イギリスの旅・後編

コッツウォルズからリンカーンに向けて出発です。

車で約3時間くらいのドライブです。高速道路から、田舎の小路を抜けのどかな田園風景がひろがります。丘には広告の看板などなし。美しい丘を見つめながらのドライブは至福の時間です。時々出会う集落の石の家の統一感も美しいです。このような景観を残す大変さもよく分かります。

リンカーンでも小さな家を借りました。スーパーにまず行き、食材を買います。ちょうどアスパラの季節でマッシュルームと一緒に、毎日、サーモンとソーセージを交互に炒めレンジでチンの白いご飯。やっぱり白いご飯は美味しいです。

初日はホーンキャッスルの元教会だった建物を使ったアンティークショップ。もう、所狭しと積み上げられた中からのお宝探し。初めて行った時には、啞然としてしまいました。しかし、3度目になり慣れてよく見るとクロスや器など”掘り出し物”がいっぱい!彼女は根気よく探します。私は教会の外のベンチに座りのんびり。

ランチは街の小さなお店でフィッシュ&チップス。イギリスでの始めての外食。それも街の人々が行く小さなお店。洗練などされていませんが、”美味しい”。油が軽くて、ポテトの揚げ具合も絶品!一度は食べたい料理です。旅をしていて地元の方々の入るお店は間違いなく”美味しいもの”に出会えます。

翌日からの3日間は私は家でのんびり読書タイムや料理、そして、彼女が見つけてきた布を洗濯して、アイロンをかけて・・・この時間はとても幸せです。かつて、布に刺繍をしたり、レースを編んだり、長い冬を家族のために過ごした女性達の姿が浮かびます。

旅にはいつも2,3冊の本を持参します。今回の本の一冊。作家のソフィ・バーナム(柴田幸裕訳)の「老いることの驚きと幸せ

「これから年を重ねていくあなたへ、88歳の作家からの手紙」とあります。
私は間もなく83歳。心に響く言葉がちりばめられています。

「孤独を感じるのは、恥ずかしいことではありません。不安を覚えたからといって恥ずかしがる必要がないないのと同じです。生きている限り、心地よい感情ばかりでなく、「否定的」な感情や落ち着かない思いも味わいます。人は「否定的」な感情と呼びますが、こうした感情を良いとも悪いとも決めつけず、また背を向けずに受け止めてみれば何らかの行動を起こすべきときかもしれないと知らせるサインにすぎないとわかります。孤独、不安、心許なさ、劣等感ーーーどれも生きている証です。ときに人は誰しも、周囲の自然や自分の目的、所属する共同体から切り離されたように感じとることがあります。それだけでなく、神からも、そして自分は何者かという神秘的な誰からも切り離されたように感じることがあります。」と。

旅先で独り静かに過ごすと思いがけない発見があります。

生きとし生けるものが健やかで幸せでありますように。
苦しみや痛みから解放され自由でありますように。

と、最後に綴られています。ソフィ・バーナムさん、ありがとうございます。旅はまた私にエネルギーを与えてくれました。

旅の最後はロンドン郊外にあるピーターシャムナーサリーのアフタヌーンティーで締めくくります。ここには大切な思い出があり、イギリスの旅では、ここがいつも最後なのです。

今は亡き友とご一緒したアフタヌーンティー。彼女とは同じ年生まれ。亡くなる前の年もここで合流しました。そして、シャンパンで乾杯。こんなに早く彼女との別れがくるなんて想像もしていませんでした。40年近くの友情です。お互いに仕事が忙しくいつも、「リタイアしたらゆっくりランチをしながらおしゃべりをしましょうね。そして、旅もしましょうね。」と言っていました。お別れから、10数年が過ぎました。バイタリティー溢れる彼女とは仕事の悩みや人生を語りあってきました。

「老後を楽しみにね!」が合言葉でした。ある時、彼女から「ねぇ、老いるってどんなことかしらね~」と問いかけられたことがありました。60代半ばだったと思います。「う~んまだ考えられないわねぇ」と私。仕事を持つ彼女は最期をむかえる3日前まで仕事をしていましたし、死を正面から受け止めすべてを完璧にすませ天国に旅立たれた・・・と当時は思っておりました。少しは大人になれたかしら・・・83歳の私。

娘と一緒に、農園の温室の中のレストランで貴女を偲んでいます。周りには若い女性達の楽しそうな声が響きます。

心に残る旅でした。

そして、素敵な旅をサポートしてくれた家族に感謝いたします。

イギリスの旅・前編

はちみつ色の村を訪ねて

イギリスの中でも、もっとも美しい村といわれるコッツウォルズの村を訪ねる旅をしてきました。

前日まで雨・霧がかかるイギリス的な天候だったそうですが、私が訪れた日から一週間は、嘘のように雲ひとつない晴天に恵まれました。真夏日のような日が続き、街行く人々は女性はノースリーブにサンダル、大きな帽子をかぶり太陽を浴びていました。

”はちみつ色”に輝くライムストーンの家並みのなんと美しいこと。

今回の滞在はヒースロー空港から真っ直ぐコッツウォルズへ。ロンドンから西方へ約2時間のドライブで街に着きます。娘と一緒の旅です。北と南160kmの間を村々が点在しています。村は鉄道とバスで結ばれています。

1日目は、コッツウォルズのアンティークフェアへ。娘は鎌倉で小さなアンティークショップを営んでおり(Floral Antiques)、毎年この時期に買い付けで訪れているので、私は便乗です。

街のフェアは他と違い、プロの為、というより、アンティークの好きな方々がバスケットを持ち近隣の人が多いそうで、おしゃれをして週末を楽しんでいるようです。

2日目からはイギリスに住む息子家族とこの街で合流、孫たちの学校のお休みにあわせての滞在です。

コッツウォルズはかつて羊毛で富を成した人々が暮した村。いつしか毛織物は化繊に取って変わりましたが、その後はロンドンから2時間ほどにあるこの村は、富裕層の別荘地として都会のセンスも入り、美しい新たなコッツウォルズへと変貌を遂げていきます。

そしてその流れも「アーツ&クラフト運動」によるところが大きいです。美術やクラフトの盛んな土地、特に北コッツウォルズは19世紀のデザイナーやアーティスト達が活躍しました。そして、「アーツ&クラフト運動」に賛同する芸術家や工芸家がこの地に移住して保存活動も行われるようになりました。

その中心物的人物が1870年代活躍した作家でありデザイナーでもある「ウィリアム・モリス」です。

粗悪品の大量生産に抗し手工芸の復興運動を主導したモリス。主要産業だった毛織物が衰退し、廃墟と化した村もありましたが、その美しさと貴重さを世に伝えたのもモリスでした。古い建築物がむやみに改修されることに反対し建物は古いままの姿で残され室内を美しい空間にと仕上げています。

現在のコッツウォルズの姿は、モリスの思想とその賛同者たちの活動なしにはなかった思います。

コッツウォルズの語源は「羊の丘」という意味。丘で羊たちがのどかに草を食んでいる風景が広がっています。この郷愁あふれる風景にふれたくて世界中から人々が訪れます。

私達も中心の街に近い家を借りほとんどが自炊でした、(少し長い旅の時は自炊がいいですね。息子たちが炊飯器を持参し、日本からお米を持っていきスーパーで野菜や果物、牛乳などを買いました。イギリスも物価高ですが野菜類は比較的に安定していて、サーモンは美味しく日本より安め。ソーセージも美味しいです。イギリスはオーガニックの食材が手に入りやすく美味です)

お嫁さんと孫娘がルバーブとオレンジのパウンドケーキや私の大好きなスコーンを作り、息子と男の子の孫はバーベキュー。お米を入れたハンバーグは美味でした。

最初に訪れた村
モリスが賞賛した「バイブリー村」。

ウィリアム・モリスが19世紀の中ごろ「イギリスで一番美しい村」と称したことで良く知られている村です。石造りの家はまさに「はちみつ色」。この建物は毛織物の工房として使用されていました。まわりの水辺とともに保存され、その美しさに魅せられ、世界中から人々が訪れます。

白鳥や水鳥が遊ぶコルン川沿いに石造りの家々が緑に囲まれ牛ものんびりしています。
美しい風景です、ほんとうに。

バーフォード村
古くから宿場町として栄えたコッツウオルズの玄関口として栄えた街で、駅馬車の走っていた往時の風景を思い浮かべます。 ”坂の町”として道路の両サイドにはおしゃれなカフェが並び、私たちはピンク色のカフェで伝統的な手づくりのお菓子をいただきました。

楽しみにしていたショップ
「デイルスフォード・オーガニック」

この20年で英国オーガニック市場は大きく進化しているとのことです。「地球のリズムに合わせた調和のとれた暮らしを!」「人も地球も持続可能に」の理念のもとオーガニック農場で作られた食品、ワインなど酒類にお惣菜や野菜、生活用品など等。デザインもおしゃれです。私は、お惣菜のキッシュやお土産の紅茶や布素材のエコバッグなど・・ジャムも美味しかったです。

自分の住む町にこんなショップがあったら毎日通ってしまいそう、アブナイ・アブナイ。

ヒドコード・マナーガーデン
「庭で部屋づくりに精を出した奇人」と呼ばれたローレンス・ジョンストンが40年にわたって造った庭。1948年に彼が寄贈しナショナルトラストの管理下になり植栽で仕切られた小さなガーデンは28区画。

人見知りの主人は、庭を小さな小部屋に仕切り楽しんでいたとのこと。周っているとそれぞれの景色が異なり、四季折々の植物に出逢え嬉しくなります。イギリス人のガーデン好きが感じられ場所です。

ケルムスコット・マナー
いよいよコッツオルズ最後の日は町の中心から車で30分程のケルムスコット・マナーへ。とても楽しみにしていた場所です。

1600年頃、農場として建築され1871年以降は作家でありデザイナーでもある「ウィリアム・モリスとその家族」の隠れ家的別荘となり、モリスが創作の場としてこの家を愛し、愛でた家です。

村の外れの駐車場からは10分ほど村の道を歩いて家に向かいます(歩けない人には6人乗りの小さな電気自動車で)

美的なアプローチです。途中には豚が逃げ出さないように低い石の塀があり、その石の美しいこと。当時モリスが歩いた小路。美しい花々。風が心地よく、モリスはこの村からイマジネーションを得ていたことでしょう。この村に暮らし、いかに自然を愛し、愛でていたことが良く分かります。

一部屋、一部屋の装飾、壁紙、ベットカバー、カーテン、どれもモリスがデザインしただけではなく自ら織ったタペストリーなど、手づくりの温もり、美しい暮らしを体感できることができる家です。

帰りにセント・エドワーズ教会に。 
異世界の扉

教会はとても古く、サクソン時代から建っていたといわれています。
ホビットの扉は北の入り口にあり、イチイの木が両脇を囲む小さな扉は、教会の扉というよりホビット族(空想の世界の妖精)の家の扉のようです。イギリスらしくて素敵!教会内のステンドグラスも数世紀にわたる増改築により様々な様式が築かれたのでしょう。光が射しこみ美しいです。

この日で息子家族と別れ、コッツウオルズの東の玄関口といわれる街に戻り、穏やかな坂道に石造りと木骨組の家々が混在する村のB&Bに泊りました。私はイギリスの田舎のB&Bが好きです。そこには人の暮らしが見え家人との交流が持てます。

そこの主は、かつてアンティーク関係の仕事をしていたそうです。築500年の家の内装を40年かけて変え、増築し、庭は自ら手入れし自然の見事なイングリッシュガーデンへと生まれ変わりました。

入口でまごついていると、前の建物の老婦人が声をかけてくださり、庭を見せてくださったり「しばらくしたら戻るからここで待っていれば」と。ご近所のコミニュケーションも良さそう。何だか嬉しくなってしまいました。

ご主人の案内でまず美しい庭を案内してもらい部屋に入ると”まぁ~ラブリー”と思わずつぶやきました。

私も箱根の家の古民家をリフォームして住んでいます。壊されていくのが切なく「何とか再生を」と願い日本全国の古民家を訪ね12軒分の家をまとめました。

住み始めてやがて50年になります。参考にしたのは、ブラック&ホワイト。イギリスの田舎家を参考に何度も訪ねました。朝食はご主人自ら作り、宿泊客はアメリカからのカップルが二組。ドクターの彼は日本が大好きで何度も訪ねているとのこと。ご主人は偶然日本への旅から戻ってきたばかりのようです。旅先でのこのようなひと時にこころ安らぎ思い出となります。一泊でしたが素敵な滞在になりました。

息子家族とは別れ、私たちはバーフォード村からリンカーンへと向かいます。
続きは次回に。

アンドリューワイエス展

夜明け前、階段を下り新聞を取りに行く。
それが、私の朝の始まりです。

ドアを開け深呼吸をすると”草”の匂いがするのです。
肺の奥深くまでその匂いは届きます。

初めてワイエスの絵に出逢ったとき、この草の匂いがしました。一瞬に魅せられてしまいました。1974年のことでした。それから1987年は三越で。88年は世田谷美術館と記憶しています。その後は仕事や何かと忙しさに紛れ展覧会に行くことができませんでした。バブルの時代にたくさんの作品が日本にきました。

この度、上野の「東京都美術館開館100周年記念」で「アンドリュー・ワイエス展」が開催されています。待ちわびた展覧会ですので初日に行きました。

絵画に出会う前に展覧会の企画者で、ワイエスとは生前親交のあった豊田市美術館館長の高橋秀冶氏の講演を聞きました。氏はワイエスの故郷ペンシルベニアとメイン州の自宅を何度も訪ね交流を重ねてこられたとの事。お話を伺い、私が疑問に感じていたことや、プライベートのお話も伺え有意義な時間でした。

[撮影一部可]

「若い人は作品を見ていないと思います。作品の底流にある「死生観」をぜひ見てほしい」と語られていました。

病弱だった幼少期は通学できなかったため、家庭教師がつけられ他の子どもが学校に行っている間トウモロコシ畑や森を歩きまわっていたようです。人里離れたトウモロコシ畑で静かな雰囲気の中でじっと座っているのが好きな子ども。10代も散策する時間の中で創造の世界にひたり、創造性を育んだようです。

都会に出ることもなく、自分の周りの丘を愛し、身近な人々と交流し、描き続けた作品の数々。

突然の父の死に大きな衝撃を受け、深い喪失感から生まれた作品が私達の心を癒してくれるような気がします。日本人の私達が”自然とともに生きる”美意識につながっているのでしょうか。

友人のクリスティーナの存在はとても大きかったと思います。歩行が困難な彼女は独立心の強い女性です。有名な彼女の絵からどんなことを感じとれるでしょうか。

2026年は、アメリカ合衆国建国250年です。ワイエスは貧しいアフリカ系アメリカ人のコミュニティーに入り込み交流したことが絵画に描かれ心をうちます。

私の好きな絵「薄氷」に逢うことができました。

長年モデルであったクリスティーナが亡くなり、父を亡くして以来の喪失感を抱えていたワイエス。

「沈んだたくさんの葉は自分が重ねた経験や出会った人々を表し、必ずしも死を表すものではない」

と綴られていますが、真冬にクリスティーナが亡くなり、その喪失感が「薄氷」の作品なのでしょうか。

展覧会の最後に知ったことですが、ワイエスは彼女について「クリスティーナは敬いとおそれ」と語っています。会場最後の絵は妻アンナです。窓の外から海の風が爽やかに吹いてきます。

「会場を出ると、夕陽が木立の中を照らし風が心地よく満たされて家路につきました」

展覧会詳細
東京都美術館開館100周年記念
https://www.tobikan.jp/exhibition/2026_wyeth.html

私の小さな旅 『ニコライ バーグマン 箱根 ガーデンズ』を訪ねて

箱根の山も春色に染まり始めました。淡い若草色や薄紅色の霞がかかったように、山がふんわりしています。本当に山が笑っているかのようです。

今朝も、山をゆっくり歩いてきました。小鳥のさえずりが木々の間に、明るく響いていました。山が笑っているように見えるのは、さまざまな色合いの新芽がいっせいに伸びだすからなのかもしれません。

生活の中心であったレギュラーの仕事を卒業し、寂しさを感じたり、抜け殻のようになってしまうかもしれないと少しばかり危惧していましたが、どうやらそれは杞憂でした。

朝4時に起き、掃除やベッドメークを済ませ、7時半に「いってらっしゃい」と学校に行く孫たちを見送りし、山を歩き、新聞を読み、切り抜きをして……一日の過ごし方も、以前とさほど変わりません。

けれど長い間背負っていたものをようやくおろしたような、はりつめたものが溶けていくような……そんな柔らかな時間を今、はじめて味わっています。それがとても新鮮です。

よく晴れた朝、ふと思いついて『ニコライ バーグマン 箱根 ガーデンズ』に足をのばしました。

『ニコライ バーグマン 箱根 ガーデンズ』は、フラワーボックスをはじめとする、スカンジナビアスタイルと和を融合した独自のデザインで花の新たな魅力を紹介し続けている、デンマーク出身のフラワーアーティスト、ニコライ・バーグマン氏が作り上げた箱根・強羅にあるガーデンです。

土地を大切に扱ってくれる人を長年探していた所有者と、この地に魅了されたニコライ氏とが出会い、ニコライ氏になら手渡せるという信頼をかちえ、土地を譲りうけたとか。自然を守ることをプロジェクトの核とし、原生林で覆われていた地を整え、遊歩道やカフェまで、全て自分たちで作ったのだそうです。

長い時をかけてじっくり作り上げられた空間。私の箱根の家とどこかつながる気がして、季節が巡るたびにこのガーデンを訪ねたくなります。

箱根の自然を生かしつつ、ニコライ氏ならではの美しさもいたるところに感じられ、とても美的で、人を癒すような包容力も。

吹く風も心地よく、心が洗われるような気がしました。

旅が大好きで、これまでは仕事の合間をぬって、列車や飛行機に飛び乗っていた私。

これからも、こんな風に小さな旅を、気軽に楽しんでいこうと思います。

出会いは人生の喜び

寒さは残るものの、日差しの明るさに、春の訪れが近いことを感じる候となりました。

この3月をもって、2001年4月から続けてきた『浜美枝のいつかあなたと』(文化放送)のMCを卒業させていただくことにいたしました。

あらゆる分野からゲストをお迎えして、お話を伺う「浜さん家のリビングルーム」、全国各地の農業従事者に、農業や食育の取り組みなどをお話しいただく「浜美枝の良い食とともに」という2つのコーナーで構成されるこの番組を通して、本当にたくさんの素敵な方々に出会うことができました。

ゲストからお聞きした貴重なお話、心に残る多くの言葉は、私の人生の宝物です。

農の現場のみなさまからは、「農業は命そのものである」と改めて教えていただきました。

リスナーから寄せられる葉書やメールを読ませていただくのも、私の大きな楽しみでした。あたたかな励ましのお言葉、番組への感想などに目を走らせながら、リスナーがいつもそばにいてくださる幸せを感じていました。

どんなときも私を支えてくださった寺島尚正アナウンサーには感謝しかありません。番組開始以来ご一緒くださったスタッフの方々にも、大変お世話になりました。

そして番組開始以来、「食の大切さ」を教えてくださったスポンサーのJAグループに、深く感謝申し上げます。

『浜美枝のいつかあなたと』は、私の最後のレギュラー番組です。それが発信者と受け手の距離がもっとも近いメディアであるラジオ番組であったことを、本当に嬉しく思っています。

なにより、私にとってこの番組は、かけがえのない学びの場でもありました。

15歳でバスの車掌として社会に出て以来、67年になります。

16歳で女優としてデビューし、1年に7本も8本も映画に主演していたころ、女優という肩書の重さに押しつぶされそうになり、逃げるようにイタリアに一人旅に出たことがありました。

私が、この世界で働き続けることができたのは、その旅の最中に幸運が重なり、マルチェロ・マストロヤンニとの出会いがあったからです。

片言の英語で、「私は女優の卵ですが、この旅が終わったら女優をやめるつもりです」といった私に、彼はこういいました。

「人を喜ばせるために流す汗の味を、君は味わったことがあるかな?」

人を喜ばせるために。

自分ではなく、人を喜ばせるために。

マストロヤンニのこの言葉を心の中におさめ、行き詰ったり壁にぶつかったりしたときも気持ちを奮い立たせて、これまでやってきました。

映画『007シリーズ』に抜擢され、やり切ることができたのも、ワイドショーのキャスターやNHKの「日曜美術館」の司会に挑戦できたのも、そのおかげかもしれません。

振り返ると、どの時代も緊張と興奮、感動の連続でした。大変なこともありましたが、ひとつひとつの仕事が、私の目を開き、心を耕し、人生を豊かなものにしてくれました。

番組は終わっても、人生は続きます。

さあ、4月からどうやって暮らしていきましょうか。

時間に追われることなく、丁寧に料理をするのも楽しそう。庭の木々と会話しながら、草をひいたり、落ち葉を集めたり。いつか読もうと思っていた本もたくさん。

穏やかに自分らしく歩んでいきたいと思います。

そして日々、新しい自分と出会いたい――

出会いは、人生の大きな喜びなのですから。

ラジオスタッフの皆さんと

子供たちから

これからの私を支えてくれるもの

仕事机のパソコンの横に、1枚の絵を飾っています。高校生だった長女が描いた絵です。真っ赤なチューリップが添えられ、バッグを持ち、ハイヒールをはき、闊歩している私が切り絵のように描かれています。

仕事と4人の子育てを両立させるために、いつも駆けるように暮らしていた時代。その絵を見ると、当時の私は子どもたちの目にこのように映っていたのだなあと感じるのと同時に、そのころの子どもたちの姿を思い出さずにはいられません。

限られた時間の中であれもこれもやろうとしていた私を助け、上の子は下の子たちの面倒をよくみてくれました。

おかげさまで、子どもたちはそれぞれの生き方を探し、独立してくれました。普段はつかず離れずであってもさりげなく私を気遣ってくれ、ありがたいことに、きょうだいも仲良く思いあってくれています。

私を親にと育ててくれた子どもたち。

この絵を見るたびに、過ぎし日への感謝と、幸せな気持ちが胸にあふれます。

絵にあったように、おしゃれをして出かけるときはハイヒール派だった私ですが、70歳になるちょっと前から、その出番が徐々に減っていきました。雨の日に足を滑らせて怖い思いをしたこともあり、これからは歩きやすい靴がいいと思い始めたのです。

そして『アルカ』の靴と出会いました。良いお店があると聞いて訪ねてみると、足と靴の知識を持ったカウンセラーが靴を選び、さらに私の足に合わせて細やかな調整を重ねてくれました。

はいていることを忘れるほどの心地よさでした。

以来、私の靴との付き合い方が変わりました。

振り返ると、若い時は、私にとって靴はおしゃれのひとつのアイテムでした。旅に出るようになり、とにかく歩きやすい靴を探すようになりました。

そして今、私の足元を守っているのは『アルカ』の靴です。この時期に愛用しているブーツ、山歩きになくてはならないウォーキングシューズ、ドレッシーなファッションをひきたててくれるフラットシューズ……。

ダメージが生じれば修理を頼むことができます。長くはいて型崩れしたものや古くなって薄くなったインソールは、職人さんが丁寧な手仕事で、よりはきやすく美しい状態に甦らせてくれます。はきつぶして終わりではなく、一足一足が生涯、私に寄り添い続けてくれるものとなりました。

いくつになっても自分の足で歩きたいと思います。箱根の山を歩き、山と空に抱かれながら、緑の空気を呼吸し、風や小鳥のさえずりに耳を傾ける……そんな日常を、あの店に行けば私の足を守ってくれる人がいるという安心感が支えてくれています。

私らしく暮らすために欠かせないもの――外に向かう私に必要なものが靴だとしたら、家の中では一人用の椅子でしょうか。

ゆっくり寛げる椅子、ひとりの時間を心地よく過ごせる椅子をずっと探していました。

 そうなると、各地の工房を訪ね歩き、職人さんと話をし、座り心地、佇まい、デザインなどを見て回らずにはいられなくなる私ですが、これだというものに巡り合えずにいました。

そしてあるとき、はっとしました。十数年前に我が家に迎えたお客様用の椅子、黒革の一人用の椅子を、とても気に入っていることに、改めて気づいたのです。

スケジュールをやりくりし、その工房とショールームを再び訪ねました。飛騨高山の駅から車で15分ほど走ったところ、澄んだ空気と深い緑に囲まれ、アルプスを望む大自然の中に、『キタニ』の工房とショールームはありました。

デンマークのデザイナーのデザインした家具を飛騨の職人さんの手で作っている『キタニ』。ショールームには、キタニの家具をはじめ、リペアしたヴィンテージ家具がゆったりと展示されていました。素敵なショールームで寛ぎ、工房では職人さんの話をお聞きし、作成する姿をじっくり見せていただきました。

デパートにも都会のショールームにもたくさんの家具が並んでいます。デザインや質感の良しあしはそこでわかりますが、私にとってはそれらの道具がどんな人がどんな思いで作っているのかということも、とても大切なこと。できる限り、工房をお訪ねし、作り手と会うようにしているのです。会えば、手仕事の豊かさをよりしっかりと感じることができます。作り手の思いを知れば、作り手への敬愛とともにその道具を愛することができます。これもまた、民芸の教えかもしれません。

『キタニ』の工房で感じた職人さんの誇り、愛情を持ち真摯にものづくりに向かう姿に心打たれました。この人たちが作った椅子がほしいと切に思いました。

それから一か月。 
真っ赤な一人掛け用の椅子が私の部屋に届きました。

大好きな赤。包み込まれるような座り心地。何より作り手のぬくもりが感じられる椅子です。

この椅子のおかげで、ひとりの時間がより豊かになった気がします。

椅子に座り、映画や旅の番組を見るようにもなりました。かつて見た映画を見直して、当時は気づかなかった視点を見出したり、いながらにして旅をしている気持ちを味わったり。ただ瞑想しているときも、とても新鮮です。

これからの私と共に時を重ねていく椅子。その椅子に座り、過ごす家の時間も、大事にしていきたいと思います。

椅子を探すのは、私にとって、まるで宝物を探しているようなわくわくする時間でした。なかなか見つからない、その道程さえも楽しいのです。今回も各地で素晴らしい職人さんたちに出会うことができました。かつて『八木治郎ショー』の『手づくり旅情』というコーナーで、職人さんのものを作る手元を映像で残したいと、スタッフと共に全国の職人さんを訪ね歩いたことを、その道中にふと思い出しました。末の子を産み、復帰初の仕事でした。テレビの全盛期、良き時代にスタッフに恵まれ、心に残る仕事ができたことをありがたく思います。

㈱アルカ 〒170-0013東京都豊島区東池袋2-15-5

*㈱キタニ 〒506-0034岐阜県高山市松倉町2115番地

新年に寄せて

生きることは ひとすじがよし 寒椿

                  五所平之助

新しい年を迎えました。
いかがお過ごしでしょうか。

 人々が安心して暮らせる一年になりますように。
 子どもたちの笑顔があふれる一年となりますように。
 そう願い今年も箱根神社に手をあわせてまいりました。

今年は昭和101年にあたります。

生まれて二年後に終戦を迎えた私は、あの戦争が経て、世界は変わっていくと思っていました。人々が知恵を出し合い、互いへの理解を深めていけば、やがて争いは減り、平和な世界を築くことがきっとできるだろう、と。

けれど、世界では今も多くの対立が残り、人々が苦しんでいます。多様な人種・価値観を持つ人々との間に生まれた断絶、意見が異なる相手を悪とみなすことで深まる社会的亀裂、各地で起きた戦争や武力衝突により多くの都市が破壊され、犠牲者と避難民が急増し、深刻な人道危機が続いています。いかに文明が進んでも、人の心が追いつかなければ、人々の声を聞こうとしなければ、争いはなくならないのかもしれません。

そんな思いで心がざわざわしたとき、民藝研究家であり思想家であり宗教家でもあった柳宗悦先生の言葉が、私の耳の奥に響くのです。

『ものを作る人に美しいものを作らせ、ものを使う人に美しいものを選ばせ、この世に美の国を作ろう』

中学二年生になったばかりの放課後、いつものように図書館に行き、手に取った一冊。今では題名さえ定かには覚えていないのですが、その本の中に柳先生のこの言葉がありました。

家が貧しく高校への進学が許されなかった私は、心の芯となるものを懸命に探していたのかもしれません。柳先生のこの言葉がひたひたと胸に広がり、私を満たしてくれるかのようでした。以来、この言葉は私の生きる指針となりました。

人々ひとりひとりが美しい暮らしを志せば、きっと美しい世界、美の国を作ることができる――。 82歳になった今も、私はそう信じています。

先日、久しぶりに駒場の『日本民藝館』に行ってきました。日本民藝館は1936年に柳先生によって創設された、民藝運動の拠点となる美術館です。何十回と通い、そのたびにすみからすみまで見てきた、私にとっては懐かしい場所でもあります。

いつものように、階段をあがったところにある長い腰かけに座って、美しい道具が存在する温もりのある空間を味わいながら、柳先生は、私を導いてくれた大切な心の師であると、改めて感じいりました。

私が、民芸をめぐる旅に出るようになったのは、20代に入ってまもなくのことでした。それから民芸がつないでくれた、言い尽くせないほど多くの、かけがえのない出会いがあり、たくさんの学びがありました。

『沖縄こそが日本の民芸のふるさと』という先生の言葉に導かれ、まだパスポートが必要な沖縄にも通いました。焼きもの、織物など、用の美の美しさに触れ、作り手や使い手のお話を聞き、そこで終生の手本と仰ぐことができる与那嶺貞さんにも出会うことができました。

与那嶺さんは、かつて琉球王府の御用布であったにもかかわらず近代化や戦争により、技法は失われ、幻の織物となっていた『読谷山花織』を復元させた女性です。貞さんは夫を第二次大戦で失い、三人の子とともに戦火の沖縄をなんとか生き延び、55歳で民族の誇りである花織の復元に着手。見事に花織を再興し、後継者の育成も行い、国の無形文化財にも指定されました。

「浜さん、女の人生はザリガナ(もつれた糸のようなもの)よ。でも丹念にほぐしていけば、美しい花のヤシラギ(布)をウイルサビル(織ることができる)」

美しい琉球言葉で歌うように語ってくれたこの言葉に、私は何度、励まされたことでしょう。

柳先生と浅川巧氏の、朝鮮の民衆工芸をめぐる深い共鳴と友情に感動し、朝鮮の人々の暮らしに深く入り込み、生活者としてその美を体感した浅川氏にならいたいと、韓国にアパートを借り、市場で買い物をし、地元の人とともに銭湯に通いながら、浅川氏の足跡を追ったこともありました。日本と韓国を10年往復しながら、浅川氏の墓を詣で、浅川氏を今も慕う人々と出会い、貴重な話を聞かせてもらうこともできました。朝鮮の美と、人々の暮らしの結びつきをも肌で感じることができた貴重な体験でもありました。李朝の美を愛する彼の地の友人もでき、今も家族ぐるみのおつきあいを続けています。

長年、民芸に私なりに携わってきて、思うことがあります。

歴史も文化もそれぞれの国で異なっても、人は互いの美を認め合うことができるということ。美しいと感じることで、心が開かれるということ。こうしたささやかなことの積み重ねで、人は理解を深めていくことができるということ。

日本民藝館には日本人のみならず、多くの国の人が訪れていました。 美しいものを通して、人の心にたくさんの美の種がまかれ、美の国が少しでも広がっていきますようにと、願わずにはいられません。 

12月に思うこと

赤ん坊を前抱きにしている若いお父さんを、町でよく見かけるようになりました。小学校の入学式や運動会に揃って出席するご夫婦も増えています。

男性が外で働き、女性は専業主婦として家庭を守るという家庭のモデルは、「男女雇用機会均等法」(1985年)、「男女共同参画社会基本法」(1999年)など法制度の整備にも支えられ、劇的に変化しました。共働き世帯が増加し、育児休業の取得や女性管理職の登用なども進んでいます。子育てをしながら働く環境がちゃくちゃくと整えられつつある現代。本当にいい時代になったとしみじみ感じます。

私は25歳で結婚し、四人の子どもに恵まれました。あのころ、女優が出産どころか、結婚することさえ珍しかったのですが、私は自分のキャリアだけでなく、切に自分の家庭がほしかったのです。大きなお腹でワイドショーのキャスターを続けていたときには、応援してくれる人もたくさんいましたが、こんな姿で人前に出た女優ははじめてだといわれたりもしました。実際、そうだったのだと思います。

子育てに夫の手助けは期待できませんでした。それは私に限ったことではなく、「家のことに支障がないようにできるなら働いてもいいよ」といってくれるのが、理解のある夫といわれた時代でした。

仕事が終われば、冷蔵庫に残っているものを思い浮かべ、夕飯は何にしようかと考え、車を走らせ、駐車場に車をとめるやいなや走って台所に飛び込み、着替えもせずに、ガスに鍋をかけ、とりあえずお湯を沸かす……。実の両親や面倒見のいい長女の助けを借り、何より子どもたちの笑顔に励まされながら、なんとか乗り切った日々。母子ともに丈夫で幸いでした。

子どもたちとは忘れられない時間をたくさん過ごしました。

うちに迎える古民家を探しているときには、車に布団も積み込み、中でお昼寝をさせながら、日本中を走り回りました。岩手の遠野に連れて行ったときには、語り部のおばあさんが、河童や座敷童がでてくる民話を次から次に聞かせてくれ、子どもたちは目を輝かせてその世界を味わって……夢中で聞き入る子どもたちの姿にも、私の胸が熱くなりました。

ダムに沈む新潟県の北部・奥三面の夏も、子どもたちと一緒に過ごしました。この村の暮らしを映像記録に残そうとした姫田忠義先生に同行させていただき、私も3年間22回通った奥三面の最後の夏でした。清らかな谷川で子どもたちが若鮎のように泳ぎ、はしゃぎ、あっという間に真っ黒に日焼けして。村のおばあさんおじいさんには自分の孫のようにかわいがっていただきました。村の最後の夏。四人の子どもたちのおかげでにぎやかでよかったといっていただいたことも忘れられません。

箱根の家を建ててからも、子どもたちがいたからこそ、楽しくおもしろい時間を過ごすことができました。ガスがなかなか通じず、キャンプのような暮らしが続いたこともありました。寝袋で寝たり、外でご飯を炊いたり。息子が釣ってきたブラックバスをどうにかして美味しく食べ切ろうと、みんなで奮闘したことも。

子どもたちに伝えたいと、我が家ならではの四季の行事も大切にしてきました。たとえば大晦日、おせち料理のお煮しめを作り終えると、急いで人数分の巻き寿司を作って、家族そろって一本ずつ食べるという習慣。伊勢出身の母によると、この太巻きを食べることで、その年の厄払いをして、新たな福を呼び込むことができるといういい伝えがあるのだとか。

日が変わるころに、家の電気を消し、和蝋燭を灯し、囲炉裏の神様に感謝を捧げ、火種に灰をかぶせ、新年を迎えると、飛騨から取り寄せた豆ガラに火を移し、「今年もマメで元気で暮らせますように、不滅の火のように頑張れますように」と願うのも、我が家流です。箱根の家に暮らしはじめて数年後の大晦日の晩に停電になって、その深い闇に驚き、以来、1年に1度、大晦日の晩の数十分を、電気を消し蝋燭の灯りで過ごすことにしたのでした。

ひたすら仕事に没頭しつつも、精一杯やれることはやってきたとは思います。それでも振り返ると、子どもたちには寂しい思いをさせたのではないか、もっとしてやれることがあったのではないかという思いは消えません。

年の瀬は、これまでの日々を反芻する季節なのでしょうか。

12月は、家族や支えてくれる人を思う月なのでしょうか。

年を重ねていく私を、今は子どもたちがさりげなく見守ってくれています。そのあたたかなまなざしに包まれていることがわかるから、老いの階段をのぼるのも怖くないのかもしれません。

今年もありがとうございました。

家族に、そして私を支えてくださるすべてのみなさまに、心より感謝いたします。

自然と人。

―箱根の山、そして庭―

すとんと秋がやってきました。日中は温かくても、箱根では朝晩に暖房が必要になりつつあります。

雨上がりの青天の早朝、思い切って仙石原に足を延ばしました。標高約700m、台ケ岳の北西の山裾に広がる仙石原は、ススキの名所です。斜面を覆い尽くす様に広がる一面のススキ。朝日を浴び、きらきらと金色に輝き、風が吹けば大海原の波のように揺れ、うねり……息をのむような風景でした。

その足で、湿性花園に向かいました。こちらは湿原・川・湖沼などの水湿地に生育する植物を中心に、実に多くの草花がそれぞれの植生にあった場所に美しく配された、日本で初めて作られた湿生植物園です。

仙石原と湿性花園には、まだよちよち歩きだった子どもを連れてきたこともあれば、子ども一家と孫の手を引き遊びにきたこともありました。どちらも毎年、春と秋にお訪ねせずにはいられない、私にとって大切な場所です。

平日でもあり、開園時刻を待ち、入場したこともあり、私のほかにいらしたのは一組のカップルだけという贅沢さ。まず、今開催中の秋の山野草展に。可憐でありつつも、園芸種にはない力強さを感じさせる山野草の数々に力をもらい、それからゆっくり花園全体を味わいました。

園路は、低地から高山へ、初期の湿原から発達した湿原へと植物の生態系の流れを感じながら歩ける構造になっているのだそうです。木製の園路を歩きながら、さまざまな植物の生命力、そして大自然の息吹が体いっぱいに流れ込んでくるような気がしました。

途中、ベンチに腰をおろしていると、植物の手入れをなさっているスタッフの方々の姿に気づき、はっとしました。人工的な美しさではなく、自然にある命の姿が見られるということで知られる湿性花園ですが、ありのままの姿を伝えるためには、人の手も必要なのだと改めて気づかされました。

仙石原のススキにも、実は人の手が入っています。毎年、3月、山焼きが行われているのです。そのまま放置してしまうと、樹木が侵入して雑木林になってしまうのだとか。

自然と人との関係は、興味深く、本当におもしろいものですね。

箱根の我が家は山の中にあります。

けれど、40年前、私が手に入れたのは、平らな造成された土地でした。それを元の姿に戻したいと、役所に通い、本来の地形がどうだったかを調べ、盛り土をしたのでした。盛り土が落ち着くまで数年という時間が必要でした。

ですから、この庭に植えるのは、箱根の山に生えている植物だとも決めていました。業者に頼めば簡単なのに、山に車を走らせ、地主さんをみつけて、この木を譲ってほしいと頼みこみ、了解が得られれば「根回し」(移植する前に根を切って木の細根を再生させる作業)をし、根が再生したのを確認して翌年、移植し……そうして集めた何十本もの樹木で庭を造りました。庭木すべてを植え終えるまで5~6年はかかったでしょうか。

ヤマボウシ、ハコネバラ、モミジ、ヤマザクラ、サルスベリ、シャクナゲ、ツバキ、ハナミズキ……。

今では、どの木も気持ちよさそうに大きく育ち、まわりの山と自然になじんで、古民家を再生した我が家をぐるりと取り囲んでいます。

花園とは比べようもありませんが、それぞれの木や草花を生かすために、これまでの季節は雑草とり、これからは落ち葉掃除が欠かせません。それも含めて、木々に囲まれた庭がこのごろ、いっそう、いとおしく思えてきました。

仙石原と湿性花園に行き、もう一度、庭としっかり向き合いたいという気持ちが、湧き上がってきたような気がします。

箱根の紅葉は例年11月中旬頃が見頃です。白い帽子をかぶった富士山と、山々の綾錦をどうぞ楽しみにいらしてください。