浜 美枝の「いい人みつけた」その3

大塚末子さん

私は40歳のときに演じるという女優を卒業し、新たな道へと進みました。

”自分の感じとった感性が一番尊い。その感性で種々の職業につくべきである”という言葉は日本の農民美術の指導者・山本鼎の教えです。この言葉は長野県上田市の神川小学校の入り口に掲げられています。

16歳で女優になり、不安にかられるとこの言葉にふれたくて、何度もこの小学校の前に立ち、この言葉をあおいだことがあります。

暮らしの中で、絶対だと思えるときがいくつもあります。子供を生んで、その可愛さにひたると、私は一生、母親で生きようと思う。しかし、三~四年すると、どこかムズムズと外の社会で働くことを思い出し、一瞬、子供の可愛さがうとましくなる。”絶対”と思えたことがどんどん動き変化していく・・・

どれが本当の自分で、どう在りたいのかを見失うこともあります。成長して変化していくのが人間ですから”絶対”と思えた中で生きにくくなったら、少しタガをゆるめて、少し柔軟に、もっと自分を許して、自分をラクにしてみる・・・

そんな呼吸法をみつけられたのは40代になってからでしょうか。それはある先輩の女性から大切なことを教えられたからです。

”嵐の中を生き抜くのって本当に大変。でもこれだけは確実に言えるわ。嵐を抜け出てきたほうが、後半、いい顔を持っているわよ”と。それからです。年上の素敵に生きている女性に出逢いたいと心から願い、お逢いしてきました。おかげさまで、ラジオの仕事は30代後半から現在も続いております。

大塚末子さんも、そのおひとりです。

大塚さんは「大塚末子着物学院・テキスタイル専門学校」という二つの学校の校長先生でいらっしゃいました。収録時は82歳。グレイの素敵な、上下別々のお召物と、赤と黒のスカーフ。おぐしが真っ白で当時このような着物の着かたをなさる方はいらっしゃいませんでした。

”針一本と残りぎれからの出発。・・・48歳での一人立ちでした”

未亡人になられて、それから着物学院その他のお仕事を始められた大塚末子さんの活動は私にとって当時眩しいほどのご活躍でした。

「伝統というのはただ守るだけではなく、積極的にこの現代に生かすことです」と82歳になられても意欲的に仕事をなさる大塚末子さん。私は今年40歳になりまして、大塚さんは82歳。こんなに美しくいられるっていうのは、憧れと同時に私たちの夢なんです。女の美しさってどんなふうに感じられますか?と当時の私はお訊ねいたしました。

「私、一番気をつかっておりますのは”健康”であるっていうこと。頭が白くなって、それからシワがよって、シミができる。これは仕方がない老人のシンボルでしょ。これをどうこうしようというより、やはり心身が健康であることが、一番私にとって大事なことかと。」

「私は針一本。残りのわずかなこの布(きれ)の中から何かをつくろう、こうしたならば子供たちが喜ぶであろうとか、こうしたものができるんじゃないかとか、これはささやかな自分の経験からでございますけれど、みんなあまりにも一つの規格の中に追いやられている。これは政府が悪いんですか個人が悪いんですかわかりませんよ。何かそういうものの考え方を考え直さなきゃ嘘ですね。」

「やはり老いたる者がああして欲しいという要求を持つよりも、若者から尊敬されるものを、老人は老人として考えていかなければいけない。自分だけが哀れっぽくなっちゃいけない。自分を幸福の神様見てくれてないんだというような、そういう心を持たないことが一番大事ではないかと。誰かが何か見ててくださる、そういうことを考えますと、この人にお世話になったから、この人に何かしなくちゃいけないじゃなくて、何かやはり生きていく限りつまずいた石ころにも一つのご縁があったのじゃないかしら、と今、思いますね。」

40年近く前のお話しです。さりげない言葉の裏側に大変なご苦労をなさって生きてこられた大塚末子さんのことばに優しさを感じ、胸が熱くなりました。大塚さんは「お陰さまで」ということばと「させていただく」ということばを何度も使われました。「いいひとを見つける」ためにはとても大事なことだと教えられました。

天は二物をお与えになった。いえ、三物かもしれない。美しさと自立した精神と、素晴らしいクリエイティブな能力。そして柔らかな腰の低さ。

40歳だったあのころ、現在77歳になった私。
少しでも大塚末子さんに近づきたいと心から思いました。

浜 美枝の「いい人みつけた」その2

画家・安野光雅さん

安野先生が昨年のクリスマスイブに亡くなられました。

先週の淡谷のり子さんに続き、今回はその安野先生を心から偲びたいと思います。

箱根の家の本棚には、先生のお描きになった絵本がたくさん並んでいます。「旅の絵本」「ABCの本」「あいうえおの本」「野の花と小人たち」・・・先生の絵本は私の大切な本にとどまらず、子供たちの宝物でもあるのです。

先生のお描きになった絵本は不思議です。子供たちと一緒に”安野ワールド”を楽しみながら、まるで違う出口にたどり着きます。絵本という入り口から入ったはずなのに、あるときは哲学や文学、またあるときは音楽、そして、歴史の書物を読み終えて出てくるような感覚になるのです。一冊の絵本の中に、どのような秘密が隠されているのか?ぜひ、お逢いしたい!そんな想いが、ようやく叶いました。

1984年春の収録でした。淡いモスグリーンの素敵なセーター姿で先生はスタジオに現れました。

”子どものときに虹をみたのです。生まれ育った島根県の津和野の虹。それが私を絵描きにしたのかもしれません”

その虹が、絵を描く最初のエネルギーになったわけですか?と私。

「いえ、それはできすぎですが、小さな頃の思い出という思い出を全部集めてね、たぐり寄せた結果、子供の時に虹を見た思い出が一番最初だった気もします。とても鮮烈だった。」

それは何歳くらいの頃ですか?

「4つか5つの頃ですね。」

津和野のイメージというと日本的な風景を思い浮かべます。安野さんのお描きになる世界は日本的というよりヨーロッパの風土を感じるのですが、生まれた土地と描く世界とは、違うものなのでしょうか?

「津和野という所は盆地ですから、周りが全て山、山、山ですから。山の向こうはどうなっているんだろうと強く思いますね。山に囲まれて育った人間でないと、分からないかもしれない。山に囲まれていることは、限りなく山のかなたへの夢をふくらませてくれるものなのです。気持は盆地の中になく、外へ外へと行くような気がするんです。多少キザな詩がありますね。山のあなたの空遠く・・・・、あれなんぞはね、津和野の少年にはほんとに心にしみる詩でした。あの山の向こうはアメリカ、こっちはイギリス・・・行ってみたいなと思っていたわけです。」

そして、先生は虹を見た。津和野の輝くばかりの自然を・・・。

「子供のときに見たもの、驚いたもの、感動したものを、大人は摘んじゃいけないね。あ、いけません!やっちゃダメなんて!子供の好奇心ほど強いものはありません。」

安野さんの旅の足跡を、私たちは『旅の絵本』で見せていただいていますが、去年(1983年)できた本はアメリカでしたね?

「アメリカを東から西までうろうろしましてね。印象的だったのはアトランタ。南部の大都会です。」

私はまだ一度も行ったことがありません。『風と共に去りぬ』の舞台ですね。クラーク・ゲーブルとビビアン・リーの名場面が忘れられません。

「あの町は南北戦争の激戦地でした。南軍が町に火をつけて逃げ、そこへ北軍が攻め入り、町は完全に焼け野原。キング牧師の家もあります。平和な黒人運動の推進者で、後に暗殺されて死んでしまったキング牧師。あの人の言葉で、僕が読むと涙が出てきてしょうがない演説があるんです。浜さん、読んでいただけますか。」

読ませていただきます。

「わたしには夢がある。
いつの日かジョージアの赤い丘で
かつての奴隷の息子たちと、
かつての奴隷所有者の息子たちが
兄妹愛のテーブルに共にすわるという夢が

わたしには夢がある。
いつの日かわたしの4人の子どもらが
肌の色ではなく
その品性によって評価される国で
生活するという夢が。」

「ワシントン大行進という人種差別反対の大行進は、長蛇の列だったそうです。そのときにキング牧師はこの演説をして、みんな涙を流して行進したそうです。僕も今でもそれを読んでいると涙が出てくるんです。去年ですか、やっと彼の碑ができて、彼の暗殺された日は、永遠に忘れられない日として決められたそうです。歴史というものは悲しいものですね。歴史的に見れば日本にも偏見はあったわけですから、一概にはいえませんけれど。アメリカ史とは、差別の歴史だったような気もする。インデアン、黒人問題、など、いまだに差別意識をもっている人もいるし。でもね、そういう人がいることを知り、そういう人が少なくなったことを知るのも旅なのでしょうね。行って、見て、感じてわかることがいっぱいあるんです。」

(放送の一部を再録し、本”いい人みつけた”から。)

『旅の絵本』シリーズは、そうした先生の旅の実感を描き続けているのですね。

先生は少年だった頃の自分と、現在大人である自分とを合わせ持っていた方なのでしょう。キング牧師の演説に瞳を濡らす姿をマイクの前でお見受けし、その熱き心に、ほんの少し触れさせていただきました。

40年近く前の会話が思い出されます。数日前に政権が変わったばかりのアメリカ、そしてコロナ禍の収まらない世界。
先生は今、何を感じていらっしゃるのでしょうか。

安野光雅先生、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

浜 美枝の「いい人みつけた」その1

現在の文化放送「いつかあなたと」の前、1983年から14年ちかく、TBSラジオで番組をもたせていただいておりました。

放送が開始されて一年あまり、お逢いした方は80人になろうとしていました。月曜~金曜で10分ほどの番組でした。

ゲストをお招きし、その方々のお話が素晴らしかったので一冊の本にまとめました。私がうかがった”いい話”をどうしても独り占めしたくなかったのです。頁の都合ですべての方のお話をお載せできませんでしたが、どの方のお話しにもその方ならではの人生のかくし味がしのばれました。

現在コロナ禍の中で読書は欠かせません。本棚から見つけた本の中の”いい話”をみなさんと共有したいと思い、今月はそんな素敵な方のお話です。

誰にとっても人生は出逢いの連続です。誰かと出逢うことで知らされる道しるべの多いこと!自分が熟慮と綿密な行動計画で歩く道を選択しているかというと、決してそればかりではなく、ある日、ふと出逢った人に人生の重要なヒントを与えられ、そこから違う生き方が開けてくるようなことがあると思います。

私などは、その最たるもので、一人の考え休むに似たり。多くのことを、多くの人に教えられて、今日まで何とか歩いてこられたように思えるのです。伺ったお話は1983年から84年です。

淡谷のり子さん(1907-1999)
日本のシャンソン界の先駆者。
愛称は「ブルースの女王」

今でも、あの香りは忘れられません。

淡谷さんがスタジオに入っていらしたらとてもいい香りがしたんですよ、と私。

「音大を出て、世の中にでましたの。クラッシックやってましたけど、レコーディングすることになって、もちろん流行歌ですが、レコード会社で少しまとまったお金をいただいたので、まず買ったのが香水なの。そう、香水と帽子と靴と。着物に帽子をかぶってた人もいたわ。香水は”黒水仙”が好きなの。日本にはなくてフランスへいらっしゃる方に頼んでね、たった一軒あるんですって。それもなかなか売らないんですって。」

喜寿のお祝いをなさったばかりの頃のインタビューでした。ほとんどシワがないお顔でした。

「シワがない顔なのよ。ペタッとしちゃって。凸凹がないでしょ。凸凹のある人ほど、きれいな人ほどシワがあるんですよ。でも人さまの前に出るから、週に一度は全身美容には通っています。」

「母は十七歳で私を産んだのかな。よく本読んだり勉強していましたね。新しい女のいく道。平塚らいてうさんだとか、ああいう方たちの本を読んで、隠して読んで、本も読ませないんだから。商人は学問はいらないって。で、三十を過ぎて私達を連れて東京に来て、自分で働いて学校に入れようと思ったんですって、でも贅沢に育った母は半年でお金がないの。でも、貧乏しても子供たちには教育を受けさせたかったって。あの母があったから私がいるんだと思いましたね。何が悲しいって、母との別れが一番悲しかったですね、私。」

淡谷さんの男性観、結婚観みたいなものは、ご両親の生活から影響があったのですか。

「ありますね。ずいぶんありますね。私これでも結婚したことがあるんですよね。一度だけ。とってもね、私には合わないのです。合わないので失礼しましたけどね。私ああいうこと、嫌い、結婚は。歌が大切なの。奥さんになるには才能がなければ駄目。私はそういう才能はなかったですよ。とにかく歌だけきゃ駄目なの私。五十四年歌い続けて壁にぶつからなかった、悩まなかった。ぶつかったのは戦時中ですね。それでも戦争中もやっていましたから。警察と軍隊にずいぶん始末書書いたりしましたよ。おしゃれしちゃいけない、モンペはけとか・・・みっともない格好してステージはでられませんから、ちゃんとイブニングドレスで最後まで、何と言われても。”非国民”だとか言われましたよ、ずいぶん。あれも歌っちゃいけない、これもいけないと言われて、外国の歌はね全部駄目なの。許されたのはアルゼンチンタンゴだけ。だから日本語でアルゼンチンタンゴだけ歌いました。」

慰問先でも夢を与え続けた淡谷のり子さんが、喜寿を迎えておっしゃいました。

「なんとしても、今まで長いこと歌ってきましたね。でもどうしてもこれからクラッシックをもう一ぺん勉強したいと、そんな夢を持っているんですよ。もう一度勉強したいんです。」

クラッシックは、淡谷さんの郷愁みたいなものなのでしょうか。

「そうなんです。郷愁なのです。でもね、普通あるところまで人生いくと、特に女性はね、もうこれでいいや、もうここまでやったら満足だ、と欲望やロマンから遠ざかっていきがちですね。美しく年をとりたいの、私。無理しないで、だけど年とったからとか、あまり考えないほうがいいですよ。それ隠すでしょ、女性は、特に年は。隠さないで出せばいいのです。私はいくつなのよ今年は、って言ったほうが楽になりますよ。」

最後に”愛されるということよりも、愛することって幸せじゃないかと思うんです”・・・と、おっしゃいました。

歌手生活五十余年、一貫してご自分の哲学を通し抜いた姿に深く感動すら覚えたことがよみがえります。

そして淡谷さんの歌。
いつかあるところで聴いた『恋人』。

いまだに耳の底に残っています。歳月を超え、世代を超え、男も女も超えて、そこに集う人々の心の中を縫っていきました。淡谷さんが歌い終わった瞬間、怒涛のような拍手がわきおこり、拍手するその手で涙を拭っている人が大勢いました。もちろん私も。一人の女性の人生を通して歌われる歌の大きさ、深さに興奮し、その夜は眠れませんでした。

(YouTubeで淡谷さんの歌、お話しが聴けます)

静かなお正月

早いものですね。新年もあっという間に一週間が過ぎました。どうか穏やかな一年となりますよう、心からお祈りいたします。

賀状や年末年始のカードには、皆様のいろいろな想いが綴られていました。こんな文章が、ドイツから届きました。

「いつの日か、すべてがうまくいくでしょう。
それは、私たちの希望です。
いま、すべてがうまくいっている。
それは、私たちの幻想です。」

フランスの哲学者の言葉が引用されていました。世界中がいま、同じ苦しみに耐えているのです。

毎年、年末年始になると列車や高速道路がどんなに混んでも帰省を繰り返すのも、せめてお正月だけは、幼いころに育った家に戻って、家族や幼なじみと交流し、お互いの健康を確認しあう、そんな当たり前のことが出来ない年末年始でした。

”当たり前のこと”

実はとても尊いことであり、またそうした平凡なことに幸福を感じられることが、健康な人生という気がします。民俗学者の宮本常一は「文化は足元にあり、足元から生まれる」とおっしゃっていますが、当たり前の暮らしが出来ない・・・それはとても息苦しく、辛いことです。

子どもたちが幼い頃はおせち作りと年越しの行事を終えるまではただただ忙しく、ほっと息つく間もないほどせかせかと時間に追われて過ごしたものです。でも、子ども達が成長するとお正月を迎えるために重ねてきたさまざまな仕事の手順を自然に覚えてくれていて、参加してくれていました。

ラジオから流れる除夜の鐘を聴きながら、囲炉裏を囲んで家族がそろい、電気を消して、飛騨古川の三嶋ろうそくの揺れる光のなか、年越しそばを啜るとき、何も語りあわなくとも自然にひとつになっていました。帰省を見合わせた方々は、形は違えども ”ふるさと” への想いは一緒でしょう。

今年はとても静かなお正月でした。例年ですと元旦の明け方、空が茜色に染まるころ箱根神社に初詣に行きます。その代わり今年は毎朝の早朝ウオーキングで元旦の日の出前に雑木林を抜け冬ざれの中、湖へと向かいました。

空には月が湖を照らし、霊峰富士がかすかに姿を見せてくれました。「なんて美しいのかしら」帰るころには青空も見え「初晴」でした。

「どうぞ どうぞ早く穏やかな日常が戻りますように」と三が日が過ぎ初詣に行き祈りました。

2日3日は毎年箱根駅伝の選手たちをゴール近くで応援するのですが、今年は沿道での自粛要請が出ておりましたので、家でラジオ、テレビでの応援でした。通常は各校の応援団の太鼓などの音が響く中、選手は飛び出していくのですが、3日朝は静かな復路スタートとなり無人の山中を駆け下りていきました。

そしてお正月は、松の内に上野の寄席に新春落語を聴きに行き”初笑い”をして一年が始まるのですが、今年は我慢しました。静かなお正月でした。

緊急事態宣言が1都3県に発令されました。
皆さまどうぞご自愛くださいませ。