喜寿をむかえて

全国の100歳以上の人口は7万人を越え、その数はさらに増加しつつあります。

ついこの間までは、人生80年といわれていたのに、すでに「人生100年時代」は始まっているのですね。

私は今月、喜寿を迎えました。
この世に生を受けて77年。

大病をすることなく、仕事にも恵まれ、折々に学びの機会を得ることもできました。4人の子どもたちもそれぞれ独立し、孫の笑顔にも触れる喜びも味わっています。

平坦な道ではありませんでしたが、ここまで無事に歩んでこられたことに、今、感謝の気持ちでいっぱいです。と同時に、急激なデジタル化、未曾有のコロナ禍と、変化の激しい現代にあって、これからの日々を生きるための指針のようなものが必要だと改めて感じています。

私にとっては、ひとつは「学び」でしょう。
私の半生は常に民芸とともにありました。

民芸の柳宗悦先生を心の師として、私はその足跡を何十年もかけてたどってきました。民芸の故郷と柳先生がおっしゃった沖縄に足繁く通い、韓国には2年間部屋を持ち、古民家の美しさを呼吸したいと12軒の古民家の材料をすべて使い作り上げた家に住んでいます。

そして今、柳先生の著書をもう一度読み直しているのですが、何十回も繰り返し読んだにもかかわらず、新しい気づき、発見があることに驚かされています。

真に美しいものごとの本質に近づく―――その道程にゴールはないのでしょう。心をまっさらにして、今後も学び続けたいと願っています。

二番目は「つながる」ことです。

これまで仕事やボランティアを通して、様々な人たちと出会い、信頼関係を築き、自分の可能性が広がることを実感してきました。

中でもJAグループが提供してくださっているラジオ番組(文化放送)『浜美枝のいつかあなたと』は、私にとって最高のつながりの場であり、宝物です。多様な体験をしてきた人々の活躍を伝え、現場ならではの経験を持つ人たちの思いをすくいあげ、ラジオに耳を傾けて下さる人々との共感を深くしていくこの場を、これからも大切にしていきたいと思っています。

三番目は「健康」。

これまで私は日本の農業と食を考え続けてきました。農業に携わる女性たちとのネットワークもつくり、女性の地位向上と新しい農業のあり方を求め、活動してまいりました。

農業の実際を知るために、10年間に渡り米作り畑作りにも挑戦しました。身体は食べたもので作られていると考え、家族の食にも気を配ってきたのですが、60代のある雨の日に、パンプスで濡れた床を踏み、ついバランスを崩し、背中を強打してから、運動の必要性を感じさせられました。

以来、箱根の家で過ごすときは、朝のストレッチと、すがすがしい空気を呼吸しながらの散歩が習慣となりました。整形外科、歯科、産婦人科……それぞれ信頼する医師に定期的に診ていただいています。

近ごろでは必要に応じ、サプリメントもとりいれる大切さも感じています。また、清潔なおしゃれと、艶のある肌を保つ心がけを忘れないようにしたいとも思います。

いくつになっても食と運動、身だしなみに気を配れる自分であるようにできることはしていきたいと、心をひきしめています。

数年前の冬、「高野山」の「生身供(しょうじんぐ)」を拝見したくて、朝まだ暗い中、空海が入定された奥の院を目指したことがありました。

そのときに、杖をついてやはり奥の院に向かって歩く高齢の女性が私の前を歩いていらっしゃいました。杖に頼りながら一歩一歩、ゆっくり足を進める、その巡礼のような姿がそのとき私の胸に深く刻まれました。

なぜそんなにも印象的だったのか、ずっとわからなかったのですが、もしかしたら、これからの私の歩みをその高齢の女性の姿の中に見たからかもしれないと、今、思っています。

映画 アイヌモシリ

スクリーンに映し出された阿寒湖はどこまでも静謐でした。湖を取り巻く森や集落も、ゆったりと時を刻んでいました。主人公の少年は14歳。中学を卒業したら村を出て、高校に進みたいと考えています。多感な少年の澄み切った瞳が、画面いっぱいに広がります。

映画「アイヌモシリ」は、静かな熱気をはらんでいました。そして1時間半、ドキュメンタリー作品と勘違いするような不思議な感覚に包まれました。

少年はアイヌコタン(アイヌの人々が住むムラ)で民芸品店を営む母親と暮しています。学校ではバンド活動に夢中ですが、自分はアイヌとしての誇りを持ちながら、これからどう生きていくのか?自分が自分であること、つまりアイデンティティーを求める旅を始めたばかりの揺れ動く少年なのです。

この映画がなぜ真実味をもって迫ってくるのか?主人公の少年も、その母親も、そして多くの登場人物も、アイヌの人たちが演じているのです。母親役と息子役の二人は、実の親子です。作り込んだ”芝居”を軽々と飛び越えた世界が、そこにありました。

この映画を作った福永荘志監督は、「特別な演技指導はしていない」と語っています。「できるだけ普段の言葉で話してもらった」とも振り返っています。これこそがリアリティの源泉であり、出演した方々を全面的に信頼していたのですね。

福永監督は北海道生まれですが、20年近く前からニューヨークで映像制作を続けてきました。今回はその経験を活かして、カメラや音声、そして照明などスタッフをニューヨークの友人たちで固めたということです。アイヌに対する固定観念を持たない人たちが必要だ、という強い思いが伝わったのでしょう。出演者やスタッフに共通する姿勢は、国際性も相まって、作品に幅と奥行きをもたらしています。

少年の母親が営む店には、「あなた、日本語うまいね!」という無邪気に話しかけてくる観光客が登場します。母親は、「一生懸命、勉強したから!」と微笑んで返します。これはおそらく、実話を元にした挿話でしょう。あまりに自然すぎるシーンなのです。

熊の魂を神さまの元へ送り返すという厳粛な儀式に、少年は複雑な思いを抱きます。なぜなら、そのために人の手で熊の命を奪わなければならないからです。映画の最後には、「制作にあたり、いかなる動物も危害を加えられていない」旨の字幕がでました。

これからの時代を生きる主人公の少年は、これまでの歴史と文化にどう向き合っていくのか。悩みながら、躓きながら歩んで行く、彼の決意なのかもしれません。単なる静けさだけではけっしてない、凛々しさも感じさせる旅立ちと受け止めました。

とても示唆的なエンディングの映像、心憎いスタッフの感性です。

映画公式サイト
http://ainumosir-movie.jp/

ショーン・コネリーさん

10月31日 ショーン・コネリーさんが亡くなられました。
90歳でした。

ボンドガールとして渡英し、右も左もわからない撮影現場に戸惑っていた私に、「大丈夫? 心配事はない?」と毎朝、声をかけてくださったのがショーン・コネリーさんでした。

あのときの人を包みこむような優しいまなざし、深みのある穏やかな声を今も忘れることができません。

下積み時代が長く、労働階級出身のショーンさんは、弱い立場の若いスタッフをさりげなくフォローするような、人間的魅力にあふれた人物でした。

ボンド役に安住することなく、その後は数々の映画に出演。さらに晩年は母国のスコットランド独立運動にも携われました。

役者として、ひとりの人間として、気骨のある生き方を貫かれたその生き方に、どれだけ励まされ、勇気づけられたでしょう。

ショーンさんとの出会い、一時、ご一緒できたことに、今は感謝の気持でいっぱいです。

ありがとうございました。
ご冥福をお祈りいたします。
浜 美枝

沖縄・首里城

テレビ画面に突然映し出された燃え盛る炎を見て、思わず息が止まりました。

2019年10月31日、午前2時半。沖縄の首里城が猛火に包まれました。朝のニュースで世界遺産の焼失を知った時、文字通りわが身が燃えるような痛みを実感したのです。早いもので、それから1年が経ちました。

火災発生から1週間後、私は首里城へ向かいました。取り敢えずお見舞いに行かなくては、との一念からでした。長くお世話になっている地元の友人と一緒に、石畳の小道ゆっくりと歩みました。

そして坂道を登り切り、守礼の門をくぐったところで、無残に焼け落ちた正殿の跡と再会したのです。正殿は苦しみを懸命に耐えているように見えました。友人と私は手を合わせ、肩を震わせるしかありませんでした。茫然自失だったのです。

首里城との出会いは、今から40年以上も前になります。

若いころから工芸品に心ひかれた私は、柳宗悦先生の民藝運動に興味を持ち、時間を見つけては頻繁に展覧会などに足を運んでいました。その中で、沖縄の民芸や工芸品の素晴らしさ、そして豊かさを教えられ、長く続くことになる”沖縄通い”が始まったのです。

「紅型」の魅力に引き込まれるなかで、染織家で人間国宝の芹沢銈介さんの世界も知りました。そして、同じ人間国宝の与那嶺貞さんとお会いする機会にも恵まれ、「花織」の歴史と奥深い美に魂を揺さぶられていったのです。

私が民芸や工芸などを学ぶとき、いつもその”要”としてそびえ立っていたのが、首里城だったのですね。しかし、首里城には、長い苦難の歴史もありました。およそ600年前の完成から、何度も火災や戦禍に遭遇し、焼失は昨年で5回目だったそうです。それだけの歴史と痛みに耐えてきた首里城は、県民の皆さんにとっては心の支えであり、拠り所でもあるのでしょう。

これまで繰り返し困難を克服されてきた県民の皆さん、皆さんは数年後には持ち前の粘り強さと明るさで、きっと首里城の再建を立派に成し遂げられることでしょう。

コロナの猛威が世界的にも収束を見いだせず、復興へ向けての足元は決して平坦ではないでしょう。でも微力ながら私も、首里城再建の歩みに参加させていただきたいと、改めて思っております。

これまで抱えきれないほどの愛情をいただき、勉強させていただいた首里城であり、沖縄なのですから。

沖縄の友人から最近の首里城の写真が送られてきました。

日本美術の裏の裏

裏の裏?

どうゆうことかしら?そんな思いでサントリー美術館に行ってまいりました。肩のこらない解説にまず魅せられます。

”ごあいさつ”には「日本人にとって「美」は、生活を彩るものです。室内装飾をはじめ、身のまわりのあらゆる調度品を、美意識の表現の場としてきました。そのような「生活の中の美」を、ひとりでも多くの方に愉しんでいただきたい」とあります。

私が民芸や骨董に出逢ったのは10代のころでした。私は骨董だからいいとか、民芸だから好きとか、思い込んでいるわけではありません。ただ、私が「いいなぁ~」とため息をついたり、ちょっと無理してでもほしいと思うのが、骨董だったり民芸だったりすることが多いのです。

ものが長い年月を、生れたときの形を保ちながら生き続けているということは小さな奇跡だとおもいます。10代の頃読んだ「民芸とは何か」で柳宗悦先生は書かれております。

「真に美しいものを選ぼうとするなら、むしろあらゆる立場を超えねばなりません。そうしてものそのものを直接に見ねばなりません」と。

今回の展覧会の会場はすべて撮影可です。皆さんにご覧いただきたく何枚も写真を撮ってまいりました。

展覧会は6つの章からできています。分かりやすい解説、見やすい構成、いわゆる”美術品”鑑賞ではありません。

第1章  「空間つくる」
江戸時代の絵師・円山応挙が描いた「青楓漠布図」がまず目に飛び込んできます。絵を鑑賞し語るよりも、その空間を想像します。「どこに飾ったらすてきかしら」。襖や屏風も昔の人々はその風景を空間の中に置くことで春夏秋冬を日常で感じてきたのでしょうね。絵巻を観て季節の移ろいを感じ、ひとつの場所で季節を愛でて・・・贅沢ですね。私が好きだったのは「武蔵野図屏風」薄の生い茂る武蔵野を描いた屏風。この季節に東京の真ん中で観る薄。遠くに富士山も見えます。

 

第2章  「小をめでる」
平安時代の作家・清少納言が著した「枕草子」には、「なにもなにも、ちひさきものはみなうつくしき」という一説があります。と書かれています。つまりミニチュアです。指先でつまめるものばかり、乙女心をくすぐられます。

第3章  「心でえがく」
ウマイ・ヘタではないのですね。なぜか観ているうちにジワジワと心奪われていく作品にも出逢えます。

第4章  「景色をさがす」
私がもっとも見たかったコーナーです。壷や花入れなど焼き物には”裏の裏”がありどこからどのように見て、どのように景色をさがすか・・・私が京都の古美術店「近藤」で小さな手の平に納まるくらいの室町時代の古信楽の種壷に出会い「私にこの壷を分けてください」いまから思うと赤面のいたりなのですが、そこに「ある景色」をみてしまったのです。高温の炎で長時間焼成しますから、そこにはさまざまな”景色”が見えてくるのです。焼き物の面白さです。今でも私の大切な壷、10代で出会った私の景色です。

第5章  「和歌でわかる」
「生き物はみんなみんな歌を詠む」とは「古今和歌集」の序文の言葉です。かつての日本人は、動物でさえ和歌を詠むと考え、ラップのように和歌でバトルを繰り広げるなど、生活のいたるところに和歌があふれていました」と書かれています。文字と絵、工芸。和歌がわかればもっと愉しめるのに・・・

第6章  「風景にはいる」
江戸の浮世絵師・歌川広重は風景画の名手として知られていますが代表作「東海道五十三次」では小田原・箱根・沼津・江尻なども描き、まるで作中の「点」のような小さな人物と一緒に旅をしている気分になれますし、風景の雄大さを体感できました。

 

東京・六本木のサントリー美術館で11月29日まで。
https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2020_2/index.html

”漆黒”の美

”漆黒”という色には、さまざまなニュアンスが塗り込まれているのだと教えられました。

ポルトガルの首都・リスボンで繰り広げられる静かな”心理劇”はカラー映画なのにまるでモノクロームを思わせるような画面でした。

映画『ヴィタリナ』は、塗炭の苦しみを味わいながらも、強く生きようと歩みだす女性を描いた、”告白劇”ともいえます。

リスボンのはずれに、”移民街”と呼ばれる地域があります。そこには、アフリカ大陸の北西沖に浮かぶ島国、カーボ・ヴェルデから出稼ぎに来た多くの人たちが住んでいます。

リスボンの空港に一人の女性が降り立ちます。初めてのポルトガル。彼女の夫が職を求めてカーボ・ヴェルテから単身この国にやってきたのは、はるか昔のことでした。しかし、夢にまで見た夫との再会は、ついに果たせませんでした。夫はすでに亡くなっており、葬儀も3日前に終わっていたのです。彼女は”移民街”にある夫の部屋に荷をほどき、”来し方”の回願を始めます。

私はただただ、あなたの帰国を待ち望んでいた!それも、気の遠くなるほどの長い時間!

夫の借りていた部屋に何人もの彼の知り合いがやってきては弔意を示し、思い出を語ります。彼女はそれを聞きながら、これまでの自身の不安や苦労、そして夫に対する憤りまでも口に出さざるを得ないのです。

涙と絶望の淵にいた彼女が、いかに自分の未来を切り開こうと足を踏み出すのか。彼女の独白と心境の変遷は、計算され尽くした”漆黒”の画面構成によって見事なまでに客席に迫ってきます。

そして、スクリーンから発散される”漆黒”は刻々と変化を示すのです。それは、彼女が苦悩から立ち上がろうとする姿に、必死に寄り添っているようにも思えました。

こんな感動的な映画を作ったのはポルトガルのペドロ・コスタ監督。彼は今回の舞台となったリスボンの”移民街”を題材にして、20年以上も前から数多くの作品を撮り続けています。

そして、主役のヴィタリナを演じたのは、カーボ・ヴェルデ出身のヴィタリナ・ヴァレラさん。今回の作品は彼女の名前をタイトルにしたのですね。血の色にも見える彼女の涙は、演技の域をはるかに超えていました。

ヴィタリナさん、強い意志が全身に溢れ出る、本当に美しい俳優です。

映画公式サイト
https://www.cinematrix.jp/vitalina/

花は野にあるように

これは、有名な利休の言葉だそうです。

この季節になると、思い出すのが今は亡き茶花の先生、楠目ちづさん。25年ほど前、逗子海岸近くにお住まいになっておられた先生をお訪ねしました。

玄関に一歩足を踏み入れると、ハッと息をのむような静寂が、私を迎えてくれました。そこには花はなく、ただ、花の気配だけが漂っています。窓辺に置かれた常滑の壷が待っているのは、むくげ?芙蓉?それとも、楓の一枝でしょうか・・・。

透明なまなざし、柔らかな笑顔、銀色に輝くおぐし、そして和服をさり気なく上品に着こなされた、その楚々としたたたずまい・・・。美を深め、美を極められるその方ご自身が、まさに日本の美そのものなのでした。

お茶を点てる席というものは、なぜかいつも俗世とは一線を画した小宇宙です。炉にはしずかにお湯が煮え、仄かにたなびく湯気に風の気配を知り、ふと、生けられた花に目が止まります。古い瓢箪掛に吾亦紅(われもこう)と女郎花(おみなえし)茶室にふっと秋が舞い降りたような景色です。

「その、はかなさと哀れさ、そこに花の美しさのすべてがあります。」

「ふだん花が野に咲くとき、枝が、葉が、幹が自然のなかに立つときの在りようを、まずよく見ることが大切ですね。」

と語られる先生は野歩き、山歩きが大好きな方でした。

私の一日の始まりは4時半起床、ストレッチをして夜明けとともに山歩きがはじまります。1時間は速歩きで。そして帰りの道は足元に咲く野の花を愛でながら、ゆっくり歩きます。

「早朝に咲く花は早朝に、夕暮れの花は夕暮れに見てこそ、最も美しいのです」と教えてくださったのも楠目先生です。時には虫の音を、野草の匂いを、早朝の静寂ななかの山歩きは私の暮らしを豊かにしてくれます。『野あざみ』が美しく咲いています。

私の若狭の家の周辺にも野アザミが何本か咲いていて、あぜ道にもポツンポツンと咲いていました。ある年の夏、もう少し寄せ集めて咲かせたらキレイだろうなと思い立ち、わが家のすべてをお世話してくださっている渡辺さんに頼んでおきました。

翌年の夏の終わりに行くと、わが家の前庭は野アザミの群生地。まぁ、それは見事に赤紫色のボンボンが風に揺れ、私の到着を待っていてくれました。

ボンボンのところがとんがっていて、バリバリしていて、傍にも寄れないくらい。とてもつかめない。葉も茎も、バリバリ。私はつくずく思いました。あっ、この花は青春の私。いつも怒っていて、いつも燃えていて、いつも突っ張っていた。でも勢いがあって、そう最もテンションの高かった時代の私。何時間もみとれてしまいました。

私はあんなだったろうか。「ちょっと庭には痛そう。敷地のはしに移そうかしら。」という私に、「秋になれば、立ち枯れするんですよ。」と渡辺さん。まぁ、立ち枯れですって。枯れてもいたいのかしら。急に寒くなると、そのバリバリのまま立ち枯れるんですって。いやだな。野アザミのまま、肘はったまま立ち枯れてドライフラワーになるのは願い下げだわ。

77歳に近づいて、、早朝の山歩きをしながら野アザミや野の花に出逢って、いい秋が始まろうとする今、私はどんな野の花のように生きよう。そうね、どんな環境のなかでも”私たちは自然の一部”であることは忘れないようにしましょう。

太陽のテノール

31年ぶりの再会でした。今まであまり知られていなかった彼の魅力の原点を、改めて感じ取ることができました。”神の声”持つ天才テノール歌手、ルチアーノ・パヴァロッティ。彼の心の奥底は、プライベートな領域にまで入り込んだ映像と最先端の音響技術とによって十分、伝わってきました。

「パヴァロッティ 太陽のテノール」

これは全編、ドキュメンタリー映画です。パン職人の家庭に生まれたパヴァロッティは、父親の希望で小学校の先生になりました。しかし、母親に「あなたの歌は心に響くのよ」と励まされ、音楽の道を歩み始めます。

まだ世に出る前の彼は、「あの声に恋しない人なんている?」という女性と家庭を持ち、3人の娘にも恵まれて、オペラ界の頂点を目指すのです。周囲の人々を引き付ける天性の明るさは、類まれな美声を世界中に広げる上で、とても大きな役割を果たしたことでしょう。

彼は一歩一歩、成功の階段を登っていきますが、金銭だけでは計れない、音楽と自身の社会的な責任にも心を向けるようになります。

イギリスのダイアナ妃と公演で知り合い、二人は親友となります。それをきっかけに、パヴァロティは世界各地で慈善運動に奔走します。

そして、これからのオペラの世界をどのように切り開いていくのか?パヴァロッティはロック界のスーパースター、U2のボノとのコンサートを実現させました。オペラ界からは当然のように猛烈な逆風が吹きましたが、彼は全くブレませんでした。チャリティー活動もロックとのコラボも、彼が広く世界に目を向けたいと願う、アリア(独唱曲)からの新たな旅立ちだったのですね。

こうした貴重なシーンが、スクリーンには絶え間なく登場します。プライベートな映像の多くは”ホームビデオ”で、撮影者は再婚した妻でした。20人を超える家族や友人たちへの貴重なインタビューは、まばたきすら許さないほど、リアリティーに満ちていました。

そして、パヴァロッティの驚くべき美声をあるがままに伝えた音楽技術の匠。それらをまとめ切ったロン・ハワード監督には、ただ感謝のブラボー!のみでした。

満面の笑みをたたえたステージのパヴァロッティさんにお会いしたのは1989年、東京ドームでしたね。もう、31年も前になります。

そして、今から13年前、僅か71歳で私たちの前から突然、姿を消されました。抱えきれないほどの生きる幸せを与えてくださった人生のアーティスト、パヴァロッティさん。

いつまでも、いつまでも、夢のようなあなたの歌声を聴き続けます。

映画公式サイト
https://gaga.ne.jp/pavarotti/

自分だけの時間を過ごせる ところ

先日念願がようやくかない小田原の「江之浦測候所」に行ってくることができました。

かつて蜜柑畑だった小田原市江之浦の地に現代美術作家杉本博司氏が設計したミュージアムです。2017年にオープンし、”ゆっくり過ごしてほしい”ということで最初から完全予約制です。今回は詳しく想いは綴りません。杉本さんの言葉で感じとってください。

私は波の音に耳をかたむけ、空を見上げ、好きな場所に腰を下ろし、自然に抱かれて 古代人に想いを馳せていました。

杉本博司さんのことば

「私は小田原に負うところが多い。子供の頃、旧東海道線を走る湘南電車から見た海景が、私の人としての最初の記憶だからだ。熱海から小田原へ向う列車が眼鏡トンネルを抜けると、目の醒めるような鋭利な水平線を持って、大海原が広がっていた。その時私は気がついたのだ。「私がいる」ということを。」

「古代人は現代人よりも生きる価値を敏感にとらえていた」

「社会が進化し、世の中がどんどん便利になっていく一方で、人間がむしろ退化していってるんじゃないかと思うことがあるんです。忙しい日々の中で、自分と向き合う余裕もないまま時間だけが過ぎ去っていく。しかしながら、どうやったとしても人間の生命には限りがあるもの。古代の人々のほうが、現代人よりも もっと生きる価値を敏感にとらえていたのではないでしょうか。」

「紀元前に創建されたギリシャのアクロポリスやエジプトのピラミッドを見て、現代に生きる私たちがさまざまに思いを馳せるように、いま私たちがつくるものが、この先の時代に生きる人々の思いへとつながる。ならば廃墟になっても美しく、人の心を打つものを創造するミッションが私たちには託されている。」

いかがですか。

日本文化を身体で感じる場所が「江之浦測候所」でした。

小田原駅から東海道線、熱海方面に向って二つ目の無人駅が根府川(ねぶかわ)駅。そこから無料送迎バスが出ております。(約10分)詳しくはネットでお調べください。

幸せに満たされたひとときでした。

帰りに、どうしても買って帰りたかった干物。真鶴の海の見える坂の途中にある創業1877年(明治10年)干物専門店「魚伝・うおでん」に寄り、風情のある店構えでご主人が魚をさばいておられました。完全天日干し。鮮度といい、塩かげんといい絶品でした。

今回も身近なところの小さな”旅”をしてまいりました。

江之浦測候所 公式サイト
https://www.odawara-af.com/ja/enoura/

監督は80代の映画青年!

イタリアのシチリア島で勢力争いを繰り広げるマフィア。実在した大物マフィアの姿を描いた映画を見ました。

”マフィアもの”だからといって、全編、血生臭いだけの作品ではないはずです。やはり、その思いが裏切られることは、ありませんでした。

「シチリアーノ 裏切りの美学」

一人の男が生き抜く心情を、夫婦愛や家族愛を交えながら丁寧にたどった作品でした。

1980年代のシチリアでは、マフィア同士の派閥抗争が激しさを増していました。その中で逮捕されたのが一方の組織のボスでした。

彼は10代からあらゆる犯罪に手を染めて、マフィアのリーダーとしての頭角を現しました。しかし、時代の流れとともに、組織そのもののあり方やメンバーの意識の変化に、抜きがたい違和感を覚えるようになります。

さらに、対立する陣営は彼の兄や息子たちに手をかけてしまったのです。悩みに悩んだ末、彼は取り調べの判事に組織内部の情報を話し始めます。

”服従と沈黙”。

つまり、マフィアにとっての”血の掟”を、ボス自らが破ってしまったのです。

”誇り”と”脆さ”。

幾重にも続く複雑な心の波動をスクリーンは主人公に寄り添うように映し出していきます。その結果、逮捕され裁判にかけられた被告は476人。全員が特設の法廷に集められ、主人公との対決が繰り広げられます。このシーンは最大の見どころで、いわば「舞台劇」そのものでした。

拳銃や爆弾の音が鳴り響いても、映画全体のトーンはあくまで静謐でした。それは、間もなく81歳を迎えるイタリア映画界の巨匠、マルコ・ベロッキオ監督の心が強く投影されていたからでしょう。監督はこの作品を、”人間ドラマ”として描きたかったのだと、改めて感じました。

この映画に興味を持ったそもそもの理由は、40年以上前に遡ります。その時、私はイタリアのミラノを旅行中でした。モロ元首相の誘拐事件がローマで発生したのです。1978年3月16日のことでした。「何か大変なことが起きた!」その声に背中を押されるように、ミラノ駅からすぐにスイス経由でフランスに出国したことを、昨日のことのように鮮明に覚えています。

その事件から20年以上が経ち、”モロ元首相の誘拐・暗殺事件”が映画化されました。

題名は「夜よ、こんにちは」。監督はあの巨匠、マルコ・ベロッキオだったのです。もちろん見ました。テロリストたちの揺れ動く視線で事件を映像化し、高い評価を得ました。やはり監督は、「夜よ、こんにちは」でも、”心理劇”を描いたのですね。

「シチリアーノ」、初秋を迎えた平日の午後、有楽町の映画館で見ました。入場者も徐々に戻ってきたようです。会場の入り口に設置されたアルコール消毒液で丁寧に手を拭きながら入っていく女性が何人もいらっしゃいました。

見終わったあと、余韻に浸りたくてコーヒーショップに入りました。150分を超える大作をもう一度噛みしめるには、どうしても必要な時間と空間でした。

一人でコーヒーを飲みながら耳の中にこだましていた音楽は、日本でも有名なラテンの名曲「ある恋の物語」でした。この映画では、2度も流れていました。

まだまだお若いベロッキオ監督の次の作品、私は首を長くしてお待ちしております。

映画公式サイト
https://siciliano-movie.com/