小椋桂さん

東京・渋谷のコンサート会場に足を踏み入れると、温かい空気が溢れていました。それは、街に残っていた雪のかけらが、まるで別世界のように感じられる世界でした。

多くは中高年の方々、男女などは問いません。皆さん笑ったり、うなずいたり、しんみりしたり、それぞれの時を静かに過ごしていました。  

『余生、もういいかい』と銘打った小椋桂さんのファイナル・コンサートツアーです。

「歳を取りました。今日は最後まで歌えなかったら、ごめんなさい」などと笑いを誘いながらの”愚痴”でスタートした小椋さん。いざ歌い始めると、声の張りと艶やかさに改めて驚かされました。

”愚痴”と歌唱とのギャップ、プロの力量を冒頭からまざまざと見せつけられたのです。音楽とトークが満載の”小椋ショー”は2時間半を超えました。

「歳を取ると高い声が出ません!」などと”小椋節”を続けながら、誰もが何度も口にする、20近い名曲が次々と飛び出します。「愛燦燦」、「夢芝居」、「シクラメンのかほり」・・・。

やはり、艶が心を射る!想いが深い! 間もなく(1月18日)78歳を迎える小椋さんは歌はもちろん、トークでも会場を魅了し尽くしました。自らの容姿、容貌を肴にしながら、生い立ちや青春時代を甘さも苦さも含めて回顧するのです。

会場でほっこりとした幸せ感に満たされながら、私は胸の中でそっと呟きました。「小椋さんは単に思い出を唱っているのではない。自身の歌と心を、これからの時代を生きる若者や子供たちに伝えたいのだ」と。

振り返るだけではない、次の世代への継承を大切にしていることが言葉にも歌にも溢れ出ていました。お孫さんとの”合唱”を、何気なく挿入されていたほどですから。そして、バトンタッチはステージだけでなく、先月出版された本にも書かれていました。

「もういいかい まだだよ」(双葉社刊)という題名の、ユーモアや含蓄に富む小椋さんの本です。ステージと活字の、いわば”二刀流”ですね。

同世代人として、今回のコンサートを心静かに楽しむことができました。 ありがとうございました。

実は小椋さん、8年前に「生前葬コンサート」を開催し、世間を驚かせました。そして、翌年には、「一周忌コンサート」まで開いているのです。

小椋さん、一つお願いがあります!4年後の2026年に「生前の十三回忌コンサート」を開いていただけませんか? 「もういいかい」などとおっしゃらないでください。

今回のコンサートで、カーテンコールをじっと拝見いたしましたよ。背筋をピンと伸ばした、ステージの立ち姿と歩き姿!「まあだだよ」です。

私、次のコンサートに参ります。もう一度、ありがとうございます!を申し上げたくて。  

新春を迎えた箱根

箱根の山に新春が訪れました。      

人日の こころ放てば山ありぬ
               長谷川双魚

今日、一月七日は ”人日(じんじつ)の日” 。
年が明けて、初めて訪れる節句の日です。

七草粥を炊いて豊作や無病息災、そして長寿を祈る日でもあります。正月のお酒やごちそうで少し疲れた胃を休ませる食べ物が、この七草粥です。

台所で母がトントントンと七草を叩いていた素朴で懐かしい音。子供の頃、1月7日は七草粥。11日はお供え餅を切ってお汁粉を食べる鏡開き。15日はあずき粥。

生活のなかで1月の催事を自然に学んでいきました。

七草粥を食べながら、セリ、ナヅナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロと気が付いたら暗記していたのも、この頃でした。

今年もまた、コロナ禍のお正月でしたね。昨年に引き続き、帰省するかどうか悩んだ方も多かったことでしょう。幼い頃に育った家に戻り、一同がお互いの無事と健康を確認し合うお正月。

そんな当たり前のことが制約を受ける年の初めは、やはり辛いものです。わが家のお正月もずいぶん変わりました。

子供たちがまだ幼かった頃、おせちを作り終えるのを待ちかねたように除夜の鐘の音が聞こえてきました。それを耳にして年越しそばを食べてから、箱根神社へ参りました。

そして、2日と3日は箱根駅伝の応援が定番でした。我が家から歩いて数分の所が芦ノ湖のゴール・スタート地点ですから、家族揃って応援に出かけたものです。今は子供たちもそれぞれ家庭を持ち、自分たち流のお正月を迎えているようです。

今の私はといえば、元旦の、それも夜が明ける前に箱根神社に詣で、旧年の感謝と新年のお願いをするのです。そして、翌日からの2日間は箱根町町民にとっては”お年玉”ともいえる駅伝応援に参加するのが”恒例”でした。

もちろん、昨年、今年とラジオ、テレビを通しての声援でしたが、密を避けるためには仕方のない我慢ですね。

ただ、とても幸せなことがまだあります。毎年の晩秋から初冬にかけて、この町ならではの素晴らしい体験ができるのです。凛とした空気の中、まだ周囲が闇に包まれていても、何人もの選手たちが黙々と練習を続けているのです。

私は杉の木立を歩いていますが、少し上の道からは忍び寄るような足音が聞こえてきます。”タッタッタッタ”それは静かで力強く、神秘的ですらあります。あの時間、あの場でなければ決して味わえない、独特の感覚なのです。

その音を耳にしながら、「どうか怪我なく箱根路を、そして青春を駆け抜けてください!」と祈るのです。

箱根の山に新春が訪れました。 2022年のスタートです。
どうか今年こそ仲間や家族、そしてたくさんの方々が集い、 存分に笑い、おしゃべりができますように。

ありがとうございました。

日に日に寒さが厳しさを増し、2021年も終わろうとしています。

この2年間、多くの方々が大変な思いをし、様々な形で傷つき、穏やかならざる日々が続きました。秋には感染者が減少に向かい、やっとひと息つけるとほっとしたのも束の間、新しい株が出現し、再び見通しは不透明になっています。

大晦日、お正月という「節目」のありがたさを、今年はこれまでにないほど強く感じたような気がします。家を清らかに整え、お正月のごちそうを準備し、自分に課したちょっとした儀式や習慣を行なう…節目は、明日に向う大きな手助けなのですね。

来年はどんな日々が待っているのでしょう。私にはひとつ心に期していることがあります。それは「出会い」をより一層、大事にすること。人、本、映画、絵画、旅、そして新たな一日との出会いも。いくつになっても出会いは刺激と力を私に与えてくれます。これまで持ち物の整理を続けてきましたが、これからは捨てない暮らしにギアチェンジしようとも考えています。人、思い出、仕事、道具、暮らし…自分に備わったものを抱きしめ、あたたかな気持で過ごしていきたいと思います。

1月3日から朝日新聞に私のインタビュー記事20回「語る 人生の贈りもの」が掲載されます。このインタビューは、自分の生きてきた道を振り返ると同時に、これから進む方向を考えるとても良い機会になりました。どうぞご覧くださいませ。

文化放送『浜美枝のいつかあなたと』(日曜9時30分~10時)も続きます。来年も、常にアンテナをはり巡らせ、多彩な分野で活躍する素敵な人々や農産物生産者とみなさまを、しっかり結んでまいります。

今年も私の拙いブログにおつきあいいただき、ありがとうございました。この時代に生まれ、みなさまとともに生き、新しい年を迎えられることに、心から感謝しています。
2022年がみなさまにとって輝きに満ちた佳い年になりますように。

『グランマ・モーゼス展 素敵な100年人生』

年の瀬を迎え何となく慌ただしさを増す日々の中で、一息つきたいと展覧会に行ってまいりました。

「グランマ・モーゼス展 素敵な100年人生」。

この画家の名前は、アンナ・メアリーロバートソン・モーゼス。多くの人々からは親しみを込めて、”モーゼスお婆ちゃん!”と呼ばれたのですね。

彼女は1860年、アメリカ・ニューヨーク州の北部で生まれました。しかし、同じ州内でも大都会・ニューヨークとは全く趣を異にする、カナダの国境に近い農村地帯でした。 そして、そこで生まれ育ったことが彼女の人生とその後の創作活動に大きな影響を与えたのです。

27歳で結婚した彼女は夫と一緒に農業や牧畜に従事しながら、10人の子どもをもうけます。そして、少しでも家計の足しにしたいとバターやジャムなどを作り、販売したのです。

今から100年以上も昔、女性の自立の原点がアメリカの農村にもあったのですね。そんな彼女ですが、70代半ばにリウマチを患い、楽しみの一つだった刺繍を断念しました。そこから彼女のもう一つの人生がスタートしたのです。 ”遅すぎるデビュー”ではありませんでした。

80歳の時に初めて個展を開き、たちまち大評判となりました。大地に根を張り、自然と共に生きる。そして地域の人たちとの触れ合いを何よりも大切にする。そうした堅実な日常を絵画の中に再現していったのでしょう。

素朴で倹しい毎日の暮らし。それは開拓民であるアメリカ人が、当時でも失いつつあった”原風景”を改めて思い出させる”心の玉手箱”だったのかもしれません。

作品に雪の光景が多くみられたのは、寒い北部ニューヨークへの彼女の思い入れの強さだったのでしょう。

”遅咲きの画家”は101歳の長寿を全うしましたが、世を去るわずか半年前まで、絵筆を持ち続けたのです。最後の作品には、大自然の中で人々と家畜がゆったりと暮らしている光景が描かれていました。

そして、空のかなたには山や畑を見つめる、どこか優しそうな虹が顔をのぞかせています。この作品のタイトルは”虹”でした。  

彼女自身の言葉が残されています。

「人生は自分で作り上げるもの。これまでも、これからも」

10人の子供を産んだ彼女でしたが、5人を早く亡くしています。繰り返しの悲劇を乗り越えながらの生活と芸術。

この展覧会は入場者の9割以上が女性でした。アメリカのみならず、世界中の女性たちから愛され続けているグランマ・モーゼス。 東京の世田谷美術館には、彼女がそっと優しく私たちを抱きしめているような空気が満ちていました。

今年のクリスマスは、ことのほか素敵なプレゼントをいただきました。
ありがとうございました!グランマ。

展覧会公式サイト
https://www.grandma-moses.jp/

私と民藝

私は映画全盛時代の華やかな映画界におりました。まわりには煌びやかなものがいっぱいありました。ファッション雑誌から抜け出たような流行の洋服に身をつつんだ女優さん、いまでは想像がつかないほど希少な舶来のネクタイを結んだ男優さん、私のような駆け出しの女優であっても、みんなお洒落に磨きをかけていました。

撮影所の中庭を背筋をピンと伸ばしかっこよく、それはかっこよく歩く原節子さんなど・・・白いブラウスにフレアースカート。今でも目に焼きついています。

もちろん私も、洋服や靴やアクセサリーに興味がなかったわけではありません。でもそれよりなにより、夢中になったのが骨董だったのでした。その原点は中学時代、図書館で出会った本です。なぜ、その本に出会ったのか・・・その本を手にとったのか、いまだに定かではありません。

それが、柳宗悦の『手仕事の日本』や『民藝紀行』でした。

女優としての実力も下地のないままに、ただ人形のように大人たちにいわれるままに振舞うしかなかったとき、私は自分の心の拠りどころを確認するかのように、繰り返し読みました。

中学生の頃、難しいことなどわかるはずはありません。柳さんは、日常生活で用い「用の目的に誠実である」ことを「民藝」の美の特質と考えました。無名の職人の作る日用品に、民芸品としての新たな価値を発見したのでした。

私が柳さんの本を読みながら思い浮かべていたのは、日常、私が「美しいなぁ」と感じる風景でした。たとえば、父の徳利にススキを挿し、脇にはお団子を飾り、家族で楽しんだお月見の夜…

わが家で使っているものなど、どこにでも売っている当たり前のものばかりでしたが、それでも、ススキを生けた徳利に、月の光があたったときなど、曲面に反射する光の動きのおもしろさに「うわぁ、きれい…」と感じました。

何度も何度も水を通して洗いあげられた藍の布のこざっぱりとした味わいも「いいものだなぁ」と思いました。湯飲みに野の花を生けると、その空間全体に、ちがう表情が生まれることも、肌で感じることができました。

民芸運動の創始者として知られる柳宗悦(1889~1961)。柳さんの民芸の追及の背景には、当時の粗悪な機械製品や、鑑賞の対象としてのみつくられる趣味的な美術品など、工芸の現状に対する強い反発の念があったようです。

しかし、幼い私はひたすら、「用の美」「無名の人が作る美」という考え方に共鳴し、しだいに「美しい暮らし」という言葉に強い憧れを抱くようになったのでした。

地方文化を大切にしました。「手仕事の日本」には『沖縄の女達は織ることに特別な情熱を抱きます。絣の柄などにも一々名を与えて親しみます。よき織手と、よき材料と、よき色と、よき柄と、そうしてよき織方とが集まって、沖縄の織物を守り育てているのであります』と。

そして焼物なども。
「沖縄こそが民芸のふるさと」とも語っています。

”名もなき工人が作る民衆の日用品の美『民芸』”

まばゆい光を常に浴びているより民芸を求めて旅をはじめ、古民家の柱や梁を一本もあますところなく使って箱根の家をつくりました。『民家はいちばん大きな民芸』と言ったのは柳宗悦との出会いによって民芸の道にはいられた柳さんのお弟子さんでもある松本の池田三四郎さん。

池田さんは 「松本民芸家具」の創始者であり、私が多くのことを学んだ方です。いつかまた池田さんのお話しはさせていただきますね。

「柳先生に私は、『その道に一生懸命、迷わず務めていけば、優れるものは優れるままに、劣れるものは劣れるままに、必ず救われることを確約する』と教えられたんですよ」とおっしゃられた言葉が耳に残ります。

『民藝の100年』

私がまだ成人に達する前、心を丸ごと奪われたのが”民藝”でした。

そんな若い頃、どのような心境だったのか?改めて振り返りたいと、東京・竹橋にある国立近代美術館に行ってまいりました。

「民藝の100年」が開かれていました。

「柳宗悦没後60年記念展」と銘打たれた展覧会の会場に足を踏み入れた途端、予想もしなかった光景にいきなり驚かされました。入場者は中高年ばかりでは決してなく、若い方々がとても目立ったのです。

大正時代に産声を上げた民藝運動は単なる歴史の遺物ではなく、現代にも息づいていることをまず知らされました。

柳宗悦らのリーダーシップによる民藝運動は、関東の一部地域に留まることなく、日本各地に、そしてアジアや欧米にも影響を広げていきました。北海道や台湾での先住民との交流、朝鮮半島での文化的結びつきが改めて歴史の一コマを教えてくれました。

時代が米国との直接対決になる直前まで、柳宗悦らは欧米を訪れ、日本文化の紹介に力を注ぎ、交流を試みていたのです。純民間の”平和外交”だったのですね。敗戦後、民藝を含む日本の伝統的な芸術・文化への批判が海外から高まる中、それらを擁護したのは戦前から柳らと交流のあった米国人だったことも記録に残っています。

100年前の日本で一部の趣味人が好んだ芸術運動!?

民藝に対するそんな表面的な俗説を吹き飛ばすパワーが会場に満ち溢れていました。そこで静かに佇んでいた若者たちは、民藝運動の歴史と国際性を改めて知ったのだろうと嬉しくなりました。   次回はなぜ私が「民藝」に魅かれたのか、を改めて考えてみたいと思います。私の旅の原点であり、私の人生の”背骨”でもあるからです。  

展覧会公式サイト
https://www.momat.go.jp/am/exhibition/mingei100/

ゴッホ展

先日、上野の東京都美術館で開催されている「ゴッホ展」にお邪魔しました。事前申し込み制で、入館時間も予約するなど、隅々に気配りの感じられる展覧会でした。

”糸杉”を描いた傑作、『夜のプロヴァンスの田舎道』が16年ぶりに見られるなどとても魅力的でしたが、私は展覧会のサブタイトルにも興味をもちました。

「響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」。

フィンセント・ファン・ゴッホの前に書かれているヘレーネとは、ゴッホの絵画に心底惚れ込んだ女性の名前です。

ヘレーネ・クレラー・ミュラー。彼女の夫はオランダの実業家で、輸送や金鉱開発などヨーロッパを越えた事業展開をしていました。若い頃から芸術や文学への関心が強かったヘレーネですが、三男一女の母となった後も絵画、ことにゴッホへの憧れは高まる一方でした。

ヘレーネが最初にゴッホの作品を購入したのは40歳を迎える直前でした。ゴッホの自死から20年近くが経っていました。ゴッホの評価は生前は勿論、没後も決して目立っていたわけではなかったようです。ゴッホに傾倒し絵画を集め続けたヘレーネは、個人としてはついに世界最大のゴッホ収集家となりました。そしてそれに引きずられるように、ゴッホの名声も国際的に確立していったのです。

その背景には夫・アントンの理解と協力があったのは当然ですが、芸術に対するヘレーネの変わらぬ情熱が夫を揺り動かしたのでしょう。素晴らしい”婦唱夫随”だったのですね。

しかし、ヘレーネの”ゴッホ命”の人生は、決して順風満帆ではありませんでした。彼女は40歳を過ぎてから大病を患い、医師から生命の危機を宣告されたり、第一次世界大戦による戦争景気とその反動などで夫の会社が経営危機に陥るなど、幾多の困難にも直面しました。

しかし、ヘレーネのゴッホに対する燃えたぎるような思いは全く萎えを見せませんでした。大病から復帰できたら美術館を作る!価値ある芸術を未来へ伝承するのだ!という病床での決意は、最後まで貫かれました。

こうしたヘレーネのゴッホ作品への向き合い方は、既に出来上がった名声や知名度ではなく、画家の持つ精神性への憧憬から生まれ出たものだろうと推測しました。

会場内を行きつ戻りつしながら、青空と太陽が眩しいアルル地方の作品も素晴らしいけれど、それ以前の「素描」に心を動かされました。農夫など労働者が黙々と働く姿。『ジャガイモを食べる人々』の生活臭。モノクロの絵画には、ゴッホのリアルな感性が溢れ出ていました。

40年に満たない人生を疾走した天才画家。70年の後半生を、ひたすらその画家に随伴した女性。 上野の会場には芸術への限りない崇拝と、それを後世に伝えるのだという強い信念が見事に重なり合っていました。

展覧会公式サイト
https://www.tobikan.jp/exhibition/2021_vangogh.html

映画「夢のアンデス」

息を呑む大自然と、胸を締め付けられる人間社会の営み。この圧倒的な落差をアンデスの山々が見つめている。今、そんな映画が公開されています。「夢のアンデス」、南米・チリのドキュメンタリーです。  

1973年、チリでクーデターが発生しました。3年前に選挙で選ばれたアジェンデ政権が倒されたのです。クーデターの首謀者はピノチェト将軍で、それから20年近くにわたり独裁体制が続きました。軍事政権による弾圧は厳しいものでした。逮捕、虐殺などの恐怖政治が日常的な光景となり、約3000人が犠牲となりました。しかし、実際の被害者は数万人に達したともいわれており、詳細は現在もわかっていません。

「夢のアンデス」のパトリシオ・グスマン監督も弾圧を受けた一人でした。クーデターの混乱の中で逮捕、監禁されました。その後、彼はチリを離れ、フランスなどを拠点に独裁体制を批判する映画を製作してきました。 今回の作品でも登場するように、多くの人たちがそれぞれのやり方で強権政治に対する抗議の声を上げました。彫刻家や文学者、そして音楽家も異議申し立てをしたのです。

彫刻家のフランシスコ・ガシトゥアはアンデスの山から切りだされた岩に一筋一筋、魂を込めた無言の抵抗を刻みこみました。もし岩が言葉を話し、その言葉が翻訳できたならば、彼らに語らせたい。いや、岩石を削ること自体が翻訳なのだ。なぜなら、彼らは人々の生と死をずっと目撃していた、歴史の証言者なのだから。グスマン監督は、アンデスの山々に寄せる自分自身と彫刻家の心情を静かに語っています。証人の中には、自国のチリに留まりカメラを廻し続けた映像作家もいました。パブロ・サラス監督はピノチェト時代の圧政と現在のチリの姿を、捉え続けています。

軍事政権は30年も前に崩壊しましたが、今なお、独裁政治の負の遺産は社会の隅々に陰を落としています。当時の政権は外国資本の導入を積極的に押し進め、基幹産業である銅の採掘などにも影響を与えています。そうしたことも原因となり、経済格差は現在、無視できないほどの広がりを見せていると報道されています。

そんな現状に心を痛めながらも、グスマン監督は祖国への限りない愛情と未来への希望を捨てていません。今年7月には、軍事政権時代から続いている現行憲法を改めるための議会がスタートしました。男女ほぼ同数のこの議会では、先住民の女性が議長に選出されています。来年半ばには、新憲法制定の国民投票が実施される予定です。

幾多の試練を乗り越え、未来を切り開こうとしているチリの人々。その目撃者たるアンデスの山々は、いま何を思っているのか。   グスマン監督は改めて大自然に問いかけながら、祖国への思いを訴えかけたかったのだと思います。

映画公式サイト
https://www.uplink.co.jp/andes/

美しい日本の秋

振り返れば、この半世紀あまり私は日本国内ずいぶん旅を続けてきました。訪ねる先には農村の女性が待っていてくれたり、手仕事の職人さんであったり。

ときには円空上人が何度も訪ねたという袈裟山千光寺。高山の高野山と異名をとる神秘的なたたずまいの寺で、真紅に燃える木々がうっそうと繁る原生林のなかに立つと、その辺りの樹木一本一本が立木像に見え、ざわざわと鳴る木の騒ぎが耳に響きます。秋の夕暮れは早く、さっきまで真紅に燃えていた紅葉があっという間にくれなずんでしまいます。

晩秋の津軽平野ではつい昨日まで赤々と燃えていた木々の葉がすっかり落ちて、道端のナナカマドに美しい赤い実だけが残る頃、津軽は早くも秋の終わりを告げて、もうじき長く厳しい冬がやってくることを人々に教えます。

全国各地を旅するときはいつもたったひとりで行動する私ですが、晩秋の津軽平野を歩いていて、不意に冷たいみぞれが落ちてきたりすると、やはりたまらなく寂しくなることもありました。けれど、旅の途中の寂しさはいつもほんの一瞬だけのこと。その先にはたくさんの同士とも呼べるべき女性たちが待っていてくれて、いつも私を温かく迎えてくれました。

移りゆく季節の中に折りなす人々の営み、表情豊かな草花たちの息吹に触れるとき、私はこの美しい日本に暮すことのできる喜びとやすらぎにつつまれます。

小春日和のような一日私はバスを乗り継ぎ強羅の箱根美術館に行ってまいりました。

苔の緑と200本以上のモミジが鮮やかな庭。毎年11月になると訪れるところです。イロハモミジや大きな葉が真っ赤に染まっています。

和菓子とお抹茶を一服いただきながら庭をながめながらのひととき。

私は78歳になりました。歳を重ねるって素敵なことです。

まもなく山にも初霜が降り本格的な冬を迎えます。

箱根美術館公式サイト
https://www.moaart.or.jp/hakone/

「いのちを耕す」

この頃、時間があると本棚にある本を手に取り”あの頃どんな本を読んでいたのかしら”と思うことが多くなりました。なんとか、ひと目でもいい、お会いすることができないものか、とひたすら思い続けた女性(ひと)がいました。

作家の故住井すゑ先生。不朽の名作「橋のない川」の作者としてどなたもご存知の方です。

ある日、本屋さんでふと手にとった住井先生と長野県佐久総合病院(当時)の総長若月俊一先生との対論集『いのちを耕す』という本でした。御年九十三歳の住井先生と八十五歳の若月先生。対談のはじまりに住井さんは、「私もいくつになったら自分が年を取ったという意識をもつのか。一生もたないのではないかと思ってね」とおっしゃっているのです。

なんと素敵なことではありませんか。本のなかのお写真をお見受けするその笑顔は童女のように愛らしく、また観音さまのように、私の心を優しく包み込んでくださるようでした。

農民文学者の犬田 卯(しげる)氏と結婚されて、四人のお子さまを育てながら農民文学運動と作家活動を続けて来られた住井さん。その先生がご著書の中で一貫して「農業は一つの産業じゃなく、生命そのものですよ」と。

この時代にいかに「農」が大切であるかを語っていらっしゃるのです。当時、「いのちを耕す」を読んで、「あぁ私がいまこだわって見続けているものは、けっして間違っていなかったのだ、」とたまらなく嬉しく思えたのが昨日のことのようです。思わず書庫の椅子に座り読み続けてしまいました。

住井すゑさんは1997年6月16日に老衰のためご自宅で逝去されました。(享年95)

四人の子を持つ母親の視点から出発されて、いま、「農業というのは母なる業(わざ)です。母の問題には科学も何もいらない。そんなの超越しているわけです」と言いきられる住井先生の哲学は、宇宙の法則を語るまでの拡がりを持っています。そして先生のお言葉のひとつひとつが、私たちが生きて行く上で何が大切なことかを教えてくださいます。

「今や人々はカネを追い回すのに忙しすぎて”人間”のことなど考えるヒマがないのでしょうか、幸か不幸か、カネを追い回す才覚など持ち合わせない私は、オハナシを産もうと腐心します」

とおっしゃる九十三歳のひとりの女性が、亡きご主人の故郷の地である茨城県牛久の里で、農作業の傍ら童話を書き続けていらっしゃる・・・。そのお姿を想像するだけで勇気がわいてきます。背筋がしゃんと伸びる気がするのです。

大地に足を踏みしめて生きながら、政治や社会悪と闘い続けてこられたひとりの女性。

その方が「二十一世紀は、食料の自給できない国からつぶれていくでしょう」と断言されれば、それはどんな学者や評論家の予言よりも間違いないことと思えました。

あれから25年の歳月がながれました。現在「農」の現場は若者たちが環境に配慮し、あらたな世界が生まれつつあります。コロナ禍のなかで”心地よい暮らし”を模索している人も増えてきました。きっと良い方向に向いていくことを信じています。

住井すゑさんが天に召された翌月7月6日に県民センターでお別れの会がありましたが、「住井すゑさんと未来を語る会」と題されていました。私も一番後ろの席で参列させていただきました。左前の席に映画監督の山田洋次さんが目を閉じ静かにお聴きになっている姿が印象的でした。

先日11月3日 文化の日に「牛久市住井すゑ文学館」が開館しました。

農民文学者の夫・犬田卯の故郷の牛久村城中に家族で移住し、以来この地で執筆活動を続けてきました。住井さんは、家事、子ども四人の世話、夫の看病、畑仕事をしながら執筆し、その原稿料で一家を支えたといわれます。

私は35年ほど前に先生が『大地のえくぼ』と呼んだ牛久沼。その辺に建つお住まいを遠くから拝見しました。そしてその美しい風景を”きっと先生も見ていらっしゃる”と思ったものです。

開館翌日に東京駅から常磐線に乗り、文学館を訪ねました。旧居の跡に建った文学館は書斎・抱僕舎(ほうぼくしゃ)などの建物と土地が、ご遺族より牛久市へ寄贈され、改修工事が行なわれ誕生したのです。

執筆をした机上には原稿、使い古した広辞苑やペン、夫に使用した注射器など。こよなく愛した窓から見える沼の風景。

私はやはり「日記」に注目しました。

「もう五、六日前、あなたの毛糸ものを出したらふいに悲しくて、床にもぐって涙。そのせいか、川をへだてて、どうしてもあなたのそばにいけぬ苦しい苦しい夢をみた。」

「この日記帳をもらうことにしたからそのつもりでね」と、犬田の日記を住井が自身の日記にしたことが書かれています。

逞しくてあたたかい 住井すゑさん。

意外な素顔がわかるのが、ジャーナリスト・エッセイストで住井すゑと犬田卯の次女・増田れい子(1929~2012)の『母 住井すゑ』(海竜社)を読まれると素顔がよく分かります。

生まれた大和。その美しい風景から「橋のない川」がこの世に誕生したこと。いたみをバネに生きるつよさ……

わがいのち
おかしからずや
常陸なる牛久沼辺の
土とならむに                  住井すゑ

文学館の庭から見える沼の向こうに夕陽が沈みかけ前の藪の中には「木守柿」がぶら下がっていました。季節は晩秋からやがて冬へ。

なんだか…とてもあたたかな気持になりました。

牛久市住井すゑ文学館
https://www.city.ushiku.lg.jp/page/page010300.html