自然と人。

―箱根の山、そして庭―

すとんと秋がやってきました。日中は温かくても、箱根では朝晩に暖房が必要になりつつあります。

雨上がりの青天の早朝、思い切って仙石原に足を延ばしました。標高約700m、台ケ岳の北西の山裾に広がる仙石原は、ススキの名所です。斜面を覆い尽くす様に広がる一面のススキ。朝日を浴び、きらきらと金色に輝き、風が吹けば大海原の波のように揺れ、うねり……息をのむような風景でした。

その足で、湿性花園に向かいました。こちらは湿原・川・湖沼などの水湿地に生育する植物を中心に、実に多くの草花がそれぞれの植生にあった場所に美しく配された、日本で初めて作られた湿生植物園です。

仙石原と湿性花園には、まだよちよち歩きだった子どもを連れてきたこともあれば、子ども一家と孫の手を引き遊びにきたこともありました。どちらも毎年、春と秋にお訪ねせずにはいられない、私にとって大切な場所です。

平日でもあり、開園時刻を待ち、入場したこともあり、私のほかにいらしたのは一組のカップルだけという贅沢さ。まず、今開催中の秋の山野草展に。可憐でありつつも、園芸種にはない力強さを感じさせる山野草の数々に力をもらい、それからゆっくり花園全体を味わいました。

園路は、低地から高山へ、初期の湿原から発達した湿原へと植物の生態系の流れを感じながら歩ける構造になっているのだそうです。木製の園路を歩きながら、さまざまな植物の生命力、そして大自然の息吹が体いっぱいに流れ込んでくるような気がしました。

途中、ベンチに腰をおろしていると、植物の手入れをなさっているスタッフの方々の姿に気づき、はっとしました。人工的な美しさではなく、自然にある命の姿が見られるということで知られる湿性花園ですが、ありのままの姿を伝えるためには、人の手も必要なのだと改めて気づかされました。

仙石原のススキにも、実は人の手が入っています。毎年、3月、山焼きが行われているのです。そのまま放置してしまうと、樹木が侵入して雑木林になってしまうのだとか。

自然と人との関係は、興味深く、本当におもしろいものですね。

箱根の我が家は山の中にあります。

けれど、40年前、私が手に入れたのは、平らな造成された土地でした。それを元の姿に戻したいと、役所に通い、本来の地形がどうだったかを調べ、盛り土をしたのでした。盛り土が落ち着くまで数年という時間が必要でした。

ですから、この庭に植えるのは、箱根の山に生えている植物だとも決めていました。業者に頼めば簡単なのに、山に車を走らせ、地主さんをみつけて、この木を譲ってほしいと頼みこみ、了解が得られれば「根回し」(移植する前に根を切って木の細根を再生させる作業)をし、根が再生したのを確認して翌年、移植し……そうして集めた何十本もの樹木で庭を造りました。庭木すべてを植え終えるまで5~6年はかかったでしょうか。

ヤマボウシ、ハコネバラ、モミジ、ヤマザクラ、サルスベリ、シャクナゲ、ツバキ、ハナミズキ……。

今では、どの木も気持ちよさそうに大きく育ち、まわりの山と自然になじんで、古民家を再生した我が家をぐるりと取り囲んでいます。

花園とは比べようもありませんが、それぞれの木や草花を生かすために、これまでの季節は雑草とり、これからは落ち葉掃除が欠かせません。それも含めて、木々に囲まれた庭がこのごろ、いっそう、いとおしく思えてきました。

仙石原と湿性花園に行き、もう一度、庭としっかり向き合いたいという気持ちが、湧き上がってきたような気がします。

箱根の紅葉は例年11月中旬頃が見頃です。白い帽子をかぶった富士山と、山々の綾錦をどうぞ楽しみにいらしてください。

インド更紗とともに、世界をめぐる

戦後の、もののない時代に、育ちました。我が家はかつて段ボール工場を営んでいたのですが、空襲ですっかり焼けてしまい、私が覚えているのは、家族が肩を寄せ合うように暮らしていた長屋での暮らしです。

リンゴ箱ふたつを並べた上に、藍染の木綿の布をかけたものをちゃぶ台代わりにしていた時期もありました。使い終わった布は洗濯板でごしごし洗い、物干しざおにかけ、お日様と風にあててきれいにして……高価なものではなく、もしかしたら大きな風呂敷だったのかもしれません。けれど何度も水に通した布は柔らかく、風合いが優しげで、私は大好きでした。

振り返ると、藍染のその1枚の布に導かれ、私は布に強く惹かれ、人生の大いなる楽しみを与えてもらったような気がしています。

ガンダーラ美術に興味を覚えて最初にインドに行ったのは、19歳のとき。それから10年間、インドに通い、多彩なインドの布にも魅了されました。さまざまな刺繍、模様、色、素材も綿、シルク、カシミアと豊かで、その一枚一枚に、人々の暮らし、風土、歴史があると感じさせられました。

先日、東京ステーションギャラリーで開催された展覧会「カルン・タカール・コレクション インド更紗 世界をめぐる物語」を見てきました。カルン・タカール氏はインド出身の更紗の世界的コレクター。氏のコレクションが日本で紹介されるのは初めてです。

数千年前にインドで誕生した「更紗」は、茜や藍などで細密な文様を描いた色鮮やかな染め物です。紀元1世紀には早くも東南アジアやアフリカへと渡り、17世紀に東インド会社が設立されると、ヨーロッパをはじめ世界中に輸出されるようになりました。

物語『ラーマーヤナ』の主人公・ラーマの戴冠式が描かれた掛布、長さ約8メートルにも及ぶ9世紀の南インドの詩聖マニッカヴァカカルの人生譚を伝える掛布、タイ王室が発注したというタイの守護神とヒンドゥー神話の神を描いた上衣、聖母子像を描写した儀礼用の布、岩山に力強く根を張り、大輪の花を咲かせた立木が中央に描かれたヨーロッパ用と思われるベッドカバー、オランダ女性の伝統衣装の胸飾りなど、展示作品は見事なものばかりでした。

世界をめぐる物語とタイトルにあるように、更紗がいかに人を魅了し、世界にと広がっていったのか。その先々でどう変化していったのかということも、よくわかる展示になっていました。

神話や聖人の物語を描き、宗教という人々の祈りと深く結びついていたインド更紗は、アジアでは儀礼用の布などに、ヨーロッパでは装飾品やインテリアにも。日本にやってきた更紗は、茶人に愛され、国内でも模倣・創作がはじまり、和更紗を生み、人々の暮らしに入り込んでいき、19世紀のイギリスではウィリアム・モリスらが更紗の美意識を継承し、アーツ・アンド・クラフツ運動へとつながっていったのです。

二時間ほどかけてゆっくり作品を見て歩きました。更紗とともに、世界中を、時代を超えて旅したような気がしました。

安価な商品が大量に流通し、スマホひとつで買い物ができ、翌日には手元に届く時代。そうした便利さ、簡単さを否定するものではありません。

けれど、職人たちが時間をかけて手で仕上げるものには、やはり感情や記憶に訴える力が宿っている気がしました。名もなき職人たちが作ったものです。でもそこには唯一無二の存在感がありました。作り手、使い手の思いも存在の中ににじんでいました。こうして作り続けてきたからこそ、技術や美意識が継承され、広がり、今にとつながっているのだとも実感できました。

どんな時代が来ても、人が手で作った美しいものを大事にしてほしい。そう願わずにはいられません。

※「カルン・タカール・コレクション インド更紗 世界をめぐる物語」は東京ステーションギャラリーにて、11月9日(土)まで開催されています。東京ステーションギャラリーは東京駅の中にある美術館。JR東京駅丸の内北口ドームから中に入ります。
https://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/202509_india.html

東京ステーションギャラリーは空間もとても素敵です。丸の内駅舎の北端に立つ八角形の塔の1つが展示空間。この美術館では、レンガにも注目してください。

2階の展示室には、駅舎が創設された当時の、つまり明治後期に製造され、大正時代に積まれた構造レンガがそのまま使われています。螺旋階段の壁面の黒くなっているレンガは、東京大空襲による火災で炭化したものだとか。レンガを間近で見るだけでも、東京駅が歩んできた歴史の重みが伝わってきます。

未来を考えるために

戦後80年となるこの夏、戦争の時代を振り返り、戦後の歩みを見つめなおそうとする企画が様々なメディアで取り上げられました。ウクライナや中東などの国際情勢が混迷を極める一方、日本を支えるのは戦争を知らない世代に。歴史を語り継いでいく大切さを思わずにはいられません。

8月24日放送の『浜美枝のいつかあなたと』(毎週日曜日 9時30分~10時00分 · 文化放送)でゲストにお迎えしたのは、ジャーナリストで映画監督でもある佐古忠彦さんでした。佐古さんは、『筑紫哲也NEWS23』『Nスタ』などのキャスターを歴任し、このたび、戦後の沖縄を扱った映画『太陽(ティダ)の運命』を制作なさいました(ティダ・はるか昔の沖縄で首長=リーダーを表す言葉)。

沖縄は、私にとっても特別の土地です。柳宗悦氏の民芸運動がきっかけで、日本復帰前から沖縄に行き、やちむんや琉球ガラス、漆器、織物など伝統工芸に魅了されました。中でも花織の美しさと歴史には心打たれました。その復興に尽力し、人間国宝にもなられた故与那嶺貞さんとのおつきあいは、私の心の宝物です。

沖縄に通う中で、戦中戦後の沖縄を、私も肌で知ることとなりました。沖縄戦では県民の4人に1人が亡くなりました。沖縄における全戦没者数は実に20万人を超えています。さらに本土復帰までの、27年間の米軍統治時代には、住民の土地が奪われ、基地が建設され、今もなお日本国内の米軍専用施設の7割が沖縄に集中しています。

キャスターやディレクターとして長年報道の現場に立ち続けてきた佐古さんは、番組内で、情熱的にたくさんのことを語ってくれました。その中で「戦後80年たっても沖縄に米軍基地が集中して存在し続けている。この不条理を支えているのが、日本の民主主義であり、政治の構造。沖縄の置かれた状況を、自分の問題として考えてほしい」という佐古さんの強い思いに触れ、この映画の意味をより深く理解できた気がしています。

『太陽の運命』は、第4代知事・大田昌秀さんと、第7代知事・翁長雄志さんの姿を描くドキュメンタリー映画です。

「沖縄県知事は全国でも特異な存在です。これほど苦悩して、決断を繰り返さなければならない立場は他にないだろうと思います。行政官としての立場と、民意を背負った政治家としての立場、そして国から一方的に強いられる負担、さらにはアメリカや自分自身とも向き合わざるを得ない。筑紫哲也さんは『沖縄に行けば、この日本が見える』といわれていました。政治的立場が正反対で、激しく対立していた太田さん、翁長さんでしたが、次第に言葉も歩みも重なっていく。そのおふたりの姿に、“日本の今“が見えるのではないかと思います」(佐古さん)

「日米地位協定」「米兵少女暴行事件」「普天間基地移設問題~辺野古新基地建設問題」「教科書検定問題」……新聞報道やテレビのニュースで断片的に知っていたことが、映画が進むにつれて、大きな流れとしてくっきりと浮きあがってきます。

地位協定や安保条約などというと、政治やイデオロギーの話だろうと敬遠されがちですが、沖縄のそれはすなわち、ごく身近な、「人としての尊厳を守る」問題であることも伝わってきます。

そしてこの映画で、沖縄の人が大切にしてきた歌を知りました。

若さる時ねー 戦争ぬ世
若さる花ん 咲ちゆーさん
家ん元祖ん 親兄弟ん
艦砲射撃ぬ的になてぃ
着る物 喰ぇー物むる無―らん
スーティーチャー喰でぃ暮らちゃんやー
うんじゅん 我んにん 
いゃーん 我んにん
艦砲ぬ喰ぇー残さー

       若い時分には戦争ばかり
       若い花も咲かずじまい
       家屋敷 ご先祖 肉親
       艦砲射撃の的になってしまい
       衣 食 何もかも失い
       ソテツを糧にして暮らしを立てたもの
       あなたも わたしも
       おまえも おれも
       艦砲の食い残し

平和なてぃから 幾年か
子ぬ達ん まぎさなてぃ居しが
射やんらったる 山猪ぬ
我が子思ゆる如に
潮水又とぅ んでぃ思れー
夜ぬ夜ながた眼くふゎゆさ
うんじゅん 我んにん 
いゃーん 我んにん
艦砲ぬ喰ぇー残さー

       平和の夜を迎え、何年経ただろうか
       子らも成長していくと
       撃ち損ないの猪が
       我が子を案じる如く
       (苦い)塩の水は二度との思いで
       夜っぴ寝られぬ日もあり・・・
       あなたも わたしも
       おまえも おれも
       艦砲の食い残し

(『艦砲ぬ喰ぇー残さー』より作詞作曲・比嘉恒敏 訳詞・朝比呂志)

沖縄戦では14歳以上の少年、約1780人が鉄血勤皇隊として動員されました。当時沖縄師範学校に進学していた大田知事もそのひとりでした。動員された子どもたちの約半数にあたる890人が戦死。17歳未満の戦死者は567名にも上ります。

知事出馬前に訪れたバーで、太田知事はジュークボックスに10曲連続で、この「艦砲ぬ喰ぇー残さー」を選曲して聞いていたというエピソードには、胸をつかれました。

2015年に招かれた県民大会では、翁長知事はこの歌に包まれつつ、「うちなーんちゅ、うしぇてぃないびらんどー(沖縄の人をないがしろにしてはいけませんよ)」と叫んだというエピソードも印象的でした。

『太陽の運命』は、3月に沖縄で先行公開したのを皮切りに、4月から全国ロードショーがはじまり、今も各地で上映が続いています。私たちの未来を考えるためにも、機会がありましたら、ぜひご覧になってくださいませ。

※佐古さんをお迎えした8月24日放送の『浜美枝のいつかあなたと』(文化放送)は、「ラジコプレミアム」の「タイムフリー30プラン」または「ダブルプラン」でお聞きいただけます。

映画『秋がくるとき』に思う。

『私たちは高齢者を聖人化し、理想化しがちですが、彼らもまた複雑な人生を生きてきた存在なのです。彼らにも若いころがあり、性的な存在であり、無意識の思考や欲望を持っています。……この映画の冒頭を、美しい田舎で暮らす80歳の女性の日常から始めることは、私にとって重要なことでした。彼女は菜園の世話をし、教会へ行き、友人を車に乗せ、ひとりで食事をする……。彼女の時間は静寂に満ちています。多くの場面で、本来なら語られたかもしれないことが語られません。ミシェルはどこか用心深い人物です。彼女は自分なりの「真実」を作り出しますが、それは決して計算や策略ではなく、彼女の生存戦略なのです』

    (『秋がくるとき』パンフレット内フランソワ・オゾン監督インタビューより)

この映画を見終えて一か月もたつのに、紅葉に彩られた秋の美しい風景とともに、主人公ミシェルの生き方が、今も私に何かを問いかけ続けています。これほど余韻の深い映画に、久しぶりに出会いました。

フランソワ・オゾン監督の本作『秋がくるとき』の舞台は、ワインの産地として知られるブルゴーニュの小さな田舎町。人生の秋を迎えた女性ミシェルのもとに、パリに住む娘と孫息子が遊びにやってきて、事件が起こります。母娘の葛藤、過去の傷と沈黙の記憶などが少しずつあぶりだされ、取り返しのつかない喪失へとつながっていきます。

やがてミシェルは孫と静かな日々を過ごすことを選び、親友の死、親友の息子との一見奇妙にも見える複雑な関係をも受け入れていきます。庭を耕し、孫に優しいまなざしを向け、料理をし、ときには髪をおろしてダンスをし……。さらに年月はたち、ミシェルは大切な人々と入った森の奥で、シダの葉に囲まれながらひとり静かに横たわり、まるで大地へと還るかのように旅立ちます。

監督の言葉にあるように、作中では多くのことが明言されません。それは観客ひとりひとりが想像を膨らませ、ミシェルをはじめとした登場人物を解釈しなければならないということ。「あなたなら、どうする?」「どうふるまう?」「何と言う?」「正しさとはなに?」「過ちとは?」「何を手放し、何を守る?」など、多くのことが胸につきつけられます。

中で最も印象に残ったのは、「その人のまま老いる」ミシェルの強さとしなやかさでしょうか。老いても、たくさんの屈折を抱えていても、自分が自分であることをあきらめない。自分のままで在り続けるために、自分の人生を自分で選び、誰より自分が自分を赦し、過去も現在もこれからをも含めた人生を肯定し受け入れていく。その姿に感銘を受けずにいられませんでした。「良かれと思うことが大事」という彼女の言葉も、強く心に残りました。自分をあるいは他者を赦す鍵はここにあるのではないか、と。

                                                                                                                                                                人生を振り返れば、したくてもできなかったことや、いたらなかったことばかりだと、感じる人が大半ではないでしょうか。私もそのひとりです。

けれど、ミシェルの「私たちはできる限りのことをしたわ」と語ります。この言葉に、力をもらうのは私だけではないはず。完璧には程遠くても、私も今、「精いっぱいやってきたと思う」とだけは言えるような気がします。これも、この映画のもたらす生への肯定、そして赦しなのかもしれません。

5月末に封切りになった本作品、今も全国で上映が続いています。お近くに上映館がありましたら、ぜひ足をお運びください。

どこかひりひりしつつも、温かなものが、静かに力強く、心に満ちてくるのを感じていただけるのではないかと思います。

https://longride.jp/lineup/akikuru/

共鳴する喜び

先日、ポーラ美術館で『ゴッホ・インパクト―生成する情熱』展を見てまいりました。

(作品は一部撮影可)

ゴッホは私にとって特別な画家のひとり。『馬鈴薯を食べる人たち』と『靴』という作品との出会いは忘れることができません。

16歳で女優としてデビューしたものの、芸能界は私が生きていく場所なのだろうかと真剣に悩み、ひとり旅に出たのはその2年後、18歳のときのこと。イタリア、イギリス、そして最後に訪れたオランダのアムステルダムにあるゴッホ美術館でこの二作品に巡り合ったのでした。

『馬鈴薯を食べる人たち』には、自らの手で掘り、得たものをランプの下で食べるという祈りのような時間が描かれていました。履き古した靴を描いた『靴』には生きることへの問いがにじんでいると思いました。

私が40歳まで女優を続けられたのは、この二枚の絵のおかげかもしれません。体が震えるような感動とともに、女優といっても私はまだなにもしていない、ゴッホが描いた人々のように、私ももう一度、女優として汗水たらして、懸命にやってみようと、これらの作品が人生の岐路に立っていた私に力を与えてくれたのです。

以来、絵に会いに、何度もオランダに足を運びました。

オランダはもうひとり、私の大好きな画家フェルメールを生んだ国でもあり、数年前にはフェルメールの名作『デルフト眺望』が生まれた場所をこの目で見てみたいと、デルフトまで足を延ばしました。

もちろんフェルメールが生きた17世紀のデルフトと今では、街並みも異なります。けれど、フェルメールが描いた場所の光の中に立つと、作品が体の中にストンと通った気がしました。『牛乳を注ぐ女』に描かれているのと同じようなパンを今でも焼いているパン屋さんを見つけたことにも感動しました。

こうしてオランダとの縁を重ねているうちにいつしか、アムステルダム中央駅が私のお気に入りの場所になりました。アムステルダム国立美術館と同じ建築家・ピエール・カイペルス氏による赤レンガ造りの重厚な駅舎。どこか懐かしい気持ちになるのは、東京駅のモデルにもなったとされるからでしょうか。2番ホームに面した『Grand Café Restaurant 1e Klas』は高い天井にシャンデリアが美しい元・一等車待合室を改装したカフェレストラン。列車を眺めながら、コーヒーとオランダ名物のアップルタルトをいただくのも楽しみになりました。そこに立つだけで旅情を感じさせてくれるのは、多くの別れと再会がこの空間に刻まれているからかもしれないと思ったりもしました。

だんだんオランダが、干拓と運河、そして芸術と暮らしが交差する国であるとわかってきました。自由で寛容、でも常に足を地にしっかりつけている国民であることも。

だからこそ、オランダであのようなゴッホの初期の作品が、あるいは暮らしの一場面の中に宿る光、沈黙、感情の揺らぎまで表現したフェルメールの作品が生まれたのではないかと、初めての出会いから年月を重ね、私は今、ひそかに思っています。

展覧会では、ポーラ美術館所蔵のゴッホ作品3点『ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋』『草むら』『アザミの花』をはじめ、ゴッホの影響を受けた国内外の作家たちの作品が並んでいました。

岸田劉生、中村彝、森村泰昌、福田美蘭、フィオナ・タンなど、時代も表現も異なる作家たちに、ゴッホの情熱が見る者の中に創造の炎をいかに灯してきたかということに改めて気づかされ、心が揺さぶられました。自分の中の何かと共鳴する深い喜びも味わうこともできました。

帰路につく前に、ポーラ美術館を取り囲むように作られた「森の遊歩道」をゆっくり歩いてきました。聞こえるのは小鳥のさえずりと風の音だけ。私が一番好きなヤマボウシの純白の花が見事に咲いていました。

『ゴッホ・インパクト―生成する情熱』展は、11月30日(会期中無休)まで開かれています。

展覧会公式サイト
https://www.polamuseum.or.jp/sp/vangogh2025/

夏ミカンのマーマレード

書棚に近頃、料理本が増えました。若い人はスマホで検索をして新しい料理をみつけるようですが、私はやはり紙の本。「あ、これ、おいしそう」「今度、作ってみようかしら」「孫が喜んでくれそう」と、ページをめくるひとときも楽しんでいます。万能だれや黒酢の新しい使い方など、おかげさまで食卓も少しずつ進化しています。

週に1度、小田原に下り、近くの市場に上がった新鮮な魚や、朝どれの野菜を求め、時折、家族の晩ご飯も作っています。

小田原の町中からちょっと離れると、山が海にせり出しているような急峻な坂が続き、そこにはミカンや夏ミカンが植えられています。その上にカフェがあり、先日、友人とお茶をしてきました。ちょうど、夏みかんの白い花が満開でした。甘く爽やかな花の香りのする風が吹いていました。

小田原駅隣接のJA直売所「朝ドレファ~ミ♪」で夏ミカンを手に取ったのは、その光景と香りを思い出したからでした。さあ、この夏ミカンをどういただきましょうと考え、マーマレードを作ることにしました。

もともと食べることが好きで、子どもたちにはしっかり食べさせたいと、忙しい中でも料理だけは自分で作りたいとこだわってきました。家に帰るなり、いくつもの鍋を火にかけ、ちゃちゃっとお惣菜を仕上げ……よそ行きから普段着に着替えるのも、メークを落とすのもその後、というような暮らしでした。

でも、正直、お菓子までは手がまわりませんでした。ケーキやクッキーを焼いたり、ジャムやマーマレードを作ってみたかったのに。

そうなんです。はじめてのマーマレード作りでした。

夏ミカンの皮にナイフで筋をいれ、皮をむき、皮と実に分ける。皮の内側の白い部分を取り除き薄切りにしたものを、沸騰したお湯でゆでては冷水に晒すのを繰り返すーー。

マーマレードにこんなに手間がかけられていたと知ったのもはじめて。でも甘酸っぱい夏ミカンの香りがキッチン中にたちこめて、私にとって、とても新鮮な、癒される時間でもありました。

最初に作ったものは煮詰めすぎたのか、冷めたらちょっと固くなってしまったので、二回目はゆるめかなというところで火を止め、満足のいくものに仕上がりました。

煮沸した瓶に詰めてリボンをかけ、遠い町で暮らす娘にもひと瓶、送りました。喜んでくれるかしら、びっくりするかしらと、少しわくわくしながら。

私はといえば、毎朝、ヨーグルトにかけて、いただいています。次はジャムも作ってみたくなりました。

料理は記憶を呼び覚ませてもくれます。

美味しいマーマレードを作ってくれた年上の女友だちのことを思い出しました。日当たりのいい軒先にゴザを広げ、背中を丸めながら丁寧にゼンマイを干していた農家のおばあさんなど家族のために手間をおしまず、食に向き合っていた先人たちの優しい姿も。

調理にかけるゆったりした時間も、味のうちなのかもしれません。

四季があり、旬があることをありがたく思い、私も、作ることも楽しんで、無駄なく食べていきたいと思います。

桜の季節に

四季が織りなす自然の風景の美しさが、年々、より深く心に染み入るようなりました。

春の桜、夏の深山や青い海、秋の紅葉、冬の雪景色。それぞれの季節にそのときにしか見られない美しい景色があることに、日本で生まれ育った幸せを感じずにはいられません。

その季節が廻りくると、おのずと開く記憶の扉もあります。

今年の桜の時期には、これまでに出会ったたくさんの桜を思い出しました。

民芸に惹かれて日本の農山漁村を歩き始めたころに見た畑の先にあった桜のトンネル、古民家を探して車を走らせていた時に出会った見事な山桜、桜吹雪の中を子どもたちと歩いたこと、都会のビルの合間に咲く桜は女友達と一緒に……。

中でも鮮やかに思い出したのが、「荘川桜」でした。

岐阜県の北部、白山と飛騨山脈の間に作られた御母衣(みほろ)ダム湖。その湖畔に2本の桜の古木が植えられています。ダム湖の底に水没した荘川村にあった桜・荘川桜です。

戦後、日本の今後の発展のために電力エネルギーの確保が急務だということで、全国でたくさんのダムがつくられました。先祖代々暮らしてきた故郷を失うことを受け入れられないと反対運動も起きましたが、多くの村が移転をよぎなくされました。荘川村に住んでいた約230戸約1200人の村人も反対運動を繰り広げた末に、村を離れざるをえませんでした。

このとき、故郷を湖底に沈める決意をした村人への敬意からでしょうか、村人とひざ詰め談判を重ねてきた特殊法人・電源開発の初代総裁である高碕達之助さんが村内を歩き、村の守り木ともいえる2本の桜に目をとめ、「この桜を移植し保存しよう」と言い出したというのです。

樹齢約450年、樹高は約20メートル。2本の老樹の重さは合わせて73トンもありました。桜の移植は簡単ではなく、たとえ移植しても根付く保証はなかったといいます。けれど移植は成功し、1年後に若葉が芽吹き、約10年かけて満開の花が咲くまでになりました。

その話を知り、ぜひ荘川桜を見てみたいと足を延ばしました。4月後半から5月はじめがいいとのことで、ちょうど今頃だったと思います。

よく晴れた日でした。青空に、うっすらと白い雲がたなびき、少し冷たさを含んだ風がふいていました。

その場所はすっかり桜色に染まっていました。その下に、おばあさんたちがゴザを敷き、談笑していました。

「おにぎり、一緒に食べない?」 

誘っていただいて、私もゴザに座らせてもらい、大きなおにぎりをいただきました。

水没した荘川村に住んでいた人たちのお花見でした。毎年、桜の季節になると、誘い合わせてこの2本の桜に集まるのだとか。

「桜だけでも残ってよかったねえ」

「私たちもがんばって生きていかなきゃねぇ」

「やれることやって。少しは役に立たないと」

おにぎりを食べ終えると、立ち上がり、誰もが桜の幹をいとおしそうになではじめました。当時は柵もなく、桜に直接触れることができたのです。桜をさすりながら涙ぐんでいる人もいました。どの手にも皺が刻まれ、指は節くれだっていました。働いてきた人の手でした。これからも働いていこうとする人の手でした。

私が30代後半のころのことです。

荘川桜は、私にとって、40で女優をやめる決断をする、ひとつのきっかけになった桜でもありました。

先日、はじめて箱根の一本桜を見に行きました。40年、箱根に住んでいたのに、行こうと思えば見に行けたのに、なぜかそういう気持ちになれなかったのです。

一本桜は実は5本の大島桜が寄り添っているのだそうです。樹齢約100年。枝張り約23m、高さ約12mで、きれいな富士山のような形をしています。

朝7時に訪ねていった私を、一本桜は手を広げて迎え入れてくれた気がしました。

他に誰もいず、そこには私ひとりだけ。

満開は過ぎ、少し葉桜になっていて、ほろほろと花びらが風に舞っていました。澄んだ鳥の声が空に抜けていきます。とても静かでした。

しばらくすると雲の合間から光の帯がさしこみ、桜を照らし、芦ノ湖の湖面を桜色に染め、その美しさに声をのみました。

その瞬間、一本桜が、かつて御母衣でみた荘川桜がだぶって見えました。桜の中に、あのときであったおばあさんたちの笑顔も見えた気がしました。

失ってしまった懐かしい風景を思い起こさせる桜、毎年必ず咲いて、いつの世も美しい姿を見せてくれる桜。

桜は日本人にとって記憶の宝庫であると同時に、再生のエネルギーと励ましを与えてくれるものではないでしょうか。

出会った人々や美しい風景、人が紡いださまざまな物語、そして新たに見ることができた一本桜に、私も明日へ向かう力をいただきました。

これから箱根は新緑が美しい季節です。新しい物語がまた生まれそうな気がしています。

もうひとつの、小さな旅

これまで、たくさんの旅をしてきました。

バックパッカーの出で立ちでインドの安宿に泊まり、生と死が交錯するガンジス川に入り、早朝の朝陽に手を合わせたのは、私が10代のときのことでした。それからガンダーラ美術に魅せられ、たびたびインドに通うようになりました。笑い合いながら川で洗濯をする農村の女性たちの姿がとてものどかだったので、思い切って仲間に入れてもらい、旅の途中の洗濯をし、女性たちの洗濯物と川原の石の上に並べて干したりしたこともありました。

20代、イタリアで出会ったマルチェロ・マストロヤンニの額に浮かぶ汗は、仕事をやめようかと悩んでいた私にもう一度チャレンジしようという勇気をくれました。

アフリカ・喜望峰で大西洋とインド洋がぶつかり、まじりあう絶景は、30代の私にもう一度、顔をあげて進んでいこうと思わせてくれました。

映画やドラマ、ドキュメンタリーの撮影でも様々な国に行きました。イギリスではこれ以上ないほどの贅沢もさせていただきました。撮影の合間に、各地の美術館やアンティークショップを訪ねるのもひそかな楽しみとなりました。

農業に携わる女性たちとは、15年にわたり毎夏、ヨーロッパに行き、農家民宿を体験し、これからの農業の可能性を語り合いました。

民芸の柳宗悦先生の足跡を追い、民芸の原点である人々の暮らしを実感してみたいと、韓国に部屋を借り、市場で買った野菜を調理し、現地の人がいく銭湯に通ったこともありました。

子ども連れの旅にも出かけていきました。ダムに沈んだ村・奥三面、岩手の遠野……。

長年人々が住み続けて来た古民家があっけなく壊されていくことが辛くて、それら古民家の材料を使い箱根に家を建てようと思ってからは、私の元に来てくれる古民家を探して、車に子どもたちをのせて、走り回りました。

大好きな沖縄、飛騨古川……心の故郷と呼びたい土地も見つかりました。魂の出会いといいたくなるような人との出会い、かけがえのない経験もさせていただきました。

こうしてお訪ねした日本の山村漁村は、2000近くにものぼります。


先日、ふと思いついて、一日、小さな旅を楽しんできました。

朝、小田原までバスで下り、お気に入りのカフェでお茶をいただき、東海道線に乗り、二駅先の国府津まで。国府津にはすでに御殿場線が待っていました。

御殿場線は国府津と沼津を結ぶローカルの単線です。1時間に1,2本の運行で、かわいらしい二両編成。出発まで車内で待ち、やがてコトコトと走り出すと、緑豊かなのどかな風景が車窓に広がりました。

その日の目的地は、七つ目の駅「山北」。

小さな無人駅でした。登山靴を履いている人や、リュックを背負っている人が数名、おりてゆきました。山北はハイキング好きな人には良く知られている町で、「酒水の滝」丹沢コースなど気軽に楽しめるコースがあるのです。

駅前にボランティアのおじさんがいて、帰りの切符を売ったり、町の案内をしたりしてくれます。訪れる人に自分の町・山北を知ってほしい、好きになってほしいという気持ちがその姿から伝わってきました。

駅前には懐かしい風情の食堂がありました。帰りにそちらでお昼をいただくことにして、小一時間ほど町を歩きました。

山北の町中を通り、しばらく進むと、線路沿いの土手に。菜の花が満開でした。光の粒を集めたような鮮やかな黄色の絨毯です。

見あげれば、桜のつぼみが膨らみかけています。実は、ここ山北には御殿場線の両側に約500メートルにわたり、120本ものソメイヨシノが植えられています。神奈川県の「かながわのまちなみ100選」に選ばれた桜の名所なのです。

今年の桜は二週間ほど遅く、満開は4月10日ころだとか。

桜はまだでしたが、美しい足柄の山並み、丸く大きく広がった春空、菜の花、空を舞うツバメ、小鳥のさえずり、普段着の町の暖かなたたずまいと降り注ぐ日差し……呼吸がゆっくりになり、心がリフレッシュされていくのがわかりました。

山北の風景を十分に満喫して、来た道を戻りました。

以前の私なら、少し無理をしても滝まで足を延ばしたでしょう。けれど、自分の足元を見て、それは次回の楽しみとすることとしました。もっとしっかりした靴、膝サポーターを準備して。ようやく自分の体と相談できるようになったのかもしれません。

食堂はにぎわっていました。中高年の女性が厨房で、同じ年頃の笑顔のきれいな女性が配ぜんをしている、昔ながらのお店です。ハイキング姿のご夫婦が荷物を横に寄せて、私の座る場所をあけてくださいました。注文したカレーライスは玉ねぎと豚肉の優しい味がしました。

帰りの電車の時間に合わせ、駅に向かうと、食堂でご一緒だった人がたくさん。

国府津から東海道線に乗り換えると、富士山が見事に見えました。赤い彩雲がぽっかり浮かんでいました。

春をみつけた、そんな小さな旅でした。

桜は咲いていなくても、この旅で、春がたくさん見つかりました。

町を大切に思う人たちが暮らす町の穏やかな佇まい、歩くことを楽しんでいる人、訪れる人を普段着の笑顔でもてなす人々、隣り合った人に席を気持ちよく譲ってくれる人、そうした場所や人が醸し出すぬくもりが、私に春を感じさせてくれました。

何かをする、見る、誰かと会うといった明確な目的をもたず、その土地に、ゆるやかな時の流れや自然に、身をおく旅も本当にいいものだとも思わされました。

人々の暮らしが感じられる、近くの町をもっと訪ねてみたくなりました。

これを機に、私のもうひとつの旅がはじまりそうです。

やまきた桜まつり」は3月25日~4月8日まで。期間中は桜並木のライトアップも行われます。

映画を友として

15歳でデビューした私にとって、映画は学びの場でした。人生の分かれ道では何を大切に選択するのか、立ちはだかる壁をどう乗り越えるのか、希望の光を灯し続けるためにはどうしたらいいのか、幸せとは何か、今はどういう時代なのか、世界はどんな困難を抱えているのか、生きるとはどういうことなのか……物語として楽しみつつも、数々の映画を通して考えを少しずつ深め、今の自分を形作ってきたように思います。

先日、胸にしみる素敵な映画に出会いました。

今の私が求めていた映画でした。

ペドロ・アルモドバル監督の『THE ROOM NEXT DOOR』。
昨年のベネチア国際映画祭で最高賞の金獅子賞を受賞した作品です。

重い病に侵され、安楽死を望むマーサは、再会したかつての親友イングリッドに、その日が来る時にはドアの隣の部屋にいてほしいと頼みます。悩んだ末にイングリッドはマーサの最期に寄り添うことを決め、ふたりはマーサが借りた森の中の小さな家で暮らし始めます。

その日々の中で、マーサは自分のこれまでのことをイングリッドに少しずつ語り始めます。娘との葛藤、娘の父親との関係、戦場ジャーナリストという職業の実際、彼女がどんな問題を抱え、それでも前を向いて歩き続けてきたか……。生が終わらんとしていても、解決に至らないことも残され、人は完璧には生きられない、終われないということも実感を伴って、ひたひたと胸に迫ってきます。

痛みを抱えつつも毅然と生きるマーサ役のティルダ・スウィントン(「フィクサー」でアカデミー助演女優賞)、誠実に寛容にマーサに寄り添うイングリッド役のジュリアン・ムーア(「アリスのままで」でアカデミー主演女優賞)、ふたりの女優の演技も見事でした。

家、インテリア、洋服、食器の色彩、部屋に飾られた絵画、雪、木々の緑、風、光……映像の美しさにも五感が目覚める気がしました。中で語られる詩、出てくる小説、それらすべてに意味があるとも思わされました。

エンドロールが流れて来たとき、マーサは死期が迫るにつれ、カラフルに美しくなっていたことに気が付き、はっとしました。

有楽町の映画館には女性ひとりでいらした方がほとんど。エンドロールが終わり、会場が明るくなるまで誰一人、席を立たなかったのも、印象的でした。

死と向き合うことは、生と向き合うこと。
人を看取るのは、自分の人生と向き合うこと。
最後まで、人は自分らしく美的に生きていい。

この映画から受け取ったメッセージが、美しい映像とともに、今も私の中に鮮やかに蘇ります。

さまざまな動画配信サービスが充実してきて、家にいながらにして、映画を楽しめる時代になりました。

けれど、私はやはり、大きなスクリーンで映画を見るのが好きで、映画館に出かけて行きたくなります。暗闇の中で1つの光を見上げ、あるのは作品と自分だけ。余韻も含め、他では得られぬ贅沢な時間を味わえるからでしょうか。

たまには、映画館にお出かけになりませんか。座り心地のよい椅子が設置され、空気もきれいな映画館が増えています。60歳以上の方はシルバー料金で、とてもお得です。

映画公式サイト

木の命に向き合う

その鏡台に出会ったのは、京都の「近藤」でした。

友人の井上夏野子さんと待ち合わせをして、いつものようにお薄をいただいていると、近藤さんが今、二階で、東京国立近代美術館の展覧会のために、黒田辰秋さんの鏡台を組んでいるので、ご覧になりませんかとお誘いくださいました。一も二もなく「ぜひ」とお願いして、二階にあがると・・・・

「これ、母と私が使っていた鏡台です」と、井上さんがつぶやいたのです。「ある年の暮れ、正月の餅代がないので、この鏡台を引き取ってもらえないかと、黒田さんがリヤカーをひいて、私の家にいらしたんです。毛布にくるんで」

井上さんのおとうさまは新聞記者で、無名時代の黒田さんと交友があり、創作活動を応援なさっていらしたとのことでした。

「父が亡くなり、手放すまで、毎日この鏡台を使っていたんです。懐かしい」

あまりに不思議なご縁に、驚くばかりでした。

美しく、力強く、どっしりとした木の重さが伝わってくる鏡台でした。黒田さんは生涯に5台の鏡台を作られましたが、これは最初の一台。まだ無名だった黒田さんが、貧しさと闘いながら、思いのたけをこめて作った鏡台でした。

後日、近代美術館にも見に行き、この鏡台に強く惹かれた私は、鏡台が「近藤」に戻ったころを見計らって、再び京都に行き、近藤さんに鏡台を譲っていただけませんかとお願いしました。

「ま、これは浜さんのところに嫁入りさせまひょ」 近藤さんがほほ笑み、快諾してくださったとき、どんなに嬉しかったか。

こうして、その年の誕生日に、鏡台は私の家に入りました。

ちょうど、箱根の家を建て、新たな暮らしをはじめようとしていたころでした。

十二軒の古民家の梁や柱の煤をはらい、水で洗い、自分の手で磨き、箱根の神社のお神酒で清め、柱や梁の元の姿を生かして組み合わせて作ると決めた家です。私が、木の命と、もっとも深く向き合っていたころでもありました。

今のように古民家再生の情報も一切なく、試行錯誤の連続で、一部屋を作るのに、何年もかかりました。家族で引っ越した当初など、足りないものばかりで、毎日がまるでキャンプのようでした。

それから約40年あまり、私は黒田さんの鏡台とともに暮らしました。長い年月をかけて、家を作り続け、女優を卒業して手探りで農業や食、暮らしといったテーマと向き合い、四人の子どもを夢中で育て、社会に出ていくのを見届け……黒田さんの鏡台は、家の真ん中で、すべてを見守ってくれたような気がします。

けれど、年齢を重ね、これからの自分の生き方を考えはじめたとき、黒田さんという素晴らしい芸術家の原点ともいうべき作品を、後世につないでいくために、自分の手元にこれ以上おいておくべきではないと思いました。

京都国立近代美術館で現在開かれている「黒田辰秋 木と漆と螺鈿の旅」展に、その鏡台が出展されると聞き、先日、長女とふたりで新幹線に乗りました。

鏡台は会場のいちばん最後に展示されていました。素朴さと力強さが際立っていました。手放してから3年半という月日が流れていました。かつて私の鏡台だったものは、いるべき場所で、少しばかり、晴れがましい表情をしているかのようでした。

自分がなぜ、この鏡台にあんなにも魅力を感じたのか。手元に置きたいと強く思ったのか。

その日、前に立ち、改めて理由がわかったような気がしました。

 「木との話し合いが大切ですね。

木の言い分をうんと聞いて、

その木のなりたがっているものを手伝っていくんです」

(「生誕一二〇年 人間国宝 黒田辰秋 木と漆と螺鈿の旅」より)

樹木に神仏を観想し、その姿を彫り表した円空さんと似たものを、私は黒田さんの鏡台に見たのではないでしょうか。たくましくあたたかい黒田さんの鏡台、その木の命に私は力をいただき、これまで歩んでこられたのではないか、生かされてきたのではないかと思いました。

同時に、井上さんのおとうさまや近藤さんといった最初の理解者が黒田さんを支えたことに、深い感動を覚えたことも思い出しました。作品に対する人々の思いも、鏡台の記憶として静かに存在の奥底に刻まれているように思えて、そこにも胸が激しく突き動かされたのかもしれません。

旅の最後に、祇園の鍵善さんこと『鍵善良房』に立ち寄りました。正面のショーケースを挟み、黒田さんが若き日に作られた「拭漆欅大飾棚」が今も使われている空間で、葛と水のみで作る昔ながらの「くずきり」をゆっくりいただいてきました。

自分の来し方を振り返るだけでなく、黒田さんの生命感あふれた作品の数々にふれ、何が人にとって大切なのかということを感じさせられた、心に残る一日となりました。

この展覧会は、3月2日まで開かれています。
https://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionarchive/2024/461.html

京都は今、大変な賑わいでホテルもとりにくい状況でしたので、朝、箱根を出て、日帰りでいってまいりました。小さな、ちょっと贅沢な旅でした。これも、人生のご褒美かもしれません。