これまで、たくさんの旅をしてきました。
バックパッカーの出で立ちでインドの安宿に泊まり、生と死が交錯するガンジス川に入り、早朝の朝陽に手を合わせたのは、私が10代のときのことでした。それからガンダーラ美術に魅せられ、たびたびインドに通うようになりました。笑い合いながら川で洗濯をする農村の女性たちの姿がとてものどかだったので、思い切って仲間に入れてもらい、旅の途中の洗濯をし、女性たちの洗濯物と川原の石の上に並べて干したりしたこともありました。
20代、イタリアで出会ったマルチェロ・マストロヤンニの額に浮かぶ汗は、仕事をやめようかと悩んでいた私にもう一度チャレンジしようという勇気をくれました。
アフリカ・喜望峰で大西洋とインド洋がぶつかり、まじりあう絶景は、30代の私にもう一度、顔をあげて進んでいこうと思わせてくれました。
映画やドラマ、ドキュメンタリーの撮影でも様々な国に行きました。イギリスではこれ以上ないほどの贅沢もさせていただきました。撮影の合間に、各地の美術館やアンティークショップを訪ねるのもひそかな楽しみとなりました。
農業に携わる女性たちとは、15年にわたり毎夏、ヨーロッパに行き、農家民宿を体験し、これからの農業の可能性を語り合いました。
民芸の柳宗悦先生の足跡を追い、民芸の原点である人々の暮らしを実感してみたいと、韓国に部屋を借り、市場で買った野菜を調理し、現地の人がいく銭湯に通ったこともありました。
子ども連れの旅にも出かけていきました。ダムに沈んだ村・奥三面、岩手の遠野……。
長年人々が住み続けて来た古民家があっけなく壊されていくことが辛くて、それら古民家の材料を使い箱根に家を建てようと思ってからは、私の元に来てくれる古民家を探して、車に子どもたちをのせて、走り回りました。
大好きな沖縄、飛騨古川……心の故郷と呼びたい土地も見つかりました。魂の出会いといいたくなるような人との出会い、かけがえのない経験もさせていただきました。
こうしてお訪ねした日本の山村漁村は、2000近くにものぼります。
先日、ふと思いついて、一日、小さな旅を楽しんできました。
朝、小田原までバスで下り、お気に入りのカフェでお茶をいただき、東海道線に乗り、二駅先の国府津まで。国府津にはすでに御殿場線が待っていました。



御殿場線は国府津と沼津を結ぶローカルの単線です。1時間に1,2本の運行で、かわいらしい二両編成。出発まで車内で待ち、やがてコトコトと走り出すと、緑豊かなのどかな風景が車窓に広がりました。
その日の目的地は、七つ目の駅「山北」。









小さな無人駅でした。登山靴を履いている人や、リュックを背負っている人が数名、おりてゆきました。山北はハイキング好きな人には良く知られている町で、「酒水の滝」丹沢コースなど気軽に楽しめるコースがあるのです。
駅前にボランティアのおじさんがいて、帰りの切符を売ったり、町の案内をしたりしてくれます。訪れる人に自分の町・山北を知ってほしい、好きになってほしいという気持ちがその姿から伝わってきました。
駅前には懐かしい風情の食堂がありました。帰りにそちらでお昼をいただくことにして、小一時間ほど町を歩きました。
山北の町中を通り、しばらく進むと、線路沿いの土手に。菜の花が満開でした。光の粒を集めたような鮮やかな黄色の絨毯です。
見あげれば、桜のつぼみが膨らみかけています。実は、ここ山北には御殿場線の両側に約500メートルにわたり、120本ものソメイヨシノが植えられています。神奈川県の「かながわのまちなみ100選」に選ばれた桜の名所なのです。
今年の桜は二週間ほど遅く、満開は4月10日ころだとか。
桜はまだでしたが、美しい足柄の山並み、丸く大きく広がった春空、菜の花、空を舞うツバメ、小鳥のさえずり、普段着の町の暖かなたたずまいと降り注ぐ日差し……呼吸がゆっくりになり、心がリフレッシュされていくのがわかりました。
山北の風景を十分に満喫して、来た道を戻りました。
以前の私なら、少し無理をしても滝まで足を延ばしたでしょう。けれど、自分の足元を見て、それは次回の楽しみとすることとしました。もっとしっかりした靴、膝サポーターを準備して。ようやく自分の体と相談できるようになったのかもしれません。
食堂はにぎわっていました。中高年の女性が厨房で、同じ年頃の笑顔のきれいな女性が配ぜんをしている、昔ながらのお店です。ハイキング姿のご夫婦が荷物を横に寄せて、私の座る場所をあけてくださいました。注文したカレーライスは玉ねぎと豚肉の優しい味がしました。
帰りの電車の時間に合わせ、駅に向かうと、食堂でご一緒だった人がたくさん。
国府津から東海道線に乗り換えると、富士山が見事に見えました。赤い彩雲がぽっかり浮かんでいました。
春をみつけた、そんな小さな旅でした。
桜は咲いていなくても、この旅で、春がたくさん見つかりました。
町を大切に思う人たちが暮らす町の穏やかな佇まい、歩くことを楽しんでいる人、訪れる人を普段着の笑顔でもてなす人々、隣り合った人に席を気持ちよく譲ってくれる人、そうした場所や人が醸し出すぬくもりが、私に春を感じさせてくれました。
何かをする、見る、誰かと会うといった明確な目的をもたず、その土地に、ゆるやかな時の流れや自然に、身をおく旅も本当にいいものだとも思わされました。
人々の暮らしが感じられる、近くの町をもっと訪ねてみたくなりました。
これを機に、私のもうひとつの旅がはじまりそうです。
「やまきた桜まつり」は3月25日~4月8日まで。期間中は桜並木のライトアップも行われます。