ゴッホ展

先日、上野の東京都美術館で開催されている「ゴッホ展」にお邪魔しました。事前申し込み制で、入館時間も予約するなど、隅々に気配りの感じられる展覧会でした。

”糸杉”を描いた傑作、『夜のプロヴァンスの田舎道』が16年ぶりに見られるなどとても魅力的でしたが、私は展覧会のサブタイトルにも興味をもちました。

「響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」。

フィンセント・ファン・ゴッホの前に書かれているヘレーネとは、ゴッホの絵画に心底惚れ込んだ女性の名前です。

ヘレーネ・クレラー・ミュラー。彼女の夫はオランダの実業家で、輸送や金鉱開発などヨーロッパを越えた事業展開をしていました。若い頃から芸術や文学への関心が強かったヘレーネですが、三男一女の母となった後も絵画、ことにゴッホへの憧れは高まる一方でした。

ヘレーネが最初にゴッホの作品を購入したのは40歳を迎える直前でした。ゴッホの自死から20年近くが経っていました。ゴッホの評価は生前は勿論、没後も決して目立っていたわけではなかったようです。ゴッホに傾倒し絵画を集め続けたヘレーネは、個人としてはついに世界最大のゴッホ収集家となりました。そしてそれに引きずられるように、ゴッホの名声も国際的に確立していったのです。

その背景には夫・アントンの理解と協力があったのは当然ですが、芸術に対するヘレーネの変わらぬ情熱が夫を揺り動かしたのでしょう。素晴らしい”婦唱夫随”だったのですね。

しかし、ヘレーネの”ゴッホ命”の人生は、決して順風満帆ではありませんでした。彼女は40歳を過ぎてから大病を患い、医師から生命の危機を宣告されたり、第一次世界大戦による戦争景気とその反動などで夫の会社が経営危機に陥るなど、幾多の困難にも直面しました。

しかし、ヘレーネのゴッホに対する燃えたぎるような思いは全く萎えを見せませんでした。大病から復帰できたら美術館を作る!価値ある芸術を未来へ伝承するのだ!という病床での決意は、最後まで貫かれました。

こうしたヘレーネのゴッホ作品への向き合い方は、既に出来上がった名声や知名度ではなく、画家の持つ精神性への憧憬から生まれ出たものだろうと推測しました。

会場内を行きつ戻りつしながら、青空と太陽が眩しいアルル地方の作品も素晴らしいけれど、それ以前の「素描」に心を動かされました。農夫など労働者が黙々と働く姿。『ジャガイモを食べる人々』の生活臭。モノクロの絵画には、ゴッホのリアルな感性が溢れ出ていました。

40年に満たない人生を疾走した天才画家。70年の後半生を、ひたすらその画家に随伴した女性。 上野の会場には芸術への限りない崇拝と、それを後世に伝えるのだという強い信念が見事に重なり合っていました。

展覧会公式サイト
https://www.tobikan.jp/exhibition/2021_vangogh.html

映画「夢のアンデス」

息を呑む大自然と、胸を締め付けられる人間社会の営み。この圧倒的な落差をアンデスの山々が見つめている。今、そんな映画が公開されています。「夢のアンデス」、南米・チリのドキュメンタリーです。  

1973年、チリでクーデターが発生しました。3年前に選挙で選ばれたアジェンデ政権が倒されたのです。クーデターの首謀者はピノチェト将軍で、それから20年近くにわたり独裁体制が続きました。軍事政権による弾圧は厳しいものでした。逮捕、虐殺などの恐怖政治が日常的な光景となり、約3000人が犠牲となりました。しかし、実際の被害者は数万人に達したともいわれており、詳細は現在もわかっていません。

「夢のアンデス」のパトリシオ・グスマン監督も弾圧を受けた一人でした。クーデターの混乱の中で逮捕、監禁されました。その後、彼はチリを離れ、フランスなどを拠点に独裁体制を批判する映画を製作してきました。 今回の作品でも登場するように、多くの人たちがそれぞれのやり方で強権政治に対する抗議の声を上げました。彫刻家や文学者、そして音楽家も異議申し立てをしたのです。

彫刻家のフランシスコ・ガシトゥアはアンデスの山から切りだされた岩に一筋一筋、魂を込めた無言の抵抗を刻みこみました。もし岩が言葉を話し、その言葉が翻訳できたならば、彼らに語らせたい。いや、岩石を削ること自体が翻訳なのだ。なぜなら、彼らは人々の生と死をずっと目撃していた、歴史の証言者なのだから。グスマン監督は、アンデスの山々に寄せる自分自身と彫刻家の心情を静かに語っています。証人の中には、自国のチリに留まりカメラを廻し続けた映像作家もいました。パブロ・サラス監督はピノチェト時代の圧政と現在のチリの姿を、捉え続けています。

軍事政権は30年も前に崩壊しましたが、今なお、独裁政治の負の遺産は社会の隅々に陰を落としています。当時の政権は外国資本の導入を積極的に押し進め、基幹産業である銅の採掘などにも影響を与えています。そうしたことも原因となり、経済格差は現在、無視できないほどの広がりを見せていると報道されています。

そんな現状に心を痛めながらも、グスマン監督は祖国への限りない愛情と未来への希望を捨てていません。今年7月には、軍事政権時代から続いている現行憲法を改めるための議会がスタートしました。男女ほぼ同数のこの議会では、先住民の女性が議長に選出されています。来年半ばには、新憲法制定の国民投票が実施される予定です。

幾多の試練を乗り越え、未来を切り開こうとしているチリの人々。その目撃者たるアンデスの山々は、いま何を思っているのか。   グスマン監督は改めて大自然に問いかけながら、祖国への思いを訴えかけたかったのだと思います。

映画公式サイト
https://www.uplink.co.jp/andes/

美しい日本の秋

振り返れば、この半世紀あまり私は日本国内ずいぶん旅を続けてきました。訪ねる先には農村の女性が待っていてくれたり、手仕事の職人さんであったり。

ときには円空上人が何度も訪ねたという袈裟山千光寺。高山の高野山と異名をとる神秘的なたたずまいの寺で、真紅に燃える木々がうっそうと繁る原生林のなかに立つと、その辺りの樹木一本一本が立木像に見え、ざわざわと鳴る木の騒ぎが耳に響きます。秋の夕暮れは早く、さっきまで真紅に燃えていた紅葉があっという間にくれなずんでしまいます。

晩秋の津軽平野ではつい昨日まで赤々と燃えていた木々の葉がすっかり落ちて、道端のナナカマドに美しい赤い実だけが残る頃、津軽は早くも秋の終わりを告げて、もうじき長く厳しい冬がやってくることを人々に教えます。

全国各地を旅するときはいつもたったひとりで行動する私ですが、晩秋の津軽平野を歩いていて、不意に冷たいみぞれが落ちてきたりすると、やはりたまらなく寂しくなることもありました。けれど、旅の途中の寂しさはいつもほんの一瞬だけのこと。その先にはたくさんの同士とも呼べるべき女性たちが待っていてくれて、いつも私を温かく迎えてくれました。

移りゆく季節の中に折りなす人々の営み、表情豊かな草花たちの息吹に触れるとき、私はこの美しい日本に暮すことのできる喜びとやすらぎにつつまれます。

小春日和のような一日私はバスを乗り継ぎ強羅の箱根美術館に行ってまいりました。

苔の緑と200本以上のモミジが鮮やかな庭。毎年11月になると訪れるところです。イロハモミジや大きな葉が真っ赤に染まっています。

和菓子とお抹茶を一服いただきながら庭をながめながらのひととき。

私は78歳になりました。歳を重ねるって素敵なことです。

まもなく山にも初霜が降り本格的な冬を迎えます。

箱根美術館公式サイト
https://www.moaart.or.jp/hakone/

「いのちを耕す」

この頃、時間があると本棚にある本を手に取り”あの頃どんな本を読んでいたのかしら”と思うことが多くなりました。なんとか、ひと目でもいい、お会いすることができないものか、とひたすら思い続けた女性(ひと)がいました。

作家の故住井すゑ先生。不朽の名作「橋のない川」の作者としてどなたもご存知の方です。

ある日、本屋さんでふと手にとった住井先生と長野県佐久総合病院(当時)の総長若月俊一先生との対論集『いのちを耕す』という本でした。御年九十三歳の住井先生と八十五歳の若月先生。対談のはじまりに住井さんは、「私もいくつになったら自分が年を取ったという意識をもつのか。一生もたないのではないかと思ってね」とおっしゃっているのです。

なんと素敵なことではありませんか。本のなかのお写真をお見受けするその笑顔は童女のように愛らしく、また観音さまのように、私の心を優しく包み込んでくださるようでした。

農民文学者の犬田 卯(しげる)氏と結婚されて、四人のお子さまを育てながら農民文学運動と作家活動を続けて来られた住井さん。その先生がご著書の中で一貫して「農業は一つの産業じゃなく、生命そのものですよ」と。

この時代にいかに「農」が大切であるかを語っていらっしゃるのです。当時、「いのちを耕す」を読んで、「あぁ私がいまこだわって見続けているものは、けっして間違っていなかったのだ、」とたまらなく嬉しく思えたのが昨日のことのようです。思わず書庫の椅子に座り読み続けてしまいました。

住井すゑさんは1997年6月16日に老衰のためご自宅で逝去されました。(享年95)

四人の子を持つ母親の視点から出発されて、いま、「農業というのは母なる業(わざ)です。母の問題には科学も何もいらない。そんなの超越しているわけです」と言いきられる住井先生の哲学は、宇宙の法則を語るまでの拡がりを持っています。そして先生のお言葉のひとつひとつが、私たちが生きて行く上で何が大切なことかを教えてくださいます。

「今や人々はカネを追い回すのに忙しすぎて”人間”のことなど考えるヒマがないのでしょうか、幸か不幸か、カネを追い回す才覚など持ち合わせない私は、オハナシを産もうと腐心します」

とおっしゃる九十三歳のひとりの女性が、亡きご主人の故郷の地である茨城県牛久の里で、農作業の傍ら童話を書き続けていらっしゃる・・・。そのお姿を想像するだけで勇気がわいてきます。背筋がしゃんと伸びる気がするのです。

大地に足を踏みしめて生きながら、政治や社会悪と闘い続けてこられたひとりの女性。

その方が「二十一世紀は、食料の自給できない国からつぶれていくでしょう」と断言されれば、それはどんな学者や評論家の予言よりも間違いないことと思えました。

あれから25年の歳月がながれました。現在「農」の現場は若者たちが環境に配慮し、あらたな世界が生まれつつあります。コロナ禍のなかで”心地よい暮らし”を模索している人も増えてきました。きっと良い方向に向いていくことを信じています。

住井すゑさんが天に召された翌月7月6日に県民センターでお別れの会がありましたが、「住井すゑさんと未来を語る会」と題されていました。私も一番後ろの席で参列させていただきました。左前の席に映画監督の山田洋次さんが目を閉じ静かにお聴きになっている姿が印象的でした。

先日11月3日 文化の日に「牛久市住井すゑ文学館」が開館しました。

農民文学者の夫・犬田卯の故郷の牛久村城中に家族で移住し、以来この地で執筆活動を続けてきました。住井さんは、家事、子ども四人の世話、夫の看病、畑仕事をしながら執筆し、その原稿料で一家を支えたといわれます。

私は35年ほど前に先生が『大地のえくぼ』と呼んだ牛久沼。その辺に建つお住まいを遠くから拝見しました。そしてその美しい風景を”きっと先生も見ていらっしゃる”と思ったものです。

開館翌日に東京駅から常磐線に乗り、文学館を訪ねました。旧居の跡に建った文学館は書斎・抱僕舎(ほうぼくしゃ)などの建物と土地が、ご遺族より牛久市へ寄贈され、改修工事が行なわれ誕生したのです。

執筆をした机上には原稿、使い古した広辞苑やペン、夫に使用した注射器など。こよなく愛した窓から見える沼の風景。

私はやはり「日記」に注目しました。

「もう五、六日前、あなたの毛糸ものを出したらふいに悲しくて、床にもぐって涙。そのせいか、川をへだてて、どうしてもあなたのそばにいけぬ苦しい苦しい夢をみた。」

「この日記帳をもらうことにしたからそのつもりでね」と、犬田の日記を住井が自身の日記にしたことが書かれています。

逞しくてあたたかい 住井すゑさん。

意外な素顔がわかるのが、ジャーナリスト・エッセイストで住井すゑと犬田卯の次女・増田れい子(1929~2012)の『母 住井すゑ』(海竜社)を読まれると素顔がよく分かります。

生まれた大和。その美しい風景から「橋のない川」がこの世に誕生したこと。いたみをバネに生きるつよさ……

わがいのち
おかしからずや
常陸なる牛久沼辺の
土とならむに                  住井すゑ

文学館の庭から見える沼の向こうに夕陽が沈みかけ前の藪の中には「木守柿」がぶら下がっていました。季節は晩秋からやがて冬へ。

なんだか…とてもあたたかな気持になりました。

牛久市住井すゑ文学館
https://www.city.ushiku.lg.jp/page/page010300.html

印象派・光の系譜

モネ、ルノアール、ゴッホ・・・70点近い印象派の名画が並んでいる!そんな夢のような展覧会は、あまり聞いたことがありませんでした。

取るものもとりあえず、東京・丸の内の会場に足を運びました。三菱一号館美術館でした。

入場者は体温を測り、手指を消毒し、静かに場内に吸い込まれていきました。

印象派・光の系譜」と名付けられた今回の展覧会は、20人を超える印象派の画家の作品が集められ、それらはすべてイスラエル博物館所蔵のものでした。

エルサレムにあるこの博物館は、50万点もの膨大な文化財を保有する、世界でも有数の博物館といわれています。

建国後、僅か10数年しか経っていないイスラエルが国の威信をかけ、そして世界中の同胞の支援を受けて1965年に開館したのですね。

会場にはルノアールやセザンヌ、ゴッホの作品はもちろん、モネの傑作”睡蓮の池”が、さりげなく飾られていました。そんな中で、私が思わず立ち止まり、動けなくなってしまった一隅がありました。

ゴーガンが描いた”ウパウパ”(炎の踊り)です。

彼が最後までこだわったのは大都会のパリではなく、南太平洋の島・タヒチの人々と自然でした。先住民が大切にしてきた文化。

それに対する理解と共感を持ち続けたゴーガンは、炎の横で踊り続ける島民の姿を目に焼きつけ、それをカンバスによみがえらせたのです。

古来からのポリネシアの日常を想起させるようなこの光景こそが想い描いてきた”理想郷”だったのでしょう。
当時のタヒチはフランスの植民地でした。そしてフランスは、官能的すぎるという理由でこの踊りの禁止令をだしたのです。

伝統文化を手放せない島民は、隠れて踊ったのですね。この作品が描かれたのは、1891年、日本では明治24年のことでした。

近代文明から距離を置きたいと望んだ島の人々。ゴーガンは当時のタヒチの社会に、ごく自然に同化することができた、いや、同化したかったのだと思います。

それは南太平洋の島々に特有の、湿度と肌のぬくもりをゴーガン自身が何よりも求めていたからだろうと、勝手に推測しました。

「印象派の作品の中心的な要素は、水の反射と光の動きだ」、という解説にうなずきながらも、”炎の踊り”をたまらなく気に入ってしまう自分に驚き、そして嬉しくなってしまうのでした。

”見る人の心を解放してくれる絵画”。やはりゴーガンは素敵でした。

もう一度、足を運びます。来年の1月16日まで、直接お会いできるのですから。

通常、展覧会でのカメラの使用は認められていませんが、最近は”一部撮影可”というケースも増えてきました。この展覧会の雰囲気を少しだけ、ご紹介させていただきます。

展覧会公式サイト
https://mimt.jp/israel/

秋の信州

私は一時期、何かに憑かれたように長野に凝っていた時期がありました。私には、元来、ある「地」に憑かれるというちょっと不思議な習性があって、そういう気持になるともう矢も楯もたまらず、そこに行かなければ気がすまなくなるのです。長野もそうでした。

長野県下のロードマップは東京より詳しいくらい。夜中に子供を寝かせてから車を飛ばす・・・。今思っても、よくあんなエネルギーがあったなと思うほどでした。

朝日がのぼるころ長野について、そのままただ、また帰ってきたり、ときにはお休みをとって、車と私はひとつになって山野をかけめぐるのでした。林道、農道、さまざまな小径にも分け入り、とにかく走り続けた時期がありました。

軽井沢を、追分を走るうちに、とても好きな道に出会いました。秋の始まりの信州は、私の大好きな色合いをしています。柔らかなモスグリーン、ベイジュ、柿色。日本の秋の色彩の美しさのすべてが目の前に広がります。みとれることしばし、私はひとり野に立ちつぶやきます。「日本ってすてき!」

ある一角が気になりだしました。そこに、とても日本とは思えない風景が紛れ込んでいるのに気がつきました。その感じは微妙で、木立の立ち並び方から、畑のたたずまい、畑の奥のほうに建つ家の様子・・・。

すべてが、ヨーロッパの田舎を思わせるのです。どんな方が住んでいらっしゃるのかしら。何をしている方?と、外から何度も畑を覗きながら気になりだしました。佐久の町が眼下に一望できて、それは気持がいいんです。

それが今は亡き村田ユリさんとの出逢いです。後に知ったことですが、ユリさんは知る人ぞ知る植物の研究家であり、マスコミにはお出にならないけれど、いろんな分野の方から慕われている大変な方だと後になって知ったのです。

どういうわけかユリさんにお会いした瞬間、私はこの方をずっと知っていたような気がしました。年中お会いしているわけではありません。地方から、私が召し上がっていただきたいと思った物を少し送らせていただいたり。そんなお付き合いが続きました。家に帰って、机の上にユリさんからのお手紙が置いてあるのをみたときには、ラブレターをもらったときよりも喜んでいる自分に気がつきます。

ときどきお邪魔して、お酒を飲みながらお話しを伺うと、大変な経験をしていらっしゃることが少しずつわかってきました。ドイツをはじめ、ヨーロッパに永くいらっしゃったとのこと。戦中、戦後の大変な時代を背筋を伸ばして生きてきた方なのです。

あるとき、疲れ果てて夜遅く10時頃にユリさんの家に着いたことがありました。そのときユリさんは、ご自分の庭で採れたハーブを木綿の袋につめ、それをお風呂に入れて「気持いいわよ、お入りなさい」と進めてくれました。お風呂の中にはお庭にある、ゆっくり休めて体が温まり、気持ちよくなるもの全部が集まっているようでした。そしてお風呂の後、ベッドに入ると枕の下には、さっきととは違う種類のハーブがしのばせてありました。

その細やかな心遣いが嬉しくて、涙が出るほど感激しました。

そのユリさんの畑で黙々と土に触れていらしたのが玉村豊男さんの奥さま、抄恵子さん。

寒い夜、暖炉に薪をくべ、暖かい火に一緒にあたりながら、ワインを飲んだり、ウイスキーを飲んだり、当時はまだご近所に住む玉村豊男さんご夫妻とご一緒し、豊男さんが腕を奮ってくださった料理をいただく機会にも恵まれました。

”ご縁って不思議なもの”ですね。

そして、後にご夫妻は長野県東御(とうみ)市の里山に移り住み、豊男さんが植えた500本の苗木は、いまや11ヘクタールの葡萄畑を持ちワインを作っておられます。ワイナリー経営の先駆者的な存在です。

ヴィラデストガーデンファームアンドワイナリー

カフェで美味しいランチをいただきました。今回の長野の旅は友人ご夫妻とご一緒で、ドライブの旅でした。5人で思う存分おしゃべりをいたしました。庭には抄恵子さんたちの丹精込めた花々が美しく咲き、ふっとユリさんのことを思い出しておりました。このお庭をユリさんがご覧になったらさぞ喜ばれたことでしょう。

帰りにショップで国際サミットで提供された、「ヴィニュロンズリザーブ、メルロー、シャルドネ」を抱え、友人の運転してくださる車窓から秋の景色を、そして、何度も「道の駅」で地元の野菜や手づくりの菓子や花などをどっさり車に積んで家路に着きました。

普段はひとり旅。列車での移動ですからお買い物はほとんどしませんけれど、日本の豊かさ、生産者の方々の思いを実感できた旅でもありました。

車窓からは雄大な霊峰富士が美しく、玉村ご夫妻と2年ぶりの長野での再会。やはり、人と出逢い、ふれあい、めぐり会えたことの幸せを心からかみしめた”秋の信州の旅”でした。

樋口一葉展 ~ わが詩は人のいのちとなりぬべき

僅か24年の生涯を足早に駆け抜けた作家。その息遣いに触れたくて、横浜に向かいました。港の見える丘公園にある神奈川近代文学館では、凛とした表情の一葉が出迎えてくれました。

「樋口一葉展  わが詩は人のいのちとなりぬべき」

来年、生誕150年となる彼女の特別展が開かれています。照明を少し落とした会場入り口の左側には、父親から贈り物である文机が置いてありました。紫檀で作られ、梅花の透かしが彫りうっすらと見える机は、独特の空気感と文化の匂いを漂わせていました。右側には、羽織を着たときに布地を継ぎ合わせたのがわからないよう仕立てられた着物が、ひっそりと飾られていました。

家計の浮沈を乗り越えた彼女の鮮烈な意志と生き方が、入り口から滲み出ていました。

そして今回、私のもう一つのお目当ては日記でした。子供の頃から読書好きで利発だったという彼女の日記に、以前からとても魅せられていました。一度は直筆の文字をこの目で見てみたい!日記から一葉の心模様を知りたかったのです。

ようやく念願が叶いました。とても流麗な文字は部分的には読み取りにくいところもありましたが、見惚れてしまう、やはり美しいものでした。14歳から書き始めたという日記は、日々の行動の記録に留まりませんでした。

自らの心に「おもひあまりたる」ことを、率直に綴っていました。そして、男性上位の社会で感じる悔しさや失望を繰り返し吐露しているのです。

一葉の短い人生は、波乱万丈と言ってもいいでしょう。士族にまで取り立てられた父親が事業に失敗し、一葉が17歳の時に亡くなります。一家の柱となった一葉は、駄菓子店を切り盛りしながら苦しい生活に耐えるのです。

しかし、一葉が文学に対する情熱を失うことは全くありませんでした。筆一本で家族を支える覚悟を決めた一葉は店を閉じ、息つく間もなく創作活動に集中します。”奇跡の14か月”という言葉が残っています。

明治27年12月に22歳で「大つごもり」を発表。その後、「たけくらべ」、「にごりえ」を書き上げました。この仕事ぶりに驚きを隠さなかったのが、泉鏡花、幸田露伴ら文壇の大御所たちでした。森鴎外などは、「この人に、まことの詩人という称を於くることを惜しまない」と絶賛しました。

その後、一葉は「十三夜」を完成させ、明治29年11月に亡くなりました。肺結核が進行していたのです。24歳6ヶ月でした。

会場を出て、深呼吸しました。秋麗(あきうらら)、爽やかで穏やかで、そして少し眩しい秋晴れの一日でした。

夭折した一葉の無念を思いつつ、経済的困窮や、時代の流れに抗いながら、懸命に生き抜いた彼女の意志と振る舞いに、秋晴れ以上の眩しさを感じたのです。

神奈川近代文学館 公式サイト
https://www.kanabun.or.jp/exhibition/15455/

 

映画「MINAMATAーミナマタ」

ともすると、時の流れは知識や記憶の輪郭を薄れさせてしまう。2時間近くの映画を見ながら、そんな思いが去来しました。

アメリカの報道カメラマン、ユージン・スミスの苦悩と使命感を描いた「MINAMATA ミナマタ」。スクリーンには一人の男性が挫折と再生の中で、取材対象の歴史的意義と自らの社会的責任を見つめ直し、ひたすら前に進もうとする静かな熱気が溢れていました。

この映画のテーマは、”水俣病はまだ終わっていない”です。

水俣病は化学肥料会社・チッソが工場排水を熊本県の不知火海に放出したことで発生しました。沿岸の住民は汚染された魚介類を食べ、重い神経疾患を抱える患者が続出しました。当初、原因不明の病とも言われたこの公害病は、今から65年前に水俣病と公式に確認されました。その後、患者は損害賠償の訴えを起こし、現在も裁判が続いています。

主人公、ユージン・スミスが水俣を訪れたのは1971年でした。それまでの彼は、フォト・ジャーナリストとして歴史に残る多くの作品を発表し、40歳になったばかりで、「世界の10大写真家」に選ばれるほどの実績を残しました。

しかし、50代半ばに差し掛かった彼は、失意の中、酒浸りの日々を送っていたのです。そんな時、後に妻となるアイリーン・美緒子さんからの情報などで、水俣の悲惨な実態を初めて知ることになります。

「この現実を、世界に伝えなければ」。眠っていたジャーナリスト魂を蘇らせた彼は、アイリーンさんを伴い水俣に入ります。以後3年にわたる現地での取材活動で、彼は患者やその家族に情理を尽くした対応を続け、強い信頼を得ていきます。そして、公害を発生させた企業の社長に対しても、捨て身の取材を続けたのです。

そのユージン・スミスを演じたのはハリウッド俳優、ジョニー・デップでした。しかしこの作品では、役者が”演じる”という言葉は、ピンと来ませんでした。”なり切っている”とも違います。スミスがデップに乗り移っている”気配”を強く感じたのです。もしかしたら、”憑依”という言葉が当たっているかもしれません。

この作品はドキュメンタリーとは異なります。しかし冒頭、「史実に基づいた物語です」と明示したことは、デップの並々ならぬ決意と自信の表れだったと思います。スクリーンのスミスを見つめながら、デップを想起したことは全くありませんでした。これは決して失礼な表現ではなく、二人が完全に一体化していた証でもあるともいえます。

この作品に登場する日本人俳優の存在は当然、大きいものがありました。その代表は真田広之さんでした。チッソと闘う活動家の役でしたが、自分の撮影シーンがなくとも現場に来てアドバイスや手伝いを自発的に続け、デップを始め周囲に強い感銘を与えたということです。

デップは語っています。「MINAMATAの歴史は語り継がねばならない。大勢の人が後に続いてくれるだろう」。この言葉は、おそらくスミスとデップ、二人の共同宣言のようにも聞こえました。

この作品のエンドロールは強烈です。現在も発生している世界各地の公害問題が次々と表示されました。アジア、アメリカ、欧州、アフリカ。その数は20ヵ所を超えており、日本の福島第一原発の事故も含まれています。

2時間の上映時間は決して長くありませんでした。

薄らいでいた自身の記憶を鮮明にし、より理解を深めるための、短すぎる貴重な時間でした。

映画公式サイト
https://longride.jp/minamata/

わたしの秋

私はいつも「今」を起点にして少し前はどうだったのか、ずーと前は?それよりもっと昔はどうだったのか、と「今」の根っこを追い求め旅を続けてきました。

ダムの底に沈む集落や、手仕事をこつこつしているお婆ちゃんを訪ね、農村や山奥の集落の人々の暮らしの歴史や文化を見て回るうちに、人間という存在の原初のエネルギーと高度な文化性、知恵と本能、生と死、伝承のうつろいなどにふれることができました。

そこには人の生きてきた連綿たる歴史があり、そして未来を見るヒントがかくれています。

集落を歩いていると爽やかな秋風に揺れる穂は、野山を黄褐色に染め、日の光に輝く美しさといったら、ため息がでます。でも日が陰り夕暮れ時には寂しい風情へと変化します。

そんな美しい日本の秋をたくさん旅し、たくさんのことを学んできました。『野にある花のように生きたい』と想ったのもそんな秋の季節だったと記憶しています。秋の花には人生を重ねることができます。

たとえば”野アザミ”。

どの角度からみても野あざみは、花弁をとがらせ、外に向って虚勢を張っています。本当は誰よりも弱い自分だから、角のようなとんがりで、自分を抱いているのです。小さな頃の私は、まるでいきり立った野あざみのようでした。自分というものがまだどういう人間なのかわからない頃、爪の先から頭のてっぺんまで、ツンツンにとがらせて、私自身を防御していたような気がします。

さすがに70代後半になった私は昔々ほど強く元気なトゲではなくなりました。

先日思いたって仙石原のススキ草原へ行ってみました。少し早めだったので銀色にキラキラと輝いていて草原の遊歩道が真っ直ぐに伸び、小雨降るなか秋の匂いが心地よかったです。まもなく黄金色の穂が風にゆれて本格的な山の秋をむかえます。このような見事なススキは、3月中旬~下旬には自然体系を守るために山焼きが行なわれます。

そして、歩いて湿生花園へ。私の大好きなところです。四季折々にここでしか見られない風景と湿原の可憐な花々を楽しめます。  落葉広葉樹林区ではコナラやケヤキなど雑木林とその中に咲く草花。低層湿原区、ヌマガヤ草原区、高山に咲く花々、箱根仙石原湿原区、湿生林区など、ほとんど人もいなく秋の花が楚々と咲いていました。

”春の七草”は七草粥。”秋の七草”は花の美しさを愛でる。どちらも好きです。
ホトトギス・エゾリンドウ・ワレモコウ・アサマフウロ・オミナエシ・ヤマハギ・マツムシソウ・・・そうそう、ホトトギスにこんな種類が豊富だったと初めて知りました。

どうぞ秋の草花をお楽しみください。そして秋の美しさが際立つ時期、”秋日和”には箱根にお越しくださいませ。

箱根湿生花園公式サイト
https://hakone-shisseikaen.com/

中原淳一さん

この一ヶ月はイギリスに住む息子家族の孫の”絵本”を選ぶのを楽しみました。

わが子が幼いころも、お誕生日のプレゼントは絵本でした。成長につれ内容も絵本から本に変わり4人の子ども達の成長にあわせての本選びでした。今はイギリスの孫2人の本選びです。お誕生日が近づく1ヶ月くらい前からママに今どんなことに興味をもっているのかをさり気なく聞き、喜びそうな本や絵本選びです。幸せを感じます。

なぜって、私が幼いころは絵本は憧れでした。家の事情で本を買ってもらえるような環境ではありませんでしたから、本屋さんに並ぶ絵本を眺め、いつか自分で本が買えるようになったら”思いっきり買おう”と思い、小学生の頃から図書館通いをしていました。

でも、図書館にはない私の大好きな画集。『中原淳一画集』

そう、中原淳一さんの絵が幼い頃の憧れでした。雑誌「ひまわり」や「それいゆ」表誌を眺めているだけで内容を読むことはできませんでした。

中学生になってお菓子屋さんでアルバイトをして最初に手にしたのが雑誌「ひまわり」でした。表誌の少女の美しさはもちろんのこと、美しい花や生活まわりの全てに虜になりました。

母が働いていましたから家事は私の役割。貧しくても、辛くても、中原先生の愛に包まれて、幼い私は頑張れたし、幸せを感じることができました。女優になり、働くようになってからは「それいゆ」も「ひまわり」も画集もそろえることができました。展覧会があると仕事の合間をぬって「中原淳一展」に通いました。

昭和21年に「それいゆ」が発刊され毎号、爆発的に売れ、全国に中原フアンが広がりました。私も生前、女優になりたての頃に一度だけお目にかからせていただきましたが、憧れの先生は雲の上の存在でした。先生のお描きになった挿絵はすべて好きで、さまざまなお洒落のヒントを本からいただいたものです。

お会いしたときに厚かましくも画集を持参し、サインを頂戴しました。私の”宝もの”です。そして、展覧会で改めて、以前は気づかなかった中原先生の文章に素敵な人間哲学があることに気づきました。そんな文章をご紹介いたしますね。

「愛すること」  中原淳一

女性は愛情深い人間であって欲しいのです。朝食の支度をするのなら、その朝食を食べてくれる人の一人一人に愛情をこめて作って欲しいのです。窓を開けたら新鮮な空気を胸いっぱいに吸って、幸せを感じ、窓辺の植木鉢にも愛情をこめて水を注ぎたいし、掃除をするならそこに住む人はもちろん家具、柱、壁にも愛情をこめられる人であって欲しいのです。

世の中がどんなにめまぐるしくなっても、そんな悠長なことは言っていられないなんて言わないでください。生きている限り、愛情深い女性でいてください。そういうことを知っている女性が必要でなくなることは、ないはずです。

ファッションだけではなく、暮らし、そして生きること全般に美を追求されてきた中原先生の、心底、思うことがこの一文に現れているのだと思います。「それいゆ」や「ひまわり」はまさに女性にありとあらゆる「暮らしの技術」を教えていることに気づきました。「愛情深い女性でいてください」このフレーズが心にのこります。

世の中はすっかり変わりました。でも、私は幼いころに中原先生の世界を知り、大人になってからもその美しさに魅かれ心の中にずっとその想いを抱き続けていられることはナント幸せなことでしょうか。