NHKラジオ深夜便「大人の旅ガイド~、岐阜県高山市・荘川町」

こんばんは、浜美枝です。3年続いたこの番組も今夜が最後です。番組でこうしてお話をするので、追体験のように訪ねた村・町でまたたくさんの方々との出逢いをいただき、新たな「日本のふるさと」を再発見した3年間でもありました。
今夜は桜のお話です。
桜の季節になりました。ようやく春がきたと、今年は感慨ひとしおです。本当に今年の冬は日本列島、大雪で大変でしたね。私には東北や北陸、山陰の過疎地にも知り合いがいて、テレビニュースなどで雪下ろしや雪かきで疲れ果てた人びとの様子が映るたびに、そのご苦労を思い、胸をつかれました。
桜は春の訪れを告げる特別な花。それに桜ほど、日本人に愛されている花はないですよね。私も桜が大好きです。1月の下旬には日本列島で一番早い沖縄の寒緋(かんひ)桜。いつだったか沖縄の友人たちと本部町で”お花見”をしました。寒緋桜は、濃い紅色の花で枝にちょこんと乗っているように咲く愛らしい桜です。そして九州、四国、関西、さらに東京、東北、そして北海道と桜前線は北上していきますけれど、山桜、大山桜、大島桜、河津桜、深山桜など、他にもいろいろな桜がありますよね。
箱根では、東京からおくれること2~3週間でソメイヨシノが咲き、さらに1週間ほど遅れて山桜が咲いてくれます。我が家にも豆桜が一本あります。小さな花で恥ずかしそうに、下を向いて咲くのです。その下でゴザを敷き子供が小さいころなど、大きな籠におむすびや卵焼きなどでお花見です。
東京のお花見も楽しいもの。友人とお互い忙しくしているし、桜の開花は予想通りにはいかないので、当日、パッと電話して、パッと会います。桜並木の下をゆっくり歩いて、帰りにワインを一杯味わって。私たちの年齢になると、一緒に今年も桜を愛でることの出来た幸せをかみしめます。
満開の桜の下に立つと、何故か不思議なことに、その下で眠りたいと思うことがよくあるのです。
「何故そんなことを思うのかしら、不思議ですね」
と、作家の水上勉先生に伺ったことがありました。
「桜は、散って咲くからね。生命が長いと思わせますね。春がめぐってくれば必ず咲く。そういう生命の長さというものに安心するのじゃないかなあ。散るはかなさでなく、散ってまた咲くということに、憧れるんですよ」
とおっしゃられました。花の命ははかなくて・・・などという言葉もありますが、たしかに人間の生命のほうがずっとはかない。桜の花は毎年春が来れば必ず生き返って咲きます。
「散る」とは「咲く」こと。
樹齢何百年という木々の桜が花を満開に咲き誇らせている姿に、私たちは生命の永遠を感じ、そのことに深く安堵するのだと思います。

お花見の季節になると、行ってみたいなと思い出させてくれる桜の木が日本全国にいくつかありますが、水上勉先生の「櫻守」という小説にも登場する、御母衣(みほろ)の荘川桜もそのひとつです。桜へのひたむきな思いによって樹齢四百年の桜の移植を成功させた男たちの姿を、小説「櫻守」に書かれました。そして私がはじめて御母衣ダムに荘川桜を見にいったのは、いまから三十年ほど前、移植されてから十数年が経った春のことでした。
岐阜と石川の県境にある御母衣ダム。荘川上流の山あいの静かな美しい村々が、巨大なロックフィル式ダムの人造湖の湖底に沈むこととなり、三百五十戸に及ぶ人びとの家や、小、中学校や、神社や、寺、そして木々や畑がすべて水没していく運命のなかで、その樹齢四百年を誇る老桜樹だけがその後も生き残り、毎年季節がめぐるたびに美しい花を咲かせつづけているのです。
湖のそばにひときわどっしりと立つ老い桜。(アズマヒガンザクラ)
ああ、これがあの桜・・・と佇みました。樹齢四百年の老樹とは思えないほどの花が初々しかったのが、とても印象的でした。4月25日頃から5月10日頃まで、荘川桜の荘厳に咲き誇る姿は、その木に秘められた歴史を知る者には格別感動的です。
ふるさとは湖底となりつ移し来たし この老桜咲けとこしへに
                                高崎達之助
木の傍らに刻まれた、ふるさとを偲ぶ歌碑が胸に迫ります。満開に咲く桜の、その花弁のひとひらひとひらが見る私に何かを語りかけてくれます。何度目かに行ったときも、満開の桜の木の下でじっと座り続けているおばあちゃんを見かけました。あの時、おばあちゃんは先祖が育てた木を見ながら、桜の木を相手に、村の思い出話を語りあっていたのかもしれません。
桜の花は散っても、それから芽吹き、緑の葉を茂らせ、さくらんぼをずっと小さくしたような実をつけて、やがて紅葉、そして眠ったようになり、また春がくると、再び花をまとってくれる・・・散るというのは、季節が巡ることであり、花の満開に咲き誇らせている桜に、命の永遠を感じ安堵させてくれるのですね。
荘川に住む方々はおっしゃいます。「今では失われつつある、自然の大切さ、ものへの愛情・尊さをあらためて教えてくれる私たちの大切な宝なのです」と。
今年も行ってみたくなりました、荘川桜を見に。
荘川桜は岐阜県天然記念物に指定され、現在は根が傷まないように・・・と周りを柵で囲まれています。岐阜県高山市 荘川町(旧荘川村)中野の国道156号沿い、御母衣ダム湖岸にあります。高山駅からはバスも出ております。

NHKラジオ深夜便「大人の旅ガイド~、新潟県村上市」

今回ご紹介するところは、新潟県村上市です。
村上は新潟県最北の市。村上藩の城下町として栄え、城跡、武家屋敷、町屋、寺町が残る、かつての面影を感じさせるしっとりとした町でもあります。人口は約7万人で、鮭で有名な三面川が流れています。実は、私には村上にはひときわ深い思いがあります。村上はかつて、私の心の宝物である村、奥三面の玄関でした。

話は30年以上も前に遡ります。
奥三面というマタギの村がダム建設で湖底に沈むという小さな新聞記事を見つけました。深い山の懐に抱かれた村の写真も載っていました。私は、なぜか、その村に強くひきつけられ、奥三面に行ってみたいという気持ちが抑えられなくなってしまったのです。やがてその村を記録していた民族文化映像研究所の姫田忠義さんにお会いすることができ、私はその村を訪ねることになりました。
以来、奥三面を何度お訪ねしたことでしょう。夏には、子供たちを連れて3週間過ごしたこともありました。そこには、はるか遠い昔から続けてきた日本の、厳しくも美しい暮らしがありました。自然と共に生き、自然に生かされた暮らしでした。
そして私が村に通うようになって3年目の1985年の11月1日。閉村式が行われました。その日、私はキイばあちゃんと呼ばせていただいていた伊藤キイさんとともに8時間、キイばあちゃんの家の茅が外され、梁が倒され、柱が倒されるのをじっと見守りました。
「前山がかわいそうだ、川がかわいそうだ、これからどうやって生きて行ったらいいんだろう」
キイばあちゃんはそうつぶやきました。しかし、最後にきっぱりとおっしゃいました。
「まあ、子供たちの幸せのためなら我慢するよ」
そしてお孫さんが運転する車に乗り、私に「遊びにおいでね、村上に」と大きく手をふり、去って行かれました。今でもまぶたを閉じると、美しい奥三面の風景が浮かびます。芽ぶきの春、深緑に囲まれ、カンナやダリアが軒先に咲く夏、赤や黄色の色づく秋。さらさらと流れる三面川の透明な水、頬をそっとなでる春風、澄み切った夏の光、リンと冷えた秋の朝……。
先日、村上を訪ね、奥三面ゆかりの矢部キヨさんとお会いしてきました。キヨさんは創業天保10年という大きなお茶屋さんに、同じ町内から嫁がれて55年。教壇にも立たれ、多くの人々を導きつつ、町民文化・民族研究を続けていらした女性です。ちなみに、村上でとれるお茶は北限のお茶であり、北前船で運ばれていったそうです。
キヨさんは「奥三面の人たちが今、村上にすっかり溶け込んでいること。山の厳しい生活を知っているためなのか、奥三面の人々は辛抱強くがんばりやで、村上の人々に高く評価されている」ことなどを語ってくださいました。
また、奥三面がダムに沈む前の話もしてくれました。毎年、1月10日の十日市には、奥三面から村人が山の幸をいっぱい背負ってキヨさんのお茶屋さんに遊びに来て、飲み、食べ、語り、ときには泊っていったというのです。そして三面川が秋、上ってくる鮭で川面の色が変わるほどだったとも教えてくれました。今は3~5万匹ほどですが、大正時代は15万匹を超える鮭がとれたのだそうです。
「村上は三面の川の恵み、森のめぐみをいただいていた」
とおっしゃる表情が、とても懐かしそうでした。

現在、村上には「町屋人形巡り」と「町屋の屏風まつり」があり、年間10万人もの方々が訪れます。そのまつりの担い手のおひとり、小杉イクさんにもお会いしました。イクさんは多い時には700~800人も見えるお客様に「お茶でも飲んできな」と気さくに声をかけます。お客様……旅人を、イクさんはごく自然にお客様と呼ぶんですね。
イクさんは次のようにいいます。
「人と出会えるから楽しい。偉い先生も見えるし、勉強になる。ためになる。ふるさとに帰ってきたみたいといわれると本当に嬉しくなる」と。家にある屏風が良寛さんの筆であることも、「町屋の屏風祭り」がきっかけでわかったともおっしゃっていました。
キヨさん、イクさん、ともに80歳。おふたりとも素敵に年を重ねられた女性です。
お話を伺った後、私はまた村上の町をそぞろ歩きました。歩きながら、キイばあちゃんのこと、奥三面のことを思い出しました。キヨさんとイクさんの笑顔も思い出しました。この町は奥三面とつながっていて、ここに奥三面が今も息づいていると感じました。そして今も、新たな歴史がこの町で綴られているとも感じました。
旅の醍醐味は人との出会いだと私は思います。目と目を見て話し、ふれあい、笑い、うなずき、肌でそこに住む人の営みを知ることこそ、旅の最大の楽しみではないか、と。
女性たちが、自分たちの文化を、歴史を、自分の言葉で語り継ぐ村上は、そんな旅の醍醐味を、誰もが味わえる場所なのではないでしょうか。そして、この土地のように、日本のどこにも暮らしの語り部がいてほしい。暮らしの担い手である女性の語り部がさらに育ってほしいとも感じました。
町を歩いた後、松尾芭蕉が奥の細道の途中で2泊したというゆかりの宿に併設されたクラシックなカフェに入りました。この宿は国の登録有形文化財でもあり、明治期の町屋の風情を味わうことができます。そしてもちろん夜には、旅をさらに思い出深いものにしてくれる、美味しい地酒もいただきました。

東京からは新幹線を利用し新潟駅経由で、JR羽越本線に乗り換え、約2時間30分です。
本日は、新潟県村上市をご紹介しました。

NHKラジオ深夜便「大人の旅ガイド~三重県鳥羽市・答志島」

今回ご紹介するところは三重県鳥羽市にある離島、答志島(とうしじま)です。
東西約6キロメートル、南北約1.5キロメートルの細長い島です。面積約7平方キロメートルで、鳥羽湾および三重県内では一番大きな島ですが、島内は歩いて6,7時間で一周回れるくらの広さです。先週、私は小雪舞う箱根から行ってまいりました。鳥羽から島へ・・・風があり寒い日でしたが、穏やかな島はなに一つ変わっていませんでした。20年振りの答志島です。
この島へは、大阪や名古屋からでも近鉄鳥羽で下車し、徒歩で約5分の鳥羽港(佐田浜)から市営定期船で島に渡ります。答志島には三つの集落があります。島の北東部に答志(とうし)、南東部に和具(わぐ)、北西部に桃取(ももとり)。和具まで28分そして答志まで32分です。桃取は13分ほどですが、コースが違います。
この島の歴史は古く、持統天皇の伊勢行幸にあたって都に残った柿本人麻呂が
「釧着く答志の埼に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ」
と「万葉集」に詠んだ地です。
そして、戦国の将、九鬼嘉隆の悲しいロマンの地でもあります。織田、豊臣に仕え、いくつもの戦功をたてますが、息子の守隆は、家康の陣につき、父子が相対することになり、負けた嘉隆は島に逃げのびますが、自害します。嘉隆の胸中はいかばかりだったでしょうか。古墳、九鬼嘉隆の墓、首塚、胴塚など歴史的スポットが多くあり、潮音寺の観音堂には、弘法大師作と伝えられる観音像がまつられています。
小さな八幡橋を歩いて渡ると八幡神社があり、2月13、14、15日には神祭がおこなわれます。大漁、海上安全を祈願して行われる弓射の神事で、この的を持ち帰り戸口などにかけておくと、魔よけになるといわれており、壮絶な奪い合いが行われます。夏は海水浴、魚釣りなど、家族で楽しめるハイキングコースもあり多くの人が訪れる場所です。整備された見晴らし台からは、鳥羽湾に浮かぶ島々、知多半島が一望できます。

三つの集落の中でも答志は漁師町です。
ちょうど伊勢湾の出口にあり、魚の種類が豊富で、夫婦単位の船による漁が盛んで、一年を通じていろいろな魚を獲って暮らしています。ですから答志は海女漁が盛んな場所です。以前伺った「海女小屋」でのお話がとても印象に残っており、今回もお会いしたかったのです海女さんたちに。
日本で海女が一番たくさんいるのが志摩半島。漁から上がって、冷えた体を温めたり、食事をしたりする場所が「海女小屋」です。四畳半ほどの小屋の中で薪をくべ、この火場でのおしゃべりが何よりの楽しみとか。60代、70代でも現役です。冬に潜る海女さんたちは答志では14、5人。夏場になると多くなるそうです。夏は、海女は海に潜り、アワビ、サザエを獲っています。冬場はおもに「なまこ漁」1日2時間・2回潜ります。
今回も火場で話の輪に入れていただきました。真っ赤に燃える薪の横に獲れたてのほら貝を焼いてもらいました。美味しかった。
「火場は自分の御殿、オアシス」
「ここで仲間と家庭のことや、漁の情報交換をしてから家に帰るの、ストレスも発散してね」
「夫婦げんかはその日にかえせ・・・ってね、何しろ、分銅20キロくらいつけて潜り、父ちゃんに命綱をたぐってもらうから、けんかなんかできないさ。は・は・は!」
と海女歴60年のおばちゃんのお話に「なんか、うらやましいな!」と思った私です。
そして、この島には庶民が生み出した素晴らしい社会制度があります。土地の人が寝屋子(ねやこ)とよんでいる伝統的な若者宿が残っているのです。かつては広く日本中にあったのですが、昭和30年代から急激になくなりました。若者宿というのは、少年期から青年期にかけて男子が一緒に寝泊りします。その子供を引き受けて暮らすのが寝屋親たち。無償の行為です。実家で夕食をすませてから寝屋親へやってきます。めいめい勉強をしたり、おしゃべりなどをしたり若者同士悩みを相談することもあるでしょう。
「私たち寝屋親と寝屋子は、血のつながった親子ではないけれど、生涯親子のように付き合います」
と語ってくれた山下正弥さん。
「ある暮れに沖で船が横波をくらい女房が海に落ちたとき、真っ先に駆けつけてくれたのが寝屋子でした」と。
いざというときにはみんなで力をあわせ助けあわなければなりません。知識で知ることではなく、身体で覚えなければ身につかないことでしょう。20年前に伺ったときには8人の寝屋親だった山下正弥さん、今は陸にあがりました。その寝屋子が40代になり、また集まってくれました。西川長広さんの息子、長太君は寝屋子で漁師です。山下さん、濱口さんが言います。
「この制度が日本全国にあったら子供たちは悪いことなんてしませんよ」
また、正弥さんはおっしゃいます。
「漁業があるかぎり寝屋子は続きます。人は助けあい支えあって生きているのですから」
世襲でも強制でもない庶民が生み出した生活の知恵です。命を賭けて海で働き、海で生きる答志の庶民の暮らしから、学ぶことがたくさんあります。

旅の楽しみが景色だけ名所旧跡だけでなく、土地の人に出逢える・・・この喜びが加わって、旅は二倍三倍楽しくなるのですね。
伊勢湾に浮かぶ、離島・答志島・・・朝風が心地よく幸せな気分で帰路につきました。
今回は三重県鳥羽市、伊勢湾に浮かぶ 答志島をご紹介いたしました。

NHKラジオ深夜便「大人の旅ガイド~京都府・大江町毛原」

今回ご紹介するところは、京都から福知山をさらに40分ほど山間に入った鬼伝説で名高い大江山。そのふもとに広がる大江町・毛原集落をご紹介いたします。
北は宮津市、南は綾部市、東は舞鶴市に隣接しています。丹波路の最難所、大江山の峠越えの麓に毛原集落はあります。この毛原集落は奈良~平安~鎌倉にいたる中世の時代に形成された集落といわれ、大江山越えの裏街道として宮津(天の橋立)まで旅する人に親しまれていたそうです。今は幻の峠となっていますが、昔の人はどんな思いでこの難所を行き交っていたのでしょうか。大江の里は中央を由良川が流れ、その山中には聖霊が宿っているような静けさがあります。
“大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立”
歌人・和泉式部の娘が詠んだ歌だといわれます。
さて、毛原集落は「日本の棚田百選」にも認定された、山に囲まれた小さな美しい村です。人口30人、13戸。ここはかつては、千枚以上の棚田があり、千枚田とも呼ばれていた集落ですが、担い手の高齢化が進むととともに、農業への従事が困難になり、その結果、田への植林が増え、また、農地の荒廃化が進み、棚田は、約600枚に減ってしまったそうです。
そこで、毛原の集落の人たちは 「みんなで守ろう・心のふるさとを」との思いから、人口が減り、高齢化してしまった「ふるさと」を守っていくには、都市住民の力が必要!との結論に達しました。現在「毛原の棚田」では「棚田農業体験ツアー」や「棚田オーナー制度」を導入し、都市住民と積極的に交流をしています。
散策路・水車の復元、集落を歩いているだけで心が休まります。私は庭に葉の落ちた、柿の実のなる風景を見ると懐かしさで胸が熱くなります。晩秋の一日、私は村の方々から「ふるさと」を想う気持ちを伺いました。
ビオトープの池、また女性が中心となり道端、法面に水仙の球根を植えておられました。民間企業が参加し、里山を守るためにボランティアで活動も行なってもいます。冬は30cmくらいの雪が積もるそうです。春にはみつ葉つつじの群生が美しく、5月は昔ながらの手植え、秋には稲刈り、さつま芋掘り、また遊休農地ではそばの栽培が行なわれて、真っ白なそばの花が咲き乱れます。

「自分たちの故郷を守る活動が未来に繋がると信じてやっています」・・・と。
美しいふるさと・・・それは、私たちの先祖が、一生懸命山を切り開いて田んぼを作り、そして山や川をまもってきたことの証なのですね。
棚田は美味しいお米を作るだけの場所ではありません。水を貯えるダムとして、洪水や地すべりなど災害から私たちを守ってくれます。そして生き物の王国でもあります。田んぼの微生物たちが、ゴミや汚れを浄化し、田んぼにたまった水は太陽に照らされてゆっくり蒸発するので気温を調節し、森林や作物など植物の働きで、空気をきれいにしてくれます。
そして、美しい”ふるさとの景色”を守ってくれます。
この毛原集落からほんのちょっと奥に入ると二瀬川渓谷にいけます。大江山連峰・千丈ヶ嶽を源にした水が、勢いよく流れ落ちる二瀬川渓谷。大小の岩と美しい紅葉。きっと四季折々の美しい光景を見ることができるでしょう。山の中、心身ともにやすらぎ、深い緑に吸い込まれそうです。周辺は鬼伝説の遺跡群があり、新童子橋をわたり、散策をお進めします。そして、毛原をはじめとした大江地域で栽培された酒米で作った地酒「大鬼」が今、アメリカで人気になっているとか。

私は毛原・大江の帰りに福知山市内に戻り、江戸時代には城下町として栄えた町並み、明智光秀が丹波の拠点として築城した福知山城(石垣は光秀時代の面影が残されています)、臨済宗南禅寺派の寺「長安寺」を訪れました。ここは四季折々の景観と枯山水の庭、特に秋の紅葉は見事で「丹波のもみじ寺」として知られています。臨済宗妙心寺派の天寧寺は室町時代の名刹で自然に囲まれ、こちらも四季折々の風情が楽しめます。

今夜は福知山、大江町・毛原集落をご案内いたしました。

今年の紅葉もそれはそれは美しかったです。私の住む箱根はもう冬景色・山歩きのときに、息の白さに、冬がきたことを知らされます。
【旅の足】
京都からJRで福知山駅へ・・・KTR(北近畿タンゴ鉄道)で大江駅へ、そこから市営バスかタクシーで毛原集落へ。
詳しくは「毛原の棚田ホームページ」か、福知山市大江市所内「棚田農業体験ツアー実行委員会」まで
TEL: 0773-56-1101
FAX: 0773-56-2018

NHKラジオ深夜便「大人の旅ガイド~岡山県・勝山」

今回ご紹介するところは、岡山県北部に位置する真庭市勝山です。
勝山は、瀬戸内と山陰を結ぶ交通のかなめにある美しい町です。
町を囲む蒜山(ひるぜん)三山をはじめ、山々が檜や杉など森が深く、日本の滝百選に選ばれた、神庭(かんば)の滝は、湯原奥津県立自然公園の一角にあり、落差110m、幅20mの勇壮な滝です。

てっぺんから流れ落ちる滝の姿はなんと美しいことか。滝の水しぶき、樹木の匂い、辺りに漂う樹齢の空気に清清しさを感じ、思わず深呼吸をたっぷりしました。きっとマイナスイオンが身体中にいきわたったでしょう。一帯には約180匹の野生の猿が生息し、訪れる人に愛嬌をふりまいています。私が訪ねたのは10月でしたので、今頃は紅葉が一段と美しいことでしょう。
勝山はかつて出雲街道の宿場町として栄えた町で明治までは木材で賑わっていたそうです。けれども時代が経るにつれ、その賑わいは失われていきました。それが今、再び、近くの湯原温泉のお客さんをはじめ、大勢の人が集う町になりつつあります。勝山の何が人々を惹きつけているのでしょう。
3月の「勝山のひな祭り」の頃は3万人ほどの人が集まるとか・・・。どこの家々もお雛さまを飾って観光客を楽しませてくれるとのこと。そんな暖かい気持ちが伝わっているのですね。
さらには、白壁の土蔵や連子格子の家々が連なる城下町の風情でしょうか。そして、町並み保存地区の通りに面した軒先にかかる草木染めの暖簾。商店はもとより個人の住宅にも暖簾が揺れています。一軒ごとに違う大きさや柄、たとえば自動車修理工場の軒先にはモダンな自動車の絵柄、幾何学的な自転車柄、タイヤのわだち、野菜、野の花、櫛模様・・・まあ、にぎやかな事。でも全体がシックにまとまっています。今では110軒中92軒が暖簾を揚げています。

約13年前、東京・女子美術大学でテキスタイルを学び教えていた草木染め作家・加納容子さんが、家業の酒屋を継ぐためにUターン。店に自作の暖簾をかけたのがきっかけで、その美しさにひかれ「うちにも」「うちにも」と暖簾をかける家が増え、今の姿になったといいます。
私が訪ねた時には、どの暖簾の下にも野の花が飾られ、訪れる旅人を出迎えてくれます。その見事な組み合わせに思わず足を止めると、「お茶でも召し上がりませんか」と何人もの方に声をかけられました。それがまた、気負いを感じさせない、自然な雰囲気なのがとても嬉しかったのです。

そして、私にとっての旅の魅力のひとつに地酒があります。
ここ勝山には創業二百年余年の、この町にただ一軒残る酒屋があります。
辻本店の酒です。
旭川の伏流水がまろやかさを醸し出します。仕込みの陣頭にたつのは辻家のご長女。酒蔵は女人禁制の世界でしたが、現在では見事に長女の麻衣子さんにより酒造りが行なわれているといいます。歴代の杜氏が惜しみなく技を伝えてきたのでしょう。
この勝山には水のよさから、美味しい蕎麦屋もあります。当日私は残念ながら休日にあたり食べられなかったのですが、この蕎麦やは何でも倉敷から、この水のよい勝山に食道楽の人たちの求めに応じてやって来たとのことです。
酒蔵・蕎麦や・そうそう・・・美味しい饅頭屋さんもあります。
もう、これだけあれば、すっかり旅気分。
ところで、この町並み保存地区には一切、ゴミ箱がないのです。そのかわりに旅人がゴミを手にしていると、町の人が「お捨てしましょうか」とすっと手を差し出す。それぞれ数万人もが訪れるひな祭りや喧嘩だんじりこと勝山まつりでも、それで、まちは少しも汚れないといいます。
勝山は旅人と町の人がお互いを慮り、理想な形で交流ができているのではないでしょうか。相手のことを慮り、誠意を尽くして行動する勝山の人々。そして、訪ねる観光客もけっして土足で入らない・・・理想の町をみました。
勝山の見所はいろいろあります。神庭の滝 町並み保存地区では暖簾や土蔵や格子、旭川沿いには往時を偲ばせる高瀬舟発着場後が残っています。郷土資料館には、縄文時代からの民族資料、旧藩主・三浦藩に関するもの、戦時中に勝山へ疎開していた谷崎潤一郎の資料も展示しています。入り口を入ると、休憩所があり暖かいお茶で迎えてくれます。武家屋敷は往時の姿で現存しています。
のんびり、ゆったり・・・勝山の町を散策してください。
岡山駅前から直通のバスが出ていて便利です。勝山まで約2時間の旅です。
JR岡山駅から伯備線で新見駅へ。姫新線に乗り換えて中国勝山駅下車。
岡山駅から津山線で津山へ向かい、姫新線に乗り換え勝山駅で降りる方法もあります。
どちらも所要時間は約3時間。
駅を出て左方向に「檜舞台」と書かれた門をくぐると暖簾の町並み保存地区。
小さな町なので歩いて充分愉しめます。
【お問い合わせ】
真庭市役所勝山支局総務振興課まで。
TEL 0867-44-2607
今夜は暖簾が風にゆれ、暖かなおもてなしで迎えてくれる勝山をご紹介いたしました。

NHKラジオ深夜便「大人の旅ガイド~石川県・金沢」

今回ご紹介するところは金沢です。
あまりにも有名な金沢ですが、今夜は「地図を忘れて・・・金沢へ」です。一枚の地図を持って知らない街を丹念に歩く旅の良さ。また、観光パンフレットを持って店々をのぞく旅も良いでしょう。でもあなたがもし、「金沢の旅」をなさるなら、地図と別れて人に出逢う旅、話を聞く旅はいかがでしょうか。
無名の人の話には、その町の匂いが漂い、先輩の話には、その町の(ここだけの話)の面白さがあります。仕事の合間のエア・ポケットのような日こそ、旅に出るチャンスです。一泊の小さな旅を計画しました。
私は朝の便で、石川県の小松空港へ飛びました。約50分のフライトで到着です。私は年に3,4回石川県に行っていますが、ほとんどが講演・シンポジウムなど仕事でいくことが多いのです。仕事の時はどこにも寄り道せず、真っ直ぐ帰ってくるだけですから、これは旅とはいえません。ですから、本当に何も縛られない旅時間は嬉しくて嬉しくてしかたありません。何を食べよう、どこを散歩しようとウキウキします。
小松空港には市内まで直行するバスがあり、これは大変便利です。バスに乗ったら、必ず進行方向左側に座ります。何故かといいますと、理由はすぐ分かります。空港をぬけるとすぐ、雄大な日本海がバスの横に広がります。このバスの中から何十回、いえ百回以上、海を見てきたなあ、なんて一人感慨にふけってしまいました。
一度として同じ海はありません。だから毎回、海が見たいのです。時には時雨模様のもの悲しい海に、胸がキュンとなるような鈍色(にびいろ)だったり、今回のように秋の日本海が晴れ渡り、思わず深呼吸したくなったり。私の好きな海は「じきに雪が降るよっ」と語りかけてくれる色合の時です。

北陸の人たちは、微妙な変化で天気予報をよく行うのです。東京にいたらラジオやテレビの天気予報で、傘の準備をしたり、お洗濯はどうしようと心配しますが、金沢の人は何か、体にお天気を当てるセンサーがついているのではないかと思うほど天気を予報します。
さて、街についたら皆さんは一番最初にどこにいらっしゃいますか?
私は「裏口兼六園」です。正面からはいる兼六園はまさに天下の名園の序章です。でも、もしそのならいにこだわらずに気楽にいくつかの入り口を選んで入ってみたら如何でしょう。
そこにはパンフレットにはない風景が展開します。
樹齢何百年の古木が、根元をむきだしにしたその横を、春なら新芽が出ているのを見つけられるし、秋は紅葉した美しい枝に出逢えます。そんな時、私達は万物の生命のつなぎに感動します。

日本三大庭園の一つ「兼六園」は木々と対話することに気付かされます。ある夜のとばりが降りた頃、金沢城の門のところに佇んでいました。門の所に立つと闇の中で、いろんな音が聞こえてきます。自転車のブレーキの音、靴の音、下駄の音・・・その闇の中には音しかありません。ヒタヒタと歩く草履、いや昔の人のワラジ?音のドラマは耳をそばだてる私を不思議な世界に連れていってくれました。
その次は大乗寺というお寺です。そこも真っ暗。その時は夏でしたから蛍がポッと明かりを灯すだけ。真っ暗な廊下を歩き、暗い庭に出ると、お月さんは出ていないけれど、いくらか明るい闇がありました。その闇の濃淡の中で、いい匂いに出会いました。庭に茂る草の匂いです。日中、歩いていて、果たしてこのようなデリケートなことが見えたでしょうか。
「路地歩き!これも金沢の旅の本命のひとつ」
そうだ、かつて日本のいたるところにあった路地が今も残っているのが金沢の町!家と家との間のせまい一本の道をゆっくりと歩けば、そこから昼や夜の「おかず」を作る匂いが漂います。「茄子とニシンの炊き合わせ」「じゃがいもと玉ねぎの味噌汁」などなど・・・。
これが暮らしというものと一瞬立ち止まる旅人。「ブルースの女王」と呼ばれた淡谷のり子さんは、この金沢の路地歩きがお気に入りだったとか・・・。
「庭の千草」を小声で口ずさみながらゆっくりゆっくり歩かれたそうです。

昼のお散歩は「東の廓」。そこは卯辰山の西の麓と浅野川に挟まれた江戸時代からのお茶屋町です。この一角に加賀格子を正面に備えた町屋が軒をつらねています。当時のお客さまは、豪商や文人でしたから、そういう方のお相手をする女性は、茶の湯はもちろん、華道、和歌、俳句、謡曲、舞、琴、三味線などありとあらゆる教養を身につけていなければなりません。今もこの町並みは当時を偲ばせ、黄昏近くになると、細い格子の中から三味線の音や小唄が聞こえてきます。
金沢は職人の住む町でもあります。
「和傘」に手描きで、客の注文の絵を描く老職人
「加賀友禅」に一筆一筆の筆を置く職人。
「金箔」の根(コン)のいる手仕事。
最敬礼!職人の心意気!
ここに日本の職人の原点を見ることができます。

旧制第四高等学校があった金沢の町には、当時の赤レンガの建物が今も大切に残されています。幣衣破帽(ヘイハボウ)、寮歌を歌って歩く若者を町の人々は学生サン、学生サンと呼んでその青春を讃えたそうです。
作家井上靖、中野重治もこの「四校」で学び、その作品の中に「我等二十の夢数う」の精神が生き続けています。現存する教室の古い椅子に旅人のあなたも座れば、一瞬、あなたの「青春」が甦るはずです。
さて、旅の終わりは近江町市場。今が旬の美味しいのど黒、甘エビ、ハタハタ、メギス、カレイなど、これから冬にかけてはズワイ蟹。石川県では加賀と能登地方の名を合わせて「加能ガニ」というブランドで出されています。
それから石川の加賀野菜。金時草、加賀つるまめ、甘栗かぼちゃ、加賀レンコンなどは絶品。私はこれらの野菜と魚などの食材を買って宅配で家に送りました。
結局、私の旅は食べて、人に出逢い、また食べるものを買い込む旅だったようです。

古都・金沢には古い建築物が多いです。
室生犀星、三島由紀夫や吉田健一など、数多くの人々に愛された町が息づいています。
歴史、文化、旧と新、自由自在の旅が楽しめます。
金沢は人の「こころ」が生きているあたたかい町!
今夜はそんな街、金沢をご紹介いたしました。

NHKラジオ深夜便「大人の旅ガイド~静岡県・井川地区」

今回ご紹介するところは、時速300kmの新幹線が走っている現代に、どう頑張っても最高時速25km、平均15kmという、のどかな汽車で行く、静岡県静岡市葵区「井川地区」です。
総面積の8割近くを山地が占める静岡市には、多くの山里があります。
井川の集落は、南アルプスに抱かれた大井川の最上流部に位置しています。市街地から井川までは、峠越えをして車で2時間ほど。
でも、私は素敵な列車の旅をお奨めします。東海道本線・金谷で下車し、ここから大井川鉄道で終点の千頭(せんず)駅まで1時間。時間によっては、懐かしい汽笛に誘われ、SLも走っています。千頭駅に着くと、鮮やかな赤色のミニ列車が迎えてくれます。南アルプス・アプトラインに乗り換えて、雄大な奥大井の山懐へと出発です。車窓に広がる茶畑。大井川流域は古くからお茶の栽培が盛んなところです。1番茶が終わり、2番茶の緑の茶畑が美しいのです。
大井川に沿って上流へ進むと、緑が一層美しくなります。井川線ミニ列車に
1時間40分乗って終点が井川ですが、その道中がまさに「小さな旅」です。

皆さん「アプト式鉄道」ってご存知ですか?
アプト式鉄道とは、ラックレールという歯型レールを使って急な坂を登り降りするように考案されたものです。アプトいちしろ駅~長島ダム駅までの間は1,000分の90という日本一急勾配を運行するために、車両は勿論のこと、ディビダーグ式橋梁や、枕木など新しい手法を取り入れています。いちしろ駅でアプト連結が見学できます。急勾配を力強く上って行きます。私はこの辺りで持参した「おにぎり」を食べ旅情気分を味わいました。
日本一高い鉄道橋、関の沢鉄橋から見る高さ100mの絶景とスリル、思わず身を乗り出し写真撮影。何しろ窓が開いている・・・。この渓谷の紅葉した景色はさぞ美しいことでしょう。

沿線はモミの木やモミジに囲まれ、清流にはヤマメも生息するなど、豊かな自然の中をゆっくりと進む山岳鉄道は開放感いっぱいです。
終点の井川に着きます。
駅の階段を降りていくと小さな食堂があります。
私は帰りにおでんを食べました。
さて、この山奥の町、井川では、ここにしかないといわれる貴重な「メンパ(お弁当箱)」が作られています。
私が25年前にお訪ねした時、このメンパを作っていらした海野想次さんは残念ながら一昨年他界され、今は5代目周一さんが継がれておられます。周一さんとは久しぶりの対面です。
井川のメンパとは、天然のヒノキを曲げて輪を作り、サクラの皮で縫い合わせて漆を塗って仕上げるお弁当箱なんです。ヒノキを薄く薄く、3ミリの薄さまで削って、このヒノキを水につけてやわらかくして、曲げていきます。丸めて仮止めし、穴をあけ、細く切った桜の皮を通して縫い合わせます。この状態で陰干ししておきます。底板をはめこみ、上塗りし、陰干ししてから漆をかけます。
メンパの形は丸型、小判型、角形の三種類があります。さらに、男メンパ、女メンパ、おかず入れである、菜(さい)メンパがあります。これは昔から山仕事に出かけた夫婦が食事を終えて、男・女・菜の順序でメンパをひとつに重ねて持ち帰るように作られたそうで、ほほえましいお話ですね。実用品としても、冬、ごはんが冷めにくく、夏は腐りにくい。また、身と蓋、男用、女用それぞれで、米をぴったり計量出来るようになっているというのも大変に優れていますね。
山の暮らしの中で生み出された生活の知恵の結晶です。
この海野さんのメンパはご自宅での販売のみ。手作りですから量産できません。「幻のメンパ」とも言われ遠路はるばるメンパを求めて井川を訪れる人々が絶えないそうです。若い世代の人々にも広く受け入れられているそうです。実用に秀でており、温かい木のぬくもりを普段使いの中で味わいたい・・・そんな日本の工藝は素晴らしいですね。

駅から井川の町までは歩いて1時間ほど。
バスは井川地区自主運行バスが日に3本運行されています。
駅近く、井川ダムから井川大橋を経由し、井川の中心地「木村」とを結ぶ片道40分の渡船もあり、バスや鉄道で来た観光客も自由に乗船でき、四季折々に見せる新緑、紅葉など楽しめます。
井川の町には旅館、民宿もあります。(観光協会にお問い合わせください)
井川の奥には自噴している「赤石温泉」。
南アルプスの登山。(聖平登山口まで、町からバスが運行されています。)
美しい景色に爽やかな風。
素朴で優しい心のふるさと、井川をご紹介いたしました。

NHKラジオ深夜便「大人の旅ガイド~富山県・五箇山」

今回ご紹介するところは世界遺産に登録されている合掌の里「五箇山」です。
越中五箇山とは、富山県の南西端にある南砺市(なんとし)の旧平村、旧上平村、旧利賀村を合わせた地域を指します。ここは、まさに「日本のふるさと」です。遥か縄文の時代から人々の営みがあったところ。平家の落人が住み着いたと伝えられています。
初夏の緑豊な中を旅すると身も心も緑に染まりそうです。今回私は、利賀村の民宿・笠原さんのお宅に泊めていただき、菅沼合掌造り集落へと足を延ばしました。

世界遺産は世界中に五百十数ヶ所あるそうです。日本には最古の木造建築・法隆寺をはじめとして、屋久島など文化遺産や自然遺産が登録されています。これらの遺産は、私たちが暮らす日本という国を通して、身近な自然や文化財をグローバルな視点から見直し、人類が次世代にどう継承していくべきかを、改めて私たちに問いかけます。
私と合掌造りの家とは、切っても切れない関係にあります。合掌のカタチにひかれて、生活のスタートラインに立った、といっても過言ではありません。家の骨格ともいうべき柱と梁は、何か私の心の中の骨組みでもあるのです。自然と共存して生きることの、とてもシンボリックなカタチ。
もう何十年にもなるでしょうか。この集落に通い、さらに日本中を旅し、自分が求める暮らしのあり方や、心の置き場所を探す旅を続けてきました。白川郷や五箇山は冬なら二、三メートルの豪雪に埋もれる雪の里です。雪を深々とかぶった集落は神々しく、よそ者は雪の上に足跡を残すのさえ、ためらわれたものでした。
厳しい豪雪の中に建つ合掌造りの家は静謐な祈りのカタチです。
そして、今回、初夏に訪ねた合掌造りの家は穏やか瞑想のカタチです。
ここに来ると、私はいつも自分の原点に帰ってくるような気がします。日本の歴史の嵐に翻弄されることなく、ずっと身を隠しながら、何世紀も生きてきたものだけが持つ神々しいまでの家々です。集落の中に江戸時代から変わらない道があり、屋敷の間を村道が縫い、昔の姿をとどめていますが、そこには現代の人々が暮らしているのです。
バイパスが通り便利になり、訪れる人も多くなりました。
「おじゃまします・・・」とつぶやいて一歩一歩集落へと踏み出すのです。
見下ろすと、茅葺き屋根が青々とした田園の中に佇んでいます。戸数8戸の小さな世界遺産・菅沼合掌造り集落。集落の中を、庄川が蛇行しながら流れ、背後には急峻な山地が迫り、緑豊な懐に抱かれています。
かつて五箇山では農作物以外の換金産物が必要でした。塩硝づくりと養蚕、紙すきは合掌造りと深いつながりをもっています。耕作地の狭い土地柄、火薬の原料となる塩硝が、加賀藩の奨励と援助を受けて、五箇山の中心産業となったといいます。平野部の農村の米作りに匹敵するほど重要だったのです。
合掌造り家屋は、屋根裏部分を2層3層に区切り、天井に隙間を空け囲炉裏の熱が届くようにして養蚕が行われていました。囲炉裏から上がったスス(煤)が柱や綱に染込んで強度を増す効果もありました。私は合掌造りの家にはいるとこの匂いが何とも好きで、つい囲炉裏の端に座ってしまいます。
今回泊めていただいた利賀村の民宿、笠原さつ子さん手づくりの料理の美味しかったこと。「イワナの骨酒」を飲み、イワナの塩焼き、五箇山豆腐と山菜の煮しめ、うどと身欠にしん、こごみのピーナッツ和え、かっちりいも、山菜ごはんには、すす竹・舞たけ・人参・よしな・椎茸などが入っていました。最後は手打ちそば。美味しかった!!さつ子さんは77歳。お顔はつやつや。笑顔の美しい方です。
「ごちそうさまでした」

五箇山でこんなに美味しい料理が食べられるのは、かつて村人が報恩講や祭り、正月、そば会などで持ち寄った自慢の味や、郷土料理の数々が伝承されているからなのです。「報恩講」とは門徒が僧侶の講話を聞く法会。その後に必ずみんなで飲み食いするのが楽しみとか。
我が家の囲炉裏も昔々のものです。灰をかき、炭を真っ赤に熾して、家族や友人とそれを囲むひとときは、他のどんな空間にもない時間が流れます。囲炉裏はタイムマシーンのようです。時間を忘れさせる装置であり、時を飛ばすマジシャンでもあります。太い梁や囲炉裏でワインやシャンパンを飲むのも新鮮です。
古くから伝わる郷土の知恵と工夫がぎっしり詰った「五箇山・合掌の里」をご紹介しました。
【旅の足】
~電車~
東京駅(上越新幹線1時間15分)→ 越後湯沢駅(北陸本線2時間20分)→ 高岡駅(JR城端線50分)→ 城端駅(加越能バス40分)→ 五箇山
大阪駅(北陸本線3時間)→ 高岡駅 → 城端駅 → 五箇山
~車~
練馬IC(関越自動車道3時間)→ 長岡JCT(北陸自動車道2時間)→ 小矢部・砺波JCT(東海北陸自動車道25分)→ 五箇山IC
吹田IC(名神高速道路1時間30分)→ 米原JCT(北陸自動車道2時間30分)→ 小矢部・砺波JCT → 五箇山IC

NHKラジオ深夜便「大人の旅ガイド~長野県・信州松本」

今回ご紹介するのは長野県信州松本です。
倉敷とともに、信州松本も私にとっては民芸の故郷です。
松本は安曇平の向こうに北アルプスが屏風のようにそびえ、昔ながらの城下町の面影が色濃く残る町です。松本市は平成17年に合併し、県下で最も広い面積の自治体となりました。
西に日本の屋根といわれる「北アルプス」、東に日本一高いとして名高い「美ヶ原高原」を望む大自然に囲まれた盆地です。安曇地区・奈川地区・梓川地区・四賀地区・旧松本市、豊な緑、澄んだ空気に恵まれた大変美しいところです。
今回は国宝松本城を中心に市内をご案内いたします。
国宝松本城は現存最古の天守閣・戦国時代の姿を残します。1593年頃に石川数正親子により造られました。五重六階の天守・渡櫓・乾小天守は現存する天守の中ではわが国最古のものです。天守閣からは美ヶ原高原・北アルプスなどが一望できます。
今回、松本をお訪ねしたのは「池田三四郎生誕100年~特別展示」を見るためです。
もともと松本は木工で栄えた町でした。特に家具製作は松本藩の商工業政策の一つとして奨励されました。日本有数の豊かな森林、伐採された木を運ぶことができる河川、材木を貯蔵したり自然乾燥するのに適した湿度など、自然条件も揃っていました。江戸末期には、家具に使用される鉄、金具類の飾り職や錠前職も増え、明治初期には町にそうした仕事場が数十軒も店を構えていたそうです。
しかし悲しいことに松本の家具作りは第二次世界大戦後に衰退します。そんな中で、かつての松本の家具作りの栄光を復活させようと力を注がれたのが、池田三四郎さんでした。その池田さんが生み出したのが松本民芸家具です。
池田さんは、欧米の家庭で使われていた家具のデザインを踏襲し、高度な和家具の技術を持つ松本の職人に、洋家具を作らせたのです。松本民芸家具は、美しく完成されたデザイン、確かな作り、年を経るごとに増す味わいで、長く愛されている家具です。
私は松本駅に降りると、いつも女鳥羽川沿いにある喫茶店「珈琲まるも」に伺います。私はこの喫茶店の落ち着いた雰囲気と家具が大好きです。珈琲が薫り高く美味しいことは言うまでもありませんが、この店の椅子に座ると、ほっと力が抜けるような気がします。

英国ウィンザー調のテーブルや椅子、美しい音楽と上等なコーヒー。その喫茶店はかつては松本深志高校(旧制松本高校)の青年たちが文学やロマンを熱っぽく語り合った場所とのこと。今でも店内の雰囲気に、そこはかとないインテリジェンスが漂っていて、ただ座っているだけで心が落ち着きます。以前、池田さんに「珈琲まるも」の椅子についてお聞きしたことがありました。
「あの椅子はね、私がウィンザー朝の椅子にのめりこんだ最初のころに作ったものです。五十数年のあいだに、浜さんも含めて十万人以上が座ったんじゃないかな。たくさん人に座ってもらって、自然に磨かれて、なかなかの味が出ているんですよ」
池田さんはにっこり笑って、そうおっしゃいました。
中学時代、図書館で出会ったのが柳宗悦さんの本でした。中学卒業後、女優としての実力も下地もないままに、ただ人形のように大人たちに言われるままに振舞うしかなかった時、私は自分の心の拠りどころを確認するかのように、柳宗悦の「民藝紀行」や「手仕事の日本」をくり返し読みました。
柳さんは、大正末期に興った「民芸運動」の推進者として知られる方です。柳さんも松本には何度も足を運ばれています。柳さんを師と仰ぎ民芸家具に打ち込んだ池田三四郎さん。池田さんとは30年あまりのお付き合いでした。お会いするだけで心が安らぐ、そんな懐の広い人でした。
心にふと迷いが出たとき、自分の生き方を見失いそうになったとき、私は列車に飛び乗り、松本に向かいます。
「よう、浜さん、来たかい」と笑顔で迎えてくださいました。
池田さんは、柳宗悦氏との出会いによって民芸の道にはいられた柳先生のお弟子さんでもあります。
「柳先生に私は、『その道に一生懸命、迷わず努めていれば、優れるものは優れるままに、劣れるものは劣れるままに、必ず救われることを確約する』と教えられたのですよ」・・・と。
池田先生はよく柳宗悦のお伴をして松本の町を歩かれたといいます。時々周辺の山々を見渡せる丘に登っては、ただじっと一点をみつめたまま長い間考え事にひたっている宗悦の横顔を思いだされると話してくださいました。
「あの頃の柳先生はいつも『自然というものは、仏か、仏でないか』と同じ言葉を呟いていらした」
そのエピソードに、いつも神の宿る自然というものに敬虔な気持ちを抱きながら、深い思索を繰り返していたであろう、ありし日の柳宗悦の姿がしのばれます。また同じく宗悦に心酔していた版画家の棟方志功は同じ丘にのぼりながら「自然以上の自然が描けたら、それがまさに芸術と呼ぶに値するものなのだろうなあ」と繰り返していたといいます。
私の目の前で、ストーブに薪をくべながら池田先生は、「一本のねぎにも、一本の大根にも、この世の自然の創造物のどんなものにも美があるんだ。問題は、人間がそれを美しいと感じる心を身体で会得しているかどうかなんだ」と淡々と語られました。何も問わずとも私の心の内を見抜かれているようでした。
平成11年12月15日。池田三四郎先生はその生涯の幕を閉じました。
松本の町にはそんな精神・文化が今なおしっかり受け継がれています。朝、喫茶店に入ると初老の方々が珈琲を飲んでいるお姿に「いい町!」と思わず呟いてしまいます。
松本市内は時間があれば、のんびり散策ができる広さです。国宝松本城へは松本駅から徒歩20分余り。その松本城二の丸跡にある博物館。途中昔の城下町の風情を残す縄手通りの商店街は千歳橋の左手女鳥羽川沿いに広がる古風な感じの商店街。お店は江戸時代風の建物で懐かしくそして楽しいお店が約40軒。白と黒のなまこ壁が美しい蔵造りの中町通り。ここは、かつて善光寺街道として大勢の人びとが往来した歴史ある道です。土蔵造りのノスタルジックな町並みが広がっていますが、モダンなカフェやクラフトのお店などもあり楽しいエリアです。

さすが、工藝の町です。そして故丸山太郎氏が、日常の生活用品にある逞しい美に魅せられて収集した民芸品が展示されている松本民芸館。駅からも近いアートミュージアム。城下町松本はこんこんと湧き出る名水の街。いたるところに名水が今も湧き出ています。
“われらの青春ここにありき”旧制高等学校記念館はあがたの森公園にあり懐かしい気分に浸れます。(国の重要文化財に指定されています)
明治9年に建てられた旧開智学校(昭和38年まで小学校として使われていた)。そして深志神社は暦応2年(1339年)の創建で古くからの由緒正しき神社。私が訪れた時は境内に真っ白なやまぼうしの花が満開でした。信州手打ちそばのお店もいろいろあります。
8月8日(土)には国宝松本城で薪能が開催。さぞかし幽玄な世界のことでしょう。また8 月22日(土)にはサイトウ・キネン・フェスティバル松本で「武満徹メモリアルコンサート」が開催されます。
近くには「日本書紀」に登場する名湯・美ヶ原温泉、松本の奥座敷・浅間温泉、市内を巡るバスが松本駅バスターミナルを拠点に色々なコースがありとても便利です。(1乗車大人190円/1日券大人500円・小児半額)
街を歩いていると住民の方々が気軽に声をかけてくれます。そんな触れあいとやすらぎの街・・・松本をご紹介いたしました。
【旅の足】
《電車・JR松本駅》
東京(新宿)から中央東線(特急2時間30分)
名古屋から中央西線(特急2時間)
大阪から新幹線・中央西線(特急3時間10分)
《車》
中央自動車道経由→長野自動車松本IC
《飛行機》
大阪から55分
福岡から1時間35分
札幌から1時間35分

NHKラジオ深夜便「大人の旅ガイド~日本の故郷を歩く」

今回ご紹介するところは、静岡県賀茂郡松崎町・石部地区です。
松崎町は人口8,200、戸数3,150の小さな町です。昭和10年以前に建造された外壁が海鼠壁(なまこかべ)の建物が200軒ほど現存しています。
伊豆半島西南部に位置し、三方を天城山稜に囲まれ、西に駿河湾を望み、
屈曲に富む海岸線は富士箱根伊豆国立公園に指定されるなど、豊かな自然は訪ねると心が安らぎます。その松崎町の中心部から5キロほど南下した場所に石部地区の集落が広がります。
この集落は、昭和30年頃まで約18haの棚田がありました。しかし、高齢化、
労働力不足、減反政策などにより耕作放棄地が進み、猿や猪などの有害鳥獣被害の拡大などもあり、荒れ放題となり山林原野化してしまったのです。
石部の棚田が歴史的文献に現れたのは文政7年(1824年)、今から185年前のことです。この年に大規模な山津波が石部の棚田を襲い、ほとんどの棚田が崩壊したと記録にあります。棚田の年貢は免除され、約20年もの長期に渡る過酷な作業により、現在の石積みの畦道を築きあげており、先人の努力や苦労がしのばれます。
「何とかしなくてはいけない・・・この棚田を守っていかなければ」との住民の思いが結集します。
ここまでくるのには並大抵なご苦労ではなかったはずです。反対もあったでしょう。しかし、地元区では「棚田保全推進委員会」が発足し草刈や石垣の補修などが行われ、平成12年5月には田植えを実施、実に十数年ぶりに棚田がよみがえりました。
「日本の原風景・棚田」が脚光を浴び、静岡県の「棚田等十選」に選ばれました。
この石部の棚田は「百笑の里」とよばれています。標高120m~210mのなだらかな傾斜地にあり、駿河湾を眺み、遠くには富士山や南アルプスの山並みを見ることができます。棚田一帯には、図鑑にでている草花や鳥や昆虫と身近に接することができます。
以前お邪魔した時にはなかった交流施設(休憩所・水車小屋など)ができていました。交流棟は松崎らしく、海鼠壁をいかした建築様式で棚田の風景にマッチし、電気はソーラーパネルと風力発電を利用し、環境も考慮した美しい建物です。囲炉裏を囲んでの会話はさぞかしはずむことでしょう。
平成14年からオーナー制度を開始し、現在105件の応募があり、
このオーナーによって、田植えや稲刈りが行われています。
私は知っています。
お米作りの大変さを。
ましてや棚田です。
一枚が小さく、機械が入らない田もあります。
私もかつて10年間、福井県若狭三森に古い農家を移築し、田んぼをお借りして、師匠の松井さんご夫妻に農業のイロハを手ほどきいただきました。私の田んぼはわずか7畝(1反弱)ですが、松井さんたちのおかげで、美味しいお米を育てることができました。
手植え、手刈り、はさかけ・・・。その間の水の管理、草取り、様々な作業があります。また米作りにともなう農村の営みと、折々の機微を教えていただきました。花一本、草一本、虫一匹にも役割があることを、しみじみ感じとれた経験でした。
今回も石部棚田保全推進委員会、代表の高橋周蔵さんにお会いしました。
この地域の活動のキャッチフレーズは
「子どもに夢を 老人に生きがいを」です。
「このような美しい棚田をよみがえらせたのは、静岡県内の学生さん、ボランティアの方々のおかげです。活動を通じ、地域住民も棚田を貴重な地域資源として、都市住民との交流をはかり楽しく守っていきたいです。」とおっしゃる周蔵さんのお顔は輝いていました。

地元民宿などの観光業と連携したグリーンツーリズム組織も整ったようです。6月に入ると沢沿いに蛍が舞いはじめ、夏にはカブトムシ、セミ等昆虫が捕り放題とのこと。子供にはたまりませんね。
棚田米は天城山からの伏流水と完熟堆肥により美味しいお米がつくられるのです。また、棚田の黒米を使った焼酎・うどん・パンなども作られています。
これからの美しい集落づくりは、ただ生産の場としてだけではなく、グリーンツーリズム、エコツーリズムの拠点として”みんなの財産”という概念が必要だと思います。
先日16日、17日の週末に田植えが行われました。小さなお子さんから大人まで105組総勢550人が集まり、田植えを楽しみました。田植えの後には地元の方々が美味しいおにぎりでもてなしてくださったそうです。夕日に染まる棚田、伊豆西海岸の夕日と棚田の風景は心の故郷です。

そして、松崎町は見どころいっぱいです。古き良き明治の街並みが楽しめます。海鼠壁の建物はよく見ると左官職人の見事な技を感じます。この技術の保存のため、「松崎夢の蔵(仮)”蔵つくり隊プロジェクト”」が発足し、後継者育成に取り組んでいます。タイムスリップしたような感覚になる街です。
那賀川沿いの時計塔と明治商家・中瀬邸はレトロなデザイン。
外観をそのままに室内は喫茶スペースとなっています。
国の重要文化財、岩科(いわしな)学校。
露天風呂・温泉健康施設(こちらは明治初期まで呉服屋を営んでいた旧商家が現在無料の休憩所として開放され、足湯も楽しめます)

今回は静岡県賀茂郡松崎町石部地区と松崎町をご案内いたしました。
【旅の足】
列車では
東京~熱海(新幹線55分)~蓮台寺(伊豆急1時間30分)~松崎(バス40分)
東京~蓮台寺(直通電車2時間50分)~松崎(バス40分、30分間隔)
東京~修善寺~松崎(バス1時間45分、40分間隔)
船では
清水港~土肥港(駿河港フェリー65分)~松崎(バス40分)
車では
東名沼津ICより三島経由国道136号。
松崎72km(下田より27km)
松崎から石部までは西伊豆東海バス
0558-42-1190
松崎町観光協会
0558-42-0745