女優になるということなど考えたこともなかったのに、私は、気が付くと華やかな芸能界で、脚光を浴びておりました。けれど、その光のまぶしさに戸惑いを感じていたのは、誰より本人の私でした。
自分を取り囲む環境になじむことができず、これからも女優を続けていけるのか、続けて行っていいのかと、長い間、苦しいほど自問を繰り返していました。私生活では四人の子どもに恵まれ、子育ての喜びも大変さも味わうことができましたが、この世を見せてあげられなかった子どももあり、喪失の悲しみに打ちのめされたこともありました。
この先、どちらの方向に進めばいいのかわからない。
立ちすくんだまま、足が一歩も動かない……。
そうしたときに、不思議なことに、美術との出会いが必ずありました。
たとえば岡山・倉敷の大原美術館のエル・グレコの『受胎告知』
オランダ・アムステルダムのゴッホ美術館の『馬鈴薯を食べる人たち』『靴』
インドのガンダーラ美術の仏像……。
これらの絵画や造形が私をふるいたたせてくれました。
グレコの描く光と深く黒い影、聖母マリアの清らかな美しさと驚き、農民や社会を支える人々へのゴッホの真摯なまなざし、ガンダーラの仏像の優美な曲線で描かれる端正で厳かな佇まいと包容力……。それらが、私の孤独と不安と共鳴し、明るい方向へと私の背を押してくれるように感じたのです。
そして田中一村さんの『アダンの海辺』に出合いました。
どなたからご紹介いただいたのか、残念ながら思い出せないのですが、田中一村さんの展覧会が素晴らしいと聞き、あるとき、福岡まで足を延ばしたのでした。
明るい空に立ち上る黒い夕雲。珊瑚が積もった海辺の白い砂、透明な海とさざ波。そうした背景に浮かび上がる奄美大島の植物アダンの迫力ある姿。
作品を前に、驚きと感動で言葉を失いました。圧倒的な生命力、自然に対する畏敬の念……。その自然観は、これまでにないものでした。日本画ということがすぐには信じられない思いがしました。それほど繊細でありながら、ダイナミックで力強く、躍動感に満ちていました。
一村さんは、東京美術学校(現東京芸術大学)日本学科に入学するも2か月で退学。その後千葉に移り住み20年間制作活動を続けましたが、公募展には落選続き。50歳のときに奄美大島に移り住み、紬工場で染工として働き、制作活動を続けたと言います。
一村さんが見ていた風景に出会いたい、風を感じたい、波の音を聞きたい……。矢も盾もたまらず、鹿児島から小型飛行機に乗り、私は奄美大島をお訪ねしました。
最初の奄美大島は、梅雨の時期でした。あとになって、梅雨は一村さんの描いた動植物が最も多く見られる季節だったと知りました。
強い風が吹いていました。緑の深さと力強さ、空の大きさ、見知らぬ植物の造形の妙、鳥や魚の鮮やかさに目を見張りました。人々はやさしく穏やかでした。
これらのすべてが一村さんを刺激し、作品として結実したのだと、胸が震えました。
田中一村記念美術館はまだ建設されていませんでしたが、一村さんが息を引き取るまで暮らしていた家は保存されていました。あの頃、家の中も見ることができました。
室内には、料理の途中で倒れられた一村さんをしのぶように、菜っ葉が床にちらかっている様子まで再現されていました。ここに暮らし、最後まで創作意欲を燃やし、絵筆をとっていた一村さんの息遣いが確かに聞こえるような気がしました。
以来、何度、奄美大島に旅したことでしょう。
田中一村さんが全国に知られるようになったのは、NHK教育テレビ『日曜美術館』がとりあげたことがきっかけでした。1984年のことです。
『日曜美術館』のキャスターを打診されたのはそれからまもなくのことでした。美術の勉強をしたこともない私にとてもそんな大役は務まらないと逡巡していたのですが、「ほんものを見ている、その感覚が大事なのです」とプロデューサーに説得され、頭に浮かんだのが田中一村さんの『アダンの海辺』でした。
この仕事に巡り合ったのは、とても幸運だったと、お引き受けしてすぐに実感しました。『日曜美術館』は私にとって素敵な学校のようなものでした。自分の活動範囲ではなかなか出会えない美術作品に触れ、専門家のお話を聞き、その背景や美術の流れも少しずつわかるにつれ、ますます絵画や彫刻といった美術に惹かれていきました。
1枚の絵との出会いは、私らしく生きるための、人生の句読点のようなものといえるかもしれません。
私にとってとても大切な田中一村さんの『田中一村展 奄美の光 魂の絵画』(2024年9月19日~12月1日)が今、東京・上野の東京都美術館で開かれています。
https://www.tobikan.jp/exhibition/2024_issontanaka.html
昨年、家族旅行で奄美大島の田中一村記念美術館で見てきたばかりの所蔵品もたくさん並んでいました。芸術の探究に生涯を捧げた画家・田中一村の代表作を網羅した素晴らしい展覧会です。ぜひ、ご覧になってくださいませ。