箱根はすっかり秋となり、朝夕は上着がほしくなりました。
みなさま、お元気でお過ごしでしょうか。
ご無事でいらっしゃいますか。
夏過ぎから相次いで、豪雨や台風が日本列島を襲いました。大きな被害を受けた地域も広く、心配しております。
万が一被害にあわれた方がいらっしゃいましたら、心からお見舞いを申し上げます。一日も早い復旧をお祈りしております。
先日、クラブヒルサイド主催【読書会 少女は本を読んで大人になる】で、私の読書体験をお話する機会をいただきました。
いつもそばに本を置き、今年3月までは四半世紀に渡り、ラジオにお招きするゲストの本だけでも月に10冊以上読み続けてきました。
今回、このお話をいただいたとき、改めて自分と本の関係を考えるよい機会だと思い、お引き受けしました。
その会でお話したことをまとめました。ご一読いただけたら嬉しいです。

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【今、私たちが宮本常一を読むということ~~遺したいもの、伝えたいこと】
取り上げる本・宮本常一著『忘れられた日本人』(岩波文庫)
今はネットで簡単に本が手に入る時代ですが、私は本屋さんが大好きです。本屋さんの中に立っているだけで、たくさんの本のささやきが聞こえてくるような気がします。どの本も晴れやかな表情をしているような気もします。
私は戦後のもののない時代に育ちました。家も両親が営んでいた工場も戦火の中で焼けてしまい、終戦後は日々を生き抜くことで精いっぱいで、実をいいますと、一人娘の私のために、本を買う余裕もなかったんです。それは我が家だけではなく、そういう時代でもあったのだと思います。
私が当時住んでいたのは川崎の下町で、学校への通学路の途中の、商店街の中に、小さな本屋さんがありました。その近くには貸本屋さんもありました。当時、本は高価で、庶民はなかなか買えなかったんですね。貸本屋は一冊十〜二十円で数日間貸してくれるというお店で、それを利用する人も多かったんです。
でも、本屋さんの店先に発売されたばかりの中原淳一さんのきれいなイラストが表紙をかざる雑誌『それいゆ』などが並ぶと、ほんとに素敵でまぶしくて。子ども心にきれいだなぁと憧れて、通り過ぎていたことを、今でも覚えています。
私にとって本との出会いは、本屋さんでも貸本屋さんでもなく、学校の図書室でした。でも、女の子がたいてい夢中になる、いかにも少女らしい本、たとえば「小公女」ものや「赤毛のアン」「若草物語」といったものに、私はのめりこむことがなかったんです。
それはたぶん、当時の私の置かれていた環境と関係しているのかもしれません。
我が家はさきほど言いましたように戦災ですべてを失い、物心ついた時は長屋住まいでした。木のリンゴ箱をふたつ並べて、そこに一枚の藍の布をかけたものが食卓でした。近所で摘んできた野の花を飾るのは、花瓶ではなく、父が晩酌に使う徳利や背の高い湯飲み茶わんでした。ないものは、母や祖母が創意工夫して、それで日々の暮らしが成り立っていたのです。
共働きの両親はとても忙しくしていましたから、小学校に入る前から家事の多くは私の役目でもありました。一日三十円の生活費を渡され、それでおかずの材料を揃え、ときには数日節約したものをまとめて少し高い魚を買ったり……小さな私がやっていたんです。
みんなの台所を預かることは私にとって誇らしいことでもありました。
かまどでご飯を炊き、洗濯板で洗濯をして……。でも子どもらしく過ごしてみたい、夕方まで思い切り遊んでみたい、そして「ご飯よ」と母親に名前を呼ばれてあわてて家に帰ってみたい……そんな風に、たまには親に甘えてみたい……。
そうした思いもあったからでしょうか、かまどの火をみつめているうちに唐突に泣いてしまったこともありました。まだ小学生ですものね。子どもや孫とともに暮らすと、小学一年生って本当に小さいんですよね。
みんなが必死に生きていたという時代のめぐりあわせもあり、子どもが親を手伝い、家のなんらかの役割をになうことは珍しいことではなかったとは思いますが、小さいころから私、がんばってきたんだなと思ったりもいたします。
中学に入ると、私はバスケットボール部に入りました。そして部活がない日の放課後は図書室で過ごすようになりました。本が読みたくてたまらなくなったんです。
石井桃子さん訳の『くまのプーさん』と出会ったのは、中学一年生の秋ころでしょうか。上品でかわいらしいイラスト。そして、自分の足りなさを知りつつ、精一杯頑張ろうとするプーさん、そんなプーさんを見守り助ける、本当は自分もまた小さな坊やであるクリストファーロビンの物語でした。一匹とひとりのその純粋な友情と思いやりに胸があたたかくなると同時に勇気をもらった気がします。
ちょっと時代は飛びますが、大阪とロサンゼルスを結ぶパンアメリカン航空の太平洋横断直行便が就航したのは、1962年のことでした。女優となっていた私はその一番機にのせていただき、ロサンゼルスのディズニーランドに行かせていただきました。そのとき真っ先に買ったのが、くまのプーさんの大きなぬいぐるみ。そのプーさんを抱えて帰ってきたんです。今もそのプーさんを私の家にかざっています。
『星の王子様』に出会ったのもそのころです。これはご存じ、砂漠に不時着したパイロットとそこに現れた「星の王子さま」との交流を、パイロットの語りで描かれたものです。何度も読みました。読むたびに自分にとって大切なものはなんだろうと考えました。
星の王子様の星に咲く一輪のバラへの王子様の思い。
砂漠の夜に星がさえざえと輝く美しさ。王子様の孤独。
「たいせつなことはね、目に見えないんだよ」という星の王子様の言葉は、私の道を照らす灯のようなものになりました。
そして十四歳、中学二年生になったばかりのあの日の午後……いったいなぜその本を選んだのか、題名さえも定かには覚えていないのですが、その本を書いた柳宗悦という人の「ものを作る人に美しいものを作らせ、ものを使う人に美しいものを選ばせ、この世に美の国を作ろう」というフレーズに心打たれ、その言葉が脳裏から離れなくなってしまったのでした。そして柳宗悦という人についていこう、この人を先生にして私は生きていこうと、一瞬にして決めてしまったんです。
ちなみにこの年代の子どもたちは、森鴎外や夏目漱石、川端康成、世界文学ならシェイクスピアやアガサ・クリスティー、マーガレット・ミッチェル、シャーロット・ブロンテなどに夢中になるのではないかと思うんですが、私はそうした文学的な本は手に取りはしたものの、どっぷりはまることはなかったんです。
先ほど、母や祖母の創意工夫で日々の暮らしが成り立っていたと申し上げましたが、私は貧しいながらも季節の移ろいに歩調を合わせた暮らしというものに早くから興味がありました。それで、文芸的方向ではなく、柳先生の示す民芸の美といったものへ導かれたのではないかと思うんです。
ひな祭りには紙で折ったひな人形を飾り、七夕には近くで切ってきた笹に願い事を書いた短冊をさげ、お月見には父の徳利にススキを飾り、お正月には重箱に色とりどりのお節料理を作って詰めて。といった当時の私の暮らしの先に、民芸があったということなのだと今では思っています。
私は中学を出ると、あの頃、男性と同等のお給料をいただける職業という理由でバスの車掌になりました。中卒で三年間勤め上げると、試験を受けて、高卒と同じようにバスガイドになれるというのも魅力でした。バスガイドになれば日本中、旅することもできる。お給料も順調にあがっていけば、親に頼らずに生きていけると弾むような思いでした。
でも友人に誘われ撮影所見学に行ったところスカウトされ、十六歳で映画会社東宝のニューフェースに合格して、右も左もわからないまま、新人女優と呼ばれるようになりました。仕事は次から次に舞い込みました。けれど、次第にスターのように扱われていく自分に、喜びや嬉しさよりも、むしろ後ろめたさを感じていたんです。
十五歳から十六歳、わずか一年ちょっとの間に人生が一変したのですから、とまどいも大きかったんでしょう。
悩んだ末に、とにかく大好きなイタリア映画の本拠地に行ってみようと、そういうところが私の直線的なところなのですが、……とにかくひとりでローマに飛んでしまったんです。十八歳でした。
たまたまローマではマルチェロ・マストロヤンニさんが劇場で芝居をやっていました。私は毎日、一番安い桟敷席に通いました。一週間通ったとき、顔を覚えてくれた切符切りのおばさんがマストロヤンニの楽屋に案内してくれたんです。芝居を終えたばかりのマストロヤンニは、噴き出る汗をぬぐいながら、女優の卵だといった私に、「ほらこの僕の汗をみてごらん。人に喜んでもらうほど汗をかけるということはとても幸せなことなんだ」といいました。
たわいないと思われるかもしれませんが、私はその言葉で吹っ切れたんです。女優も労働者なんだと思ったからでした。としたら、私は人々に感動を与える労働者でありたい、女優としてもう一度、懸命に、汗を流して働いてみよう、と。
二十代に入ると、ひたすら思い続けていた柳宗悦先生の足跡を追って、日本の民芸を訪ね歩く旅をはじめました。
柳先生が武者小路実篤や志賀直哉とともに雑誌「白樺」を創刊したと知ると、白樺派の文学をも読み漁りました。 また、陶芸の浜田庄司やバーナード・リーチ、河井寛次郎といった人々とともに民芸運動を提唱したと知ると、そうした宗悦先生ゆかりの先達の生き方や世界に触れた本にも手を伸ばしました。
その中で、私は宮本常一さんに出会ったのです、宮本さんもまた、若い頃に民藝運動に参加し、その才能を柳さんに高く評価された方でした。
「民の道具の美」を見出したのが柳さんなら、「民が生きるということ・そこにある美」を見出し、すくい上げたのが宮本さんといっていいかもしれません。
ここでご紹介する『忘れられた日本人』は宮本さんが一九二〇〜五〇年代にかけて日本各地で出会った古老たちの語りを記録したものです。
村の古文書を宮本さんに貸すかどうかを丸一日かけ、参加者全員が納得するまで話し合う対馬の寄り合い。ときに下世話な話もまじえつつ自分を解放し、笑い飛ばしながら、田植えという重労働にあたる周防大島の女たち。欲望や弱さを隠すことなく、多くの女性との関係を語る土佐の盲目の元馬喰の老人……。
初めてこの本を読んだ時、貧しく過酷で、ときには残酷ともいえる環境にありながらも、泥臭く、明るく強く生きる、生命力に満ちた人々の姿に衝撃を受けました。
そして、私たち日本人の根っこはここにあるのではないかと、じわじわと胸に感動が広がっていきました。
それから何度この本を開いたでしょう。生きづらさを感じたとき、壁に行く手を阻まれたとき、泣き言をいいたくなったとき、あるいはただ何気なく本に手を伸ばしてページを開いて……いつもこの本は私の心をゆさぶり、生きていく力を与えてくれました。
宮本さんのこの本にも背中を押されて、私の旅への思いはいっそう強くなりました。ときは高度経済成長時代。古いものがどんどん壊され、道が作られ、新建材の家が際限なく作られていく時代でした。
それだからこそ、消えゆく、あるいは消えてしまうかもしれない、でもそれは確かに今の自分たちにつながっている、そんな日本の暮らしや文化をこの目でしっかりと見ておかなくてはならないと、何か使命感のようなものさえ私は感じていたのかもしれません。
私の旅は、私にとっての、忘れられた日本人探しでもあったのだと思います。
旅では数えきれないほど多くの人に出会いました。多くの素朴な道具にも出会いました。そのひとつひとつが忘れられない貴重な記憶ですが、中でも鮮やかに私の胸に刻まれている三つの出会いを、ここでご紹介したいと思います。
まずは沖縄の出会いを。私がはじめて沖縄に行ったのは、まだパスポートが必要な時代でした。柳先生の「沖縄こそが日本の民芸のふるさと」と記されていたので、何が何でも沖縄にいってみなければと勇んで出かけました。私は二十代でした。
はじめて尋ねた沖縄では目にふれるものひとつひとつが宗悦先生の言う「用の美」であふれていました。陶器、籠、布、道具……、そうしたものを作る人や、それらを使って暮らす人に会い、話を聞いてまわりました。
そして出会ったのが与那嶺貞さんという女性でした。
かつて沖縄には琉球王府の御用布に指定された花織という織物がありました。けれど、その工芸の複雑さから織り手がいなくなり、その伝統が途切れてしまっていたのです。
貞さんは、戦後の昭和三十九年、村に残されていた、たった一枚のちゃんちゃんこを頼りに花織の復元にとりかかった方なんです。
ご存じのように、沖縄は第二次世界大戦で日本の盾となりました。
貞さんはご主人を出征先の戦地で亡くされ、ご自身も三人のお子さんを抱え、戦火の中を逃げまどい、なんとか生き延びて終戦を迎えたと言います。そのとき、貞さんは三十五歳。花織の復元にとりかかったのは、女手一つでの子育てを終えた五十五歳のことでした。
「泣けるほど生易しい人生じゃなかった。もう涙も出ないという毎日だったから、でも私と子どもたちの助かった命を、何とか生きさせんとね」という思いで、貞さんは生き抜き、そして花織が国の無形文化財に指定されるまで見事に復元されました。
「浜さん、女の人生はザリガナ(もつれた糸のようなもの)よ。でも丹念にほぐしていけば、また美しい花のヤシラギ(布)をウィルサビル(織ることができる)」
戦中戦後の苦境を耐えて生き抜いた女たちは、みな、貞さんのようにそうした言葉で自分を励まし、希望を紡ぎ続けて来たのではないでしょうか。
次に、新潟県の北部、奥三面という集落で出会ったおばあさんのことを紹介させてください。
奥三面は、治水と電源開発の名のもとに、一九六〇年代、ダムの底に沈むことが決まった集落でした。この村の暮らしを姫田忠義先生が映像記録として残そうとしていると知り、姫田先生にお願いして、私も同行させていただき、私はこちらの集落に三年の間に、二十二回通いました。
一九八五年にいよいよ閉村となり、村人が全員退去すると決まった、最後の夏には、子どもたちも連れていきました。清らかな谷川で、子どもたちが若鮎のように泳ぎ、はしゃぎ、あっという間に日焼けして、村のおばあさんおじいさんには自分の孫のようにかわいがっていただきました。村の最後の夏。四人の子どもたちのおかげでにぎやかでよかったともいっていただきました。自然に生かされた村でした。閉村式、村の最後の日にも私は立ち会わせていただきました。
伊藤きいさん
当時七十四歳だったおばあさん、みんなきいばあちゃんと呼んでいました。
奥三面では、昔は、お宮参りの前になくなった赤ん坊や早産で亡くなった子を、お墓ではなく、牛小屋馬小屋の下に祭ったということを私に教えてくれたのは、きいばあちゃんでした。家族が寝静まったあとに、母親たちは我が子を慰めるために牛小屋馬小屋に通ったのだそうです。きいばあちゃんもそのひとりでした。
「村が沈めば、子が祭ってある牛小屋馬小屋も、精魂込めて作ってきた田んぼもなくなってしまいますね」と、私がいうと、「子どもたちの幸せのためなら我慢するとよ」とひとことおっしゃってきいばあちゃんは私にうなずきました。
その言葉が温かく優しく、重く深く。今もその少しかすれた声とともに、私の耳の奥に残っています。迎えに来た息子さんの車に乗って、きいばあちゃんは静かに村を去っていきました。
その後に行われた遺跡調査では旧石器時代からの遺跡(奥三面遺跡)が発掘され、旧石器時代からこの地に人の営みがあったことがわかりました。大昔から人々が自然と折り合って人々が暮らしてきたその地は、今、水の底に沈んでいます。
最後にご紹介するのは、岐阜県高山市荘川町にある四方を山に囲まれた御母衣ダム湖畔の展望台にたたずむ二本の老いた桜・荘川桜にまつわる物語です。樹高、約二十メートル以上、幹まわりは約六メートル、樹齢四百五十年の見事な、アズマヒガンザクラという名の桜です。
この桜は、今は湖底に沈んでいる照蓮寺と光輪寺の境内にあったものでした。
ダム建設に際し、電源開発株式会社の初代総裁であった高碕達之助(たかさき たつのすけ)さんという方が、移住を余儀なくされる住民の心の支えになるようにと、桜の移植を計画したといいます。そのために日本古来の山桜・里桜の保全活動に生涯を捧げた笹部新太郎さんが、世界の植樹史上例のない巨桜のこの大移植を指揮しました。
この桜のことを知り、桜の季節に足を延ばしたとき、その満開の桜の下でおばあさんたちがおにぎりや卵焼きを広げていました。おばあさんたちはダムに沈んだ村に住んでいた人たちでした。
「村を出て私たちは住むところもばらばらになってしまったけど、花見の時には一緒に来るの。桜が残ってよかったよ。きれいでしょう。見事でしょう。村自慢の桜だ、村の宝だったんだよ。さ、これよかったら食べて」
そういっておばあさんたちは私にもおにぎりを分けてくださったんです。
その後も、何度か桜を見にまいりました。最初のころは桜の下に敷きものを広げられましたが、今は桜の保護のためでしょうか、チェーンで木が囲まれ、入れないようになっているようです。
桜の移植に奔走した人、桜を自分の村の宝だと思い、桜の季節にはその地を離れていても戻ってくる人、桜の力強さと、桜をいとおしむ人たち、あのときのおにぎりの味……そのすべてがこの桜の記憶なのだと思い、ご紹介させていただきました。
こうしてお話していると、撮影のわずかな合間にも汽車に飛び乗り、各地の道具に、人々に会いに行ったことが走馬灯のように、思い出されます。
農家の縁側にたたずむおじいさんや、むしろに座り、豆をより分けていた年配のおばあさん、岩手県の遠野の里で「昔、あるとこにサ、長者の家サ、あったどもな。そこの娘は馬っこ好きで……」で始まる「おしら様」の話をしてくれた語り部の阿部ヨンコさんの語り。能登の福浦にある腰巻地蔵の切ない物語……。
多くの人々にかけがえのない話をたくさん聞かせていただきました。
節くれだった太い指、しわだらけの笑顔、丸くなった背中、……今も私の目の奥、耳の奥に、それらの風景、人々の声が残っています。
私がこうしたフィールドワークに目覚め、続けてこられたのも、宮本さんの本との出合いがあったからでした。
また、古い農家が無残に壊されていく現場に行き会わせ、チェーンソーが家の柱を切る音が、木々が泣いている声のように聞こえ、「待ってください。それ以上、切らないで。その柱を譲ってください」と思わずかけよって引き受けてしまったのも、そうした旅の中での出来事でした。
それから古い歴史のある家々の廃材を使って木の家を建てようと決め、山があり湖がある箱根の地を私の家を建てる地だと定め、全国のあちこちの村を訪ねては壊され捨てられていく家々をまわりました。ざっと二百軒は見て歩いたでしょうか。
結局、十二軒分の柱や梁を譲っていただき、一本一枚残らず使い、何年もかけて家を作りました。今、私が住んでいる箱根の家も、本との出会いがあって生まれたものだと感慨深いです。

『忘れられた日本人』
この本が出版されたときから、時代は大きく変わりました。SNSが普及し、AIの進化は目覚ましく、五年後の世界さえ、想像できないような時代に私たちは今、生きています。
それでもこの本の教えは古びることはないと私は思っています。
――人は弱く、迷いながら生きるもの。
――人は人に支えられて生きるもの。
――正しさだけで人を裁くことはできない。
――人はみな、語り部である。
あと七〇年くらいほしいなあと思う時があります。
ちょっと欲張りですけど。もう一度、この世界を改めてまわってみたくて。いろいろな人の営みをもっと見て歩きたくて。これから人がどういう未来を選択するかということも見てみたくて。
七〇年は無理ですけれど、これからも私は私なりに小さな旅を続け、人が紡いだ物語に耳を傾け、私もひとりの語り部として、見たこと聞いたこと経験したことなどを少しずつ伝えていけたらいいなと思っています。
本日はありがとうございました。









































































































































































