こよひ逢ふ人 みなうつくしき 生誕140年 与謝野晶子展

みなさまはゴールデン・ウィークはどのように過ごされるのでしょうか。

私は暦通りなので、1日は東京にラジオ収録で出かける以外はこの箱根の山でのんびりと過ごす予定です。まとまったお休み、”さぁ~何をしましょう”・・・と考えていた時にふっと普段なかなか出来ないことをしようと思いました。

以前に買い求め、斜め読みしかできなかった与謝野晶子の「新訳源氏物語」を読み始めよう!と思い立ちました。

初版発行は平成13年。その頃の私といえば、何だかバタバタと全国飛び回り、「この世でもっとも読みやすい源氏物語」と帯には書かれておりますが、それが、なかなか・・・。そこで、ちょうどよい機会なのでこのゴールデン・ウィークをスタートにしようと思ったのです。

ちょうど現在、横浜の港の見える丘公園に隣接している県立神奈川近代文学館で特別展『生誕140年 与謝野晶子展』(5月13日まで)が開催されておりますので行ってまいりました。

”こよひ逢ふ人みなうつくしき”

与謝野晶子は、1878年(明治11)、堺の町中にある和菓子商・駿河屋の娘に生まれ、体の弱い母にかわって、駿河屋の中心的な働き手として、帳簿つけ、菓子の販売など、店番の合間に膨大な父の蔵書をひもといて、奈良時代から江戸時代にいたる古典作品の数々を読み耽っていたそうです。

有名な歌集『みだれ髪』は、晶子は髪が豊かで、いつも幾筋かの髪の毛を垂らしていたことから、師であり、後に夫になる与謝野鉄幹が歌の中で晶子を「乱れ髪の君」と詠み、愛称となったそうですね。

鉄幹、晶子の相思相愛は生涯変わることなく続くのですが、妻であり、五男六女の母であり、一家の家計を支える大黒柱であった晶子の日常の暮らしは、想像を超えたエネルギーと鉄幹への尊敬と思慕がなければ続かなかったことでしょう。

うすものの二尺のたもとすべりおちて 蛍ながるる夜風の青き (みだれ髪)

そと秘めし春のゆふべのちさき夢  はぐれさせつる十三絃よ (みだれ髪)

恋をしている女性は美しい、とも書かれています。会場の直筆の手紙や書、不遇の日々を過ごす鉄幹を再生させるため、晶子は鉄幹の念願だった渡欧を実現させようと資金集めに奔走し、自ら屏風歌を詠み、パリに向かった鉄幹を送り出し、でもその不在に耐えられなくなり、子どもを鉄幹の妹に託し、自身もパリへと旅立ちます。

そのパリ滞在中に描いた「リュクサンブール公園」はその才能の豊かさにも驚きました。

男女の別なく「完全な個人」を目指していた教育を実感できる資料も見ることができます。

そして旅に彩られた晶子の後半生の中でも神奈川県各地への旅行は数知れず。箱根には「明星」「冬柏」の同人たちと例年のように吟行に訪れ、温泉で心身を癒し、森林や溶谷、湖で豊かな自然に親しんで詠まれた多くの作品には「深い歌堺がある」といわれています。何だか嬉しくなります・・・私の住む箱根を旅していた与謝野晶子がそこに存在しているようで。

鉄幹と出逢って35年の歳月。
苦労も葛藤も多かったはずです。
会場で目にした『半分以上』で
私の子供達、さやうなら。
お父様のところへ行きます、
いろんな話をしませう。

で、始まる詩を読み、涙がこぼれてきました。

与謝野晶子はすぐれた歌人であり、自らの考えを信じ、男性社会においてもたえず”新しさ”を求め、自分自身の生き方を貫かれ後世へと夢を託した人。何よりも『母性のひと』だと実感した展覧会でした。

晶子30代で訳した「新訳源氏物語」は渡欧を挟んで3年で。自身「無理な早業」と語っていますが、『新新訳源氏物語』(全六巻)は鉄幹の死を挟んで約6年の歳月をかけた訳。

完成して約半年ののち、晶子は脳溢血によって倒れ、2年後(昭和17年)63歳のいのちをおえました。私が生まれる前の年だったのですね。

まずは「ひかる源氏」編(角川書店)と「薫・浮舟」編から読みはじめましょうか。

神奈川近代文学館
東急東横線直通みなとみらい線、元町・中華街駅・6番出口徒歩10分

シニアは入場料300円。
休館日(月曜)4月30日は開館です。
お天気のよい日にお散歩がてら、海を眺め、帰りに中華街での食事なども素敵ですね。

映画「ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書」

正直にいって映画を観終わったあと、しばらく席を立つことが出来ないほどの心地よい疲労感と、スピルバーグ監督からのメッセージを深く考えていました。

この作品の舞台となるワシントン・ポストのオフィスの再現は徹底的にこだわるスピルバークの世界。監督は語っています。

「今もワシントン・ポストに勤めている友人をセットに招待したんだ。おちこち見て回った彼の目には涙があふれていた。彼は『当時のオフィスそのものだ』と言ってくれた」と。

ヴィンテージのタイプライター、コード付きの電話器、記事のカーポンコピー、乱雑に置かれた灰皿、その匂いすら感じる編集現場。

監督・製作はスティヴン・スピルバーグ。
主演はメリル・ストリーブが演ずるキャサリン・グラハム(ワシントン・ポスト社主・発行人)とトム・ハンクスが演ずるベン・ブラッドリー(ワシントン・ポスト編集主幹)。

半世紀近くも前の話です。米国の歴代政権が隠してきたベトナム戦争の実情を記す機密文書の報道を巡る政府と新聞の闘いが描かれています。スクープしたニューヨーク・タイムズが政府の力により差し止め命令を受けます。1971年6月、ワシントン・ポストが立ち上がります。

この映画には英雄は登場しません。内部告発者、メディアの経営者やジャーナリスト、彼らは皆、重要な登場人物。しかし、生身の人間。悩み、逡巡し、もだえる。

その時、彼らが立ち戻る原点は?

言論・報道の自由をとことん守り抜くと宣言した憲法修正1条。彼らの思想と行動を多くの市民は支持します。そして、裁判所も、政府の横槍を認めませんでした。

まだまだ若い米国には、もしかしたら強烈な”歴史意識”があるのかもしれません。『我々が日々、歴史をつくっている!』その感覚は政治家や官僚の専売特許ではない。多くの市民の無意識のうちに積み重ねている日常の所作かもしれません。

「最高機密文書」にはベトナム戦争での米軍の劣勢など報告されていたのです。それを知っていて、異なる発表を続けた歴代政権を、メディアや市民は許さなかったのです。多くの尊い命が奪われた戦争でした。

キャサリンを演じるメリル・ストリープの見事な演技は「クレーマー、クレーマー」(79)、「ソフィーの選択」(82)、「恋におちて」(84)、「マジソン郡の橋」(95)、「プラダを着た悪魔」(06)、「マンマ・ミーア」(08)、「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」(11)など、あげたらきりがないほどの多くの役を見事に演じてきた女優。

私生活では、夫でアーティストの間に一男三女のお母さん。キャサリン・グラハムも四人の子どもの母親で、家庭を守り平凡に暮らすのが一番の幸せ・・・と思ってきた典型的なあの時代の女性。父親の興した新聞社を夫が継ぎ、ところがその夫が鬱病で自殺してしまい、社主をつとめることになったキャサリンは、経験も浅く、男性優位の社会で礼儀正しさを保ちながらも筋を通すやり方を学んでいきます。

彼女は新聞社史上もっとも大きな決断を迫られた時に『いつも完璧じゃなくても最高の記事を目指す。それが仕事でしょ?』と言い放つのです。

正直にいって私はスピルバーグ監督は女性を描くのは苦手の人、と思ってこれまできました。今回の映画で見事に裏切られました。トム・ハンクスも中年になりますます素敵になっています。リズ・ハンナの脚本も女性の目が生かされていますし、ある意味では信頼のラブストーリーともいえます。

半世紀近くも前の話です。この記事は当時世界中を駆け巡り、私もはっきり記憶にあります。

しかし、「機密文書」自体の真贋が問われたとしたらいったいどうなるのでしょうか。極めて深刻かつ、今日的な問題です。

この映画は人事ではなく、アメリカ映画・・・では片付けられないメッセージをスピルバーグ監督から預けられているのです。

ラストシーンを見逃さないでください!

映画公式HP
http://pentagonpapers-movie.jp

「ルドン 秘密の花園」展

ラジオ番組の収録で月に2回は東京に出かけます。

午後1時過ぎには終了するので、その日は待ち通しい、映画・展覧会のひとときです。映画は銀座界隈、展覧会も、東京駅から近い三菱一号館美術館はちょっとした時間に立ち寄れるし、明治期のオフィスビルを復元した建物は落ち着きがあり、小さな展示室が連なっているから疲れませんし、作品との距離も近く、じっくり向き合えるのが嬉しいです。

桜満開から数日たっていたので、葉桜になっていて新緑の眩しい内庭。建物に刻まれた歴史を愉しみながら”さあ~ルドンに逢いにいきましょう”とワクワク気分です。

印象派の画家と同世代でありながら、幻想的な内面世界に目をむけたオディロン・ルドン(1840-1916)。その特異な画業は、今も世界中の人の心を魅了し続けています。

私が始めてルドンの絵を観たのはパリのオルセー美術館だったと記憶しております。衝撃をうけました。「この画家は何を見つめ、何を訴えようとしているのかしら・・・こちらの心の奥を覗かれているようだわ」と思ったのが最初の印象でした。

今回の展覧会は植物に焦点をあてた世界で初めての展覧会とのこと。オルセー美術館、ニューヨーク近代美術館MOMAをはじめとする世界各地の美術館からルドンの作品が集まりました。

ルドンはフランス・ボルドー生まれ。病弱だったため生まれてすぐ、親戚の家に引き取られ、自然豊かな田舎で11歳になるまで育てられました。

その体験は画業に大きな影響を与えます。両親の勧めで建築家を目指しますが受験に失敗。その後、画家を目指しますが遅咲きで、最初の版画集を出版したのは39歳のとき。

40代後半まで木版画や石版画(リトグラフ)など「黒」を基調とした作品を発表します。私はこの時代の作品はとても好きです。40歳で結婚したルドンは、長男を生後半年で亡くしますが、数年後に待望の次男を授かります。それまでの黒一色だった画面は一転し、50代になってから次第に色彩豊かな作品を発表します。

今回の展覧会ではドムシー男爵の城館の食堂を飾った装飾で、三菱一号館所蔵の大きなパステル画『グラン・ブーケ(大きな花束)』、同食堂の15点の壁画など90点あまり。

中でも「目をとじて」(リトグラフ)は、黒から色彩への転換期以降、ルドンの新たな主題でもあります。この作品をどのように解釈するか・・・は観る側に委ねられているように思います。

それが『秘密の花園』なのですね。岐阜県美術館蔵の「目をとじて」(油彩)も素晴らしいです。人間の内面や精神性を描いているルドンの作品を観ていると理性や理論では表現できない・・・心の自由を感じます。

丸の内のオフィス街にひっそり隠れ、四季折々の花が咲く秘密の花園のようなガーデンでワインを一杯!・・・と書きましたが、季節が素晴らしいので外国の方々も、バギーに赤ちゃんを乗せたママなど、大勢の方で賑わっていました。

会期は5月20日まで。
http://mimt.jp/redon/

映画『しあわせの絵の具~愛を描く人 モード・ルイス』

「絵の具があるから。窓があるから。そこを鳥は通り過ぎ、枠いっぱいに、命があふれるから」。

「この手に筆、目の前に窓さえあれば、私は満足です」。

モード・ルイス自身のことば。
世界的には賞がらみの多いこの頃の映画界ですが、この真珠のような輝き、そして芯のある一作にくぎづけになりました。

カナダの東部の小さな村に、鍛冶職人の父、絵と音楽を愛する母にとって待望の女の子の誕生でした。しかし、子どもの時にリウマチにかかり、身体が不自由でした。父の死。そして最大の理解者だった母の死。叔母に預けられ厄介者扱い、失意の日々を過ごしていたある日、家政婦募集の新聞広告がモードの人生を大きく変えることになるのです。

雇い主は無骨で多くを語らない、孤児院で育ち字も書けない魚の行商で生計を立てている男・エベレット。俺が主人、犬が次。家政婦はビリ。そんなふたりがいつしかお互いを理解し結婚し、やがて彼女が小さな家の壁や外壁、窓に描く絵がニューヨークから避暑にきていた女性の目にとまります。

主演のサリー・ホーキンスとイーサン・ホークは町外れの家に住む天性の画家とその夫を見事に演じています。実力派女優のサリー・ホーキンスはもともと絵の素養があり、それでも役を演じるために画学校に通ったそうです。

モード・ルイス(1903~70)が描く絵、素朴派芸術(ナイーヴ・アート)とは、美術史、テクニック、観点においては正式な教育や訓練を受けていない人物が創作した芸術をさします。

簡素さと率直さ、心に響いた絵を描く彼女。無欲な彼女の絵はやがてカナダを代表する画家になるのです。5ドルから始まった絵は現在は美術館に入り途方もない値段になっているとか。

なによりも不器用な二人。このふたりの時間が育てた夫婦の愛は67歳で生涯を終えるまで、長年連れ添ったふたりだけに通じる強い精神と、寄り添い、貧しくとも豊かな、そして温もりのある家。家そのものが作品となっています。”ペインテッドハウス”は作品郡と共にノバスコシア美術館で見ることができるそうです。

人間、孤独な男と女は寄り添うことで愛はうまれるのですね。

実話をもとにアイルランドの監督アシュリング・ウオルシュとカナダの脚本家シェリー・ホワイト、女ふたりの協同作業がこのような素晴らしい映画を作り上げたのですね。

映画も多くは語りません。過去や心理描写には深入りせず、観る側に委ねてくれる心地よさ。

何も望まず、そっと今のままで・・・それでじゅうぶん。モード・ルイスが教えてくれる、人生で大切な喜びを・・・。

久しぶりに心が暖かくなりました。

私は東銀座の東劇で観ましたが、渋谷の文化村その他で上映中です。中高年の方々でいっぱいでした。

映画公式ホームページ
http://shiawase-enogu.jp

100歳まで動ける体になる「筋リハ」その2

先週に続き、今週も『筋リハ』です。先日スタジオに久野譜也(くのしんや)先生をお迎えし、直接お話とスクワットなどの仕方も指導していただきました。大変参考になるお話でした。

久野先生は筑波大学 大学院教授で1962年生まれ。スポーツ医学の分野において、中高年の筋力運動をはじめ、筋肉が減少して脂肪が増えるサルコペニア肥満、健康政策などを研究されておられます。全国の自治体や健康保険組合に、健康増進プログラムなどを提供しています。

年齢を重ねても、いつまでも元気でありたいですよね!私たちは加齢により筋肉の衰えから、疲れやすくなったり、太りやすくなったりするそうです。それはどのような仕組みなのか。専門分野の先生にお話を伺い、衰えさせないためにはどうしたらよいか?など貴重なアドバイスをいただきました。

ご著書を読んで頂くのがより分かりやすいと思いますが、まず『3つの柱』があります。

★筋肉運動(筋リハ)
★有酸素運動(ウオーキングなど)
★バランスのとれた食事

筋肉が脂肪に変わってしまうこともあるそうですよ~! 筋リハとウォーキングをセットにして行うといいようです。ウオーキングは1日8000歩の目標が適切だそうです。

でも、そんなに毎日歩けるかしら・・・と思わずつぶやいてしまった私に、心強いお言葉をいただきました。

今の科学では『歩きだめ』が可能!とのこと。ウィンドウショッピングでも、ちょっとした散歩でも家の中での家事など、トータルの歩数。今日少なければ明日・・・つまり1週間で5万歩が目安だそうです。

20分以上歩かないと脂肪が燃焼しないという神話は、今の科学で完全に否定されているのだそうです。1日に何回に分けても大丈夫だそうです。

筋肉を動かせば”認知症を防ぐ働き”も期待できるそうです。

運動で体を動かすと、筋肉組織からイリシンが分泌され、このイリシンが血液を通して脳に入ると、脳内で「BDNF(脳由来神経栄養因子)」という物質の分泌を促すのだそうです。

認知症はなんとか避けたいですよね!誰でも。頭を使って室内で「脳トレドリル」よりも普段から”頭”も”体”も両方ともしっかり動かすことが大事・・・だそうですよ。

でも、3日坊主にならずに運動をつづけるにはどうしたらよいか、も伺いました。

是非番組をお聴きください。
そして久野先生の分かりやすい本をご覧ください。

文化放送「浜美枝のいつかあなたと」
4月1日(日曜日 )放送
10時30分~11時

100歳まで動ける体になる「筋リハ」

「いつもお元気で何よりですね」。

そんな嬉しい言葉をかけていただくことが多いのですが、私も70代半ば。近頃は体調管理の必要性を切実に感じるようになりました。

年齢を経て気をつけなくてはならないのは転倒だとよくいわれます。実は私はその経験者。60代半ばの雨の日、ハイヒールをはいていた私は、濡れた大理石の床でバランスを崩し、背中を打ち、圧迫骨折してしまいました。

以来、足腰を鍛え直したいと、箱根の山を歩くことにしました。天気のよい日は富士山や芦ノ湖を見ながら、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んで、2時間ちかくも険しい山道をあるいていました。ところが、昨年アクシデントに見舞われました。突然、足があがらなくなり、歩くのが辛い、痛い。

すぐに整形外科の先生に調べていただいても、骨にも筋にもレントゲンでは異常なし。骨密度も問題なし。しかしかなりショックでした。『大変!このまま歩けなくなるのかしら』と、ちょっとしたパニックになり、体や足に関する本を読み漁り、マッサージも続け、歩きの専門家をも訪ね、ようやく理由がわかりました。

良かれと思って、山道を歩き回っていたことこそが原因だとわかりました。トレーナーに教えていただいたトレーニングとストレッチを朝の日課にしました。そんな時に出会った本が、筑波大学大学院教授の久野譜也さんの 『100歳まで動ける体になる「筋リハ」』です。

「落ちてきた体のさまざまな機能を”元気だったあの頃の状態”にまで戻すことができるのです。筋肉は、わたしたちの体の中で活力エネルギーを生み出している工場のような存在なのです」と書かれておりました。

70代を過ぎると、筋肉量は20代の時の半分程度になってしまうとか。でもその筋肉は無理なく再生が可能なのだそうで、運動が苦手な人でも日常生活の中でできる科学的なプログラムが書かれておりますし、「筋肉運動」と「ウオーキングなどの有酸素運動」の両方を行うことによってこそ、若さや健康を取り戻せます。と。

中高年の筋力運動、サルコペニア肥満、健康政策などを研究なさって著書も多数。

私は納得し、さっそく始めました。これは、ラジオお聴きのリスナーの方にもぜひ聴いていただきたいと思いゲストにお招きし、お話を伺うことにいたしました。収録は来週20日なので、次回のブログに詳しくご報告いたしますね。

きつくない、つらくない。がいいですね!

いくつになっても『動ける体』・・・を目指したいものです。体は限りある資源。決して無理をせず、かといって甘やかさず、自分の体にちゃんと向き合っていかなければと今、改めて思います。

ジャンヌ・モローさん


2月17日から3月2日まで有楽町の角川シネマで『華麗なるフランス映画』が4K映像で初上映されました。

ドロン、ドヌーヴ、モロー、ベルモント!毎日4回。
太陽はひとりぼっち・昼顔・ダンケルク・哀しみのトスカーナ・エヴァの匂い・突然炎のごとく・・・など、毎日違う組み合わせで上映されるので観たい時間を選べばよいのですが、私はなんと言っても『ジャンヌ・モロー』の大ファンなので、「エヴァの匂い」と「突然炎のごとく」を続けて観たく早朝のバスで下山し、1回目と2回目を観ました。

ジャンヌ・モローさんは2017年7月31日、老衰により89歳で亡くなられました。1957年の「死刑台のエレベーター」「危険な関係」「雨のしのび逢い」、そして1962年の「突然炎のごとく」「エヴァの匂い」。

最後の作品は2012年の「クロワッサンで朝食を」。この映画については以前ブログにも掲載いたしましたが、モローらしい・・・いえ、彼女そのもののような毅然とした孤独なブルジュワマダムを見事に演じていました。

衣装のシャネルスーツは彼女自身の自前だったそうです。ですから、よりリアルに、役を演じている・・というより彼女の日常を垣間見ているようでした。女優、脚本家、映画監督、歌手、さまざまな分野で活躍されましたが、私はやはり『女優ジャンヌ・モロー』が一番好きです。

今回の「突然炎のごとく」は、男二人と女一人の三角関係。モローの小悪魔的魅力を監督のフランソワ・トリュフォーが見事に演出しているのですね。

モノクロ、この時代の映画をカラーではなく今モノクロで観ると、こちらの想像力を駆り立てむしろ鮮明な色・空気・匂いまでもを刺激され楽しませてくれます。

自由気ままな彼女に翻弄されつつ・・・三人の長きにわたる恋愛模様は、やはりフランス映画だからのシチュエーションでしょうか。彼女の可愛らしさ、女としての匂い、たしかな演技力、トリュフォー監督屈指の傑作です。

私が最初に映画館で観たのはもう半世紀以上前。まだまだ子どもで、でも生意気盛り、「やっぱりトリュフォー、モローだわ!」などとつぶやいていましたが、なにも分かってはおりませんでした。あたり前ですよね。ラストシーンがあまりにも有名で、ショッキングだったので鮮明に覚えてはおりますが。

モローは1928年・パリ生まれ。父はフランス人のレストラン経営者。母はイギリス人のキャバレー・ダンサーで母の影響を受けて育ち、パリのフランス国立高等演劇学校で演技を学び、1947年に舞台デビュー。劇団コメディー・フランセーズで頭角を現します。

以前、彼女のインタビュー記事を読んだとき「私の生まれたモンマルトルは歓楽街に近く、そこに住むダンサーや情婦たちの世話になり、お金のない私にごはんをおごってくれたり、いろいろ世話してくれたの。そんな彼女たちの恩は一生忘れられないわ」と語っていました。独特のかすれた声、ざっくばらんな話し方。

「反骨の人」「自由人」・・・ジャンヌ・モロー死去。
一人暮らしの自宅で亡くなっているのを翌朝、家政婦が発見したそうです。いつも、毅然としていたモローは人生の終焉をひとりで迎え、それは覚悟して”ひとりで暮す”ことを選択した彼女の人生。

寂しささえも、自分の一部になっていたのでしょうね。
孤独だからこそ、自由でいられたのでしょうね。
そして、孤独はけっして怖いものではない。・・・とモローに教わりました。

下町、モンマルトルのビストロの”オニオングラタンスープ”が忘れられなくて、白ワインとスープをいただき、暗い夜空に輝く星を眺めながら帰路につきました。

綾小路きみまろさん

若い頃はよく愚痴をこぼしていました。
あれから40年。今はご飯をこぼすようになりました。
皆さまお元気ですか、綾小路きみまろでございます。

時が経つのは早いものです。
2002年に「あれから40年」のフレーズとともにブレイクした私ですが、あれから早15年。おかげさまで、こうしてまだ何とか芸能界で生き残っております。皆さまはいかがですか?まだ生きていますか?

こうしたフレーズではじまる綾小路きみまろさんのご著書「しょせん幸せなんて、自己申告」。帯には、山あり谷あり涙あり。売れない”潜伏期間”を経て、たどりついた「幸せのありか」と書かれております。

私がニューヨークタイムズの記事で綾小路きみまろさんを拝見したのは、7,8年前でしょうか。写真入りで大きく掲載されていました。

「中高年の女性の心を捉え、話術の巧みな漫談」というような記事だったと記憶しております。外国人の記者の目からも彼の才能と人間的な魅力が綴られており、その頃の私も「この方って只者ではないわ」との印象が強くありました。

”潜伏期間30年”ブレイクしたのは50歳を超えてからというきみまろさん。いつか、一度お会いしたいと思っておりました。今回のご本を拝読し、ただの苦労話ではなく、今、何かに悩んでいたり、迷っている人の背中を押す名言が散りばめられていて、ぜひ直接お話を伺いラジオをお聴きの皆さんにもご紹介したいと思いスタジオにお迎えいたしました。

ふるさとの鹿児島県志布志(しぶし)市を後にして上京します。「司会者」に憧れてのことでした。お父様は農耕馬の種付け師で、上京することには賛成し、背中を押してくださったようです。

最初は北千住の新聞販売店で住み込みで働き、その後キャバレーのボーイ時代に司会者に抜擢され成功しつつも自分が目指す「芸」の道とは違う!と思い、漫談の道をめざします。

高座にも立ち、自作のテープを観光バスに売り込み、2001年、寄席芸人「綾小路きみまろ」が誕生。”潜伏期間”にどんな思いで芸を磨いていたのか、学んでいたのか。人間、なかなか、これだけ長い期間潜伏!って出来ませんよね。そこには”山あり・谷あり・涙あり”きみまろさんならではの「幸せのとらえ方」を伺いました。

芸能の世界、”お笑い”の方々の努力は並大抵のことではないのですね。同じ時代を生きた、ビートたけしさんとの出会いも、初めてお会いしたのは、まだお互いに無名だった20代の頃。

当時の日本は、ちょうど高度成長期の終わる頃。人々の暮らしも豊かになり娯楽がもてはやされた時代。きみまろさんはキャバレーで活躍しつつ無名のどさ回りの芸人。

個性的な芸人など多彩だったそうですが、たけしさんは合方のきよしさんと舞台袖で掛け合いの練習を丹念になさっていらしたとのこと。

「オーラがあり近寄りがたい人」。”毒舌”の草分けで、早口で、政治や事件、芸能、ヤクザ、老人介護など、あらゆるタブーを一刀両断してしまう。ことごとく本質を突いているため、お客は眉をひそめながら、笑わずにはいられないのです。

きみまろさんもすでにこの頃から毒舌漫談で売っていた頃、「これは敵わないな」と思われたそうですが、80年に漫才ブームが到来し、たけしさんは時代の寵児としてスターダムを駆け上がっていきます。

そんな時代に木造アパートに住みながら、あいかわらずキャバレーまわりをして芸を磨いていたきみまろさん。

たけしさんとの最初の出会いは渋谷のパルコ劇場(当時は西武劇場)だったそうです。私も良く通った劇場です。正直、口にはだしませんし、頭では「自分は自分」と思っても夜、布団に入って目を閉じると、「ちくしょう・・・こんちきしょう!」という気持ちがこみ上げてきますよ、ときみまろさんはおっしゃいます。

そんな時には一人近くの公園に行き、疲れ果てるまでネタの練習をしたそうです。そこで「人生、多少の浮き沈みはあっても、みな平等に死んでゆく」「人間の死亡率100%」などのフレーズが浮かんだそうです。

腐ったら、終わり。
あきらめたら、終わり。
もう一度たけしさんと同じ舞台に立ちたい。

それから時代が巡って2015年。ある番組でたけしさんとご一緒し、馴染みの焼き鳥屋さんで飲みながら「昔からずっと憧れていたんです」と告白すると、たけしさんがこう言いました。「いや、違うんだきみまろさん。おいらがあんたに憧れていたんだ」と。

たけしさんは売れてからも、きみまろさんの出演しているキャバレーでやっている漫談をお忍びで観にいっていたそうです。「なんできみまろが表にでないんだ」と。

30年の時を経てこんにちのきみまろさんがいらっしゃるのですね。

人一倍照れ屋のたけしさんが、笑わずに、私の手を握りしめてくれました。たまらずうつむいた私に、たけしさんは穏やかな声で「よくぞ這い上がった。同じ時代を生きた男として、あなたを誇りに思います」と仰られたそうです。

「自分のことなんて、誰も気にしてやいない」そう思っても、どこかで必ず、誰かが見てくれています。そう本に書かれています。

しょせん幸せなんて自己申告』。
スタジオで孤独についても伺いました。

「人生終着駅では、みんな一人ぼっち。寂しいから笑うんです。」と笑顔でおっしゃるきみまろさん。ニューヨークタイムズの記者はそんなきみまろさんの人間的な魅力に魅せられたのでしょうね。

そして、全国の中高年の女性たちは、きみまろさんの毒舌を聞きながら「自分自身を励まして」いるのではないでしょうか。

ラジオは2週続けて放送いたします。
ぜひ、お聴きください。
そして本をお読みください。

文化放送「浜美枝のいつかあなたと」
日曜日 10時半~11時まで
3月4日と3月11日放送

熊谷守一 生きるよろこび

寒い日が続くなか、春を感じるような穏やかで暖かい日、先日ラジオ収録後、竹橋の東京国立近代美術館に没後40年を記念して開催されている『熊谷守一 生きるよろこび』展を観に行ってまいりました。


熊谷守一の絵を最初に観たのは、そう・・・かれこれ50年ほど前だったでしょうか。倉敷の大原美術館に行ったときです。

エルグレコの「受胎告知」が目的でしたが、熊谷守一の「陽の死んだ日」(15号の油絵)にまず出会いました。

最初は「何が描かれているのかしら?」と思う絵でした。赤い布を首のまわりに巻いた子どもが目をつぶっている絵。画面右下に「陽ノ死ンダ日」と書かれているのを見て、「子どもの死」であることに気づきます。

”わが子の死を絵にするの?”と驚き『熊谷守一』を知ることになります。それは熊谷の最晩年の時期だと思います。そして、その魅力に引き込まれていってから、半世紀がたつのですね。

今回の展覧会は明治時代後期から亡くなった1977年まで、約70年間も絵を描き続けてきた画家の200点以上が一堂に会します。

97年の長い人生 貧困や家族の死などさまざまなことがありながら、また絵がまったく描けなかった時代、それでも友情に恵まれ、愛され、妻秀子との出会いにより作風も変化し、大パトロンの木村定三氏の出会いも大きな存在でした。

この人ほど人生の節目節目で素晴らしい人に出会えているのもきっと彼の人間性でしょうか。生涯、名利に背を向け、文化勲章も辞退したそうです。

田村祥蔵さんのお書きになった『仙人と呼ばれた男』(中央公論新書)をお読みになるとその生涯がよく分かります。「誰が相手にしてくれなくとも、石ころ一つでも十分暮せます」と帯に書かれていますが、田村さんはご本人にまた奥様からも直接お話を聞かれておられます。

書から水墨画、デッサン、日記、スケッチなど、また個人蔵で普段みることのできない作品もあり、その人生を深く知ることができます。

雨滴、豆に蟻、蝋燭、ヤキバノカエリ、猫、土饅頭、畳、そして私が50年前に衝撃をうけた「陽の死んだ日」も大原美術館からきていました。晩年は自宅の庭でネコ、カエル、蟻や雨の粒・・・小さなものへの愛情があふれます。

最晩年の「朝の日輪」には言葉ではあらわせない”生きるよろこび”を体ごと感じることができました。会場には外国人・中高年・若い方々など幅広い層の人たちでいっぱいでした。

私の住む箱根の山は雪が消えるまであと少し。
春の足音を感じながら帰路につきました。

東京国立近代美術館
3月21日(水)まで
10時~17時
土曜日は20時まで。
休館日(水・祝)
竹橋から徒歩5分
美術館公式ホームページ
http://www.momat.go.jp/am/exhibition/kumagai-morikazu/

 

『手を洗いすぎてはいけない』

超清潔志向が人類を滅ぼす。

なぜ、きちんと手洗い、うがいをしているのに、風邪をひいてばかりなのか?

と帯に書かれています。

インパクトのあるタイトルですよね。この本を書かれたのは、東京医科歯科大学の名誉教授の藤田紘一郎さんで、ご専門は、寄生虫学、熱帯医学、感染免疫学です。著書も多く、「こころの免疫学」、「アレルギーの9割は腸で直る!」などがあります。

この本を手にして読み始めると、まさに”目からウロコ”。

現在インフルエンザが猛威を振るい日本全国に広まっておりますし、去年4月には季節外れのインフルエンザが流行しました。私ももちろん予防接種は受けており、お蔭さまで今までかかったことはありません。

先生の本を拝読していると『日本人の体が、感染症にかかりやすいように変わってきているのです。』とあります。

そして「ウイルスは微生物のなかでもっとも原始的な生物で、空気中では増殖できません。彼らが生きていくためには、宿主が必要です。空気中ではただ漂っているだけのウイルスも、いったん人の体内に入り込むと、宿主の細胞にとりついて自分自身のコピーをどんどん増やしていくことで仲間を増やします。そのとき、ウイルスの猛襲を抑え、撃退するのは、個人の体の強さです。その抵抗力が弱くなっていると、ウイルスは自らのコピーをどんどん増やしてしまい、それがつらい症状となってあらわれるのです。」と書かれています。

「手を洗いすぎる人ほど、風邪を引きやすいのです。」

自分の体が、感染症に抵抗できる力をどれほど持っているのか・・・・。先生はその一つが”ノロウイルス”への感染だとおっしゃいます。

感染によって胃腸炎を発症してしまうようならば、大人も子どもも病気に抵抗力、すなわち『免疫力』がかなり弱くなっている、とおっしゃいます。免疫力というのは、人の体内に備わっていて、病気を予防し、治す力・・・といわれますよね。

ではどのようにしたら『免疫力』を高めることができるのか。やはり直接お話を伺い教えて頂きたく「浜美枝のいつかあなたと」の番組にご出演いただきました。

スタジオでお話しを伺うと、なるほど!・・・と納得の連続でしたし、本を読むうちに『人も自然の生き物』であることに気づかされます。

先生が『手を洗いすぎてはいけない』とおっしゃる背景には、身の回りにいる雑多な微生物の存在を認めることが大事なのですね。

日本人は清潔好きです。ただ過剰に敏感になりすぎ「手洗いとうがいこそが大事」とばかり、日に何回も石鹸でゴシゴシしすぎ免疫力を低下させ、子ども達に”泥んこ遊び”をさせなかったり、家の中を神経質なほど清潔にしすぎたり、空気中を舞う土壌菌を自然と吸い込み”腸内フローラが育まれることをもう少し知ることも大切ですね。

先生から腸内環境を整える食材も教えていただきました。よく言われる発酵食品、食物繊維・・・などラジオをお聴きください。

ほんとうに、”目からウロコ”でした。

それから、私はいつも不思議だな~と思うことに「マスク」があります。世界を旅していてこれほど街を歩くときマスクを使用しているのは(中国など環境汚染がある場合は別ですが)日本人だけではないでしょうか。

先生に伺うとマスクをしても、インフルエンザや風邪の予防にはあまりならないとか。手洗いは汚れた場合を除いて、軽くこすりながら、流水で10秒間流すだけで充分とのこと。

超清潔志向が日本人の体力の低下を招いているのかもしれません。「キタナイ」「キモチワルイ」「フケツ」といって大人たちが虫や微生物を殺す姿を子ども達はみています。

もちろん、病気をもつ子どもや大人は別ですが。

今回、先生のお話しを伺い、本を拝読し、『免疫力』の大切さをあらためて考えました。

文化放送「浜 美枝のいつかあなたと」
日曜日10時半~11時
放送日 2月25日