少女は本を読んで大人になる

箱根はすっかり秋となり、朝夕は上着がほしくなりました。
みなさま、お元気でお過ごしでしょうか。
ご無事でいらっしゃいますか。

夏過ぎから相次いで、豪雨や台風が日本列島を襲いました。大きな被害を受けた地域も広く、心配しております。

万が一被害にあわれた方がいらっしゃいましたら、心からお見舞いを申し上げます。一日も早い復旧をお祈りしております。

先日、クラブヒルサイド主催【読書会 少女は本を読んで大人になる】で、私の読書体験をお話する機会をいただきました。

いつもそばに本を置き、今年3月までは四半世紀に渡り、ラジオにお招きするゲストの本だけでも月に10冊以上読み続けてきました。

今回、このお話をいただいたとき、改めて自分と本の関係を考えるよい機会だと思い、お引き受けしました。

その会でお話したことをまとめました。ご一読いただけたら嬉しいです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【今、私たちが宮本常一を読むということ~~遺したいもの、伝えたいこと】

取り上げる本・宮本常一著『忘れられた日本人』(岩波文庫)

今はネットで簡単に本が手に入る時代ですが、私は本屋さんが大好きです。本屋さんの中に立っているだけで、たくさんの本のささやきが聞こえてくるような気がします。どの本も晴れやかな表情をしているような気もします。

私は戦後のもののない時代に育ちました。家も両親が営んでいた工場も戦火の中で焼けてしまい、終戦後は日々を生き抜くことで精いっぱいで、実をいいますと、一人娘の私のために、本を買う余裕もなかったんです。それは我が家だけではなく、そういう時代でもあったのだと思います。

私が当時住んでいたのは川崎の下町で、学校への通学路の途中の、商店街の中に、小さな本屋さんがありました。その近くには貸本屋さんもありました。当時、本は高価で、庶民はなかなか買えなかったんですね。貸本屋は一冊十〜二十円で数日間貸してくれるというお店で、それを利用する人も多かったんです。

でも、本屋さんの店先に発売されたばかりの中原淳一さんのきれいなイラストが表紙をかざる雑誌『それいゆ』などが並ぶと、ほんとに素敵でまぶしくて。子ども心にきれいだなぁと憧れて、通り過ぎていたことを、今でも覚えています。

私にとって本との出会いは、本屋さんでも貸本屋さんでもなく、学校の図書室でした。でも、女の子がたいてい夢中になる、いかにも少女らしい本、たとえば「小公女」ものや「赤毛のアン」「若草物語」といったものに、私はのめりこむことがなかったんです。

それはたぶん、当時の私の置かれていた環境と関係しているのかもしれません。

我が家はさきほど言いましたように戦災ですべてを失い、物心ついた時は長屋住まいでした。木のリンゴ箱をふたつ並べて、そこに一枚の藍の布をかけたものが食卓でした。近所で摘んできた野の花を飾るのは、花瓶ではなく、父が晩酌に使う徳利や背の高い湯飲み茶わんでした。ないものは、母や祖母が創意工夫して、それで日々の暮らしが成り立っていたのです。

共働きの両親はとても忙しくしていましたから、小学校に入る前から家事の多くは私の役目でもありました。一日三十円の生活費を渡され、それでおかずの材料を揃え、ときには数日節約したものをまとめて少し高い魚を買ったり……小さな私がやっていたんです。

みんなの台所を預かることは私にとって誇らしいことでもありました。

かまどでご飯を炊き、洗濯板で洗濯をして……。でも子どもらしく過ごしてみたい、夕方まで思い切り遊んでみたい、そして「ご飯よ」と母親に名前を呼ばれてあわてて家に帰ってみたい……そんな風に、たまには親に甘えてみたい……。

そうした思いもあったからでしょうか、かまどの火をみつめているうちに唐突に泣いてしまったこともありました。まだ小学生ですものね。子どもや孫とともに暮らすと、小学一年生って本当に小さいんですよね。

みんなが必死に生きていたという時代のめぐりあわせもあり、子どもが親を手伝い、家のなんらかの役割をになうことは珍しいことではなかったとは思いますが、小さいころから私、がんばってきたんだなと思ったりもいたします。

中学に入ると、私はバスケットボール部に入りました。そして部活がない日の放課後は図書室で過ごすようになりました。本が読みたくてたまらなくなったんです。

石井桃子さん訳の『くまのプーさん』と出会ったのは、中学一年生の秋ころでしょうか。上品でかわいらしいイラスト。そして、自分の足りなさを知りつつ、精一杯頑張ろうとするプーさん、そんなプーさんを見守り助ける、本当は自分もまた小さな坊やであるクリストファーロビンの物語でした。一匹とひとりのその純粋な友情と思いやりに胸があたたかくなると同時に勇気をもらった気がします。

ちょっと時代は飛びますが、大阪とロサンゼルスを結ぶパンアメリカン航空の太平洋横断直行便が就航したのは、1962年のことでした。女優となっていた私はその一番機にのせていただき、ロサンゼルスのディズニーランドに行かせていただきました。そのとき真っ先に買ったのが、くまのプーさんの大きなぬいぐるみ。そのプーさんを抱えて帰ってきたんです。今もそのプーさんを私の家にかざっています。

 『星の王子様』に出会ったのもそのころです。これはご存じ、砂漠に不時着したパイロットとそこに現れた「星の王子さま」との交流を、パイロットの語りで描かれたものです。何度も読みました。読むたびに自分にとって大切なものはなんだろうと考えました。

 星の王子様の星に咲く一輪のバラへの王子様の思い。

 砂漠の夜に星がさえざえと輝く美しさ。王子様の孤独。

 「たいせつなことはね、目に見えないんだよ」という星の王子様の言葉は、私の道を照らす灯のようなものになりました。

そして十四歳、中学二年生になったばかりのあの日の午後……いったいなぜその本を選んだのか、題名さえも定かには覚えていないのですが、その本を書いた柳宗悦という人の「ものを作る人に美しいものを作らせ、ものを使う人に美しいものを選ばせ、この世に美の国を作ろう」というフレーズに心打たれ、その言葉が脳裏から離れなくなってしまったのでした。そして柳宗悦という人についていこう、この人を先生にして私は生きていこうと、一瞬にして決めてしまったんです。

ちなみにこの年代の子どもたちは、森鴎外や夏目漱石、川端康成、世界文学ならシェイクスピアやアガサ・クリスティー、マーガレット・ミッチェル、シャーロット・ブロンテなどに夢中になるのではないかと思うんですが、私はそうした文学的な本は手に取りはしたものの、どっぷりはまることはなかったんです。

先ほど、母や祖母の創意工夫で日々の暮らしが成り立っていたと申し上げましたが、私は貧しいながらも季節の移ろいに歩調を合わせた暮らしというものに早くから興味がありました。それで、文芸的方向ではなく、柳先生の示す民芸の美といったものへ導かれたのではないかと思うんです。

ひな祭りには紙で折ったひな人形を飾り、七夕には近くで切ってきた笹に願い事を書いた短冊をさげ、お月見には父の徳利にススキを飾り、お正月には重箱に色とりどりのお節料理を作って詰めて。といった当時の私の暮らしの先に、民芸があったということなのだと今では思っています。

私は中学を出ると、あの頃、男性と同等のお給料をいただける職業という理由でバスの車掌になりました。中卒で三年間勤め上げると、試験を受けて、高卒と同じようにバスガイドになれるというのも魅力でした。バスガイドになれば日本中、旅することもできる。お給料も順調にあがっていけば、親に頼らずに生きていけると弾むような思いでした。

でも友人に誘われ撮影所見学に行ったところスカウトされ、十六歳で映画会社東宝のニューフェースに合格して、右も左もわからないまま、新人女優と呼ばれるようになりました。仕事は次から次に舞い込みました。けれど、次第にスターのように扱われていく自分に、喜びや嬉しさよりも、むしろ後ろめたさを感じていたんです。

十五歳から十六歳、わずか一年ちょっとの間に人生が一変したのですから、とまどいも大きかったんでしょう。

悩んだ末に、とにかく大好きなイタリア映画の本拠地に行ってみようと、そういうところが私の直線的なところなのですが、……とにかくひとりでローマに飛んでしまったんです。十八歳でした。

たまたまローマではマルチェロ・マストロヤンニさんが劇場で芝居をやっていました。私は毎日、一番安い桟敷席に通いました。一週間通ったとき、顔を覚えてくれた切符切りのおばさんがマストロヤンニの楽屋に案内してくれたんです。芝居を終えたばかりのマストロヤンニは、噴き出る汗をぬぐいながら、女優の卵だといった私に、「ほらこの僕の汗をみてごらん。人に喜んでもらうほど汗をかけるということはとても幸せなことなんだ」といいました。

たわいないと思われるかもしれませんが、私はその言葉で吹っ切れたんです。女優も労働者なんだと思ったからでした。としたら、私は人々に感動を与える労働者でありたい、女優としてもう一度、懸命に、汗を流して働いてみよう、と。

二十代に入ると、ひたすら思い続けていた柳宗悦先生の足跡を追って、日本の民芸を訪ね歩く旅をはじめました。

柳先生が武者小路実篤や志賀直哉とともに雑誌「白樺」を創刊したと知ると、白樺派の文学をも読み漁りました。 また、陶芸の浜田庄司やバーナード・リーチ、河井寛次郎といった人々とともに民芸運動を提唱したと知ると、そうした宗悦先生ゆかりの先達の生き方や世界に触れた本にも手を伸ばしました。

その中で、私は宮本常一さんに出会ったのです、宮本さんもまた、若い頃に民藝運動に参加し、その才能を柳さんに高く評価された方でした。

「民の道具の美」を見出したのが柳さんなら、「民が生きるということ・そこにある美」を見出し、すくい上げたのが宮本さんといっていいかもしれません。

ここでご紹介する『忘れられた日本人』は宮本さんが一九二〇〜五〇年代にかけて日本各地で出会った古老たちの語りを記録したものです。

村の古文書を宮本さんに貸すかどうかを丸一日かけ、参加者全員が納得するまで話し合う対馬の寄り合い。ときに下世話な話もまじえつつ自分を解放し、笑い飛ばしながら、田植えという重労働にあたる周防大島の女たち。欲望や弱さを隠すことなく、多くの女性との関係を語る土佐の盲目の元馬喰の老人……。

初めてこの本を読んだ時、貧しく過酷で、ときには残酷ともいえる環境にありながらも、泥臭く、明るく強く生きる、生命力に満ちた人々の姿に衝撃を受けました。

そして、私たち日本人の根っこはここにあるのではないかと、じわじわと胸に感動が広がっていきました。

それから何度この本を開いたでしょう。生きづらさを感じたとき、壁に行く手を阻まれたとき、泣き言をいいたくなったとき、あるいはただ何気なく本に手を伸ばしてページを開いて……いつもこの本は私の心をゆさぶり、生きていく力を与えてくれました。

宮本さんのこの本にも背中を押されて、私の旅への思いはいっそう強くなりました。ときは高度経済成長時代。古いものがどんどん壊され、道が作られ、新建材の家が際限なく作られていく時代でした。

それだからこそ、消えゆく、あるいは消えてしまうかもしれない、でもそれは確かに今の自分たちにつながっている、そんな日本の暮らしや文化をこの目でしっかりと見ておかなくてはならないと、何か使命感のようなものさえ私は感じていたのかもしれません。

私の旅は、私にとっての、忘れられた日本人探しでもあったのだと思います。

旅では数えきれないほど多くの人に出会いました。多くの素朴な道具にも出会いました。そのひとつひとつが忘れられない貴重な記憶ですが、中でも鮮やかに私の胸に刻まれている三つの出会いを、ここでご紹介したいと思います。

まずは沖縄の出会いを。私がはじめて沖縄に行ったのは、まだパスポートが必要な時代でした。柳先生の「沖縄こそが日本の民芸のふるさと」と記されていたので、何が何でも沖縄にいってみなければと勇んで出かけました。私は二十代でした。

はじめて尋ねた沖縄では目にふれるものひとつひとつが宗悦先生の言う「用の美」であふれていました。陶器、籠、布、道具……、そうしたものを作る人や、それらを使って暮らす人に会い、話を聞いてまわりました。

そして出会ったのが与那嶺貞さんという女性でした。

かつて沖縄には琉球王府の御用布に指定された花織という織物がありました。けれど、その工芸の複雑さから織り手がいなくなり、その伝統が途切れてしまっていたのです。

貞さんは、戦後の昭和三十九年、村に残されていた、たった一枚のちゃんちゃんこを頼りに花織の復元にとりかかった方なんです。

ご存じのように、沖縄は第二次世界大戦で日本の盾となりました。

貞さんはご主人を出征先の戦地で亡くされ、ご自身も三人のお子さんを抱え、戦火の中を逃げまどい、なんとか生き延びて終戦を迎えたと言います。そのとき、貞さんは三十五歳。花織の復元にとりかかったのは、女手一つでの子育てを終えた五十五歳のことでした。

「泣けるほど生易しい人生じゃなかった。もう涙も出ないという毎日だったから、でも私と子どもたちの助かった命を、何とか生きさせんとね」という思いで、貞さんは生き抜き、そして花織が国の無形文化財に指定されるまで見事に復元されました。

「浜さん、女の人生はザリガナ(もつれた糸のようなもの)よ。でも丹念にほぐしていけば、また美しい花のヤシラギ(布)をウィルサビル(織ることができる)」

戦中戦後の苦境を耐えて生き抜いた女たちは、みな、貞さんのようにそうした言葉で自分を励まし、希望を紡ぎ続けて来たのではないでしょうか。

次に、新潟県の北部、奥三面という集落で出会ったおばあさんのことを紹介させてください。

奥三面は、治水と電源開発の名のもとに、一九六〇年代、ダムの底に沈むことが決まった集落でした。この村の暮らしを姫田忠義先生が映像記録として残そうとしていると知り、姫田先生にお願いして、私も同行させていただき、私はこちらの集落に三年の間に、二十二回通いました。

一九八五年にいよいよ閉村となり、村人が全員退去すると決まった、最後の夏には、子どもたちも連れていきました。清らかな谷川で、子どもたちが若鮎のように泳ぎ、はしゃぎ、あっという間に日焼けして、村のおばあさんおじいさんには自分の孫のようにかわいがっていただきました。村の最後の夏。四人の子どもたちのおかげでにぎやかでよかったともいっていただきました。自然に生かされた村でした。閉村式、村の最後の日にも私は立ち会わせていただきました。

伊藤きいさん
当時七十四歳だったおばあさん、みんなきいばあちゃんと呼んでいました。

奥三面では、昔は、お宮参りの前になくなった赤ん坊や早産で亡くなった子を、お墓ではなく、牛小屋馬小屋の下に祭ったということを私に教えてくれたのは、きいばあちゃんでした。家族が寝静まったあとに、母親たちは我が子を慰めるために牛小屋馬小屋に通ったのだそうです。きいばあちゃんもそのひとりでした。

「村が沈めば、子が祭ってある牛小屋馬小屋も、精魂込めて作ってきた田んぼもなくなってしまいますね」と、私がいうと、「子どもたちの幸せのためなら我慢するとよ」とひとことおっしゃってきいばあちゃんは私にうなずきました。

その言葉が温かく優しく、重く深く。今もその少しかすれた声とともに、私の耳の奥に残っています。迎えに来た息子さんの車に乗って、きいばあちゃんは静かに村を去っていきました。

その後に行われた遺跡調査では旧石器時代からの遺跡(奥三面遺跡)が発掘され、旧石器時代からこの地に人の営みがあったことがわかりました。大昔から人々が自然と折り合って人々が暮らしてきたその地は、今、水の底に沈んでいます。

最後にご紹介するのは、岐阜県高山市荘川町にある四方を山に囲まれた御母衣ダム湖畔の展望台にたたずむ二本の老いた桜・荘川桜にまつわる物語です。樹高、約二十メートル以上、幹まわりは約六メートル、樹齢四百五十年の見事な、アズマヒガンザクラという名の桜です。

この桜は、今は湖底に沈んでいる照蓮寺と光輪寺の境内にあったものでした。

ダム建設に際し、電源開発株式会社の初代総裁であった高碕達之助(たかさき たつのすけ)さんという方が、移住を余儀なくされる住民の心の支えになるようにと、桜の移植を計画したといいます。そのために日本古来の山桜・里桜の保全活動に生涯を捧げた笹部新太郎さんが、世界の植樹史上例のない巨桜のこの大移植を指揮しました。

この桜のことを知り、桜の季節に足を延ばしたとき、その満開の桜の下でおばあさんたちがおにぎりや卵焼きを広げていました。おばあさんたちはダムに沈んだ村に住んでいた人たちでした。

「村を出て私たちは住むところもばらばらになってしまったけど、花見の時には一緒に来るの。桜が残ってよかったよ。きれいでしょう。見事でしょう。村自慢の桜だ、村の宝だったんだよ。さ、これよかったら食べて」

そういっておばあさんたちは私にもおにぎりを分けてくださったんです。

その後も、何度か桜を見にまいりました。最初のころは桜の下に敷きものを広げられましたが、今は桜の保護のためでしょうか、チェーンで木が囲まれ、入れないようになっているようです。

桜の移植に奔走した人、桜を自分の村の宝だと思い、桜の季節にはその地を離れていても戻ってくる人、桜の力強さと、桜をいとおしむ人たち、あのときのおにぎりの味……そのすべてがこの桜の記憶なのだと思い、ご紹介させていただきました。

こうしてお話していると、撮影のわずかな合間にも汽車に飛び乗り、各地の道具に、人々に会いに行ったことが走馬灯のように、思い出されます。

農家の縁側にたたずむおじいさんや、むしろに座り、豆をより分けていた年配のおばあさん、岩手県の遠野の里で「昔、あるとこにサ、長者の家サ、あったどもな。そこの娘は馬っこ好きで……」で始まる「おしら様」の話をしてくれた語り部の阿部ヨンコさんの語り。能登の福浦にある腰巻地蔵の切ない物語……。

多くの人々にかけがえのない話をたくさん聞かせていただきました。

節くれだった太い指、しわだらけの笑顔、丸くなった背中、……今も私の目の奥、耳の奥に、それらの風景、人々の声が残っています。

私がこうしたフィールドワークに目覚め、続けてこられたのも、宮本さんの本との出合いがあったからでした。

また、古い農家が無残に壊されていく現場に行き会わせ、チェーンソーが家の柱を切る音が、木々が泣いている声のように聞こえ、「待ってください。それ以上、切らないで。その柱を譲ってください」と思わずかけよって引き受けてしまったのも、そうした旅の中での出来事でした。

それから古い歴史のある家々の廃材を使って木の家を建てようと決め、山があり湖がある箱根の地を私の家を建てる地だと定め、全国のあちこちの村を訪ねては壊され捨てられていく家々をまわりました。ざっと二百軒は見て歩いたでしょうか。

結局、十二軒分の柱や梁を譲っていただき、一本一枚残らず使い、何年もかけて家を作りました。今、私が住んでいる箱根の家も、本との出会いがあって生まれたものだと感慨深いです。

『忘れられた日本人』
この本が出版されたときから、時代は大きく変わりました。SNSが普及し、AIの進化は目覚ましく、五年後の世界さえ、想像できないような時代に私たちは今、生きています。

それでもこの本の教えは古びることはないと私は思っています。

――人は弱く、迷いながら生きるもの。

――人は人に支えられて生きるもの。 

――正しさだけで人を裁くことはできない。

――人はみな、語り部である。

あと七〇年くらいほしいなあと思う時があります。

ちょっと欲張りですけど。もう一度、この世界を改めてまわってみたくて。いろいろな人の営みをもっと見て歩きたくて。これから人がどういう未来を選択するかということも見てみたくて。

七〇年は無理ですけれど、これからも私は私なりに小さな旅を続け、人が紡いだ物語に耳を傾け、私もひとりの語り部として、見たこと聞いたこと経験したことなどを少しずつ伝えていけたらいいなと思っています。

本日はありがとうございました。

琉球の民藝

柳宗悦が出会った沖縄の美

日本橋高島屋で始まった展覧会に行ってまいりました。
とても楽しみにしていた展覧会です。

「沖縄は民藝のふるさと 宝の山」と記された一文を読み、行って見たい!と思ったのは10代の終わりころでした。

昭和38年。私の沖縄旅行はパスポート持参でした。二十歳になったばかりでしたが、その頃すでに民藝にひかれていた私は、本から聞きかじった柳宗悦先生による沖縄民藝の紹介に憧れをかりたてられ、いさんで出かけたのでした。

二十歳の若さと、女優という職業を考えると青い海、水上スキーというほうが私らしいのですが、現実の私は、絣や木綿や焼き物、昔話好きな少女でした。17歳でヨーロッパ一人旅をした経験から、私の旅はいつも一人旅。できるだけ歩く旅をむねとしました。

はたちの頃の感動は今でも新鮮です。

柳宗悦(1889~1961)が初めて沖縄を訪れたのは、1938年の暮れのことでした。民藝運動の作家たち濱田庄司、河井寛次郎たちも同行しました。伝統が色濃く残る沖縄文化に深く感銘を受けた、とあります。染織、織物、陶器、木工などの工藝や民藝運動の作家たちの作品が展示されています。

2019年の火災で焼失した首里城正殿が再建される予定の本年。
11月23日(月・祝)からいよいよ一般公開が始まります。
沖縄の文化や工藝がさらに注目をあびています。

柳宗悦は「日本にある殆ど凡ての城下町を訪ね歩いた吾々に、どの町が最も美しいかを問われる方があるなら、私達は躊躇わず直ぐ答えるでしょう。沖縄の首里が第一であると。」ともしるされています。首里城は「工藝の宝」です。

私は初めての沖縄の旅から、ただただ、ひたすら通い歩きました。本島から島々を。たとえば、ある村で中央に四角い板のはられた大きな平たいザルをみました。養豚農家でした。養豚小屋のそばで、おばあちゃんやおじいちゃんとおしゃべりをしながら、お昼に沖縄特有のイモをご馳走になりました。皮をむいては、ざっくり編まれたザルの目のほうにその皮を置くと、そこから下へ。つまり豚の食堂へとおちていくのです。人間の食べる芋は中央の板皿部分につまれ、皮は編み目から下へ、というわけです。そのザルの美しかったこと。人の温もりを感じたこと。そう、沖縄の道具には「工芸」として”ぬくもり”を感じました。

石垣へ渡ったとき、「腹八分目茶碗」にいたく感動しました。茶碗の八分目のあたりに穴があいていて、その穴以上に汁を入れると不思議なことに全部の汁が外へ出てしまう。私は目をまんまるにして、その茶碗の不思議さに魅せられました。

道具にたくさんの知恵や教えが備わっていることを知ったのも、沖縄や周辺の島々への旅でした。そうして知った沖縄の工芸。焼き物、ガラス、織物、染物・・・

柳宗悦先生はそうした沖縄固有の歴史や風俗、そして、”美”(ちゅらさ)~沖縄の言葉で清らかな美しさ、を届けてくださったのです。

1984年のこと。沖縄県読谷村でお逢いした与那嶺貞(よなみねさだ)さん。与那嶺さんは読谷村に500~600年前に南洋から伝来した織物を再現することに一生懸命でした。与那嶺さんがその織物を蘇らせようとしたとき、その織り方を知る人はひとりもいなく、昔から残されていた一枚のちゃんちゃんこがあるだけでした。

織り方が複雑で、その難解度ゆえに途絶えてしまったのでしょうから、再現もまた大変なご苦労だったそうです。与那嶺さんは、あの沖縄が焦土と化した戦争を生き延び、涙も涸れてしまった戦後を子どもを抱えて再び生きなおした方。

”戦争で何もかも失ったけれど、父親が私に授けてくれた教育だけは、誰も奪えませんでした”と、与那嶺さん。工藝学校に学んだ技術が後年、幻の「花織・はなうい」再現に結びついたのでした。

この方から、私は忘れられない言葉をいただいたのです。

“ザリガナ サバチ ヌヌナスル イナグ” 

もつれた糸をほぐして、ちゃんとした布にする女・・・こんがらがって織れないからといって切って捨てたら一生布は織れません。女として、それは丹念にほぐしていきましょうよ、そうすれば、 

“ハナノヤシラギウイルサビル”
また美しい花織をおることができる。

那嶺さんは機織の向こうで穏やかにそうおっしゃいました。

二人で手をつなぎ夕焼けの美しい海までの散歩道は私の一生の宝です。与那嶺さんは後に人間国宝になられました。なられても何も変わらず織り続けた一生に私は、長きにわたりご一緒させていただいた日々を宝ものとし、心の支えにしてまいりました。

花のヤシラギ(布) ウリサビル(織ることができる)

与那嶺貞さんに織っていただいた
読谷村の花織  ユンタンザハナウイ

世界中で紛争がおきています。

私たちは、未来をになう子ども達に何を残していくべきなのでしょうか。

こんがらかった糸はほぐせないのでしょか。

会場では、皆さん静かに美しい作品に見入っておりました。
心が豊かになる展覧会でした。

柳宗悦が出会った沖縄の美 琉球の民藝https://www.takashimaya.co.jp/store/special/ryukyu_no_mingei_ten/

ルーシー・リー展

東西をつなぐ優美なうつわ
2026年7月4日(土)~9月13日(日)

ルーシー・リー展を目黒の庭園美術館に観に行ってまいりました。目黒駅から徒歩7、8分。駅通りを抜けて緑あふれるこの界隈は都会の中でも木々の匂いがする好きなエリアです。

正面からではなく、左手の庭から本館へと向かいます。(事前にチケットを購入し、ここから入るのをお勧めいたします。)庭を渡る風が心地よく、木陰を歩いて美術館までの道は当時の面影が残り心地よいです。

ここは1933年(昭和8)年に皇族朝香宮家の自邸として建てられました。1983年(昭和58)年に美術館として開館し、2021年令和3年4月に「東京都庭園美術館」に。内装にアンリ・ラバンやルネ・ラリックらフランスのアールデコ様式が起用され国の重要文化財に指定されています。当時の日本人のベテラン技術者が多く関っています。庭園も宮廷時代の面影が残され、今回の展覧会にはとても相応しい美術館です。

没後30年、約10年ぶりの回顧展です。待ち焦がれていた展覧会。もっとも相応しい場所での展覧会です。アールデコ建築の美術館は、朝香宮ご夫妻の美意識とこだわりが随所にみられ、ルーシー・リーの作品にはぴったりです。本館正面入り口にはルネ・ラリックのガラスの作品がはめ込まれ光が射しこみ、とても美しいです。

ルーシー・リーはユダヤ人の父と母のもと、1902年に生まれました。父は医者、母は裕福な家庭の出身。ウイーン工芸学校に入学し工芸を学びます。

19世紀末にイギリスで起った「アーツ・アンド・クラフツ運動」は海を渡りフランスを中心に新しい美術様式を生み出しました。

戦争の陰が色こくなった1930年ルーシー・リーは夫とともにナチスの迫害から逃れロンドンに亡命し新たな環境のもと自宅に工房をかまえます。ロンドンでの暮らしの中、東洋からの影響を受け、日本文化との接点が作品に大きく影響されていると思います。

イギリス南部のダーティントンで開催された国際工芸家会議にルーシー・リーも参加し、そこでバーナード・リーチや日本から参加した民藝運動の柳宗悦や濱田庄司らとの出会いがあり、その縁で交流が始まったそうです。(会場にはバーナード・リーチの作品など出品されています)そんな交流がルーシー・リーの作品に東洋の影響が現れているように思います。

しかし戦争が激しくなり制作を断念。陶製ボタンを制作し、生計をたてていたそのボタンが人気を博し終戦後も注文が殺到したそうです。(会場にボタンが展示されていますが、どれも素敵です。

約70年にわたり制作した美しい名品の数々。

ピンク、エメラルドグリーン、ターコーズブルーなど。同じピンクでも20代の作品と70代の作品では色合いが微妙に違い、彼女の探究心の深さを知ることができます。彼女独自の技法は、やきものの独自のマキやガスの炎とは異なり厳密に実験を重ね色の精度をコントロールできるようになったのは高温の電気窯があったから・・・と語っています。

私が始めてルーシー・リーの作品に出会った時の感動は今でも忘れられません。「どこか東洋の香りがする、女性ならではの繊細さ、優美さ・・・はどこからきたのかしら」と思いました。

1989年東京・赤坂の草月会館の会場でした。
「現代イギリス陶芸家ルーシー・リー展」。
会場設計は安藤忠雄氏。
図録のデザインは亀倉雄策氏。
作品の写真は石本泰博氏。
なんとも豪華メンバーです。会場は”愛がいっぱい”でした。三宅一生さんが偶然ロンドンで見かけた彼女の書籍の表誌の壷に魅せられ工房を訪ね、親交を深めて実現した展覧会だったそうです。

これほど、魅せられるのはなぜかしら。

そして、1995年に世を去ります。 
2005年「ルーシー・リー展~器に見るモダニズム」
2010年「ルーシー・リー展」
2015年に「没後20年ルーシー・リー展」が開催され、今や世界中にファンの輪は広がっています。

どちらかと言うと男性中心の世界。女性であってもあの時代にしなやかながらも芯があり優美な作品に、生き方に、共感するのかも知れません。会場は女性の方々が多く、作品をじっと見つめ満足そうでした。

日常の中から「美」をみいだしたルーシー・リー。
穏やかな心になりました。
見終わり幸せ気分でカフェで紅茶とケーキをいただき帰路につきました。

展覧会公式サイト
https://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/lucie-rie/

イギリスの旅・後編

コッツウォルズからリンカーンに向けて出発です。

車で約3時間くらいのドライブです。高速道路から、田舎の小路を抜けのどかな田園風景がひろがります。丘には広告の看板などなし。美しい丘を見つめながらのドライブは至福の時間です。時々出会う集落の石の家の統一感も美しいです。このような景観を残す大変さもよく分かります。

リンカーンでも小さな家を借りました。スーパーにまず行き、食材を買います。ちょうどアスパラの季節でマッシュルームと一緒に、毎日、サーモンとソーセージを交互に炒めレンジでチンの白いご飯。やっぱり白いご飯は美味しいです。

初日はホーンキャッスルの元教会だった建物を使ったアンティークショップ。もう、所狭しと積み上げられた中からのお宝探し。初めて行った時には、啞然としてしまいました。しかし、3度目になり慣れてよく見るとクロスや器など”掘り出し物”がいっぱい!彼女は根気よく探します。私は教会の外のベンチに座りのんびり。

ランチは街の小さなお店でフィッシュ&チップス。イギリスでの始めての外食。それも街の人々が行く小さなお店。洗練などされていませんが、”美味しい”。油が軽くて、ポテトの揚げ具合も絶品!一度は食べたい料理です。旅をしていて地元の方々の入るお店は間違いなく”美味しいもの”に出会えます。

翌日からの3日間は私は家でのんびり読書タイムや料理、そして、彼女が見つけてきた布を洗濯して、アイロンをかけて・・・この時間はとても幸せです。かつて、布に刺繍をしたり、レースを編んだり、長い冬を家族のために過ごした女性達の姿が浮かびます。

旅にはいつも2,3冊の本を持参します。今回の本の一冊。作家のソフィ・バーナム(柴田幸裕訳)の「老いることの驚きと幸せ」

「これから年を重ねていくあなたへ、88歳の作家からの手紙」とあります。
私は間もなく83歳。心に響く言葉がちりばめられています。

「孤独を感じるのは、恥ずかしいことではありません。不安を覚えたからといって恥ずかしがる必要がないないのと同じです。生きている限り、心地よい感情ばかりでなく、「否定的」な感情や落ち着かない思いも味わいます。人は「否定的」な感情と呼びますが、こうした感情を良いとも悪いとも決めつけず、また背を向けずに受け止めてみれば何らかの行動を起こすべきときかもしれないと知らせるサインにすぎないとわかります。孤独、不安、心許なさ、劣等感ーーーどれも生きている証です。ときに人は誰しも、周囲の自然や自分の目的、所属する共同体から切り離されたように感じとることがあります。それだけでなく、神からも、そして自分は何者かという神秘的な誰からも切り離されたように感じることがあります。」と。

旅先で独り静かに過ごすと思いがけない発見があります。

生きとし生けるものが健やかで幸せでありますように。
苦しみや痛みから解放され自由でありますように。

と、最後に綴られています。ソフィ・バーナムさん、ありがとうございます。旅はまた私にエネルギーを与えてくれました。

旅の最後はロンドン郊外にあるピーターシャムナーサリーのアフタヌーンティーで締めくくります。ここには大切な思い出があり、イギリスの旅では、ここがいつも最後なのです。

今は亡き友とご一緒したアフタヌーンティー。彼女とは同じ年生まれ。亡くなる前の年もここで合流しました。そして、シャンパンで乾杯。こんなに早く彼女との別れがくるなんて想像もしていませんでした。40年近くの友情です。お互いに仕事が忙しくいつも、「リタイアしたらゆっくりランチをしながらおしゃべりをしましょうね。そして、旅もしましょうね。」と言っていました。お別れから、10数年が過ぎました。バイタリティー溢れる彼女とは仕事の悩みや人生を語りあってきました。

「老後を楽しみにね!」が合言葉でした。ある時、彼女から「ねぇ、老いるってどんなことかしらね~」と問いかけられたことがありました。60代半ばだったと思います。「う~んまだ考えられないわねぇ」と私。仕事を持つ彼女は最期をむかえる3日前まで仕事をしていましたし、死を正面から受け止めすべてを完璧にすませ天国に旅立たれた・・・と当時は思っておりました。少しは大人になれたかしら・・・83歳の私。

娘と一緒に、農園の温室の中のレストランで貴女を偲んでいます。周りには若い女性達の楽しそうな声が響きます。

心に残る旅でした。

そして、素敵な旅をサポートしてくれた家族に感謝いたします。

イギリスの旅・前編

はちみつ色の村を訪ねて

イギリスの中でも、もっとも美しい村といわれるコッツウォルズの村を訪ねる旅をしてきました。

前日まで雨・霧がかかるイギリス的な天候だったそうですが、私が訪れた日から一週間は、嘘のように雲ひとつない晴天に恵まれました。真夏日のような日が続き、街行く人々は女性はノースリーブにサンダル、大きな帽子をかぶり太陽を浴びていました。

”はちみつ色”に輝くライムストーンの家並みのなんと美しいこと。

今回の滞在はヒースロー空港から真っ直ぐコッツウォルズへ。ロンドンから西方へ約2時間のドライブで街に着きます。娘と一緒の旅です。北と南160kmの間を村々が点在しています。村は鉄道とバスで結ばれています。

1日目は、コッツウォルズのアンティークフェアへ。娘は鎌倉で小さなアンティークショップを営んでおり(Floral Antiques)、毎年この時期に買い付けで訪れているので、私は便乗です。

街のフェアは他と違い、プロの為、というより、アンティークの好きな方々がバスケットを持ち近隣の人が多いそうで、おしゃれをして週末を楽しんでいるようです。

2日目からはイギリスに住む息子家族とこの街で合流、孫たちの学校のお休みにあわせての滞在です。

コッツウォルズはかつて羊毛で富を成した人々が暮した村。いつしか毛織物は化繊に取って変わりましたが、その後はロンドンから2時間ほどにあるこの村は、富裕層の別荘地として都会のセンスも入り、美しい新たなコッツウォルズへと変貌を遂げていきます。

そしてその流れも「アーツ&クラフト運動」によるところが大きいです。美術やクラフトの盛んな土地、特に北コッツウォルズは19世紀のデザイナーやアーティスト達が活躍しました。そして、「アーツ&クラフト運動」に賛同する芸術家や工芸家がこの地に移住して保存活動も行われるようになりました。

その中心物的人物が1870年代活躍した作家でありデザイナーでもある「ウィリアム・モリス」です。

粗悪品の大量生産に抗し手工芸の復興運動を主導したモリス。主要産業だった毛織物が衰退し、廃墟と化した村もありましたが、その美しさと貴重さを世に伝えたのもモリスでした。古い建築物がむやみに改修されることに反対し建物は古いままの姿で残され室内を美しい空間にと仕上げています。

現在のコッツウォルズの姿は、モリスの思想とその賛同者たちの活動なしにはなかった思います。

コッツウォルズの語源は「羊の丘」という意味。丘で羊たちがのどかに草を食んでいる風景が広がっています。この郷愁あふれる風景にふれたくて世界中から人々が訪れます。

私達も中心の街に近い家を借りほとんどが自炊でした、(少し長い旅の時は自炊がいいですね。息子たちが炊飯器を持参し、日本からお米を持っていきスーパーで野菜や果物、牛乳などを買いました。イギリスも物価高ですが野菜類は比較的に安定していて、サーモンは美味しく日本より安め。ソーセージも美味しいです。イギリスはオーガニックの食材が手に入りやすく美味です)

お嫁さんと孫娘がルバーブとオレンジのパウンドケーキや私の大好きなスコーンを作り、息子と男の子の孫はバーベキュー。お米を入れたハンバーグは美味でした。

最初に訪れた村
モリスが賞賛した「バイブリー村」。

ウィリアム・モリスが19世紀の中ごろ「イギリスで一番美しい村」と称したことで良く知られている村です。石造りの家はまさに「はちみつ色」。この建物は毛織物の工房として使用されていました。まわりの水辺とともに保存され、その美しさに魅せられ、世界中から人々が訪れます。

白鳥や水鳥が遊ぶコルン川沿いに石造りの家々が緑に囲まれ牛ものんびりしています。
美しい風景です、ほんとうに。

バーフォード村
古くから宿場町として栄えたコッツウオルズの玄関口として栄えた街で、駅馬車の走っていた往時の風景を思い浮かべます。 ”坂の町”として道路の両サイドにはおしゃれなカフェが並び、私たちはピンク色のカフェで伝統的な手づくりのお菓子をいただきました。

楽しみにしていたショップ
「デイルスフォード・オーガニック」

この20年で英国オーガニック市場は大きく進化しているとのことです。「地球のリズムに合わせた調和のとれた暮らしを!」「人も地球も持続可能に」の理念のもとオーガニック農場で作られた食品、ワインなど酒類にお惣菜や野菜、生活用品など等。デザインもおしゃれです。私は、お惣菜のキッシュやお土産の紅茶や布素材のエコバッグなど・・ジャムも美味しかったです。

自分の住む町にこんなショップがあったら毎日通ってしまいそう、アブナイ・アブナイ。

ヒドコード・マナーガーデン
「庭で部屋づくりに精を出した奇人」と呼ばれたローレンス・ジョンストンが40年にわたって造った庭。1948年に彼が寄贈しナショナルトラストの管理下になり植栽で仕切られた小さなガーデンは28区画。

人見知りの主人は、庭を小さな小部屋に仕切り楽しんでいたとのこと。周っているとそれぞれの景色が異なり、四季折々の植物に出逢え嬉しくなります。イギリス人のガーデン好きが感じられ場所です。

ケルムスコット・マナー
いよいよコッツオルズ最後の日は町の中心から車で30分程のケルムスコット・マナーへ。とても楽しみにしていた場所です。

1600年頃、農場として建築され1871年以降は作家でありデザイナーでもある「ウィリアム・モリスとその家族」の隠れ家的別荘となり、モリスが創作の場としてこの家を愛し、愛でた家です。

村の外れの駐車場からは10分ほど村の道を歩いて家に向かいます(歩けない人には6人乗りの小さな電気自動車で)

美的なアプローチです。途中には豚が逃げ出さないように低い石の塀があり、その石の美しいこと。当時モリスが歩いた小路。美しい花々。風が心地よく、モリスはこの村からイマジネーションを得ていたことでしょう。この村に暮らし、いかに自然を愛し、愛でていたことが良く分かります。

一部屋、一部屋の装飾、壁紙、ベットカバー、カーテン、どれもモリスがデザインしただけではなく自ら織ったタペストリーなど、手づくりの温もり、美しい暮らしを体感できることができる家です。

帰りにセント・エドワーズ教会に。 
異世界の扉

教会はとても古く、サクソン時代から建っていたといわれています。
ホビットの扉は北の入り口にあり、イチイの木が両脇を囲む小さな扉は、教会の扉というよりホビット族(空想の世界の妖精)の家の扉のようです。イギリスらしくて素敵!教会内のステンドグラスも数世紀にわたる増改築により様々な様式が築かれたのでしょう。光が射しこみ美しいです。

この日で息子家族と別れ、コッツウオルズの東の玄関口といわれる街に戻り、穏やかな坂道に石造りと木骨組の家々が混在する村のB&Bに泊りました。私はイギリスの田舎のB&Bが好きです。そこには人の暮らしが見え家人との交流が持てます。

そこの主は、かつてアンティーク関係の仕事をしていたそうです。築500年の家の内装を40年かけて変え、増築し、庭は自ら手入れし自然の見事なイングリッシュガーデンへと生まれ変わりました。

入口でまごついていると、前の建物の老婦人が声をかけてくださり、庭を見せてくださったり「しばらくしたら戻るからここで待っていれば」と。ご近所のコミニュケーションも良さそう。何だか嬉しくなってしまいました。

ご主人の案内でまず美しい庭を案内してもらい部屋に入ると”まぁ~ラブリー”と思わずつぶやきました。

私も箱根の家の古民家をリフォームして住んでいます。壊されていくのが切なく「何とか再生を」と願い日本全国の古民家を訪ね12軒分の家をまとめました。

住み始めてやがて50年になります。参考にしたのは、ブラック&ホワイト。イギリスの田舎家を参考に何度も訪ねました。朝食はご主人自ら作り、宿泊客はアメリカからのカップルが二組。ドクターの彼は日本が大好きで何度も訪ねているとのこと。ご主人は偶然日本への旅から戻ってきたばかりのようです。旅先でのこのようなひと時にこころ安らぎ思い出となります。一泊でしたが素敵な滞在になりました。

息子家族とは別れ、私たちはバーフォード村からリンカーンへと向かいます。
続きは次回に。

アンドリューワイエス展

夜明け前、階段を下り新聞を取りに行く。
それが、私の朝の始まりです。

ドアを開け深呼吸をすると”草”の匂いがするのです。
肺の奥深くまでその匂いは届きます。

初めてワイエスの絵に出逢ったとき、この草の匂いがしました。一瞬に魅せられてしまいました。1974年のことでした。それから1987年は三越で。88年は世田谷美術館と記憶しています。その後は仕事や何かと忙しさに紛れ展覧会に行くことができませんでした。バブルの時代にたくさんの作品が日本にきました。

この度、上野の「東京都美術館開館100周年記念」で「アンドリュー・ワイエス展」が開催されています。待ちわびた展覧会ですので初日に行きました。

絵画に出会う前に展覧会の企画者で、ワイエスとは生前親交のあった豊田市美術館館長の高橋秀冶氏の講演を聞きました。氏はワイエスの故郷ペンシルベニアとメイン州の自宅を何度も訪ね交流を重ねてこられたとの事。お話を伺い、私が疑問に感じていたことや、プライベートのお話も伺え有意義な時間でした。

[撮影一部可]

「若い人は作品を見ていないと思います。作品の底流にある「死生観」をぜひ見てほしい」と語られていました。

病弱だった幼少期は通学できなかったため、家庭教師がつけられ他の子どもが学校に行っている間トウモロコシ畑や森を歩きまわっていたようです。人里離れたトウモロコシ畑で静かな雰囲気の中でじっと座っているのが好きな子ども。10代も散策する時間の中で創造の世界にひたり、創造性を育んだようです。

都会に出ることもなく、自分の周りの丘を愛し、身近な人々と交流し、描き続けた作品の数々。

突然の父の死に大きな衝撃を受け、深い喪失感から生まれた作品が私達の心を癒してくれるような気がします。日本人の私達が”自然とともに生きる”美意識につながっているのでしょうか。

友人のクリスティーナの存在はとても大きかったと思います。歩行が困難な彼女は独立心の強い女性です。有名な彼女の絵からどんなことを感じとれるでしょうか。

2026年は、アメリカ合衆国建国250年です。ワイエスは貧しいアフリカ系アメリカ人のコミュニティーに入り込み交流したことが絵画に描かれ心をうちます。

私の好きな絵「薄氷」に逢うことができました。

長年モデルであったクリスティーナが亡くなり、父を亡くして以来の喪失感を抱えていたワイエス。

「沈んだたくさんの葉は自分が重ねた経験や出会った人々を表し、必ずしも死を表すものではない」

と綴られていますが、真冬にクリスティーナが亡くなり、その喪失感が「薄氷」の作品なのでしょうか。

展覧会の最後に知ったことですが、ワイエスは彼女について「クリスティーナは敬いとおそれ」と語っています。会場最後の絵は妻アンナです。窓の外から海の風が爽やかに吹いてきます。

「会場を出ると、夕陽が木立の中を照らし風が心地よく満たされて家路につきました」

展覧会詳細
東京都美術館開館100周年記念
https://www.tobikan.jp/exhibition/2026_wyeth.html

私の小さな旅 『ニコライ バーグマン 箱根 ガーデンズ』を訪ねて

箱根の山も春色に染まり始めました。淡い若草色や薄紅色の霞がかかったように、山がふんわりしています。本当に山が笑っているかのようです。

今朝も、山をゆっくり歩いてきました。小鳥のさえずりが木々の間に、明るく響いていました。山が笑っているように見えるのは、さまざまな色合いの新芽がいっせいに伸びだすからなのかもしれません。

生活の中心であったレギュラーの仕事を卒業し、寂しさを感じたり、抜け殻のようになってしまうかもしれないと少しばかり危惧していましたが、どうやらそれは杞憂でした。

朝4時に起き、掃除やベッドメークを済ませ、7時半に「いってらっしゃい」と学校に行く孫たちを見送りし、山を歩き、新聞を読み、切り抜きをして……一日の過ごし方も、以前とさほど変わりません。

けれど長い間背負っていたものをようやくおろしたような、はりつめたものが溶けていくような……そんな柔らかな時間を今、はじめて味わっています。それがとても新鮮です。

よく晴れた朝、ふと思いついて『ニコライ バーグマン 箱根 ガーデンズ』に足をのばしました。

『ニコライ バーグマン 箱根 ガーデンズ』は、フラワーボックスをはじめとする、スカンジナビアスタイルと和を融合した独自のデザインで花の新たな魅力を紹介し続けている、デンマーク出身のフラワーアーティスト、ニコライ・バーグマン氏が作り上げた箱根・強羅にあるガーデンです。

土地を大切に扱ってくれる人を長年探していた所有者と、この地に魅了されたニコライ氏とが出会い、ニコライ氏になら手渡せるという信頼をかちえ、土地を譲りうけたとか。自然を守ることをプロジェクトの核とし、原生林で覆われていた地を整え、遊歩道やカフェまで、全て自分たちで作ったのだそうです。

長い時をかけてじっくり作り上げられた空間。私の箱根の家とどこかつながる気がして、季節が巡るたびにこのガーデンを訪ねたくなります。

箱根の自然を生かしつつ、ニコライ氏ならではの美しさもいたるところに感じられ、とても美的で、人を癒すような包容力も。

吹く風も心地よく、心が洗われるような気がしました。

旅が大好きで、これまでは仕事の合間をぬって、列車や飛行機に飛び乗っていた私。

これからも、こんな風に小さな旅を、気軽に楽しんでいこうと思います。

出会いは人生の喜び

寒さは残るものの、日差しの明るさに、春の訪れが近いことを感じる候となりました。

この3月をもって、2001年4月から続けてきた『浜美枝のいつかあなたと』(文化放送)のMCを卒業させていただくことにいたしました。

あらゆる分野からゲストをお迎えして、お話を伺う「浜さん家のリビングルーム」、全国各地の農業従事者に、農業や食育の取り組みなどをお話しいただく「浜美枝の良い食とともに」という2つのコーナーで構成されるこの番組を通して、本当にたくさんの素敵な方々に出会うことができました。

ゲストからお聞きした貴重なお話、心に残る多くの言葉は、私の人生の宝物です。

農の現場のみなさまからは、「農業は命そのものである」と改めて教えていただきました。

リスナーから寄せられる葉書やメールを読ませていただくのも、私の大きな楽しみでした。あたたかな励ましのお言葉、番組への感想などに目を走らせながら、リスナーがいつもそばにいてくださる幸せを感じていました。

どんなときも私を支えてくださった寺島尚正アナウンサーには感謝しかありません。番組開始以来ご一緒くださったスタッフの方々にも、大変お世話になりました。

そして番組開始以来、「食の大切さ」を教えてくださったスポンサーのJAグループに、深く感謝申し上げます。

『浜美枝のいつかあなたと』は、私の最後のレギュラー番組です。それが発信者と受け手の距離がもっとも近いメディアであるラジオ番組であったことを、本当に嬉しく思っています。

なにより、私にとってこの番組は、かけがえのない学びの場でもありました。

15歳でバスの車掌として社会に出て以来、67年になります。

16歳で女優としてデビューし、1年に7本も8本も映画に主演していたころ、女優という肩書の重さに押しつぶされそうになり、逃げるようにイタリアに一人旅に出たことがありました。

私が、この世界で働き続けることができたのは、その旅の最中に幸運が重なり、マルチェロ・マストロヤンニとの出会いがあったからです。

片言の英語で、「私は女優の卵ですが、この旅が終わったら女優をやめるつもりです」といった私に、彼はこういいました。

「人を喜ばせるために流す汗の味を、君は味わったことがあるかな?」

人を喜ばせるために。

自分ではなく、人を喜ばせるために。

マストロヤンニのこの言葉を心の中におさめ、行き詰ったり壁にぶつかったりしたときも気持ちを奮い立たせて、これまでやってきました。

映画『007シリーズ』に抜擢され、やり切ることができたのも、ワイドショーのキャスターやNHKの「日曜美術館」の司会に挑戦できたのも、そのおかげかもしれません。

振り返ると、どの時代も緊張と興奮、感動の連続でした。大変なこともありましたが、ひとつひとつの仕事が、私の目を開き、心を耕し、人生を豊かなものにしてくれました。

番組は終わっても、人生は続きます。

さあ、4月からどうやって暮らしていきましょうか。

時間に追われることなく、丁寧に料理をするのも楽しそう。庭の木々と会話しながら、草をひいたり、落ち葉を集めたり。いつか読もうと思っていた本もたくさん。

穏やかに自分らしく歩んでいきたいと思います。

そして日々、新しい自分と出会いたい――

出会いは、人生の大きな喜びなのですから。

ラジオスタッフの皆さんと

子供たちから

これからの私を支えてくれるもの

仕事机のパソコンの横に、1枚の絵を飾っています。高校生だった長女が描いた絵です。真っ赤なチューリップが添えられ、バッグを持ち、ハイヒールをはき、闊歩している私が切り絵のように描かれています。

仕事と4人の子育てを両立させるために、いつも駆けるように暮らしていた時代。その絵を見ると、当時の私は子どもたちの目にこのように映っていたのだなあと感じるのと同時に、そのころの子どもたちの姿を思い出さずにはいられません。

限られた時間の中であれもこれもやろうとしていた私を助け、上の子は下の子たちの面倒をよくみてくれました。

おかげさまで、子どもたちはそれぞれの生き方を探し、独立してくれました。普段はつかず離れずであってもさりげなく私を気遣ってくれ、ありがたいことに、きょうだいも仲良く思いあってくれています。

私を親にと育ててくれた子どもたち。

この絵を見るたびに、過ぎし日への感謝と、幸せな気持ちが胸にあふれます。

絵にあったように、おしゃれをして出かけるときはハイヒール派だった私ですが、70歳になるちょっと前から、その出番が徐々に減っていきました。雨の日に足を滑らせて怖い思いをしたこともあり、これからは歩きやすい靴がいいと思い始めたのです。

そして『アルカ』の靴と出会いました。良いお店があると聞いて訪ねてみると、足と靴の知識を持ったカウンセラーが靴を選び、さらに私の足に合わせて細やかな調整を重ねてくれました。

はいていることを忘れるほどの心地よさでした。

以来、私の靴との付き合い方が変わりました。

振り返ると、若い時は、私にとって靴はおしゃれのひとつのアイテムでした。旅に出るようになり、とにかく歩きやすい靴を探すようになりました。

そして今、私の足元を守っているのは『アルカ』の靴です。この時期に愛用しているブーツ、山歩きになくてはならないウォーキングシューズ、ドレッシーなファッションをひきたててくれるフラットシューズ……。

ダメージが生じれば修理を頼むことができます。長くはいて型崩れしたものや古くなって薄くなったインソールは、職人さんが丁寧な手仕事で、よりはきやすく美しい状態に甦らせてくれます。はきつぶして終わりではなく、一足一足が生涯、私に寄り添い続けてくれるものとなりました。

いくつになっても自分の足で歩きたいと思います。箱根の山を歩き、山と空に抱かれながら、緑の空気を呼吸し、風や小鳥のさえずりに耳を傾ける……そんな日常を、あの店に行けば私の足を守ってくれる人がいるという安心感が支えてくれています。

私らしく暮らすために欠かせないもの――外に向かう私に必要なものが靴だとしたら、家の中では一人用の椅子でしょうか。

ゆっくり寛げる椅子、ひとりの時間を心地よく過ごせる椅子をずっと探していました。

 そうなると、各地の工房を訪ね歩き、職人さんと話をし、座り心地、佇まい、デザインなどを見て回らずにはいられなくなる私ですが、これだというものに巡り合えずにいました。

そしてあるとき、はっとしました。十数年前に我が家に迎えたお客様用の椅子、黒革の一人用の椅子を、とても気に入っていることに、改めて気づいたのです。

スケジュールをやりくりし、その工房とショールームを再び訪ねました。飛騨高山の駅から車で15分ほど走ったところ、澄んだ空気と深い緑に囲まれ、アルプスを望む大自然の中に、『キタニ』の工房とショールームはありました。

デンマークのデザイナーのデザインした家具を飛騨の職人さんの手で作っている『キタニ』。ショールームには、キタニの家具をはじめ、リペアしたヴィンテージ家具がゆったりと展示されていました。素敵なショールームで寛ぎ、工房では職人さんの話をお聞きし、作成する姿をじっくり見せていただきました。

デパートにも都会のショールームにもたくさんの家具が並んでいます。デザインや質感の良しあしはそこでわかりますが、私にとってはそれらの道具がどんな人がどんな思いで作っているのかということも、とても大切なこと。できる限り、工房をお訪ねし、作り手と会うようにしているのです。会えば、手仕事の豊かさをよりしっかりと感じることができます。作り手の思いを知れば、作り手への敬愛とともにその道具を愛することができます。これもまた、民芸の教えかもしれません。

『キタニ』の工房で感じた職人さんの誇り、愛情を持ち真摯にものづくりに向かう姿に心打たれました。この人たちが作った椅子がほしいと切に思いました。

それから一か月。 
真っ赤な一人掛け用の椅子が私の部屋に届きました。

大好きな赤。包み込まれるような座り心地。何より作り手のぬくもりが感じられる椅子です。

この椅子のおかげで、ひとりの時間がより豊かになった気がします。

椅子に座り、映画や旅の番組を見るようにもなりました。かつて見た映画を見直して、当時は気づかなかった視点を見出したり、いながらにして旅をしている気持ちを味わったり。ただ瞑想しているときも、とても新鮮です。

これからの私と共に時を重ねていく椅子。その椅子に座り、過ごす家の時間も、大事にしていきたいと思います。

椅子を探すのは、私にとって、まるで宝物を探しているようなわくわくする時間でした。なかなか見つからない、その道程さえも楽しいのです。今回も各地で素晴らしい職人さんたちに出会うことができました。かつて『八木治郎ショー』の『手づくり旅情』というコーナーで、職人さんのものを作る手元を映像で残したいと、スタッフと共に全国の職人さんを訪ね歩いたことを、その道中にふと思い出しました。末の子を産み、復帰初の仕事でした。テレビの全盛期、良き時代にスタッフに恵まれ、心に残る仕事ができたことをありがたく思います。

*㈱アルカ 〒170-0013東京都豊島区東池袋2-15-5

*㈱キタニ 〒506-0034岐阜県高山市松倉町2115番地

新年に寄せて

生きることは ひとすじがよし 寒椿

                  五所平之助

新しい年を迎えました。
いかがお過ごしでしょうか。

 人々が安心して暮らせる一年になりますように。
 子どもたちの笑顔があふれる一年となりますように。
 そう願い今年も箱根神社に手をあわせてまいりました。

今年は昭和101年にあたります。

生まれて二年後に終戦を迎えた私は、あの戦争が経て、世界は変わっていくと思っていました。人々が知恵を出し合い、互いへの理解を深めていけば、やがて争いは減り、平和な世界を築くことがきっとできるだろう、と。

けれど、世界では今も多くの対立が残り、人々が苦しんでいます。多様な人種・価値観を持つ人々との間に生まれた断絶、意見が異なる相手を悪とみなすことで深まる社会的亀裂、各地で起きた戦争や武力衝突により多くの都市が破壊され、犠牲者と避難民が急増し、深刻な人道危機が続いています。いかに文明が進んでも、人の心が追いつかなければ、人々の声を聞こうとしなければ、争いはなくならないのかもしれません。

そんな思いで心がざわざわしたとき、民藝研究家であり思想家であり宗教家でもあった柳宗悦先生の言葉が、私の耳の奥に響くのです。

『ものを作る人に美しいものを作らせ、ものを使う人に美しいものを選ばせ、この世に美の国を作ろう』

中学二年生になったばかりの放課後、いつものように図書館に行き、手に取った一冊。今では題名さえ定かには覚えていないのですが、その本の中に柳先生のこの言葉がありました。

家が貧しく高校への進学が許されなかった私は、心の芯となるものを懸命に探していたのかもしれません。柳先生のこの言葉がひたひたと胸に広がり、私を満たしてくれるかのようでした。以来、この言葉は私の生きる指針となりました。

人々ひとりひとりが美しい暮らしを志せば、きっと美しい世界、美の国を作ることができる――。 82歳になった今も、私はそう信じています。

先日、久しぶりに駒場の『日本民藝館』に行ってきました。日本民藝館は1936年に柳先生によって創設された、民藝運動の拠点となる美術館です。何十回と通い、そのたびにすみからすみまで見てきた、私にとっては懐かしい場所でもあります。

いつものように、階段をあがったところにある長い腰かけに座って、美しい道具が存在する温もりのある空間を味わいながら、柳先生は、私を導いてくれた大切な心の師であると、改めて感じいりました。

私が、民芸をめぐる旅に出るようになったのは、20代に入ってまもなくのことでした。それから民芸がつないでくれた、言い尽くせないほど多くの、かけがえのない出会いがあり、たくさんの学びがありました。

『沖縄こそが日本の民芸のふるさと』という先生の言葉に導かれ、まだパスポートが必要な沖縄にも通いました。焼きもの、織物など、用の美の美しさに触れ、作り手や使い手のお話を聞き、そこで終生の手本と仰ぐことができる与那嶺貞さんにも出会うことができました。

与那嶺さんは、かつて琉球王府の御用布であったにもかかわらず近代化や戦争により、技法は失われ、幻の織物となっていた『読谷山花織』を復元させた女性です。貞さんは夫を第二次大戦で失い、三人の子とともに戦火の沖縄をなんとか生き延び、55歳で民族の誇りである花織の復元に着手。見事に花織を再興し、後継者の育成も行い、国の無形文化財にも指定されました。

「浜さん、女の人生はザリガナ(もつれた糸のようなもの)よ。でも丹念にほぐしていけば、美しい花のヤシラギ(布)をウイルサビル(織ることができる)」

美しい琉球言葉で歌うように語ってくれたこの言葉に、私は何度、励まされたことでしょう。

柳先生と浅川巧氏の、朝鮮の民衆工芸をめぐる深い共鳴と友情に感動し、朝鮮の人々の暮らしに深く入り込み、生活者としてその美を体感した浅川氏にならいたいと、韓国にアパートを借り、市場で買い物をし、地元の人とともに銭湯に通いながら、浅川氏の足跡を追ったこともありました。日本と韓国を10年往復しながら、浅川氏の墓を詣で、浅川氏を今も慕う人々と出会い、貴重な話を聞かせてもらうこともできました。朝鮮の美と、人々の暮らしの結びつきをも肌で感じることができた貴重な体験でもありました。李朝の美を愛する彼の地の友人もでき、今も家族ぐるみのおつきあいを続けています。

長年、民芸に私なりに携わってきて、思うことがあります。

歴史も文化もそれぞれの国で異なっても、人は互いの美を認め合うことができるということ。美しいと感じることで、心が開かれるということ。こうしたささやかなことの積み重ねで、人は理解を深めていくことができるということ。

日本民藝館には日本人のみならず、多くの国の人が訪れていました。 美しいものを通して、人の心にたくさんの美の種がまかれ、美の国が少しでも広がっていきますようにと、願わずにはいられません。