小さな旅のおすそわけ・鎌倉

長引くコロナ禍の中で、皆んなストレスを感じながら暮らしていると思うのです。そのストレスを発散させ心身の穏やかさを保ちつつ、今しばらくは自分にとっての心地よさを考えながらの生活が必要ですよね。

今年のゴールデンウイーク(GW)は、平日3日間を休めば最大11連休になりますね。過ごし方で最も多かったのは「自宅で」の76%と出ておりました。本来ならば遠出の旅がしたいところですが、皆さんその「気分」を味わい近所の公園や神社、そして近場の運動・・・と、とにかく”密”を避けての生活です。何とか一日も早い収束を願います。

私は「まん延防止等重点措置」が出る前に先週鎌倉に小さな旅をしてまいりました。早朝一番のバスで下山し(ガラガラでした)鎌倉まで。

鎌倉に住む娘と合流し向った先は大好きな報国寺。このお寺さんの竹の庭で、竹林を渡る風を感じてみたかったのです。9時開門と同時に山門をくぐり、なだらかな参道に参拝者を導く「薬医門」。このお寺さんは禅寺ということもあり、外国の方がよく訪れておりましたが、コロナ禍で人はほとんどおりませんでした。

建武元年(1334年)報国寺開山(仏乗禅師)さまは、現在の地に休耕庵を建てて修行なされました。また余暇を得て、詩作を楽しみとしつつ、静かな御生涯を過ごされたそうです。本堂でお参りをすませ、竹の庭へ。約2,000本の孟宗竹の美しさと力強さに心が癒されました。その竹の庭を観ながらお抹茶いただきました。

茅葺のかねつき堂を見ながらお寺さんを後にし、鶴岡八幡宮でお参りをすませ、満開の「神苑ぼたん庭園」を散策しました。

そして、私の大好きな鎌倉山の「ハウスオブポタリー」さんで軽くランチをいただきました。レストランの中を初夏を思わせる心地よい風が流れ、”幸せ”とつぶやき帰りは鎌倉の裏道を歩きながら鎌倉散策を終えました。

ニュースなどでよく見かける鎌倉は人・人・人。でも一歩裏道に入れば静かな”古都鎌倉”があります。”巣ごもり”を強いられる中、自分流の密を避けてたまには小さな旅もいいものです。

映画「ミナリ」

あのブラッド・ピットが製作総指揮を担当した映画を見ました。
夫婦の絆、家族の愛を静かに歌い上げた作品でした。

「ミナリ」という題名のこの映画は、夫婦と子供二人が韓国からアメリカに渡り、農業で一旗揚げることを夢見る、1980年代の物語です。向った先はアーカンソー州。テキサス州の隣にありコメや大豆、鶏の生産などが主な産業の農業州です。西部開拓史というよりも、南部開拓史的な ”道行”ですね。

しかし、大型トレーラーハウスでの生活に、「こんなはずではなかった」と反発する妻。更に、夫婦にはヒヨコの鑑別という単調な日々の作業も待っていました。そして、息子は心臓に病を抱えていますが、近くに病院はありません。新しい生活のスタートは、たび重なる夫婦喧嘩から始まりました。

もめ事なく生活を送るのに、何かいい知恵はないかとひねり出したのが、妻の母親を韓国から呼び寄せることでした。しかし、来てくれたのは料理ができず、花札が得意という型破りのお婆ちゃんでした。さて、この一家は新天地でどのような毎日を送ることになるのか。

2時間近くに及ぶこの作品は、時間を全く感じさせませんでした。特に光っていたのが、祖母役のユン・ヨジョンと少年役のアラン・キムでした。最初は何かにつけギクシャクした2人でしたが、少しづつ心を開き、触れ合っていく過程がじっくりと丁寧に描かれていました。

とりわけ2人が森の中を歩くシーンは、映像としてもメッセージとしても、ひとつのヤマ場でした。ベテランと新人の絶妙なコンビネーションは、まさに演技を超えての自然体でした。それは、農業を足場にして、アメリカ南部の大地で根を張って生きていこうとする移民一家の決意なのかもしれません。

「ミナリ」とは韓国語で食べ物の芹(セリ)のことです。韓国の友人によれば、子供世代のために親が懸命に働くことも意味しており、年2回の収穫がある芹は、2度目が美味しいとされているそうです。

芹は国境を越え、世代を繋ぎ、力強く大地に根を生やし続ける、逞しくも優しいものの象徴なのですね。

人々の普遍的な生き方や相互理解の大切さを描いているこの作品は、アメリカ映画でもなければ、韓国映画でもありませんでしたね。ピットさん、素晴らしい国際映画を作ってくださいました。ありがとうございました。

コロナ禍でまだまだ元には戻れない映画館。係りの皆さん方は換気、清掃はもちろん、実に細やかな気配りで感染予防に努力されていました。感染の防止に向け、「重要措置」から「緊急事態」へと、各地の慌しい動きはまだまだ続きそうです。でも私は、静かに映画の応援を続けるつもりです。

映画公式サイト
https://gaga.ne.jp/minari/

美術家・篠田桃紅さん

会場に一歩足を踏み入れると、そこには驚くほど静謐な空気が流れていました。そして、キリリとした墨の直線が私を迎えてくださいました。墨の色と形は、作者の凛とした生き方そのものであり、改めて滝に打たれたような想いがいたしました。

先日、美術家・篠田桃紅さんの展覧会にお邪魔いたしました。篠田さんと書との出会いは、もう一世紀以上も昔に遡ります。幼少時に父親から書の手ほどきを受けた篠田さんは、墨と筆の世界に没頭し、独学で研鑽を重ねます。

終戦後、文字を超えて、墨の色や形の本質に迫ろうと、アメリカへ旅立つのです。ニューヨークでの2年間は、「水墨抽象画」という独自の世界を切り拓く大きなきっかけとなりました。余分なものをギリギリまで捨て去る発想は、もはや、文字の意味には捉われない、”心のかたち”となっていったのですね。

会場に展示された80余点の作品には、タイトルなどの個別情報は一切省かれていました。それは、「見る人の想像を狭めてしまう」という篠田さんの配慮を尊重したもので、「先入観を除き、作品そのものを見つめてほしい」との強い信念に沿ったものでした。

それにしても、「墨」の色は決して黒一色で括れないことがよく分かりました。奥行きのある、繊細で微妙な違い。これが墨色なのですね。篠田さんがニューヨークで体験したことは、「墨の色合いを表現し生かせるのは、湿潤さに満ちた日本の自然と社会だ」との信念に結実しています。

篠田さんがこれまで著書に記された多くの言葉を、今回もかみしめました。新刊に、「これでおしまい」があります。そこで述べられた一言は、穏やかで優しく、そして背筋が伸びるものでした。

「春の風は一色なのに、花はそれぞれの色に咲く。人はみんなそれぞれに生なさいってことよ」

明治の世が終わって直後に生を受けた篠田さん。一世紀を超えるその創作活動は、世界の美術界に多大な刺激を与え続けました。

今回の展覧会には、「とどめ得ぬもの 墨のいろ 心のかたち」という総合タイトルが付けられ、4月3日から横浜の「そごう美術館」で開催されています。そして篠田さんは展覧会オープンの直前、3月1日に凛とした気高い107年の人生を閉じられました。

作品に感動し、生き方まで教えて頂いた篠田さんの軌跡を今一度学びたい。5月9日の最終日までに再び、先生の謦咳に接したいと考えております。

感謝、そして合掌。

展覧会公式サイト
https://www.sogo-seibu.jp/yokohama/topics/page/sogo-museum-shinoda-toko.html

映画「ノマドランド」

  • アメリカ西部の大平原を、一台の古びたキャンピングカーが疾走しています。運転しているのは60代に差し掛かった一人の女性。彼女は過去から逃げるのではなく、新しい人生を求めて走り始めたのです。

映画「ノマドランド」は経済不況で仕事も家も失い、夫まで亡くしてしまった女性の、精神的な旅立ちの応援歌です。

ノマドとは「遊牧民」のこと。「流浪の民」とも言われます。主人公の女性・ファーンは、これまで築いてきた人間関係や財産を恨めし気に振り返るのではなく、本当に必要なものを改めて見つけ出す旅に出ました。

ファーンは「ホームレス」という言葉に反発します。「ハウスレス」だ、と言うのです。家を失ったが、キャンピングカーがある。そして、行く先々のオートキャンプ場で、心の通い合える仲間とホームができる。そこが、ノマドランドです。

ファーンのキャンピングカーには、亡き夫の必要最小限の思い出が積まれているだけです。モノはそれで十分、そんな思いなのでしょう。この映画には、豊かな奥行きや幅を感じることができました。

単にアメリカ西部の「非定住者」に限定された物語ではないのです。これはアメリカ在住の中国人女性、クロエ・ジャオ監督によって作られました。そして、主人公のファーンを演じたフランシス・マクドーマンはアカデミー主演女優賞を2度も獲得したベテラン女優ですが、「ノマドランド」では制作陣の一員としても参加しました。その成果は、ファーンの人物設定にも見て取れます。

大平原に佇むファーンには、男女の違いなどを超越した静かで力強い、ひとりの人間としての決意が滲み出ていました。2人の”合作”は、この作品に文化や人種、更には性別までも軽々と飛び越えた普遍性をもたらしました。

ノマドの人々は別れる際に「さよなら」とは言わないのです。
「また、どこかで会おう!」。
やはり、「ホームレス」ではないという自負心と凛々しさが溢れています。

勇気づけられ、少しゾクっとする映画でした。

映画公式サイト
https://searchlightpictures.jp/movie/nomadland.html

桜満開

箱根の森の中に家を建てて、かれこれ40年が過ぎました。ここでは日時計がなくて、年時計があって、春が来るたびにひとまわりするような大きな時計に支配されているような感覚があります。

淡い春の訪れが、樹々の色みの変化でしらされます。若葉がチラッと目につく前に、全山がぼおっとうす赤くなるんです。芽吹く前に一瞬の恥じらいをみせるかのような、こんな季節のひとときがたまらなく私は好きです。

前回もブログに書きましたが、山を下ると小田原の街があります。

ひと足早く季節を感じ、旬の食材を求め、山での暮らしを楽しんでおります。先週も桜満開のニュースを見て、「そうだ、小田原城の桜を見ましょう!」と出かけて来ました。

現在は満開ですが、先週は八分咲きくらいでした。人の少ない時間に出かけ満喫いたしました。小田原城は藤、菖蒲、ツツジと花々が咲き、いつも楽しんでおります。

箱根は標高差があるため長い期間桜が楽しめます。3月下旬から4月下旬まで、ソメイヨシノ、シダレザクラ、コメザクラ、そして私の大好きなヤマザクラが満開になります。庭の山桜は可憐な花がうつむいて咲き、愛しく想います。

子供が幼い頃は桜の木の下にゴザを敷き庭でのお花見を楽しみました。三月の土はもう充分柔らかく、あのときの”おむすびと卵焼き”は今でも懐かしいです。

小さな旅を含めたら、1年の半分は旅をしてきた私。仕事であったり、プライベートであったり・・・ほとんどが”ひとり旅”です。

桜が大好きな私。東京にもお気に入りの桜並木が何箇所もあって、「桜を一緒に見ない?」と女友達に電話して、一緒にお花見。今は不自由を強いられていますよね。

以前、小説「櫻守」をお書きになった作家の水上勉さんにお会いした時に、「桜は散って咲くから。春が来れば必ず咲く。散るはかなさではなく、散ってまた咲くということに、憧れるのですよ」とおっしゃるのを聞きました。

なるほど、そうなのかもしれないと思います。桜は散り際がいいとか、桜の花のようにパッと散ろうとかいわれたりしますが、私も水上さんのように桜の花を見ています。桜の花は散っても、桜の木はそれから芽ぶき、緑の葉を茂らせ、小さな実をいっぱいつけ、やがて紅葉。葉を落とし、冬は眠ったようになります。

そしてまた次ぎの春が来ると、再び花をまとう・・・。散るというのは、季節が巡ることであり、花を満開に咲き誇らせている桜の木に、私は命の永遠を感じ、安堵しているような気がします。私たちの命は終わる日がきても、桜が咲く春の風景は変わらないと、無意識に感じているのかもしれません。

来年は皆んなで静かに桜を愛でたいですね。