映画「 AUDREY 」

美しすぎるヘプバーン。
でも彼女は、ただ美しいだけの存在ではありませんでした。
子どもの頃から抱え続けた喪失感。

それは親の離婚と父に去られてしまったという、癒しきれない心の空洞でした。彼女はその傷と最後まで伴走したのです。

本人はもちろん、多くの友人や知人が彼女を語り尽くしたドキュメンタリー映画に出会いました。

『オードリー』
素晴らしい作品でした。

バレーダンサーになることが夢だった彼女は、ふとしたきっかけで映画の世界に足を踏み入れます。そして、主演した『ローマの休日』でアカデミー賞・主演女優賞に輝いたのです。24歳でした。追いかけるカメラマンやマスコミ。殺到する映画への出演依頼。そんな華やかさの中で彼女は唯一人、冷静だったようです。  

家族を持ちたい!
子どもを抱きしめたい! 
世間の喧騒を意識的避けながら自分の夢をつかみ取ろうと、もがき続けたのです。

デザイナーのジバンシィに可愛がられ、ファッションのアイコン(偶像)とも言われた彼女は静かに自分の心の中を見つめていたのでしょう。残された多くの映像や音声が恐ろしいほど正直に彼女の姿を追いかけています。  

生きる意義? 幸せとは? 愛するとは?
自分を隠せなかった彼女は、スクリーンに”等身大”の”彼女自身”を表現してくれました。  

私が22歳の時、映画の撮影でロンドンのドーチェスターホテルに滞在しておりました。そこに現れたのがヘプバーンさん。ジバンシィのベージュのコートを身に付け、ホテルに入ってきました。

11月のロンドン、美しい人でした。美しい笑みでした。そして、30年以上前、彼女が来日した時のことです。東京駅の新幹線のホームで人々のざわめきが聞こえました。大きなスーツケースと共に彼女が歩いていきます。同行の日本人スタッフが”持ちましょう!”と話しかけると、彼女は”いいえ、ありがとう自分で持ちます!”と答えました。

その優しい声を今でも覚えています。地に足を着け、凛とした姿が目に焼きついて離れません。   輝き続けた一人の女性の人生。彼女の”まとめ”はやはり、国連のユニセフ支援活動でした。

優しさと決意が同居した彼女の眼光には物事をやりとげようとする人間の確かな熱意があふれていました。  

彼女の声が流れます。貧困や飢餓に苦しむ世界の子どもに対し、「私に罪はない。しかし、責任がある」。 彼女が苦難の末にたどり着いた地平だったのでしょう。

客席は9割以上が中高年の女性で占められていました。静かな共感が広がった館内。 ヘプバーンの生き方を改めて見つめ直し、心の叫びを聞くことができたと思います。  

美しく、そして愛(いと)しい人に感謝いたします。

映画公式サイト https://audrey-cinema.com/

箱根の自然とアート

身体の隅々まで良質な酸素が行き渡り私をリフレッシュさせてくれる箱根の大きな自然。その場が持つ力に抱かれるような気持。このコロナ禍での暮らしは「ゆったりのペースを取り戻す」時間でもあります。

時間の過ごし方にも変化があります。今まで必要だと思っていたスピードなどに対する思いが、薄皮をはがすように変わっていくのですが、私にとってはとても新鮮です。  

今、箱根は初夏の花が咲きはじめ、それを見て、”きれい…”と感じるような、ささやかなことの積み重ねを大切に、自分らしく暮していきたいと思います。

先日のんびり一日箱根を散策し楽しみました。バスを乗り継ぎ、強羅から”こもれび坂”で下車し、徒歩5分のところにオープンした「ニコライ・バーグマン 箱根ガーデンズ」に行きました。

フラワーアーティスト、ニコライ・バーグマンさんは20年以上日本を拠点に活動し、和と洋を融合したデザインで常に新しいアートを提案しています。

デンマーク、コペンハーゲン出身のニコライさんは日本の自然にも魅せられ、休日に箱根・強羅を訪れた際、手つかずの自然がそのまま残る、自然と一体になれる場所に巡りあったのです。それが、「ニコライ・バーグマン箱根ガーデンズ」です。

8年の歳月かけ整備された庭ですが、私にはよく分かるのですが、”自然と調和”した庭を完成させようとおもったら20年、30年の歳月が必要です。きっと、少しづつ、手と心をかけて創り上げていくことでしょう。  

木々の間を小鳥が飛び交い、坂道の多い園路には枯れススキやクマザサが敷かれ、ふんわりとした感触が心地よいです(ただし、滑りやすいので注意。雨の日は長靴を貸し出しています)。

入り口には素敵なカフェ。バラや紫陽花の鉢植え。竹と石の組み合わせのオブジェ。ニコライ・バーグマンさんは言います。『誰もが楽しめる空間をつくると同時に、この土地と自然の恵みを大切に育てていきたいと思います』と。

これからガーデンは時間をかけゆっくりと箱根の自然に溶け込み四季折々楽しめそうです。秋にはまた来たいわ!と思いました。また私の楽しみな場所が生まれました。  

そして、バスで6、7分ほどのところに「ポーラ美術館」があります。
「開館20周年記念展 モネからリヒターヘ」が開催されています。

今までのコレクションに加えて20世紀の現代まで。私は「ウイルヘルム・ハマスホイ」の”陽光の中で読書する女性”が見られて最高に幸せでした。会場は(写真可)が多くあり皆さまにご覧頂きたいです。  

自然の美、人の生み出す美、感動する融合の時間でした。

特別展「空也上人と六波羅蜜寺」

改めて、ご尊顔を拝したい。気がついたら、上野の山におりました。これまでも、お目にかかったことはありました。およそ50年前と10年前。でも今回は特別です。なぜなら、あの空也上人を前後左右から自由に眺めることができるのですから。


京都の六波羅蜜寺から東京へ移動するのは、半世紀ぶりとのことです。  

空也上人は平安時代中期の方ですが、その頃の社会は戦乱や疫病の蔓延などで人心が乱れていました。それを見た上人は、念仏を唱えながら京都の町を歩き回ったのです。人々にひたすら寄り添い、世の安寧を祈ったのですね。  

「空也上人立像」の前に進みました。上人の口から飛び出す六体の像は仏さまで、”南無阿弥陀仏”の六文字を表しています。正面から眺める表情は、驚くほど臨場感に溢れていることを改めて知らされました。

そして今回、初めて見ることができた後ろ姿や左右からの様子には、思わず息が止まりました。足の筋肉、皮の衣装の皺。生きている!今にも歩きだしそう!と錯覚するほど、物音一つしない、静かな動きが感じられたのです。

この「空也上人立像」は、東大寺南大門の金剛力士像などで知られる天才仏師・運慶の四男、康勝によって鎌倉時代に作られました。つまり、空也上人が亡くなってから200年以上も経過した時代の作品なのですね。

写真も存在せず、肖像画も残されていないのに、なぜこのような写実的表現の傑作が誕生したのでしょうか。  

200年の時が過ぎ、鎌倉時代になっても上人の存在は広く知られていたのですね。上人は疫病撲滅のために念仏を唱え歩いただけでなく、衛生面での対策にも心を砕いたようです。新しい井戸を掘ることを勧めるなど、科学的な知見も伝えました。人々にとことん寄り添ったのです。  

慕われ崇められた上人は仏師・康勝の精神と技量によって、極めて写実的な”空也上人立像”として鎌倉時代に姿を現しました。そして、この立像は1000年経った現在も、われわれの姿を見つめ続けています。  

改めて、空也上人のお顔を見てみたい。いや、お顔だけではありませんでした。後ろ姿も足も筋肉も、そして身につけている衣まで、全てが上人その方を物語っていました。

空也上人の祈りと思いは、そして康勝の感性と想像力は遥か時空を超えて私たちの心に届いています。この特別展は5月8日で幕を閉じました。またの機会を、早くも心待ちにしております。戦乱や疫病の広がり・・・世の中は今も、それほど変わっていないのかもしれません。  

メルケル~世界一の宰相

ウクライナの先行きが見通せず、世の中が憂鬱な気分になりがちな今、読んでよかったという本に出合いました。

知人が送ってくださった、「メルケル世界一の宰相」(文藝春秋社刊)。16年も続いたドイツの首相の座を昨年退いたメルケルさんの評伝です。  

今から68年前、当時分断されていた西ドイツのハンブルグで教会の牧師の娘として生まれたアンゲラ・メルケルさんは、父親の”転勤”で東ドイツへ引越します。父は社会主義国で布教活動をするために、進んで”敵地”へ向ったのです。

学生時代のメルケルさんは社会主義とは距離を置きながら、懸命に勉強を続けたようです。大学では物理学を専攻し、科学アカデミーで専門職に就き、博士号まで取得した極めて優秀な研究者でした。

しかし彼女が35歳の時、ベルリンの壁が突然崩壊したのです。メルケルさんは直ちに”西”へ移りました。暗く澱んだそれまでの社会や環境から飛び出し、自由を求めて羽ばたいたのです。理科系の研究職に別れを告げ、政治の道へ大きく舵を切りました。  

しかし、自ら求めた世界とはいえ、それからの道は”いばら”だらけでした。統一されたドイツには、メルケルさんにとって”三重の足枷”が待ち受けていたのです。それは、「東独出身者、理系、女性」でした。それらとどう向き合い、そして歩んでいったのか?この本のかなりの部分は、メルケルさんの”足枷”との闘いの記録でもあります。

しかし、その姿は決して大声を出すものではなく、派手なパフォーマンスに彩られたものでもなかったのです。   彼女が知力・体力を駆使して向き合ったプーチン大統領、習近平主席そしてトランプ前大統領・・・。彼らと対話を繰り返したメルケルさんの冷静で論理的、かつ腹の座った姿勢が目に浮かびます。  

この本のハードカバーには、興味深い写真がプリントされています。4年前にカナダで開かれたG7サミットの席上、首脳宣言のとりまとめをめぐり異議を唱えるトランプ大統領を一人で懸命に説得するメルケルさんです。彼女の面目躍如たる姿です。このシーンをカバーにした編集者のセンスは本当に素晴らしいです。  

著者は旧東欧圏・ハンガリー生まれのカティ・マートンさん。米・ABCニュースの元記者で、彼女の祖父母や両親は亡くなったり拘束されるなど、大変な苦労を経験しているのです。

口の堅いメルケルさんから少しでも心の内を聞きだせたのは、マートンさんの強い意志の反映なのかもしれません。  

メルケルさんに迫ったマートン記者。そして、日本語翻訳者の一人は森嶋マリさんでした。女性の女性による、女性のための本「メルケル」、もちろん男性にもお勧めです。

歴史に”もし”はありませんが、今、メルケルさんが首相をやっていたら?と、つい夢想してしまう読後でした。  

翻訳者の森嶋マリさんにラジオにご出演いただきお話しを伺うことになりました。

文化放送「浜美枝のいつかあなたと」
放送日 6月5日 
日曜日 9時30分~10時

「明日への祈り展」ラリックと戦禍の時代

ルネ・ラリック(1860-1945)が生きた20世紀は、世界が大きく揺れ動いた時代でした。1914年に世界大戦が、1939年には第二次世界大戦が勃発し、多くの命が奪われました。

大戦中は作品を制作することは叶いませんでした。そのような戦禍の中でラリックは国会からの要望で、兵士や戦争孤児、そして当時流行していた感染症・結核を患った人びとの生活向上のため、チャリティーイベント用のブローチやメダルを制作し、売り上げが困窮者へ寄付されたそうです。

『芸術で人びとの心を豊かにしたい』というラリックの願いが込められています。今回の展覧会は「箱根ラリック美術館」 で3月19日~11月27日まで開催されています。

フランスの苦難の歴史と戦争で傷ついた人びとのため、ラリックが制作した作品の数々が展示されています。

テーマは ”祈り”です。

コロナウイルスの収束がみえないなか、ロシアがウクライナへの軍事侵攻を開始してから2か月がたちます。21世紀を生きる私たちも、何かに祈り、明日への希望を見出し、傷ついた人びとの心にそっと寄り添ったラリックの作品を見ながら ”祈り”を捧げたいと思います。

私は、ルネ・ラリックの作品がとても好きです。なかでもグラスはどれも造形的に美しく、思わず手にとってしまいたくなります。

ルネ・ラリックは当初、アール・ヌーヴォーを代表する宝飾品の作家として名声を博していました。豪華なダイヤモンドやルビーではなく、エナメル(七宝)細工や金といった身近な素材を使い、花や昆虫など身近なモチーフに、軽やかで繊細なアクセサリーをつぎつぎに発表しました。

彼の作品は、それまでの宝飾界の常識を打ち破る斬新さに満ちていました。パリジェンヌたちは熱狂し、世界中の美術館や蒐集家は、彼の作品を争って買い求めたといわれます。あの、名大統領といわれるジスカールデスタン元大統領は、いつもラリックのアネモネシリーズをギフトに選んでいたというのも、よく知られたエピソードです。

ルネ・ラリックの”祈り”が世界中の人びとに届きますように。

箱根ラリック美術館公式サイト
https://www.lalique-museum.com/museum/event/index.html

映画「ひまわり」

どこまでも続く大平原は、息をのむような黄色に染められています。何かを見つけようと、その中を懸命に歩き回る女性の姿。目と心に染入る印象的なシーンを、これまで何回見たことでしょう。  

「ひまわり」。

イタリアの俳優、ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニが共演した名画に改めて対面しました。監督はヴィットリオ・デ・シーカ。ヨーロッパ、特にフランスのヌーベルヴァーグに極めて大きな影響を与えたイタリアの巨匠です。

私が「ひまわり」を初めて見たのが1970年でしたので、50年以上も前のことになります。今回はおそらく5回目か6回目になるはずですが、いわゆる”再放送”を見たという印象は全くありませんでした。

この作品の訴えるものが、ますます重みと厚みを増してきたと感じたからです。

時代は第2次世界大戦の末期から戦後にかけてのことです。主人公のイタリアの青年は、ソ連と戦うために極寒の前線に送られます。青年は激しい戦闘の末に行方不明となりますが、妻は夫の無事を信じ続けます。

女性の生き方を中心に、男女の愛と逡巡と決断を描いた作品ですが、今回の上映で特に目立ったことは、観客のほとんどが70代前後の方々で占められていたことです。

主人公のカップルを見つめながら、かつてを振り返り、ウクライナでの戦火の拡大に心を痛めていたことでしょう。見事に咲き誇る”ひまわり”のシーンは、ウクライナの南部へルソン州で撮影されたものです。この2か月以上にわたるロシアの侵攻で”ひまわり”たちはどれほど傷付けられたことでしょう。

ひまわりの咲き乱れる現場には、かつての大戦で命を落としたロシアやイタリアの兵隊、そして多くの市民の亡骸が実際に埋められているとのことです。

先日のテレビ・ニュースで、ロシア兵に食ってかかるウクライナの女性の声を聞きました。  

「ひまわりの種を持って国に帰れ!あんたが死んだら、花が咲くだろう!」
”ひまわり”は地元の誇りであり、国籍を超えた、魂の絆なのかもしれません。  

この作品の上映にあたっては、関係者の”目に見える努力”が大きかったといいます。半世紀以上も前の映画であるため、世界各国でもネガそのものがなくなっており、音声のノイズも相当目立ったようです。そのために、最新の技術を駆使した修復作業が求められました。  

全編に流れるテーマ音楽はヘンリー・マンシーニが作曲しました。スクリーンをじっと見つめながら心の中で口ずさんでいた方も、きっと多かったに違いありません。

この映画の冒頭とエンディングは”ひまわり”のクローズ・アップでした。愛と平和を求める名作は鎮魂の心も加え、また不死鳥のように蘇りました。

「入場料の一部をウクライナに寄付する」。
映画”ひまわり”は社会現象という新しい翼をつけて、大空へ飛び立ったのです。

横浜シネマリン公式サイト
https://cinemarine.co.jp/himawari/

映画「親愛なる同士たちへ」

ウクライナの惨事が解決の糸口を見出せないまま、今年の春が過ぎようとしています。

そんな時、一本のロシア映画が目に止まりました。
「親愛なる同士たちへ」。
アンドレイ・コンチャロフスキー監督の作品です。

監督は間もなく85歳を迎えますが、20代の後半に黒澤明監督の影響をうけ、初の長編映画を作りました。その後も、黒澤監督の脚本をもとに作品を制作するなど、現在は巨匠の名で呼ばれています。  

今回の映画は今から60年前に発生した工場のストライキ、そして弾圧の実態などを生々しく再現したモノクロ作品です。カラーではなく、敢えて白黒の画面にしたことに、監督の意思が現れているようです。

当時はまだ共産党の一党独裁、つまり旧ソ連の時代でした。そして、食料・日用品の不足、更に賃金カットなどが続き、工場労働者がストライキを起こしたのです。

旧体制下での労働者の反乱は極めて珍しいことで、国の対応も厳しいものでした。軍隊、警察、諜報機関などが総動員で弾圧を加え、多数の死者や逮捕者が出ました。  

この映画の女性主人公は、共産党の地方幹部です。娘と自分の父親と3人で暮している、いわば地元の実力者でした。しかし、労働者のデモの混乱に巻き込まれ、その中で娘は行方不明になってしまうのです。

母親は、まさかと思いつつ、死者が取り敢えず埋葬された墓地にまで足を運ぶのでした。   国家や党を信じて自らの道を歩んできた主人公は、娘の行方を探し求めながら、様々な疑念に駆られ始めます。

果たして、これまでの生き方を続けていいのか?

娘の身を気遣う母親の愛情との板挟みで、苦悩は深まります。

体制が一旦暴走を始めたら、市民はどうなるのか?
そして、どうすればいいのか?
結局、何を信じるのか?  

監督の視線は女性主人公に注がれて、共に歩み続けます。主人公・リューダ役に、監督は自分の妻・ユリア・ビソツカヤを起用しました。手を携えて、全力でこの作品に挑んだのですね。  

映画に出てくるストライキの現場は、ロシア南西部の町・ノポチェルカッスクで、ウクライナの東隣に位置しています。撮影が行われたのは、2019年の夏でした。  

この作品をロシアの人々は見ることができたのでしょうか。そして、どんな受け止め方をしたのでしょうか。

「親愛なる同士たちへ」のスクリーンや資料には、ロシア文化省とロシア1チャンネルの表示が記されていました。しかし、ロシアが抱え続ける負の遺産と、未来への希望という監督夫妻の複雑で微妙な心境は、この作品に十分注ぎ込まれていたと思うのです。

映画公式サイト
https://shinai-doshi.com/

湿生花園の”ミズバショウ”

春の晴れた日。暖かな一日、仙石原の湿生花園に”ミズバショウ”が見ごろを迎えたと聞き行ってまいりました。

山々はコメ桜が満開。モクレンも咲き、足もとには可憐なスミレ。寒暖の差が激しい初春が過ぎ、日差しが徐々に増してくると、吹き渡る風さえもきらきらと光り輝いているように感じられます。

箱根に暮らしはじめて45年の歳月が流れました。子供たちも巣立っていき、60代に入ると、身の丈に合う暮らしを意識しはじめました。50代のスピードでは走りつづけられない…と実感し、70代になると身体の声に耳を傾け、今日一日を丁寧に暮したい、と思うようになりました。

今秋は79歳。そして80代へ。体力の限界を受け入れながら、まだまだ学びたいことがいっぱいあります。早朝の山歩きをして、無理はしない…そして”美しいもの”に出逢いたいとの思いがいっそう深くなってきた気がいたします。時間に追われていた時には気がつかなかったことが沢山あります。

園内の木道を歩き木々に囲まれ、山の空気を胸いっぱいすい、風を感じ、ミズバショウの群生を見て、カタクリの花も美しく咲いています。昨年の夏は「ヒマラヤの青いケシ」が見られるということで、やはりこの湿生花園にまいりました。

なかなか自由に旅がまだできませんよね。どうぞ写真で箱根の春を感じてください。そして、昨年の夏の花もご覧ください。

https://hamamie.jp/2021/06/18/shisseikaen/

老桜樹の花  

ふるさとは水底となり移り来し この老桜咲けとこしえに    
高崎達之助

お花見の季節になると、行ってみたいなと思いださせてくれる桜の木が日本全国にいくつかありますが、水上勉さんの「櫻守」という小説にも登場する、御母衣(みほろ)の荘川桜もそのひとつです。

岐阜と富山の県境にある御母衣ダム。いまから半世紀以上前に、庄川上流の山あいの静かな美しい村々が、巨大なロックフィル式ダムの人造湖の湖底に沈むことになったのでした。

三百五十戸にも及ぶ人びとの家や、小・中学校や、神社や、寺、そして木々や畑がすべて水没していく運命にあるなかで、樹齢四百年を誇る老桜樹だけがその後も生き残り、毎年季節がめぐるたびに美しい花を咲かせ続けることを許されたのでした。

私がはじめて御母衣ダムに庄川桜を見に行ったのは、いまから45年ほど前、移植されてからすでに何年か経った春のことでした。湖のそばにひときわどっしりと立つ老い桜。ああ、これがあの桜……樹齢400年の老樹とは思えないほど花が初々しかったのが、とても印象的でした。

毎年、四月二十五日頃から五月十日頃までが見ごろです。桜の荘厳に咲き誇る姿は、その木の秘められた歴史を知るものには格別感動的です。

ずいぶん前、その桜の木の下でお年寄り数人がゴザを敷きお花見をしていました。樹の幹を撫ぜながら『あんた、今年もよく咲いてくれたね~』と、つぶやく姿に涙がこぼれました。  

満開の桜の下に立つと、何故か不思議なことに、その下で眠りたいと思うことがあるのです。桜は、散って咲き、春がめぐってくれば必ず咲く。そういう生命の長さというものに安心するのかもしれませんね。だから私たちは桜に特別な想いがあるのかもしれません。

もう、何年も伺っておりません。早く自由に旅がしたいです。先週の金曜日の箱根の山は深夜から雨が降り、早朝は霙まじりの雨に雪が降り始め、あっという間に庭の木々は真っ白。白銀の世界になりました。

山暮らしの幸せはこうして季節の移ろいを感じることができるからです。

”桜の花も震えているは、きっと”と思いバスで友人ご夫妻の待つ小田原に。雪の山が信じられないほど春うらら。小田原城の桜や相模湾を見下ろすカフェでは菜の花が満開でした。

”麗か”海も野山もすべてのものが春光に包まれ、ようやく訪れた春を満喫した一日でした。

ドレスデン国立古典絵画館所蔵フェルメールと17世紀オランダ絵画展

桜満開の上野の東京都美術館に”フェルメール”を観に行ってまいりました。会場はレンブラントら同時代のオランダ絵画とともに展示されています。

今回の目的は『窓辺で手紙を読む女』(1657~59年頃)

修復により、画面奥の壁から”キューピッド”が現れたのです。

それまでも存在自体はX線調査で明らかになってはいたのですが、フェルメール自身が上塗りをしたとされていましたが、2017年に同館が作品の汚れを落とすクリーニング作業を進めていくと上塗りした部分とは異なっていることが分かり「誰が、何んの目的で姿を消したのか?」謎です。

今回の展覧会で「修復前」(複製)と「修復後」が見られます。でも、不思議ですよね!フェルメール以外の人が上塗りして”キューピッドを隠してしまう……いつか、真実がわかる時がくるのでしょうか。

これまでも「窓辺で手紙を読む女」は観たことはあるのですが、窓ガラスにうっすらと女性が映り静謐なイメージでしたが、”キューピッド”が現れたら作品がガラッと変わります。

カーテンを押さえているように見える”キューピット”の存在はフェルメールが何を意図して描いたのか、想像するだけでワクワクしました。  

17世紀のオランダを代表する画家、ヨハネス・フェルメール(1632~75)。

フェルメールの魅力は人々の暮す日常が多く描かれていることです。画商で宿屋を営む両親のもとに生まれ、デルフトの町中で育ち、20歳で結婚し11人の子供をもち、30代で主だった作品を描き、43歳で亡くなっています。

デルフトの小さな街で人の営みを見続け、市井の人々を描いたのは当然だったのかもしれません。300年たっても街はさほど変わっておらず、昔ながらの慎ましい人々の暮らし。

『行ってみたい!』と思い2016年の7月、小さなホテルに1週間滞在しフェルメールの描いた路地や、きっと何度も横切ったであろう広場に立ち、カフェで昔ながらのエルデン(豆)スープにフェルメールの絵の中に描かれているパンを食し、300年の歴史がいっきに縮まりました。

 そのときのブログがありますので、旅の出来ない現在、その時の写真を見ながら『デルフトの街』へ皆さまをご案内いたしますね。

展覧会公式サイト
https://www.dresden-vermeer.jp/