「麺の科学」(講談社) 山田昌治著

皆さまは”麺”というと、どんな麺を想像なさいますか。私たちの食生活には欠かせない麺類。うどん、素麺、蕎麦、パスタ、ラーメンなど、どんな麺類がお好きですか?

私はどれも大好きな麺好きです。これまで深く考えずに食べていた麺類。麺の原料としてもっとも使われている小麦粉と、それ以外の穀物など「麺の科学」を読むとまぁ~知らないことばかり。

このご本を拝読していると山田先生は『食の伝道師』です。山田先生の言葉を借りるなら「麺はもはや文化」ですね。科学的根拠に基づいたお話が書かれております。

山田さんは1953年生まれ。1979年、京都大学大学院・修士課課程終了後、秋田大学鉱山学部・資源科学工学科助手を経て、日清製粉に入社し、パスタなどの食品の研究開発に携わりました。2010年から、工学院大学の教授をお勤めです。

詳しくはラジオのゲストにお招きし、大勢の方にもお話を伺っていただきたいと思いました。

なんでも小麦という植物の起源は中近東の高原の砂漠地帯だそうです。そこに自生していた植物を人類が改良して、ヨーロッパやインド、中国に、さらにアメリカ大陸、オーストラリア広がっていったそうです。

高原の砂漠で進化したために、空気中の水分を吸収しやすい構造があるとのこと。窒素分を貯蔵タンパク質としてため込む。その性質は麺類にした時に弾力的に富むということです。

あたり前のように食べている麺。「こしがあるわね~」とか「喉ごしがいいわね~」とかはいいますが、科学的にみるとなるほど、とガッテンがいきます。そうそう、今年、大流行した「タピオカ」も麺に多く使われているそうですよ。タピオカはカッサバの根茎からえられるデンプンです。それでモチモチ感がでるのですね。

ご本の中には小麦粉・蕎麦粉・米粉・麺を作る粉の科学から、麺の栄養学、そして、科学の力で麺を美味しく食べるコツなどが書かれております。

皆さんは麺を茹でる時に、吹きこぼれてしまう時はどうなさっておられますか。

『うどん、冷や麦・スパゲッティ・日本蕎麦、いずれも沸騰状態を保つことが麺のゆで方の基本です。』と書かれております。でも、難しいですよね、沸騰し泡がどんどん発生し、吹き零れてしまいます。私は”さい水”をします。

ラーメン店などでも見かけますよね。でも家庭の場合とは違うのだそうです。そもそもなぜ吹きこぼれるのか、を教えていただきました。

「麺をゆでていると、麺に含まれるデンプンが溶けだします。その状態で沸騰が始まると、できた気泡がデンプンの膜によって壊れにくくなり、気泡が急激に増えます。気泡のサイズは小さく、それが嵩高くなります。その結果、気泡の体積が急激に増え、鍋の外にあふれるわけです。」

まだまだ科学的なお話は続くのですが、”さし水”ではなく温度調節をコンロでするのがよいとのこと。あとは灰皿!(もちろん新品ので)をひっくり返して鍋の底にいれる。これ、昔はやっていましたよね。灰皿に抵抗がある場合は100円ショップで灰皿に似た形状の吹きこぼれ対策専用グッズが売られているそうです(これはさっそく買いましょう)

お話を伺っておりますと、知らないことばかりです。当たり前に日常麺を茹でておりますが歯ごたえのあるあるうどんの増す方法など・・・スパゲティを茹でる時に、食塩を入れるのは科学的にはどうなのか、など等。たっぷり「麺の科学」を教えていただきました。

ぜひ、番組をお聴きください。
文化放送 10月27日放送
日曜日10時半~11時まで

映画『ホテル・ムンバイ』

かつてその町はボンベイと呼ばれていました。50年以上も前の記憶は、今も鮮明です。私は仕事の合間に少しでも時間ができると、躊躇なく旅に出ました。仏教美術、特にガンダーラの仏像に魅せられ、インドへと向ったのです。

”バックパッカー”という洒落た言葉がまだ一般には存在しない頃、文字通り、リュックサック一つで憧れの大地を歩き回りました。

いま、映画「ホテル・ムンバイ」が上映中です。ボンベイは現在、ムンバイに名前を変えました。

2008年11月、ムンバイを代表する「タージマハル・パレス・ホテル」がイスラムの過激派によって占領されました。これは駅や高級ホテルなど、人の多く集まるところを狙った同時多発テロでした。テロリストたちは3日にわたってホテルに篭城しましたが、この映画はその間の模様を、あたかもドキュメンタリーのようなタッチできめ細かく描いています。

宿泊客は多岐にわたりました。生まれたばかりの赤ん坊を抱えた米国人夫妻やロシア人の実業家、画面はそれぞれの人間模様や心の葛藤を丁寧に追いかけます。

理不尽な殺戮が続く中、何とか無事に脱出できたケースもありました。しかし、ホテル内には一時、500人以上が取り残されたのです。逃げ遅れた宿泊者を冷静・沈着に誘導し、その命を守ったのがホテルの従業員、つまり料理長やウェイター、そして電話交換手らスタッフでした。

彼らの献身的な努力で多くの人質は無事脱出、生還することができました。しかし、このホテルだけでも30人以上の命が失われ、そのうちのおよそ半数はホテルの従業員だったのです。

このように甚大な被害を受けたホテルでしたが、事件から僅か1ヶ月後には営業を一部再開されました。それは、テロには決して屈しないという経営者や従業員の決意、そして客からの強い応援があったからです。

この映画の監督は脚本・編集も担当したオーストラリアのアンソニー・マラス。インドとアメリカも加わる3か国の共同制作でした。テロへの怒り、人質への共感、そしてホテルの従業員への賛辞。

心ゆさぶられる2時間は、またたく間に過ぎました。

50年以上前のボンベイ。当時「タージマハル・パレス・ホテル」に泊まることなど考えられなかった私は「せめて見るだけでも」と、1階のラウンジに腰を下ろしました。そして、英国式の本格的な紅茶を注文し、ゆっくりと港を見ながら飲みました。私にとって、それは最高の贅沢だったのです。

機会があれば、もう一度「タージマハル・パレスホテル」を訪れたい。そして、開業以来110年を超える名門ホテルの苦悩と栄光の歴史に心からの敬意を表しながら、鮮明に記憶に残る紅茶の味を、もい一度味わいたいと思うのです。

東京ステーションギャラリー:没後90年記念 岸田劉生展

「ステーション」「駅」・・・という響きに皆さまはどのようなイメージをお持ちになられますか。

18歳でのヨーロッパひとり旅でローマを訪ねた時の「テルミニ駅」は「終着駅」の映画の舞台。イタリアの巨匠ヴィットリオ・デ・シーカ監督。主演はジェニファー・ジョーンズとモンゴメリー・クリフト。1953年公開作品です。荷物を地下に預けてあのラストシーンのホームに立ちました。「終着駅」という言葉に郷愁・哀愁を感じたことを覚えております。

パリの「オルセー美術館」はもともと1900年のパリ万国博覧会に合わせてオルレアン鉄道によって建設されたオルセー駅兼ホテルでありました。長距離列車のターミナルでかまぼこ状の大屋根の美しい建築が、1986年に現在の美術館として生まれかわったのです。

建物内部に鉄道駅であった面影が残っています。絵画・彫刻だけではなく、写真、グラフィックアート、家具、工芸品など19世紀の作品を観ることができます。かまぼこ型のガラスからは陽光が射し、美しい元ステーション美術館です。

そして「東京ステーションギャラリー」。

東京駅は生活の一部です。私は旅に出かける時、また仕事の時の出入りに映画を観たり、美術館巡りをしたり、友人とのおしゃべりで出会う時など東京駅もよく訪れます。

そんななかでの楽しみのひとつは駅構内にある「東京ステーションギャラリー」です。まずギャラリーに入る前に丸の内側の天井を見上げます。そして館内に。2012年秋に復元工事を終えて新しいスタートを切りました。

ギャラリーで絵を見る前に鉄骨レンガ造りが目にはいります。その美しさには震災、戦争をくぐり抜けてきたストーリーが秘められていることに気づかされます。関東大震災と第二次世界大戦を経てきた建設当時のレンガが使われていて、それが「アート」になっています。歴史的建造物としての100年の記憶を感じつつの絵画の鑑賞です。

今回の展覧会は「岸田劉生展」です。没後90年記念です。

大正時代に活躍し、今も人気の高い画家・岸田劉生(1891~1929)。今回の展覧会の見どころは多くの作品を年代順に並べられているので、その変遷が浮き彫りになり、私ははじめて「岸田劉生像」を知ることができました。

ある時期に集中して描く対象物、それが自画像であったり友人達の肖像画であったり、写実で細密な画風に変わり、雑誌「白樺」でゴッホやセザンヌの影響を受けたり、レンブランドやゴヤなどに惹きつけられていく行程。

そして、あの有名な「切通之写生」15年の「道路と土手と堀」に出会います。不思議な絵です。左手の石垣の細かい陰影。土の道が斜めになり天に突き出たような晴れ渡った青空。雑草や小石まで精密に描かれています。

そして16年から取り組んだ静物画。この年の7月に肺病と診断され、戸外での写生が出来なくなるのです。「林檎三個」は病と闘う劉生が自分と妻、娘の麗子の「一家三人の家族の像」だと気づかされます。

38歳で急逝した劉生の”祈り”を感じます。そして、あの「麗子坐像」19年8月23日に完成。愛する娘を細密描写で描いた油彩画。麗子のよこに置かれた赤い林檎が印象的です。

麗子はじっと動かずその姿でモデルになっていたので、うっすらと目には涙が浮かんでいます。深い愛情を感じます。早世の直前に渡った中国東北部を描いた風景画は光あふれ、未来を信じて描いたのでしょうか。それとも余命を感じて描いたのでしょうか。

それにしても38歳とは・・・もっともっと自己の道を歩みたかったことでしょう。そうした一人の画業、生き方を知ることができた展覧会でした。

個人的には日本的な椿を西洋風に描いた「竹籠含春 ちくろうがんしゅん」も好きです。二色に染め分けられた竹籠に六輪の大ぶりの椿がいれられています。

会場を出ると美術館に来た人だけが見られるギャラリー2階の回廊からのドームを見上げられます。干支の彫刻が繊細に描かれています。改札口からの人の流れを見ながら「ステーション」の床にも目がくぎずけになります。

このように満たされた日はステーションホテルのバーで軽くカクテルを・・・

“さぁ山に戻りましょう”と帰路につきました。

美術館公式サイト
http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/201908_kishida.html

映画『ある船頭の話』

先日、素敵な映画に出会いました。

オダギリ・ジョー監督の「ある船頭の話」。
スクリーンには”日本の原風景”がとても穏やかに、そして丁寧に描かれていました。

時は明治の終わり頃でしょうか。日本が急速に近代化の歩みを進める中、一人の年老いた船頭が山奥の川で、来る日も来る日も渡し船をこぎ続けています。

身元の分からない少女が船頭に助け上げられたことを除けば、特にドラマチックな展開があるわけではなく、淡々とした日常が繰り返されます。

船頭役の柄本明さんには、心を揺さぶられました。”演技”と表現するのが失礼なほど、山村の風景に溶け込んでいました。変りゆく社会、それに引きずられる人々の心。しかし、決して捨て去ってはいけないものがあるのだと、寡黙な船頭は話したかったのでしょう。

自然と一体になった船頭を一層際立たせたのが、ワダエミさんが担当した衣装デザインでした。”紺”という一言では括り切れない複雑で繊細な色模様が、スクリーンを奥行きのある空間に変えていました。

少女役の川島鈴遙(かわしま りりか)さんの衣装も象徴的でした。一見すると国籍不明の服は、西洋にはない、極めて日本的な深い赤に染められていました。この映画全体で唯一光を放った色は”赤”でした。

「ある船頭の話」はもちろんカラー作品ですが、モノクロと勘違いするような奇妙な感覚に何度も襲われました。水墨画の世界を思わせるような味わいのある映像が、所々で独特の”色彩”を放っていたのです。水墨画と赤、一見相対すると思われるようなものが、しっとりと同居していました。

オダギリ・ジョーさんが長編映画の監督をするのは今回が初めてです。参加したスタッフも実に多彩。撮影監督はオーストラリアのクリストファー・ドイル、音楽はアルメニアのティグラン・ハマシアン。そして、ワダエミさんが色と素材の深みで語ってくださったのです。

”日本の原風景”を描き切るために、東西の優れた感性が重なり合ったのですね。

この映画は先の「ベネチア国際映画祭」で公式上映されました。終了後、満員の客席からは暖かい拍手がいつまでも鳴り止まなかったと報じられています。おそらくそれは、国境や文化、そして時代をも飛び越えた、見事なコラボレーションへの惜しみない賛辞だったのでしょう。

声のサイエンス(NHK出版新書)

大変興味深い本に出会いました。

皆さんはご自分の声って意識したことはございますか?初めて自分の声を聴いた時、びっくりする人が多いのだそうです。

そうですよね、アナウンサーや私もですが、ラジオへの出演などで、自分の声を聴く機会があります。でも普通は自分の声を聴く機会ってありませんよね。そして、なんと「自分の声を嫌い」と回答した人が80%なのだそうです。

このご本を書かれた方は山崎広子さん。国立音楽大学を卒業後、複数の大学で心理学や音声学を学び、認知心理学をベースに、人間の心身への音声の影響を研究されています。

声には、いろいろな情報が含まれ、身長、体格、顔の骨格、性格、体調など山崎さんは初めて電話で話す人でも、声を聴けばだいたいどんな人なのか、イメージできるそうです。

ご本の中に『あなたの声は社会によって作られている』とあります。考えたこともありません。「生育環境やその人の職歴などがまるで履歴書のようにあらわれます」とあります。

「環境によって作られる民族の声の特性」

ヨーロッパの石造りの住宅の多い地域では、人々の声はおおむね低く深くなり、中東にさしかかると、むき出しの岩や低木が目立ち、現代の中東地域の都会部では高層ビルが林立しているものの庶民の住宅は伝統的に土、藁などで固めた日干しレンガで造られていて体格はヨーロッパの人々に劣りません。しかし、発声は、喉を絞めて砂漠の乾燥した風土、土でできた家で暮すわけですから男女ともに甲高いそうです。

では東に進んだアジアの街では?

特に日本では体格にあわせるように、住居も小さめです。天井は低く木と草(畳)と紙(障子、襖)で作られていて声は響きません。ヨーロッパの人々の声が石によって作られた声に対し、日本人の声は木と紙によって作られた声ということになるそうです。

西洋から東洋に向うほど街がうるさくなる、といわれます。たしかに・・・東洋の街にはさまざまな音が溢れ、澄んだ正確な音が作られないために、ハーモーニーが生まれなかったのですが、中国も韓国も賑やかな音は環境が左右するのですね。現代社会の日本はかつてのような住環境ではありませんが基本的にはベースは一緒です。

山崎さんのご本の中で書かれている部分で特に興味を抱いたのは『国内では異質なものに対する寛容度がどんどん低くなっている』ということ。

『日本人女性の声が異常に高い』とおっしゃいます。そうですね、私もそれを感じることが多々あり、なぜなのかしら・・・と思っておりました。かつては、もっと低い、落ち着きのある声で話していたように思います。

年齢を問わず。身長が低ければ声帯が短いので声が高くなる、しかし、今は背の高い人も声帯の長さに見合わない高音です。

そこで、ラジオのゲストに山崎広子さんをお招きしていろいろお伺いいたしました。

「女性同士でも男性と一緒でも、声の高さはあまり変わりなく、無理に高くしているのでハイテンションに感じます。周波数だと350ヘルツ前後で、これは先進国の女性のなかで信じられない高さです」とおっしゃられます。

「女性の声の高さは「未成熟・身体が小さい・弱い」ことを表します。女性がそのような声を出すのは、男性や社会がそのような女性像を求めていて、女性が無意識にそれに過剰に適合をしようとしているのでしょう。社会進出における男女格差を”ジェンダーギャップ”といいますが、日本は144カ国中114位です。日本女性が異常なほど高い作り声で話すのは、女性が素の自分でいられない社会だということです。そこにジェンダーギャップとの相関関係を感じずにはいられません。」ともおっしゃいます。

そうですね、接客業や営業職などマニアル通りの声ですものね。自分らしい声、個性があってもいいと私は思うのですが・・・。

『本当の自分の姿を出したくないという思いの表れです』ともおっしゃいます。”みんなと一緒”が安心なのでしょうか。

他方では人の声に心揺さぶられることもありますよね。『声』って不思議ですね。まだまだたくさん興味深いお話を伺いました。ぜひラジオをお聴きください。

文化放送 「浜 美枝のいつかあなたと」
放送日 10月13日 日曜日
10時30分~11時まで

展覧会のご案内です。

『秋のアート三人展』

夏も終わり、秋草の花が咲き乱れる箱根の山の秋は澄んだ空気、穏やかな陽射し、爽やかで気持のよい日がつづきます。

とてもラブリーな展覧会を我が家『やまぼうし』で10月4日(金)~7日まで開催いたします。

ニットアートの石井麻子さんはグラフィックを学び、その後ニットデザイナーとして活動を続けておられます。京都・山科でショップを30年続け、世界を旅しながらその風景や花や天使など・・・誰からも愛されるニットを創り続けてこられました。

私も大ファンの一人です。カジュアルで着心地がよく、ラブリーな気持ちにさせてくださるニットやタペストリーなど、今回はどんな作品に出逢えるのでしょうか、今から楽しみです。

そして、考古学的なアクセサリーデザイナーの田部洵子さんの作品も楽しみです。ニューヨークで彫金を学び、イスラエルやシリア、インドなどを旅して探し出した貴重な石を細工し、豊潤を意味する葡萄を銀細工で表現し、ローマングラスのネックレスも魅力的で興味深いです。

もうお一人は石井さんのお嬢さんのAYUMIさん。まだ、誰も取り組んだことのない分野を開拓し繊細で透明感のある作品を創り上げておられます。素材は紙を用い糸で幾何学柄を刺繍すると、光線により濃淡が現れるそうです。私は今回はじめて出逢います。

箱根に暮して40年の私。近くには美術館や素敵なカフェもあります。”ちょっとお洒落して”の箱根暮らしにはラブリーなこのような作品が似合います。カジュアルに着られ、優しい気持になれるニットやアクセサリー。女性はいくつになってもお洒落を楽しみたいですよね。

10月4日はお三方と私のギャラリートークが「やまぼうし」で行なわれます。(参加費・無料)

ご予約はメールまたはお電話で。予約優先で、満席になりしだい締め切らせていただきます。お三人にはアートに対する想いなどを伺います。もちろん会場には作品も展示しております。

「秋麗・あきうらら」そんな秋の箱根にお越しくださいませ。お待ち申し上げております。

展覧会ホームページ
http://mies-living.jp/events/artexhibit.html

奈良大和四寺のみほとけ

東京国立博物館本館で「奈良大和のみほとけ」展が9月23日まで開催されております。

安部文殊院・長谷寺・室生寺・岡寺。奈良県北東部にある4つの古刹の名宝があつまりました。国宝4点、国の重要文化財9点が一堂に会しました。

奈良市内の大寺に比べれば地味なお寺さんです。これら四寺はいずれも7~8世紀に創建された古刹です。その中でも私が一番心惹かれるのは”室生寺”。それにはわけがあるのです。

写真家の「土門拳の古寺巡礼・第五巻 室生寺」に出逢ったからです。もう半世紀ほど前のことです。「室生寺はいつ行ってもいい。ぼくは ただ室生寺のあれこれを、また撮られずにはいられない」と記され、「釈迦如来坐像」(国宝)を「日本一の美男子」と称えた平安初期の仏像です。

10代だった私が土門先生に出逢い『本物と出会う』ことを教えられてはじまった骨董や仏像に出会う旅。今回の展覧会でも流麗な衣文線がなんとも美しく、女性的で優しい雰囲気をたたえた十一面観音菩薩像(国宝)など・・・時のたつのを忘れて魅入りました。このような”みほとけ”を拝観できるなんて・・・なんと贅沢なことでしょう。

「魅かれるものに魅かれるままジーッと眺める。モノを長く眺めれば眺めるほど、それがそのまま胸にジーンとしみて、僕なりの見解が沸く。要するに余計なことを考えず、ただ胸にジーとこたえるまで相手をじっと見る。見れば見るほど具体的にその魅かれるものが見えて来る。よく見るということは対象の細部まで見入り、大事なものを逃さず克明に捉えるということなのである。」(土門拳「私の美学」あとがきより)

古寺も仏像も、土門さんにとっては、ひとしく、美たりうるものであったのでしょう。

写真集「古寺巡礼」の撮影中に一度倒れられ、不死鳥のように立ちなおり、強い意志でもって復帰なさったのですが、再度、倒れられ、車椅子の不自由なおからだになった土門さん。

奈良の病院で療養をなさりながら、1939年(昭和14)初めて室生寺に行ったときから30回近く通うも「雪の室生寺」が撮れない、撮りたいとの執念で3月に寒波到来を知り、定宿にしている橋のたもとの橋本屋に移り、雪を待ち続けました。

12日、二月堂のお水取りの日の早朝、橋本屋の女将が「先生、雪が・・・」と。土門さんは涙を流したといわれています。うっすらと雪の鎧坂が表紙になっております。私の宝ものです。

雪降るなかの五重塔、杉の木立の階段、梅の匂いに包まれた季節、椿、石楠花、そして紅葉、と何度訪れたことでしょうか。”みほとけ”に出会うために。

今回は博物館でこんなに身近で出会えました。優しいほとけさまたちと。

そして、みほとけ のなかから土門先生が現れました。先生が仰られた「胸にジーンとしみてきました」

もう次の旅を計画している私。箱根から室生寺、そして高野山への旅を・・・晩秋かしら、初冬かしら、令和になったのですもの、やはり大和の紅葉の季節かしら、万葉の心にふれる旅をしたいです。

東京国立博物館サイト
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1966

原三渓の美術

横浜美術館に「原三渓の美術展」を観に行ってまいりました。

横浜・本牧の三渓園には何度か足を運び、四季折々の美しい庭園や三渓自身が京都や鎌倉などから移築した古建築や茶室など楽しんでまいりました。

これらの美の世界を構築したのが原三渓自身であったこと。その美意識に感嘆し、庭を歩き「原三渓」という人物にとても興味をもっていました。

なによりも私利私欲を超え将来有望な画家たちを物心両面で支援した本当の意味での”パトロン”であったことなどは良く知られていました。その「芸術のパトロン」は明治・大正期の精神風土が生み出したものです。この時代にはそうした本物のパトロンが存在していたことは他でもみかけられますが、今回の展覧会ではその全貌を観ることができました。

原三渓は慶応4(1868)~昭和14(1939)、本名・富太郎。生糸貿易で財をなした実業家です。古美術コレクター、茶人、そして近代美術を支えたパトロンでもあります。広大な土地に「三渓園」を造園し、自らも書画など描いたアーティストでもあります。

そしてその三渓園を市民に無料で開放しました。『美術品は専有するものではなく他者と共有するもの』との考えがあり、その審美眼で集めた作品は5千点以上といわれます。

1923年の関東大震災が起き横浜が焼け野原になった時には一切の収集を止め復興に私財を投じ心血を注いだといわれています。関東大震災が起きなければ「原の美術館建築」が実現していたのでしょうが、今回の展覧会でそれらを一堂に観ることができました。

今に伝わる名品の一つ、孔雀に座る明王が静かなまなざしをむける「孔雀明王像」(国宝)。色彩がよく残っていて荘厳。私がびっくりしたのは宮本武蔵の「「眠り布袋図」です。構図といい、穏やかな布袋といい宮本武蔵像がかわりました。

尾形光琳の「伊勢物語図・武蔵野・河内越」。平安時代の「古今和歌集巻第五」。茶器では朝鮮時代の井戸茶碗の「銘・君不知」。「信楽茶碗」。そして本人の描いた「白蓮」。三渓愛蔵の名品の質の高さに驚かされます。

そして三渓が支援した近代の日本画家の作品が並びます。横山大観、下村観山、今村紫紅、速水御舟の「京の舞妓」など。これら三渓はすべて高い値段で買い上げ、生活費を渡し、それだけではなく新進画家や美術史家らを自宅に招き夜を徹して芸術論を戦わしたそうです。

この時代に素晴らしい絵画、美術品が海外に渡りました。今回の展覧会では『日本美術』を守り育て、そうした情熱と審美眼を知ることができました。

コレクターでありパトロンであり、自らも筆をもち、才能を支援し、岐阜の豪農の家に生まれながら、”芸術にたいする愛”を惜しみなくそそいだ『原三渓』に敬意を表しました。

秋になったら紅葉した美しい三渓園を歩きたいと思いました。

井上陽水英訳詩集~ロバートキャンベル

日本文学研究者のロバート・キャンベルさんが歌手の井上揚水さんの歌詞を英訳し『井上陽水 英訳詩集』をお書きになり出版いたしました。

キャンベルさんはハーバード大学大学院・東アジア言語文化学科博士課程終了後、初来日からすでに40年がたつそうです。

最初は1985年、学びたい教授のいる九州大学文学部研究生として来日。江戸時代終わりから明治の前半の漢文学に関連の深いジャンル、芸術、メディア、思想などに感心をよせておられます。

著書も多数だされております。ご承知のように陽水さんの曲は名曲ばかりですけれど、歌詞が独特で、例えば「傘がない」や「いっそセレナーデ」など、どのように英訳されるのか・・・など等、大変興味深く、”なぜ陽水さん”なのか・・・などお聞きしたいことばかりです。

そして、本の陽水さんの詩を文字であらためて読んでみると正直に申せば”分からない!”とかんじる詩、声や歌い方が、ある種の魔力となって歌詞の本質から、私たち遠ざけている気もします。でも、心に響く。

たとえば  「傘がない」

都会では自殺する若者が増えている
今朝来た新聞の片隅に書いていた
だけれども問題は今日の雨 傘がない
行かなくっちゃ 君に逢いに行かなくっちゃ
君の町に行かなくちゃ 雨にぬれ

つめたい雨が今日は心に滲みる
君の事以外はかんがえられなくなる
それは  いい事だろ?

キャンベルさんはこの詩をどう捉え訳しているのでしょうか。

陽水さんとキャンベルさんはお互いに理解し合える仲間、ディスカッションをしながら、ということもあったと本に書かれております。

ぜひ直接お話を伺いたくラジオのゲストにお迎えいたしました。本のこと、ご自身のこと、文学を通しての日本、江戸文学について・・・など。

まず、ロバート・キャンベルさんの美しい日本語に、表現の豊かさに、語彙の豊富さに、人への優しさに魅了され、このブログでキャンベルさんの言葉をお伝えするのは非常に難しいです。

ぜひ、直接お聞きいただきたいです。日本人の私たちが忘れてしまっている「日本語」を私は学ばせていただきましたし、江戸文学をきちんと読みたくなりました。

直接ぜひ彼のことばでお聞きいただきたいのです。

文化放送 日曜日 10時半~11時
「浜 美枝のいつかあなたと」
9月1日・8日と2週にわたり放送いたします。

韓国と私

あれは17、8年前ころでしょうか。コスモスの美しい季節でした。まだ夏の暑さがすこし残っていましたが、ピンクや濃桃色、真っ白なコスモスが群生していて、風が柔らかにそよいでいました。

ソウルのインチョム空港から東に、80キロ、忘憂里(マウリー)の丘にある淺川巧(あさかわたくみ)の墓に詣でる旅でした。

巧は1891年(明治24年)山梨県に生まれました。山梨農林学校を卒業したあと、朝鮮総監府農工部山林課の技師として、ソウルに渡りました。緑化運動に成果を上げるかたわら、半島各地を歩き、日常に民衆が使っている道具に、健全な美を発見したのです。

巧は、普段から朝鮮服を身に着け、朝鮮料理を食べ、朝鮮語をマスターしていました。そして、お給料の大半を学生たちに援助をし、朝鮮の人から慕われ、朝鮮人と間違われることもたびたびだったそうです。

朝鮮半島の七百ヶ所近い窯跡を調査しつつ、「朝鮮の膳」、「朝鮮陶磁器名考」といった著書を著し、韓国陶磁器の全体像を明らかにしました。残念ながら、巧は四十歳の若さで、肺炎をこじらせて、還らぬ人となりました。

ソウルを眼下に望む忘憂里の丘のお墓は今でも韓国の方が守ってくださっています。そして墓には、巧が愛した朝鮮白磁の壷が花崗岩でかたちどられており、林業試験場の方々によって作られた記念碑には「韓国の山と民芸を愛して、韓国の人の心の中に暮して生きて去った日本人、ここ韓国の土になりました」とハングル文字で刻まれています。

あちらでは人が亡くなったとき、三角形のお煎餅を配る習慣があるのだそうですが、巧の葬儀の日、大勢の人々が見送りに来てくださり、ソウルの煎餅がすっかりなくなったという逸話を、以前、私は墓を守ってくださっている韓さんから聞きました。韓さんは、お父さんから、その話を聞いたそうです。

あれから幾度となく訪れた韓国。

私は韓国の家具にも強く心惹かれます。隅々まで、びしっと計算されつくし、完成された日本の家具と比べると、李朝の家具はほんとうに素朴にみえます。心がふっとなごんで落ち着く柔らかさを李朝の家具に感じるのです。

朝鮮半島は、何度も戦いにさらされました。その中で、人々は打ちひしがれ、ときには恨みや悲しみを抱くこともあったでしょう。そうした辛い、激しい、感情が昇華したときに、はじめて心のなかに表れる静かさというような、落ち着きとたたずまいを私は李朝の家具に感じるのです。陶磁器も多くは朝鮮半島から渡ってきています。

現在、韓国と日本は政府間でたくさんの問題を抱えております。伝統、文化の違いもあるでしょう。巧が民の中に飛び込み、民とともに生き、民によって守られていることも事実です。

どうぞ、よい方向に向っていただきたい、と願うばかりです。私には韓国に大切な友人達もおります。またコスモスの美しく咲くころに忘憂里の丘に詣でたいと思います。