ロシア軍がウクライナに攻め入った日からまもなく4年が過ぎようとしています。2023年秋には、パレスチナ自治区ガザを実効支配するイスラム組織ハマスが、イスラエルに対する大規模攻撃をし、イスラエル軍は同日から報復としてガザ地区への空爆を開始し、多くの血が流れました。
大戦の惨禍を経て、昨日よりは今日、今日よりは明日、世界は平和に近づいていくものだと思っていました。たとえ危機が起きようと各国が連携して解決し、人類は手を携えていくだろう、と。
けれど、悪夢のような侵略戦争や報復戦争が続いています。そして私たちに届くのは、侵攻から逃れ国境を越えた人の数や死者の数や、戦況を伝えるニュースや報道写真です。
数字や悲惨な映像の背後には、ひとりひとりの大切な物語があることを、そして、戦争によって、多くの平易な言葉の意味が変えられていくということに、改めて気づかせてくれた一冊が、日本文学研究家のロバート・キャンベルさんが翻訳を手掛けた『戦争語彙集』(岩波書店)でした。
この本には、ウクライナで戦争を体験した人々の77編の話がおさめられています。ポーランドとの国境に近いリヴィウ中央駅で、ボランティアとして飲み物や医薬品などを配っていた詩人のオスタップ・スリヴィンスキーさんが、避難者から話を聴き、一人称で記した戦争の記録です。戦争が日常をどのように変えるのか、その時人々はどう感じるのか、行動するのか、むきだしの恐怖から心の支えにしているものまで、さまざまな人が語る、ありのままの言葉に、激しく胸が揺さぶられました。
そのキャンベルさんを、『浜美枝のいつかあなたと』(文化放送 毎週日曜日午前9時半~10時・11月24日、12月1日放送分)にお迎えし、貴重なお話をお聞きすることができました。
翻訳を進めながら、現地に立つ必要性を感じたキャンベルさんは、外務省が退避勧告している戦地ウクライナに赴き、著者のスリヴィンスキーさんと会い、現地の人々に話を聞き、自ら取材も重ねられました。それをまとめた渾身のルポルタージュ・旅の記録も『戦争語彙集』の中におさめられています。
現地でキャンベルさんが若い人たちに声をかけると、みんな堰をきったように、自分の話をしてくれたそうです。そして、キャンベルさんが思ったこととは、
言葉は心の糧になる。
暴力の前に言葉は無力ではない。
言葉によって自分を、また人をも、ケアすることができる。言葉はシェルターにもなれる。
お互いの経験を語り合うことから「きずな」が生まれ、その「きずな」にまた「言の葉」を繁らせていくことができるーーー
お話を伺い、救われる思いがしました。言葉は希望だと思いました。
キャンベルさんが語る言葉は美しく、穏やかで、強くしなやかでした。本のページをめくるたびに言葉がひたひたとしみわたるような感じがしたのも、キャンベルさんによる翻訳だからだとも、思い当たりました。
その中に「林檎」という一編がありました。
『林檎』(アンナ キーウ在住)
その夜わたしは、戦争が始まって以来最も大きな爆発音を繰り返し耳にしながら、毛布やら枕やらをめいっぱい放り込んだ浴槽の中で眠りにつこうとしていました。
その昔の、わたしは燃えるような恋をしました。初めてカルパティア山脈にある山小屋に二人で出かけていくと、秋はもう深まっています。浴槽と大して変わらないほど寝心地の悪い屋根裏のベッドの上で二人一緒にうとうとしながら、わたしは耳を傾けていました。庭中の林檎の木々から、果実が一個また一個、地面に落ちてきます。熟みきった大きな林檎が夜通し、測ったような間隔で、とすっ、とすっ、と落ちてきます。わたしは幸せでした。
そして現在、わたしは爆発の音を聞きながら眠りにつこうとして、リンゴの音を聞いたのです。庭の林檎の実だけがわたしたち皆のもとに落ちてくればいいのに、と心から思います。(『戦争語彙集』より)
私はかつてウクライナを訪ねたことがあります。映画「ひまわり」のロケ地でもあるウクライナ。どこまでも緑豊かな農地が広がっていました。
林檎農園にも伺いました。
かの地の林檎の木はとりわけ背が低く仕立てられていて、枝という枝に、赤い林檎がたわわに実っていました。すると農園主の7,8歳の娘さんが林檎をひとつもぎとり、腰に結んでいたエプロンできゅっきゅっとふいて、私に一個、手渡してくれたのです。
透き通るように青い少女の目が、さあ、かじってみて、と私を促していました。
掌にのるくらいの小さな真っ赤な林檎。
昔の林檎のような、甘酸っぱい懐かしい優しい味がしました。
おいしい? と聞かれたような気がして、大きくうなずくと、少女ははにかむようにクシャッと笑いました。
あれから30年がたちました。あの小さな女の子は、今、お母さんになっているでしょうか。元気でいてくれるでしょうか。
キャンベルさんはもう一度、ウクライナを訪ねるそうです。ご無事を祈るとともに、命がけの旅から持ち替えられるものはどんなものかと思わずにはいられません。ぜひまたお聞きしたいと思います。
キャンベルさんの放送回はradiko(ラジコ)で、お聞きいただくことができます。
オスタップ・スリヴィンスキー作 ロバート・キャンベル訳著
『戦争語彙集』(岩波書店)
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