琉球 美の宝庫

美しいものが生まれる島 ”琉球”

現在、六本木・東京ミッドタウンのサントリー美術館で開催されている展覧会に行ってまいりました。(9月2日まで)中でも8月22日~9月2日まで開催中の展示国宝王冠(復元)は必見です。

琉球の染色、琉球絵画の世界、琉球国王尚家の美、琉球漆器の煌めき、『生活の中の美』をコンセプトにしているサントリー美術館ならではの企画展です。これまでも”琉球の美”をテーマに数多く展覧会が開催されてきました。2007年に六本木に移転され開催された「美を結ぶ。美を開く」というメッセージは私にとってこの上ない喜びでありました。

何度かブログには載せましたが、私が沖縄の美(琉球の美)に出会ったのは民藝運動の創始者・柳宗悦氏の「手仕事の日本」を手にしたときから始まります。まだ本土復帰前のことです。旅好きの私は日本の地図を広げるのがとても好きです。「山や川や平野や湖水も、それぞれに歴史を語っているからです」・・・ではじまる「手仕事の日本」。

『沖縄ほど古い日本の姿をよく止めている国はありません。』

本の最後のほうにこう「沖縄」が出てきます。
長文ですが最初のところを載せますね。

「火燃ゆる桜島を後にし、右手に開聞ヶ岳の美しい姿が眼に入りますと、船は早くも広々とした海原に指しかかります。煙に包まれる硫黄島とか、鉄砲で名高い種子島とか、恐ろしい物語の喜界ヶ島とか、耳にのみ聞いたそれらの島々を右に見、左に見て進みますと、船は奄美大島の名瀬に立ち寄って、しばし錨をおろします。

更に南へと船首を向ければ、早くも沖縄の列島に近づきます。行く手に細長い島が横わりますが、古くからこの島を沖縄と呼びました。沖に縄が横たわるように見えるので、その名を得たといわれます。

支那ではこの島を琉球と呼びました。沖縄はその本島のほかに沢山の島々があって、中久米島とか宮古島とか八重山島とかの名は、度々耳にするところであります。

日本では一番南の端の国で、荒れ狂う海を渡って行かねばならないので、昔はそこに達するのが並大抵な旅ではありませんでした。この文明の世の中でも、神戸から早い船ですら三日三晩もかかります。島の人達は孤島にいるという淋しい感じをどんなに屡々味わったことでありましょう。

ですが、面積の小さな島でありながらも、一つの王国を成していましたから、長い歴史が続き立派な文化が栄えました。尚王が城を構えたのは首里で、その近くの那覇は国の港でありました。外との往き来が不便でありましたから、すべてのものをこの国で作らねばならなかったのでありましょう。このことが沖縄に独特なものを沢山生み出させた原因となったと思われます。」

そうなのです。この一文に惹かれて私の沖縄の旅は始まりました。心惹かれる染色や織物。南国の花々は四季折々絶えません。緑は濃く、海は青く地は白い。

その自然が生み出したものに「紅型・びんがた」。型紙を用いて染めます。染物にも劣らず、美しい織物。絣の見事さ。織物類は彩の多い柄が麗しくその美しさに目を奪われます。

中でも私が心奪われたのが「読谷村の花織」です。500~600年前に南洋から伝来した織物と言われ、その織りかたが複雑なため織り手がいなくなり、その再現に一生懸命だったのが、読谷村に暮す与那嶺貞さんでした。たった一枚のちゃんちゃんこを手がかりに再現したのです。30年ほど前から通い続けました。今は亡きこの方から、私は忘れられない言葉をいただいたのです。

”ザリガナ サバチ ヌヌナスル イナグ”
もつれた糸をほぐして、ちゃんとした布にする女・・・

こんがらがって織れないからといって切って捨てたら一生布は織れません。女として、それは、丹念にほぐしていきましょうよ。与那嶺貞さんは機織の向こうで穏やかそうにおっしゃるのです。

今回の展覧会には日本民藝館から「花織」が出品されています。
柳宗悦の「手仕事の日本」の中に「沖縄の女性達は織ることに特別な情熱を抱きます。」と書かれております。

展覧会の絵画では、江戸で琉球ブームがおきるきっかけとなった琉球使節を主題とする品々。それはそれは見事な漆器。まさに『琉球の美』を堪能することができる展覧会でした。

私たち本土の人間はこのような歴史や文化をどこまで理解しているでしょうか。先の戦争でどのようなことが起き、沖縄の人々、文化を失ったのでしょうか。今起きているさまざまなことを、もう一度振り返り、この「琉球の美」に改めて触れることの大切さを教えてくれた素晴らしい展覧会でした。

サントリー美術館 公式サイト
https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2018_3/

深夜航路

なんとも羨ましい旅をなさっておられる方がいらっしゃいます。午前0時からはじまる船旅です。日本で現在運航している深夜便(午前0時~3時発)の全14航路を旅した方です。

北は函館ー青森間。
南は鹿児島ー奄美大島間。
羨ましいのは敦賀ー苫小牧東港。948キロを20時間で結ぶフェリーです。敦賀港(福井県)と苫小牧東港(北海道)深夜航路の中では最長の航行距離。敦賀を出たら能登半島、そして佐渡島・・・ひたすら北上します。

出航が00:30発で翌日の20:30着。「すずらん」(1万7382トン)は本州と北海道を結ぶトラック・貨物がメインですが、旅客サービスにも力を入れていて快適な空間だそうです。

船室は3階層でレストランのみならず事前予約をすればグリル、露天風呂!まであるそうです。あ~いいな!私は憧れていたのです、深夜航路。

クルーズ船とはちょっと違う世界が広がっています。山口の徳山港を午前2時に出航する竹田津港(大分)行き「ニューくにさき」。中国地方と九州を結ぶ唯一の深夜航路、2時間!

旅した方は清水浩史さん。
この度素敵な本を出されました。『深夜航路』(草思社)

午前0時を過ぎると・・・・・。
そこには、「扉」がある。
もうひとつの世界へと通じている扉が。

そうだ。午前0時を過ぎると、扉が見つかるはず。
深夜は誰からも干渉されることのない時間。
最も日常から離れられる時間だからこそ、
見えてくるもの、感じられるものがあるはず。
午前0時に旅立ちたい。
全国の深夜航路の旅に出かけよう。  (深夜航路より)

清水さんは書籍編集者でライターがご本業です。毎日慌しい生活を送る中での深夜航路の旅へと出かけます。これは詳しくお話を伺いたい!とラジオ「浜美枝のいつかあなたと」にお招きし、お話が伺えました。

深夜の旅では、自身の内面が開かれてくる。自己対話、内的省察の扉が開かれてくるのだそうです。日中は知覚がが開かれているので、目の前のことを次々と対処していかなければならない。思索したり、想像することを忘れがちになってしまう。所用時間15分の直島(香川県)と宇野などワクワクしてしまいます。

直島はアートの島として今やフランス人はじめ海外からの観光客で賑わっていますが、深夜になるとまた素敵だそうです。そうですよね~、真夜中に見えてくるもの・・・ってありますものね。まだ若いころから憧れていた「深夜航路」を実践している方がいらしたなんて!

昔、若き頃、コロール島やマップ・ヤップ島で見た満天の星空も、カナカ人が小船に乗って月明かりをたよりに島に辿りついた時の話しを古老から聞いたのも「深夜」でしたっけ。

これからでもまだ出来るかしら・・・。「深夜航路」が。

まずはラジオをお聴きください。
そして素敵な表紙の本をご覧いただき”旅した気分”を味わってください。

文化放送「浜美枝のいつかあなたと」
日曜日10時半~11時
放送8月19日

映画「グッバイ・ゴダール!」を観て。

現在87歳のジャンリュック・ゴダール監督は今年もカンヌ映画祭に新作を出品している現役監督です。フランス・ヌーベルバーグの草分け的存在だった監督。フランス映画界において「生ける伝説ジャンリュック・ゴダール」ともいわれます。

60年の「勝手にしやがれ」そして「気狂いピエロ」など、私には衝撃的な映画でした。その監督を描いた「グッバイ・ゴダール」を観てまいりました。

『グッバイ・ゴダール』を撮ったのは「アーティスト」でアカデミー作品賞と監督賞を取っている巨匠ミッシェル・アザナヴィシウス監督。

ストーリーは「中国女」の主演にアンヌ(ステイシー・マーティン)を抜擢します。ノーベル賞作家フランソワ・モーリャックの孫娘。その19歳のアンヌに一目惚れしたゴダールは彼女と2度目の結婚をします。

原作は昨年亡くなった彼女自身の回顧録によるものですが、ミッシェル監督がどこまで物語構成しているか分かりません。新聞記事によると「彼の脚本には、皮肉とともに軽妙さがある。この映画の撮影は、ギリギリの線上を歩き続けることが必要でした。誰もが常に『やりすぎていないか』ということを注意していました」と書かれていました。

世界中で学生たちが反乱を起こした1968年前後。フランスでも5月革命が起り、まさに政治の季節。ゴダールもデモに積極的に参加します。フランスは、自由・平等・博愛を国是としている一方で、つかまった学生たちはあの五月革命の頃には警察署から悲鳴が耐えなかった、と知り合いから聞いたことがあります。

そんなデモに参加していたゴダール。警察隊と学生や群集が血を流す、そんな場面もゴダールの行動をユーモラスに捉えているのです。プライベートでは嫉妬深く、エゴイズムで、アンヌとの仲も彼女が女性として成長していく過程で徐々に暗雲をはらんでいく・・・。

『人間ゴダール』を描いているのですが、そこは、フランス。ユーモアのなかにも「どこまでが真実なの?」とも思いました。べつに「真実」が必要だとは思いませんが、あの時代のゴダールフアンにとっては”何か虚仮(コケ)にされてるな~”という思いにかられます。

以前私が10代の頃にカンヌ映画祭で、と来日された時にお目にかかったことがあります。私の目には人間的に魅力的で理論家、そしてユーモラスな人との印象が残っています。もちろん人間ですから表面だけでは分かりません。

でひ聞いてみたいです。『ゴダール監督!いかがでしたかこの映画は?』と。ただ、横に手を振るだけでしょうか。それとも笑って許すのでしょうか。ゴダールフアンの方、ご覧になったら感想をお聞かせください。

アンヌ役の主演女優 ステイシー・マーティンが素敵です。美しいです。ゴダールの活躍したあの時代の空気間は見事に伝わってきます。

『グッバイ・ゴダール』   いいえ、あなたは永遠です。

映画公式ホームページ
http://gaga.ne.jp/goodby-g/

長野への旅

今回はめずらしく”ひとり旅”ではなく、30年来の友人との”女ふたり旅”でした。

私は一時期、憑かれたように長野に通っていた時期がありました。かれこれ35年ほど前のことです。私には元来、ある「地」に憑かれるというちょっと不思議な習性があって、そういう気持ちになるともう矢も楯もたまらず、そこに行かなければ気がすまなくなるのです。

つまり、「あ、あそこへ行きたい」というそれだけの思いなのですが、今、「あそこ」という方角が私をうごかすのです。長野はそういう土地でした。

長野県下のロードマップは東京より詳しいくらい。夜中、子供を寝かせてから車をとばす・・・。今思っても、よくあんなエネルギーがあったなと思うほどです。車と私はひとつになって山野を駆けめぐるのでした。林道、農道、さまざまな小経にも分け入り、走り続けた時期。

追分から一気に上田へ抜けてしまう国道の、その裏道に1000メートル林道があります。埃だらけの道をぐんぐん走ると、視界が変わっていきます。そこで、出会った畑の奥のほうに建つ家の様子・・・。すべてが、ヨーロッパの田舎を思わせるのです。

その家の主、村田ユリさんとの出会いはこうしてはじまりました。今は亡きおばさま。後にその方は知る人ぞ知る植物の研究家であり、マスコミにはお出にならないけど、いろいろな方から慕われている大変な方だと知りました。

見ず知らずの私を手を広げ迎えいれてくださいました。あるとき、疲れ果てて夜遅く10時頃に村田さんの家に着いたことがあります。そのときユリさんは、ご自分の庭で採れたハーブを木綿の袋につめ、それをお風呂に入れて「気持ちいいわよ。お入りなさい」とすすめてくれました。

ベットに入ると枕の下には、さっきと違う種類のハーブがしのばせてありました。緊張がとけて、寂しさがこみ上げて、でも幸せな気分で、その香りの醸し出す優しさに、私は打たれ、眠りにつきました。

女性が仕事や、家庭、子供・・・それぞれに全力投球してもなにか、虚しい・・・どうすることもできないこと。自分がどうしようもなくなったとき、”一晩でもいいから、あの香りに身を置かせてほしい・・・”と願った時代です。

そんなある日、ご近所に住む玉村豊男さんご夫妻と知り合いました。玉村さんが腕を奮ってくださった料理をいただく機会にも恵まれました。

ユリさんは昼間はほとんどの時間を、長靴をはいてシャツと作業着で、畑で過ごします。その先の畑で出逢ったのが、現在は上田から近い東御市で”ヴィラデスト・ガーデンファーム・アンド・ワイナリー”でレストランと、そして何よりも美しいガーデンを造った玉村夫人の抄恵子さんなのです。

エッセイストで画家の豊男さん。東御市でワイン用ぶどうの栽培をはじめたのは1992年。試行錯誤しながらもワイン造りの夢を実現しました。今や国産ワインコンクールで連続受賞し、高い評価を得る実力派ワイナリです。

遠く北アルプスを望む標高850mの南斜面には、メルローやシャルドネなど15000本を越える葡萄の木が植えられています。

私も74歳になり、少し大人になりました。孤独って素敵なこと・・・と思えるようにもなりました。今まで両手に抱えていたものを、少しずつ手放し、心が自由になりました。”玉村さんご夫妻にお逢いしたい”との思いで長野の旅にでかけました。

まずは、小田原から東京、そして新幹線を乗り換え上田まで。しなの鉄道に乗り換え「田中駅」に。駅には「農の家」のご主人が迎えにきてくださいました。

今回の宿泊は玉村夫人のご推薦の宿です。東には軽井沢、西には上田市、北へ行くと長野市。「農の家」の建物は江戸時代に建築され、建物の周りの石垣は亀甲形で、作られています。

その農家を4年ほどかけご自分たちでリノベーションし、素敵な宿泊施設に生まれ変わりました。骨格は大工さん。床板張り、壁の漆喰塗り、木部の柿渋塗り、露天風呂など・・・ご自分達でされたそうです。

素晴らしくセンスがいいのです。一日一組。畑を借りて農作物を作り、お食事は野菜やフルーツはほぼ自給し、畑は原則耕起せず、農薬は一切使用していません。カジュアル・フレンチ。美味しいのです、なにもかもが。

なによりもご夫妻のお人柄がすてきです。”何もしない時間・空間”は最高の贅沢です。薪で焚いてくれた露天五右衛門風呂のなんと贅沢なことか。(詳しくは「農の家」でネットでお調べください。)お薦めの宿です。夕食・朝の散歩と朝食。満たされてヴィラデストに行く前に近くの北国街道海野宿(うんのじゅく)へ。

江戸時代・北国街道の宿場町として栄えた城下町。延長650m、幅10mの両側には、旅籠屋造り、茅葺屋根など歴史的な建物が残っています。でも・・・なにしろこの猛暑!日陰を歩きましたが、途中ガラス工房のカフェで カキ氷をいただきました。あずきミルクのカキ氷、久しぶりです。

朝顔・風鈴・カキ氷。日本の夏の風物。

そして、一路玉村ご夫妻に会いにヴィラベストへ。ご夫妻とは1年ぶりくらいでしょうか、お目にかかるのは。まだご自宅を建設中からお邪魔させていただいております。多くを語らずとも30数年の友情は変わることなく、お逢いすると、ユリおばさまとご一緒した時代が思い出され、私など胸がキュンとします。

レストランは満席。お客さまはワインを片手にお料理を楽しまれる方や、女性同士楽しげにランチをなさっている方々など、素敵な空間です。

ガーデンの夏の花々と玉村さんご夫妻に見送られ友人と上田へと向かいました。”おんな二人旅”。

自分で自分を抱きしめたいような気持ちで帰路に着きました。
旅はやめられません。
足腰を鍛え、旅を続けたい!・・・としみじみ思った旅でもありました。

映画・青い山脈と原節子さん

先日、神保町シアターで開催されている(7/7~8/10)映画で愉しむ「石坂洋次郎の世界」で「青い山脈」を観てまいりました。

7日から1週間、一日一回の上映でした。最後の日、7月13日16時半の回でした。

1949年(S24)東宝と藤本プロ共同制作の白黒。1時間32分の映画でした。石坂の新聞連載小説を原作にした、戦後の青春映画の代表作といわれています。

戦後間もない田舎町での、偽のラブレターに端を発した恋愛騒動を描く、新しい時代の開放的な青春群像。公開されたときの私は6歳ですから観ているはずもなく、その後、女優になってからもスクリーンでは1度も観ておりません。監督・今井正、主演・原節子・池部良・小暮実千代・杉葉子など。

実は今回どうしても観たかったのは、原節子さんに関してノンフィクション作家の石井妙子さんがお書きになられた「原節子の真実」を再び熟読したからです。

以前に文化放送の私の番組「浜美枝のいつかあなたと」にゲストとしてお招きしお話を伺い、ブログにも掲載いたしましたが、知れば知るほど、『原節子さん』の生きた時代、映画界、そして彼女の心情・・・など、真実を知りたくなったのです。

石井妙子さんの3年にも及ぶ取材、そして筆力に魅了され、平成27年9月5日、伝説を生ききった95歳の原節子さん、いえ本名の会田昌江さんについてもっと知りたくなったからです。

ご本に書かれておりますが、「ヒロインには原節子を起用してほしい。この小説は、そもそも彼女をイメージして書いたものだから」と石坂洋次郎は言ったそうです。

この映画は空前の大ヒットとなり、これまでにない女性像を原節子は生き生きと演じています。

島崎先生(原節子)は教壇から現代的な考えを「自分の言葉」で語るよう「民主的な考え」を長回しのシーンでは圧倒されますが、石井さんの取材から、このシーンの考え方、生き方は「原節子」そのものであることがよくわかります。

2週間に500万人が映画館に詰めかけ、原節子は国民的女優になるわけですが、石井さんの「原節子の真実」のまえがきに

『原節子と会田昌江、その女性(ひと)はすでに生きる伝説といわれて久しく、世間からのあらゆる接触を半世紀以上も絶って、自分の生死すら覚られまいとしていた。』・・・と書かれております。

亡くなる3ヶ月前の6月17日、原節子さんの誕生日にお祝いの花束を抱えて3回目の訪問をしています。もちろんご本人は緑深いその暮す家に姿を現すことはありません。同居する親族に花束を届け、「原節子さんはお元気なのでしょうか」と訊ねると、わざわざ木戸まで出てきて「お蔭さまで元気にしております」と語られたそうです。

半世紀以上も沈黙し続け、何を思い、どのように女優として生きてこられたのか・・・何に悩み、何を仰りたかったのか、などを知る手がかりになる本でした。

「青い山脈」に続き、休む間もなく松竹で小津安二郎監督の「晩春」に出演し、なぜ東宝とその後専属契約を結び、イングリット・バーグマンに憧れ「カサブランカ」に感動し、彼女のような役を演じたいと切望するも、日本映画には、そうした成熟した大人の恋愛映画を創る土壌がなかったのでしょう・・・

年を重ね40歳になり、その時彼女が何を思ったのか・・・間もなく静かに、忽然と姿を隠します。「意思の強い女を演じたい」と願った原節子と世の中のファンが求めるイメージとの差があったのでしょうか。

私が女優になった昭和35年、原節子さんは40歳を迎えます。そして、安保改定問題で幕を開け、強行採決に反対する学生が国会議事堂を取り囲み、連日のデモが東宝撮影所の食堂の白黒テレビから流れてきます。

原節子さんは「娘・妻・母」「東京物語」などに出演しています。

東大生・樺美智子さんが死亡するニュースが画像に写しだされます。

その同じ頃、食堂の前の噴水の向こう側を背筋を伸ばし、やや歩幅を広く、白いブラウスに紺系のフレアースカートをはいた原節子さんの姿を何度かお見かけしました。

人と群れることなく、ひとり歩く姿が印象にのこり、私もファンのひとりでした。

『引退する時は誰にも気づかれないように消えていきたい』と石井さんの本に書かれています。そして、「青い山脈」の監督・今井正氏は、語っておられます。

「いつか生活の条件が変わるならば俳優であることを止め、静かな別の生活に入りたい・・・そんな気持ちがいつも君の心の底に動いている。俳優であることに心からの生き甲斐を感じていない、そんな風に僕は思えるのです』
石井妙子・原節子の真実より(「近代映画」昭和24年8月号)

最近、原節子さんのエッセーが見つかりました。戦前・戦中・戦後を生き抜き「戦後の日本への提言」として書かれたエッセーと新聞に載っておりました。

女性が女性として伸びやかに生きることの難しかった昭和の時代。

素晴らしい美貌でありながら、「強い女性を演じたい」と思い続けた原節子さん。青い山脈」では原節子さんが自ら”女性の生き方”を語っているようにも思えました。

一作の映画から、自分自身の歩みを振り返ることができます。映画館には、かつての「映画青年」であったであろう人たちの姿も見られ、皆それぞれの”昭和”をかみしめていたように思いました。

世界報道写真展 2018

恵比寿にある「東京都写真美術館」で今年も「世界報道写真展」が開催されています。

今年で61回目を迎えます。私は5年ほど前から毎年観にまいります。『記録された瞬間 記憶される永遠に』とありますが、さまざまな事件、事故、自然破壊、会場に一歩足を踏み入れ、目の前の写真に胸をえぐられそうになったり、直視できないような写真であったり、考えさせられる写真であったり・・・ニュースでは知っていたことが、目の前にリアルに差し出される世界の「いま」。克明に伝える写真の数々が紹介されます。

世界中の約100会場で開催される世界最大級の写真展です。今回は、125の国と地域から4、548人のフォトグラファーが参加し、73、044点の応募があったそうです。

その中から「現代社会の問題」、「一般ニュース」、「長期取材」、「自然」、「人々」、「スポーツ」、「環境」の8部門において、22ケ国42人が受賞しました。

「一般ニュースの部」ではイヴォル・プリケット(アイルランド)が撮影しニューヨーク・タイムズに掲載されたイスラム国(ISIS)からのモスル奪還を巡る戦闘に巻き込まれる市民や廃墟と化す街。

また、「人々の部」ではイスラム過激派の誘拐から逃げ出し、自爆用爆弾から免れた少女たちの姿。密猟者からの保護のため自由を脅かされざるを得ない動物や、大統領に対するベネズエラでの抗議活動、デモ参加者が警察機動隊と衝突した際、洋服に引火し炎に包まれた28歳の青年(命は助かったそうです)。

「現代社会の部」ではアメリカ・ナショナルジオグラフィックに掲載された組写真、中国では、所得水準の急上昇に伴い人々の食生活が変化し、食肉、酪農製品、加工食品の需要が増大しているため、世界の耕作可能な土地の約12パーセントを使って、世界人口の19パーセントに迫る割合を占める自国民を養っていかなければならないそうで、町中を無造作に肉を運ぶ姿を写した写真には考えさせられました。衛生面など大丈夫なのでしょうか。

そして、私が深く考えさせられたエジプト「現代社会の問題の部」での組写真。カメルーンでは、思春期に達した少女の胸のふくらみを抑え、その発育を食い止めるるためにマッサージや圧迫を行う”ブレストアイロニング”呼ばれる風習が残っているそうです。

なぜか・・・これによってレイプや性的な接触をさけられると信じられているそうです。この現代において青春を謳歌し、成長を喜ぶ親としての姿はそこにはありません。これが「現代社会」の現実かと、考えさせられました。

会場には老若男女一人ひとりが、真剣に写真に見入っていました。外国人も見られました。

世界の報道は新聞やテレビ、ラジオで見聞きしますが、「写真」のもつ圧倒的な力、説得力・・・やはりリアルに「いま世界」で何が起きているのか・・・を知る貴重な『世界報道写真展』です。

8月5日(日)まで。
休館日・毎週月曜日(但し716日(月・祝)開館、翌17日休館。
恵比寿駅より徒歩約7分。

世界報道写真展2018 公式ホームページ
https://www.asahi.com/event/wpph/

東京都写真美術館公式ホームページ
https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-3060.html

沖縄への旅

6月23日、沖縄は梅雨明け宣言とともに「慰霊の日」を迎えました。

平成最後の「慰霊の日」です。戦後73年目を迎え、20万人以上の戦没者を悼む「慰霊の日」。私は4日遅れての訪問です。

私が始めて沖縄を訪れたのは、まだ国際通りは舗装されておらず、土埃が舞い、車の運転は右側でした。パスポートを携えての沖縄の旅。民芸運動の創設者・柳宗悦氏の「手仕事の日本」を読んでからでした。また、「民藝とは何か」の本の中に『真に美しいものを選ぼうとするなら、むしろあらゆる立場を超えねばなりません。そしてものそのものを直接に見ねばなりません。ですから知識で見たり概念で見たりしたら、本質的なものを見逃してしまう』・・・と書かれていました。”民藝のふるさとは沖縄にあり”とも書かれていました。

沖縄の工芸をこの目で見てみたい、この手で触ってみたい!「沖縄の女達は織ることに特別な情熱を抱きます」と書かれた言葉。それはなぜ・・・。芭蕉布、花織、絣柄、宮古上布など、それはそれは美しいのです。

そんなきっかけで通い始めた沖縄。友人達との出逢いも30年近くになります。ゆっくりとした時間の中で過ごす沖縄滞在の中で、彼女達の、沖縄の方々のこの「慰霊の日」に対して「戦争の犠牲を子や孫に伝えたい」という思いが深く伝わってきました。

沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)の平和公園にある「平和の礎(いしじ)に刻まれた戦没者名は沖縄県民の4人に1人が死亡し、日米双方の犠牲者の名前です。4月1日には本島でも戦闘が始まり、県民を巻き込んだ地上戦は約3ヶ月も続き6月23日、日本軍の自決で戦争は終結しました。9月7日の降伏調印まで局地戦は続き、そこでも沖縄県民が犠牲となりました。

梅雨も明け、じりじりと日が照りつけるなか、真っ青な海、雲ひとつない摩文仁の丘に立ち、「平和の礎」に刻まれた文字に手を合わせ「戦争は二度と起こらないでほしい」と願いました。

6月22日付けの朝日新聞に寄稿されていた社会学者の岸雅彦さんの文章に心打たれ、何度も読み返しました。岸さんは沖縄戦を経験した方々の生活史の聞き取りをしていらっしゃるそうです。生活史の聞き取りから浮かび上がってくる「沖縄の方々の心・気持ち」が伝わる記事でしたので、一部ここに載せさせていただきます。

『沖縄的時間はゆっくり流れる。しかしそれは、亜熱帯の、のんびりした島の時間、という意味だけではない。自分の祖父や祖母やその親戚が亡くなったその同じ場所で、いまも沖縄の人びとは暮している。そしてそこには、そのときと同じ国の軍隊がいまだに広い平らな土地を占領して居座っている。さらにその基地の存在を許し、歓迎さえする日本の政府(あるいは私たち内地の人びと)』。

ゆっくりした時間の中で、今日も公設市場には元気な声が聞こえ、観光客で賑わっています。

私は南国のフルーツを家族に送り、”沖縄の戦後”はいつまで続くのか・・・と、ふっとシワの刻まれたおばあの顔がたくましくも、また、その恐怖の経験に思いを馳せると、「来年もまたお邪魔させてください、祈ります」とつぶやいていました。そして、本土の人びとの理解を望みます。それは世代を超えてです。

川と遊ぼう。土手の草花

夜明けどき、深い穏やかな眠りのなかにいた私は、家の遠く近くでする小鳥のさえずりに目を覚まします。”あのいそがしげな鳴き声は、ほととぎすかしら?そう、ほととぎすは「時鳥」と書いて夏の到来を告げる鳥。古来詩歌のなかでも、春の花、夏の時鳥、秋の月、冬の雪が四季の代表的な詠題とされていますね。

お布団を抜け出して縁側の雨戸を開けると、まだ眠気からさめきらない私の顔にさっと一陣の潮風が吹いて、全身に気持ちのいい目覚めを促してくれます。

ここは、福井県若狭の地。私が25年ほど前に古い茅葺の農家を移築して、私自身へのプレゼントとして設けた「故郷の家」です。

朝の冷気を家じゅうにとりこんでやるために、開け放った硝子戸。目の前には、田植えを済ませたばかりで水を満々とたたえた田んぼが、シンとして広がっています。水田の水面はまるで巨大な鏡のように、しだいに明けてくる空を、周辺の山々を、そして木々の木立の姿を、くっきりとその鏡面に映し出すのです。

私はパジャマのままで縁側に座って、いつまでも、時を忘れてその美しさに見入ります。

水田水  なみなみと日の 上りたり     石原 船月

私の桃源郷のような故郷の家です。

東京下町の小さなダンボール加工工場を営む両親のもとに生まれた私。あの東京大空襲ですべてを焼け出され、命からがら逃げ出し住んだ場所が多摩川のほとりにある武蔵小杉でした。

4軒長屋の水道もない家。かまどでごはんを炊き、バケツに水を汲みゴシゴシ洗濯板でこすりながらの洗濯。子供心につらくもあり、楽しい日々でした。近所のおばちゃんたちには「みえこちゃんえらいね、きょうもお手伝い」と褒められ、おかずのおすそ分け。下町の風情の残る人情豊かな思い出・・・。

「故郷がほしい」・・・それが若狭の家です。現在は私の近畿大学での教え子たちが、田植えや、野菜作りに大阪の大学から、また社会人になったOBたちも集い、彼らの「故郷」になっています。若い日々、そうした体験をすることの素晴らしさを私自身が一番知っているからです。

水泳を覚えたのは武蔵小杉に暮していた子ども時代。多摩川でこちらから泳いで東京にタッチし戻る。子供達にとって”川と遊ぶ”は日常でした。武蔵小杉は現在は高層マンションが建ち並び、大都市に様変わりしたそうです。

そこで見つけた素敵な本。

川と遊ぼう。多摩川ノート 土手の草花」(北野書店)。

著者は映画「釣りバカ日誌」にレギュラー出演するなど個性派俳優として幅広く活躍している俳優の中本賢さんです。1956年浅草生まれ。主な著書に「多摩川自然あそびガサガサ」「ガサガサ探検隊」など多摩川近郊に移り住んで多摩川の土手や川原で見られる95種の草花は、どれも個性的。素敵なガイドブックです。

この30年間で、多摩川も大きく変化したそうです。私の子供時代の綺麗な多摩川、汚染された多摩川、また美しい流れになり戻ってきた多摩川。

河川敷で小石の投げっこや、石拾いをし、ポケットにいれてその温もりをたのしんだり・・・の子ども時代。

河川敷の中でも、礫(れき)川原といわれる砂利や小石が広がる川原が、全国的に減っているのだそうです。多摩川流域の小学生と一緒にフィールドワークも行っている中本さん。

四季おりおりの動植物をご紹介している本です。「身近な場所で野生の植物を観察する楽しみは、名前を知ることだけではありません。どのような環境で、どのような生活をしているかを感じることがオモシロイ。自分が暮す街がどのような場所なのか、地域の人々がどのように暮しをしているのか・・・草花はありのままを伝えてくれます」とおっしゃる中本さん。

「ワタクシ、道草がやめられません。」素敵なお話をラジオでお聴きいたしました。そして、収録後、帰りぎわに「浜さん~、子ども時代を過ごした武蔵小杉の多摩川べりにもたくさんの草花が咲いていますよ!ご案内するから遊びに来てください!」とおっしゃってくださいました。夏になったら70年ぶりに多摩川に行ってみたい!と思いました。

そのときには中本さんにご案内していただこ~と、思いました。懐かしい多摩川。懐かしい子ども時代。

文化放送「浜 美枝のいつかあなたと」
日曜 10時半~11時
7月1日放送

今、想うこと

夏至過ぎて吾に寝ぬ夜の長くなる   正岡 子規

梅雨まっただ中、厚い雨雲が空を覆う日が多く、春分をさかいとして、夏至の頃は夜が短くなり、午前4時には空は白々としてきます。そんな早朝まだベッドの中にはいるのですが、なぜかぼーっとしている時が幸せに感じ、朝の太陽に出逢うまでのひととき、物思いにふけります。

「人生百年時代をどう生きるか」

新聞や、雑誌などで最近よく見かけるテーマです。

現在私は74歳、秋がくると75歳になります。一般的に高齢者といわれているのは65歳以上で、私も立派にその範疇に入っているのですが、「若いころ想像していた74歳の自分」と「今の自分」はかなり違っています。

もちろん年齢を感じないというわけではありません。しかし、自分の親世代と比べれば一目瞭然、周りを見渡しても、同じ年齢ならば今の高齢者は、はるかにアクティブで、心身ともに高い能力をキープしている人が多いですよね。

さらに、医療衛生方面の進歩発展などで、今の60代、70代は90歳、100歳まで生きる確率が親世代よりも圧倒的に高いです。

”まさに人生百年時代”が始まっています。

気持ちの感覚は、実際の年齢の7がけともいわれます。お洒落を楽しむ、趣味に興じる。孫の世話をする・介護を担うなど家庭の中で役割を果たす。あるいは一人の時間を慈しみ味わう。あるいは現役として働き続ける・・・そういう生き方を享受している同世代の方々がたくさんおられます。

本当にいい時代になったと思う一方、私は自分の実年齢を受け入れることが大事だとも思います。

平均寿命、健康寿命が延び、気持ちも若い高齢層が増えているのは事実であっても、私たちは年齢の分だけ生きてきた。そのことを忘れてはならないと思うからです。

これからを生き抜くために、体が若いころとは違ってきたことを認めようと思います。疲れやすくなった。疲れが取れにくい。筋力が衰えた。意欲はあっても体がついていかない。人の名前がなかなか覚えられない。名前を思い出すのに時間がかかる・・・。

それが今の自分、その自分を受け入れ、あらためて長く大切に丁寧に自分と付き合っていきたいと思います。

私が今、大切にしていることのひとつに「筋肉貯金」があります。

高齢で元気な人ほど、体を動かしているといわれます。動くためには筋肉が必要。私は、そのためにも筋肉を増やそうと、心がけています。

以前にもこのブログでお話しいたしましたが、自分の年齢も考えず、準備運動もなしに、早朝からの山歩き。無理を重ねてしまい脚を痛めてしまいました。

足の専門家から、70代を過ぎると、筋肉量は20代の時の半分程度になってしまうと教えられました。適正なプログラムを続ければ筋肉は再生できると教えられ、ストレッチと筋肉運動を毎朝30分行うのが日課となり、1時間ほどのウオーキングも再開しました。

『無理をしない。甘やかさない』ことをモットーに、これからも筋肉を貯金していきたいです。

「食べることも料理も大好き」

できるかぎり料理は自分でしたいです。食事で体は作られているのですもの。いくつになっても、バランスよく食べることは大事ですね。でも、料理する気力がわかない場合や、買い物になかなかいけないという場合には、自宅に食事を届けてくれる宅配サービスなど利用してもいいと思うんです。

今日食べるものが明日の体をつくる。高齢になっても体が弱らない食事習慣にしたいですね。

「高齢者になるほど、きょうようときょういくが必要」とよく言われます。

きょうようは、「今日の用」。
きょういくは「今日行く」。

「今日、いくところがある」「今日、用がある」外に出かけていき、そこで出会った人と言葉を交わしたり、何かに感心を持つことは大事だと私も実感します。

私はおかげさまで現役として、文化放送のラジオ番組「浜 美枝のいつかあなたと」のパーソナリティーを20年続けておりますし、地方に講演にお邪魔することもあります。プライベートでは、週に一度は映画や展覧会にも行きますし、落語家の柳家小三治師匠のおっかけも長年続けています。

そしてもうひとつ。こころをふるわせることは忘れないでくださいね。

人を好きになってどきどきする。明日が楽しみでわくわくする・・・。でもなかなか現実にはそういう機会はありません!けれど映画や美術館の作品がそうした疑似体験をさせてくれ、日常から少しだけ解放される。映画を観て恋したときのような気持ちになり、絵画を見て時代や国も超えて共感することは素晴らしいことです。嬉しいことにどちらもシニア割引があります。

一人旅もおすすめ。半日の旅でもいいですよね。日常を離れ、非日常を感じることが精神に刺激を与えてくれると思うんです。

そして、これは大事なこと!!ですが、高齢になると、怖い顔やどことなく不愉快そうな顔になりがち。肉の重力が落ちてしまうため、口はへの字になり、落ちてきた瞼が目を三角に見せてしまいます。

口角をあげ、微笑めば、優しい顔が戻ってきます。鏡を見て一日に一回でいいから、笑いましょう!

「笑いは百薬の長」「一笑一若」「笑う門には福来る」などと言われますものね。

年を重ねることは、新しい自分に出会うこと。
昨日の自分と違う、今日の自分を発見すること。
経験をさらに重ねていくこと。

そうした良い面もある一方で、今、この瞬間にも時間が過ぎていき、やれることに限りがあることにいやおうなく気づかされます。

お世話になった人や友人との別れも多くなっていきます。自分の命にも限りがあることを実感としてわかります。

そして、これからは、生きることに伴う根源的な孤独と向き合わざるをえないと気づかされます。

孤独を知り、受け入れることで、大きな幸せをもらったような気がします。人を恋しく、いとしく思い、様々なことに感謝するようになりたいです、私。

すっかり夜も明け、朝陽が眩しいです。”時の精”が動きだしました。
ぼんやりと感じたことを綴ってみました。

日本民藝館

幼時の自分は、今の自分のオリジンです。

5歳頃にはかまどで上手にご飯が炊けた私ですが、今でも記憶に残る不思議な思い出があります。

夕暮れどきに、かまどに薪をくべて、火加減をみていたのです。薪の炎の加減でごはんの炊き上がりが違うのですから、私はかたときもかまどを離れず火をみつめていました。

母は仕立てあがった着物をお客さんの所へ届けにいって留守。

オレンジ色の炎をみつめていたとき、唐突に泣けてきたのです。炎のゆらめきと涙が重なり、私は一人、おいおいと泣いたのです。なぜかそのときの底知れない哀しみをよく覚えているのです。

中学生になり、図書館で出会ったのが、柳宗悦さんの本でした。

中学卒業後、女優としての実力も下地のないままに、ただ人形のように大人たちに言われるまま振舞うしかなかったとき、私は自分の心の拠りどころを確認するように、柳宗悦の『民藝紀行』や『手仕事の日本』をくり返し読みました。

柳さんは、大正末期に興った「民芸運動」の推進者として知られる方です。

西洋美術にも造詣の深かった柳さんは、若くして文芸雑誌「白樺」の創刊に携わりましたが、その後、李朝時代の朝鮮陶磁との出会いや、浜田庄司さんや河井寛次郎さん、バーナード・リーチさんなどとの交流のなかで、「民衆的工芸」すなわち「民芸」に美の本質を見出していきました。

柳さんは、日常生活で用い、「用の目的に誠実である」ことを「民芸」の美の特質と考えました。

無名の職人の作る日用品に、民芸品としての新たな価値を発見したのでした。

中学生のときに、柳宗悦さんの本に出会い、感激してしまった私。むずかしいことなどわかるはずもありません。でも、新しい美を発見した感動と衝撃は、幼いなりに、<たしかなものだったように思います。

「美しいなぁ」と感じる風景。幼いころ、父の徳利にススキを挿し、脇にお団子を飾り、月明かりでみた夜・・・。幼かったころにみたオレンジ色のカマドの炎。美しさのなかに人の哀しみを感じました。「直感」でしょうか。

柳宗悦さんは「工芸の道」で、次のようにおっしゃっています。

直感には「私の直感」と云ふような性質はない。見方に「私」が出ないからこそ、ものをぢかに観得るのである。直感は「私なき直感」である。

うぅ~ん。「私」を捨て「無心」になる。そのような直感が直感。ものの本質を見抜くにはそうした「無」になること。との教えがありますが、今の私にはまだまだ無理なようです。

「手仕事の日本」を携え、追うように旅を続けたこれまでの私。古民家に出会い、壊される運命に胸が締め付けられ、箱根での古民家再生。

沖縄への旅もこの本での「民芸」に出逢ってからでした。まだ本土復帰前のことでした。小さな島でありながらも、一つの王国を成していましたから、立派な文化が栄え、工芸品も染物や織物など「沖縄の女達は織ることに特別な情熱を抱きます」と「手仕事の日本」に書かれています。焼き物、茶盆、漆などの沖縄の工芸。日本全国の無名の用の美の品々。

これらの「民芸品」を見られるのが『日本民藝館』なのです。
美の概念の普及と「美の生活化」を目指す民芸運動の本拠です。

時には西館が公開されることもあります。栃木県からの移築した石屋根の長屋門(1880年の建造で、現在は本館と同じく登録有形文化財)と、柳の設計による母屋が生活の拠点とした建物です。2階の書庫も覗いてください。興味深いですよ。

現在、6月24日までは『柚木沙弥郎の染色 もようと色彩』展が開催されています。柚木沙弥郎氏は1922年生まれです。柳宗悦の思想と芹沢桂介の作品に啓発されて染色家の道を志し、現在なお意欲的に制作、また後進の育成に力を注いでおられます。

作品を拝見すると、その色彩は現代社会を生きる私達の渇きを荒原に湧いた泉のように潤してくれるようです。

時代が変わり、生き方も変わっていく。そのめまぐるしく変わる環境の変化についていけなくなる時に、私の原点『民藝館』に行きたくなるのです。

二階の椅子にゆったりと腰をかけその空間に身を置くと幼かった私の姿に出逢えるのです。

9月11日~11月23日までは『白磁』展
2019年1月11日~3月24日までは『柳宗悦の「直感」美を見いだす力』展が開催されます
京王井の頭線駒場東大前駅西口から徒歩7分。
月曜休館です。

公式ホームページ
http://mingeikan.or.jp