これから80代の旅がはじまります

我が家から白い雪を抱いた富士山が見える頃となりました。

長い夏がようやく終わり、木々が色づいたかと思うや、すとんと冬がやってきました。

きーんと冷えた朝の空気を肌に肺に感じつつ、箱根の山を歩いていると、毎日、お日様があがること、季節が確実にめぐっていることに感謝の気持ちがわいてきます。

そして夜、冬空を見上げると、輝く星の光のひとつひとつが、気が遠くなるほどの時間をかけて、今ここに届いていると感じ、自分が膨大な時の流れの中に生きる、地球という小さな星の住人であると思わされます。

先日、家族とともに旅した鹿児島で、80歳の誕生日を迎えました。

鹿児島は私にとって大切な思い出の地。映画「007シリーズ」の「007は二度死ぬ」(1967年公開)に参加した時の、日本における撮影地のひとつが鹿児島でした。私が22歳のときのことです。

邦画の撮影と何もかも異なり、移動はヘリコプター、食事はシェフ付きのキッチンカー、まわりに飛び交うのは英語だけと、戸惑うことも少なくありませんでしたが、その中で得難い経験もたくさんさせていただきました。

どんなに撮影が押していても、朝10時と午後3時のティータイムを楽しむというのもそのひとつでした。時間になると、すべての作業を中断して、キャストとスタッフが入り混じり、ビスケットなど甘いものと紅茶をいただき、ひと息いれるのです。邦画育ちの私でしたから、あと1カットを撮ればこのシーンは終わるというときには、なぜ撮影を優先しないのかともどかしく思ったこともありました。

けれど、ティータイムになじんでいくにつれ、それがもたらすものが少しずつわかってきました。心の潤いといった精神的な効用にとどまらず、人々と交流する時間でもあり、内省するひとときでもあり、新たなエネルギーを育むひとつのリズムともなりうる、いわば句読点のようなものだ、と。

それにしても、あのころの私は、自分が年を重ねて80歳になるなんて、想像もしていませんでした。目の前のことに必死で、考えられるのは今日、明日、せいぜい来年のこと。50年、60年という時間など、永遠と等しいものでした。

鹿児島の地を訪ね、そんな若いころの自分も思い出し、多くの人に出会い、学び、今があると改めて感じました。

大きな病気も怪我もせず、この日を迎えられたことをありがたく思います。

不安がないわけではありませんが、これからは80代の日々を旅する気持ちで、暮らしていこうと思います。

揃って誕生日を祝ってくれた家族を大切に、ラジオの仕事を継続し、会っておきたい人をお訪ねし、映画を楽しみ、美術館を歩き、ときにはきままに旅に出て、10時と3時にはミルクと蜂蜜をたっぷりいれた紅茶の時間を味わいつつ。

80歳になったのを機に、このブログもティータイムをいただくことにいたしました。

20年間、ブログをお読みいただきまして、本当にありがとうございました。

ここまで続けることができたのは、「読んでいますよ。次回も楽しみにしています」と多くの方に声掛けをいただき、励ましていただいたおかげです。

お声は聞こえなくても、ブログに心を寄せていただいていたみなさまにも、感謝の気持ちでいっぱいです。

人は誰もが旅人です。

今日という新しい日をおもしろがり、心に刻んで歩いてまいります。

日々、心と体を整えて暮らす

世界各地で紛争や災害がたくさん起きています。これほど多くの人が苦しむ姿をほぼリアルタイムで目にするのは人類史上、はじめてかもしれません。近くに目をはせれば、芸能界における忖度といったスキャンダルなども次々にあきらかになるなど、表面の奥底に沈み込んでいた澱が時満ちてあらわになる、それが今という時代なのかもしれないと感じるほどです。

その中にあって、生々しい映像、解決策の見つからない状況に、不安やストレスを感じ、心を痛めている方も多いのではないでしょうか。

このところ、ふと心をよぎるひとつの思い出があります。

40年前、古民家が壊されていくのが忍びなく、せめて何軒かの家の廃材を使い、箱根に一軒の家を建てようと決めたころのことです。

「浜さん、もう一度、家を見にきてちょうだい」という連絡をいただき、北陸地方の山間にある、一人暮らしのおばあさんの家を訪ね、二晩、泊めていただいたことがありました。我が家を建てるために、12軒の古民家の廃材を譲っていただいたのですが、その中の一軒でした。

おばあさんが語る家の話は、家族の物語そのものでした。一緒に台所に立ち、ふたりで食卓を囲み、お茶を飲みながら、古い柱や梁からも人々の声や暮らしのさんざめきが聞こえてくるような気がしました。

おばあさんはちょうど今の私と同じくらいの年齢だったでしょうか。祖先と自分が長い年月を過ごしたこの家を手放し、息子さんの家に行く日が間近に迫っていました。

最初の朝、四時ころ、隣の部屋で起きる気配がし、しばらくしてテレビの付く音がしました。ふすまを少しだけ開くと、「おはようございます」というテレビのアナウンサーに、「おはようさん。ご苦労さま。今日も一日がんばってね」とおばあさんが答え、親しみとともにテレビをぽんぽんとたたいていました。

二日目の朝には、おばあさんはもうひとこと、付け加えました。「今日も一日がんばってね。私も、生きていくから」とテレビに向かって。

三週間後が家の解体でした。すべてを見届けたいと、私はもう一度、その家を訪ねました。梁一本、板一枚無駄にしないように、丁寧に作業は進められました。

ふと、気配を感じて何気なく後ろを振り返った私の目に、木の陰にたたずむおばあさんの姿が飛び込んできました。木にもたれ、木に体を支えられるようにして立っていたのです。家の最後を見守るために、息子の家のある町から山を登ってきたのでした。あれほど「私は見ないから。行かないから」と私にいっていたのに。

女優を卒業しようと決めたものの、なかなか踏ん切りをつけられずにいた私の背中を最後に押してくれたもののひとつに、この出来事があったのかもしれません。

人が暮らすということ、生きるということ、人につないでいくこと。自分はこれからそうしたことに向かい合っていきたいと改めて強く感じました。同時に、メディアとの関係の根源に、信頼とぬくもりがなければならないと、おばあさんの後ろ姿から教えられたような気がしました。

実は私にも、ここ数年、見続けている夕方のニュース番組があります。安心感のある声で事実をしっかり伝えながら、キャスターは視聴者が前向きになるような言葉をさりげなく添えてくれます。災害時や緊急時はもちろん、どんな悲惨なニュースが流れても「かわいそう、ひどい」だけでは終わらない。自分は自分のできることをしようという気持ちにさせてくれるのです。

映画でデビューし、テレビでワイドショーや美術番組のキャスターなどを長く務めさせていただいた私は、映画全盛期と衰退、テレビの曙と全盛期、映画の復活、さらにテレビの衰退と、人々が投稿した写真や動画などある意味、断片的な情報がSNSを通じ、ときにはマスメディアを超えて広まる……メディアの変遷をすぐそばで見てきました。

これからもメディアは変化し続けていくでしょう。
それでもやはり、そこに信頼とぬくもりがあってほしいと切に思います。

ところで、忙しい時代、キッチンペーパーを使っていましたが、何枚かの布巾でその用が足りることに気づいてから、近年、刺子の布巾を愛用するようになりました。

キッチンをむらなく拭き上げ、布巾を石鹸でこすり洗いして、水でよくすすぎ、きっちり絞ってぱんぱんと広げて干し、「ごくろうさま」と心の中で布巾に話しかけ、電気を消すのが今の私のひとつのルーティンです。

早朝に起きて、ストレッチをし、山歩きをするのが体を整えることなら、布巾を使うのは心を整えるものなのかもしれません。

世の中を見つめ、人に思いを寄せ続けるためにも、自分の心と体が健やかでありたい。
こんな時代だからこそ、こうした自分のルーティンを大事にしていきたいと思っています。

野の花に、人生の喜びを味わう

「社会貢献の一環として行う芸術文化支援」としてのメセナが、今、当然のこととして企業に求められています。日本においてそれを主導なさったのは、資生堂の社長だった福原義春さんでした。

企業と文化を真に結び付け、資生堂を世界的ブランドに育てた福原さんは、今年の8月30日に92年のその輝かしい人生に幕を下ろされました。

それから数日して、地下の書庫に下りていった私の目に、1冊の本が飛び込んできました。『サクセスフルエイジング対談「美しい暮らし」を探す旅人』(求龍堂)。1998年に出版した福原さんと私の対談集でした。


サクセスフルエイジング対談は、「美しく年を重ねる」ことをテーマに、様々な分野で活躍している人物と福原さんが、生き方、暮らし方、これまでの道のりなどを語り合うシリーズでした。

福原さんは、私の映画『007は二度死ぬ』や、農業や日本文化を守る活動をご存じでいらして、何よりNHK教育テレビの『日曜美術館』の私の司会に目を止められたとのことで、対談のオファーをくださったのでした。

我が家の囲炉裏を囲み、福原さんと語り合ったのは、秋が深まったころ。肌寒さを感じる雨の日でした。囲炉裏に熾した炭火がほんのりと部屋を暖めていました。

「中学生の時に柳宗悦さんの本を読み、その思想に触発されたこと」
「旅をしたくてバスの車掌を仕事として選んだこと」
「次々に壊されていく美しい古民家がいたましくて、その廃材を譲り受け、10代から馴染みのあった箱根に家を建てたこと」
「女優という職業になじみきれないものを感じてイタリアに旅した時に、マストロヤンニさんに偶然出会い、彼のように汗して演技をするまでは女優を続けようと思ったこと」
「四人の子育てを通して、食や環境の問題が身近なものになり、40歳で女優を卒業し、農村や農業を生涯のテーマにしようと思ったこと」

福原さんは名インタビュアーでいらっしゃいました。民芸、美術、音楽、食、農業すべてに造詣が深く、どんな話も身を乗り出すように聞いてくださいました。そのうえ、ご自分の経験や見識に基づいた言葉を柔らかく、ときには鋭く返してくださるので、どんどん話が広がっていきました。

「“ほんものをみなさい”と写真家の土門拳さんに教えられたこと」
「ダムに沈んだ奥三面の集落に、記録映画を撮り続けていた姫田忠義さんと3年間通い続け、村の人の話を聞かせていただいたこと。閉村の日には親しくなったキイばあちゃんと並んで、ショベルカーで家が引き裂くのを見つめたこと」
「柳宗悦さんにはお目にかかれなかったけれど、その弟子でもあった池田三四郎さんを師として慕い、年に何度も長野・松本に会いにうかがったこと。“自然は仏か、仏ではないか”という大切な問いかけを教えていただいたこと」
「花織という織物をよみがえらせた与那嶺貞さんのいう”女の人生ザリガナ(こんがらがった糸をほぐして一本にする)“という発想が今、必要ではないかということ」
「自分の手で一から米作りをしてみたくて、若狭に田んぼを求め、地元の人に手伝ってもらいながら十年、米作りを続けたこと」

気が付くと私は福原さんに誘われるように、人と出会い、ものに出会い、そうしたことに触発されて、夢中になって走ってきた自分の半生を語っていたのです。

ページをめくりながら、タイムカプセルを開けたような、不思議な感覚を味わいました。
当時、私は50代半ば、福原さんは60代後半でした。

子や孫のためにも、日本の農業にもっと光があたってほしいと切に思って活動していたころです。食料が自給できる国になってほしい。農家の人々が自信を持ち働ける世の中になってほしい…そのために奔走していた私の姿が、行間から浮かび上がってきました。

それから約四半世紀がたちました。感染症が猛威を振るい、国と国の間に新たな紛争が生まれ、食糧問題は一層、深刻さを増しています。輸入に頼る日本の食の未来も安心できる状況ではありません。

けれど、農業に関わる女性たちは確実に変わりました。自分の預金通帳を持ち、自分の考えを述べ、行動する女性が増えました。全国で、そんな女性たちが主導するファーマーズマーケットが人気を集めています。農家の女性たちが各地の魅力の伝道師となりつつあるのです。

農業だけではありません。私が箱根ではじめた古民家再生に興味を持つ人々が驚くほど増えました。古民家を家や店として生かし、町の再生の力になっている例も枚挙にいとまがありません。

志を持つ若者たちがあとに続いてくれれば、今という時代にあった方策を模索し、日本を若い力でよい方向にきっと変えていってくれると私は信じています。

これと思ったら、どんどんのめりこんでいく若き日の自分の姿に、我ながら驚きもしました。子育てをしながら、時間を惜しむように、これほど活動していたとは。若さとは前へ前へと進むエネルギーなのだとも思わされました。

民家再生や、農業の取り組みなど、時代の先取りも半歩先くらいならちょうどいいのに、ずいぶん早くから着手してしまい、誰に頼ることもできず、文字通り手探りで、ひとりで道を切り開いてきたのだとも、苦笑してしまいました。そのために遠回りもしました。だからこそ見えた風景もあったと懐かしく思えるのは、年の功でしょうか。

その日の午後、5歳になる孫が部屋に訪ねてきて「ばあば。はい」と自分が摘んできた花を私に手渡してくれました。ノコンギク、エノコログサ、ヨメナ……きれいな紙で野の花をブーケのように包んだもの。私が喜ぶと知っていて、孫はときおり、こんな風にプレゼントしてくれるのです。

「嬉しいわぁ。ほんとにきれいね。ありがとう」と抱きしめると、孫は照れたように笑って、走って部屋に戻っていきました。

ガラスの小瓶に活け、キッチンのカウンターに飾ると、窓から入る日差しを受けて、緑の葉も小さな花も笑っているように見えました。

孫が小さな手で、私のために摘んでくれた花。
人生の幸せとはこのことではないかと胸がいっぱいになりました。
そのとき、池田三四郎さんの言葉がふいに蘇りました。

「一本のネギにも大根にも、道端に生えている草にも、この世の自然の創造物のどんなものにも美があるんだ。それを美しいと感じる心があるかどうか。それが問題なんだ」

「今、あなたが歩いている道の先には必ず未来がある。あなたはそれを信じて、今まで通りに生きて行けばいい」 

その柔らかな声が耳の奥に響き、あの大きな手でそっと肩を叩かれたような気がしました。

急がない。けれど、とどまらない。
少しずつ、ちょっとずつ。
ゆっくりだからこそ見える風景を楽しみ、できることを手放さず、体と心と折り合いをつけながら、これからも一歩ずつ前へ進んでいきたいと思います。

池田さん、福原さん、そしてこれまでに出会って私を導いてくださった多くのみなさま……。お別れしたという気がしないのは、人生にはこうした瞬間がときおり訪れるからではないでしょうか。
この世でお会いすることはできなくなっても、どこかで見守ってくださる気がするのです。

ラジオに魅せられて

16歳で女優としてこの世界に入ってから今まで、ワイドショーや美術番組のキャスター、農漁村の女性たちとの活動など、様々なジャンルの仕事にも挑戦してまいりました。

そのすべてがチャンスであり、かけがえのない時間を過ごすことができたと、感謝の気持ちでいっぱいです。もちろん楽しいことばかりではありませんでしたが、ひとつひとつの仕事を通して自分を磨き、一歩一歩、成長を重ねてきたと感じています。

何より嬉しいのは、年齢を重ねた今も、ラジオのパーソナリティを続けさせていただいていることです。テレビでも映画でもなく、ラジオだということに、運命のようなものを感じずにはいられません。

といいますのも、ラジオは私にとって、もっとも自分らしくいられるメディアであると同時に、常に豊かな可能性を感じさせてくれるメディアでもあるからです。

そんなラジオの魅力に気づかせてくださったのは、女性プロデューサー・金森千栄子さんでした。

金森さんは当時、北陸放送(金沢市)の『日本列島ここが真ん中』(1974年7月~1998年10月)という番組を作られていました。新幹線が通るはるか前の時代、永六輔さんや黒柳徹子さん、宮城まり子さん、中村メイコさん、大山のぶ代さん、淡谷のり子さん、荒井由実さん時代のユーミンなどそうそうたる人たちが、東京から金沢まで手弁当で駆け付けたという伝説の番組でした。

「浜さん、よろしくおねがいします。自由に話してくださいね」と、金森さんからマイクを持たされ、ラジオカーに乗って出かけたときの、ちょっと不安な気持ちを忘れることができません。約3時間の生放送、台本もなく、どこに行くかさえ知らされませんでした。

田んぼが一面に広がるただ中で、車は止まりました。パーン、パーン。乾いた気持ちのいい音が大きく広がる空に響いていました。田んぼの向こうで干した畳を叩いていたんです。

「金沢の皆さん、この音、なんだかわかりますか?」

これが私の初ラジオ生放送の第一声でした。

そして出会ったのが田んぼのあぜに立っていたおじいさん。私がそばに行くと、おじいさんは「あ、来た来た。じゃが、わしゃ、何も話さんぞ」とにやりと笑い、近くに植えてあったネギ坊主を二つむしって耳に詰めてしまいました。

こちらが何を質問してもおじいさんは黙って、顔をふるだけ。この番組のことをよくご存じだからこそ、こんな風に私をからかって、私の出方を見ていらしたのだろうと思います。

万策つきた私は、ついにおじいさんの様子を実況することにしました。必死でした。私のレポートにおじいさんの頬がほころび、最後は私の目を見てうなずいてくれました。

ラジオでは、言葉と、言葉にこめた気持ちで、みずみずしい生のコミュニケーションを生み出すことができる。自由度が高いので自分らしさも表現することができる。けれど声だけだからこそ、自身の人間性や人間としての厚みも問われる。そう教えていただいた気がしました。

以来、お誘いがあれば時間を作り、番組にゲスト出演させていただきました。

金沢市郊外にある大乗寺に連れて行っていただいたこともありました。たどり着いた時には日が暮れはじめていて、寺の中も真っ暗。けれど、その中にちらちらと光るものが見え、私の心が躍り始めました。蛍だったのです。蛍の光に誘われ、寺を抜けると……そこには、ほの明るい庭が広がっていました。宵の透明な空の色、草の匂い、群れ飛ぶ蛍。まるで小さな旅をしたような、そんな心に残る体験でした。

ある番組で、淡谷のり子さんとご一緒したときに、たまたま『日本列島ここが真ん中』の話になったこともありました。

「あんた。聞いてよ。わたし、姥捨て山に捨てられたんだから。草ぼうぼうなの。な~んにもない海辺に、金森さん、本当にわたしを捨てて行っちゃった」

春風が吹く海辺でマイクを渡され、30分ほどひとりぼっちにされたのだとか。でもそれを話す淡谷さんの表情は笑みを含み、とても柔らかでした。そして淡谷さんはこういいました。

「わたし、あれで、息をふきかえしたわよ」

淡谷さんの独り言のようなリポートを私も聞いてみたかったと切に思いました。ライブで聞いていたリスナーは、どんな思いでラジオに耳を傾けていたのでしょう。

マイクを握り、自分と対峙することで、心を整理し、新鮮な気持ちを思い出す。リスナーはそれを追体験して、やはり新たな自分に出会う……ラジオにはこうした可能性もあるのかもしれません。

私がパーソナリティをつとめている文化放送『浜美枝のいつかあなたと』は2001年4月から始まりました。以来、「相棒」の寺島尚正アナウンサーとともに、リビングルームにお迎えするような気持ちでゲストのお話を伺っています。

これまでに本当に大勢の皆さんにご出演いただきました。有名無名を問わずその道に精通した方ばかりですので、収録前には資料や本を読みこみ、本番ではゲストの本音を引き出すように心がけ、その話の面白さと深さに驚いたり、ときには共に笑ったりしながら、たくさんのことを学ばせていただいています。

「浜美枝の良い食とともに」コーナーでは、日本の農業、日本の食を支えている方々の強い意欲と志を、一人でも多くの方に知っていただきたいと願いつつ、全国各地の農業従事者に、農業や食育の取り組みなどお話を伺っています。

そして私の楽しみといえば、みなさまの感想が綴られたお葉書やメールに目を通すこと。お会いできなくても、リスナーと、心の大切なところでつながっていると、力をいただいています。

この番組は26年目を迎えました。

人の思いやその人生までもすくいあげ、丁寧に伝えていくことができる、私の原点ともいえるラジオに今も携われていることが、本当にありがたく、ちょっぴり誇りに思っています。

『浜美枝のいつかあなたと』の放送は日曜日の朝9時半から30分間。
聞き逃したときにはRadikoでもお楽しみいただけます。

http://www.joqr.co.jp/hama/

寺島尚正アナウンサーと文化放送スタジオにて

寺島尚正アナウンサーと文化放送スタジオにて

箱根の自然に魅せられて

私が女優になりたての頃、(60年も前のこと!)ある日、芦ノ湖で一人の女性が、一本スキーで颯爽と湖を滑走するのを見てもうそのカッコ良さに夢中になりました。


私も水上スキーがしたい。でもお金がかかるんですね。私は女優になりたてでしたから、まだまだ水上スキーなどやれる身分ではなかったのです。そこで、ボート屋さんでアルバイトをして、水上スキーに熱中した思い出があります。箱根は、水上スキーに通ううち、本当に馴染む町になっていました。商店街のおばちゃんも、どこに何があるかも。

何よりもその自然の美しさに魅せられていました。「住むなら、この箱根!」と決めていました。東京での仕事を考えると「不自由よ」とも言われました。今のように”移住”という言葉もあまりありませんでした。なんと無謀なことでしょうね。

そして、失われていく古民家を再生したい…との思いもありました。ずいぶん旅をしました。古民家との出会いもその頃からでした。東北・北陸、富山や福井など、家や暮らしを訪ねる旅を重ねました。

ヨーロッパの旅の中でも、影響を受けました。がっしりとした骨格の家、暖かな木の感触、そして、ミセスたちが作ったカーテンやクッションなど、手作りの暖かさに目を開かされました。多くの人々が、何年もかけて家を自分たちで造るということも聞きました。サラリーマンが十年かけて基礎工事をやり、さらに五年かけてレンガを積み、なんてことはざらにあることを聞き、憧れました。山の中なら時間は待っていてくれる感じがしたのですね。50年前のことです。

『植物に囲まれた子育てがしたい』親も子も、穏やかな関係でいられる、そんな気がしたのです。小学校を箱根で過ごした子供たちは、おかげさまで、みんな植物好きな子に育ちました。箱根で暮らしながら、子供たちとしょっちゅう行っていましたのが、これからご紹介する「湿生花園」です。

湿生花園は、仙石原地区に位置します。この仙石原は、江戸時代「千石原」とか「千穀原」と呼ばれていました。古文書によると、慶長十六年(1611年)には五名の村人が二町歩余りの土地を耕していて、「耕せば、千石はとれる」ということが、ここの地名の由来だそうです。

今、この地に立つと、昔の人々の苦難がどんなものものだったか、千石の米を収穫することの困難さが偲ばれます。千石の収穫を夢みた人たちがいたんですね。

山に囲まれた仙石原は、二万年前は湖の底だったそうです。今は干上がった状態ですが、一部残った湿原が湿生花園として、箱根町によって昭和五十一年に開かれました。日本の湿原植物を中心に約千五百種の山野草が収集されています。川や湖沼など水湿地に生育している日本の植物や、草原や林、高山植物、めずらしい外国の山草も含めて多様な植物が四季折々に繁り、花を咲かせ、私はここにくるとえもいわれぬ「至福の時間」を体験します。

夏休みになる前に、行ってまいりました。山の花や植物を見にいらっしゃるのは殆ど、女性です。仲良しグループが、楽しそうに花と一緒に写真を撮ったり、木陰で俳句を詠んだり、スケッチをしたり、皆さん楽しそうに草原を歩いていらっしゃいます。中年のご夫婦連れ、最近は若いカップルも増えました。

今なら
シモツケソウ
ヤマアジサイ
ヒメユリ
オカトラノウ
などが強い日射しに心地よさそうに群れています。

秋になると
ワレモコウ
オミナエシ
ホトトギス
リンドウ
サギソウ
等が咲き乱れ、湿生花園全体が巨大な「寄せ植えガーデニング」のようです。


9月3日まで、園内ではめずらしい「世界食虫植物展」が開催されています。
https://hakone-shisseikaen.com/

箱根の植物は、私の子供たちの、もう一人のお母さんだったのかもしれません。

箱根に住んでよかったなぁ、と、しみじみ思うひとときでした。植物とふれあって帰る道すがら、気持が癒されているのを感じました。

素敵な”師”に囲まれて

今年の前半は、時間がいつもより駆け足で過ぎていったような気がします。この11月、私は80歳を迎えます。早いものですね。人生の様々な節目で、これまで教えや導きをくださった私の”師”は、出会いを重ねた多くの方々でした。

そして、大好きな映画や絵画、美術品などとの巡り合いにも恵まれ、それらが私の心と日常を実り豊かなものにしてくれました。振り返ってみると、特にこの3年間は感染症に注意を払いながらの”ワクワク、ドキドキ冒険”だったようです。

この春、少し早めの桜が東京に咲き始めた頃、「丘の上の本屋さん」という映画を見ました。

イタリア中部にある小さな村で古書店を営む穏やかな老人。ここで本を手にする客がどれだけいるのかと心配になるほど地味で小さな空間ですが、実は村人たちの心が通い合う大切な交流の場となっているのです。恋の悩みを打ち明ける青年。そして、国の歴史をあまり知らない若者に、もっと勉強をするようにと黙って本を手渡す店主。さらに、アフリカ移民の少年には、「読んだら返してね」と『星の王子さま』を貸してあげるのです。

その少年はある日、一冊の本を薦められます。国籍や肌の色が違っていても、人の権利や平等こそが一番の宝だと書かれた本です。次の時代に確実に手渡す必要があるという店主の信念は、本の表紙のアップで強調されました。『世界人権宣言』という書名は、文字通り、この映画のエンドマークでもあったのです。もの静かで確信に満ちた映画でした。

そして、関東各地に桜が咲き誇っていた頃、どうしても見ておきたい舞台がありました。『バリモア』、アメリカの名優ジョン・バリモアの晩年を描いた芝居で、90歳になった仲代達矢さんが8年ぶりに挑戦した一人芝居でした。

自らの思いを次の世代にバトンタッチするため、「若い人に負けてたまるか。卒寿も単なる通過点だ」と発声練習やストレッチに励み、階段の上り下りまでして体力をつけたということです。仲代さんの一人芝居は、やはり一人舞台でした。その気迫と熱気に、ただ圧倒されました。

先日、仲代さんが主宰する『無名塾』出身の一番弟子が快挙を成し遂げたことが世界的なニュースになりました。役所広司さんが主演した『パーフェクト・デイズ』で役所さんはカンヌ国際映画祭の男優賞を受賞したのです。こうして仲代さんの情熱と信念は確かに継承されていきました。

もう一つ、心ひかれた映画が『生きる』でした。映画史に残る黒澤明監督の名作を、ノーベル賞作家のカズオ・イシグロが脚色したイギリス映画です。

ロンドンでの役所勤めを無事に終え、間もなく定年を迎えようとしている主人公は、医者から余命いくばくもないという突然の宣告を受けます。大過なく人生を過ごすことを身上としてきた老紳士は、悩んだ末に一つの決断を下します。

それは、若い世代に素晴らしいプレゼントを残すことでした。部下の心に寄り添いながら、最後の夢は未来へと引き継がれるのです。歴史も文化も大きく異なる日・英の間で、人の生き方に対する考え方にすれ違いが生まれることもあるでしょう。しかし、人生へのぎりぎりの思いを突き詰めれば、互いに通じあうものが見えてくるはずだ。製作者のそんな願いが浮き出てきました。

黒澤監督の『生きる』で志村喬さんが演じた病身の主人公が一人ブランコに乗って口ずさみます。「命短し、恋せよ乙女」。英国版『生きる』の主人公の葛藤と安らぎ、そして将来に向けての夢までも重ね合わせたブランコのシーンは国や人種の違いを乗り越え、見事な感動に昇華されたのです。

そして、今年の春もそろそろ終わりを迎える時期に、恵比寿の東京都写真美術館に向かいました。土門拳さんの『古寺巡礼』展が開かれていたのです。

土門さんの写真集『筑豊のこどもたち』は私がまだ10代の頃、ざら紙に印刷され100円で販売されていました。私はそれ以来の土門フアンだったのです。土門さんに直接お会いしたのは京都の西芳寺、通称・苔寺でした。『婦人公論』に掲載される写真を撮ってくださることになりました。

土門さんは撮影に際して、ひたすら対象を見つめ続ける方のようでした。土門さんの言葉が忘れられません。空、苔、そして私をじっくり見つめ、「今日の撮影は中止。光がよくない」とおっしゃったのです。そして、「君はこれからどうするの」。私は困ってしまい、「京都ははじめてなもので」とお答えすると、「それでは、ついていらっしゃい」と、タクシーを止めました。

「これから本物を見に行くよ。モノには本物とそうでないものの二つしかない。本物を見つめていれば、本物がわかる」。

行った先は四条河原町にある骨董店の『近藤』でした。それから、近藤さんと私のお付き合いが始まり、『近藤』で学ばれた若手が、飛騨・古川で父親の経営する骨董店を引き継でいることも知りました。その後、脳溢血で倒れられた土門さんが飛騨・古川の骨董店の様子を見に車椅子で訪ねた話は感動的です。『遂に来たぞ!』。飛騨の店に飾ってある土門さん直筆の色紙には、生きることへの限りない情熱と賛歌が溢れ出ています。

映画、舞台、写真。限りある命の継承と永続性、そして夢の続きも見ることができたこの春は、とても豊かな日々でした。

『週刊朝日の休刊に想う』

街道への誘い(いざない)

先月末、100年を越す歴史に休止符が打たれました。

私が民藝に魅せられ、日本文化の源流を知りたいと各地を歩き回るきっかけとなったのが「週刊朝日」でした。その誌面で作家の司馬遼太郎さんが1971年から連載を始めた”街道をゆく”は、四半世紀も続いた”大紀行文学”です。日本各地の風土や人々の暮らしぶりを訪ね歩き、司馬さんは、この国の来し方、行く末を見定めようと”行脚”したのですね。

私は”街道をゆく”に背中を押されるように飛騨路を巡りました。「飛騨古川の町並には、みごとなほど、気品と古格がある。観光化されていないだけに、取りつくろわぬ容儀や表情、あるいは人格をさえ感じさせる」と司馬さんは表現しました。

そんな空間に身を置き、同じ空気を吸ってみたい。私の”街道の旅”は、そうして始まりました。飛騨・古川を繰り返し訪れるうちに多くの方々と知り合うことができ、そのお付き合いは今も続いています。私の人生で、そうした出会いや繋がりが広がったのも、”街道をゆく”のおかげでした。それは偶然であり、必然でもあった導きなのでしょう。

この作品には、”挿絵”(さしえ)が不可欠でした。洋画家の須田剋太(こくた)画伯は連載のスタートから挿絵を描き続けました。司馬さんは、20歳近くも年長の画伯を慕っていたのかもしれません。私は文章と挿絵に引き寄せられて各地に足を運んだことも多かったのですが、近江の朽木(くつき)街道は素晴らしいものでした。一面の紅葉が天と地を燃やし尽くしているかのように、しかも、鄙びた風情も醸し出す街道は忘れられません。司馬さんの旅に同行した須田画伯の挿絵と重ね合わせて、まさにお二人の”共同表現”だったことを実感しました。

その画伯とは、京都の骨董店「近藤」でたまたまお目にかかることができました。画伯の作られた陶板”旅”は、今も箱根の我が家で静かな力強い光を放っており、”私自身の旅”を見守っています。

司馬さんとの20年にわたる歴史を積み重ねて、画伯は84歳で亡くなりました。それから更に6年間、司馬さんの精力的な取材・執筆活動は天寿を全うするまでくりかえされました。

そして、その最後の時期の大半を挿絵で支えたのが、安野(あんの)光雅さんでした。山陰の小京都ともいわれる島根県の津和野で生まれ育った安野先生は、永年にわたり教育者として学校で指導した後、水彩画の世界で活躍されました。後になって先生は、私が司会を務めたラジオやテレビの番組に、解説で何度もご出演いただき、山々や盆地、そして自然の営みの素晴らしさを楽しげに語ってくださいました。

いま振り返ってみれば、”街道をゆく”は、司馬さんがこよなく愛した”原風景”だったのでしょう。

「週刊朝日」の創刊は1922年、その翌年に大阪で生まれた司馬さんは、いわば”同世代の仲間”でもあったのですね。司馬さんは47歳で連載をスタートし、25年間も歩み続けました。私は若い頃から「週刊朝日」そして”街道をゆく”の愛読者でしたが、1979年1月には表誌に登場させていただきました。まだ若き日?の私、司馬さんの連載が始まって8年後のことでした。

撮影/篠山紀信
朝日新聞出版に無断で転載することを禁じる(承諾番号23-1281)

「週刊朝日」を軸にした司馬さんや須田画伯、安野先生、そして各地の”街道の友人”たちが忘れられません。その頃の文章や絵、そして会話が途切れることなく目の前に現れ、耳に響きわたるのです。

とても懐かしく、やはり寂しい、「週刊朝日」とのお別れの晩春でした。

企画展『部屋のみる夢』に思う 

ヴィルヘルム・ハマスホイの『陽光の中で読書する女性、ストランゲーゼ30番地』

新型コロナウイルスが感染症法上「5類」への移行が決まり、マスクの義務化も廃止。日常の平常化が進められています。

コロナウイルスと同居せざるをえなかった3年という年月。人間は万能などではなく、世界はきっかけひとつで急変すると、改めて思い知らされるとともに、どんな状況にも想像を膨らませ、自分で考えることの大切さを実感させられました。

外出を制限された日々を、皆様はどうお過ごしになりましたか。

私は箱根の家の暮らしをいつものように続けておりました。一時は東京に出る機会が減り、キャンセルになった仕事もありましたが、自粛制限が緩められてからは様子を伺いつつ、美術館や映画館にも出かけていきました。

先日も、箱根のポーラ美術館の企画展『部屋のみる夢』に行ってまいりました。19世紀から現代までの作家が室内を描いた作品を集めた展覧会です。近代絵画のボナールやマティス、ベルト・モリゾから、現代に生きる草間彌生さんや写真家のヴォルフガング・ティルマンスまで9人のアーティストの作品が並んでいました。

部屋とひと口にいっても、視点も表現も実にさまざまです。日常の一瞬を細密に描写した作品もあれば、何気ない日常風景をとらえたものも……。家にいる時間が長かったためでしょうか。それぞれがいっそう味わい深く、胸に迫ってきました。

中で最も惹かれたのは、「北欧のフェルメール」とも呼ばれるデンマークのヴィルヘルム・ハマスホイの『陽光の中で読書する女性、ストランゲーゼ30番地』でした。

窓からさしこむ北国の淡い日差しの中、画中の女性は椅子に座り、こちらに背を向け、本を読んでいるのです。余計なものが一切ない空間。そこに流れる沈黙といえるほどの静けさにすっかり魅了されました。

展覧会の帰り道、「部屋」そして「窓」とはなんだろうと考えている自分に気が付きました。部屋は、個的な空間であっても、閉ざされているわけではなく、窓を通して外に開かれているのですね。

すると、これまで自分が窓や縁側から見てきた風景が次々に浮かんできました。夜空を見上げてお月見をした幼い日、子どもたちが庭で遊んでいる姿を見ながら料理をしたこと、そして今、私が日々、目にしている小さな庭のことも。

昨日と同じ空がないように、窓から見える景色も、常に変わり続けます。その日の光、その時の風、その風景は、そこにいる者だけがその瞬間にだけ目にすることができるもの。部屋もまた、同じように見えて、実は少しずつ変容していくのでしょう。

自分はどんな空間で、窓から何を見て過ごすのかと、問いかけられたような気がしました。

今という時間、自分の空間、そして生きることまでも、いとおしく感じる展覧会でした。

ポーラ美術館のこの企画展『部屋のみる夢』は7月2日まで開催されています。お時間がありましたら、ぜひお出かけくださいませ。
公式サイト https://www.polamuseum.or.jp/exhibition/20230128c01/

※企画展『部屋のみる夢』では全作品の撮影が許可されています。

時空を超えて輝き続ける志

20世紀初頭のヨーロッパ大陸で、あり余る才能を惜しげもなく発揮した2人の若い画家がいました。

エゴン・シーレ。
オーストリアのウイーンで生まれ、少年時代から抜きん出た絵画の才能を示しました。その頃、既に名声を得ていたクリムトは17歳の青年シーレが描いた作品を眺め、「君には才能がありすぎる!」と呟いたそうです。当時、ウイーンで盛んだったジャポニスムの影響などを受けながら、シーレは浮世絵版画にも心惹かれたようです。

見る人に強烈なインパクトを与えるシーレの自画像。それは、人間の存在とその不確かさを捉えようとしたもので、そうしたシーレの根源的な問題意識は、女性の自立した生き方というテーマにも表現の対象を広げることになります。意思的な姿が眩しい裸婦像の作品が社会的にも大きな衝撃を与え、”不道徳だ!”という批判すら巻き起こしたのです。

そんな絵画が顔を揃えた「エゴン・シーレ展」を見に行きました。会場は上野の「東京都美術館」。入り口には長い行列ができるほど、多くのファンが詰めかけました。ひとりで来た高齢の男性が、自画像の前でじっくり眺める姿が印象的でした。

そして、女性ファンが多いことも驚かされました。全体の7-8割を女性が占めていたでしょうか。シーレの生き方、そして当時の女性たちの想い、それらを自画像や裸婦像の中に見つけ出そうとしているようでした。

作品を凝視する若い女性の真剣な眼差しには、女性の生き方がどれほど変わったのか、変わったものと、変わらないものとは何なのか?彼女たちはその答えのきっかけを掴もうとしているではないかと思いました。会場には静かな熱気が感じられたのです。


上野を後にして東京駅に向かいました。展覧会の”ハシゴ”は初めての経験です。会場のステーション・ギャラリーでは”街に生き、街に死す”とも言われた佐伯祐三の回顧展が開かれていました

エゴン・シーレと佐伯祐三が同じタイミングで鑑賞できる。こんな機会は本当に珍しい!”ハシゴ”は当然でした。

佐伯は19世紀の終わりに大阪で生まれ、東京美術学校を出た後、パリに渡ります。パリの裏町の風景、彼は風景画に自らの心象を投影したのでしょうか。形を変えた”自画像”だったのかもしれません。妻子を連れてのパリへの渡航。2度にわたるパリの生活は4年余りでしたが、質も量も実に豊かなものでした。急ぐように、せかされるように、短期間でパリを描き続けた日々でした。

20世紀初頭のヨーロッパで、シーレと佐伯が直接会うことはありませんでした。シーレは第一次世界大戦に出征し、大流行していたスペイン風邪に罹患します。子を宿していた妻が死亡し、その3日後、シーレも亡くなるのです。1918年、わずか28歳でした。

佐伯はシーレの死から5年後、妻子を伴いパリへと向かいます。2回目の生活は”結核”を抱えながら、思いつめたような”速筆”ぶりだったということです。そして、パリの病院で亡くなるのです。30歳でした。同行していた娘も、同じ病で半月後に後を追いました。

猛烈なスピードで世紀の狭間を駆け抜けた2人の天才画家、余りにも惜しい夭折ですが、彼らの存在は単なる”一陣の風”だったのではありません。今も見る人の心を射貫くような素晴らしい感性が永遠に輝きを放っているのですから。

ステーションギャラリーを去る時、壁に残された古いレンガが目に飛び込んできました。時代を感じさせ、心を落ち着かせる壁画のレンガ。これは1914年(大正3年)に創建された東京駅で歴史を見続けた証人でもあるのです。

エゴン・シーレや佐伯祐三の、いわば”同時代人”とも言える存在でしょう。時と場所を飛び越えて旧友たちが一堂に会したような錯覚を覚えながら、温もりすら感じるそのレンガを見つめ続けました。

東京都美術館 https://www.egonschiele2023.jp/
東京ステーションギャラリー https://www.ejrcf.or.jp/gallery/

モリコーネ 映画が恋した音楽家

イタリア映画の魅力を改めて知りたいと思い、先日、見逃せない作品に会ってきました。

私がイタリア映画に憧れたのは、10代の頃に見た『終着駅』でした。あの映画に出てきたローマの中央駅ホームに一度は立ってみたい。そして、チネチッタ撮影所に行ってみたい。そんな思いが私の映画ファンとしての出発点でした。

今、見逃せないと思った作品の主人公はエンニオ・モリコーネ。
3年前に91歳で亡くなった映画音楽の作曲家です。

クリント・イーストウッドが主演した『夕陽のガンマン』シリーズは、軽快だけれど乾いたあの名曲によって、多くの人たちの心を揺さぶります。半世紀以上も前に、この大ヒット映画のテーマ曲を作ったモリコーネは当時、まだ30代後半でした。父親がトランペット奏者だったこともあり、モリコーネは子供の頃からトランペットの手ほどきを受け、作曲の勉強をしていました。しかし、本当は医者になりたかったと、晩年になっても述懐しています。病に苦しんだ父親の影を引きずっていたのかも知れません。

そのモリコーネの”全体像”を描こうとしたドキュメンタリー、『モリコーネ 映画が恋した音楽家』は質量共、大作と呼ばれるに相応しい厚みと重みを備えた作品でした。2020年に亡くなるまで、5年にわたり本人へのインタビューが繰り返されました。そこでは彼の音楽、とりわけ映画音楽に対する率直で複雑な思いが語られています。ローマの音楽院で学んだモリコーネでしたが、第2次大戦後のイタリア社会の混乱もあったのでしょう、生活のために編曲の仕事を中心とした音楽活動に邁進するのです。

この映画に登場するのは、モリコーネを取り巻く多くの仲間たちです。クエンテイン・タランティーノ監督の『ヘイトフル・エイト』で、モリコーネはアカデミー作曲賞を受賞しました。

また、歌手のジョーン・バエズ。フォークの女王と呼ばれた彼女は、『死刑台のメロディー』でモリコーネが作曲した主題歌「勝利への賛歌」を歌っています。

そして、プロデューサーで作曲家のクインシー・ジョーンズ。彼はモリコーネに対するアカデミー賞の受賞式ではプレゼンターを務めるなど、モリコーネの評価確立に大きな貢献をしました。

こうした、80人近くの友人たちとモリコーネ本人が語る”作曲家像”は、極めて興味深いものでした。その一つが、”映画音楽”を区別すること自体が無意味で不当だったのです。”映画音楽”は映画の添え物ではない、独立した存在なのだとという強い信念でした。彼はそれを証明するために生涯、戦い続けたのです。

私も青春時代から感じていたことがありました。映画の魅力の半分は、やはり、スクリーンから溢れ出る音楽なのだと。心躍らせる映画音楽が、見る人の人生に伴走してくれるのだと。

”マエストロ”(巨匠)とも称されたモリコーネを描くドキュメンタリー映画は、ジュゼッペ・トルナトーレによって作られました。あの『ニュー・シネマ・パラダイス』でモリコーネと初めてコンビを組み、カンヌやアカデミーで旋風を巻き起こした監督です。これ以降、トルナトーレが作る全ての長編作品は、モリコーネが音楽を担当しました。この関係は、およそ30年にわたりました。

そして、2人による最後の”創作活動”は、イタリア映画の魅力を再確認することにとどまらず、世界の映画界というスクリーンに映し出されたスケールの大きなメッセージとなって実を結びました。

`映画公式サイト
https://gaga.ne.jp/ennio/