林檎園の少女―『戦争語彙集』に思うー

ロシア軍がウクライナに攻め入った日からまもなく4年が過ぎようとしています。2023年秋には、パレスチナ自治区ガザを実効支配するイスラム組織ハマスが、イスラエルに対する大規模攻撃をし、イスラエル軍は同日から報復としてガザ地区への空爆を開始し、多くの血が流れました。

大戦の惨禍を経て、昨日よりは今日、今日よりは明日、世界は平和に近づいていくものだと思っていました。たとえ危機が起きようと各国が連携して解決し、人類は手を携えていくだろう、と。

けれど、悪夢のような侵略戦争や報復戦争が続いています。そして私たちに届くのは、侵攻から逃れ国境を越えた人の数や死者の数や、戦況を伝えるニュースや報道写真です。

数字や悲惨な映像の背後には、ひとりひとりの大切な物語があることを、そして、戦争によって、多くの平易な言葉の意味が変えられていくということに、改めて気づかせてくれた一冊が、日本文学研究家のロバート・キャンベルさんが翻訳を手掛けた『戦争語彙集』(岩波書店)でした。

この本には、ウクライナで戦争を体験した人々の77編の話がおさめられています。ポーランドとの国境に近いリヴィウ中央駅で、ボランティアとして飲み物や医薬品などを配っていた詩人のオスタップ・スリヴィンスキーさんが、避難者から話を聴き、一人称で記した戦争の記録です。戦争が日常をどのように変えるのか、その時人々はどう感じるのか、行動するのか、むきだしの恐怖から心の支えにしているものまで、さまざまな人が語る、ありのままの言葉に、激しく胸が揺さぶられました。

そのキャンベルさんを、『浜美枝のいつかあなたと』(文化放送 毎週日曜日午前9時半~10時・11月24日、12月1日放送分)にお迎えし、貴重なお話をお聞きすることができました。

翻訳を進めながら、現地に立つ必要性を感じたキャンベルさんは、外務省が退避勧告している戦地ウクライナに赴き、著者のスリヴィンスキーさんと会い、現地の人々に話を聞き、自ら取材も重ねられました。それをまとめた渾身のルポルタージュ・旅の記録も『戦争語彙集』の中におさめられています。

現地でキャンベルさんが若い人たちに声をかけると、みんな堰をきったように、自分の話をしてくれたそうです。そして、キャンベルさんが思ったこととは、

言葉は心の糧になる。
暴力の前に言葉は無力ではない。
言葉によって自分を、また人をも、ケアすることができる。言葉はシェルターにもなれる。

お互いの経験を語り合うことから「きずな」が生まれ、その「きずな」にまた「言の葉」を繁らせていくことができるーーー

お話を伺い、救われる思いがしました。言葉は希望だと思いました。

キャンベルさんが語る言葉は美しく、穏やかで、強くしなやかでした。本のページをめくるたびに言葉がひたひたとしみわたるような感じがしたのも、キャンベルさんによる翻訳だからだとも、思い当たりました。

その中に「林檎」という一編がありました。

『林檎』(アンナ キーウ在住)

 その夜わたしは、戦争が始まって以来最も大きな爆発音を繰り返し耳にしながら、毛布やら枕やらをめいっぱい放り込んだ浴槽の中で眠りにつこうとしていました。
 その昔の、わたしは燃えるような恋をしました。初めてカルパティア山脈にある山小屋に二人で出かけていくと、秋はもう深まっています。浴槽と大して変わらないほど寝心地の悪い屋根裏のベッドの上で二人一緒にうとうとしながら、わたしは耳を傾けていました。庭中の林檎の木々から、果実が一個また一個、地面に落ちてきます。熟みきった大きな林檎が夜通し、測ったような間隔で、とすっ、とすっ、と落ちてきます。わたしは幸せでした。
 そして現在、わたしは爆発の音を聞きながら眠りにつこうとして、リンゴの音を聞いたのです。庭の林檎の実だけがわたしたち皆のもとに落ちてくればいいのに、と心から思います。(『戦争語彙集』より)

 私はかつてウクライナを訪ねたことがあります。映画「ひまわり」のロケ地でもあるウクライナ。どこまでも緑豊かな農地が広がっていました。
 林檎農園にも伺いました。
 かの地の林檎の木はとりわけ背が低く仕立てられていて、枝という枝に、赤い林檎がたわわに実っていました。すると農園主の7,8歳の娘さんが林檎をひとつもぎとり、腰に結んでいたエプロンできゅっきゅっとふいて、私に一個、手渡してくれたのです。
 透き通るように青い少女の目が、さあ、かじってみて、と私を促していました。
 掌にのるくらいの小さな真っ赤な林檎。
 昔の林檎のような、甘酸っぱい懐かしい優しい味がしました。
 おいしい? と聞かれたような気がして、大きくうなずくと、少女ははにかむようにクシャッと笑いました。

あれから30年がたちました。あの小さな女の子は、今、お母さんになっているでしょうか。元気でいてくれるでしょうか。

キャンベルさんはもう一度、ウクライナを訪ねるそうです。ご無事を祈るとともに、命がけの旅から持ち替えられるものはどんなものかと思わずにはいられません。ぜひまたお聞きしたいと思います。

キャンベルさんの放送回はradiko(ラジコ)で、お聞きいただくことができます。

オスタップ・スリヴィンスキー作 ロバート・キャンベル訳著

戦争語彙集』(岩波書店)

radiko(ラジコ):全国の民放全99局とNHKのラジオとポッドキャストを聴けるアプリ。住んでいる地域で過去1週間以内に放送された番組を無料で聴くことができる。

未来を照らす光

農業などの第一次産業の現場で働いている女性はもちろん、あらゆる業態で活躍する女性たちがきちんと評価される時代が、ようやく実現しつつあります。女性たちがこの先、どのように羽ばたいていくのかと思うと楽しみでなりません。

今から半世紀ほど前、民芸に興味を持ち、地方の農家を訪ねる中で、私は農業に従事する多くの女性たちと出会い、農業や農家の暮らしの実際を知ることになりました。

農業現場はまったくの男性中心の世界でした。女性も男性と同じように働いていたのに、ましてや兼業農家では主たる農業の担い手が女性であるにもかかわらず、自分名義の貯金通帳すら持たない女性がとても多かったのです。自分の財布がないので、自分や子どものものを自由に買うことができないという女性も少なくありませんでした。

40歳で女優を卒業してから、農業と食が私のテーマとなりました。日本の根幹は農であり、農業が元気でなければ日本人として元気に暮らせない。食は文化であり、食によって人は作られる。そう思ったからです。

農業を考えることは、農村の女性を考えることでもありました。農業、そして農村を持続的に発展させていくためには、女性にとってもっと働きやすく、暮らしやすいものでなくては、と思いました。そのためにも、女性たちが自らの価値と可能性に気づいてほしい。女性自ら学び、考える場が必要だと思いました。

「食アメニティコンテスト:地元の特産物を使い、加工食品の開発等を通して地域づくりに貢献している農山漁村の女性グループを表彰し、それら優良事例の活動を広くPRして普及を図り、農山漁村の振興、そして都市と農山漁村の共生・対流の一層の促進を図ることを目的としたコンテス」(主催:財団法人農村開発企画委員会)が誕生したのは1991年のことです。

農山漁村でがんばっている女性にエールを送るためのこの活動に関わる中で、女性同士のネットワークの必要性を強く感じ、「食アメニティ女性ネットワーク」を立ち上げました。

この指とまれ方式で、全国の農村女性たちが集まり、農業の未来を語り合い、勉強会を開き、ときには悩みを打ちあけあい……10年にわたり、ヨーロッパに研修旅行も行いました。農村の景観を美しく保っている村、都会の人たちと定期的な交流を続けている農家、グリーンツーリズムを行っている地域。イギリス、ドイツ、イタリアなどの農家に実際に宿泊し、現地の人と話し合い、自分たちの農業の可能性を探る、刺激いっぱいの旅でした。

ネットワークの女性たちは、やがて行動しはじめました。ファーマーズマーケットやファーマーズレストランなどを開き、自分名義の貯金通帳を持ち、生活者としての女性ならではの視点を生かし、農業経営や地域農業の方針策定に参画する女性も増えていきました。

食アメニティ女性ネットワークを、私は卒業しましたが、今も全国の女性たちとのおつきあいは続いています。

先日、初秋の美山と飛騨古川を旅してきました。

まずは10年ぶりに岐阜県山県市美山地域にある『ふれあいバザール』に。ふれあいバザールは、地元の生産者が持ち寄った新鮮な野菜や加工品を販売している農産直売所で、隣接する食事処の手打ちそばと山で摘んできた山菜の天ぷら、飛騨・美濃伝統野菜の「桑の木豆」のフライや、おこわセットになった定食が人気で、毎日、遠くからもお客さんが押し寄せます。

昼はその手打ちそばと天ぷらに舌鼓をうち、夜は近くのキャンプ場のロッジに懐かしい顔が集まりました。ネットワークで勉強会を重ねた女性、研修旅行にご一緒した女性、高齢者のために弁当を作り続けている80代の女性や年齢を重ねお嫁さんと一緒に働いている人もいました。今もどっしりと土に足をつけてがんばっている女性たち。昔話に花を咲かせ、日本の農業の未来を語り、あっという間に愛おしい時間が過ぎていきました。秋の夜空に星が美しくまたたいていました。

働き続けて来た女性たちのたくましい手を握り、別れを惜しみ、それから綾錦に染まり始めた道をたどり、円空仏の寺『千光寺』に向かいました。旅に生きた円空。その長旅で彫り続けた仏像・おおらかで慈愛あふれる円空仏、土地の人々が頭をなでて、痛みやつらさを和らげてもらったというおびんずるさん。この土地に来るたびに会いに行かずにいられません。

飛騨古川では、仲間とともに「暮らしが見えて住んでいる人の息づかいが感じられる町に」と発展させてきた村坂有造さん、その思いを引き継ぎ「クールな田舎をプロデュースする」と活躍している山田拓さんご夫妻にお会いしました。この町とも、半世紀近いおつきあいで、私の心の故郷でもあるのです。白壁土蔵、鯉が泳ぐ瀬戸川、郊外に広がるのどかな田園風景を目に焼き付け、少し冷たくなった澄んだ空気を胸いっぱい吸い込んできました。

変わらぬ友情に感謝しての帰路、高山本線からは赤や黄色に色づき始めた木々、滔々と流れる飛騨川が見え、高くなった空が広がっていました。

『発展と再生』『変わるものと変わらぬもの』

そんな言葉がふと浮かびました。

胸にまたひとつ、未来を照らす灯りが灯ったような気がしました。

 自宅に帰った翌日、美山の生産者から葱が届きました。キャンプ場のバーベキューで、「おいしいおいしい」と私が連発しながら葱を食べていた(本当にとろりと美味しいんです)ことに気づいて、わざわざ送ってくださったのです。

SNSなどを通して、家にいながらにして人とつながることができる時代となりましたが、自分の足でその土地を歩き、人に会い、手を握り、語り合い、年月を重ねるということは、やはり本当に素敵です。

1枚の絵との出会い

女優になるということなど考えたこともなかったのに、私は、気が付くと華やかな芸能界で、脚光を浴びておりました。けれど、その光のまぶしさに戸惑いを感じていたのは、誰より本人の私でした。

自分を取り囲む環境になじむことができず、これからも女優を続けていけるのか、続けて行っていいのかと、長い間、苦しいほど自問を繰り返していました。私生活では四人の子どもに恵まれ、子育ての喜びも大変さも味わうことができましたが、この世を見せてあげられなかった子どももあり、喪失の悲しみに打ちのめされたこともありました。

この先、どちらの方向に進めばいいのかわからない。
立ちすくんだまま、足が一歩も動かない……。

そうしたときに、不思議なことに、美術との出会いが必ずありました。

たとえば岡山・倉敷の大原美術館のエル・グレコの『受胎告知』
オランダ・アムステルダムのゴッホ美術館の『馬鈴薯を食べる人たち』『靴』
インドのガンダーラ美術の仏像……。

これらの絵画や造形が私をふるいたたせてくれました。

グレコの描く光と深く黒い影、聖母マリアの清らかな美しさと驚き、農民や社会を支える人々へのゴッホの真摯なまなざし、ガンダーラの仏像の優美な曲線で描かれる端正で厳かな佇まいと包容力……。それらが、私の孤独と不安と共鳴し、明るい方向へと私の背を押してくれるように感じたのです。

そして田中一村さんの『アダンの海辺』に出合いました。

どなたからご紹介いただいたのか、残念ながら思い出せないのですが、田中一村さんの展覧会が素晴らしいと聞き、あるとき、福岡まで足を延ばしたのでした。

明るい空に立ち上る黒い夕雲。珊瑚が積もった海辺の白い砂、透明な海とさざ波。そうした背景に浮かび上がる奄美大島の植物アダンの迫力ある姿。

作品を前に、驚きと感動で言葉を失いました。圧倒的な生命力、自然に対する畏敬の念……。その自然観は、これまでにないものでした。日本画ということがすぐには信じられない思いがしました。それほど繊細でありながら、ダイナミックで力強く、躍動感に満ちていました。

一村さんは、東京美術学校(現東京芸術大学)日本学科に入学するも2か月で退学。その後千葉に移り住み20年間制作活動を続けましたが、公募展には落選続き。50歳のときに奄美大島に移り住み、紬工場で染工として働き、制作活動を続けたと言います。

一村さんが見ていた風景に出会いたい、風を感じたい、波の音を聞きたい……。矢も盾もたまらず、鹿児島から小型飛行機に乗り、私は奄美大島をお訪ねしました。

最初の奄美大島は、梅雨の時期でした。あとになって、梅雨は一村さんの描いた動植物が最も多く見られる季節だったと知りました。

強い風が吹いていました。緑の深さと力強さ、空の大きさ、見知らぬ植物の造形の妙、鳥や魚の鮮やかさに目を見張りました。人々はやさしく穏やかでした。

これらのすべてが一村さんを刺激し、作品として結実したのだと、胸が震えました。

田中一村記念美術館はまだ建設されていませんでしたが、一村さんが息を引き取るまで暮らしていた家は保存されていました。あの頃、家の中も見ることができました。

室内には、料理の途中で倒れられた一村さんをしのぶように、菜っ葉が床にちらかっている様子まで再現されていました。ここに暮らし、最後まで創作意欲を燃やし、絵筆をとっていた一村さんの息遣いが確かに聞こえるような気がしました。

以来、何度、奄美大島に旅したことでしょう。

田中一村さんが全国に知られるようになったのは、NHK教育テレビ『日曜美術館』がとりあげたことがきっかけでした。1984年のことです。

『日曜美術館』のキャスターを打診されたのはそれからまもなくのことでした。美術の勉強をしたこともない私にとてもそんな大役は務まらないと逡巡していたのですが、「ほんものを見ている、その感覚が大事なのです」とプロデューサーに説得され、頭に浮かんだのが田中一村さんの『アダンの海辺』でした。

この仕事に巡り合ったのは、とても幸運だったと、お引き受けしてすぐに実感しました。『日曜美術館』は私にとって素敵な学校のようなものでした。自分の活動範囲ではなかなか出会えない美術作品に触れ、専門家のお話を聞き、その背景や美術の流れも少しずつわかるにつれ、ますます絵画や彫刻といった美術に惹かれていきました。

1枚の絵との出会いは、私らしく生きるための、人生の句読点のようなものといえるかもしれません。

私にとってとても大切な田中一村さんの『田中一村展 奄美の光 魂の絵画』(2024年9月19日~12月1日)が今、東京・上野の東京都美術館で開かれています。
https://www.tobikan.jp/exhibition/2024_issontanaka.html

昨年、家族旅行で奄美大島の田中一村記念美術館で見てきたばかりの所蔵品もたくさん並んでいました。芸術の探究に生涯を捧げた画家・田中一村の代表作を網羅した素晴らしい展覧会です。ぜひ、ご覧になってくださいませ。

日本の里山を想う

桜の向こうに雪が残る山並み、水が入り始めた水田のきらめき。
深い緑に覆われた夏の森、群れ飛ぶゲンジボタル。
波打つ黄金の稲穂、道端に静かにたたずむ野仏。
人の消えた冬の田園、雪に覆われた幻想的な白の世界。

先日、写真展「今森光彦 にっぽんの里山」を見に、東京都写真美術館に伺いました。私は以前から今森さんの写真に強く惹かれていて、とても楽しみにしていたのです。今回の個展は、今森さんのこれまでの集大成であり、大勢の人が詰めかけていました。

列に並んで美術館に入り、作品をじっくり拝見しながら、日本の里山を旅しているような気持ちになりました。そして不思議な思いにかられていきました。

今森さんの写真によって、私の記憶の扉が開きはじめたのです。胸の中に眠っていた記憶が、ひとつまたひとつ、それは鮮やかに呼び覚まされ、いつしか私は、かつてお訪ねした里山や、出会った人、そこで目にした人々の営み、いただいた言葉の数々、その記憶の渦に、喜びとともに包まれていました。 

今森さんが写真家として立たれたのは、高度成長期によって、日本から自然が失われていく時期でした。

それは、私が民芸に惹かれ、日本中を旅するようになった時期とぴったり重なります。各地で古い家が壊されるのを目にし、せめてその梁や柱だけでも次世代に自分の手で渡したいと、12軒の古民家の古材を譲り受け、1本の木も無駄にしないと決め、箱根に家を建て始めた時期でもありました。

女優の仕事も充実していました。プライベートでは4人の子どもに恵まれ、子育て真っただ中でもありました。けれど、わずかな時間を作っては、私は何かに追われるように、農村漁村を訪ね続けました。

小さい子をおぶって、両手に子どもの手をにぎり、山道を歩いたこともありました。ひと夏、子どもたちとともに、ダムに沈む村で暮らしたこともありました。

なぜ、そんなにまでして、自分は日本の里山を訪ねるのだろうと自問したことも、一度や二度ではありません。宮本常一さんの本に感銘し、映像民俗学者の姫田忠義さんに導かれたのも理由のひとつでしょう。民芸の柳宗悦先生の生き方、ものの見方にも大きな影響を受けました。それだけではなく、私の中に、強烈な渇望のようなものが常にあった気がします。

いつからか、私は旅人なのかもしれないと思うようになりました。豊かな自然、豊穣で素朴な人の営み、人々が作ってきた美しい景観を見て、そこで暮らす人と語り合い、その場の風に吹かれることが、私に、生きる喜びと前に進むエネルギーを与えてくれるのです。

失われていく美しい風景を心にとどめ、その保持のために微力であっても行動したいとも思いました。

農山漁村の美しく緑豊かな自然環境や景観、歴史、風土を基盤とした居住快適性の保全と形成に自助努力を続けている地域を表彰する「農村アメニティ・コンクール」や、地域の特産物を活用した起業活動などを行うことで地域づくりに貢献している農山漁村の女性グループを表彰する「食アメニティコンテスト」に長く参加し、さらに「食アメニティー女性ネットワーク」を作り、豊かな農村社会の発展と後継者育成のために力を注いできたのも、そうした思いがあってのことでした。

今も、私は、里山の魅力を積極的に伝えようとしている若者に会うために、あるいはその地域の新しい可能性を模索しているグループにエールを送るために、そして、それぞれの土地の空気を胸いっぱいに吸い込みたくて、旅を続けています。

今森さんの写真を前にして、なぜ里山を抱く農村漁村への旅を、私が半生をかけて続けて来たのか、その本当の理由が、ようやくわかったような気がしました。

涙が出るほど、日本の里山はきれいだからです。

農家の人が米を作るために、土手を整え、小川の水をひき、作ってきた棚田。
人々の汗、森の香り、葉ずれの音、風にそよぐ草。
空の丸さと広さ、柔らかな光と影。そこに生きるたくさんの生物の熱い鼓動。

日本の里山ほど、自然と人が調和して、多様性に富むところは他にないのではないでしょうか。

今森光彦さんの写真展は9月29日まで開かれています。今森さんのライフワーク、里山シリーズをぜひご覧になってください。 そして、胸に迫る風景をみつけたら、その場所を訪ねてみてください。五感を開放し、その場に立って、空を見上げ、風に吹かれ、そこで暮らす人に出会ってください。それがきっと、あなたの魂の栄養となってくれるはずです。

東京都写真美術館サイト

人とのご縁に感謝する季節

猛暑が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。避暑地としても知られるここ箱根も例外ではなく、強い日差し、突然の大雨や激しい稲光に、地球の変化を感じずにはいられません。

けれど、8月になり、空が少しだけ高くなったような気がします。青空をゆっくりと移動する白い雲を見ていると、懐かしい人の顔が次々に浮かんでくるのは、人を忍ぶ季節でもあるからでしょうか。

これまでに多くの友人、先輩を見送りました。それぞれの人が、私にとってかけがえのない存在でした。

その中で「私はあの人の生き方に近づいているだろうか」と、折に触れ、思い出す女性がいます。私の人生の指針であるといっていい女性、村田ユリさん。大正元年生まれの素敵なマダムでした。

出会ったのは私が30代のときのこと。当時、私は四人の子どもたちの子育てと仕事の合間を縫って、長野に車で通っていました。長野の美しい自然に強く魅せられていたのです。

ある日、国道から続く小径に、何気なくハンドルを切りました。しばらくして目にした風景を、信じられませんでした。まるでヨーロッパの田舎に迷い込んだのではないかと思うほど、花が咲き乱れ、緑が風にそよぐ美しい田園がそこに広がっていました。思わず車をとめ、外に出ると、私の全身を柔らかな風とハーブの香りが包みました。

その田園の持ち主がユリおばさまでした。

ご紹介くださる人がいて、はじめてお目にかかったのは、夏の終わりでした。突然お訪ねしたのに「よくいらっしゃいましたね。どうぞ、お入りください」と輝く笑顔で快く招いてくださり、以来、素顔の私をそのまま受け入れ、慈しんでくれました。

おばさまは、昼は農作業に励み、夕暮れになるとシャワーを浴びて、ゆっくり寛ぐ、穏やかな日々を過ごされていました。親しくなるにつれ、おばさまがかつてヨーロッパで長く暮らし、東京にインターナショナルスクールを設立し、東宮御所の植物や花の御相談役も務められていたことを知りました。

何度、お訪ねしたことでしょう。いつしか、おばさまの家は、私の隠れ家、癒しの家となりました。ゆっくりお風呂に入り、自家製の美味しい野菜ときりっと冷えたワインをいただき、ひとしきりおしゃべりをして、夜は、枕の下にフレッシュ―ハーブをしたためたベッドで休ませていただきました。朝は、おばさまの弾くピアノの音色で目覚め、あたたかなプレーンオムレツをいただきました。

私の悩みを察して、ご自身の経験からそっとアドバイスをくださることもありました。決して踏み込み過ぎない距離感の見事さ。人を思う言葉が慈雨さながら、心にしみこむようでした。

ヨーロッパでの暮らしや、今の暮らしの楽しみを話してくれることもありました。さりげない言葉のはしばしから、おばさまが何を大切にし、どう決断し、いかに生きて来たのかをうかがい知り、大人の女性のやさしさとしなやかな強さに胸をうたれることもたびたびでした。

玉村豊男さんの妻・抄恵子さんとの出会いをいただいたのも、おばさまの畑でした。ある朝、抄恵子さんが畑に遊びに来て、ふたりしておばさまの農作業を手伝い、すっかり親しくなったのです。しっかり者の抄恵子さんがおばさまの長女、私が次女と、ふたりで自称するようにもなりました。本当は私が年上なのに。

おばさまの生き方、暮らし方は私の憧れでした。

おばさまは1996年の夏、亡くなりました。その翌日、私におばさまから手紙が届きました。

「あなたは、旅の下にいらっしゃるのかしら。あなたが送ってくださった贈り物が、あなたの居場所を知らせてくれます。あなたのことを思うと幸せになれます。しみじみ、人のことを思うと、自分も幸せになれます」

私が旅先から送ったものへの自筆の御礼状でした。消印は、亡くなったその日でした。

それから長いときが流れました。

年齢を重ねるたびに、若い友人に出会うたびに、私はおばさまのように生きているかと、いつしか自分に問いかけるようになりました。おばさまに学び、おばさまからいただいたものを、一生懸命がんばっている、かつての自分のような若い女性たちにお返ししたい、と。

そして今、あのときのあんなに親身になってくださったおばさまの気持ちが少しだけ分かったような気がします。誰かのために生きること、それが生きる喜びになるのだ、と、おばさまからまたひとつ教えていただいた気がしています。

ユリおばさま。夏の似合う、凛と美しい女性でした。

人と巡り合う奇跡とご縁に、感謝する季節です。

我が心のふるさと・湖水地方を旅して

イギリスの湖水地方に魅惑されたのは、中学生のときでした。ベアトリクス・ポターの本『ピーター・ラビット』に出会い、いたずらうさぎのピーター・ラビットもさることながら、そこに描かれた美しい水彩の風景に心奪われたのでした。

山々が連なる丘陵地帯、深い森、緑の丘、鏡のような湖面、優しい色合いの草花の生い茂る間のかわいらしい小道、小さな美しい家……。それから、湖水地方は憬れの地になりました。

最初にお訪ねしたのは、映画『007は二度死ぬ』の撮影中でした。それも日帰りというものでしたが、私が求めていたものがここにあると深く感じました。そして、人生最後の旅の目的地は湖水地方だと、いつしか思うようになりました。

この6月、その思いを実現するために、思い切ってイギリスに行ってまいりました。ロシア上空を飛べないので、ロンドンまで飛行機で16時間。それから湖水地方へ。イギリス在住の長男家族と、同行した長女とともに、一軒家を借り、そこに暮らすようにゆっくり過ごしてきました。

6月のイギリスはもっとも美しいといわれます。
湖水地方全体がバラの香りに包まれているような季節でした。

毎日、2時間以上、その中をひたすら歩きました。

静寂に包まれた大自然を感じながら、起伏に富んだ小道を歩き、羊たちが草を食んでいる牧草地を横切り、かつて氷河が大地を削って生まれた湖を眺め、牧草地に点在する石を積み上げた灰色の石壁や石造りの古い家を味わい……、

そこに広がっていたのは、絵本そのものの世界。
100年前のイギリスの原風景でした。

散歩の後の紅茶の美味しかったこと。

ポターの家もお訪ねしました。昔ながらの素敵な一軒家です。つつましく、こぢんまりしていて、とても居心地がいい。作家の素顔がうかがわれるような気がしました。

ポターは絵本がヒットした後、ロンドンから移り、自然の残るこの湖水地方でずっと暮らしました。豊富な資源を狙って、湖水地方にも開発の手が伸びかけていた時期でした。そこでポターは、湖水地方の美しい景観を開発から守るために行動を起こします。大ヒットしたピーター・ラビットの印税で、農場や土地を少しずつ購入しました。守るために、所有することを選んだのです。こうして湖水地方の広大な土地がそのまま維持されることになりました。

1943年にポターが亡くなってからは、遺言により、土地や農場、牧草地の羊などはすべてナショナルトラストに寄贈されました。ナショナルトラストは観光地として運用しつつ、湖水地方の景観を守り続けています。

(湖水地方から1時間ほど足を伸ばすと、そこにも歴史ある美しい館がありました)

2017年、湖水地方は、イギリスの世界文化遺産として登録されました。自然遺産ではなく、自然と牧羊など古代から続く人の営み、それらが織り成す湖水地方の「文化的景観」が認められたのです。

現在、湖水地方には年間、何千万人という観光客が訪れます。観光客をひきつけるのは単なるノスタルジーだけではなく、そこに人が求める普遍的な美しさがあるからではないでしょうか。

芦ノ湖の見える地に、私が家を建てたのは、箱根に湖水地方に通じるものを感じたからでした。古いものを大切にし、身の丈の暮らしをする美しい暮らしを求めてきたのは、民芸の考え方とものの見方に、身震いするような感動を覚えたからです。そしてポターの生き方を知り、勇気をいただき、「日本の美」を私なりに見つけようと、これまで歩んできました。

湖水地方に身をおき、今までの人生を振り返るような時を持つことができました。二度目の湖水地方への旅は、何もかもが心に染み渡るような最高の時間でした。

日本にも、湖水地方に負けない、残したい景観がたくさんあります。
日本の美しさを残そうと奮闘する若者も、各地に現れつつあります。

ようやく、私が待っていた時代が日本でもはじまろうとしています。

まだ間に合う。そう信じて、これからは彼らにエールを送る、小さな旅に出たいと思っています。

希望を照らしてくれるもの

能登半島の地震から5か月がたとうとしています。復興に向けた歩みは始まっているものの、倒壊家屋の解体などは緒に就いたばかりで、今でも、大勢の方々が避難所で暮らしていらっしゃいます。

当たり前にあると思っていた普通の暮らしが、どんなにかけがえのないものであるか。そして、いかにたやすく奪われるものであるか。この間、深く感じさせられました。

能登だけではありません。世界に目をはせれば、ウクライナやパレスチナでは戦いが続いています。爆発物を積んだドローン、そうした無人兵器が引き起こす爆発、奪われていく命……死者何人と数えられるひとりひとりに名前があること、愛する家族や友人との現在と未来が永遠に奪われていく重さと非道さに、胸が痛んでなりません。

「どのようにささやかな人生でも、
それぞれがみずからのいのちを、
精いっぱいに生きるものは、
やはりすばらしいことである。
生きるということは何か
いろいろの意味があるのだろうが、
一人一人にとっては
その可能性の限界をためしてみるような
生き方をすることではないかと思う」

(宮本常一著『民俗学の旅』より)

宮本さんのこうしたまなざしが、今こそ、求められているのではないでしょうか。

役者・坂本長利さんは、宮本さんのこの言葉を愛したひとりでした。

私と坂本さんは、大切にしているものが同じだったからでしょうか、魂が触れ合うような、心に染みる時間を重ね、長年にわたり、よきおつきあいを続けさせていただきましたが、残念なことに、先日、94歳で旅立たれました。

「一本の蝋燭が灯る舞台に、かすかな水音、祭囃子、御詠歌が重なり、やがて薦をかぶった老人があらわれ、閉じられた目を静かに客席に向ける――坂本長利さんの独演劇『土佐源氏』を初めて拝見した時の驚きを、今も鮮やかに覚えています。親の顔も知らず、一人で生きて来た馬喰の悲しみ、切なさ、やさしさ、喜びが幾重にも重なり、心を激しくゆさぶる感動の名演でした。

『土佐源氏』は私の敬愛する民族学者・宮本常一先生の著書『忘れられた日本人』の中に収められた、高知の元馬喰から聞き取った話をもとにしているというご縁で、以来、坂本さんとのおつきあいが始まりました。

坂本さんは38歳から、この作品を演じられ、モデルになった男性の80歳という年齢を超え、ようやく落ち着いてやれるようになったとおっしゃるような、根っからの役者でした。おしゃれで、コムデギャルソンを着こなし、さりげなく色香を漂わせるダンディーな男性でもありました。

「浜さん、箱根のこの家、素晴らしいですね。宮本常一先生に影響を受けて建てたこの家の広間で、『土佐源氏』をやってみたらどうだろう。何か新しいものが生まれるかもしれない」

我が家においでくださったとき、坂本さんはそうおっしゃり、意気投合し、私もその日を心待ちにしておりました。コロナのためにそれが実現しなかったことが残念でなりません。

「元気で100歳を迎えられたら、這ってでも『土佐源氏』をやりたいんです」

ともおっしゃり、毎朝、木刀を100回振って、身体を鍛えていた坂本さん。

今は宮本先生と土佐源氏の話をなさっているのでしょうか。そちらでも、民の生きざまを演じていらっしゃるでしょうか。

強靭な役者魂と、土に生きる人々へ温かいまなざしの持ち主であった坂本さんとの、長年のおつきあいに心から感謝いたします」(坂本長利さんを『偲ぶ会』に寄せて、寄稿)

能登の人々の営み、育んできた豊かな文化を、これからも私なりに見つめていきたいと思います。同時に、戦いで傷つく人がなくなるようにと願い続けていきます。その内なる希望を、宮本さんの言葉が、どんなときもそっと励まし、照らしてくれるような気がしています。

箱根の山は、真っ白なヤマボウシの花でふんわりとおおわれる初夏を迎えました。

能登の人々のやさしさを感じるところ

福浦港と灯台、そして腰巻地蔵

能登半島の西端にある福浦港は、かつては福良津と呼ばれ、8~10世紀(奈良時代から平安時代にかけて)は中国大陸との交易の港として、江戸時代は日本海航路を結ぶ北前船も寄港する港として栄えました。

能登金剛の名で知られる断崖が続く荒々しい海岸線。そこにぽっかりと開けた深い入り江。今は静かな漁港ですが、澄んだ青空と美しい海を前にすると、天然のこの良港に多くの船が出入りしていたころの光景が私の瞼の裏に浮かびます。

福浦港のすぐ脇にある日和山という名の高台には、現存する木製灯台では日本最古である旧福浦灯台があります。明治9年に、日野吉三郎さんが建造した灯台です。その歴史はさらにさかのぼることができ、約400年前の慶長年間に日野家の先祖・日野長兵衛氏が港に出入りする船の安全のためにかがり火を焚き、やがて灯明堂が建てられたとか。小船をつくり、商いを営んでいた福浦の大店・日野家が脈々とつないできた灯台なのです。

また、福浦港を挟んで旧福浦灯台の反対側には、腰巻地蔵というお地蔵様が祭られています。かつて福浦に北前船目当ての船宿や遊郭も多かった頃、船頭に恋をした遊女が別れを惜しみ、「どうぞ、海が荒れて、出航がとりやめになりますように」と自分の腰巻を地蔵に当てたところ、たちまち海は荒れ、船頭の船は出港できなかったという言い伝えが残っています。このお地蔵様を紹介してくれたのは、北陸放送のラジオのプロデューサー・金森千栄子さんでした。以来、能登を訪ねたときには時間を作り、足を延ばすようになりました。

この灯台とお地蔵さんに、宮本常一先生の著作『忘れられた日本人』に通じるものを、私は感じずにはいられません。

『忘れられた日本人』は日本各地の土地の古老達の話を宮本先生が聞き書きした作品で、読み進めるうちに、一見、なんということのない地道なひとりひとりの人生の中に、喜び、苦悩、悲しみなどがぎっしり詰まっていることに驚かされ、やがて生きるとはどういうことなのかと、改めてじっくり考えさせられる名著です。

女性の社会進出が進み、社会的地位が劇的にも変化した今、たとえば腰巻地蔵が物語る遊女の悲しみに思いをはせることさえ、だんだん難しくなっているのも事実かもしれません。実際、時代の変遷とともに、全国には消えていった、こうしたお地蔵さんがたくさんあると聞きます。

けれど、語り継がれたものの中には、当時の暮らしや文化、信仰、考え方などが息づいており、そこに現代にも通じる問題や、あるいは形を変えて続いている考え方などが隠れていたりもします。

――愛しい人のそばにずっといられますように。

――あの人が無事でありますように。

能登の人々は、自然に対する尊敬と畏怖の心、そして女たちの祈りの本質を見つめる確かなまなざしをもっていたからこそ、腰巻地蔵の物語を今の時代までつないでこられたのではないでしょうか。

旧福浦灯台と腰巻地蔵には、能登の人々のやさしさと心の弾力、深い叡智が詰まっています。その場にいると、心がふわりと温かくなる気がします。お近くにいらしたときにはぜひ、訪ねてみてください。

金森さんは、ラジオカーを走らせ、街の声を拾い集め、ラジオの双方向の放送を提供した先駆者でしたが、残念ながら昨年の11月に旅立たれました。

訃報をお聞きした時、ふと心に浮かんだのは、福浦港で行った宝探しの光景でした。

今から四十年ほど前、金森さんと船から福浦の港を眺めていた時のことです。かつて福浦地区では、不要になったごみを、人々が崖の上から捨てていたという話を聞きました。「あそこに」金森さんが指さした先には、断崖を背にただ緑の草が生い茂っていました。

明治、大正、昭和の初期……ものを使い切る時代に、人々がごみとして処分したものは何かしら。今も形が残っているものがあるかしら。そのごみを調べてみよう。できる限り回収して港をきれいにしよう。私と金森さんは船からおりる前にそう意気投合していたのです。

ラジオでみなさんに呼びかけて、後日、福浦港に集まった人々と一緒に、崖下を掘り進めました。出てきたものの多くは陶器やタイルなどのかけらでしたが、中には無傷に近い器などもあり、「あったぞぉ」「見つけた!」という人々の歓声もあがりました。

回収したごみは2トントラック10杯分。何世代にもわたって、そこに住む大勢の人が出した不要なものがその量でした。

私が見つけたお宝は白いホーローの洗面器でした。港町の医院で、使っていたものでしょうか。欲しいという方にさしあげてしまったのですが、今もその形、佇まいをはっきりと思い出すことができます。ものという窓を通して、時をさかのぼる旅をしたような気がしました。

福浦の青い空と海が恋しくなりました。福浦の潮風にもう一度、吹かれてみたくなりました。

石川県観光公式サイト ほっと石川旅ねっと
https://www.hot-ishikawa.jp/spot/detail_6372.html

能登と角偉三郎さんのこと

長年、愛用しているお椀があります。煮物、汁もの、うどん、そば、ご飯もの……なんでもござれの、角偉三郎さんの合鹿椀です。形や塗りの美しさはもちろん、手でもち、唇をふれるたびに、その心地よさに改めて感動を覚えます。このお椀に盛り付けると、料理の味わいが二割、いや三割増しです。

偉三郎さんは漆の下塗職人の父と蒔絵職人の母の元に生まれ、輪島の伝統の中で育ちました。沈金作家として、絵画のようなパネル作品を次々に発表し、アーティストとして早くから注目されましたが、石川県能登町合鹿地に伝わる合鹿碗に魅せられ、「生活で使う道具」へと作風を変えていきました。

削った大椀の木地に、じかに漆をかけ流し、塗りつけた合鹿椀は、土地の人々の暮らしに長く根差していたものでしたが、後継者不在のため、大正期にはその伝統が途絶えたといわれます。その合漉椀を偉三郎さんは復活させたのです。

「木に逆らわず、漆に逆らわず、うぶで正直でという椀を作ろうとしました」

「技術だけでは終わらない、人間だけでは終わらないものを、合漉椀に強く感じるんです」

「器は使って初めて完成します。「手でつかみ、口唇にふれる」これこそが漆の本来の姿だと思う」

角さんにはじめてお会いしたのは、私が30代後半のころ。今から40年ほど前のことでした。以来、お会いするたびにお酒をご一緒し、合漉椀への思いから漆文化の旅、能登の魅力など、さまざまなことをお話しいただきました。タイやミャンマーの村で、木から削っただけのものに、木くずや砂埃がくっつくのもかまわず、漆を塗っているのを見て、漆の原点を見たというお話は、中でも強く印象に残っています。

偉三郎さんは、旅を愛し、能登を愛した人でもありました。

「能登には海からの文化と、峰からの文化があります。海からは、北前船や遠い大陸から持ってくるものが寄って文化を伝えていくと同時に、海から出ていく文化も生み出してきた。一方、峰から村々へ下りてくる文化は次第に籠って錬れていく。だからこそ守られてきたものがある。能登は相反するようにみえる、ふたつの文化を抱えているんですよ」

「能登は自然と水がいいんです」

「僕はときどきたまらなく輪島を出たくなる。輪島を出るときには口笛が出ます。帰るときにも口笛が出るんです。両方、大事なんです」

土地はそこに根差した歴史や文化と一体なのだと、お話を伺いながら深く感じました。偉三郎さんという人もまた、能登の自然、文化、歴史が生み育てたのだ、とも。

合漉椀を復活させた偉三郎さんは、とどまることなく、さらに素材と漆の新しい合わせ方を創造するなど、漆と共に暮らす喜びを追求し続け、2005年、65歳で旅立ちました。

このたびの能登半島地震の後、偉三郎さんがご存命であれば、どう行動なさっただろうと考える日が続きました。合漉椀だけでなく、輪島塗全体の今後を考え、偉三郎さんは果敢に立ち上がったように思えてなりません。

この地震では全壊や半壊を含め、いくつもの輪島塗の工房が被害を受けました。未だどこから手をつけて良いのか分からない状況も続いているとも聞きます。けれど、室町時代から続く輪島の、能登の伝統の塗り物を途絶えさせるようなことがあってはならないと私も、切に思います。

もし塗り物の器をしまっていらっしゃるなら、取り出して、ぜひ日常で使ってください。輪島展などがお近くで開かれているようでしたら、足を運んで、手に取って下さい。そして、いつか、落ち着いたら、偉三郎さんの愛した能登を訪ねてください。

「能登半島は連れ込み半島なんです。女や男を連れ込む。物の怪も。浜さんも」

そういって、にやりと笑った偉三郎さんのいたずらっぽい表情を思い出しました。能登には、連れ込まれた旅人をあたたかく迎えてくださる偉三郎さんのような人がきっと、たくさん待っています。

問わず語り ~能登に想いを寄せて~

今年も桜の便りが届き始めました。自然は厳しく強く、ときに優しく、人に寄り添ってくれるものでもあると、感じずにはいられません。

能登半島地震の発生から丸三か月がたちました。この地震に被害にあわれたみなさまに、心よりお見舞い申し上げます。

元旦の夕方 16 時 10 分に起きた地震は石川県志賀町と輪島市で震度 7 、七尾市、珠洲市、穴水町、能登町で震度 6 強。石川県だけでなく、激しい揺れは富山県、新潟県、 福井県をも襲いました。

私にとって北陸は、20代から何度も繰り返しお訪ねした場所です。箱根に家を建てると決めた時には、北陸の友人の家に中古の車を置かせてもらい、休みのたびにハンドルを握り、古民家を見てまわりました。箱根の家には、その時に出会った北陸の古民家の梁や柱、床板が生かされています。そして北陸を歩く中で、土地が育んだ文化、人々の人間性に、私はいつしかすっかり魅せられたのでした。 

震災から時間がたち、避難している皆様の疲れが顕著になる時期となりましたが、被災地では一部で仮設住宅への入居が始まっているものの、復興には何年もかかるといわれます。そのとき、残るものも、失われていくものも、新たに生み出されるものもあるでしょう。

北陸のために、私に何ができるだろうと、自問自答する日々が続きました。そして、もしあるとしたら、私がかつて出会った北陸の人々や美しい道具のことを伝えることではないかと思いました。

心の奥底に大切にしまいこんでいたものを取り出して、これからしばらくの間、私の「問わず語り」として、折々に綴っていきたいと思います。よろしかったら、どうぞ、お付き合いくださいませ。

日本海には、港に通じる小道がいくつも走り、通りには豪壮な商家や船主屋敷が建つ港町が点在しています。巨万の富を生む北前船の、かつての寄港地です。土地の神社では、遠い京の都にも通じる祭礼が今も行われ、言葉や民謡にも古い雅が残る港町。加賀市橋立町もそんな港町です。

土地の氏神さまの出水神社には北前船主らが寄進した鳥居や、敦賀や大坂の問屋が寄進した灯篭、玉垣、狛犬がたっています。絵馬堂には、何枚もの船絵馬が航海の無事を祈って、奉納されていました。そして通りには堂々たる風格の船主の屋敷が並んでいました。

酒谷えつ子さんはその一軒に住んでいる高齢の女性でした。お会いしたのは、昭和57年の7月。えつ子さんは88歳でした。

土塀が巡る大きなお屋敷でした。上がり框、柱、梁は総ケヤキ。天井には煤竹が一面に張り巡らされていました。驚いたのは、奥の座敷に、大小のふたつの仏壇があったことです。

三月の梅の花咲くころから年の暮れ近くまで、橋立の男たちは北前船に乗って家を留守にします。その間は大きいほうの仏壇の扉を閉めておき、男たちが帰って、航海の無事を先祖に報告するとき、再び扉を開けるのだと、えつ子さんが教えてくれました。小さい仏壇(縦約1メートル×横約50センチ)は、留守を守る女たちの仏壇で、「夏用の御仏壇」と呼ばれていました。

板子一枚下は荒海。難破の危険もあり、男たちが船出をするときには、船の姿が見えなくなるまで、浜に立ち、声を限りに呼びかけ、手をふっていた女たちは、その小さな仏壇に毎朝夕、手を合わせ、男たちの無事を祈っていたといいます。男たちを送り出した女たちの暮らしも、厳しいものでした。畑を耕し、子育てをし、家はもちろん村のことも切り盛りしていたのは、もっぱら女たちだったからです。

でも過去帳には女の名前は記載されてはおりません。そこにあったのは、男の名前だけでした。

実は、えつ子さんと会った直後に、私は北陸放送開局30周年記念ラジオ番組企画「リブⅡ世号 北前船の海を行く」に出演する予定でした。海洋ジャーナリスト小林則子さんの航海に私もご一緒させていただくことになっていたのです。けれど、男にしか許されなかった北前船の航路を、女の私が果たして辿っていいものかと、ためらいもありました。海に生きた男たち、それを支えた女たち、何百年も脈々とつながれてきた歴史と文化に対する敬意が、私を躊躇させていたのでしょう。

私がその思いを打ち明けると、えつ子さんは静かにこうおっしゃいました。

「いいじゃございませんか。男の役割を女がし、女の役割を男がしてみる。そうすればお互いの役割をより理解できると思います。おやりあそばせよ」

古くからの文化を守ること、今という時代を生きること。その両方を、えつ子さんから教えていただいたような気がしました。

あれから42年。能登半島地震では、加賀市の揺れは震度5強でした。道路や家屋への被害は発生しましたが、幸いにも人的被害はなく、3月16日には北陸新幹線加賀温泉駅も開業しました。えつ子さんの家は今、『北前船の里資料館』として公開され、訪れる人に北前船の歴史と文化を伝えています。

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