に
潮水又とぅ んでぃ思れー
夜ぬ夜ながた眼くふゎゆさ
うんじゅん 我んにん 
いゃーん 我んにん
艦砲ぬ喰ぇー残さー

       平和の夜を迎え、何年経ただろうか
       子らも成長していくと
       撃ち損ないの猪が
       我が子を案じる如く
       (苦い)塩の水は二度との思いで
       夜っぴ寝られぬ日もあり・・・
       あなたも わたしも
       おまえも おれも
       艦砲の食い残し

(『艦砲ぬ喰ぇー残さー』より作詞作曲・比嘉恒敏 訳詞・朝比呂志)

沖縄戦では14歳以上の少年、約1780人が鉄血勤皇隊として動員されました。当時沖縄師範学校に進学していた大田知事もそのひとりでした。動員された子どもたちの約半数にあたる890人が戦死。17歳未満の戦死者は567名にも上ります。

知事出馬前に訪れたバーで、太田知事はジュークボックスに10曲連続で、この「艦砲ぬ喰ぇー残さー」を選曲して聞いていたというエピソードには、胸をつかれました。

2015年に招かれた県民大会では、翁長知事はこの歌に包まれつつ、「うちなーんちゅ、うしぇてぃないびらんどー(沖縄の人をないがしろにしてはいけませんよ)」と叫んだというエピソードも印象的でした。

『太陽の運命』は、3月に沖縄で先行公開したのを皮切りに、4月から全国ロードショーがはじまり、今も各地で上映が続いています。私たちの未来を考えるためにも、機会がありましたら、ぜひご覧になってくださいませ。

※佐古さんをお迎えした8月24日放送の『浜美枝のいつかあなたと』(文化放送)は、「ラジコプレミアム」の「タイムフリー30プラン」または「ダブルプラン」でお聞きいただけます。

映画『秋がくるとき』に思う。

『私たちは高齢者を聖人化し、理想化しがちですが、彼らもまた複雑な人生を生きてきた存在なのです。彼らにも若いころがあり、性的な存在であり、無意識の思考や欲望を持っています。……この映画の冒頭を、美しい田舎で暮らす80歳の女性の日常から始めることは、私にとって重要なことでした。彼女は菜園の世話をし、教会へ行き、友人を車に乗せ、ひとりで食事をする……。彼女の時間は静寂に満ちています。多くの場面で、本来なら語られたかもしれないことが語られません。ミシェルはどこか用心深い人物です。彼女は自分なりの「真実」を作り出しますが、それは決して計算や策略ではなく、彼女の生存戦略なのです』

    (『秋がくるとき』パンフレット内フランソワ・オゾン監督インタビューより)

この映画を見終えて一か月もたつのに、紅葉に彩られた秋の美しい風景とともに、主人公ミシェルの生き方が、今も私に何かを問いかけ続けています。これほど余韻の深い映画に、久しぶりに出会いました。

フランソワ・オゾン監督の本作『秋がくるとき』の舞台は、ワインの産地として知られるブルゴーニュの小さな田舎町。人生の秋を迎えた女性ミシェルのもとに、パリに住む娘と孫息子が遊びにやってきて、事件が起こります。母娘の葛藤、過去の傷と沈黙の記憶などが少しずつあぶりだされ、取り返しのつかない喪失へとつながっていきます。

やがてミシェルは孫と静かな日々を過ごすことを選び、親友の死、親友の息子との一見奇妙にも見える複雑な関係をも受け入れていきます。庭を耕し、孫に優しいまなざしを向け、料理をし、ときには髪をおろしてダンスをし……。さらに年月はたち、ミシェルは大切な人々と入った森の奥で、シダの葉に囲まれながらひとり静かに横たわり、まるで大地へと還るかのように旅立ちます。

監督の言葉にあるように、作中では多くのことが明言されません。それは観客ひとりひとりが想像を膨らませ、ミシェルをはじめとした登場人物を解釈しなければならないということ。「あなたなら、どうする?」「どうふるまう?」「何と言う?」「正しさとはなに?」「過ちとは?」「何を手放し、何を守る?」など、多くのことが胸につきつけられます。

中で最も印象に残ったのは、「その人のまま老いる」ミシェルの強さとしなやかさでしょうか。老いても、たくさんの屈折を抱えていても、自分が自分であることをあきらめない。自分のままで在り続けるために、自分の人生を自分で選び、誰より自分が自分を赦し、過去も現在もこれからをも含めた人生を肯定し受け入れていく。その姿に感銘を受けずにいられませんでした。「良かれと思うことが大事」という彼女の言葉も、強く心に残りました。自分をあるいは他者を赦す鍵はここにあるのではないか、と。

                                                                                                                                                                人生を振り返れば、したくてもできなかったことや、いたらなかったことばかりだと、感じる人が大半ではないでしょうか。私もそのひとりです。

けれど、ミシェルの「私たちはできる限りのことをしたわ」と語ります。この言葉に、力をもらうのは私だけではないはず。完璧には程遠くても、私も今、「精いっぱいやってきたと思う」とだけは言えるような気がします。これも、この映画のもたらす生への肯定、そして赦しなのかもしれません。

5月末に封切りになった本作品、今も全国で上映が続いています。お近くに上映館がありましたら、ぜひ足をお運びください。

どこかひりひりしつつも、温かなものが、静かに力強く、心に満ちてくるのを感じていただけるのではないかと思います。

https://longride.jp/lineup/akikuru/

共鳴する喜び

先日、ポーラ美術館で『ゴッホ・インパクト―生成する情熱』展を見てまいりました。

(作品は一部撮影可)

ゴッホは私にとって特別な画家のひとり。『馬鈴薯を食べる人たち』と『靴』という作品との出会いは忘れることができません。

16歳で女優としてデビューしたものの、芸能界は私が生きていく場所なのだろうかと真剣に悩み、ひとり旅に出たのはその2年後、18歳のときのこと。イタリア、イギリス、そして最後に訪れたオランダのアムステルダムにあるゴッホ美術館でこの二作品に巡り合ったのでした。

『馬鈴薯を食べる人たち』には、自らの手で掘り、得たものをランプの下で食べるという祈りのような時間が描かれていました。履き古した靴を描いた『靴』には生きることへの問いがにじんでいると思いました。

私が40歳まで女優を続けられたのは、この二枚の絵のおかげかもしれません。体が震えるような感動とともに、女優といっても私はまだなにもしていない、ゴッホが描いた人々のように、私ももう一度、女優として汗水たらして、懸命にやってみようと、これらの作品が人生の岐路に立っていた私に力を与えてくれたのです。

以来、絵に会いに、何度もオランダに足を運びました。

オランダはもうひとり、私の大好きな画家フェルメールを生んだ国でもあり、数年前にはフェルメールの名作『デルフト眺望』が生まれた場所をこの目で見てみたいと、デルフトまで足を延ばしました。

もちろんフェルメールが生きた17世紀のデルフトと今では、街並みも異なります。けれど、フェルメールが描いた場所の光の中に立つと、作品が体の中にストンと通った気がしました。『牛乳を注ぐ女』に描かれているのと同じようなパンを今でも焼いているパン屋さんを見つけたことにも感動しました。

こうしてオランダとの縁を重ねているうちにいつしか、アムステルダム中央駅が私のお気に入りの場所になりました。アムステルダム国立美術館と同じ建築家・ピエール・カイペルス氏による赤レンガ造りの重厚な駅舎。どこか懐かしい気持ちになるのは、東京駅のモデルにもなったとされるからでしょうか。2番ホームに面した『Grand Café Restaurant 1e Klas』は高い天井にシャンデリアが美しい元・一等車待合室を改装したカフェレストラン。列車を眺めながら、コーヒーとオランダ名物のアップルタルトをいただくのも楽しみになりました。そこに立つだけで旅情を感じさせてくれるのは、多くの別れと再会がこの空間に刻まれているからかもしれないと思ったりもしました。

だんだんオランダが、干拓と運河、そして芸術と暮らしが交差する国であるとわかってきました。自由で寛容、でも常に足を地にしっかりつけている国民であることも。

だからこそ、オランダであのようなゴッホの初期の作品が、あるいは暮らしの一場面の中に宿る光、沈黙、感情の揺らぎまで表現したフェルメールの作品が生まれたのではないかと、初めての出会いから年月を重ね、私は今、ひそかに思っています。

展覧会では、ポーラ美術館所蔵のゴッホ作品3点『ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋』『草むら』『アザミの花』をはじめ、ゴッホの影響を受けた国内外の作家たちの作品が並んでいました。

岸田劉生、中村彝、森村泰昌、福田美蘭、フィオナ・タンなど、時代も表現も異なる作家たちに、ゴッホの情熱が見る者の中に創造の炎をいかに灯してきたかということに改めて気づかされ、心が揺さぶられました。自分の中の何かと共鳴する深い喜びも味わうこともできました。

帰路につく前に、ポーラ美術館を取り囲むように作られた「森の遊歩道」をゆっくり歩いてきました。聞こえるのは小鳥のさえずりと風の音だけ。私が一番好きなヤマボウシの純白の花が見事に咲いていました。

『ゴッホ・インパクト―生成する情熱』展は、11月30日(会期中無休)まで開かれています。

展覧会公式サイト
https://www.polamuseum.or.jp/sp/vangogh2025/

夏ミカンのマーマレード

書棚に近頃、料理本が増えました。若い人はスマホで検索をして新しい料理をみつけるようですが、私はやはり紙の本。「あ、これ、おいしそう」「今度、作ってみようかしら」「孫が喜んでくれそう」と、ページをめくるひとときも楽しんでいます。万能だれや黒酢の新しい使い方など、おかげさまで食卓も少しずつ進化しています。

週に1度、小田原に下り、近くの市場に上がった新鮮な魚や、朝どれの野菜を求め、時折、家族の晩ご飯も作っています。

小田原の町中からちょっと離れると、山が海にせり出しているような急峻な坂が続き、そこにはミカンや夏ミカンが植えられています。その上にカフェがあり、先日、友人とお茶をしてきました。ちょうど、夏みかんの白い花が満開でした。甘く爽やかな花の香りのする風が吹いていました。

小田原駅隣接のJA直売所「朝ドレファ~ミ♪」で夏ミカンを手に取ったのは、その光景と香りを思い出したからでした。さあ、この夏ミカンをどういただきましょうと考え、マーマレードを作ることにしました。

もともと食べることが好きで、子どもたちにはしっかり食べさせたいと、忙しい中でも料理だけは自分で作りたいとこだわってきました。家に帰るなり、いくつもの鍋を火にかけ、ちゃちゃっとお惣菜を仕上げ……よそ行きから普段着に着替えるのも、メークを落とすのもその後、というような暮らしでした。

でも、正直、お菓子までは手がまわりませんでした。ケーキやクッキーを焼いたり、ジャムやマーマレードを作ってみたかったのに。

そうなんです。はじめてのマーマレード作りでした。

夏ミカンの皮にナイフで筋をいれ、皮をむき、皮と実に分ける。皮の内側の白い部分を取り除き薄切りにしたものを、沸騰したお湯でゆでては冷水に晒すのを繰り返すーー。

マーマレードにこんなに手間がかけられていたと知ったのもはじめて。でも甘酸っぱい夏ミカンの香りがキッチン中にたちこめて、私にとって、とても新鮮な、癒される時間でもありました。

最初に作ったものは煮詰めすぎたのか、冷めたらちょっと固くなってしまったので、二回目はゆるめかなというところで火を止め、満足のいくものに仕上がりました。

煮沸した瓶に詰めてリボンをかけ、遠い町で暮らす娘にもひと瓶、送りました。喜んでくれるかしら、びっくりするかしらと、少しわくわくしながら。

私はといえば、毎朝、ヨーグルトにかけて、いただいています。次はジャムも作ってみたくなりました。

料理は記憶を呼び覚ませてもくれます。

美味しいマーマレードを作ってくれた年上の女友だちのことを思い出しました。日当たりのいい軒先にゴザを広げ、背中を丸めながら丁寧にゼンマイを干していた農家のおばあさんなど家族のために手間をおしまず、食に向き合っていた先人たちの優しい姿も。

調理にかけるゆったりした時間も、味のうちなのかもしれません。

四季があり、旬があることをありがたく思い、私も、作ることも楽しんで、無駄なく食べていきたいと思います。