堀 文子さんの「ブルーポピー」

日本画家の堀文子さんが、昨年2月5日にお亡くなりになられました。100歳でした。

私は10年前に読んだ”堀文子の言葉~ひとり生きる”を本棚から取り出して読みはじめました。私は堀さんの描く「野の花」がとても好きです。

そして堀さんの生き方に学びます。
「群れない 慣れない 頼らない これが私のモットーです」とおっしゃられます。

生前私は一度だけ軽井沢のアトリエに雑誌のインタビューでお邪魔しお目にかかりました。1960年にご主人を亡くし、その翌年、かねてから願望だった古代から世界の歴史をたどる旅に三年間出かけます。ご主人を亡くされての喪失感はそうとうなようでした。

そして帰国後、ものづくりは自然のなかで暮らすべきと考えられ1967に大磯に転居。79年に軽井沢にアトリエをもたれます。その頃です、お目にかかったのは。

科学者になる夢をもちながら、女性の社会的な自立や自由が制限されていた時代、”縛られない自由”を求め画家になります。70年後半から80年にかけて日本はバブル狂乱の時代、そんな日本を後にし、69歳のときにイタリア・トスカーナへと脱出します。

最初は全くイタリア語は話せなかったそうですが5年間暮らし、美しいトスカーナの野の花などを描きます。そして、さらなる未知の世界を求め、77歳で(今の私の年齢)アマゾンへ。80歳でペルー、81歳でヒマラヤ山脈に幻の花「ブルーポピー」を求めて旅を続けます。馬にまたがり標高4500mの高地をスケッチの旅です。

ご著書のなかにこのように書かれています。

『自由は、命懸けのこと。
完全に自由であることは不可能ですけれど、私は自由であることに命を懸けようと思ったことはたしかです。自由というのは、人の法則に頼らず、しかしワガママ勝手に生きることでもなく、自分の欲望を犠牲にしないと、本当の自由はやってきません。ですから、命と取替えっこぐらいに大変なことなのです。

群れをなさないで生きることは、現代社会ではあり得ないことです。何をするにしても誰かと一緒にしなければならない。それを私はしないような道を選んで、モグラのように地下に潜って生きてきたと思います。そういう生き方を選びましたが、私のような職人にはよかったと思います。』

83歳のときに大病に倒れ奇跡的に回復し、停滞することなく画を描き続け、その瑞々しさに感動をおぼえます。そして人々へ勇気を与え続けてくださいました。

インタビューをさせていただいた時、

「よく聞かれるのよ(ひとりで寂しくありませんか?)ってね」

そして、しっかり私の目を見てこうおっしゃいました。

「みんなひとりが寂しいといいますが、人といれば本当に寂しくないのかしら?人はそもそも孤独なのです。」と。

忘れられないことばです。

私の家から杉並木を歩き30分ほどで隣町にある「成川美術館」に着きます。現代日本画美術館です。収蔵は4,000あまり。

現在「堀文子収蔵セレクション第1回~野に咲く花たち~展」が開催されていて「ブルーポピー」も出品されています。

何度目になるでしょうか、拝見するのは。標高4,500mに咲く花にはトゲがたくさんあります。幻の花を求め、82歳で筆を持つ堀文子さんからたくさんのエネルギーをいただきました。

成川美術館公式サイト
http://www.narukawamuseum.co.jp/exhibition/ongoing_2.html

沖縄

このたび、沖縄県観光功労者に選んでいただき、表彰を受けることになりました。このような光栄ある賞をいただくことができたのは、よきみなさまに恵まれたおかげだと感謝の気持でいっぱいです。

沖縄は私にとって、ずっと特別な場所でした。

民芸の師と仰ぐ柳宗悦先生の、沖縄こそ理想郷『美の王国』との言葉に導かれ、初めて沖縄の地におりたのはまだパスポートが必要な時代でした。

花織をはじめとする織物、八分茶碗などの焼き物・・・・・沖縄の手仕事の美しさ、その形にこめられた人々のありように心を奪われ、以来、時間をみつけては通うようになりました。

沖縄の女性たちの明るさとたくましさを知り、仲間と呼べる友人にも恵まれました。その中でごく自然に、沖縄の事業などの応援をし、沖縄の魅力をひとりでも多くの人に知ってほしいと行動するようになりました。

今、沖縄は首里城再建という大事業を控え、さらにはコロナ禍という思いも寄らぬ事態にも見舞われています。観光功労者の表彰式は、例年、観光が最も盛り上がる8月に行なわれていましたが、今年は表彰式も中止になりました。

素晴らしい歴史と文化を持つ沖縄。
過酷な時代も乗り越えてきた沖縄。
訪れる人を魅了してやまない沖縄。

沖縄に、両手を広げて人々を受け入れられる日常が一日でも早く戻ってくることを心からお祈りするとともに、これからも私は沖縄の皆さんの心に寄り添い、微力ながらも沖縄の観光発展のために力を尽くしていきたいと思います。

若狭の家

先日とても懐かしい写真が送られてきました。京都在住の元新聞記者の方からでした。私のコマーシャルを観てくださり、「お元気なんだ」と安心し、福井県大飯町(現おおい町)三森で田植えや稲刈りの時の写真を送ります、とのことで25年前の懐かしい写真をフィルムからプリントしてくださいました。

”農と食”を勉強したい・・・との思いから女優を退き、実際に畑を作り、野菜や果物の育つ様子をこの目で確かめながら暮らしたい。子供たちに、蛍がりや小川のせせらぎ・・・故郷の原点のような田舎を持たせたい。そんな思いが実り、「すずめのお宿」みたいな茅葺の家を持つことになりました。

おおい町は、さば街道の起点として有名な小浜から車で小一時間の山あいにあり、海も近いので、新鮮な魚介も豊富。冬はとても寒いのですが、茅ぶきとともに、さまざまな野菜が育ちます。

「田んぼで米作りにも挑戦したい!」など無謀とも思える行動に。「この目で確かめ、自分で経験したい!」これが私のこれまで生きてきたモットーです。

でも、素人の私が簡単にできることではありません。隣の集落に住む画家の奥さんが「おはよう、浜さんよう寝むれましたか?」と畑のなかから満面の笑顔が早朝から顔をだします。私の野菜作りの師匠です。

私の若狭の家を、畑を陰で守り続けてくださいました。「浜さん、今年は茄子の出来がいいなあ」はちきれそうなインゲンの緑、太った茄子の紫、トゲトゲの痛いきゅうり、泥のついたにんじん・・・それらを籠いっぱいに摘んで、縁側によいしょと座り込みその日の献立を考えます。

わが家の畑でできた野菜は、お世辞にも器量よしとはいえないものばかり。でも、どれを手にとっても、わが子のように可愛くて仕方がないのです。”あばたもエクボ”なんですね~。子供たちも夏休みにはやってきて、山ほどの魚を釣ってきます。

料理教室など通ったことさえない私が『娘たちへ 毎日の幸せおかず』(講談社)を出版したのが1994年。それは子供たちに料理作りが苦手でない女性に育って欲しい・・・との思いから。お芋の煮っころがしやきんぴらが得意な人になって欲しい・・・そして、”土のもつ力”を知って欲しい。そんな思いからです。

コロナ禍の中で”移住”が話題になっています。都会には都会の良さがあります。しかしこれからの時代”本当の豊かさ”が求められてくるのではないでしょうか?

「農」は命に直結しています。他国に頼っていることはどれほど不安になるか・・・を今回実感した私たちです。

「10年は米作りを」を目標にしました。専業農家のご夫妻に手ほどきを受け、水の管理、草取り、手植え、はさかけ、収穫までにどれほどの手間がかかるか。10年といってもたったの10回の経験です。

でも、自慢ではないのですが「浜美枝のひとめぼれ」を収穫しました!現在は10年前に客員教授として迎えられ一緒に学んだ大学生たちが泥んこになって励んでいます。(今年はコロナで参加できません)

天候や気候に気を配りながら、肥沃な土のなかで育っていく野菜や米たちの成長ぶりを自分の目で確かめる暮らし。そんな日々の営みこそが、自然に抱かれ生きる人間の、とてもまともな、そしてほんとうの豊かさのある暮らしなのだと少しでも感じてほしいのです、若者たちへ。ITの時代これからは新たな時代を迎え、きっと新しい農業のあり方も生まれるでしょう。

今年はコロナで若狭の夏を体験できませんが、ある年の夏。午後から降り出した雨のせいもあり、一日じゅうゆっくりと読書三昧の一日を過ごしました。そして、雨あがりの夜八時過ぎ、「そろそろ蛍が舞いそう」と家を出ると水田のあぜ道に行ってみました。その時、私はその水田のなかに、ほんとうにこの世のものとは思えないような光景をみたのです。

月を背負ってそこに立っている私自身のシルエットが、水田の水面にくっきりと映っています。ノースリーブにギャザースカートの黒い影が、水の中でゆらゆらと揺れていました。そしてしばらくすると、そのスカートの形のなかに何十匹もの蛍が、美しい光を放ちながら舞っているではありませんか。私はただうっとりとその場に立ちつくして、蛍たちがスカートのシルエットのなかで踊っているさまをいつまでも眺めていたのでした。

田んぼの早生米もまもなく収穫のときを迎えます。美味しいごはんをしっかり食べて、元気にこの夏を乗り切りましょう!そして、一日も早い収束を心から願います。

ロンドン・ナショナル・ギャラリー展

梅雨も明け猛暑日の午後、ラジオ収録後に上野の国立西洋美術館を訪れました。

ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」が開催されています。本来ですと3月3日からの予定でしたが、延期となりようやく観られるようになりました。

あらかじめチケットはネットで購入していたので、これまでだったら話題の大型展だったら大行列するでしょうけれど入場者を制限し、30分単位での入場ですからとてもスムーズに入ることができ、会場も人の頭越に作品を見ることもなく、快適に鑑賞することができました。

今回は感染予防対策としてのシステムですが、これからもこのような新しい方法での鑑賞ができたらいいですね。

ロンドン・ナショナル・ギャラリーは、”みんなに開かれた誰でもが来られる美術館”を目指し1824年5月10日に開館しました。

市井の人の寄付、コレクターの寄贈などでできあがりました。そして、ロンドンでは入場は無料です。(私もロンドン滞在中には何度も訪れました)

今回の作品はすべて日本初公開の作品ばかり。ギャラリーはまもなく設立200年を迎えますがこれまで一度も外国で展覧会を開いたことがないそうです。

そして、これらのコレクションが、王室などを由来としたヨーロッパの美術館と異なり英国民の手で英国民のために作られたとか。今回は61点の作品に出会えますし、まさに西洋美術史の教科書を学べるように、イタリア・ルネッサンスが花開いた15世紀からポスト印象派に至る19世紀末までの名品ばかりが集まっています。

私は展覧会の鑑賞の仕方として、全て観てクタクタになるのは苦手ですので、あらかじめ自分が見たい作品を6,7点決めておいて真っ直ぐその作品と対面します。

一番観たかったフェルメールの「ヴァージナルの前に座る若い女性」。

そしてフィンセント・ファン・ゴッホの「ひまわり」。

ゴッホが共同生活を送る親友ゴーギャンの寝室を飾るために描いたこの作品。歓びの後の哀しい結末・・・この絵を見つめているとゴッホの喜びが伝わります。

モネ、ルノアール、レンブランド、ターナー・・・宗教画・神話画・風景画・肖像画・風俗画。バルトロメ・エステバン・ムリ-リョの「窓枠に身を乗り出した農民の少年」これも見たかった一枚です。タヒチ時代にはヨーロッパから球根を取り寄せ育てた花の絵は以外にもゴーガン。花も好きだったのですね。

というわけで、あっという間の2時間でした。上野から東京駅に。新幹線で真っ直ぐ小田原に出て山に戻ってきました。”巣ごもり”でも工夫してこのような時間はやはり必要ですよね。

展覧会公式サイト
https://artexhibition.jp/london2020/