四季が織りなす自然の風景の美しさが、年々、より深く心に染み入るようなりました。
春の桜、夏の深山や青い海、秋の紅葉、冬の雪景色。それぞれの季節にそのときにしか見られない美しい景色があることに、日本で生まれ育った幸せを感じずにはいられません。
その季節が廻りくると、おのずと開く記憶の扉もあります。
今年の桜の時期には、これまでに出会ったたくさんの桜を思い出しました。
民芸に惹かれて日本の農山漁村を歩き始めたころに見た畑の先にあった桜のトンネル、古民家を探して車を走らせていた時に出会った見事な山桜、桜吹雪の中を子どもたちと歩いたこと、都会のビルの合間に咲く桜は女友達と一緒に……。
中でも鮮やかに思い出したのが、「荘川桜」でした。
岐阜県の北部、白山と飛騨山脈の間に作られた御母衣(みほろ)ダム湖。その湖畔に2本の桜の古木が植えられています。ダム湖の底に水没した荘川村にあった桜・荘川桜です。
戦後、日本の今後の発展のために電力エネルギーの確保が急務だということで、全国でたくさんのダムがつくられました。先祖代々暮らしてきた故郷を失うことを受け入れられないと反対運動も起きましたが、多くの村が移転をよぎなくされました。荘川村に住んでいた約230戸約1200人の村人も反対運動を繰り広げた末に、村を離れざるをえませんでした。
このとき、故郷を湖底に沈める決意をした村人への敬意からでしょうか、村人とひざ詰め談判を重ねてきた特殊法人・電源開発の初代総裁である高碕達之助さんが村内を歩き、村の守り木ともいえる2本の桜に目をとめ、「この桜を移植し保存しよう」と言い出したというのです。
樹齢約450年、樹高は約20メートル。2本の老樹の重さは合わせて73トンもありました。桜の移植は簡単ではなく、たとえ移植しても根付く保証はなかったといいます。けれど移植は成功し、1年後に若葉が芽吹き、約10年かけて満開の花が咲くまでになりました。
その話を知り、ぜひ荘川桜を見てみたいと足を延ばしました。4月後半から5月はじめがいいとのことで、ちょうど今頃だったと思います。
よく晴れた日でした。青空に、うっすらと白い雲がたなびき、少し冷たさを含んだ風がふいていました。
その場所はすっかり桜色に染まっていました。その下に、おばあさんたちがゴザを敷き、談笑していました。
「おにぎり、一緒に食べない?」
誘っていただいて、私もゴザに座らせてもらい、大きなおにぎりをいただきました。
水没した荘川村に住んでいた人たちのお花見でした。毎年、桜の季節になると、誘い合わせてこの2本の桜に集まるのだとか。
「桜だけでも残ってよかったねえ」
「私たちもがんばって生きていかなきゃねぇ」
「やれることやって。少しは役に立たないと」
おにぎりを食べ終えると、立ち上がり、誰もが桜の幹をいとおしそうになではじめました。当時は柵もなく、桜に直接触れることができたのです。桜をさすりながら涙ぐんでいる人もいました。どの手にも皺が刻まれ、指は節くれだっていました。働いてきた人の手でした。これからも働いていこうとする人の手でした。
私が30代後半のころのことです。
荘川桜は、私にとって、40で女優をやめる決断をする、ひとつのきっかけになった桜でもありました。
先日、はじめて箱根の一本桜を見に行きました。40年、箱根に住んでいたのに、行こうと思えば見に行けたのに、なぜかそういう気持ちになれなかったのです。
一本桜は実は5本の大島桜が寄り添っているのだそうです。樹齢約100年。枝張り約23m、高さ約12mで、きれいな富士山のような形をしています。
朝7時に訪ねていった私を、一本桜は手を広げて迎え入れてくれた気がしました。
他に誰もいず、そこには私ひとりだけ。
満開は過ぎ、少し葉桜になっていて、ほろほろと花びらが風に舞っていました。澄んだ鳥の声が空に抜けていきます。とても静かでした。
しばらくすると雲の合間から光の帯がさしこみ、桜を照らし、芦ノ湖の湖面を桜色に染め、その美しさに声をのみました。
その瞬間、一本桜が、かつて御母衣でみた荘川桜がだぶって見えました。桜の中に、あのときであったおばあさんたちの笑顔も見えた気がしました。
失ってしまった懐かしい風景を思い起こさせる桜、毎年必ず咲いて、いつの世も美しい姿を見せてくれる桜。
桜は日本人にとって記憶の宝庫であると同時に、再生のエネルギーと励ましを与えてくれるものではないでしょうか。
出会った人々や美しい風景、人が紡いださまざまな物語、そして新たに見ることができた一本桜に、私も明日へ向かう力をいただきました。
これから箱根は新緑が美しい季節です。新しい物語がまた生まれそうな気がしています。




