『沖縄 慰霊の日』  

6月23日、沖縄戦が終わってから77年の「慰霊の日」です。

多くの命が奪われた沖縄戦から77年。
日本復帰50年。
その日23日は梅雨が明け、雲ひとつない青空。夏の強い日ざしが射している沖縄の飛行場に私は降り立ちました。

この日は、県民の方々の祈りの日。
私は静かに心の中で祈りを捧げました。

県内各地でも慰霊祭が行われ、最後の激戦地となった糸満市摩文仁では沖縄全戦没者追悼式が執り行われ、犠牲者の冥福を願い、平和の誓いを新たにしました。

正午の時報に合わせ、1分間の黙とう。追悼式では山内小学校2年の徳元穂菜さんが、「平和の詩」を朗読しました。タイトルは「こわいをしって、へいわがわかった」。真っ直ぐに見つめ、素直な言葉が心に響きます。

美術館で戦争の絵を見て怖く悲しい気持になり、隣にいた母親にくっつくと暖かく感じて安心した経験を詩につづっていました。

岸田文雄首相は「沖縄が歩んだ苦難の歴史の上にある」と言及しました。県遺族連合会の宮城篤正会長は、今も遺骨や不発弾が見つかっていることを挙げ「沖縄の戦後は終わっていない」と説きました。

私は日曜日に糸満市摩文仁の平和祈念公園へと向かいました。式典当日には行けなかった多くの方々が訪れ、手を合わせていました。「平和の礎(いしじ)」に刻み込まれている名前には「国籍を問わず」の考えのもと、1万4千人余りの米軍兵士たちの名前もありました。

今年新たに55名が追加され総数24万1686人の名前が刻まれています。指でなぞりながら祈る人々の姿を遠くから見ながら「真の平和」はいつ実現するのだろう……と思いました。

外国人の若い方々も訪れていました。

青空をごう音とともに横切る灰色の米軍機。ロシア、ウクライナ侵攻が続く中での慰霊の日。今、この時、尊い命が奪われ、人々は傷つき、同じことを繰り返しています。

親やきょうだいの生前の姿をしのび石版を指でなぞり、喉の渇きや空腹を癒してもらおうと食事や水、そして花や線香を手向ける方々の姿が目に焼きついた日でした。

そして、戦争の犠牲になった多くの御霊に手を合わせ祈りました。  

帰りに同じ敷地内にある「沖縄県平和祈念資料館」に寄り、「沖縄戦への道」沖縄戦に至るまでの歴史や戦争がなぜ起こったのか。また住民の視点から描く状況。戦後の27年間の米軍統治、復帰運動、平和創造を目指す沖縄。

そして「未来を展望するゾーン」では「いま、せかいで何が」を子供たちに分かりやすく平和について語りあえる場がもうけられています。  

徳元穂菜さんの「へいわをつかみたい ずっとポケットにいれてもっておく」という詩には「世界中の人が仲良くなって協力してほしい」という願いが込められていたそうです。  

沖縄の夏は美しい花々が咲き誇っております。どうぞご覧ください。  

環境教育は自然を感じることから

あなたの学生時代、学校にはいくつ、ゴミ箱がありましたか?
もう昔のこと、覚えていないわ!ですよね。

では、お子さん、お孫さんの学校・幼稚園ではどうでしょうか。この頃、特に”フードロス”の問題がニュースで取り上げられるようになりましたね。つまり”ゴミ問題”です。

私はかつてグリーンツーリズムを学ぶために、農村女性の方々と15年近くドイツに毎年行きました。そこで聞いた話しです。

ドイツのフライブルグ市にあるメルディンガー小学校には、たった一つのゴミ箱があるだけだそうです。メルディンガー小学校は、ミミズによる環境教育で世界的にとても有名な小学校でもあります。

教室に置かれた木枠とガラス板でできた箱の中には、土と枯葉が入れられており、ミミズがそこに棲んでいます。子どもたちは、ときどき水をかけて土が乾かないようにしています。餌は食べ残しなどを与えます。

ミミズの名前が「カーロ」。カーロが姿を見せることはほとんどありませんが、カーロが生息しているので、食べ残しや枯葉が分解されます。そこで、カーロが生きて活動していることを、子どもたちは知るそうです。

カーロの箱にはアルミやプラスチックなどは土に変えることができないことを子どもたちは、ごく自然に理解します。自分の体験として、環境型社会の仕組みと、ゴミを減らす大切さを感じるわけです。

昼食はお弁当箱に、飲み物はペットボトルではなく水筒に入れて学校に来るようになりました。そして、出すゴミが少しづつ減り続け、一つのゴミ箱ですむようになったそうです。

また、小学校のミミズによる環境教育をきっかけに、子どもたちの親によって、やがて地域全体へとゴミを減らす運動に広がっていったそうです。  

開発や土地利用計画において、ドイツの環境規制は世界一厳しいといわれます。私も何どもお邪魔していますが、ドイツのその徹底ぶりにはいつも舌をまいていました。土地開発と自然保護とは相反することのように思われますが、ドイツでは自然を復元・創造し、都市生活と両立できる方向で土地開発も進められてきました。

現地でお話を伺うと、これが一朝一夕に成し遂げられたものではないことがわかります。   ドイツも、日本同様、戦後、環境破壊が進みました。けれど1980年代に入って、国をあげて自然環境保護に取り組むようになったのです。

今、ドイツに広がる緑豊かな森の多くは、破壊から再生への道をたどったのだそうです。こうした、自然環境保護を支えるのが、”環境教育”です。  

私が訪ねたある幼稚園では、園地の池にプラスチックをはじめとするさまざまなゴミを投げ込んで、それを見せるのだそうです。日にちがたつうちに、有機質のゴミは朽ち果ててやがて分解されていきます。けれどプラスチックはいつまでもその形のまま。やはりこちらも体験として、環境型社会に必要とされる基礎知識を学んでいくわけです。

こうした教育を受けた子どもたちが大人になれば、土に還るものを、あるいはリュースできるものを当たり前のこととして選び、環境型社会を築く一役を担うはずです。  

オピニオン・リーダーたちが「環境破壊反対!」と述べることも大切です。けれど、ひとりひとりが環境を守るための知識を持ち、行動していくほうが力になるのではないでしょうか。

ドイツに住む長年の友人が語ってくださいました。

「環境教育は短時間ではできないんですよ。促成栽培ではダメ、じっくり時間をかけて、段階的に連続して行うことが大切。そのなかで重要なのは、自然体験だといわれています。自然を身近に感じると、子供たちの環境感がポジティブなものに変わると、親も教師も、まわりの人たちもみんな認識します。」  

頭だけじゃなく、肌で、匂いで、音で、目で、舌で、と五感をフルに働かせた経験は、楔のように、人の心にがっちりと食い込んでいくように思うのです。  

日本経済新聞(5月31日)に『ごみ363万トン大移動』とありました。産業廃棄物が処理場を求めて日本列島を移動している。首都圏は6年で満杯になるそうです。

またこちらも日本経済新聞(6月4日)に『使った食器捨てずに返そ!』プラごみ削減へシェア事業。とありました。 コロナ禍でテイクアウトが生活に定着しました。ドイツではカップやトレーを含め使い捨て容器の使用が禁じられているそうです。海外では取り組みが進んでいる。とありました。

日本でもさまざまな取り組みが行われ始めました。昔、子供のころお鍋を持ってお豆腐屋さんに買いに行きました。卵は新聞紙に包んでもらいました。買い物籠をさげての買い物。昔に戻ることは出来ないけど、工夫はできますよね。

コロナが落ち着いたら、”マスク”をはずじ、思いっきり子どもたちに自然のなかで遊んでほしいな、と思うこのごろです。

特別展 琉球

待ち焦がれた展覧会に行ってまいりました。「特別展 琉球」。
上野の山には初夏を思わせる日差しが降り注いでいました。

沖縄は先月15日、復帰50年を迎えました。

私が沖縄に、そして沖縄の工藝に魅せられたのは中学時代。図書館で出会った柳宗悦の本がきっかけでした。「民藝紀行」「手仕事の日本」などに引き寄せられたのです。

柳は大正末期に始まった民芸運動の推進者で、”旅の人”でもありました。彼は「民藝の故郷は沖縄にある」と述べています。中国や朝鮮半島の影響を強く受けた沖縄文化に、柔軟で開かれた姿勢を高く評価したのです。

多様性に満ちた文化に触れながら、柳は「すべてのものを琉球の血と肉に変えた工藝」とも表現して、琉球工藝に注目しました。

そうした彼の著作に触れ、私の関心は一気に琉球の工藝へと向かいました。私の”沖縄通い”は復帰の前年からスタートし、既に半世紀を越えました。

今回の展覧会には琉球の芸術・文化、中でも首里城を舞台にした琉球王家代々の宝物などが数多く展示されています。漆器や染織など、それらの高い技術や美意識は、どのように生まれたのか?まるで、歴史絵巻を眺めるような雰囲気の会場でした。  

私が特に楽しみにしていたのは、「国宝・紅型綾袷衣装」でした。胸や肩に鳳凰が舞う、鮮やかな黄色地。腰から裾には、中国の官服に見られる文様の入った紅型です。これは、若い王族が儀式などで用いた衣装でした。

琉球王朝は15世紀から19世紀まで450年続きました。そして、先の大戦も含めて混乱と破壊。琉球の多くの”宝”は散逸し、消滅しました。その中で、明治以降、県外に運び出された文化財も多かったといわれています。

生き残った”宝”を、これからどう守り、伝えていくのか?会場に設けられた最後のコーナーには、”未来へ”というタイトルが付けられていました。

将来を見つめる国宝級の”御玉貫”は、王家で使われた祭祀の道具です。県が音頭を取り、王朝時代からの歴史を紐解きながら復元させた逸品です。新たな文化を育てていく役割がある。そこにも、未来を展望する復帰50年の展覧会にしたいと願う、多くの関係者の熱意が感じられました。

今回の展覧会では、私の出逢いたかった国宝など、撮影可の場所などがあり、ぜひ皆さまにもご覧いただきたいです。

感嘆のため息をつきながら会場を巡っていると、女性客の中で何人もの方が和服を召されていることに気がつきました。この季節にふさわしい一重の琉球紬や久米島絣などが目に入ったのです。 文化、融合、そして伝統。琉球の豊かな風は、上野の山にも確かに届いていました。

特別展公式サイト
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2131

岩波ホール

岩波ホールは来月7月29日(金)をもって54年の歴史に幕を閉じます。
親しかった友人。
いいえ、永年お世話になった心優しい先生とお別れするような気分です。

スタート以来、半世紀以上のお付き合いをさせていただいたことになります。岩波ホールは私を含め、多くの映画ファンにとって”世界とつながる架け橋”でした。

夢のような日々は、あっという間に過ぎ去りました。世間知らずで生意気盛りだった若い頃、仕事を続けて行く上でも生きていく上でも、私にとって岩波ホールは極めて大きな存在でした。

世界中の質の高い映画、欧米の作品だけではない、アジアに中東に、そして中南米に、大草原の広がるモンゴル。「大地と白い雲」のあの美しい白い雲…。一度は行きたかったブータンの山奥深い村。素晴らしい作品は限りなくあるし、作り出されているのだ、ということを具体例をもって教えられました。

それらを発掘し、紹介したのが岩波ホールでした。

1月22日の朝日新聞には「岩波ホールに行けば必ず心に残る映画に出会うことができた。思い出をありがとう」という読者の投稿がありました。そうですね、私も一緒です。

これまでも、このブログに2回書かせていただきました。そして、4年前の2月に、開館50周年ということで私の担当するラジオ番組に、ホール支配人の岩波律子さんをお招きし、お話しを伺ったことがありました。

その中で岩波さんは映画にたいする情熱を、静かな熱気で話されました。入り口に立ち、「見に来てくださった方々の声を、どれだけ聞くことができるか。そのためには、様々な機会を作り、生の声を知りたい。」

このような映画館を私は他に知りません。  

今回は映画ファンの方々を代表して『54年にわたって、本当にお疲れさまでした。そして、ありがとうございました。』と永年の感謝の気持を伝えたいと思い、番組をご一緒している寺島尚正アナウンサーと神保町のホールへと足を運びました。

神保町の地下鉄の駅から直結でエレベーターに乗り10階まで。胸をワクワクさせながら、この半世紀何十回通ったことでしょうか。先日ラジオ番組でやはり生でお話し伺いたいと岩波ホールをお訪ねしたのです。  

岩波律子さんのお話しはラジオでじっくりお聴きください。さまざまな作品のお話しも伺い、私は胸が熱くなりました。だって、『私の青春』だったのですから。 ただ、岩波さんは『いったん閉じるけれど、また新しい動きが出てきてくれれば、と若い子に期待しています。』(2月27日の朝日新聞)と語っておられます。  

現在上映中の作品は、「歩いて見た世界 ブルース・チャトウインの足跡」です。英国の紀行作家だったチャトウインの生涯を描いたドキュメンタリー映画。

美術品の収集家だった彼は、考古学の研究者でもあり、パタゴニアやオーストラリアを歩き回ったノマディズム(放浪)の信望者でもありました。その彼の思想と行動を自らの足で辿ったのがドイツのベルナー・ヘルツオーク監督でナレーションも担当しました。

30年前にわずか48歳で亡くなったチャトウイン。岩波ホールの幕を静かに下ろすのにはふさわしい映画かもしれません。近々私も見にまいります。  

さよならではなく、いつかまたどこかで同じ時間と空間を持ち、同じ匂いをかいでみたいと夢みるのです。  

文化放送 「浜美枝のいつかあなたと」
6月12日 放送 日曜日 午前9時半から10時まで  

映画「 AUDREY 」

美しすぎるヘプバーン。
でも彼女は、ただ美しいだけの存在ではありませんでした。
子どもの頃から抱え続けた喪失感。

それは親の離婚と父に去られてしまったという、癒しきれない心の空洞でした。彼女はその傷と最後まで伴走したのです。

本人はもちろん、多くの友人や知人が彼女を語り尽くしたドキュメンタリー映画に出会いました。

『オードリー』
素晴らしい作品でした。

バレーダンサーになることが夢だった彼女は、ふとしたきっかけで映画の世界に足を踏み入れます。そして、主演した『ローマの休日』でアカデミー賞・主演女優賞に輝いたのです。24歳でした。追いかけるカメラマンやマスコミ。殺到する映画への出演依頼。そんな華やかさの中で彼女は唯一人、冷静だったようです。  

家族を持ちたい!
子どもを抱きしめたい! 
世間の喧騒を意識的避けながら自分の夢をつかみ取ろうと、もがき続けたのです。

デザイナーのジバンシィに可愛がられ、ファッションのアイコン(偶像)とも言われた彼女は静かに自分の心の中を見つめていたのでしょう。残された多くの映像や音声が恐ろしいほど正直に彼女の姿を追いかけています。  

生きる意義? 幸せとは? 愛するとは?
自分を隠せなかった彼女は、スクリーンに”等身大”の”彼女自身”を表現してくれました。  

私が22歳の時、映画の撮影でロンドンのドーチェスターホテルに滞在しておりました。そこに現れたのがヘプバーンさん。ジバンシィのベージュのコートを身に付け、ホテルに入ってきました。

11月のロンドン、美しい人でした。美しい笑みでした。そして、30年以上前、彼女が来日した時のことです。東京駅の新幹線のホームで人々のざわめきが聞こえました。大きなスーツケースと共に彼女が歩いていきます。同行の日本人スタッフが”持ちましょう!”と話しかけると、彼女は”いいえ、ありがとう自分で持ちます!”と答えました。

その優しい声を今でも覚えています。地に足を着け、凛とした姿が目に焼きついて離れません。   輝き続けた一人の女性の人生。彼女の”まとめ”はやはり、国連のユニセフ支援活動でした。

優しさと決意が同居した彼女の眼光には物事をやりとげようとする人間の確かな熱意があふれていました。  

彼女の声が流れます。貧困や飢餓に苦しむ世界の子どもに対し、「私に罪はない。しかし、責任がある」。 彼女が苦難の末にたどり着いた地平だったのでしょう。

客席は9割以上が中高年の女性で占められていました。静かな共感が広がった館内。 ヘプバーンの生き方を改めて見つめ直し、心の叫びを聞くことができたと思います。  

美しく、そして愛(いと)しい人に感謝いたします。

映画公式サイト https://audrey-cinema.com/

箱根の自然とアート

身体の隅々まで良質な酸素が行き渡り私をリフレッシュさせてくれる箱根の大きな自然。その場が持つ力に抱かれるような気持。このコロナ禍での暮らしは「ゆったりのペースを取り戻す」時間でもあります。

時間の過ごし方にも変化があります。今まで必要だと思っていたスピードなどに対する思いが、薄皮をはがすように変わっていくのですが、私にとってはとても新鮮です。  

今、箱根は初夏の花が咲きはじめ、それを見て、”きれい…”と感じるような、ささやかなことの積み重ねを大切に、自分らしく暮していきたいと思います。

先日のんびり一日箱根を散策し楽しみました。バスを乗り継ぎ、強羅から”こもれび坂”で下車し、徒歩5分のところにオープンした「ニコライ・バーグマン 箱根ガーデンズ」に行きました。

フラワーアーティスト、ニコライ・バーグマンさんは20年以上日本を拠点に活動し、和と洋を融合したデザインで常に新しいアートを提案しています。

デンマーク、コペンハーゲン出身のニコライさんは日本の自然にも魅せられ、休日に箱根・強羅を訪れた際、手つかずの自然がそのまま残る、自然と一体になれる場所に巡りあったのです。それが、「ニコライ・バーグマン箱根ガーデンズ」です。

8年の歳月かけ整備された庭ですが、私にはよく分かるのですが、”自然と調和”した庭を完成させようとおもったら20年、30年の歳月が必要です。きっと、少しづつ、手と心をかけて創り上げていくことでしょう。  

木々の間を小鳥が飛び交い、坂道の多い園路には枯れススキやクマザサが敷かれ、ふんわりとした感触が心地よいです(ただし、滑りやすいので注意。雨の日は長靴を貸し出しています)。

入り口には素敵なカフェ。バラや紫陽花の鉢植え。竹と石の組み合わせのオブジェ。ニコライ・バーグマンさんは言います。『誰もが楽しめる空間をつくると同時に、この土地と自然の恵みを大切に育てていきたいと思います』と。

これからガーデンは時間をかけゆっくりと箱根の自然に溶け込み四季折々楽しめそうです。秋にはまた来たいわ!と思いました。また私の楽しみな場所が生まれました。  

そして、バスで6、7分ほどのところに「ポーラ美術館」があります。
「開館20周年記念展 モネからリヒターヘ」が開催されています。

今までのコレクションに加えて20世紀の現代まで。私は「ウイルヘルム・ハマスホイ」の”陽光の中で読書する女性”が見られて最高に幸せでした。会場は(写真可)が多くあり皆さまにご覧頂きたいです。  

自然の美、人の生み出す美、感動する融合の時間でした。

特別展「空也上人と六波羅蜜寺」

改めて、ご尊顔を拝したい。気がついたら、上野の山におりました。これまでも、お目にかかったことはありました。およそ50年前と10年前。でも今回は特別です。なぜなら、あの空也上人を前後左右から自由に眺めることができるのですから。


京都の六波羅蜜寺から東京へ移動するのは、半世紀ぶりとのことです。  

空也上人は平安時代中期の方ですが、その頃の社会は戦乱や疫病の蔓延などで人心が乱れていました。それを見た上人は、念仏を唱えながら京都の町を歩き回ったのです。人々にひたすら寄り添い、世の安寧を祈ったのですね。  

「空也上人立像」の前に進みました。上人の口から飛び出す六体の像は仏さまで、”南無阿弥陀仏”の六文字を表しています。正面から眺める表情は、驚くほど臨場感に溢れていることを改めて知らされました。

そして今回、初めて見ることができた後ろ姿や左右からの様子には、思わず息が止まりました。足の筋肉、皮の衣装の皺。生きている!今にも歩きだしそう!と錯覚するほど、物音一つしない、静かな動きが感じられたのです。

この「空也上人立像」は、東大寺南大門の金剛力士像などで知られる天才仏師・運慶の四男、康勝によって鎌倉時代に作られました。つまり、空也上人が亡くなってから200年以上も経過した時代の作品なのですね。

写真も存在せず、肖像画も残されていないのに、なぜこのような写実的表現の傑作が誕生したのでしょうか。  

200年の時が過ぎ、鎌倉時代になっても上人の存在は広く知られていたのですね。上人は疫病撲滅のために念仏を唱え歩いただけでなく、衛生面での対策にも心を砕いたようです。新しい井戸を掘ることを勧めるなど、科学的な知見も伝えました。人々にとことん寄り添ったのです。  

慕われ崇められた上人は仏師・康勝の精神と技量によって、極めて写実的な”空也上人立像”として鎌倉時代に姿を現しました。そして、この立像は1000年経った現在も、われわれの姿を見つめ続けています。  

改めて、空也上人のお顔を見てみたい。いや、お顔だけではありませんでした。後ろ姿も足も筋肉も、そして身につけている衣まで、全てが上人その方を物語っていました。

空也上人の祈りと思いは、そして康勝の感性と想像力は遥か時空を超えて私たちの心に届いています。この特別展は5月8日で幕を閉じました。またの機会を、早くも心待ちにしております。戦乱や疫病の広がり・・・世の中は今も、それほど変わっていないのかもしれません。  

メルケル~世界一の宰相

ウクライナの先行きが見通せず、世の中が憂鬱な気分になりがちな今、読んでよかったという本に出合いました。

知人が送ってくださった、「メルケル世界一の宰相」(文藝春秋社刊)。16年も続いたドイツの首相の座を昨年退いたメルケルさんの評伝です。  

今から68年前、当時分断されていた西ドイツのハンブルグで教会の牧師の娘として生まれたアンゲラ・メルケルさんは、父親の”転勤”で東ドイツへ引越します。父は社会主義国で布教活動をするために、進んで”敵地”へ向ったのです。

学生時代のメルケルさんは社会主義とは距離を置きながら、懸命に勉強を続けたようです。大学では物理学を専攻し、科学アカデミーで専門職に就き、博士号まで取得した極めて優秀な研究者でした。

しかし彼女が35歳の時、ベルリンの壁が突然崩壊したのです。メルケルさんは直ちに”西”へ移りました。暗く澱んだそれまでの社会や環境から飛び出し、自由を求めて羽ばたいたのです。理科系の研究職に別れを告げ、政治の道へ大きく舵を切りました。  

しかし、自ら求めた世界とはいえ、それからの道は”いばら”だらけでした。統一されたドイツには、メルケルさんにとって”三重の足枷”が待ち受けていたのです。それは、「東独出身者、理系、女性」でした。それらとどう向き合い、そして歩んでいったのか?この本のかなりの部分は、メルケルさんの”足枷”との闘いの記録でもあります。

しかし、その姿は決して大声を出すものではなく、派手なパフォーマンスに彩られたものでもなかったのです。   彼女が知力・体力を駆使して向き合ったプーチン大統領、習近平主席そしてトランプ前大統領・・・。彼らと対話を繰り返したメルケルさんの冷静で論理的、かつ腹の座った姿勢が目に浮かびます。  

この本のハードカバーには、興味深い写真がプリントされています。4年前にカナダで開かれたG7サミットの席上、首脳宣言のとりまとめをめぐり異議を唱えるトランプ大統領を一人で懸命に説得するメルケルさんです。彼女の面目躍如たる姿です。このシーンをカバーにした編集者のセンスは本当に素晴らしいです。  

著者は旧東欧圏・ハンガリー生まれのカティ・マートンさん。米・ABCニュースの元記者で、彼女の祖父母や両親は亡くなったり拘束されるなど、大変な苦労を経験しているのです。

口の堅いメルケルさんから少しでも心の内を聞きだせたのは、マートンさんの強い意志の反映なのかもしれません。  

メルケルさんに迫ったマートン記者。そして、日本語翻訳者の一人は森嶋マリさんでした。女性の女性による、女性のための本「メルケル」、もちろん男性にもお勧めです。

歴史に”もし”はありませんが、今、メルケルさんが首相をやっていたら?と、つい夢想してしまう読後でした。  

翻訳者の森嶋マリさんにラジオにご出演いただきお話しを伺うことになりました。

文化放送「浜美枝のいつかあなたと」
放送日 6月5日 
日曜日 9時30分~10時

「明日への祈り展」ラリックと戦禍の時代

ルネ・ラリック(1860-1945)が生きた20世紀は、世界が大きく揺れ動いた時代でした。1914年に世界大戦が、1939年には第二次世界大戦が勃発し、多くの命が奪われました。

大戦中は作品を制作することは叶いませんでした。そのような戦禍の中でラリックは国会からの要望で、兵士や戦争孤児、そして当時流行していた感染症・結核を患った人びとの生活向上のため、チャリティーイベント用のブローチやメダルを制作し、売り上げが困窮者へ寄付されたそうです。

『芸術で人びとの心を豊かにしたい』というラリックの願いが込められています。今回の展覧会は「箱根ラリック美術館」 で3月19日~11月27日まで開催されています。

フランスの苦難の歴史と戦争で傷ついた人びとのため、ラリックが制作した作品の数々が展示されています。

テーマは ”祈り”です。

コロナウイルスの収束がみえないなか、ロシアがウクライナへの軍事侵攻を開始してから2か月がたちます。21世紀を生きる私たちも、何かに祈り、明日への希望を見出し、傷ついた人びとの心にそっと寄り添ったラリックの作品を見ながら ”祈り”を捧げたいと思います。

私は、ルネ・ラリックの作品がとても好きです。なかでもグラスはどれも造形的に美しく、思わず手にとってしまいたくなります。

ルネ・ラリックは当初、アール・ヌーヴォーを代表する宝飾品の作家として名声を博していました。豪華なダイヤモンドやルビーではなく、エナメル(七宝)細工や金といった身近な素材を使い、花や昆虫など身近なモチーフに、軽やかで繊細なアクセサリーをつぎつぎに発表しました。

彼の作品は、それまでの宝飾界の常識を打ち破る斬新さに満ちていました。パリジェンヌたちは熱狂し、世界中の美術館や蒐集家は、彼の作品を争って買い求めたといわれます。あの、名大統領といわれるジスカールデスタン元大統領は、いつもラリックのアネモネシリーズをギフトに選んでいたというのも、よく知られたエピソードです。

ルネ・ラリックの”祈り”が世界中の人びとに届きますように。

箱根ラリック美術館公式サイト
https://www.lalique-museum.com/museum/event/index.html

映画「ひまわり」

どこまでも続く大平原は、息をのむような黄色に染められています。何かを見つけようと、その中を懸命に歩き回る女性の姿。目と心に染入る印象的なシーンを、これまで何回見たことでしょう。  

「ひまわり」。

イタリアの俳優、ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニが共演した名画に改めて対面しました。監督はヴィットリオ・デ・シーカ。ヨーロッパ、特にフランスのヌーベルヴァーグに極めて大きな影響を与えたイタリアの巨匠です。

私が「ひまわり」を初めて見たのが1970年でしたので、50年以上も前のことになります。今回はおそらく5回目か6回目になるはずですが、いわゆる”再放送”を見たという印象は全くありませんでした。

この作品の訴えるものが、ますます重みと厚みを増してきたと感じたからです。

時代は第2次世界大戦の末期から戦後にかけてのことです。主人公のイタリアの青年は、ソ連と戦うために極寒の前線に送られます。青年は激しい戦闘の末に行方不明となりますが、妻は夫の無事を信じ続けます。

女性の生き方を中心に、男女の愛と逡巡と決断を描いた作品ですが、今回の上映で特に目立ったことは、観客のほとんどが70代前後の方々で占められていたことです。

主人公のカップルを見つめながら、かつてを振り返り、ウクライナでの戦火の拡大に心を痛めていたことでしょう。見事に咲き誇る”ひまわり”のシーンは、ウクライナの南部へルソン州で撮影されたものです。この2か月以上にわたるロシアの侵攻で”ひまわり”たちはどれほど傷付けられたことでしょう。

ひまわりの咲き乱れる現場には、かつての大戦で命を落としたロシアやイタリアの兵隊、そして多くの市民の亡骸が実際に埋められているとのことです。

先日のテレビ・ニュースで、ロシア兵に食ってかかるウクライナの女性の声を聞きました。  

「ひまわりの種を持って国に帰れ!あんたが死んだら、花が咲くだろう!」
”ひまわり”は地元の誇りであり、国籍を超えた、魂の絆なのかもしれません。  

この作品の上映にあたっては、関係者の”目に見える努力”が大きかったといいます。半世紀以上も前の映画であるため、世界各国でもネガそのものがなくなっており、音声のノイズも相当目立ったようです。そのために、最新の技術を駆使した修復作業が求められました。  

全編に流れるテーマ音楽はヘンリー・マンシーニが作曲しました。スクリーンをじっと見つめながら心の中で口ずさんでいた方も、きっと多かったに違いありません。

この映画の冒頭とエンディングは”ひまわり”のクローズ・アップでした。愛と平和を求める名作は鎮魂の心も加え、また不死鳥のように蘇りました。

「入場料の一部をウクライナに寄付する」。
映画”ひまわり”は社会現象という新しい翼をつけて、大空へ飛び立ったのです。

横浜シネマリン公式サイト
https://cinemarine.co.jp/himawari/